第10話「誓いの花」

 久し振りに夢を見た。

 ここ何十年とご無沙汰じゃった、懐かしきあの夢じゃ。かつては毎日のように見たものじゃが、よもや今になって蘇るとはの。

 あの日、儂は不快感を全身から放ちながら家の門をくぐっておった。かつて帝都ロンシャンの場末にあった、小さな小さな一軒家じゃ。今思い出しても、本当にみすぼらしい家じゃったの。儂ほどの偉大なる大商人でも、こんなあばら家に住んでいた不遇の時代もあった訳じゃ。

「お帰りなさい。今日もずいぶん遅かったのね」

 遠くから声が聞こえる。随分とくぐもった響きじゃ。本当のあいつはこんな声じゃったかの? まあ夢というのは得てして斯様なものじゃ。それに……あれからもう50年か。儂の記憶も随分と薄れておる訳じゃな。

(ふん。茂吉の阿呆がまたしくじっての。尻を拭いておるうちにこの時間よ)

「あらまあ。でもいつものことじゃない。あなたの数少ない友達なんだから、そんな風に言っちゃダメよ。それにね……いつかオウリュウ一の大商人になる人が、そんな小さなことでかりかりしないの。もうお食事は済んだ?」

(腹が減り過ぎておかしくなりそうじゃ。何かないか? またすぐに出ねばならん故、軽くでよいぞ)

「はいはい。そう言うと思って用意しといたわ。味噌汁だけ温めるから、ご飯は先に食べてて。お野菜残しちゃダメよ」

 てきぱきと整えられる食卓。美味そうな匂いが鼻腔に伝わる。そして台所から食事を準備する音。いつもの……あの頃の光景じゃ。何の変哲もない、どこにでもある普通の家庭。

(うん。実に美味いの。おまえの料理はいつも最高じゃて)

「あ、お醤油かけて! まったく……塩辛ければなんでもいいんだから。ちょっとは控えなきゃだめよ」

(グワッハッハッハ! そこを突かれると痛いのう。ここのところ忙し過ぎての、ちと体力が必要なのじゃて)

「相変わらずなのね。今日は大旦那様に呼ばれてるんだっけ?」

(まあの。色々とケリをつけねばならん。困ったことになりそうじゃわ)

「珍しく最近弱音が多いわね。でも、危機の中に必ず好機はあるわ。あなたならきっと乗り越えられる、わたしはそう信じてる。もしダメだったらさ、頭でも何でも下げればいいじゃない」

(ふん! 儂が頭を下げるじゃと! 男が軽々しく頭なぞ下げれるものか!)

 急に食事の音が途絶える。ちと言い過ぎたか、最近どうにも上手くいかぬのう、女に当たり散らすなど心底情けない話じゃ、そう思った儂の背を包み込む、暖かく柔らかな感触。そして、額を撫ぜる細い指の感触。

(な、何じゃ急に! 照れ臭いではないか!)

「また眉間にシワ寄ってるわよ。この国一番の商人になるなら、いつだって冷静でなきゃ。いい? 頭なんていくら下げてもタダなのよ。よく聞いて、藤吉。失いたくないものがたくさんあるなら、つまんない自尊心なんて真っ先に捨てちゃいなさい。あなたならできるわ」

(……ふん。そういうものかの。ただ儂は……お主にだけは迷惑をかけたくないのじゃ)

「それよく言うけど、わたし嫌いよ。迷惑なんてあるわけないでしょ? もしやるだけやってダメだったら、次は西大陸にでも行ってさ、一緒にまた一からやりましょうよ。2人で頑張れば死にはしないわ。お金なんてどうにかなるんだから、あなたは信じた道を進んで」

(はっ。よう言うわ。何の保証もありはせぬぞ。死への一本道かもしれぬわ。その時になって後悔しても遅いわい)

「それでも仕方ないわ。私の目が狂ってただけだし。それにもう……あなたに会ってから後悔なんて尽くしたしね」

(グワッハッハッハ! 言いおるわい。流石は儂が選んだ女じゃ。少し元気が出たわい。ご馳走様じゃ。そろそろ行くとするかの)

「ちょっと待って」

 意を決したかのように、彼女は儂の目の前で立ち上がる。儂は不穏な空気に、必死で頭を回転させながらごくりと唾を飲む。

(な、何じゃ雪枝。珍しく怖い顔をしおって。ま、まさか……この前のあの女のことか? アレは茂吉に紹介すると申したであろう! 儂に何も咎は……)

「……赤ちゃんが、出来たの」

 顔を赤らめ、俯きがちに儂を見つめる雪枝。儂は一緒の間を置いて、やっとのことで状況を理解した。

(な、何と!? 誠か!? この儂が……こんな儂が……父親とな! 何という重畳じゃ! これは目出度い! でかしたぞ、雪枝! 大至急育児用品を手配せねばならぬ! いや、その前に籍を入れねばならぬな。順番があべこべになってしもうて申し訳ないの)

「ねえ……本当に私でいいの?」

(お主以外に誰がおるか。この儂の傍に居れるのは、世界広しと言えどお主只一人ぞ。こんな嬉しいことが他にあるものか。今の案件が片付いたら即座に対応する故、お主は何も心配するでない。全て儂に任せい。この儂を誰と心得るか? さて、暫くは忙しくなりそうじゃの。グワッハッハッ!!)

