第11話「金色の蛇」

 神代歴1278年11月某日。

 今宵のバイメンの空を支配するは、狂いそうに輝く満月。月は人々を飲み込まんが如く、天より猛き力を放ち続けていた。その光に当てられたのか、狂奔する人々の感情は揺れ動いていた。

 ここはバイメン北東の山中、BM工場と呼ばれる悪意の枢軸。密林にカモフラージュされた巨大な工場からは、今日も昼夜を問わず怒声と罵声が鳴り響いていた。

「てめえら手止まってんぞ! この1秒でいくら損すると思ってやがんだ! わかったらさっさと働け!」

「……はい。申し訳……ありませんでした」

 商人らしき若い男に顎で使われるは、かつて東大陸に名を轟かせた屈強な戦士たち。麻薬の原材料であるタイノアサを栽培し、乾燥させて粉末状に加工し、薬品と混ぜ合わせて瓶に詰める。一見すると単純に見えるも、その毒性から極めて危険の高い作業を長時間行うことで、彼らの姿は皆一様に疲弊しきっていた。この巨大な資本が支配する工場の中では、力や誇りなど何の意味も持たない。あるのはただ使うもの、使われるもの。得るもの、失うもの。そして、魔性の白い粉。


 まだ驚きの冷めやらぬ2人を付き従えて、藤兵衛は高らかに笑いながら工場内を練り歩いていた。隣にはややピンクがかった短い黒髪に、細い眼鏡をかけた痩身の女性が1人付き添っていた。彼は悠然とキセルをふかしながら、工場の責任者らしきでっぷりと肥えた堀の深い男と心底愉快そうに話していた。

「ほう。では生産効率はまずまずということじゃな。具体的な数値はあるのかの?」

「は。平均すると1日辺り1kgといったところです。末端価格で300万銭程度ですが、十分な量であるかと」

 藤兵衛は口角の笑みを絶やさぬまま、ちらりと横の女性に視線をやった。彼女は右手を眼鏡のヘリに当て、無表情のまま小さく頷くと、凛とした口調で述べた。

「工場長、嘘はいけません。あなた方の“薬剤”は混ぜ物が多く、評判も芳しくない。現実には100万もいかないでしょう。最近はそれでも売れず、かなりお困りと聞いておりますよ」

「そ、その通りです。さすがは金蛇屋の大幹部殿、情報が極めて的確ですな。そうです! 我々はこの苦境を乗り越えるために、どうしてもあなた方のお力が必要なのです」

 あっさりバレた欺瞞を無理矢理誤魔化すように、工場長はおどけて見えるほど大袈裟に語りかけた。だが彼女は全くそれを無視し、手に持った大量の帳簿を冷静に見つめていた。その一方で藤兵衛は、見るからに嘘臭く、実にわざとらしい笑みを浮かべていた。

「まあ細かい話などどうでもよいではないか。のう、工場長殿。先ずは工場中を視察させてもらう故、しばし待って頂けますかのう。業務提携の話はそれからという事で」

「はは! もちろんでございます。お好きにご覧ください。お供の方もどうぞどうぞ」

 多分に芝居がかった態度のまま、工場長は大きく手を広げ彼らを招き入れた。藤兵衛は満足そうに頷くと、後方に付き従うレイたちに視線を送った。

「そういう訳じゃ。貴様らも好きに見て回るとよい。おい、工場長。此奴らは金蛇屋の品質管理担当じゃ。隅々まで調査させてもらう故、貴様の権限で何とか致すようにの 」

「そうなのですか! こんなお若く美しい女性でも自立して働いていらっしゃるとは、さすがはオウリュウ国一、いや東大陸一の大企業ですな。我ら黒龍屋も学ばねばなりません。もちろんお好きに見て回ってください」

 藤兵衛が無言でキセルを咥えると、サッと隣の女性が当たり前のように、無表情のまま機械的な動きで火をつけた。煙を悠然と吐き出しながら、彼はレイの耳元でぼそりと告げた。

「と、いう訳じゃ。道は開いたぞ。後はどうとでもせい」

「あんま言いたくねえがよ……マジ助かったぜ。あとちょっとでこいつらを皆殺しにすっとこだった。だがよ、てめえはいったいなにしてんだ! まさか麻薬の売買に手を出そうって……」

 レイが勢いよく叫ぼうとした刹那、藤兵衛が咄嗟に手で口を塞いだ。工場内の轟音に掻き消されたことを確認し、彼はシッと口に手をやった。

「(この阿呆が! 聞こえたらどうする! 心配するでない。儂は儂じゃ。そこだけは信じよ。それより……“アレ”はどうしたのじゃ?)」

 後方で呆けたようにそっぽを向いているシャーロットを指差し、藤兵衛は困惑を極めたといった様子で耳打ちした。レイは心底面倒そうに頭を掻き毟り、彼に耳打ち返した。

「(てめえのせいに決まってんだろ! 朝からずっとあのチョーシだ! こっちは心底まいってんだぞ! てめえ責任とってなんとかしやがれ!)」

「(な、何故儂がそんなことを!? そもそも事の発端は奴であろうが!)」

「(もうそういう次元じゃねえんだ! そろそろお嬢様を理解しやがれ! 一度お嬢様が“ああ”なったらもうムリだ! 原因作ったてめえが頭下げれば、ちったあ状況もよくなんだろうが!)」

「……いいのです、レイ。私が間違っていたのです。彼には彼の生き方があるようですし、私たちは自分だけでなんとかしましょう。……化け物らしく、日陰のみで生きていきましょう」

 そっぽを向いたままぶつぶつと呟くシャーロット、深々と頭を抱えるレイ、困惑を更に深める藤兵衛。

「(とにかくだ、このままじゃこれからの作戦に影響しちまう。なんでもいいから、少しでもお嬢様の機嫌をなんとかしろ! でねえとこの場でぶち殺すぞ!)」

「(な、何というものの言い方じゃ! これだから野蛮人は……ええい、もうやるしかないわ!)シ、シャルや。今朝はのう、その……」

「気安く呼ばないで下さい」

「グェポ!!」

 びしりと言い放ったシャーロット。今度は藤兵衛が頭を抱え込んだが、背後からのレイの蹴りにより、彼は何とか再度根気を振り絞った。

「そ、そういう言い方はよくないぞい。折角の美人が台無しじゃて」

「私は化物ですから、お世辞を言われても嬉しくないです」

「あれは言葉の弾みという奴じゃ。ほ、ほれ、お主に習った術式じゃが、やっと5秒で発動できるようになったわ! これで一歩前進じゃの」

 藤兵衛は意識を集中し、右手の人差し指に力の渦を描いた。そして三角形の術式が宙に浮かんだその時、シャーロットの指から放たれた光の線が三角形を貫いた。行き場をなくした術式は、手元で鈍く光を放って小爆発を起こし、彼の前髪をじりと焼いた。

