第45話「漆黒の訪れ」
夜深く。
この日の世界を照らす星々は、狂ったような瞬きで眼下の全てを浮き彫りにしていた。しかしここダールに孕む闇は、そんな光をも飲み込むうねりとなり、人々を漆黒の世界へと誘っていた。
街外れ、下町付近。リースは闇夜を切り裂くように1人疾走していた。その眼光に迷いの色はなく、複雑に曲がりくねった裏路地を勝手知ったるかのように、するすると走り抜けていった。周囲を蠢く邪悪な影達は彼女の機敏な挙動に驚きの色を隠せず、短い言葉や仕草で互いに情報を伝達していた。
「早い! あの小さな体で?!」
「判断に迷いがない。だがこの街の構造は複雑だ。すぐに追い付くだろう」
「油断するな。動きが静か過ぎる。やはりクロガネ様の言う通り、北大陸の工作員と考えて間違いあるまい」
「アガナ神教は我らとは異なる術を使うという。くれぐれも油断するな」
影は互いに一定の距離を保ちながらも、訓練された動きで隊列を維持しつつ、徐々にリースとの距離を詰めていった。彼女はそれを機敏に感じ取ると、感心したようにほんの少しだけ微笑んだ。
(……ふぅん。なかなかやるじゃない。それなりの訓練は積んでるみたいね。でも……まだまだヌルいわ!)
リースは敵に悟られぬように歩調を僅かに緩め、敢えて敵に距離を詰めさせていった。その姿を見て好機と判断した数人の影は一気に彼女に駆け寄ったが、大部分は距離をとったまま様子を伺っていた。彼女は内心で舌打ちをしつつ、内なる光の渦を術の形にして発現させた。
(やれやれ。“釣れた”のはこんなもんかしら。もうちょい来てくれたら楽だったけど、まあ仕方ないわ。それじゃまず……アガナ神教第一神典『ヤドリギ』!!)
次の瞬間、リースの足裏に仕込まれた符から眩い光が発生した。光は瞬時に無数の縄の如き形状に姿を変え、蛇のように地を這って影の一団を捕捉していった。彼らは抵抗する暇もなく地面にがんじがらめにされ、その闇力を封じられていった。だが他の影は、呻き苦しむ彼らを助ける素振りさえ見せず、再び逃げるリースへの追跡を優先した。先ほどより明らかに用心深く、かつ迅速に足を進めて。
(あらら。ずいぶんと生真面目なこと。隊列も基本に忠実だし。3人1組の小隊が3つ、残る気配は9人。ま、相手にとって不足なしだわ)
リースは確実に追い詰められつつある状況を感じながらも、実に不敵に笑った。こんな時、困難な任務に当たる時、彼女はいつも思い出す。あの日、全てを失ったあの日。目の前で楽園が崩れ、彼女の周囲の世界が歪み形を失ったあの日のことを。あれから10年以上の年月を経ても、彼女の原風景は決して変わることはない。
(……パパ。あたしは間違ったことしてるかな? もしかすると、あたしはこれから……いや、パパならきっと分かってくれるわよね? 結局のところ、ウチはそういう血筋なのかも。べつに恨みはしないけどさ、少しは反省してもいいんじゃない?)
リースは口をにっと歪めると、迷い無く狭く薄暗い路地へと入り込んで行った。その動きを確認した影達はその場で一瞬だけ止まり、互いに短く合図を発し合った。
「好機。あそこは行き止まり。袋の鼠だ」
「待て。先ほどの例がある。先ずは1部隊のみで突貫し、残りはここで待機だ。同じ手でやられてはクロガネ様に申し訳が立たん」
「了解した。それではキスゲ小隊、突撃するぞ」
3名の影が前に出て、静かに進んでいった。残りの影はその場で待機し、闇力を練りながら周囲を探っていた。彼らは敗北など微塵も考えていなかった。少しは特殊な術が使えるとはいえ、所詮は小娘1人。地の利は自分達にある上、所詮は闇力も持たぬ虫けら同然の存在。そう殆どの者が思っていた。が、その自惚れこそがリースの思う壺であった。
路地は闇に包まれ暗く湿りきっていた。小隊長キスゲ率いる部隊は警戒を怠らず、一歩ずつ慎重に足を運んでいった。だがしばし進んでも、まるで標的の姿は見えて来なかった。
「反応不明です。何処かに身を隠したのでしょうか?」
「乱雑で入り組んだ通り……隠れるにはうってつけだな。だがここは行き止まりのはずだ」
「よく見ろ。あそこのゴミ箱に足跡が残っている。あそこから壁を超え、隣家の屋根を伝っているな。音が聞こえる。まだ遠くへは行っていない。俺は追跡を継続するので、お前らは本隊へ連絡せよ」
「ははっ!」
部下が引き返すのを確認しながら、小隊長キスゲはさっと苦も無く壁をよじ登った。まるで見えない取っ手を掴むようにするすると登り切ると、彼は屋根を伝って足音の響く先へと歩みを進めた。だがそこで彼が目にしたのは、その地点で突然途切れた足跡と、まるで幽霊のように1人でダンスを踊る小さな靴だった。
(ま、まずい! これは罠……ぬうっ!!)