 バッと儂に抱きつく雪枝。涙で儂の着物が濡れる。暖かい感覚。儂が味わった、最後の人の温もり。本質的な意味で、魂に触れる温度。

(これこれ。今日は大人しく待っておれ。帝都一のご馳走を持って帰る故な。お主の好きなあの花も摘んで来ようぞ)

「……嬉しい。でも……そんなの要らないから、お願いだから早く帰ってきて。なんだか嫌な予感がするの」

(お主の勘はよう当たるからの。じゃが心配は要らぬ。今日さえ乗り切れば、暫くは落ち着けようて。儂が本当の意味で一国一城の主となれば、お主にも楽をさせられよう。今まで苦労をかけたの。……約束する。必ず早く帰るわい。この儂は約束を違えた事がないのが自慢じゃて。お主はゆっくり体を休めておくようにの)

「ふふ。信頼してるわ。実はね……名前も考えてあるの。帰って来たら教えるね」

(ホッホッホ、気が早いのう。楽しみにしておくわい。それでは儂は行くが、決して無理だけはするでないぞ)

「くれぐれも、お気をつけて行ってらっしゃいませ。心からあなたのことを愛しています」

(……儂もお主を愛しておるぞ。必ず……早く……帰るから……の)

 ザッと乱れる視界。終わりを告げる夢。そうじゃな、ここで……夢は終わりじゃったな。儂は名残惜しい気持ちを抱えたまま、今ある現実、78歳の金蛇屋藤兵衛の旅路に意識を戻した。


「おせえぞクソが! いつまで寝てやがんだ!」

 レイの口汚い罵声が、藤兵衛の頭の上で弾け飛んだ。最悪の目覚めに不機嫌極まる表情を顔一杯に浮かべ、彼はぶつぶつと文句を言った。

「何じゃ。朝から虫が騒々しいのう。儂の爽やかな目覚めを返して欲しいものじゃわ」

「ああ? あんだけ遅くまで飲んでりゃこうもなるだろうよ! ったく使えねえクソだぜ」

「ふん! 仕方なかろうて。昨日はシャルがどうしてもと申したからで……」

「だから気安くお嬢様を呼ぶんじゃねえ!」

「グェポ!!」

 みぞおちを突かれ悶絶する藤兵衛。その時、騒ぎで目が覚めたのか、のんびりと伸びをして起き上がるシャーロット。

「おはようございます、レイに藤兵衛。ずいぶんと騒がしいことですね」

「お嬢様、おはようございます。昨日は大丈夫でしたか? このクソに変なことされませんでしたか?」

 真剣な顔で伺うレイに対し、シャーロットは大きく深く頷き、美しい満面の笑みで応えた。

「ええ、本当に楽しい1日でした。いろんなところに案内してもらいましたよ。藤兵衛に感謝です」

「そ、そうですか。それならいいんですが。……おい、クソ商人。今日んとこは命拾ったな」

(き、切り抜けたわい。何故儂がこんな目に……)

 レイは心底つまらなそうに舌打ちすると、怒りの拳をポケットに引っ込めた。彼は言い返さんとした言葉をぐっと胸に留め、内心で胸を撫で下ろしながらキセルに火を付けた。

「本当に楽しかったんですよ。途中で土下座をさせられたり、裸で乳搾りをしたり、セックスについても教わりました。そして最後に行ったあそこ……本当に気持ちよかったです! 今思い返してもにこにこしちゃいますね、藤兵衛?」

(そ、その言い方と端折り方はまずい! 非常にまずいぞ!)

 青ざめる藤兵衛をギロリと睨みつけたレイ。再び抜かれた拳は鉄よりも硬く、溶岩のように煮えたぎっていた。

「だいぶ……よけいなことまでしてくれたみてえだな。言い残すことはねえか?」

「わ、儂はただ良かれと思ってじゃな……とりあえず落ち着いて儂の話を聞……」

「うるせえ! 問答無用だ!」

「ガァパァアアアアアア!!」


 その日の朝はゆっくり過ぎていき、バイメンの1日は何もなく過ぎ去っていった。少なくともこの時はそう思えた。藤兵衛たちは一室で円になって座り、レイの作った握り飯を食べていた。

「ほう。それでは今日も貴様は出かけるのじゃな。だとすれば、儂は自由でよいということか」

 藤兵衛は3つめの握り飯に齧り付きながら、レイに向かって実に機嫌よさそうに言った。レイは不愉快そうに何度も舌打ちをしながら、シャーロットと軽く目を合わせて、忌々しそうに返した。