「な、何をするんじゃ! 折角の儂の術が台無しではないか!」

「……」

 慌てて叫ぶ藤兵衛を無視して、無言で歩き去ろうとするシャーロット。流石の彼も怒りで顔を真っ赤にし、両腕を組んでその場に立ち尽くすと、彼女の背に向けて低いダミ声で吐き捨てた。

「ふん! ならいいわ! もう貴様なぞ知らぬ! 勝手に野垂れ死ぬとよいわ! 儂らの旅もここで仕舞いじゃて!」

「……今までお世話になりました。行きますよ、レイ」

 ツカツカと足早に去るシャーロットに、レイは躊躇うことなく後に続きつつも、藤兵衛に向けてはっきりと目を見据えて叫んだ。

「おいクソ商人! てめえ……ちゃんと考えがあるんだろうな!」

「当たり前じゃ! 貴様のような緩い脳味噌ではないわ」

「なんだと!」

「ヒイッ!」

 振り上げたレイの拳に恐れ慄く藤兵衛だったが、いつまで経ってもその瞬間は訪れなかった。やがてレイは、彼が今迄見たことのない穏やかな笑顔を見せ、静かに、そして不敵に口角を上げた。

「……さっきのがどこまで本気か知らねえが、俺はてめえのことをほんの少しだけ、ゴキブリの額くれえだけは買ってる。ほんとにクソみてえな性格で、品性はゲロみてえに下劣だが、少なくとも……てめえは自分の言葉だけは曲げねえ野郎だ」

「ふん。貴様に何が分かる。儂は儂よ。それ以上でも以下でもないわ」

「ま、それもそうだな。てめえがクソ中のクソなのは百も承知だよ。ま、最後かもしれねえからな、いちおう言っとくぞ。今までの旅……わりと悪くなかったぜ。じゃあな」

 そう言い残すと、レイは駆け足でシャーロットの後を追った。藤兵衛は呆然と立ち尽くし、吸い終わったキセルの灰が音もなく地面に降った。

(ふん! 虫まで何を言い出すのじゃ! 低脳な下等生物の分際で……ええい、阿呆どもが!)

 藤兵衛は言い表せない気持ちを抑えきれず、その場で強く大きく一度足踏みをした。その時、すぐ後ろから眼鏡の女性が、全くの無表情のままのんびりとした口調で声をかけた。

「あーあ、またやっちゃった。いつまでたっても変わらないんですね。そんなんだからいい歳こいて独身なんですよ」

「いちいち煩い女じゃ! 貴様こそ全く変わらんの、サクラよ。才覚だけは人一倍じゃが、その生意気な性格が全てを台無しにしとるわ。そもそも桃蛇屋の看板をくれてやった儂に、何という口の聞き方じゃ!」

「私が頼んだ訳じゃありませんし。それにしても……あの娘かわいそう。いつもあなたはそうですね。身近な人であればあるほど、責任持って守るどころか、敢えて遠ざけようとする。あの人もきっと草葉の陰で泣いてますよ」

「ぐっ! 雪枝の話はやめぬか! いつまでもネチネチと、よくもまあ飽きぬものよ! さっさと仕事の話を進めい! まったくやり辛い女じゃて」

「そうですね。タカ様との約束もありますし、パパッと済ませましょう。あ、工場長さん。ここのラインの遅れについてはどうお考えですか?」

 苛つき叫ぶ藤兵衛を無視して、サクラは眼鏡の縁に手を当てて軽く上下させ、無表情のまま商談に戻った。口早に質問責めをする彼女に、藤兵衛は胡散臭い笑顔のまま耳だけはそちらに向けつつ、脳内で次なる策を練り続けていた。

(さて……概ね方策は決まったの。後はいつ動くか、問題はそれだけじゃな)

 藤兵衛は思い返していた。今日の午後、彩花の店を出てからの半日間を。


 時間を遡ること半日。正午過ぎ、バイメン中心街『部族評議会』。

 10メートルほどの大きな石造りの門の先に、二階建てのレンガ作りの建物があった。その巨大な門がなければ、誰もここがセイリュウの最高政治機関と思わないことだろう。無骨ながらも機能美を感じる雄大な建造物、その二階の応接間に若き姿の藤兵衛はいた。彼の細い目の奥には激しい怒りの色が浮かび、目の前に佇む屈強な体躯の老人を罵倒していた。

「では、貴様らは目の前で犯罪が行われていても、何一つ動くことが出来んという訳か! 部族長が聞いて呆れるのう!」

 老人は藤兵衛の暴言にも眉一つ動かさず、膝をポンポンと軽く叩くのみだった。身長は190cmにも達し、年齢のせいか些かの皺や弛みはあるものの、ひび割れた皮膚の下には屈強な筋肉が見て取れた。赤髪の丸坊主の頭の下には禿鷹の刺青が描かれ、こうして佇んでいるだけで歴戦の戦士の風格を醸し出していた。彼は穏やかな微笑みの中に油断ならぬ目の光を放ち、藤兵衛はその奥にある真実を必死で推し量っていた。

「この国において元首などなんの意味も持たない。金蛇屋藤兵衛よ、姿形は違えどお前なら知ってるだろう? 倅の言っていた通りだ。魂の色だけは相変わらず俗世の欲望でくすみきっておるの」

「ふん。儂のことはいいわ。セイリュウ国は19の部族の寄り合い国家。全ては合議で決定される。要するに……全部族の過半数が麻薬製造に関与している訳じゃな?」

「声が大きいぞ。全てはあの戦で傷付いた戦士のため……と言うことらしい。俺からすれば詭弁もいいところだが、他の連中、特にイッピン族が声高に叫んでいる。あいつらは先の戦での最高功労者、誰にも止めることはできん」

「では貴様もこの状況を見過ごす訳か、タカよ? 昔儂に偉そうに語った、部族の誇りはどうした? 戦士の矜持は何処へ行った?」

 長い長い沈黙。室内の警護兵が一斉に臨戦態勢を取るも、老人は肩の動きだけで彼らを押し留めた。鋭い視線が真正面からぶつかり合い、兵士たちが緊張に耐え切れず喉を枯らす中、やがてタカは明確なる決意を込めるように、ゆっくりと重苦しく口を開いた。

「……誇りだけでは飯は食えん。少くとも連中はそう考えている。俺では止められん。……なにかきっかけがあれば別だがな」

「成る程。金の面は儂に任せい。その上で契機さえあれば、貴様もこの件に関与できると言う訳じゃな?」

「……」

「沈黙は金、セイリュウの諺じゃな。委細承知じゃ。その“言葉“、ゆめゆめ忘れぬでないぞ。この儂が全力で機を作ってくれるわ。何かが起こるとしたら今晩じゃ。儂がこの国の道を切り開いてやろうぞ!」

