第9話「首都バイメン観光記」

 東大陸の東端に位置する戦士の国セイリュウには、光と闇に別れた2つの歴史があった。1つは実質的な宗主国オウリュウと共に歩む、勝利と栄光の歴史。もう1つは戦士たちの消え行く影に隠された、衰退と停滞の物語。

 この国のどの街にも、程度はどうあれ2つの色が様々に交差し、朧な輪郭を浮かび上がらせていた。特に多くの人が集まる大都市においては、濃淡は既に溝と呼び得る深みにまで根を下ろしていた。

 ここは首都バイメン。セイリュウ国のほぼ中央に位置する都。帝都ロンシャンほどの賑わいはないにせよ、多くの人々が行き交う大都市であった。この街の中央、最高の行政機関である部族議会場にほど近い安宿に、疲弊しきった3人の旅人の姿があった。

「や、やっと着いたわい。あれから幾山越えてきたんじゃ?」

「うるせえ! てめえがノビてっからこんなに遅くなったんだ! 俺はぜんぜん疲れてねえぜ」

「グェポ!!」

 疲れ果て舌を出し、部屋の真ん中で大の字に横たわる藤兵衛を、呆れた様子で粗雑に蹴飛ばすレイ。彼は怒りに打ち震えつつも、全身を蝕む致命的な疲労感に打ちのめされ、文字通り手も足も出せずにいた。

「ふん! そもそも貴様が力車を壊したから、儂が家財道具一式を運ぶ羽目になったのじゃぞ! 少しはそのちっぽけな脳内に反省という言葉を刻むのじゃな!」

「ああ? そのぶん俺がお嬢様を運んでたじゃねえか! どっこいだろうが!」

「何をぬかすか! シャーロットなぞ荷物と比較すれば羽毛の如き重さじゃろうが! 筋肉達磨の貴様と一緒にするでない!」

「うるせえ! チョーシこいてんじゃねえぞ!!」

「グェポ!!」

 長い足を突き出して、再び藤兵衛を蹴り飛ばすレイ。そんな2人を優しく宥めながら、嬉しそうに美しく笑うシャーロット。

「まあまあ。でもよかったではないですか。こうして皆で無事に着いたのですから。あれからは平和な日々を過ごせましたし」

「そうじゃそうじゃ。何故かは知らぬがあの日以来、忌まわしき眷属連中は影も形も見せなかったからのう。実に想定外の僥倖よ。これも儂の日々の行いが善きお陰じゃろうて」

「けっ。大陸一のゴミ商人がよく言うぜ。ところでお嬢様、しばらくここに落ち着くってこたあ、今日から結界を張るんですよね? 今の状態ですと警備に不安が残りますが……」

 恐る恐るといった感じで、レイは懸念だった不安と不審を切り出した。しかしシャーロットはにっこり笑い、静かにだが力強く首を横に振った。

「ふふ。お忘れですか、レイ。空は間も無く満月です。何も心配など要りませんよ」

「あ、そうか。そりゃそうですね。こりゃ失礼しました。ならば安心ですね」

 頭に手を当ててほっと胸を撫で下ろすレイと、口に手を当てた可笑しそうに微笑むシャーロット。だがそんな状況に、やはりと言うべきか、あの男が勢いよく食ってかかった。

「何じゃ? どういう意味じゃ? さっさと説明せい。もう儂は戦いたくないぞ。大丈夫とは如何なる根拠じゃ?」

「ああ、つくづくうるせえ男だ。てめえなんぞとは話もしたくねえが、言わなきゃ言わねえでよけいうるせえからな。今回だけは特別だぞ。お嬢様はな、満月が近くなればなるほど圧倒的に闇力が上がるんだ。てめえなんぞのために減った力が、本来の力に戻る唯一の時が満月だ。この前の件でもそうだけどよ、あれだけの重傷を瞬時に復活出来たのは、月齢が深く関係してんだ」

「そうです。今の私に結界など要りません。暫くの間、月の光が最大となるこの期間、はっきり申し上げて私に敵はありません。並みの眷属ならば私に近付いただけで消し飛びます。くれぐれもお気をつけ下さい」

「ほ、ほう。大言壮語極まりないが、貴様が申すのなら誠なのじゃろうて。で、儂はどうすればよい? 何か仕事があるなら不本意ながら手伝うぞい」

「あ? たしかに忙しいがよ、てめえなんぞに頼むこたあねえよ。俺1人で十分だから、てめえはしばらく休みだ。テキトーに羽でも伸ばしてこいや」

「ほ、本当かああああああ!?」

 思いもよらぬ言葉に腹の底から歓喜の声を上げる藤兵衛と、心底不愉快そうに耳を塞ぐレイ。だがそんな2人に反して、何故か無表情となるシャーロット。

「うるっせえなあ。好きにしろよ。ただ力車の件だけなんとかしといてくれ。てめえならそういうの詳しいだろ? 金なら払うからよ」

「何じゃ、そんな事か! よいよい。金なぞ気にせず全て儂に任せい! 最高の品を調達する故、安心して待つがよいわ」

「んじゃそっちは任せたぞ。俺はしばらく用があるから、メシは作れねえからな。そこらでのたれ死なねえようにせいぜい気をつけろや」

「うむ、うむ。その辺は問題ないわ。出会って初めて貴様に感謝したぞい。おっと、そうと決まればこうはしてられん。すぐに荷物を整理せねばのう」

 勢いよく別室へ駆け込む藤兵衛をちらりと目で追い、レイはふうと大きくため息をついた。

「ったく、ちっと甘くすっとこれだ。んじゃお嬢様、俺は出ますわ。必ずやこの国の『楔』の情報を探ってきますんで」

「……」

 そう言ってスッと立ち上がったレイに、例えようもない違和感。先程から無言で佇む主人の表情をしっかりと見据え、疑念は確信へと変わった。膝を抱え込んで座ったままのシャーロットは、その大きな瞳でレイを下からじっと覗き込んでいた。

「お、お嬢様? どうしたんですかい? まさか……」

「私も行きたいです」

 普段の彼女からは考えられぬ、心底むすっとした口調で、不服を顔中で表現しながら、シャーロットは言った。レイは心中で深く大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと丁寧に、子どもに言い聞かせるように諭した。