「うるっせえなあ。昼は好きにしろよ。ただ、夜は俺たちに付き合え。やらなきゃなんねえことができたんだ」

「……夜か。実はちと先約が入ってのう。明日に回す訳にはいかぬか?」

 珍しく申し訳なさそうに、極めて控え目に藤兵衛は尋ねた。だがレイはあっさりとそれを突っぱねた。

「今日じゃねえとダメだ。こんなに簡単に見つかるとは思ってなくてよ。すべては満月である今日にかかってんだ」

「……よく分からんのう。儂にも分かるよう、具体的に教えてくれぬか?」

「てめえは黙って従ってりゃいいんだ! つべこべぬかすんじゃねえ!」

「その言い方はどうなんじゃ? 暫し好きにしてよいと申したのは貴様じゃろうが。脅されようが殴られようが、理由を言ってくれんと納得は出来んの」

「ああ!? 生意気なクソだぜ! ブチ殺してやろうか!」

「ふん! 何を言われても知った事か! 儂は儂の生活があるのじゃ!」

 毅然と言い放った藤兵衛に、柱を蹴り飛ばしてイラつきを隠さぬレイ。緊迫感が場を包み、一瞬で渦のように広がる中、見かねたシャーロットが静かに割って入った。

「申し訳ありません、藤兵衛。しかしこれは緊急の案件なのです。貴方の力が必要なのです。どうか理解して下さい」

「お嬢様がそんな下手に出る必要はありやせんぜ。このクソにはこれくらいで……きゃあああああ!!」

「お黙りなさい、レイ。藤兵衛は私たちの大切な仲間です。これ以上余計な真似をすれば、そのまま真っ二つになりますよ」

「ぐええええ!! わ、わかりました! だからもうやめてええええ! これ以上したら漏れちゃうううう!」

 レイへの凄惨な仕置を継続しつつ、シャーロットはにこりと親しげに藤兵衛へと微笑みかけた。彼はふっとため息に近い声を出すと、キセルに火を付けてその場にどかりと座り直した。

「分かった分かった。そんな目で見るでないわ。儂とて自分の都合で話し過ぎたまで。用は夜まで終わらせるとしようぞ。その代わり、この場ではっきりさせておけい。儂は何をすればよいのじゃ? そもそも、儂らの旅の目的は何じゃ?」

「……私たちの目的は、ここバイメンに眠る『楔』と呼ばれる呪物を封印することなのです。『楔』には神秘の呪いが秘められており、今は“敵”の手に落ちております。そこを攻め落とし、厳重に守護すること。それが世界を守ることに繋がるのです」

「ふむ。何やら急展開じゃの。詳細は理解出来ぬが、つまり『楔』とやらを封ずれば全てが終わるのじゃな? この旅も、下等な虫にこき使われる屈辱の日々も」

「ええ。その通りです。満月の日に私が封印を施せば、手出し出来る者はこの世におりません。世界の平和の為に、どうかお力をお貸しください」

「……まあシャルの頼みなら仕方なかろう。これが最後の任務とあらば尚更よ。儂も一肌脱ごうではないか。この儂がおれば百人力ぞ。グワッハッハッハ!!」

 藤兵衛は機嫌を直して低いダミ声で高笑いをし、悠然と鼻から煙を吐き出した。シャーロットも手を口に当てて笑い、レイすらも呆れ混じりにほんの少しだけ口を曲げた。

「ったく、チョーシいいクソだぜ。ま、お嬢様がそう言うならしかたねえや。んじゃ説明すんぞ」

「ふん。やるなら早うせい。無能な貴様の雑な説明とて聞き逃しはせぬわ」

「けっ。いちいち面倒なクソだぜ。まず『楔』のある場所は確認済みだ。とある工場の地下にある。人間の兵士が守ってやがって、平和に進入すんのはかなり難しいな。で……話はこっからだ。具体的には俺たちは工場を占拠し……破壊する。その隙にお嬢様が封印を行う。理解したか?」

「工場を!? ……正気か? 歴とした犯罪ではないか!」

「んなこと言ってる場合じゃねえんだ! これはお嬢様の命令だ! だまって従え!」

 その時、藤兵衛の目の色が明らかに変化した。穏やかで親しみ易い眼差しが、細く鋭い光を放つ蛇の如き油断なきものへと。レイはその敏感な嗅覚で直感していた。踏んではならぬ部分を踏んだと。本質的な致命に関わる色を帯びたと。その通り、場の空気は踏み入れてはならぬ領域へと到達していた。

 藤兵衛は深く大きくキセルをふかし、ゆっくりと灰を足元に落としてから、シャーロットに向けて静かに告げた。

「……シャルよ。本当にお主が、そんなことを命じたのか?」

 今まで見せたことのない、怒りと悲しみに満ちた表情と声色で、藤兵衛は真正面からシャーロットに向き合った。彼女はやや伏せ目になりながらも、はっきりと首を縦に振った。

「確かに私が命じました。万難を排して目的を達しろ、と。もちろん人の命は奪いません。無血で占拠し、目的を遂げます。その為には貴方の協力が必要なのです」

「不可能じゃな。大小程度はあれど、その計画であらば血を流さずに進める事は出来ぬ」

「ですが、それしか方法がありません。これは世界の平穏のためなのです」

「その為に無辜の人間を傷付け、工場を破壊し人の生活を破滅させても構わんと? 横暴と傲慢にも程があろうて。付き合ってられぬわ」

「……」

 座り込んだままシャーロットを見据え、強い言葉で断ずる藤兵衛。しかし彼女は無言のままなれど、譲る事のない意思を態度に表し続けていた。張り詰め切った剣呑な雰囲気を何とか打破ろうと、レイがあえて明るい声で藤兵衛の肩を叩いた。