 自信満々にキセルをふかしながら、藤兵衛は一切の揺れを見せずに堂々と言い放った。部族長タカは太い指で顎を触りながら、呆れ半分といった面持ちながらも、その目だけは歴戦の戦士たる威厳の光を帯びていた。

「お前の大言壮語は聞き飽きたよ。そして……易々と実現していく姿も見飽きた。一応だが兵は待機させる。善意の第三者による通報による、一応の義務としてな。たまたま息子が来ているので丁度いい。それで文句あるまい?」

「よかろう。では儂は行くぞ。時間が惜しい故な」

 バッと今にも走り出さんばかりに立ち上がった藤兵衛を、タカは背後から重厚な口調で押し留めた。

「待て。金蛇屋藤兵衛……一つだけ確認しておきたい。お前らは本当に、麻薬密売に関与していないのだな?」

「何を言い出すかと思えば戯けた事を。儂は人を使い、人に頼ってここまで登り詰めた男ぞ。人を壊す薬なぞ認めるはずがないわ。そんな事をしたら大損じゃ。儂は損だけは大嫌いなのじゃ」

「……噂がある。イッピン族の連中が、オウリュウ国の金蛇屋と手を組んだと。秋津国との件で敵視する者も多いが、お前は絶大な力を持つ大陸屈指の大商人だ。そんなお前が、膨大かつ綿密な金蛇屋一門の販路を使えば、いかなる物資でも瞬時に大陸の隅々にまで広められる。そんなことをされたら、この国だけでなくオウリュウ国も、いや東大陸は終わりだ。その意味が……お前には本当に分かっているか?」

 顔中に刻まれた皺を一層深くし、タカは警告とも恫喝とも取れる気迫を言葉に込めた。その威は瞬く間に部屋中に広がり、年若い戦士の中には腰を抜かす者すらあった。

 しかし藤兵衛は動じない。この男は如何なる揺さぶりにも動じることはない。

「ふん。老いぼれが鞭打ったところで儂には通じぬぞ。説明した通り、今の儂には現状は分からぬ。じゃが儂の目の黒い内は、金蛇屋で麻薬など絶対に取り扱わせぬ。これは絶対なる誓いじゃ」

「得意の詭弁か。今のお前が経営に関与していようがいなかろうが、我らには関係ないことだ。現実に物事は進行している。とにかく、お前が責任を持って止めさせろ。結果を以って証明するのだ」

「いつも通りじゃな。何の困難もないわ。せいぜい儂の無事を祈っておるがよいわ」

「お前の心配などした事はないし、する意味もない。今から金蛇屋バイメン支店に行くのだろう? サクラによろしく伝えておいてくれ。あいつにはいつも世話になっているからな」

 ふん、と一言だけ言い残し、藤兵衛はその場を走り去った。瞬く間に風のように消えていく影を眺めて、タカはほんの僅かだけ微笑みながら、大きく深く、臓腑を絞り出すようなため息をついた。


 場面は戻り、黒龍屋工場内事務所。

 全身を使って高笑いを浮かべる藤兵衛と、追従する工場長。そして無表情を貫くサクラ。

「ホッホッホ。ではこのスターローズとやらがあれば、新型麻薬は完成する訳じゃな。いやあ、まさか借金のカタに取り上げたゴミが、よもやこんな形で役に立つとはのう。偶然とは恐ろしいものじゃて」

「いえいえ、運もまた実力ですよ。もしかすると、そうやって値を吊り上げるおつもりですかな? その手には乗りませんぞ」

「これは一本取られましたな! さすがはビャッコ国を動かす黒龍屋の大幹部様じゃ。儂では手に負えませんわい。のう、サクラよ」

「……」

 完全に無視を決め込むサクラの尻を嬉しそうに見つめながら、藤兵衛はスターローズを掲げたままへらへらと薄笑いを浮かべていた。それを見た工場長は、表面的には媚びへつらいながら、内心ではいらやしくほくそ笑んだ。

(おいおい、なんだこりゃ。あの面倒な冷血女の上役が来るとは聞いていたが、ただの馬鹿な若造じゃねえか。こりゃあだいぶ値切れるな。ボスにいい報告ができそうだぜ)

「さて、お待たせしました。それでは商談といきましょう。スターローズ1株で1億銭が妥当かと存じます」

 冷徹なサクラの言葉に、うっと心の中で唸る工場長。その間も藤兵衛はただヘラヘラと笑っているだけだった。

(ちっ。的確な金額設定だ。分かってやがるな。出せなそうで出せる、ギリギリの地点を見事に突いてくる。流石はあの金蛇屋一門で、若くして最高幹部を任せられた女だ。桃蛇屋サクラ……つくづく面倒な女だぜ)

「黙っていては分かりません。速やかに返答を」

「さ、さすがにちと高過ぎはしませんか? こちらに現金はそこまでありません。もう少し勉強して頂くわけにはいきませんか、ねえ、藤吉様?」

 わざとらしい笑みを浮かべて、擦り寄るように工場長は話しかけた。藤兵衛は悠然とキセルをふかしながら、同じ類の微笑を浮かべて彼の肩を軽く叩いた。

「確かにそうじゃのう。工場長殿もお困りのようじゃ。何とかならんかのう、サクラや」

「いいえ。工場の規模、人員、品質から計算すれば、この金額は妥当かと思われます。」

「そこをなんとかお願いしますよ。今後も長い付き合いになりますので、7000万で提供頂けませんか? この取引が成立すれば、お二人の社内での株も急上昇すること請け合いですぞ。後学のために忠告しておきますが、目先の損は将来の繁栄を潰すことになりますからね」

 得意げに語る工場長に、藤兵衛はわざとらしく目を見開き、芝居がかった動きではっと胸に手を当てた。

「成る程! そういうものですかのう! またもや一本取られましたわい。工場長殿の仰る通りですな。これ、サクラ。上司命令じゃ。これを7000万でお譲りせい」

「そうは言われましても、無断で3000万の値引きはやり過ぎかと……」

「黙らぬか小娘! 儂を誰と心得るか! 大陸に名を冠する金色の蛇、金蛇屋藤兵衛の一人息子ぞ!!」

「……はい。仰せのままに。直ちに書面を準備します」

「 ふん! 汚らしい庶民が口答えなどしおって! 後ほど処分は下そうぞ! ……ホッホッホ。お見苦しいところをお見せし、誠に申し訳御座いませんな。聞いての通り、その金額でお譲りしますわい」

(何てちょろいんだ! ちょろ過ぎるぞ! 想像以上にこのガキは無能だ! 本当に今日の俺は幸運だぜ)

(ふむ。ちょろ過ぎる男じゃわい。後もう一押し……かの)

 内心の笑みを抑えきれず口角を曲げる工場長を見ながら、藤兵衛は極めて冷静に脳を動かし続けていた。


 同時間帯、工場地下。

 シャーロットとレイは、地下フロアへと続く長い階段を静かに降っていた。2人の間に会話はなかった。ただ、耳に反響する足音だけが2人の存在を伝え合っていた。

(お嬢様……)

 レイは思う。このままでよいのか、と。今のシャーロットには、恐らく自分の言葉など届かないだろう。何を言ったとこらで無駄なのだろう。……しかし!

