煦煦たる皇子殿下の寵妃は絶佳の仙道士

第３話 失われた師兄

「やけどを冷やすなら、卵でしょ？」

　慣習にこだわって、万（ばん）明玉（めいぎょく）が不満を口にする。

「そんなの迷信だよ。冷えれば、なんでもいいじゃないか」

　柳（りゅう）毅（き）は笑いとばした。

　万明玉は「でも」と、口をとがらせる。

　やけどにすももを当てたまま、柳毅は笑みをふかくして言った。

「ほしがれば卵がすぐに出てくるなんて、上流階級だけだよ。いつまでも、師妹はお嬢さん育ちがぬけないね」

　万明玉が甘やかされて育ったから、単に『お嬢さん育ち』と柳毅は言っているのではない。じつのところ、彼女は本当に貴族の令嬢として幼少期をすごしたため、一般的な社会通念がつうじないところがあるのだ。

「……」

　――わたしをわがままな妹だと思って、あきれているのね。

　子供あつかいに憤慨した万明玉はそっぽをむき、だまりこんだ。

　妹弟子が不機嫌になったと気づいたらしい。背の高い柳毅は腰を曲げ、万明玉の顔をのぞきこむと「小玉（シャオユィ）」と呼びかけた。

「やけどをさせて悪かった。だから、そんなに怒らないで」

　許しをこいながら、柳毅は万明玉の着物の袖をちょんちょんとひく。

　はたから見れば、大人の男の行動にしては軟弱だったが、万明玉の機嫌には効果があった。柳毅のしぐさをちらりと見て、彼女は表情をゆるめる。

「師兄ったら。こんな機嫌のとり方は、ずるいわ」

　怒り顔をつくりたいが、万明玉の口角は自然とあがってしまう。

　妹弟子の機嫌がよくなったとわかり、柳毅はいたずらっぽく笑った。

　万明玉と柳毅のつきあいは、仙道士になるべく弟子入りした子供時代からだ。よって、万明玉の幼なじみともいえる柳毅は、彼女の機嫌のとり方を心得ている。

　もちろん、柳毅のしぐさが計算高いふるまいだと万明玉もわかっていた。しかし裏をかえせば、万明玉をよく理解しているからこその行動とも言える。よって、彼女は心をうごかさずにはいられなかった。

　万明玉と柳毅は、くすくすと笑いあう。

　ふたりの笑い声があたりに響いた瞬間だった。突如として木々がざわめきだした。つよい風がふたりを襲い、万明玉と柳毅の髪や着物を荒々しく揺りうごかす。彼らの視界を木の葉がはげしく舞った。

　ところが、舞ったのは木の葉だけではない。夜空から大きな影が舞い落ちてきたのだ。舞い落ちるうち、影は闘技場のたいまつの明かりに照らしだされた。

「赤い」

　舞う影を目で追い、万明玉がぽつりとつぶやく。

　柳毅も万明玉とおなじ影を目で追って言った。

「女性の上衣みたいだ。今の風で、干されていた衣類がとんでしまったんだろう」

　柳毅の言うとおりで、舞っているのは薄手の赤い衣だ。その赤い衣は、万明玉と柳毅のいる場所へふわり、ふわりと舞いちかづく。

　しかし、今の万明玉は柳毅に手をあずけていて自由にうごけなかった。柳毅のほうも、上衣よりも万明玉のやけどの手当てを優先する。

　ついには赤い上衣が万明玉におおいかぶさってしまい、彼女は「わっ」と声をあげた。上衣に視界をうばわれ、万明玉は不満を言う。

「なにも見えない！」

　上衣のしたで、万明玉はじたばたした。今の彼女に見えるのは、柳毅の腰から下だけ。彼の革帯にさがる翡翠製の装飾品がゆれ光るのみだ。それは玉環（ぎょっかん）と呼ばれる装飾品で、彼の玉環はかなり大衆的な意匠の品だった。

「師妹、あばれないで。どけてあげるから」

　あばれる万明玉に言いきかせ、柳毅はすももを彼女自身にもたせる。それから、彼女の頭に覆いかぶさる赤い上衣を丁寧にめくりあげた。

　上衣のなかから、万明玉が顔をだす。むかいあわせになった彼女と柳毅は、自然と見つめあってしまう。上衣を完全にめくり取ってしまえばよかった。ところが、万明玉と目をあわせた柳毅の手は、ぴたりとうごきをとめる。

　柳毅の変化に万明玉が気づいた。

　――なに？

　不審がった万明玉は、やけどをすももで冷やしながら兄弟子をうながす。

「柳師兄？　はやく、この邪魔な衣をどけてよ」

　万明玉の子供っぽいねがいに、柳毅はびくりと肩をゆらした。彼は視線をさまよわせると「そうだね。すまない」と彼女にあやまり、ようやく上衣をとりさる。

　――変な師兄。

　不可解な兄弟子の行動に、万明玉は首をひねった。しかし、追及する必要も感じない。彼女は「まあ、いいわ」と口にすると、当初したかった話に話題をもどした。

「妖怪でも人間でもいいけど、はやめに仕事をおわらせて婚礼の準備に集中しなくてはダメよ！」

　心にもない言葉を、万明玉は兄弟子に言いふくめる。

　柳毅はうなずき「そうだね」とあいづちをかえした。彼は「できるだけはやく帰れるよう、がんばるよ」と、いつもどおりのやさしい笑顔で妹弟子に返事する。

　――しあわせそうに笑うのね。でも……

　柳毅の笑顔を見た万明玉は、心のなかで苦々しく思った。そうはいっても、彼女は負けを認めたわけではない。

　――今にみてなさい。あなたは花嫁とすごす時間より、わたしとすごす時間のほうがはるかに長くなるのよ。

　言葉にださず、ほほ笑む柳毅に万明玉は悪態をついた。すると、すっと胸がすき、彼女の心はおだやかさをとりもどす。心に余裕が生まれ、万明玉は「そうしてちょうだい」と兄弟子に尊大にほほ笑みかけた。そして、自分自身に言いきかせる。

　――婚姻するだけが縁ではないわ。今生（こんじょう）で柳毅とだれよりも長い時間をともにするのは、この万明玉よ！

　このできごとの数日後だった。

　単身で孝王の屋敷に妖怪退治にむかった柳毅は、そのまま行方知れずになったのだ。

　あれから十五年。今も、柳毅の消息はわかっていない。

　永遠にもちかい時間を柳毅とすごすつもりの万明玉だったが、ねがいとは裏腹に彼をうしなってしまったのだった。