「おいおい、んな熱くなんなよ。俺もちっと言い方が悪かった。だからお嬢様にそんな強く当たんな。よく話し合おうぜ、なあ」

「……ふん。確かに儂も感情的になってしもうた。そこだけは謝罪するわい」

「おう。とにかくいったん落ち着けや。ちなみにな、そこの工場の経営は西のビャッコ国の会社だとよ。『黒龍屋』って知ってっか?」

「無論じゃ。新興の企業なれど、軍需に麻薬、果ては奴隷密売と、金になるものは全て取り扱う連中じゃ。儂ら金蛇屋にとって、利益の上でも信念の上でも必ず打倒せねばならぬ、目下の最大の敵と言えようぞ。彼奴らが関わっているとなるとならば、確かに黙ってはおれぬな」

 藤兵衛はほんの微かだが表情を和らげ、腕組みをして深く考え込んだ。レイは内心ほっとしながら、気を取り直して更に言葉を続けた。

「ま、実際に工場動かしてるのは、ここバイメンの『バードメン』ってギャング集団だとよ。何作ってるかは知らねえが、どうせロクなもんじゃねえ。夜な夜なガラの悪い連中がウロウロしてやがって、どう考えても怪し過ぎる場所さ。ちょっと痛めつけても問題ねえだろ?」

「……ふむ。事情は理解したわ。とは言え商売をしておる人間がいる以上、儂にはそれを阻止することは出来ん。何とか穏便にやれんものかのう」

「そりゃ俺だって傷付けずにやりてえけどよ、奴らが俺たちの“敵”と組んでるのは明白だ。てめえの気持ちはわかるが、こっちも必死なんでな。この機を逃したら次は1月後だ。てめえだって早く終わらせてえだろ?」

「まあ確かにの。……ふむ。この件については儂が間違っておったかもしれぬな。覚悟が足りんかったかもしれぬ。誠にすまぬのう」

 潔く頭を下げて皆に詫びる藤兵衛。信じ難い彼の態度にぎょっとしながらも、どこか不自然な匂いを肌で感じるレイ。そこへシャーロットが、決定的な一言を放った。放ってしまった。

「そうです。世界の平和の為には、私たちも覚悟が必要なのです。たかが商売など私たちの大義に比べたら……」

「お、お嬢様!!」

 咄嗟のレイの制止も間に合わず、藤兵衛はガンと大きな音を立てて立ち上がった。その表情には怒りの色のみが深く深く刻まれていた。

「……それを言われては終いじゃな。さらばじゃ。所詮は分かり合えぬ道であった。もう不老不死も何も要らぬ。貴様らの好きにするとよい」

「藤兵衛! 私はそんなつもりではなかったのです。ただ口が滑ってしまったのです。ほら、昨日のことを思い出して楽しく……」

「黙れ化物が! 儂に触れるでない! 穢れるわ!」

 忿怒の形相で指先を向け、藤兵衛は今迄向けた事のない敵意を全身から撒き散らし、鋭い言葉でシャーロットを刺し貫いた。彼女は呆然とその場にへたり込み、激しく泣き崩れた。立ち去ろうとする藤兵衛の後を追おうとしたレイだったが、自失のシャーロットから離れられずに歯噛みしていた。

「おい、どこ行きやがる! 話を聞きやがれ! おい!」

「世話になったの。貴様の事は汚物に匹敵する程に嫌悪しておるが、料理だけは最高じゃったわ」

「……クソが! 決行は9時にボンスン北西のBM工場だ! 俺たちはなにがなんでもやるからな。おい! 聞いてんのか」

 振り向きすらせず、藤兵衛はそのまま宿を後にした。彼の足取りは強く、揺るぐ気配すらない。だがその行き先に何があるのかは、彼自身何も分かってはいなかった。


 その日の正午すぎ。バイメン街中、『食事処さいちゃん』。

「おい、何をしておる。早く酒を持って来ぬか」

 藤兵衛の不機嫌なダミ声が店内に響いていた。彩花は苦笑しながらも、恭しく次の酒袋を彼のテーブルに置いた。がらんとした店内は彼ら2人しかおらず、藤兵衛の一方的な愚痴が聞こえてくるのみだった。