「……お嬢様、少し耳を貸して下さい」

 暗闇の中で立ち止まり、レイははっきりと言った。しかしシャーロットは止まろうとせず、ただ黙々と闇の先を進んでいくのみだった。

「お願いです。どうしても確認しなければいけないことがあります」

 シャーロットには届かない。全ては闇の中に消えゆくのみ。絶望と失望に覆い尽くされんその時、レイの脳内にぽとりと、一滴の雫が垂れた。神経と感覚の中枢に達するその感覚は、今まで一度も感じたことのない、濁りと熱の入り混じった感情であった。

 そして、即座に行動。レイは手を振りかぶると、平手でシャーロットの頬を打った。パンと乾いた音がして、すぐに静まり返る空間。彼女は熱く腫れた頬を抑えたまま、呆然とレイを見つめていた。

「お嬢様、ご無礼をお許し下さい。でも、言わなければなりません。どうか……正気に戻って下さい。あんな男のことは気にせず、目的のみを果たして下さい。このレイ、たってのお願いです」

「……」

「俺は戦うことしかできません。お嬢様をお守りし、お嬢様の敵を叩く。ただそれだけが存在意義です。ですが、今のお嬢様にはお仕えできませんや。自分を見失って、どこ向かってるかわかってらっしゃらない方には」

「…………」

「言うまでもありませんが、お嬢様の“敵”は強大で、ナメてかかれる相手じゃありません。文字通り命をかけなきゃ、今までのぜんぶがムダになっちまいます。どうか思い出してくだせえ。あの日の屈辱と怒りを!」

 次の瞬間、シャーロットはレイに駆け寄ると、全身で力いっぱい抱きしめた。彼女の暖かい温度が伝わり、レイは思わず頬を赤く染めた。漸く取り戻したシャーロットの美しい笑顔。心まで蕩けそうな、染み入る程の慈愛を込めて、彼女は強く強くレイを抱き締めた。

「もう私は大丈夫です。心配かけて申し訳ありません。私は自分を取り戻しました。貴女の言葉のお陰です。感謝していますよ、レイ」

「へっ。俺なんぞが役に立てたんなら、こんな嬉しいこたあねえや。俺は命の続く限り前に進みまさあ」

「そう、私たちはただ進むのみです。今までも、そしてこれからも。こんな私に付いてきてくれますか、レイ?」

「へっ。今さらですぜ。俺はいつだってお嬢様と一緒ですよ」

 シャーロットは何も言わず大きく美しく微笑むと、一歩身を引いてそのまま歩き出した。レイもそれに従い、黙したまま後ろに付き従った。2人には笑顔が戻っていた。それは深い地の底においても、陽の光のように周囲を照らしていた。

 階段は想像以上に深く、まるで地の底まで続いているようだった。奈落、そんな言葉がレイの頭をよぎった。暗闇の中を下へ下へと進むこと5分。遂にその時は訪れた。

「お嬢様、明かりです。どうやら……着いたようですね」

「注意なさい、レイ。……決戦の時です」

「へっ。望むところでさあ!」

 闘気を身体中から発して、既に臨戦態勢のレイは意気揚々と叫んだ。目の前の扉、そのすぐ先に全ての答えはある。彼女たちは互いに寄り添うように、そっと手を合わせて扉を開いた。


 一方、工場内。

 中の劣悪な環境とは打って変わり、贅の限りを尽くした下品な家具が並べられた工場長室。その中央に設置されたふかふかのソファに座り込み、盃を交わす藤兵衛と工場長の姿があった。

「いやあ、商談が順調でなによりですな。契約も無事締結しましたし、今日のよき日に乾杯といきますか」

 工場長はグラスを片手に、贅肉まみれの頬を下げて実に明るく言った。藤兵衛も細い目を垂らしてへらへらとグラスを掲げ、口角を曲げながら悠然とキセルに火をつけた。

「いやはや、実に目出度い。流通についてもこんなに早く話がまとまるとは、工場長殿の慧眼には感服しきりですわい」

「いえいえ、藤兵衛殿こそ。既に契約書を作って下さっているとは感服しきりです。いや、出来る男は違いますなあ。流石は金蛇屋一門の跡取りでいらっしゃる。しかも流通費用までお値引きしていただいて、この黒龍屋レートン心から感謝致しますぞ」

「お手前の聡明さには敵いませぬ。ささ、もう一献いかがか」

 邪悪に染まった表情で、実に親しげにとくとくと酒を注ぐ藤兵衛。2人の大きな笑い声は工場中に響き渡っていた。一方でサクラは部屋の片隅に立ち尽くし、無表情の奥に隠した笑みを噛み締めていた。

(まったく……相変わらずどうしようもない人ね。聡明だったって噂の大叔母さんが、こんな人のどこに惚れたのかしら?)

 脳裏に過ぎる記憶にそっと蓋をして、サクラは別のことを思い出していた。藤兵衛が彼女の元を訪れたつい数時間前のことを。


「……じゃからの、儂は常々申しておったであろうが! 麻薬なぞに手を出してはいかん、と。金蛇屋の地盤を支えるのは人材ぞ! 人を殺す薬を作って如何んとするか! お主なら分かるであろう!」

 語気荒く若い男は、金蛇屋藤兵衛は叫んだ。ここはバイメン中央部、金蛇屋セイリュウ支店本社屋。藤兵衛とサクラは狭い室内で顔を付き合わせるように座り、互いに譲らず激論を交わしていた。

「あのね、そんな事言われても仕方ないでしょう? これは本社の命令ですから。文句あるならユヅキに直々に言って下さい」

「あの阿呆の指示か! 許してはおけぬ! 儂を追放したばかりか、有能な人材を適当にばら撒きおってからに! その上……儂が心底嫌悪する麻薬の取引じゃと!? ふざけるにも程があるわ!」

「あなたがいなくなってから、ウチはガタガタよ。見た目上は前より儲かってるけど、幹部は中枢を外されるし、意味わかんない指令が飛び回ってる。現場の意見なんて無視されるし、社員の士気は下がる一方よ。あなた一体どう責任とってくれるの?」