「お、お嬢様。ご存知の通りこれは危険な任務です。もしかすると、とんでもねえ敵や、信じらんねえ危機があるかもしれません。決して遊びではありませんから……」

「私も、たまには外に出たいです」

「お聞き分けください! もう俺は行きますから、くれぐれも部屋で大人しくするんですよ!」

 と言い残すと、窓から風のように消えていくレイ。見るからに不服を全身に抱えながら、膝を頬に当ててほっぺを膨らますシャーロット。そこに現れたのは、顔中に満面の笑みを浮かべた金蛇屋藤兵衛だった。

「何じゃ、あの虫は? 逃げるように出て行きおって。これじゃから脳味噌の軽い生き物の思考は理解出来ぬのう。おい、シャーロットよ。儂はちと出かける故、留守番は頼むぞ」

 口早にその場を立ち去ろうとした藤兵衛だったが、着物の袖が不意にくっと引っ張られた。驚きそちらを見ると、シャーロットが上目遣いで彼を凝視していた。

「……私も行きたいです」

「な、何じゃ? 流石にそれは……のう。貴様もまだ病み上がりじゃろう? 大人しく部屋で養生しておいた方が……」

「行きたいです! 私もたまには外に出たいです!」

 手をバタつかせて、地団駄を踏みながら、シャーロットはあらん限りの声で叫んだ。藤兵衛は、この男にしては極めて珍しく、返す言葉を持たずに困惑しきり、ただその場に立ち尽くすだけだった。

「よ、よいかシャーロット。貴様の気持ちも分かるがの、儂とてたまには1人の時間を……」

「嫌です! 藤兵衛だけずるいです! せっかく体調がよいのに、私も外で遊びたいです! 観光もしたいです! 藤兵衛が私をいじめます!」

(ま、 まるで餓鬼じゃ! 何時もの威厳は何処へ行きおった?!)

 暴れるだけではなく今度は座り込んで、大きな美しい瞳から大粒の涙を流し、近隣に響き渡る程の声でわんわんと泣き出したシャーロット。流石の藤兵衛も心底困り果て、頭を抱えて暫し言葉を失っていた。

 そして5分後。いつまでも泣き止まない彼女に痺れを切らし、藤兵衛はやや大袈裟に声を張った。

「ええい! 我が儘を申すでない! そんな事を言われても儂は知らぬわ! もう行くぞ!」

「ならいいです! もう闇術は教えません! 天下に名を轟かす大商人金蛇屋藤兵衛とは、借りの1つも返せない大陸一不義理な男だとよくわかりました! もう知りません!」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を枕に埋めて、シャーロットは更にわんわんと喚き散らした。一方で藤兵衛は実に痛い所を突かれ、歯を噛み締めて立ち尽くしていた。

(こ、此奴め! よくもこの儂に斯様な言い草を……ええい、狂人とはここまで性の悪いものか!)

 藤兵衛はキセルに火を付け一旦深く吸い込むと、決意を固めてツカツカとシャーロットの方に向かった。そして、うつ伏せでしくしくと泣く彼女の側に寄ると、白い肩にそっと優しく手を伸ばした。

「……儂の負けじゃ。連れていって進ぜよう。ただ約束せい。今日だけじゃぞ。明日は儂の好きにさせい。分かったな?」

「……」

「観光がしたいと申したか。ならばこの儂に任せい。儂からすればバイメンなぞ小庭も同じぞ。この儂が直々に、街を余すことなく案内してやろうではないか」

 その言葉が耳に届くか否かという時、シャーロットは勢いよく跳ね起きると、そのまま思いきり藤兵衛に抱き付いた。ほんのりと伝わる暖かな温度に困惑する彼に、彼女は心底嬉しそうに、美しい笑顔を大輪の花のように咲かせた。

「こ、これ! 何をするか! 少し離れい!」

「ありがとうございます! 私は藤兵衛のことを大好きです! そうと決まればすぐに出発しましょう。本当に大好きです!」

 シャーロットは離れ際にそっと頬にキスをし、そのままバタバタと自室へ走り去っていった。ほんのりと顔を紅潮させる藤兵衛は、呆れたように戸惑うように、何度も失敗しながらキセルに火を付けた。

(まったく……調子が狂うわい。じゃが、こんなことをしていてよいのかの? 何か不穏な事態が起きなければよいが)

 そして、その悪い予感は当然のように的中することとなる。大陸歴1278年11月某日、藤兵衛とシャーロットの初めての休日が始まった。


「ほれ、見てみい。これが戦没者慰霊碑じゃ。ん? シャーロット? 今度は一体何処へ消えおった?」

「私はここです! とても高くて気持ちがいいですよ!」

 巨大な慰霊碑の上部に片足で立ち、嬉しそうに藤兵衛に手を振るシャーロット。周囲の人々の敵意に近い白い視線が突き刺さる中、彼は慌てふためきながら彼女を止めた。

「こ、これ! 罰当たりじゃぞ! すぐに降りるのじゃ!」

「そうなのですか! では藤兵衛の仰るようにします」

 シャーロットは不思議そうな顔で、ふわりと空を泳ぐように風を纏って地面に降りた。藤兵衛はげっそりとした顔で彼女に近付くと、言葉を選びながら一つずつ言い聞かせた。

「あのな、シャーロットよ。ここは戦士の魂が宿っている石碑なのじゃ。5年前の秋津との戦争で、国を守るために死んでいった偉大なる者たちが、この場所で眠りについているのじゃ」

「はて? よく分かりませんが、セイリュウ国では石に魂が宿るのですか?」

「それは実際の問題ではない。正直言って儂は、これっぽっちもそんな迷信を信じぬが、この国の連中は皆そう思っておる。そう思わぬとやっていけんのじゃ。人間はそういうものよ。深い悲しみに襲われたとき、縋るべき代を持たねばやっていけんのじゃ。実際ここに魂が有ろうが無かろうが、残された者の意思は冒涜してはいかん。分かってくれるか?」

「はい。私が不勉強でした。人間とはそういうものなのですね。なにぶん私は不束者ですから、そういうことに疎いのです。申し訳ありません、藤兵衛。そして皆様方も、平に平にご容赦を」