「ふん。何が世界平和じゃ、何が闇術じゃ、何が不老不死じゃ! 実に下らぬわ! こんなことなら最初からロンシャンにおればよかったわい」

 微笑を浮かべてただ彼の話を聞き続ける彩花。尚も続く藤兵衛の愚痴。もう1時間以上も彼の独演会は続いていた。

「……で、じゃ。セイリュウ入国の際の山越えもそうじゃった。儂がおらなんだら何も出来ぬ愚蒙の衆の集まりではないか! まったく下らぬ、どうしようもない連中じゃわ」

 既に酒樽は3つばかり空になっていた。彩花は台所からグラスに水を汲むと、彼の目の前に置きながら、囁くような小さな声でそっと呟いた。

「……じゃあ、もう見捨てちゃうの?」

 突然どきりと胸の奥を突かれた藤兵衛は、細く垂れた目をまじまじと彼女の方に向けた。彼女はいつも通りの表情を崩さずに、テキパキと片付けをしながら後ろ姿越しに語った。

「使えないから、どうしようもないからって、藤兵衛さんは仲間を見捨てちゃうの? それってあんまりじゃないかしら」

「……そんなつもりではないわ! ただ儂は、連中のやり方が気に入らんのじゃ! 儂のやり方とは違うだけじゃて」

「なら、藤兵衛さんのやり方でやってみたら? そうすれば丸く収まるんじゃない? 立ち止まっていたら何も生まれないわ。この国の未来と同じよ」

 訪れる沈黙。そのまま僅かばかりの時間が流れた。藤兵衛はその間ずっと無言でキセルをふかし続け、酒をテーブルの端に置いたまま静かに頭を回転させていた。

 時がゆっくりと流れ、彩花の調理の音が心地良く流れる中、不意に藤兵衛はばっと頭を上げた。

「確かに……お主の言う通りじゃ。儂のやり方、か。何とか組み立ちそうじゃわい。そうじゃな。彼奴らがどうしようと儂には関係ないわ。儂は儂じゃ。どうやら大切なことを忘れていたようじゃて。礼を言うぞ、彩花」

「どういたしまして。でもね、ぜんぶ終わったら、きっちりシャルちゃんに謝りなさい。あの子ほんとにいい子よ。ちょっと変わってるけどね」

「はっ! 何故儂が謝らねばならんのじゃ! 奴が頭を下げるなら別じゃがの」

「ふふ。頭なんて下げるだけならタダよ。まだまだね。……あら、誰か来たみたい。ちょっと勝手にやってて頂戴」

 バタバタと裏口へ走り出す彩花。藤兵衛はふと右手の指輪を見つめ、意識と闇力を集中させた。ボッボッボッとリズムよく3つの光が灯し、炎の球が手の上に現れた。彼は無感動にそれを手のひらで握り潰し、ジュウと肉が焼ける匂いが鼻をついた。だが数秒後、瞬く間に再生していく肉体を見て、彼はふっと自嘲気味に笑った。

(5秒とは言わぬまでも、造作無くこんなことも出来るようになってしまったのう。やれやれ、今更シャーロットを化物呼ばわりなど出来はせぬわ)

 藤兵衛はそこで一旦思考に蓋をし、何となく天井を見上げた。今にも朽ちそうなあばら家だが、隅々まで丁寧に掃除が行き届いていた。藤兵衛は感心して周囲を見回しながら、ふと微かに外から聞こえる耳障りな音に耳を傾けた。それは、彩花と誰かが言い争っている声のようだった。

「……ですから、わたしはあなた達に協力するつもりはありません。お引き取りを」

「それはあんたの勝手だがね、ここの借金はどうするんだい? しばらく利子も支払われてないようだがな」

「それは……来月には必ず……」

「客も来ねえ飲み屋だけで、どうやって1000万もの借金を返すってんだ? やっぱり旦那の稼ぎがねえと無理だろう? 育ち盛りの息子さんの飯代はどうするんだ?」

「ふざけんな! そんなの、ぜんぶあんた達のせいだろう! 店で嫌がらせばかりして、それに夫が殺されたのもぜんぶ……」

「おっと、それ以上はナシだ。ありゃあ事故だぜ。なあ、素直に吐いちまいな。お前の旦那のゼンが隠した、例のブツの居場所を言いさえすりゃ、借金だってこの場でチャラにしてやる。客だって前みたいに来るだろうよ。もう強情なんざ張らなくてもいいだろう?」

「……」

 目に見えて緊迫した状況。威嚇する物言いと嘲笑の口調を同時に示し、チンピラらしき男は彩花を完全に呑みつつあった。だが、そこにふらりと現れたのは、他でもない金蛇屋藤兵衛だった。

「失礼。ちょっと宜しいかの。儂は金蛇屋の人間じゃが」

「オウリュウの商人か。……で?」

 チンピラは道に唾を吐きながら、藤兵衛を鋭く睨み付けた。だが藤兵衛は動じない。稀代の大商人たるこの男は、この程度の脅しなど屁とも思わない。

 彼は火の付いたキセルを咥えたまま、悠然と一服吸ってから、チンピラに向けて派手に吐き付けた。怒りを示して今にも向かって来ようとする彼に、藤兵衛は機先を制して捲し立てた。