 無表情のままサクラは、機械的かつ極めて辛辣に言い放った。ぐうと内心で呻きつつ、藤兵衛は珍しく感情的に喚き散らした。

「話をすり替えるでないわ! 例え命令であったとしても、お主は儂の言うことなぞ一度も聞かなかったではないか!」

「わたし、あなたのこと嫌いだから。それだけよ」

「グェポ!! あ、相変らずやり辛い女じゃて。しかしじゃ、このままでは奴らの生産と儂らの流通が合わさり、東大陸は未曾有の危機に晒されることになるぞ。麻薬が蔓延すれば人が壊れ、壊れた人間は金を産み出さぬ。何としてでもここで食い止めねばならぬわ」

 サクラはメガネの縁をずらし、僅かに目から眩しい光を放つと、藤兵衛を真っ直ぐに見据えた。

「それは同感。あの工場見た? ちょっと他では見られない規模の施設よ。ビャッコ国の黒龍屋が大金かけて作らせたらしいの。幹部のレートンって男が仕切ってるわ。極めてつまらない無能な男だけど、押しだけは凄いわね。しょっちゅうここ来ては、偉そうにビジネスプランとやらを喋ってるわよ」

「……ほう。じゃがお主のこと、既に其奴について調査し尽くしてあるのじゃろう?」

「もちろんよ。その為に金や酒も振舞ったし、女だって何人も当てがったしね。“そういうの”が大好物な相当な俗物で、品性の欠如したクズで、紛れもないゴミ人間よ。あなたとは違った意味でね」

「ほう、それは重畳じゃな。ならばこういうのはどうじゃ……」

 2人は顔を突き合わせて、おおよそ30分間の密談を行った。その短い間だけで、極めて優秀かつ互いを知り尽くした彼らの方針は、みるみる音を立てて固まっていった。情報はアイディアを産み、枝分かれした無数の発想は拠るべき道筋を辿り、やがて一つの計画へと練磨されていった。

 概ね行動計画が固まったところで、サクラは眼鏡を外し、ふうと一息付いて藤兵衛の顔をしげしげと見つめた。

「……まったく。いつもの事だけど、よくもまあこんなすぐに色々と悪だくみを思い付くわね。確かにこの感じなら上手くいくかも。でもあなたの負担はかなり大きいわ。本当に大丈夫?」

「フワッハッハ! お主が儂の心配とは、珍しいこともあるものじゃのう。答えは一つじゃ。……この儂を誰と心得るか?」

「はあ……あなたっていうより、金蛇屋は私にとって特別なの。絶対に黒龍屋なんかに負ける訳にいかない。改めて言うけど、わたしはあなたのことはぜんぜん好きじゃないわ。でもね……全面的に信頼はしてるから」


 そして、現在。

 藤兵衛と工場長レートンのけたたましい笑い声に包まれる室内で、サクラは無表情のまま工場内の大時計に目をやった。

「どうした、サクラ。お前も飲まぬか。工場長殿に失礼であろう」

 藤兵衛の呑気な声が響き渡った。しかしサクラはそれを無視して回れ右をし、そのままスタスタと歩き去った。

「大事な契約書を持ったままお酒は飲めません。私はお暇します。後はどうぞごゆるりと」

「まったく愛想のない女じゃ。儂らは楽しくやりましょうぞ、工場長殿。ささ、もう一献」

「流石は話せますなあ。それでは遠慮なく」

 ぐびりとグラスを傾けるレートン。その時、工場内の大時計の金の音が鳴り、彼ははっと顔を上げた。

「もう日が変わりましたか。楽しい時が経つのは誠に早いですなあ」

「……ほう。工場はまだ稼働しておるようですがの」

「あんな労働者風情なぞ放っておけばよろしい。戦士だ何だと偉そうにぬかしておるが、所詮は使い捨ての駒に過ぎませんよ。この世の中、金のない者は生きている価値などありはしません。我々黒龍屋の商売は、ああいった愚民どもから一銭でも多く搾り取ることですからな。お若いあなたもいつか分かるでしょう。ハッハッハ!」

「……」

 無言でグラスを傾ける藤兵衛。彼が見つめる出入り口の扉には、僅かな隙間が存在していた。そして如何なる理由か、部屋から玄関までの全ての扉は同様に開かれており、結果として彼らの声は工場中に響き渡っていた。

「だ、そうよ」

 入口のすぐ手前の辺りで、サクラは無表情のまま誰ともなしに声を発した。すると彼女のすぐ近くのイッピン族の若者が、下を向いて静かに手を震わせた。

「……仕方ねえんだ。金がなきゃ、俺たちはどうすることもできねえ。俺たちは金が必要なんだ」

「あなたたちの言う、戦士の誇りとやらよりも大切なことなのね。それは仕方のないこと。けれど、そう思うのなら尚更、これから起こる出来事に耳を傾けなさい」

「こ、これからだって? 一体何が起こるんだ?」

「今から金蛇屋藤兵衛という男が、お得意の説を打つわ。皆でよく聞いて、その上で判断なさい。どうしようもない性格で、救えない下劣な品性の男ではあるけれど……少なくとも黒龍屋とは異なる判断をするはずよ」

 それだけ言い残し、サクラはそっと正面口から消えていった。戦士たちは立ち尽くし、手を止めて事の成り行きを見つめていた。

「さて、ではそろそろお代を頂くとしますかの」

 藤兵衛はグラスを置くと、笑顔のままレートンに言った。彼は同じく笑顔で頷くと、足元の金庫から無造作に札束を取り出した。

「お確かめ下さい。確かに約束の金子をお納めします」

「ホッホッホ。それではお言葉に甘えて、しかと確認させて頂きますぞ」

 藤兵衛は札束を手に取り、一枚ずつ流れるような動きで数え始めた。それは同じ商人のレートンから見ても驚異的な速度であり、熟達した技量に彼は思わず目を奪われた。

「ほ、ほう。お若いのに大した腕ですな。それでは例の花はこちらで預かり……!?」

 ぱっとテーブルの上に伸ばした手を、藤兵衛は力一杯払いのけた。驚くレートンに、彼は視線も合わせずに冷たく告げた。

「……少々金が足りんようですな、工場長殿」

 不意に変化した鋭い口調に、ぽかんと口を開けたレートン。だが藤兵衛は金を勘定する手を止めずに、垂れた目の奥から蛇の如き不気味な眼光を向けた。

「そ、そんなはずはありません! 確かに7000万銭がここに!」

「……7000では到底足りませぬのう」

 藤兵衛はゆっくりと顔を上げ、悠然とキセルに火を付けると、レートンの顔を真っ直ぐに捉えていた。一瞬で事態が剣呑となったことを悟り、彼の目にも不審と怒りの炎が灯った。