瞬時に嫌な予感が全身を走る中、キスゲは背後から貫くような衝撃を感じ、その場にへたり込んですやすやと眠りについた。最後に彼が目にしたのは、自らが踏み台にしたゴミ箱から覗く小さな手と、そこから放たれる光の術により倒れ込む部下の姿だった。
(第一教典『ヒュプノス』……っと。ちょっと肌寒いだろうけど、ゆっくりおやすみなさい。さて、時間も作れたことだし、ちょっと派手にやろうかしら。『大魚を釣るには海老の頭から』って言うしね。……やだ。どっかの誰かさんの口癖が感染ったみたい)
リースは再びゴミ箱の中にすっぽりと身を隠し、無数の符を身体に纏わせて、複雑な術を構築していった。やがて異変を感じた影が慌ただしく通り過ぎる音が聞こえ、すっかり周囲に影が集った時には、彼女の術は完璧な光の音色と共に奏でられた。
(はい、これでおしまい。さっさとあたしの前から消えて。……第二教典『プララヤ・ミーミル』!!)
眩いばかりの光がゴミ箱を吹き飛ばしながら、リースを中心に放射状に放たれた。其々の光は槍の如く尖り蛇のように妖しくうねり、咄嗟に逃げようとする影の一団を追尾していった。彼らは抵抗する間も無く一瞬で捕捉され、光が体内へと入り込み闇力を完全に封じられると、まるで地面に杭を打たれたようにその場で身動き一つ取れなくなっていった。
リースはひょいとゴミ箱から顔を出し、彼らの様子を満足そうに眺めた。そこに動ける者は存在せず、光に包まれ無効化する哀れな眷属の姿があった。だが、彼女がそこから出ようとした瞬間!
「……ッ?!」
刃が、突き刺さっていた。背後の影がどろりと怪しく輝くと同時に、そこから鈍い輝きを放つ小さなダガーが音も無く放たれ、深々とリースの背に刺さっていたのだった。
「遂に尾を見せたな。お前は俺を舐めすぎた。とはいえ大した腕だ。まさかここまでやられるとは。今打ち込んだのは弱い神経毒だ。死にはせんから安心しろ。無論……全て吐いてもらうまでだがな」
闇より産まれ落ちし雫が、ゆっくりと長身の人型をとっていった。暗闇の中で血走った目のみを輝かせしは、黒龍屋の忠実な僕たる暗殺者クロガネ。影部隊の長たる男は、深淵より響くような暗い声で冷たく無機質に言い放った。リースは毒で震える手で符を握って彼に向けようとしたが、すぐに力を失いその場にばらりと落とすのみだった。
「無駄だ。さて、ここは人目に付く。さっさと行くとするか」
「……お願い……助けて」
リースの途切れそうなか細い声が、クロガネの耳に微かに届いた。彼は不快そうに頭を掻くと、次の瞬間、彼女の腹に痛烈な拳の一撃を入れた。
「情けないな。お前も工作員なら覚悟しているだろう? もし捕まったなら、全て吐かせて始末する。それが俺たちの住む世界の常識の筈だ」
「あっそ。教えてくれてありがと。ところでさ……一体誰が捕まったって?」
その時、クロガネに違和感。不自然な拳の手応えとリースの嘲笑的な笑みに、彼の神経は全身に退避の指令を出した。だが、既にその時には遅過ぎた。その場でぼんやりと消え入るリースの体は、光の粒となり夜の闇に流れていった。その光子はべたりとクロガネの腕に纏わり付き、瞬く間に彼の闇力を封じていった。想定外の事態の中で必死で手を振り払わんとする彼に向けて、屋根の上から明るい声が響いた。
「きゃはははは! なにあんたかっこつけてんの? 調子に乗ってんのはそっちでしょ? マジうけるんですけど」
「まさか貴様……幻体か! 最初から屋根の上で……」
そう、彼女は最初から上にいた。途中で靴を脱ぎ隠れると、分かり易く派手な術で下に注目を集め、この一瞬の機を待ち続けていたのだ。血走った殺意の目を向けるクロガネに、優しい声で更に煽るリースがあった。
「ダメでちゅよ。無理しちゃぁ。無能なおじさまはそこでゆっくりおやすみなさい。既に他の人から情報は抜いといたから、もうあんたらには用はないわ。じゃ、あたし行くから。せいぜいそこで自分の弱さや情けなさを噛み締めてて。そんじゃね」
「……殺す! 絶対にお前を殺す! あの方にダールの闇を任された誇りにかけて!」
「あっそ。せいぜい頑張ってね。ま、あんたじゃ闇どころか、子猫1匹捕まえらんないだろうけど。……あたし許さないから。ボルオンをあんな風にしといて、人の命を捨て駒にして平然としてるあんた達を、あたしは絶対に許さない! あたしは絶対に仲間を守る。例えあたしがどうなろうとも」
「……ボルオンだと? あの街はお前らが破壊し尽くしたのだろう? ……おい待て! 話は終わっては……」
彼の言葉には耳も貸さず、怒りに顔を染めてその場を去るリース。彼女は怒っていた。今迄のビャッコ国での出来事もそう。そしてこれから起こるであろう、“彼”を巻き込んだ見世物についても。クロガネの声にならない呻き声が響く中、リースはゆっくりと周囲を伺いながら、己が心中の光を信じ、ただ真っ直ぐに進んでいった。
一方、ダールの町外れ。遊山の別宅地下。
山野の麓に聳える巨大な敷地、その地下に造られた広々とした空間には、鉄と火の匂いが充満していた。遊山は鼻を摘まみながら忌々しそうに歩みを進め、その後ろを亜門が興味深そうに続いていた。周囲にあるのは無数の武具と、鉱石のかけら。即ちは、彼にとって故郷の如き場所。