「残念ながら関係は大ありじゃ。儂はこの女の弁護人での、貴様らへの借金を処理するためにここにおるのじゃ。どれ、まずは証文を見せてもらおうかの」

「てめえ! 彩花、余計なまねをしやがって!」

「と、藤兵衛さん。これはわたしの問題だから……」

「落ち着いて言葉を選べい。この女の借金は金蛇屋が買い取り済みぞ。貴様が話すべき人間は儂じゃ。つべこべ言わず証文を出せい」

「あ? んなもんねえよ。口約束に決まってんだろ」

 チンピラは微かに戸惑いながらも、何とか威勢を失わずに叫んだ。藤兵衛はふうとキセルを吐き出すと、嘲るような挑発の視線を送った。

「ほう。ならば利子は無効じゃの。おい、彩花。此奴にいつ、幾ら借りたのじゃ?」

「え、えっと……4年前に100万銭だけど」

「ふむ。大した暴利じゃのう。ならば落とし所は200万か。嫌ならこの話はここで終わりじゃ」

「……兄ちゃん。あんまナメんなや」

 チンピラの目がかっと開かれたと同時に、彼は胸元から小刀を取り出すと、藤兵衛に向けて振りかぶった。しかし、それはあまりにも遅過ぎた。藤兵衛の右手から飛び出した謎の炎は、勢いよくチンピラの手を焼いたのだった。火を消そうと慌てて腕を振る彼が気付いた時には、既に自らの頭に銃口が突き付けられていた。

「さて、ナメておるのはどちらかの? 貴様如きは知らんじゃろうが、この筒は新技術により火砲が込められておる。200万でこの場を収めるか、このまま無為に死ぬか。貴様に選べるのはそれだけじゃ」

「……けっ。分かった分かった。大した用心棒様だな、おい。俺にも顔がある。即金で払えばそれで終いだ」

「(むう。妙に物分かりがよいの)……ほれ、取っておけい」

 藤兵衛は銃を構えたまま、懐から取り出した銭の束を地面に放り投げた。チンピラはそれを素早くふんだくると、駆け足でその場を走り去っていった。

「借金の件はこれで終わりにしてやる。だが覚えとけ、彩花。お前の持ってる“資産”は、俺たちバードメンのもんだ。絶対に諦めはしねえ」

「……」

「それと金蛇屋の方。今日のことは水に流してくれよ。よくよく考えれば……俺たちは同盟関係だしな」

「む? 金蛇屋と貴様らがじゃと? 詳しく説明……おい! 待たぬか!」

 慌てて声を張り上げる藤兵衛だったが、既にチンピラの姿はそこにはなかった。怪訝そうに眉を顰めた彼だったが、すぐに倒れ込む彩花の元へ走り寄った。

「おい、彩花! 怪我はないか?」

 彩花は答えなかった。彼女は下を向き、唇を噛み締めて静かに涙を流していた。藤兵衛は懐から手拭いを取り出して、そっと優しく彼女の目を拭った。

「気分が優れぬか。それも当然じゃろうて。中で少し休むがよい。まったく、とんでもない奴等じゃのう」

「……どうして、あんなことをしたの?」

 下を向いたまま、目を伏せたまま、彩花は震える声で尋ねた。藤兵衛は何も答えずに、悠然とキセルの煙を空に燻らせただけだった。

「余計なことをして! あんな大金まで使って! 昨日今日見知ったばかりのわたしに! ほんと……バカみたい!!」

 藤兵衛は激しく泣きじゃくる彩花に優しく微笑みかけると、その場にどかりと座り込み、口を曲げて不敵に笑った。

「確かに余計で、独善的な行いじゃったの。その件については謝ろうぞ。ただの、あの金は無期限に貸しただけじゃ。儂は慈善になど興味はないからのう。利子代わりに、今後はタダで飲み食いさせい。それでよかろう?」

「……バカ。ほんと……あなたってどういう人なの? 見た目は若いのに、あんな不良を前にして一歩も退かずに、逆に追い返しちゃうなんて」

「ホッホッホ。儂は儂じゃて。……ここは衆目もある故、一度店の中に入らんか? 詳しく聞きたいこともあるのでのう」

 そう言って彩花の手を取り、藤兵衛は決意を込めて立ち上がった。騒ぎを見守っていた街の人々を振り切るように、彼らは足早に店の中に入っていった。


 15分後、食事処さいちゃん店内。

 客は変わらず藤兵衛だけの店内で、彩花はカウンターに突っ伏していた。藤兵衛は何本めかのキセルに火をつけ、何も言わずにその時が訪れるのを待っていた。

「……あいつら、死んだ旦那の仲間なの」

 ぼそり、と振り絞るように彩花が告げた。藤兵衛は黙したまま垂れた目を細め、ゆらりと煙を吐き出した。

「5年前の秋津との戦争で、夫も含め多くの仲間が死んでいって。もちろん私だけじゃなく、たくさんの人が傷付いて。でも得るものはなにもなくて、それでも、わたしたちは次の命のために生きていかなきゃいけなくて……」

