第46話 柳毅の身におきたこと

「わたしは記憶をなくしていたのか」


 玥淑妃は前のめりになって「ええ。そうです!」と口にし、うっとりと瞳をうるませて武俊煕に語りかけた。


「あなたの体と魂魄を、わたしは今まで守ってきたのです。いつか、方士さまがもとの体にもどれる日をねがって」


 玥淑妃が情熱的に言葉をつむぐ。

 ようやく額から手をはなし、武俊煕は顔をあげると玥淑妃を見つめた。

 見つめるのは玥淑妃自身の息子だ。しかし息子が母を見ているだけなのに、彼女は恋する乙女のごとく頬を赤くそめている。

 武俊煕は玥淑妃をまじまじと見て、話しだした。


「玥夫人……ちがうな、今は玥淑妃でしたね」


 玥淑妃の態度もおかしいが、武俊煕の言動も母親への態度とは思えない。

 あやしんだ曲春華が「お従兄さま?」と、また呼びかけた。しかし、彼女を無視して武俊煕と玥淑妃の会話はつづく。


「わたしは、あなたに助けてほしいとたのんではいない」


 武俊煕はいつになく冷たい口ぶりで言った。

 頬を紅潮させた玥淑妃は「それでも」と口にし、武俊煕に訴えかける。


「あなたはわたしを助けてくださった。だから、わたしもあなたを助けたくて……」


 玥淑妃はまだなにか言いたげだったが、武俊煕は首をふって彼女の言葉をさえぎると話しだした。


「そんな必要はなかったのです。あの日、王子は亡くなった。しかし王子を守れなかった罪で、年若かったあなたとあなたの従者たちが死罪をたまわるのを、わたしは忍びなく感じた。それで自発的に助けただけ、恩にきせるつもりなどなかったのです」


「王子が亡くなった? だれの話?」


 首をしめられ苦しいだろうに、曲春華が武俊煕の話にわりこむ。青ざめながら、彼女は従兄にむかって言う。


「お従兄さまがなにを言っているのか、わたしにはわからない!」


 曲春華の言葉は拒絶を意味したが、万明玉には哀願にも聞こえた。

 武俊煕はついに曲春華を見ると、きびしく苦しげな表情で「曲のご令嬢」と他人行儀に呼び、語りかけた。


「わたしは……この体にやどる魂魄は、方士の柳毅。武俊煕殿下ではないのです」


 ――魂魄は柳師兄? それって……


『わたしたちは自分以外の肉体に魂魄のうつしかえができる』


 武俊煕の体にやどる魂魄が柳毅なのだと理解した瞬間。昔、柳毅に話した言葉が万明玉の脳裏によみがえった。彼女は「まさか、ほんとうに師兄なの?」と口にし、彼女の考えを言葉にする。


「師兄は自分の魂魄を、武俊煕の肉体にうつしかえたの?」


 だれにとはなく万明玉が言った疑問の言葉を、武俊煕が「そうだよ。万師妹」と肯定した。ぼうぜんと自分を見つめる妹弟子に、彼は言う。


「わたしが孝王府に到着したとき、王子はすでに妖怪に切り裂かれていた。その後、わたしはなんとか妖怪をしりぞけたが、王子の魂はすでに体をはなれていて、はくも朽ちはじめていた。彼は助かるみこみがない状態だったんだ。でも、ただひとつ。王子の体を生かせる可能性がのこっていた……」


 王子を生かす方法を言及せず、武俊煕はためらいをみせて言いよどんだ。

 よって、状況に驚きつつも万明玉が兄弟子の言葉をつぐ。


「幼い子供の体に、精神を鍛えあげた人間の魂魄をいれるのね。師兄みたいな」


 武俊煕は「そうだ」とうなずいた。そして「わたしの魂魄でなら気血をあやつり、止血をほどこせる」とつづけ、妹弟子の言葉を補足する。

 しかし、兄弟子の話に万明玉は納得しきれなかった。彼女は言う。


「でも、魂魄のうつしかえは邪道だって言ってたじゃない!」


 武俊煕は「ああ」と再度うなずくと眉をよせ、低い声色で答えた。


「だがね、師妹。当時の王子は、孝王のたったひとりの世子せいしだった。そんな彼の死の影響は、わたしたちが想像するよりも遥かに大きいのだよ。王子が亡くなれば、彼の養育をまかされていた人々は……」


『年若かったあなたとあなたの従者たちが死罪をたまわるのを、わたしは忍びなく感じた』


 武俊煕の話を聞く万明玉の脳裏に、聞いたばかりの言葉がうかぶ。

 しかし、武俊煕の言葉をついだのは万明玉ではなかった。両手で印をくみつづける侍女、李薫児がぽつぽつと語りだす。


「当時の孝王……今の皇帝陛下は若く、血気さかんでたいへんに気性が荒くてらした。ひとり息子が亡くなったと知れば、淑妃さまもわたしたち淑妃さまの従者たちも、王子殿下のあとを追わされたでしょう」


 みずからの危機を語っているのに、話す李薫児の表情も声色も静かな湖面のようだ。

 淡々と語る李薫児を束の間、武俊煕はじっと見つめた。そして「幸いと言っていいのか」と口にし、彼はまた話しだす。


「その日、孝王は王妃をつれて物見遊山に出かけていた。孝王府にいたのは、玥淑妃と王子、そして彼らの従者たちだけだったんだ。だから、わたしはその場にいた全員と口裏をあわせ、王子を演じる算段をつけた」


「全員で口裏をあわせるなんて、可能なんですか?」


 現実味がないと感じたのかもしれない。兄弟子の話をだまって聞いていた楊冠英が難しい顔をし、武俊煕にたずねた。

 武俊煕は悩みもせずに「おそらく可能だったんだろう」と言い、ぽつりと口にする。


「この秘密がもれれば、全員死罪だ」


 あまりにも簡潔な答えに、楊冠英は「ああ」とうめいた。

 弟弟子から李薫児に視線をうつすと、武俊煕はあらためて彼女にたずねる。


「しばらく王子を演じたあとは、だれにも迷惑をかけない形ですがたを消す予定だったはず。でも、そうはできなかったみたいだね」


 李薫児はこくりとうなずき、武俊煕に答えた。

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