ここは遊山の経営する鍛冶場。ビャッコ国の武器生産を一手に引き受ける場所であり、また彼の所有する奴隷を働かせるための場所、そして戦いに向かう戦士のための場所でもあった。
「おい、彼が明後日のコロシアムに出場する。刀のメンテナンスを所望だ。早急に対応しろ」
無言で槌を振るい槍を鍛造している、全身をすっぽりとボロ布で覆ったがっしりとした体型の男に、遊山は高圧的に命令した。男はこくりと力なく頷くと、フードの隙間から僅かに覗く鋭い視線を亜門の方に向けた。
「其方が鍛冶屋殿でござるか。宜しくお願い致しまする」
深々と頭を下げる亜門の頭から足の先までを一通り視線をやると、男は興味を失ったかのように手元の槌を振る作業へ戻った。遊山はそれを見て呆れたように肩をすくめた。
「見ての通り愛想のない男だが、鍛冶屋としての腕は確かだ。よく相談してくれ。悪いが私はこんな所にいる暇はない。後で使いをやる。では」
そう言うと亜門の返事も聞かずに、遊山は階段の方へ向かっていった。彼はその背に僅かに一礼すると、和やかな口調で鍛冶屋に向かって話しかけた。
「いや、なかなかの施設でござりまするな。申し遅れました。己は高堂亜門と申す者で、秋津国の侍にござる。何卒宜しくお願いいたしまする。貴方はずっとここで鍛治を?」
「……御託は要らん。武器を出せ」
「はっはっは。これは失礼をば。確かに優れた職人の前では弁舌など不要でありますな。これが己の愛刀『大国』にござる」
ぶすっとした態度でしわがれた低い声を放つ男に対し、亜門は顔色一つ変えずに笑顔で刀を差し出した。男は無言でそれを受け取ると、眉に皺を寄せながら注意深く時間をかけて刀身を眺めた。
「……かなり使い込んでるな。100や200斬ってもこうはならん。手入れはしっかりしてたようだが、とっくに寿命は過ぎている。いつ折れてもおかしくないぞ」
「もう10年以上にもなりますからな。既に己の半身のようなものでござる。貴殿の力でなんとか出来ませぬか?」
「やるだけやってはみるが、あまり期待するな。一応他の獲物を用意しといた方がいい。ま、どうせ死ぬんだろうから関係ないがな。俺の知る限り、挑戦者としてあのコロシアムに向かって、今まで生きて帰った者はいない」
「はっはっは。御助言痛み入ります。しかし、己は死にませぬ。己には果たさねばならぬ使命がありますので」
「……呆れるほど快活な男だな。だが、そういう者ほど先に死ぬ。悲しいことだ」
そう言って悲壮な表情をする男に反し、亜門は不動たる意思を込めて悠然と立ち尽くしていた。彼は刀を受け取ると作業に入ろうとしたが、その前に声を潜めて亜門は耳打ちをした。
「……ところで鍛冶屋殿。ちともう一つ、見て欲頂きたい獲物があるのでござるが」
「ん? そこの腰の脇差か? 遊山様からお前を最優先しろと言われているからな。ついでに出しておけ」
「はい。ご理解頂けるかは分かりませぬが、実はちと特殊な刀にございまして。先ずはご覧になって下され」
亜門はがさごそと腰の鞘から古刀を抜いた。かつて大龍から託された、龍の力が込められた錆び付いた刀を。男は覇気のない視線をそちらにちらりと向けて、すぐに作業に戻ろうとしたが、一瞬の間を置いてから目をかっと見開き、凄まじい勢いで古刀を彼から奪い取った。
「こ、これは!? まさか……信じられねえ! おいお前、これを何処で?!」
「ある御方から託された一品にござる。流石は一流の鍛冶職人、何かお気付きでござるか?」
「気付くも何も……こりゃ帝龍フィキラ様の刀じゃねえか! かつて友から託されたとかいう古刀! なんでお前なんぞが持ってやがる! 返答によっては許さねえぞ!」
彼のローブの下の眼光が不審と怒りに満ちるのを感じ、亜門は真剣な表情でその場にどしりと膝を付いた。
「話せば長くなり申すが、実は………という訳でして……つまり……という経緯でありますれば」
「……信じられねえな。まさかあの方がこれを人間に託すなんて。だが事実として刀はここにあり、確かにあの方の意思が込められている。となると、お前は俺たちにとって特別な男ということになる。ええと……」
「己の名は高堂亜門にござる。しかし鍛冶屋殿。貴殿は何故フィキラ殿の事をご存知であられるのか? 普通の人間が知るような方ではありますまい」
「知ってるも何も……これもんよ」
男はがばりと勢いよくフードを脱ぎ捨てた。次の瞬間、亜門はそこに現れた光景にはっと息を呑んだ。彼の頭部は爬虫類を思わせるゴツゴツの緑鱗で覆われ、申し訳程度に赤髪がまばらに覆うも、瞳孔は縦に伸び口は耳まで裂け、龍のそれと似通った姿だった。驚きのあまり言葉を失う亜門に、彼はふっと小さく苦笑気味に笑った。
「こ、これは? 貴殿は一体……」
「今の時代の連中が知らんのも無理はねえか。俺は『龍人』と呼ばれる種族。言ってみれば龍と人の中間の存在よ。自己紹介が遅れたな。俺の名はウカイ。よろしくな」
「は、はい。宜しくお願い致しまする。しかし龍人とは……正直たまげたでござる。世の中とは広いものですな」
