第50話 事件は終わっていない

『あら、糸くずが』


 あのとき、李桑児が万明玉の肩にわずかにふれたのを彼女は思いだす。


「婚儀のまえに、李侍女長とふれあう機会があったわ」


 万明玉の話を聞いた柳毅は「そうか」と淡々と言い、思うところを語る。


「ふれたとき、きみの髪でもとったのだろう。ほかの花嫁候補のところにも、武俊煕の名をつかって挨拶に行った形跡があったんだ。それに、玥淑妃と李薫児の死を知った直後に自室で首をつったのも、ふたりと関係があった証拠だろう」


『後宮のお妃さまには、皇帝陛下の寵愛が必要です。同様に、わたしたち使用人にも主の寵愛が必要なのです』


 聞いた当時はなんとも思わなかった李薫児の言葉が、ひどく重い言葉だったと万明玉は今ごろになって感じた。彼女は思わずうつむき、だまりこんだ。しかし「万師妹」と柳毅に呼ばれ、彼女は彼に目をむけると「なあに?」と応じる。

 おだやかだった柳毅の顔が、唐突にきびしくゆがんだ。そして、彼は緊張した声で言う。


「この事件は、おわっていないんだ」


 兄弟子の話に不穏さを感じた万明玉は、柳毅をじっと見つめて話のつづきを待った。


「明日、わたしたちは淳皇后に謁見するよう命じられている」


 柳毅の言葉で、自分の状況を再認識した万明玉は、低く暗い声で「それって……」と言いよどんだ。

 柳毅は「そうだ」と妹弟子に深くうなずいてみせると、緊張をふくんだ声色で言う。


「わたしのあだ討ちのために、師妹は淳皇后を害しようとした。おそらく明日、なんらかの沙汰があるだろう」


『あだ討ち相手は淳皇后なのよ。成功したとしても、生きては帰れない』


 以前、自分が弟弟子に言った言葉を思いだし、万明玉は「そうね。当然だわ」と応じた。

 柳毅は扉に目をむけ、話をつづける。


「孝王府は今、淳皇后の配下に密かに見はられている。逃亡しても大倫国にいるかぎり、いずれは捕縛されるだろう」


 八方ふさがりの状況を告げた柳毅は「万師妹」と呼びかけると、そっと万明玉の手をとった。そして、しっかりと万明玉を見つめて語りかける。


「きみがあんな行動にでたのは、わたしのせいだ。もちろん、きみを許していただけるよう、淳皇后に嘆願する。だが、わたしも孝王が生存していると皇帝陛下や淳皇后をたばかった罪人。わたしの言葉を淳皇后は受けいれてはくださらないだろう。もしものときは、わたしも師妹とともに罰をうけるよ」


 言いながら、にぎった万明玉の手を柳毅は自分の顔によせた。

 手の甲に柳毅の熱い息を感じながら、万明玉は「やっと、師兄をさがしだしたのに」とつぶやき、ぽろぽろと涙をこぼす。


 ――明日、わたしたちはきっと命を落とすにちがいない。


 とめどなく涙をながす万明玉を目にし、柳毅は無言で彼女をひきよせると、強く抱きしめた。そして、ふたりは抱きあったまま、眠れない一夜を明かしたのだった。


 ◆


「仮氷室以来ね」


 皇后の寝殿をおとずれた万明玉たちに、淳皇后がおだやかに声をかける。彼女はほほ笑みさえうかべて上座に座り、飼い猫の背をやさしくなでていた。彼女の背後には侍女がふたり、頭を低くして立っている。


「皇后さま。千歳、千歳、千千歳」


 淳皇后のまえでひざまずいた万明玉、柳毅、そして侍女すがたの楊冠英は形式にのっとり、叩頭こうとうの礼をつくした。


「立ちなさい」と淳皇后。


 しかし、淳皇后に許可されても万明玉たちは立ちあがらない。万明玉は頭をさげたまま「いいえ、皇后さま」と言い、おずおずと口をひらいた。


「先日はたいへん失礼いたしました。皇后さまのまえで立つなど、わたしにはできません」


 万明玉の謝罪を聞いた淳皇后がころころと笑い、話しだす。


「そうね。あのときは、わたしの天命も尽きたかと思ったわ」


 明らかな皮肉とわかり、万明玉はさらに頭をさげた。

 柳毅が「皇后さま」と呼びかけ、嘆願する。


「彼女たちは、兄弟子である方士の死をいたみ、義侠心からあだ討ちをこころみた仁義にあつい者たちなのです。どうか寛大なご判断を!」


 万明玉と同様に、柳毅もさらに頭を低くした。

 すこしの間があり、淳皇后が「孝王……いいえ、柳毅という名の方士だったわね」と口にすると、話をつづける。


「あなたは第一皇子が命を落とした事実を隠した。それは、わたしだけでなく、皇帝陛下をもだます行為。なんという侮辱。万死にあたいします!」


 ――やはり。わたしたちの天命は尽きたんだ。


 予想どおりの淳皇后の反応に、万明玉は死を覚悟した。

 柳毅と楊冠英も万明玉とおなじ気もちらしい。ふたりとも身じろぎすらしない。

 ところが、予想がついたのはここまでだ。

 淳皇后が「でも」と言って、話しだした。


「あなたたちを許しましょう。今回の事件の責任はすべて、李薫児にかぶってもらう」


 耳をうたがい、万明玉は「え?」と声をあげ、思わず顔をあげる。

 万明玉とおなじで、柳毅と楊冠英も驚いて顔をあげた。

 万明玉たちが困惑するなか、淳皇后は「そうね、たとえば」と言い、語りだす。


「李薫児が後宮に男をつれこんでいると、わたしたちが気づいた。露見をおそれた李薫児は逃亡を画策。逃亡経路にいる人々に眠り薬をもった。李薫児のゆくてをはばもうと、わたしたちが彼女のまえに立ちふさがる。逃げきれないと観念した男が焼身自殺をはかり、不運にも玥淑妃が巻きぞえになった。しかたなく、李薫児はひとりで逃亡しようとしたが、護衛に見つかり不審者として殺された」


 すらすらと絵空事を語った淳皇后は、背後の侍女に「どう思う?」とたずねた。

 すると、侍女たちはにこりとほほ笑んで「皇后さまは英明です」と頭をさげる。

 称賛に満足したのだろう。淳皇后は楽しげに笑った。


 笑う淳皇后を見た万明玉は、あっけにとられてしまう。

 ぼうぜんとする万明玉にむかい、淳皇后が「どうしたの? 問題がある?」と問う。

 びくりとし、万明玉は答えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る