 シャーロットはそう言うや否や、地面に正座をして深々と頭を下げた。藤兵衛が慌てて止めに入るが、泥水に頭が浸る事も厭わず、その姿勢のまま微動だにしない彼女を見て、行き交う人々はざわざわと噂話を繰り返していた。

(さ、先が思いやられるわい……)


 所変わって、バイメン卸売市場。

 沢山の行商人たちが集まり、辺りには罵声や商売啖呵が鳴り響いていた。その間を所狭しと駆け回る嬉しそうなシャーロットと、戸惑いつつもにっと歯を見せる藤兵衛の姿があった。

「見てください、藤兵衛。お魚がいっぱいですよ!」

「ホッホッホ。セイリュウ国は海に面しているからのう。作物が取れん分、魚や肉は実に豊富でな。そういう面でもオウリュウ国とは非常に密接な関係にあるのじゃて」

「あ! こっちには牛がいます! 馬も、猪も、熊もいますよ! こんなにいっぱい見たのは初めてです!」

「あれらは家畜としても食糧としても使えるからの。それに、ここらの人間にとってはの、獣は神から齎された恵みのようなものじゃて。最終的に食するとはいえ、大地の神からの授かり物として非常に丁重に取り扱っておるわ」

 藤兵衛はキセルを得意げにふかし、市場の軒先に吊るされた獣肉をぽんと軽く叩いた。一方でシャーロットは、初めて見る光景に目を輝かせ、心底楽しそうに微笑んでいた。

「そうなのですか! 私も動物は大好きです! 食べるのはそこまで好きではないですが、見ていると心が安らぎます」

「儂もじゃて。有能な生き物は儂に利益をもたらす故な。何処で生まれたどのような生き物であれ、能力の高い者を儂は尊重しておる。そう言えばこの間、山中で野生の馬を見たのう。あれは見事な毛並みと筋肉じゃったわ。出来れば荷馬として使いたかったものじゃがな」

「……レイが捕まえようとして、殴り殺してしまった彼のことですね。本当に美しい馬だったのに……あれは本当に頭にきました」

(やけに強烈な仕置きだとは思うたが、そういう理由じゃったか……)

「思い出したらまた頭にきました! 帰ったら今度は背中まで引き裂いて……あっ! 見て下さい、藤兵衛! 向こうで牛の乳搾りが体験できるそうですよ! ちょっと先に行って参ります」

「うむうむ。良き体験になろうて。儂は一服してから行く故な」

「はい! ではお待ちしております。搾り尽くしてやりますとも!」

 言い終わるのを待たずに、ばたばたと駆け出すシャーロット。その心底から楽しんでいる後ろ姿を見送った藤兵衛は、道の脇に座り込んでキセルに火を付けると、今日初めて本心から穏やかに笑った。

(やれやれ。ああしておるとそこらの童と変わらんのう。とんだ狂人と思うておったが、あれが奴の本当の顔かもしれぬ。魔女だとか闇だとか、そんなことは忘れてしまいそうじゃわい)

「藤兵衛! いっぱい絞れました! 一緒に飲みましょう! さあ、運ぶのを手伝ってください」

「ホッホッホ、仕方ないのう。どれ、ちょっと待つが……な、何故貴様は全裸になっておるのじゃ?!」

「だ、ダンナ。こちらも困ってるんでさあ。こちらのお嬢さんが、なんでかいきなり脱ぎだしまして……」

 係員が困惑して事情を告げるが、当のシャーロットは裸のままミルクの桶を誇らしそうに抱え、嬉々として藤兵衛に大声で話し掛けた。道行く人々の好奇の視線が突き刺さり、顔を真っ赤にして震える藤兵衛。だがそんな彼とは裏腹に、彼女は心底楽しそうに、透き通るほどに白い肌を晒して美しく笑っていた。

「聞いてください、藤兵衛。私、最初はぜんぜんうまくいきませんで、そこでこの方にコツを伺ったのです。すると『牛の気持ちになれ』との教えが。そこで私は閃いたのです。牛と同じように、裸になって絞ってみることにしたのです。するとどうでしょう! お乳がみるみる滝のように取れたではありませんか! さすがは本職の方ですね。どうです、藤兵衛? 私を褒めてくれますか?」

「わ、分かったわい! お主は凄い! じゃから……頼むから早く服を来てくれい!」

「まだです。あちらで乗馬体験が出来るそうで、ここはまた一つ馬の気持ちになって……」

「もうよい! もっとよいところがある故、とにかくすぐに行くぞ! ……ああ、先に行くでない!」

 身1つで駆け出すシャーロットの後を追い、市場の人々の怪訝がる視線の中、藤兵衛は心底気まずそうにその場から走り去った。


 バイメン市街地。息を切らせて走る2人。漸く追いつき息を切らす藤兵衛に、シャーロットは嬉しそうに話しかけた。

「ふふ。捕まってしまいました。今度は藤兵衛が鬼ですね」

「ば、馬鹿者が! もう限界じゃわ! そんなのはあの単細胞とやれい!」

「しかし……この街は不思議なところですね。人々が私のことをじろじろ見てきます。そんなに西大陸人が珍しいのでしょうか?」

「それもあるがの……お主の『ベール』が薄すぎるのじゃ! 半分くらい透けておるではないか! 何とかならんのか」

 人気のない小道に無理矢理連れ去りながら、藤兵衛は呆れと怒りを半分ずつ込めて怒鳴り付けた。だがシャーロットはちらりと自分の体を見てから、こともなげに美しく微笑んだ。

「ふふ。すぐには固定できませんよ。こう見えても上級術式ですからね。しかし……なぜ裸だからと言って、あんなにもじろじろと見るのでしょう? 私が家にいた時はずっと裸でしたけど、誰も何も言いませんでしたよ」

「あのな、お主には分からんかもしれんが、世の男性は裸を見ると……本能的に欲情するものなのじゃ。お主のような美しい容姿なら殊更そうなる。それ位理解しておけい!」

「欲情とは、どういう意味ですか? 藤兵衛もするのですか? ぜひ教えて下さい。藤兵衛は私に欲情しているのですか?」

「そ、そんな事をするか! 儂はせんが、つまりな……ふうむ、何というか……そのな、お主のような美しい女性に対し、男は肉体的に繋がらんとする気持ちがあってだな、それ故の……」

「ああ、セックスのことですね」

(知っとるのか!)