 ちらりと二階の方に視線をやる彩花。黙って聞き続ける藤兵衛。

「夫はね、イッピン族の植物学者だったの。大きな農園に沢山の作物を作って、皆の生活の為に私財を投げ打っていたわ。作物の少ないこの国を救おうと、何年も研究をしてたの。私たちは幼馴染で、いつしか惹かれあって、たくさんの仲間に祝福されて、家族も出来てこれからだって時に……秋津の野蛮な侍たちが攻めてきて……」

(……セイリュウが戦士の国とはいえ、あくまで各々の部族の寄り合い国家に過ぎぬ。戦に於いては死をも厭わぬ秋津の狂人どもでは、流石に相手が悪すぎるわ。何より……その件について儂も無関係とは言えぬしの)

 再び泣き声を上げる彩花。藤兵衛は表情を変えずにそっとその背をさすった。温もりが静かに伝わる室内で、ゆっくりと時間だけが流れていった。

「……ごめんなさい。もう大丈夫。藤兵衛さんは優しいのね」

 涙と鼻でぐちゃぐちゃになった顔を擦りながら、彩花は無理矢理に大きく微笑んだ。藤兵衛は思わず見とれてしまった自分を誤魔化すように、ふんと大きく鼻から煙を吐いた。

「して、何故お主が狙われるのじゃ? 遺産がどうとかぬかしておったが」

「生きるためにこの店を出したわ。お金が必要だったの。それで、旦那の仲間に50万だけ借りた。最初はみんな来てくれた。みんなお金はなかったけど、助け合い、誇りを持って生きてた。でもいつしか少しずつ変わっていって、この国自体がお金がなくて、誰しもが苦しみ始めた。みんなお金が欲しかったの。私だって欲しかった。でも、弱音なんて吐くまいと決めてた。けれど、一部の人たちはそうは考えなかった。彼らは戦士の誇りを捨てて、犯罪に手を染めるギャングになったの」

「ある意味では……仕方のない部分もあった訳じゃな。貧困とは賢人をも狂わせる。富無くして社会は成立せんからのう」

「ええ、その通りよ。そこであいつらが選んだのが……麻薬。この国で取れるタイノアサを原料とした粗悪な麻薬。他の国からは見向きもされなかったけど、とにかく安かったから当座の金にはなったわ。だけど混ぜ物ばっかりの薬なんて、そのうち誰も買わなくなった。困った連中が頼ったのが、ビャッコ国の黒龍屋。全ての歯車はそこから狂い始めたの。悪魔の誘惑とは正にあのことね。組織化した効率の良い麻薬作りで、近隣諸国に次々と進出した代わりに、少ない金でいいように使われて、目に見えてみんな疲れ果てていった。……みんな変わっていっちゃったの」

「……成る程。漸く読めて来たわい。連中の狙いは新種の麻薬か。前々からおかしいと思っておったのじゃ。大陸を網のように張り巡らせた金蛇屋の物流に乗らず、密かに流通する麻薬の出処をの」

「最終的にあいつらが目をつけたのが、夫が遺した突然変異種よ。夫は生前、この事態を予期して全ての検体を破棄したわ。でもサンプルが一株だけ残っているの」

 彩花の指差した先には、色とりどりの薔薇の花受けがあった。だがよく見ると、一輪だけ花弁の形が星型のものがあった。藤兵衛は繁々とそれを覗き込み、かつての記憶を脳内に浮かび上がらせながら、ううむと低く唸った。

「金蛇屋は麻薬は絶対に扱わぬが、知識としては最低限揃えておる。一見すると見覚えのある在来種じゃが、花弁から漂う甘酸っぱい匂い、茎の繊維の詰まり方、何より特徴的な青い色……どれを取っても普通ではないわい」

「スターローズ。夫はそう呼んでいたわ。これがある限り、奴等は私に付きまとい続けるでしょうね。いっそのこと捨ててしまおうって何度も思ったわ。でも、これは夫が遺した唯一の品なの。私には……どうしても出来なかった」

「……そうか。ならば率直に言おうぞ。その花を儂に預けい」

 突然の言葉にきょとんとした顔になる彩花に、藤兵衛は不遜極まる態度で尚も続けた。

「お主の夫が遺したのは、この花そのものではない。それは意志じゃ。この国のために戦う意思を遺したのじゃ。そして儂ならば、これを使ってこの国を変えられる。お主が出来ぬことを、儂ならば出来る。この金蛇屋藤兵衛が必ずやり遂げてみせようぞ。儂は誰もが認める大嘘吐きじゃが、自分の言葉にだけは嘘は吐かん。儂を信じて託せい、彩花。絶対に後悔はさせぬ」

「……正気? たかだか昨日今日知り合った人間に、全てを託せって言うの? そんなこと出来る訳ないでしょう」

「その通りじゃ。お主の言うことは全面的に正しい。じゃが……儂は本気じゃて。必ずこの国の病を治し、実りと繁栄を与えてみせる。この儂が、金蛇屋藤兵衛がやり遂げて見せようぞ! 頼む、彩花! この通りじゃ!」