驚いた亜門の姿を見て、ウカイは愉快そうにげっげっげと舌を出して笑った。それは今までの硬化した態度とはまるで異なった、親密さを潜ませた笑みであった。
「まあ俺なんぞのことはいいさ。しかし……まさかこんな出会いがあるとはな。運命とは数奇なものだ。俺たち龍人族にとって、フィキラ様は神にも等しいお方。死すべき俺たち一族を救ってくれた、数少ないの理解者だ。亜門と言ったな。よかったら話しちゃくれないか? あの方に選ばれたお前さんの話を」
一転して静かで慈愛溢れる口調で亜門に語りかけるウカイ。彼は嬉しそうに快活に笑うと、誘われるままに対面の椅子に腰掛け、ゆっくりと唇を開いていった。炉にくべられた薪がぱちぱちと音を立てて崩れていき、夜がぼんやりと色を深めていった。
「……という訳でござる。して、今は友邦を助ける為に決戦へと挑む所存にて」
「成る程ね。よく分かったよ。秋津は龍の国、そこの侍がフィキラ様と交わるとはな。……なあ、亜門。俺は決して神だの運命だのを信じてる訳じゃねえ。そんな都合の良いものを素直に信じられるほど、俺たち龍人族の辿って来た道は平らじゃなかった。だがよ、俺にはこの出会いが偶然とは思えねえ。そうは思わないか?」
「確かにその通りでござる。ウカイ殿、初めてお会いして恐縮ですが、貴殿のお力でこの刀を蘇らせるのは可能でありましょうか?」
彼の目を正面から見据えて、亜門は真剣な眼差しで言った。ウカイは静かに深く椅子に座り直し、両手を組んで前のめりの姿勢になった。
「最初に言っておくが、龍人族は特別な力を持っている訳じゃない。俺なんざ普通の鍛冶屋のおっさんだ。ここまでの霊刀を、俺なんぞの力だけでは完璧に蘇らせることは不可能だ。しかし……出来ることは全てするつもりだよ。少なくとも刀としての体裁は復元してやろう。だが、そこから先は高位の龍の力が必要だ」
「高位の龍……でござるか。彼らは一体何処にいらっしゃるのでしょうか?」
「申し訳ないが、実は俺もよく知らんのだ。矛盾するように聞こえるだろうが、龍族と龍人族とはほぼ接触がない。というか、一方的に俺たちは嫌悪されている。まあ歴史を紐解けば頷ける話だがな」
「……? そ、そうなのでありますか? 無知なもので誠に申し訳ありませぬ」
「ハッ。お前が気にすることじゃないさ。噂では南大陸に大規模な龍の国があると聞くが、排他的で人を受け入れるような場所ではないそうだ。もしくはスザク国にあるという、はぐれ龍どもの郷か。そこの長なら何か手を打てるかと思うが、そいつはフィキラ様とは犬猿の仲でな。果たして協力してくれるかは分からねえ」
ウカイは如何ともし難い表情で腕組みをして、深くため息をついた。だが亜門は細い顎をしゃくりながら快活に笑うと、深々と彼に頭を下げた。
「成る程。事情は分かり申した。こんな己に御協力頂き恩に着まする。実は数奇な巡り合わせもありまして、まあ行けば何とかなりましょう。己は必ずこの刀を復活させ、フィキラ殿の恩に応えとうござるよ」
「……いい貌だ。流石は秋津の侍だな。ともかく、その前に今のボロボロの状態を何とかしないと。だが二本同時はちと無理だ。まずは本身を鍛えてからでもいいか?」
「ならば先に、この龍刀をばお願いしまする。なあに、己が得物は見た目は悪いかもしれませぬが、代々高堂家に伝わる名刀にござる。どんな状態であれきっと己を救ってくれまする。それではお願いしますぞ」
そう言って席を立とうとする亜門。その背後から、ウカイが神妙な面持ちで躊躇いがちに声を掛けた。
「……なあ、亜門よ。本当にあのコロシアムに出場するのか?」
「愚問でござるよ。己は何としても勝ち抜き、友を、ひいては奴隷の皆様を解放するでござる。既にそう決め申した」
「お前さんは本当にまっすぐなんだな。だがよ……そんな夢物語があるとでも? さっきも言ったが、今まで様々な甘言に乗せられ、この10年間で俺が知るだけでも50名を超える屈曲な戦士がコロシアムに送り込まれた。だが、帰って来た者は1人もいない。これは罠だ。お前は必ず死ぬ。フィキラ様に選ばれたお前を死なせるわけにはいかない」
ウカイは顔を顰めて臓腑から絞るような声を出した。だが亜門は動じない。武に生きる侍の中でも屈指の心技体を兼ね揃つ高堂亜門という男は、こと戦において断じて動じることはない。
「はっはっは。秋津の格言に『豚を捌くまで真珠の行方は分からない』とあり申す。現世など所詮は揺蕩う夢現ですぞ。さすれば己はこの刀を以って、夢を現実に変えるのみにて。……ウカイ殿、ご心配致すな。きっと皆様をお救い致しまする。もし己に万が一がありましても、皆様の境遇がこれ以上悪化することはなかろうかと。それに己には心強い仲間が居りましてな。皆様揃って性格には難ありですが、腕利き揃いでござる。全ては上手くいきます故、欠伸混じりに待たれよ」
「グァッグアッグアッ! お前は面白いな。俺たちにはない発想だ。龍に認められるのも分かる気がするよ。そんじゃ後は任せな。ただ、一つだけいいか? ……遊山を信じるな。あいつは危険だ。明らかにまともじゃない。深く入り込めば火傷じゃ済まないぞ」