 藤兵衛は気が抜けたようにがくりと肩を落とした。シャーロットはそんな彼を見て不思議そうに首を傾げた。

「お祖父様の本で読んだことがあります。男女が違いつがいに交わり、鞭だの蝋燭だの木馬だのを使って遊ぶだとか。私は経験したことがありませんが、どんなものか興味はあります。一度部屋に帰って試してみませんか、藤兵衛? なんでしたらレイにも手伝ってもらって……」

「そういうのは愛する男とだけやるものじゃ! 戯言を言うでない!」

 話を打ち切りつかつかと歩き出す藤兵衛。不服そうに後ろを追いかけるシャーロット。やがて2人は街外れに差し掛かっていた。通りの明るい雰囲気は徐々に消え去り、薄暗くじめっとした影が差し込めていた。道の端には数名の人が屯していた。見ると皆揃って体の各所を欠損しており、哀れを誘う表情で通行人の顔を覗き込んでいた。彼らが手を差し出し何かを言おうとする前に、藤兵衛はきっと彼らを睨み付け、彼女の手を取ってその場を去った。

「びっくりしました。物乞いの方でしょうか? 皆様お怪我をなさっておりますよ。少し差し上げた方がよろしいのでは?」

「ふん。担保も無く金を渡すなど言語道断よ。連中は傷痍軍人というやつじゃ。この国は戦士の国。戦えぬ者に仕事はない。だが、それにしても……多すぎるの。儂の知らぬ内に、この国は何処へ向かっておるのじゃ?」

 独り言のように呟きながら、しつこく纏わり付く物乞いをシッシッと追い払う藤兵衛。シャーロットはその間ずっと、何処か腑に落ちぬ表情をし見せていた。

「ところで、藤兵衛。今私たちはどこへ向かっているのですか? 陽もだいぶ暮れてきましたけど」

「先ずは力車を何とかせねばのう。早めに調達せねば虫に殺されかねんわ。馴染みの店がある故、そこに行ってみるとするか」

 暮れていく街の明かりの中に、2人の影はゆっくりと落ちていった。


 街外れ、一軒の工場。

 外の資材置き場には沢山の木材が無造作に置いてあった。乱雑な足場を掻き分け、藤兵衛は薄汚れた扉を軽く叩いてからそっと開いた。

「ごめん下され。今、大丈夫ですかの」

「あんだ? 俺は忙しいんでね。お使いなら他を当たってくれるか」

 白髪のよく肥えた初老の男がむくりと起き上がり、藤兵衛の方を見もせずにしゃがれた声で吐き捨てた。だが藤兵衛は一切動じることなく、細い目を垂らし表面的な笑みを貼り付けて更に続けた。

「儂の名前は南海屋藤吉と申しましてな、オウリュウ国で商売をしている者じゃ。実は金蛇屋藤兵衛殿から紹介されて来たんじゃがの」

「ん? あの銭ゲバか。なら話だけは聞いてやんねえとな」

 どかりとその場に腰を下ろし、酒臭い息で老人は言った。藤兵衛は内心で一拍だけ間をとりつつも、静かに腰を下ろしキセルに火を付けた。

「端的に言おう。力車が欲しいのじゃ。旅で使う故、丈夫なものが必要でな。在庫はないじゃろうか」

「はっ。何かと思えば力車か。あるにはあるが、お前さんの態度が気に入らんな。若いくせに偉そうによ。欲しいなら態度ってもんがあるだろう」

「それはすまんな。この通り謝罪しようぞ。どうか頼む。金なら払う故、大至急欲しいのじゃ。何とかしてくれぬか」

 藤兵衛は迷うことなくその場で土下座した。この男の中では、交渉において恥や外聞などは全く関係しない。必要とあらば頭など幾らでも下げるし、如何なる手でも使う。だが老人は赤い顔に薄笑いを浮かべ、見下すように彼の頭に足を乗せた。

「んー。どうしようかなあ。俺は誠意でしか動かんからなあ。そうだなあ、若い女の1人でも連れてくれば、言うことを聞いてやらなくもないぞ」

(こ、此奴め! 普段ペコついてるからと油断しておったが、こうまで酒癖の悪い男であったか! 後で見ておれよ!)

 藤兵衛の内心が怒りで膨れ上がったその時、工房のドアが勢いよく開いた。

「どうしたのですか、藤兵衛? 私に何かお手伝い出来ることはありませんか?」

 一瞬時間が止まる室内。シャーロットの美しさに釘付けとなった老人は、藤兵衛に近寄り耳元で訝しげに尋ねた。

「(おい小僧! なんだこのとんでもない美人は? まさかお前の女か?)」

 不審と下心でギラつき始める老人の瞳。だが藤兵衛の垂れた細い目もまた、またとない機と捉えて怪しく輝いた。

「(実はの、これは内密の案件なのじゃが、この御方は金蛇屋藤兵衛殿の愛娼での。彼女を隠密裏に帝都へお送りするのが、儂に課された使命なのじゃ。それでどうしてもと言われ、バイメン一の職人と噂の貴様に頼ったのじゃが、その調子じゃと無理かのう。仕方ない、他を当たるとするか。藤兵衛殿にはよく伝えておく故な)」

「(そ、それは困る! 奴の機嫌を損ねたら東大陸で商売はできん! 現にうちと取引のある材木卸売の鈴乃屋も、奴にとんでもない目に合わされたって噂だ。……分かった! すぐに一台調達するから、お願いだから奴には内密に頼む! お妾さんの件もだ! この通りだ!)」