「どういうことですかな? 先ほどと金額が違うと? それは詐欺ではないですか。契約と違う!」

「ふん。儂は金についてだけは嘘をつかぬ。確かに花の代金は7000万で問題ないが、儂が申しておるのはブツの輸送費じゃ。月1500万、年にして1億8000万を一括で頂かねばの。契約書の58ページ目に記載されておる通りじゃて」

 藤兵衛の言葉を受けて、ばっとすぐに契約書に目を通すレートン。確かに後ろの方に小さな字で、彼の言った通りの内容が明記されていた。彼は冷や汗をかきながらも、何とか必死に乱れる思考を取りまとめようとした。

「た、確かにこの件に関しては私の不備です。すぐに本店から取り寄せますので、2週間……いや、10日あれば必ずご用意いたします」

「……そうはいかんの」

 藤兵衛は尚も休む事なく攻め立てた。意味が分からず混乱するレートンを尻目に、彼はふてぶてしくどかりと椅子に座り込み、両足を乱雑に机に乗せると、キセルの煙を思い切り吹きかけた。

「くっ! 意味が……よく分かりませんよ。金さえ用意すれば問題ないだろうが」

「おやおや、まだ酔っ払っておるのかのう? よく契約書を読み直せい。第13条7項じゃ」

「(くっ! あの状況で、こんな細かいところなど見るものか! ……な、何だこの字は!? 他とまるで違う、くすんで焦げたような色だ。そもそもこんな記載があったか!?)……『本契約締結の1時間以内に、甲は乙に輸送費一年分全額を支払うものとする。不備のある場合、即座に契約を無効とすると共に、遅延損害金として契約金の半額を、甲の資産を以って支払いに充てるものとする』! こ、これは……」

「誠に不注意とは怖いものじゃのう。しかし一度契約を交わした以上、こればかりはどうしようもないわ。貴様の拇印は勿論じゃが、更に黒龍屋の社印まで押してある故のう。支払えぬならやむを得まい。この工場は頂くとするかの。斯様なボロい工場、一億でも足が出るが仕方あるまいて。さっさと身支度して出て行けい」

 堂々と、ぬけぬけと、一切悪びれずに言い切る藤兵衛を見て、レートンの顔色が急速にどす黒く変わっていった。敵意と殺意が露わになり、腰から抜いた剣を喉元に突き付けて、黒い本性を剥き出しに彼を睨み付けた。

「……てめえ。最初からこれが狙いか。ずいぶんと調子に乗ってくれたな」

「まさかこんなに簡単にいくとはの。まだまだ策はあったのじゃが、あまりに貴様が無能で楽に終わったわ。礼を言うぞ」

「こんなもん無効だ! 姑息な手を使いやがって!」

 激しく啖呵を切って、レートンは勢いよく契約書を破り捨てた。だが一方の藤兵衛は、心底呆れたように、ため息と一緒に煙を吐き捨てた。

「無駄じゃ。もう一部の契約書は既にサクラが持ち去っており、既に写しは黒龍屋本店だけでなく、各国に送り付ける算段よ。どこまで無能を晒せば気が済むのかのう? しかし黒龍屋の大幹部殿がこの程度とは……実に片腹痛いわい」

「おい! てめえら手ぇ止めてこっち来い! このガキをふんじばれ!」

 響く怒声、どよめきの中で即座に駆けつける黒龍屋の部下、そして彼らに付き従う屈強なセイリュウの戦士たち。彼らは武器を構え部屋中を取り囲んだ。勝ち誇るレートンだったが、藤兵衛は動じない。そう、この男は動じない。

「商戦での負けを認めず、力尽くときたか。大した商人がいたもんじゃのう。そんなに血気が有り余っておるなら、儂が相手してやるわい」

 そう言って堂々と入口に向かう藤兵衛。予想外の動きに対応が遅れる彼らの手をくぐり抜け、身軽にひょいと階段を飛び降りると、彼は工場で動向を伺っていた戦士たちの方を向いた。

「成る程。良い面構えじゃて。腐ってもセイリュウの戦士じゃの」

 満足そうに笑みを浮かべた藤兵衛だったが、追い付いた兵によりすぐに取り押さえられ、縄で後ろ手に縛り付けられてしまった。勝利を確信したレートンは、苛立ち紛れに彼の腹を蹴り飛ばし、ふんと鼻を鳴らした。

「おいおい、さっきまでの威勢はどこへいった? 命乞いをすれば許してやらんこともないぞ」

「貴様に儂を殺せる訳がなかろう。この儂を誰と思うておるか? 儂を人質に契約書を奪う算段なのじゃろうが、最初から最後まで単細胞な男じゃて」

「ふん、好きなだけ言ってろ。絶体絶命はてめえの方だ。おい、俺は女を追うぞ。すぐに連れ戻して来るから、それまで抑えつけとけ! なあに、どうせ何も出来やしねえさ。お得意の口で好きなだけほざいてろ」

「そうか。ならば好きにさせてもらうぞ。……者共、儂の話を聞けい!」

 レートンが急ぎ外の様子を見に行ったのを見計らい、囚われの藤兵衛は羽交い締めにされながらも、萎えぬ気迫を言葉に込めて唇から放った。

「儂はな、オウリュウ国の商人じゃ。金で人を動かし、人を使って金を産む。そうやって今迄生きてきた。その結果、世にある殆どの宝を我が手の中に収めてきた。そんな儂が唯一動かせなかったもの、それがお主らセイリュウの戦士じゃ」

 緊迫した空気に反した和かな笑みを浮かべ、黒龍屋の社員に蹴飛ばされ殴られながらも、藤兵衛は怯むことなく言葉を振り絞った。

「何を言ってやがる! 大人しくしろ!」

「まったく……お主らときたら、まるで言うことを聞かんかったのう。事あるごとに誇りがどうした、部族の意思がどうした、まるで商談になりはせん。オウリュウとセイリュウ間の陸路を結ぶのに、この儂が10年もかかってしもうたわい。げにお主らの頑固さはガージよりも厄介じゃのう」

 そう言って藤兵衛が苦笑混じりに微笑むと、戦士たちの中から軽い笑い声が起きた。慌てて止めようとする腕に噛みつきながらも、藤兵衛は止まることのない言を放ち続けた。

「黙れクズが! いい加減にしねえとほんとにブチ殺すぞ!」

「儂からすればの、お主らの誇りとやらは実に面倒な反面、憧れでもあった。儂ら商人には決して持ち得ぬ、輝かしい宝のように見えた。……そして今、儂はお主らに問う。かつて光を放ったお主らの宝は、果たして今もその胸の内かの?」