ひとしきり愉快そうに大声で笑ってから、ウカイは真剣な表情に一変して目に力を込めた。だが亜門は、それを聞くと今日一番の笑みを浮かべ、爽やかに快活に即答した。
「はっはっは。その通りかもしれませぬな。しかし、今の己が主人を始めとした仲間たちは、それに輪をかけてまともではありませぬゆえ。生憎、己は狂人の世話は慣れっこにござるよ」
「ひ、ひえええ! ば、化け物! あっち行くでげす!」
一方、深夜のダール街中。銀色の疾風が闇の渦を切り裂く中、情けない悲鳴が夜に虚しく吸い込まれていった。鎖に繋がれた優男が突風で振り回され、ぶるぶると震えながら情け無く叫び続けていた。そんな彼を空へ地へと引き摺り回しながら、次々と無から産まれる闇の眷属に拳を突き立てるレイの姿があった。
「うるせえぞ! ちったあ黙ってろ!」
レイは首につけられた鎖を筋肉だけで振り回し、迷うことなく目の前の眷属の群れに飛び掛かっていった。屈強な体躯から放たれた技は敵を一網打尽にしていく。切り裂かれ、殴り潰され、塵と化していくグール達。そして、泡を吐きながら早口でまくし立てるココノラ。
「こ、これが黙ってられやすか! いってえこの化け物は?! そ、それにあんたの動きもなんでげすか! こんなの見たことも聞いたことも……」
「ああうるせえ! だから商人って連中はだいっきれえなんだ! さっさと道案内しろ! 俺はクツル通りとやらに行きてえんだ! 『滅閃』!!」
拳に込めた闘気を一気に放出し、敵集団を容易く殲滅させつつ、息一つ乱さずにレイは叫んだ。それを聞いたココノラは、焦りと不穏を顔に浮かべて叫んだ。
「な?! ク、クツル通り?! 街の真逆でやすよ! なんでこんなとこに来て……」
「うるせえ!!」
「グェポ!!」
ココノラの鳩尾に苛立ち紛れの一撃を見舞いながら、レイは夜の中を駆け抜けていった。ここは、見慣れたいつもの戦場に他ならなかった。レイは心から不快な気分に浸りながら、足手まといの奴隷商人を引きずりつつ先へ先へと進んでいった。
「うわああああ!」
不意にココノラの情けない声が響いた。ちらりとその方を見ると、大型の眷属オーガーが三匹、彼の目の前に立ち塞がっていた。レイは舌打ちをし、巨大な敵に向けて拳を握り締めた。
「ギャアギャアうるせえったらねえぜ。以前ならいざ知らず、こんなもん今の俺にかかりゃ雑魚だ! 『滅閃・巴』!!」
闘気漲るレイの拳から、三方に波動が弾け飛んだ。その狙い自体は大雑把だったが、圧倒的な勢いを放ち彼らの身体を瞬時に粉々に吹き飛していった。みるみるうちに塵芥と化す闇の生物を見て、ココノラは開いた口が塞がらなかった。
「あ、あんた……こりゃいったい………」
「へっ。言いてえことはなんとなくわかるぜ。どっちが化け物かわかりゃしねえってか。さて、ボヤボヤしてる間はねえ。さっさと行くぞ。案内しろ!」
「え、ええ。もちろんでげすよ。あっしに任せておくんなまし」
急に不思議な熱を帯びた表情の彼を肩に背負い、レイは渦巻く闇の中を全速力で駆け抜けていった。
レイの目的はただ一つ。手にした情報を持ち帰り、仲間たちと今後の対策を練ること。しかしそんなレイの目の前に現れたのは、暫しお目にかからなかった闇の眷属の群れと、それを率いるあの男だった。
「ダールに巣食う同胞達よ、進みなさい。アレを帰すことはなりません。全霊を以て捕縛しなさい」
「くっ! よりによってバラムの野郎かよ!」
ローブを着込んだ術士が、眉間に皺を寄せて闇術を次々と構築していた。そこから嵐の如く産み出される闇の眷属は、圧倒的な殺意を胸にレイの方へと飛び掛かっていった。
「あいにく俺は、てめえらと遊んでるヒマはねえんだ。あとにしやがれ! 『滅閃』!!」
「そうはいきません。勝手に『楔』付近まで侵入しておいて、盗っ人猛々しいとは正にこのことですよ。……『ソル・グランデ』!!」
レイの拳から吐き出された闘気が眷属を纏めて薙ぎ倒し、バラムの放った術式と真正面からぶつかった。炸裂音と熱波を撒き散らし、両者の力が周囲を焼け焦がした。
「ひ、ひいいいい! もう嫌でげす! 神様、あっしをお助けくだせえ!」
「バカ野郎! んなモンはこの世にいねえ! 心配しねえでもてめえは俺が必ず守る! 無関係な奴を死なせるのは本意じゃねえからな」
「レ、レイさん……」
「次も来っぞ! 舌噛むんじゃねえ!」
ココノラを守りながら次々と飛来する敵を粉砕し、術の嵐を掻い潜り、レイはどうにか街の中心部から離れつつあった。その見事な戦いぶりにバラムは感心して手を叩きながらも、にやにやと見下すような笑みを絶やす事はなかった。
「やれやれ。人形の分際で大したものですね。けれど、全ては無意味ですよ。そろそろ終わりにするとしますか」
バラムの腕が怪しく蠢き、特異な術式を構築するのを目にすると、レイはちっと大きく舌打ちをした。敵陣を切り抜け、既に周囲に平穏が訪れたのを感じ、ココノラは目を輝かせてレイを見つめていた。
「す、すごいでげす。こんな戦い、戦場でも見たことない! レイさん……あっしは心底震えやした!」
「へっ。そうかい。だけど……これでてめえとも終わりだな」
「そ、そりゃどういう意味で……ヒイイイイ!!」