 一転して慌てふためき顔を青くし、遂には逆に土下座をしながら老人は言った。その肩にぽんと手を置き、邪悪な微笑みを浮かべる藤兵衛。

「(勿論じゃて。先程までの無礼もここだけの話にしておこうぞ。……無論、料金は幾らか勉強してもらわんとのう。グワーハッハッハッハッ!!)」

 不思議そうに見つめるシャーロットを背に、藤兵衛は心底気持ちよさそうに大声で笑い続けた。


 バイメン繁華街。

 陽もすっかり暮れ、辺りは闇に包まれていた。立ち並ぶ食事処の灯りのみが、ぼんやりと旅人たちを照らしていた。

「さて、儂はどこかで一杯やってから帰るが、お主はどうするのじゃ?」

「私も飲みます」

 シャーロットは間髪入れずに即答した。藤兵衛は悠然とキセルをふかしながら、当然と言わんばかりに楽しそうに笑った。

「ガッハッハ! まあそう言うと思ったわい。今日一日でいい加減、儂もお主に慣れてきたわ。酒は飲めるのかの?」

「飲んだことはあります。普段はレイに止められていますが、私はぶどう酒が好きです。甘くてとても美味しいです!」

「ホッホッホ。宜しい宜しい。儂も大好きじゃて。しかし……正直ここセイリュウのぶどう酒はいまいちじゃぞ。悪い事は言わぬから、他の酒にしておけい。にしても、あの虫めは過保護過ぎるのう。いい大人に酒も自由に飲ませぬとは、到底信じ難いわい」

「ふふ。レイを悪く言ってはいけませんよ。私のためを思ってのことですから。でも本当に楽しみですね。お酒なんてもう50年近く飲んでいませんから」

 さらっと述べたシャーロットの言葉を、藤兵衛は上手く飲み込む事が出来ず、暫しの間だけ顎に手を置いて考え込んだ。

「……シャーロットよ。今まで聞く機会も無かったが……その……失礼を承知で尋ねるが……お主は一体幾つなのじゃ?」

「私はだいたい300歳です。詳しくは知りませんが、お兄様がそう仰っておられましたから」

「(さ、300じゃと!? 儂の4倍とな!)……これはたまげたのう。今後は敬語を使わねばなるまいて」

「ふふ。そんなのは不要ですよ。私たち神々の一族は、20年に一度しか歳をとりません。たぶん。なので私は15歳です。おそらく。藤兵衛やレイより歳下です。若いのです。きっとそうです。私はぴちぴちなのです」

(む、むう。意外と気にしてるようじゃの……)

「あ、見てください! あのお店がよさそうです。『お食事処 さいちゃん』と書かれています。誇り高きハイドウォーク家の勘が、あそこを指し示しています。すぐに行きましょう!」

「ま、待つのじゃ! 儂の知ってる店はここでは……ええい、仕方あるまい! 分かったから落ち着いてくれい!」

 言い終わる前に走り出したシャーロット。慌ててその後を追う藤兵衛。そこは、どこにでもあるような赤い煉瓦造りの古民家だった。作りはなかなかに古く、屋根や壁も所々欠けてはいたが、店前は綺麗に清掃され清潔な印象を与えていた。

「(ふむ。まあ問題なさそうじゃの)ごめん下され。空いておりますかの?」

 室内は狭いが綺麗に整い、丹念に掃除されているのが見て取れた。店の品々には年季こそ感じられるが、それも店の一つの魅力として映った。藤兵衛たち以外に客はおらず、6席ばかりのカウンターの1番奥にシャーロットが既に腰掛けていた。

「いらっしゃいませ。可愛いお嬢さんのお連れの方ですか?」

 妙齢の女将が藤兵衛に気付くと、穏やかに声をかけた。だがその音は、優しく落ち着いた声は、彼の頭上の遥か上を通過していった。しっとりと長い赤髪をお団子に結い、吊り上がったきつめの目を和らげる泣きぼくろ、すらりと通った鼻に薄く伸びる紅色の唇。そして何より、優しげで人を包み込むような雰囲気。トクン、と彼の心臓が一際高く音を鳴らし、時が止まったような感覚に襲われた。

(……似ておる)

 暫しの間、藤兵衛は女将をぼんやりと眺めていた。その間、水面のような沈黙が店内を支配していた。

「何をしてるのですか、藤兵衛? 早くお座りなさい」

「む? お、おお。すまんの。少々ぼうっとしてしもうたわい。旅の疲れが出たのかのう」

 シャーロットが不思議そうに藤兵衛を急かすと、彼は我に帰ってぎこちない作り笑いを浮かべた。女将は穏やかに微笑みながら、彼のために席をそっと引いた。

「旅の方ですね。長旅お疲れ様でした。積もるお話もありますでしょうが、まずは一杯いかがですか?」

「私はぶどう酒が好きです!」

「こ、これ! 先程言うたであろうが!」

 反射的にシャーロットが嬉しそうに叫んだ。藤兵衛が言いにくそうに言葉を挟もうとした時、女将が嬉しそうに微笑んだ。

「あら、嬉しいわね。実はうちの売りは果実酒なの。バイメンじゃ珍しいけどね。旦那さんの方は何になさるの?」

「旦那の訳があるか! 単なる旅の同行者じゃて。しかしここセイリュウ国で果物を売りにするとは、かなりの冒険よの。試しに儂にも一杯くれい。不味かったら金は払わんぞ」

「あら、お詳しいのね。でも大丈夫よ。確かにこの国の果実酒は豚の内臓みたいな味がするけど、うちは秘密の販路があるの。試しに飲んでみて」

 そう言うと女将は、カウンターの下から小ぶりの樽を取り出すと、中から液体を丁寧にグラスに注ぎ始めた。美しい紫の輝きと、そこから放たれる芳しい匂いに当てられたのか、藤兵衛はずっと彼女の姿をぼうっと見つめていた。

「ほら、濁りが殆どなくて色が鮮やかでしょ? うちのは混ぜ物もなんにもしてないし、新鮮なぶどうしか使ってないからこんな綺麗な色なんだよ。どうせお客もいないし、私も飲んじゃおうかしら」

 女将が楽しそうに3つに注ぎ分けると、シャーロットが嬉々としてグラスを持ち上げ、美しく微笑みながら叫んだ。

「それでは乾杯しましょう! 旅の出会いに乾杯です!」

「「乾杯!」」

 ぐびりとぶどう酒を同時に飲み込む3人。一口入れただけで、太陽をたっぷり浴びた完熟のぶどうの香りが口中に広がり、鼻からすっとほのかに抜けていった。喉の奥から胃の中までが暖かな満足感が流れ、少し遅れて体中がほんのりと熱くなった。藤兵衛は驚きと感心を顔にありありと浮かべ、グラスを回して酒を注視した。

「ほう。確かにお主の言う通り、実に上質なぶどう酒じゃ。本場の西大陸でもここまでの品はそう在らぬ。儂の負けじゃて、女将。もう一杯貰おうではないか」

 ごくごくと一気に飲み干し、満足そうな表情で藤兵衛は告げた。彼女は嬉しそうに快活に笑い、藤兵衛に酌をした。

「あいよ。そこまで褒めてくれると嬉しいわね。お料理はおまかせでいいかしら」

「ああ、何でもよいわ。お主に任せるとしよう。嫌いなものがあれば言えい、シャーロットよ」

「ふああい。なんでもいいですう~」

(も、もう出来上がっておる!)