 シンと静まり返る工場内。力任せに棒で打たれ、四方八方から蹴り飛ばされ、刃物で肌を切り裂かれながらも、金蛇屋藤兵衛は尚も続けた。

「悲しい、ただ失うだけの戦い。近しい者を失う喪失感。踏み躙られる屈辱。お主らが5年前に受けた悲劇の意味はよく分かるわい。それがお主らを変えてしまった。じゃが……肝心の誇りはどうか? こうして麻薬を作り続け、世界を混沌に落とし込むことが、お主ら戦士の誇りの成れの果てなのか? 輝き誇る先人から受け継がれた魂は、この奈落にも等しき場で朽ちゆくのみなのか?」

「……仕方ないのさ。あんたには分からん。俺たちがどれだけ苦しんだか! 国のために部族のために家族のために戦ったのに、誰からも助けられず、見殺しにされた! 虐げられた! 金のないのは命がないのと一緒と言われたんだ!!」

 群衆の一部から声が上がった。その声はどんどん大きくなり、次第に工場中を巻き込むようなうねりへと変わっていった。人々は一様に、悲しみを堪える石のような表情をしていた。

 だが藤兵衛はふんと一声唸ると、縛られた腕で闇術の炎を起こして拘束を解き、驚く兵士たちを蹴り飛ばしながら、残り火でキセルに火を付け、ゆっくり言い聞かせるように言葉を放った。

「う、うお! 火事だ! 早く消し止めろ! レートン様に殺されちまう!」

「成る程な。お主らの言うことも一理あろうて。誰も手を差し伸べなかったと申すならば、今ここで、この儂が与えようではないか! あの時成し得なかったことを、5年の時を経て今ここに! 今のお主らに決定的に欠けている3つの宝を!」

 工場内はしんと静まり返り、ゴクリと喉のなる音がした。藤兵衛のえもいわれぬ異様な気迫を前に、誰しもが言葉を失った。歴戦の戦士であっても、荒事に長けた兵であっても、揺るがぬ自信と自負を吐き出す金色の蛇の前では蛙にも等しき存在であった。

「まず第一に、金。お主らの言う通り、言われてきた通り、金がなければこの世は話にならん。どんなお題目も、現実を乗り越えた先に意味を成す。儂が用意するのは、この工場を再利用した産業じゃ。儂ら金蛇屋はの、実は5年ほど前から、ここセイリュウ国の野草に注目しておった。お主らからすれば戦で使う毒薬にしか使えぬ草も、転じれば薬草にも麻薬にも成り得る。高地に繁茂する豊富な野草、この工場の規模、そして儂ら金蛇屋の流通路さえあれば良質の薬を生産出来、必ずや莫大な金を産むことができようて!」

 ざわざわと人々の声、何事か相談し合う声。悠然とキセルをふかしながら、藤兵衛は更に続けた。

「第二に、安全。儂らと手を組むということの意味、それは即ち国家単位の事業に参加する事に等しい。麻薬なぞと違い、大手を振るって街を歩ける。部族にも胸を張って報告できる。大切な家族にも誇れる。そして、このことは第三に与えられるものとも合致する。与えねばならぬ最大にして最高の宝、それは……お主らの誇りじゃ!」

 誇り。その言葉に強く反応する戦士たち。どよめきがどんどん大きくなる中、1人の若い男が前に歩み出ると、強い口調で彼に問い詰めた。

「……“誇り”。さっきから思ってたけどよ、その言葉を軽々しく使うんじゃねえ。果たしてお前なぞに何ができる? 夢みてえなこと言ってんじゃねえぞ」

「それは儂の台詞じゃ! いい加減目を覚まさぬか!」

 細く垂れた目をカッと見開いて、藤兵衛は細胞全てから掻き集めたよう大声で叫んだ。歴戦の戦士たちが揃って震え上がるほどの胆力、それこそが金蛇屋藤兵衛を大陸一の商人に押し上げた、比類なき能力の1つだった。

「いい加減にせい! 儂はお主らに機会を与えてやると言っておるのじゃ! 誇りを失い、金に頼り、賊と化したお主らに、更生の切っ掛けをくれてやるというのじゃぞ! これがどれほどの好機か想像が付くか? 貴様らにとって一番大切なものは何じゃ? 金か? 家族か? 部族か? 儂の知るセイリュウの戦士は、迷わず戦士の誇りと答えたであろう!

「………」

「よいか、誇りなぞ誰かに与えられるものではない。自身の胸中の奥深くから沸き起こるものじゃろうて。少なくとも儂は、かつて貴様らの先達にそう教わったわ。よもや忘れたなどと言うまいな? もうそうであれば貴様らに戦士を名乗る資格なぞない! 今すぐ儂を殺し犯罪に手を染め続けるがよい! しかし、貴様らの内に未だ消えぬ炎があるならば、諦めきれぬ思いが焦がし続けておるならば、今すぐその手で儂を助けよ! このままでは儂は死ぬぞ! 儂は契約は命を懸けて守るし、金のことでの約束は決して裏切らぬ! 全ては貴様ら次第じゃ! 後は好きにせい!」

 藤兵衛はそう言うと、その場に座り込んで腕組みをしながら、一気にキセルを吐き出して悠然と踏ん反り返った。長い時間が、実際は数秒であったが、実に長く感じられる時間が絹のように流れていった。そして、先程の若者がゆっくりと藤兵衛に近づいていった。

「……俺は、あんたを信じてみる。あんたの魂は嘘をついていない。あんたの言葉を、俺は信じる!」

「こ、この! 奴隷の分際で我らに逆らうなど……グゥッ!!」

 そう言って彼は、藤兵衛を拘束せんとする黒龍屋の男の首筋に、強烈な手刀の一撃を見舞った。そしてそれに続く人々が次々と彼に加勢していった。

「お、おまえら冷静に考えろ! 今まで黒龍屋にしてもらった恩義を忘れたのか! 彼らに逆らったら俺たちは……」

「冷静になるのはそっちだろうが! あんなゴミ扱いされて、こき使われて、それでも付いていくってんなら好きにしろ! 俺たちはこの人を信じる!」

 混乱する状況の中で、年配の戦士たちが慌てて反論するも、流れは止まらず1人、また1人と藤兵衛の周りに人が集まっていった。気付けば工場内の半数近くの戦士たちが藤兵衛の元に集結し、既に彼の捕縛を解かれていた。彼は満足そうに頷くと、悠然とキセルをふかしながら、未だ揺れている集団に向けて止めの一言を放った。