一旦の安全を確認すると、レイは首に巻き付いた鎖を一気に両手で掴み、苦もなく真っ二つに引きちぎった。そして、まるで状況を理解出来ずその場にへたり込むココノラに、レイは初めて一片の優しさを込めて、とても美しく微笑んだ。
「どうもこうもねえ。あのバカが出てきちゃしめえだ。あの術には見覚えがある。おそらく……あと数秒で俺の意識はオシャカだ。てめえを巻き込むつもりはねえ。さっさと失せろ」
「で、でもですねレイさん! 実は……」
「うるせえ!! 死んじまっても知らねえぞ! さっさと日常に戻りやがれ! ……道案内ありがとよ。助かったぜ」
「……レイさん。あっしは……ホグォウ!!」
「さて、と。聞こえてんだろ、クソ商人? 俺はそろそろ終わりだ。情報は伝えたぜ」
レイは再び美しく笑うと、哀れなココノラを彼方へと蹴り飛ばしつつ、指輪に向かって語り掛けた。空間の先から雄弁な沈黙の色が伝わり、レイはへっと笑うと、全速力でバラムに向かって突進した。
「無駄ですよ、使えぬ人形め。すぐにセロに“代わり”なさい」
「間に合いっこねえのはわかってるさ。だがよ……俺はこのままやられはしねえ! いつも通り一か八かだ! 『紫電』!!」
レイがどんなに速度を振り絞ろうとも、既に術式の構築は完成していた。バラムの狙いは、レイの中に潜むもう一つの人格の励起。彼の主たるミカエル=ハイドウォークから許可された、強制執行の印。そしてそれは、彼が指一本動かせば既に完全に遂行される時点まで到達していた。
その時、レイの指輪から声が流れた。聴き慣れた低いダミ声が奏でる響きを聴覚に捉え、更に絹が引き裂かれんばかりの悲鳴を聞くと、レイはにっと大きく笑い、意識が途絶える直前に呟いた。
「へっ。よりによってそう来るかよ。いいぜ、俺はてめえを……信じてるかんな!」
地下。静かな夜。1人喚き叫ぶ藤兵衛の声だけが、その場に何度も反響していた。
「……じゃから何度も申しておろう。儂の話が真であれ偽であれ、貴様の取り得る道は只1つじゃ。……うむ。そういうことじゃな。分かったなら即座に行動せい! 話は以上じゃ。……む? 心配するでない。貴様らの大切な姫君は、この儂が大切に守っておるからのう。嘘だと思うなら会いに来ればよかろう? 出来るものならのう! ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!」
藤兵衛の高笑いが響き渡る中、指輪の先に沈黙が訪れた。彼はふんと一息唸ると、キセルを取り出して悠然と火を付けた。
「話は終わりましたか? 先程の命乞いの演技、あんな感じでよろしかったでしょうか?」
「上出来よ。これで筋が繋がってきたわい。お主のお陰じゃて、シャルや」
優しく頭を撫でられ美しく笑うシャーロットを見て、藤兵衛も釣られるように腹黒い笑みを浮かべた。そして、再び2人の時間は始まった。
シャーロットと藤兵衛は静かに身を寄せ合い、時間の過ぎ行く音を感じていた。沈黙がしばしの間2人を包んでいた。それはどこか心地よい沈黙でもあった。外でかっこうが一声鳴いた。それを合図にシャーロットがおずおずと口を開いた。
「そういえば、先程の件で忘れていましたけれど、話が途中でしたね」
「……さあての。何の話じゃったか」
「ふふ。誤魔化さないで下さい。貴方の昔の話を聞かせる約束でしょう?」
うそぶく藤兵衛を下から覗き込み、シャーロットは頬を膨らませて大きな目を見開いた。藤兵衛は軽くため息をついてキセルの灰を落とすと、再び大きく息を吐いた。
「分かったわい。そう息を荒くするでないわ。……あの日もこんな静かな夜じゃった。儂は仕事でくたくたになって帰り、いつも通り雪枝に声をかけたのじゃ。『帰ったぞ。飯は済ませてきた故、一杯だけ飲んで寝るわい』と。返事はなかった。大方寝てしまったのじゃろう。最近のあいつは疲れておったようじゃからの。儂は起こさぬよう気をつけながら、そっと部屋に入ったのじゃ。一見して……異変が起こっていることは分かったわい。部屋は荒らされ、争ったような痕が各所に見受けられてのう。儂は高鳴る鼓動を必死で抑え、努めて平静になろうとした。物取りとはとても思えんかった。今とは違い、儂は呆れるほどに貧乏じゃったからのう。となると、儂に悪意を持つ者の犯行としか思えぬ。自慢ではないが、儂は各方面から恨みを買っておる。今も昔もそれは変わらんからのう」
「……そうだったのですか。それで……藤兵衛はどうしたのですか?」
「結論はすぐに出たわい。推理の必要など無かった。そこに血に塗れた置手紙があったからの。そこにはこう書かれていた。『大至急、海岸まで来い。私とお前が初めて会った場所だ』と。当時の雇い主である男からの文じゃった。儂は訳も分からず走った。色々なことが頭の中を駆け巡る中、とにかく走り続けた。時折自分自身を見失いそうになりながらも、指定された場所まで辿り着いた。そこで見た光景を、儂は一生忘れられん。岸壁の縁で拘束され、今まさに命奪われんと剣を突き付けられる雪枝の姿じゃった」
「そんな……どうしてそんな酷いことを!」