 焦点の定まらぬ目をしたシャーロットは、同じく定まらぬ細い腕でグラスを一気に空にした。やがてトントントンと、厨房からは小気味良い音が聞こえて来た。しかし藤兵衛には、それに耳を澄ます余裕はなかった。

「……で、そのときレイが言ったんです~。『お嬢様は世界一美しくて聡明だ』って。私びっくりしちゃって、『レイの方が美人ですよ』って。そしたらレイが顔真っ赤にして……ちょっと聞いていますか、藤兵衛?」

「ああ、聞いておる聞いておる。虫が臭くて堪らんという話じゃろう(何たる厄介な絡み酒じゃ!)」

「嘘です! 聞いてません! 藤兵衛が私を無視します! レイ助けて~!」

 わんわんと子犬のように泣き出すシャーロット。頭を抱えつつ、更にグラスに酒を注ぐ藤兵衛。それを奪い取り、樽ごと飲み始めるシャーロット。

「美味しい~! 楽し~い! 今日は本当にありがとうございます、藤兵衛。私は藤兵衛のこと大好き~」

 今度は満面の笑みに変わり、シャーロットは突然藤兵衛に抱き付いた。諦めて微動だにしない彼の元に、やがて女将が微笑みながら熱々の料理を運んで来た。

「あらあら、仲がよろしいこと。お料理ができたわよ。右から順に、山うどとクルミのサラダ、鹿肉のロースト、からす豆とミルク魚のシチュー。この3品が今日のおすすめよ。温かいうちに召し上がれ」

 ぷんと柔らかな刺激が鼻腔を刺激した。2人は我慢出来ずに、争うように料理を漁り始めた。

「このサラダすごく美味しいです! クルミのソースがお口で蕩けます。シチューもなんて優しい味! お魚なんてふわふわですよ。ああ、なんてお酒に合うんでしょう」

「こちらの鹿も実に美味いの。程よい歯ごたえがあって、血がしたたるほどに新鮮じゃ。お主は肉は好きではないじゃろう、シャーロット? 仕方ないのう。儂が代わりに食らい尽くしてやろうぞ。グワッハッハ!」

「何を言っているんですか! 食べるに決まってます! 鹿さんの鎮魂のため、好き嫌いせずに食べます。……ん! 美味しい! ぜんぜん固くなくて本当に美味しいです。……ちょっと、藤兵衛。なぜ貴方だけ1枚多く食べるのですか!」

 わいわいと騒がしい食卓。暖かく優しい団欒。女将はグラスを片手に、その様子を目を細めて眺めていた。

「いいわね。それだけ喜んでもらえると冥利に尽きるわ。お客さんたちはどこから?」

「はい。私はシャーロットです。西大陸から来ました。こちらは私の大切な仲間の一人、藤兵衛です。女将さんはこの辺りの人ですか?」

「ええ。私は彩花よ。生まれも育ちもここバイメン。よろしくね、シャーロットさんに、藤兵衛さん」

 にこにこと優しく微笑みながら彩花は言った。藤兵衛は彼女とまともに目を合わせようとせず、何事かを含むようにどこか遠くを見つめるだけだった。シャーロットはそんな彼とは裏腹に、嬉しそうに店の看板を指差した。

「あ、もしかしてお名前が彩花さんだから、お店も『さいちゃん』なんですね。貴女のあだ名なのですか?」

「そうよ。昔からみんながそう呼ぶから。なんだか子どもみたいだけど、呼びやすくて気に入ってるわ」

「可愛いあだ名ですね! ねえ、藤兵衛。私もあだ名で呼ばれたいです。これからは私のことを、気軽にシャルちゃんと呼んでください」

「う、うむ。しかしのう、いきなりそんな気安くは中々……」

「呼んでくれるのですね! 嬉しいです! もし呼ばなかったら……レイ共々焼き尽くしますからね」

(ほ、本気の眼じゃ! しかし憐れは何の咎もなき虫よ……)

「ふふ。シャルちゃんは本当に可愛いわね。藤兵衛さん、男だったらちゃんと彼女を守らなきゃね」

 いたずらっぽく笑う彩花。バツが悪そうにそっぽを向く藤兵衛。その時、店の裏口のドアをノックする乱暴な音が店中に響いた。

「あら、誰かしら? ちょっとお二人で好きにやっててちょうだい」

 早足で裏口に向かう彩花。ふうと大きくため息をつく藤兵衛に、シャーロットは不意に真顔になり、大きな美しい眼を真っ直ぐ彼の瞳に向けた。

「……正直に言いなさい、藤兵衛。貴方はああいう女性が好きなのですか?」

「!!」

 不意を突かれ思わず咳き込む藤兵衛に、シャーロットは身体こそ酔ってふらつきながらも、極めて真剣な口調を崩さなかった。

「ど、どうしてそうなるのじゃ。儂は別に……」

「私を舐めてはいけません。私を誰とお思いですか? さいちゃんを見る貴方の目には、何やら特別な思いを感じます」

「気のせいじゃろうて。ほれ、お主も大概酔うておるからのう」

「……もし言わぬなら、術で無理矢理吐かせますよ。覚悟なさい、藤兵衛」

 そう言い放つシャーロットの背の辺りに、突如として巨大な術式が巻き起こった。藤兵衛はぞくりと背筋を凍らせ反り返ったが、彼女の目の奥の意思が本気であることを確認すると、やがて諦めたようにキセルを火を付け、煙を吐き出しながら短く告げた。