 その場に頭を打ち付けんばかりに土下座をして、藤兵衛は威厳すら漂う叫び声を上げた。長い沈黙。静まり返る室内。そして次の瞬間、彼女は堰を切ったようように笑い出した。

「ははは! あー可笑しい。あなた本当に何者なの? 金蛇屋藤兵衛って、オウリュウ国の化け物じゃない。なんでそんなことを、身の丈に合わないでかすぎる妄想を、一切笑わずに言い切れるの? ほんと……不思議な人ね。土下座なんてされたの、あの人にプロポーズされた時以来だわ。……本当に信じていいのね?」

「うむ。頭を下げるだけならタダじゃからのう。儂は損だけは大嫌いなのじゃ。おい、彩花よ。この儂を誰と思っておる? オウリュウ国の覇者にして東大陸に冠する大商人、世界の富を喰らい尽くす蛇と呼ばれし金蛇屋藤兵衛その人ぞ! 大船に乗ったつもりで任せい! グワッハッハッハッハ!!」

 呆れかえって深々とため息をつく彩花。そんな事は一切気にもせず、ただ笑い続ける藤兵衛。二人の間にほんの僅かばかりの、暖かな時間が流れていった。


 夜も近づく時間、レイとシャーロット。

 あれからずっと、2人の間に会話は一切なかった。金蛇屋藤兵衛が彼女らの前から姿を消してから、レイが何を話しかけてもシャーロットからまともな答えは帰ってこなかった。レイは長い長い沈黙に耐えきれずに、頭に浮かんだ言葉を端から発していった。

「いやあ、お嬢様。今日もよく晴れてましたね」

「……」

「これだけ昼間晴れてると、夜もさぞいい天気でしょう。素晴らしい満月になりそうですね」

「…………」

「いやあ、もう11月だってのにこんだけ暑いと、俺なんて頭がどうかなっちまいそうで……」

「私は寒いです」

 ピシリ、と降ろされる幕。終わる会話。苛立ちとやりようのない想いに頭を掻き毟るレイ。

(あのクソが! ほんと余計なことしかやりやがらねえ! 後でバラバラにしてやるぜ!)

 そして、夜8時を告げる鐘の音が街中に鳴り響いた。レイは表情を変えて、決意を込めて立ち上がった。

「お嬢様、そろそろ行きましょうぜ。俺たちはやるしかねえんでしょう?」

「……無論です。行きましょう、レイ」

 スッと立ち上がるシャーロットだったが、明らかに目の焦点が合っておらず、その場でフラつく彼女を両腕でしっかりと支えながら、戸惑いを隠し切れずにレイは言った。

「お、お嬢様。ほんとに大丈夫ですか? やはり次の満月まで待ったほうが……」

「私は平気です。だって私は……化物ですから」

(あああああ! クソ商人め! マジなんとかしろや!)

無言で先に歩き始めるシャーロットに視線を向けつつ、レイは今日何度目かも分からぬ深く大きなため息をついた。


 夜9時、バイメン町外れ。

 レイは目の前に広がる光景に目を疑った。前日に何度も偵察し、そこが巨大な工場である事は確認済みだった。しかし、そこは非合法の麻薬工場。警備が薄いことも確認していたし、たかが人間のギャング風情と高をくくっていた部分もあった。

 しかし、今はどうか。多くの武装した柄の悪い男達が、隊列を組んで警護に当たっているではないか。明らかに今日は、今日に限って何故か、異常なほどに人員が配備されていた。これではレイ1人ならさておき、シャーロットを引き連れた上で、誰も傷付けずに潜入するのは不可能だと断言出来た。

「お嬢様……いかがしましょう? このままじゃ正面から戦うしか道はありませんぜ」

「なら、そうするだけです。私たちは人間ではありません。優先すべきは『楔』のみ。例え誰かを傷付けても、結果として人が死んだとしても、大義のために進むのみです」

「お嬢様……本気で仰ってるんですか?」

 冷静な表情のシャーロットを、真正面からしかと見つめるレイ。こんなことを言う方ではなかった。何よりも人を愛し、命を大切にする方だった。なのに……全てはあの商人のせいで!

「そこで何をしている!」

 その時、数人の番兵が灯りで2人を指し示した。ざわざわと叫び声が聞こえ、レイはくっと歯を噛み締めた。

(最悪だ! 見つかっちまった!)

 動揺を隠しきれないレイに対し、周囲に目もくれずふらふらと歩き始めたシャーロット。だがその時、逡巡するレイの頭上から、聞き覚えのある低いダミ声が降り注がれた。

「ホッホッホ。皆の衆、此奴らは儂の客人じゃ。丁重にもてなすがよいぞ」

「これはこれは金蛇屋の大幹部様! かしこまりました」

「うむ、うむ。苦しゅうない。そこの虫の如き阿呆は捨て置けい。さあ、夜は始まったばかりぞ」

 目の前に広がる光景に、信じられぬ展開に激しい目眩を覚えるレイ。驚嘆しきって唖然とするシャーロット。そして、頭上から高らかに響く藤兵衛の下卑た笑い声。


 バイメンの夜は続く。それぞれの道が一つの螺旋となり、収束していった。そして、決して争うことのできぬ終着点へ3人を導いていった。

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