「さあての。奴の考えることは今も昔もまるで分からん。ただ、奴はこう言った。『遅かったね。今からお前に害する悪鬼を払ってあげよう』と。儂は叫んだ。何と叫んだかは覚えておらん。とにかく叫び、儂は懐から小刀を抜いた。その瞬間、奴の顔が醜く歪み、鮮血が散り、岸壁の下に落ちていった。儂が覚えておるのはそこまでじゃ。気付いた時には雪枝の……いや、雪枝たちの屍が転がっておった」
「たち? ……!! まさか、それは……」
「産まれる前から苦痛を味合わせて……何と無慈悲な事をしてしもうたのか。全ては儂のせいじゃ。雪枝たちを殺したのはこの儂じゃ。さぞ痛かったろうに。……さぞ悔しかったろうに」
「そんなことありません! その男のせいにきまっているではありませんか! 貴方が責任を感じる筋合いなどありません!」
顔を真っ赤にして叫ぶシャーロットの声を聞いてか聞かずか、藤兵衛は遠い目をしてキセルの煙を、ゆっくりと静かに吐き出した。
「……どうじゃろうな。少なくとも儂は、この50年間1度たりともそうは思わなかったわ。儂は大切な者の為に、必死でがむしゃらに金を稼ごうとした。少しずつ少しずつ積み上げた積み木は臨界点を超え、やがて自らの枷となりおった。そして、気付けば儂の周りには何も残っておらなんだ。むしろ金のおかげで全てを失った。金を使うべき相手もおらずに、ただ無為に積み上げる毎日。そんな中……お主が現れた。金のことなぞ全く頭にない、甘ったるい理想論しか吐かぬ、イカれきった魔女がの」
「ふふ。確かに私はお金のことなど何も知りません。それで……どうでしたか? 私と出会って、貴方は何か変わりましたか?」
「それこそ自分では分からんわ。じゃが……まあ退屈はしとらん。今はそれでよかろうて。さ、そろそろ寝るぞ。儂は眠くてたまらん。明日は勝負の時故、お主も早く休めい」
「ちょっと藤兵衛……もう、すぐに寝てしまって。本当にずるい人ですね」
シャーロットの諦観にも見える微笑みに包まれて、夜は再び更けていく。彼らの運命はゆっくりと動き続け、一つの終着点に向かう。
闇に包まれた街ダール。その深淵を最初に覗くのは誰なのか、この時は誰も知らない。一際高く鳴いたカッコウの声が、再び夜の闇を短く切り抜いていった。
クツル通りには闇が射し、生ある者の姿は全く見受けられなかった。リースは明確な確信を基に、とある建物へと進んでいった。それはどこにでもある、普通の民家。彼女が静かに中へ入ると、この辺りでは珍しい金髪の若い男が驚きを隠しきれぬ表情で叫んだ。
「リ、リース隊長?! よくぞご無事で!」
「あいにく足も影もあるわ。あたしを舐めないでよね」
リースは静かに部屋の隅にある椅子に腰掛けると、男に優しく微笑みかけた。彼はうらぶれた衣服を急ぎ整え、片膝をついて震えながら目尻を押さえた。
「いやいや、勿論信頼しておりますが、まさかこの厳戒下のダールでお会いできるとは。本当にご無事で何よりです……」
「なに泣いてんのよ。あたしが死ぬ訳ないでしょ。……?! まさか他の連中は?」
「……ええ。端的に報告致します。東大陸に潜っているアガナ神教の工作員は全て……残らず眷属の手の者により殉教致しました」
「……そう。サニーやイワンも。……マルメス、あんただけでも無事でよかったわ」
力なく首を振る部下の姿を見て、ふっと肩の力を失うリース。その表情には悲しみだけではなく、どこかこの結末を予見していたような諦観が少なからず含まれていた。
「リース様、私は無念であります。どうか私にご命令を! 闇の巨魁は打ち果たせんまでも、アガナ神教の底力を見せてやります!」
その言葉が終わるか終わらないか、と言う時にパンと乾いた音が響いた。リースが鬼気迫る顔で放った平手打ちが、真っ直ぐにマルメスを捉えた音だった。頬を抑えて顔を伏せる彼に、彼女の冷徹な声が降り注がれた。
「却下ね。あんたの力じゃ意味ないわ。自己満で死のうなんて、甘ちゃんもいいとこよ。それは神教とアガナ様に対する反逆。あんたは生きて、本国に報告なさい。自分以外は全滅したと。そして……“至宝”は手に入らなかったと」
「そ、そんな! 隊長を残してそんなこと出来る訳ないじゃないですか!」
「上官命令よ。従いなさい。それにこれは……あたしの最後の命令だから」
「……隊長?! まさかお一人で死ぬおつもりか! そうはさせません!」
ガタリと勢いよく立ち上がるマルメス。だがその直後に、彼は苦悶の表情で床に膝をつき、その股間にはリースのつま先が抉るように突き刺さっていた。苦悶する彼に優しい表情を向け、彼女は決意を込めて言い放った。
「隙ありすぎよ。怠け過ぎじゃない? ……マルメス。リース=シャガールはダールで死んだ。本国にはそう報告しといて。今のあたしにはやることがある。その為には命なんて要らないわ」
「……莫迦な。隊長の本分……シャガール家の再興は………」
「たしかにそれは、あたしにとって最重要の目的。でも勘違いしないで。敵を欺くにはまず味方から、ってね。あたしの読みでは、必ず本国に裏切り者がいるわ。そうでなければ説明がつかないことが多すぎるもの。その尾を掴むため、あたしはより“深く”に踏み込むつもりよ。絶対に戻るから心配しないで。ステキな旦那を見つけるまで死ぬつもりないから」