「……昔の知り合いによく似ておる。それだけじゃよ」

 シャーロットはその言葉に納得したのかしていないのか、無言でグラスに口を付けると、定まらぬ視線を卓上に下げて、急にしんみりとした声に変わった。

「ねえ、藤兵衛。貴方は……人を愛したことがありますか?」

「……無いと言うたら嘘になる。だが、もうその女はこの世におらん。遠い昔の、今の儂からすれば神話の如き遥か昔の話じゃよ」

「私には、“それ”がどういうことか分かりません」

 ぽつり、とシャーロットは告げた。若干の沈黙、続く言葉を待つ為の僅かの間も、藤兵衛は悠然と煙を吐き出しつつ、静かに彼女の話に耳を傾けた。

「私は、いろんなものが好きです。自然も、生き物も、絵画も、もちろん貴方もレイもです。しかし、どうしても人を愛するということ、その意味が理解できません。この300年間、一度も考えたことすらありませんでした。けれど最近になって、この旅を始めてから、ずっと私は愛について考えています」

「……」

「そうして考えていると、自分が空っぽの置物のように思えてしまいます。まるで私が、この世に存在している意味がないような、そんな気持ちに。私の言いたいことを分かってくれますか、藤兵衛?」

「分かるような気はするわい。じゃがの、シャーロッ……ではなく、シャルよ。何かを得るということは、その裏にあるものを失うことと同意なのじゃ。現に儂は失った。人を愛した見返りに、莫大な富と引き換えに、愛する者を全て失ったのじゃ。そしてその原因は……間違いなく儂にある。儂の歩んできた道の後ろには、夥しい量の血と肉が埋まっておる。それが何かを得るということじゃぞ」

 しんと更に静まり返る室内。暫しの雄弁な沈黙の後、シャーロットは意を決したように立ち上がり、美しい瞳を爛々と輝かせながらはっきりと告げた。

「それでも、例えそうだとしても……私は愛したいです。人を愛してみたいのです」

「……そうじゃな。お主のように真っ直ぐ生きられれば、見える風景はまるで違うのじゃろう。偏屈で偏狭な老人の戯言じゃった。忘れよ。……ちと余計なことを言い過ぎたわい。儂は厠へ行くぞ」

 すっと席を立つ藤兵衛。項垂れたままのシャーロット。風が吹いていた。秋を告げる肌寒い風が、2人の心の中にまで。


(……しかし、本当に似ておる)

 手を拭きながら、しみじみと藤兵衛は思った。瓜二つといっても過言ではなかった。少なくとも藤兵衛の記憶の中にある人物は、彼女に極めてよく似た姿をしていた。かつての暖かな記憶を無理矢理振り払うように、彼は頭を掻き乱しながら店内へと戻っていった。

「(考えたところで、全てはせんなきこと。あれはもう終わった事じゃ。さて、シャルの話を聞いてやるとするかの。儂はまだ、この旅の目的をはっきり聞いてはおらぬ。奴が酔っておるこの機に聞き出すが吉じゃな)いやあ、よう出たわい。それでな、シャルや。ちと聞きたいのはの……」

「ZZZ……」

(こ、この女もう寝ておる!)

「ふふ。あなたが席を外してすぐに寝ちゃったみたい。一応お布団掛けといたわよ」

 彩花が厨房の片付けをしながら、こちらを向いて穏やかに微笑んだ。藤兵衛はやや不自然に目を逸らすと、グラスの底に溜まったぶどう酒を一気に喉へ流し込んだ。

「気遣いすまぬな。して、用は終わったのかの?」

「……ええ。大したことじゃないもの。それより、もう少し飲むかしら? 秘蔵の蜂蜜酒があるんだけど」

「それを早く言わぬか。ぶどう酒はほとんどシャルに飲まれてしもうたからの。遠慮なく頂く故、幾らでも持って参れ」

「ふふ、偉そうな言い方。でもそういうの嫌いじゃないわよ。ちょっと待っててね」

 彩花が軽い足取りで奥に引っ込むと、藤兵衛は少しだけ目を閉じ、自らの内に意識を向けた。遠い記憶の果て、絵画の中の憧憬にも近い、飾り付けられた奈落に。漆黒と後悔が螺旋のように交差する、血肉渦巻く輪廻の果てに。

(あの時……何故儂は出かけてしもうのか。何故あの時……あいつの側に最後までおらなんだか)

 何千、何万回と繰り返した質問。答えなど出ない、出るはずもない、無為でしかない行動。だがそんな一銭にもならない愚行をしてしまう程に、今の藤兵衛の内心は揺らいでいた。酒のせいだろうか、“彼女”によく似た女将のせいだろうか、それとも……自分の肩にもたれかかり気持ちよさそうに眠る、美しい魔女のせいだろうか。

「お待たせ。じゃあ一杯やりましょうか」

 その時、彩花がトンと後ろから藤兵衛の肩を叩いた。不意を突かれビクッと我に帰った彼に、彼女は可笑しそうに手を叩いて笑った。

「あれ、藤兵衛さんも眠いのかしら? お酒はやめとこうか?」

「戯言を言うでないわ。儂は蟒蛇じゃて。ほれ、酌をせい」

 グラスをくいと持ち上げた藤兵衛に、微笑みながらそれに従う彩花。とくとくと注がれる心地よい酒の音が店中に響いた。

「……ふう。これも美味いのう。良き酒じゃて。こんなに美味い店があるとは知らんかったわい」

「あら? バイメンに来たことがあるの? こんな何もない街なんて、若い人は面白くないでしょう?」

「直近では7年前かの。今とは大分様相が変わっておるわ。やけに街の雰囲気が暗く、活気も薄いのう。やはり秋津との戦乱の影響か?」

 藤兵衛の言葉に、一気に表情を暗くした彩花。彼女は薄い唇に僅かにグラスを付け、氷面を触るように静かに酒を口に運んだ。

「5年前の戦。あれから街は大きく変わってしまったわ。たくさんの命が失われ、人々は誇りを失った。多くの戦士たちは目先の金に釣られ、非合法の組織に流れて行き、今のこの国は存続すら怪しいの。ほんと……戦士の国が聞いて呆れるわ」

「元首はサンジ族であろう? タカが健在なら下手なことにはならんと思うがのう」

「よくご存知ね。確かに頼りはサンジ族だけ。でもタカ様はご高齢で、頼りのホムラ様はこの国を立て直そうと毎日飛び回ってるわ。でもね、そんな忙しいあの方たちの隙を突く連中がいてね」