「そんな……お一人では無茶だ。あいつらは化け物……」
蹲ったままのマルメスに再びにっこりと微笑みを向け、リースは少しだけ楽しそうな口調に変わった。彼はその姿を見て、伝承にある聖母の影を感じていた。
「お生憎様。あたしには既に化け物の仲間がいるの。どうしょうもないクソもいるけどね。……必ず皆の仇は打つわ。じゃあねマルメス。必ずまた本国で会いましょう」
ばっと衣服を翻して、リースはその場を後にした。マルメスはその場に蹲ったまま、今後の彼女の行く先に慈悲と幸を求めた。夜の沈黙だけが彼の嘶くような祈りに耳を傾けていた。
奴隷商人ココノラは、その場所を動けなかった。動くことが出来なかった。化け物の追尾を退け、敵の首魁らしき者と対峙するあの人は、確かに自分にこう言った。「失せろ」と。「戻れ」と。……「ありがとう」と。
この時、何故竦む足をその場に打ち付けていたのか、今の彼には分からなかった。さっさと消えるのが一番の筈だった。トラブルに巻き込まれるのは御免、そうやって生きてきた筈だった。
しかし、彼には予感があった。かつて戦場にいた時ですら感じたことのない、直感めいた言葉の訪れ。“それ”は確かに彼にこう囁いた。
「行くな」と。「進め」と。……「信じろ」と。
そして、その決断が運命を変えた。彼自身は勿論、この物語の辿り着く末をも。だが、それは先の話。この長い物語の、ずっとずっと先の話。
「お! てめえまだいやがったのか! 消えろって言ったろうが!」
「ヒイッ! お化けぇ!!」
あまりにも不意に、彼の目にレイの姿が飛び込んできた。突然で予想だにしない出来事に腰を抜かす彼を、レイは指を指して大爆笑した。
「ギャハハハハ! アホが腰抜かしてやがるぜ! ……つーか、誰がオバケだよ! 俺はこの通り無事だぜ」
「そ、そうなんでやすか? あっしが見た所、あの怪しいまじない師にやられかけて……」
「俺がやられるわけねえだろが! ふざけんじゃねえぞ!」
「ハガポォ!!」
1時間後。
彼らは未だ闇の中を駆け続けていた。流石のレイも全身に疲労を感じていたが、その表情は珍しく柔和だった。ココノラと話すことが清涼剤になっているのか、彼の聞き上手な性質によるものなのか、何故か2人はとても話が合うようだった。
「……という訳でさあ。つまり、ぜんぶ軍の上層部が描いた餅でやして。スザク国での命懸けの戦いも、セイリュウ国の蛮族との攻防戦も、ぜんぶ最初から出来レースでやすよ。ったく、軍なんてロクなもんじゃありゃしませんぜ。そこらのチンピラと本質は変わりやせんや」
「マジかそりゃ? ひっでえ話だぜ。そんなんじゃ誰も報われやしねえな」
「レイさんもそう思うでげしょ? 誰だってそう思いまさあ。だからあっしは軍を辞めやしてね。かと言ってこの街でまともに生きていこうなんて、そりゃ土台無理な話でして。正直に生きて馬鹿を見るだけなら、誰かに後ろ指刺されても貪欲に進むしかない。そう思って何とか生き抜いてきたんでさあ」
「んで、奴隷商人か。エラそうなことほざくわりにゃ、ご立派すぎる仕事だぜ」
闇の残渣の一群を苦もなく切り裂きながら、レイは皮肉の笑みを浮かべた。ココノラは気まずそうに目を伏せつつも、開き直るように言葉を返した。
「それを言われちゃどうしようもないでげすが、あっしだって苦労してんですぜ。隙ありゃ逃げようとか反抗しようとする奴らをなだめすかして、大手には安く買い叩かれて、手元に残るのは生きてくのに最低限の金と、不良債権の奴隷ばかり。この前だって素性も知らない片腕の奴隷を押し付けられちまって。ったく、秋津国の侍だか何だか知りやせんが、ほんと参っちまう話はでさあ」
「……侍? もしかして、例の亜門のツレとかいう? もともとお前んとこにいた奴じゃねえのか?」
「いえいえ。秋津の侍はべらぼうに高い戦闘力がありやすからね。基本は軍属でやす。ウチみたいな零細には触れることすらありやせんや。なのに勝手に寄越されて、報酬は賞金首の、つまりあんたらの情報だけ。しかもそのせいでこんな目に合ったわけで。あっしからしたらほんとあいつは疫病神でやすよ」
どくん、と一際大きく心臓の音が鳴った。嫌な予感が全身を流れる。レイは不意に立ち上がると、ココノラを背に担ぎ駆け出した。頭の中で状況を整理しながら、その足をどんどん早めていった。
「おい! その相手とやらは誰だ? 早く案内しやがれ!」
「で、出来るわけねえでげす! あの方はこの国最大の権力者だ。それにお屋敷は一つや二つじゃないし、どこに行ったかは誰にもわかりやせん」
「ちっ! ……ええい、とにかく今は報告だ。それにリースと合流しなきゃならねえ。急ぐぞゴミ商人! 気合入れで掴まってろ!」
「ち、ちょっと待って……うわわあああああ!!」
夜の闇の中を閃光のように駆け抜ける2人。その先に見えるのはダールの灯りと、どす黒く街を渦巻く闇の奔流だった。
神代歴1279年7月。
漆黒の闇に覆われたダールの戦いは、未だ終わる気配を持たなかった。
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