「……」

「今のご時世、どんなに確固たる誇りであっても、現実の金には敵わないらしいわ。それが誇りに生きたこの国の出した結論。……皮肉なものね。今や西のビャッコ国の巨大な資本が、この国を実質的に支配していると言っても過言じゃないわ。あの時、最初からオウリュウ国の支援を受け入れていれば、こんなことにはならなかったのに」

(成る程の。5年前に支払う予定じゃった戦後復興の金を、むべもなく拒否したのはそういう理由か。どうにもきな臭いと感じておったが、やはりビャッコ国が絡んでおったか)

「……やめましょう、こんな話。こっちから言い出しておいてなんだけど、せっかくの酒が不味くなるわ」

 吐き捨てるように言い放つと、一気に酒を空にする彩花。難しい顔で深く考え込みながら、対照的にゆっくりとグラスを傾ける藤兵衛。彼女はその眉間に寄った皺をいきなりちょんと触り、驚く彼に向けていたずらっぽく微笑むと、頬を僅かに赤く染めながら顔を覗き込んで来た。

「ところでさ、聞こえちゃったんだけど、私があなたの知り合いに似てるんだって?」

「……ああ、似ておる。儂が生涯で唯一愛した女性に、お主はよう似ておるわい」

 視線を真っ直ぐ合わせ、藤兵衛ははっきりと言い切った。驚きを隠せずはっと口を開けた彩花だったが、その細い目の中には慈愛の光が確かに宿り、彼に向けて一心に注がれていた。

「なんか……そんなこと久々に言われたわ。若いのにお上手ね。誰にでも言ってるんでしょうけど、嬉しいわ」

「グワッハッハッハ! どう捉えて貰っても構わぬわ。この移ろい行く世に於いて、真実など無数に存在する偏見の総和に過ぎぬ。じゃが、儂の心は儂だけが知っておるわ」

「ふふ。ありがとう。本当に嬉しいわ。お酒が入ってなかったらもっと嬉しかったけど」

「フオッホッホッホッホッホ! 確かにそお主の言う通りじゃな。ちと飲み過ぎたようじゃわい。そろそろお暇するかの。おい、シャルや。起きぬか……そ、それは松明ではないわ! 目を覚まさぬか!」

 ぐらぐらと激しく揺すっても微動だにしないシャーロットに、遂に藤兵衛は諦めてその背におぶった。ため息混じりにキセルをふかす彼に、彩花はくすくすと楽しそうに笑っていた。

「仕方ないのう。これでも此奴は儂の主人じゃからな。どれ、彩花。これで足りるかの?」

「え?! こんなにもらえないわ! 今お釣りを持ってくるから……」

 懐の一万銭札を無造作に机に置く藤兵衛に、彩花は慌てて首を振って突き返した。だが彼は口角を曲げて皮肉に笑いつつ、心底美味そうに煙を吐き出した。

「儂に恥をかかせるでない。お主のもてなし、料理や酒の質、この店の全てに儂らは心底満足したわ。これはその礼じゃ。もしそれでも多いと言うのならば、明日の肴を一品増やしてくれれば十分じゃて」

「え? ってことは……明日も来てくれるの?」

「迷惑でなければの。明日は一人でこっそり来るわい。其方こそよければ、またゆっくり飲もうではないか」

「……ええ。お待ちしてますね。楽しみにしてるわ」

 藤兵衛は彩花の目を正面から見て、何かを告げようと微かに静止した。その言葉は、彼女の方も確かに持ち合わせる類の感情の発露であった。時間が濃縮され、沸き起こる温度。そして藤兵衛が一歩前に進もうとしたその時!

「……むにゃむにゃ。レイが丸焼きに……ウェルダンになってしまったのですか……」

 2人は同時に我に帰り顔を見合わせ、すぐに楽しそうに笑い合った。藤兵衛は頭を掻きながら背中のシャーロットを優しく撫で、無言で手を上げてその場を立ち去った。彩花も何も言わず、ただ深く礼をして二人を見送った。緩やかな時の流れがボンスンの通りを包んでいた。


 外はすっかり夜が更けていた。藤兵衛は足元をふらつかせながら、複雑な気分で宿へ向かっていた。

(儂は……一体何をしておるのじゃろうな?)

 何となく笑いたくなり、藤兵衛は辺りを気にする事もなく、大声で叫ぶように笑った。その声に目を覚ましたのか、背中のシャーロットがもぞもぞと動いた。

「おお、すまんなシャルよ。起こしてもうたか。実に気分が良くての。どうか堪忍してくれい」

「……お祖父様。お父様、お母様……お兄様」

 寝惚けてぽつりと呟いたシャーロットの頭を、藤兵衛は左手でそっと優しく撫でた。

(お主も……様々なものを抱えておるのじゃな、シャル。ゆっくり話が出来て本当によかったわい。今日はよく眠れそうじゃな)

 店から宿までは案外に近く、ゆっくり歩いても10分程度だった。千鳥足で玄関を潜ろうとする藤兵衛の目に入ったものは、般若の形相でこちらを睨みつけるレイの姿だった。筋肉に包まれた太い腕に血管を浮き立たせ、美しい顔にも同じく巨大な血管を一筋。即座に彼の全身を駆け抜ける危機感、脳内を流れ続ける走馬灯。

「……てめえ。まさかとは思ったが、お嬢様をこんな遅くまで連れ出すとはな。言い訳はいらねえ。死に方だけ選ばせてやる」

「ち、違う! 誤解じゃ! これはその……おい、シャル! 起きるのじゃ! 早く虫に説明してくれい!」

「ああ!? “シャル”だあ?! だまって聞いてりゃてめえ……ほんとうにチョーシくれてんな!」

「違う! 違うんじゃ! 儂はただ……」

「問答無用! 死にやがれ!!」

「グェポォォォォォオ!!!」

 藤兵衛の絶叫が、静かなる夜のバイメンの街中に響き渡った。だがそれは、明日の激闘に繋がる狼煙に過ぎなかった。


 神代歴1278年11月某日。

 金蛇屋藤兵衛と愉快な仲間たちの絢爛豪華たる大冒険。その終着点は不自然なほどあっさりと、彼らの胸元に近付きつつあった。

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