「仕方ないのう。最後にもう1つだけ、お主らに良きものをくれてやろうぞ。間も無くこの場には、セイリュウ国軍が攻め入るであろう。既にうちのサクラが軍に訴えておるはずじゃ。『金蛇屋藤兵衛がこの工場に拉致されている』との。今ここで儂に付かば、今までの罪は全て不問にしようぞ。非合法の麻薬製造も、今迄の悪行も、全ては黒龍屋とその手下の責任ということで処理されようて。じゃが、もし儂に背を向け連中に付くというのなら……この金蛇屋藤兵衛、決して容赦はせんぞ。ある事ない事を訴えかけ、逆らう者は全て牢獄送りじゃ! さすれば儂もお主らも大損じゃ。儂は損だけは大嫌いなのじゃ! いい加減進むべき道を決めい。さあ……どうするのじゃ!!」

「な!?」

「ぐっ! それが本当なら……」

「……負けだ。完璧に。もうあんたに従うしか道はない……」

 口角を曲げ顔全体に悪魔的な笑みを浮かべ、藤兵衛は踏ん反り返って極めて尊大に言い放った。この瞬間、全ての戦士たちがほぼ同時に彼の元に平伏した。完膚無きまでの状況を見て、高笑いを浮かべる藤兵衛。そして、その時にちょうど戻ってきたのは、でっぷりとした身体を揺らし息を切らす工場長レートンだった。

「ちっ、逃げ足の速い女だぜ。まあ手は打ってあるから問題ないだろう。……ん? てめえら何してんだ! さっさと仕事に戻……え? な、なぜこいつの縄が解かれてるんだ?!」

「見ての通りじゃ。さて、今度は貴様が地獄を見る番じゃて。戦士たちよ! この国を守る誇り高いセイリュウの戦士に告ぐ! 此奴らを排し、国を守れい! もう一度……己の手で自らの克己を手にするのじゃ!」

 雪崩の如く沸き起こる歓声。狼狽える工場長とその取り巻き。そして暴動が生まれた。工具を武器に暴れまわる戦士たち。黒龍屋の傭兵など物ともせずに、闘いは一方的に進められた。そして、その騒音を合図にしたかのように、外から雪崩れ込むセイリュウ国軍。

「動くな! この工場には要人誘拐の嫌疑がかけられている。大人しくしろ!」

 軍を指揮するホムラの怒声が響いた。暴動は瞬く間に鎮圧され、残されたのは気を失い無様に腹を見せる工場長だけだった。

「ホッホッホ。ホムラ殿、これは助かりましたぞ。既にご存知の通り、ここの黒龍屋とかいうならず者に誘拐されましてな。今ここにおる誇り高き戦士たちに助けられたという訳ですわい。いやあ、流石はセイリュウ国の戦士は違いますな」

 胡散臭い笑みを浮かべて、悠然とキセルをふかしながら藤兵衛はぬけぬけと言った。その瞬間ホムラは全てを察し、呆れ返ったような苦笑いを浮かべた。

「これはこれは金蛇屋藤兵衛様。ご無事でなによりです。して、この者たちはここで何を?」

「実は今日から、この工場は金蛇屋の所属でしての。彼らは新しい社員ですわい。以後お見知り置きを」

 余りにも強引な言葉、未だ工場内に放置された麻薬から目を伏せ、ホムラは眉間に皺を寄せて藤兵衛に耳打ちした。

「(お前よ……そんな詭弁を通すつもりか?)」

「(通すのはお主じゃ。貴様なら問題なかろう。儂は出来る人間にしか頼み事はせぬ)」

「(そうは言ってもよ、さすがにちと無茶過ぎるだろ。親父がなんて言うか……それに、ビャッコ国と完全に揉める形になるぜ)」

「(お主も腑抜けたのう。奴らはこの国に巣食う害虫ぞ。叩き潰すが戦士の定めじゃろうに。それに儂の言に乗らば戦士たちは活かされ、後ろめたさの無い金が生まれようて。お主さえ黙っておれば何も問題はない。莫大な税金も入り、誰も損はせぬ。お互い上手くやろうではないか、のう? ゲッヒャッヒャッヒャ!!)」

 下卑た笑いを発する藤兵衛を見て、頭に手を当てて暫し考え込んでいたホムラだったが、やがて決意を込めた強い眼差しを一同に向けた。

「……承知した。とりあえずお前らについては不問にする。戦士たちよ、今後とも金蛇屋の元でしかと励むように。おい、こいつらを引っ立てよ」

 くるりと踵を返すホムラ。そして沸き起こる大歓声。完膚なきまでの勝利を告げる喧騒の最中、入口からサクラがひょいと顔を出した。

「お疲れ様でした。さすがですね」

 無表情の顔に僅かに笑みを作り、彼女は言った。藤兵衛は袖の汚れを払いながらキセルに火を付けて、美味そうに煙を吐き出した。

「朝飯前じゃて。後のことはよしなにの。特にビャッコとの折衝には気を付ける事じゃ。ユヅキでは足元を掬われかねんぞ」

「あなたを陥れた男の心配? 相変わらずあなたの事はよくわかりませんね。まあでも、お任せを。必ずや全て吐かせますから」

「ふむ。殺さねば何をしてもよいぞ。何としてでも連中の狙い、先に説明した“闇”との繋がりを探っておけい。では儂は行くぞ。ちと約束がある故な」

 言い終わるや否や即座に走り去ろうとする藤兵衛。だが、背後から力。か細くとも、意志の込められた指先。サクラはぎゅっと彼の袖を掴み、無言のまま下を向いていた。

「……」

「な、何じゃ! 儂は忙しいのじゃ! 金なら多少しか頂戴しておらぬぞ!」

「本当に……行ってしまうの?」

 サクラがやっと、ぽつりと一言だけ呟いた。そこに込められていたのは失意、怒り、寂寥、敬意……いや、それとは全く別の思い。

「あなたのことは大嫌いだけど、金蛇屋にはあなたが必要なの。仲間たちはみんなあなたを待っているの。ユヅキなんかじゃ絶対にダメ。お願いだから……戻ってきて」

 サクラは静かに、まるで眠りについているかのような顔で、両目から涙を流していた。藤兵衛は一旦その場に立ち止まると、見たこともない真剣な表情で、彼女の肩をそっと優しく抱いた。

「……すまぬ、サクラ。今の儂にはやるべき事があるのじゃ。どうしても儂は行かねばならん」

「どうして? あんなに悪口言ってたじゃない。奴隷みたいに扱われるって。虫みたいな人に毎日殴られてるって。帰って来れば何も心配要らないわ。みんなあなたを受け入れる。わたしたちはね……あなたの事が大好きなの! 心の底から尊敬してるの! 不老不死なんてどうでもいいじゃない!」

「“あの日”と同じ予感がするのじゃ。同じ過ちを繰り返さん為にも、儂は行かねばならぬ。心配するでない。儂は必ず戻ってくるわ。この儂を誰と心得るか? それに、ユヅキの阿呆にも最悪の形で思い知らせてやらねばのう」

「大叔母さんが殺されたのはあなたのせいじゃない! あれはきっと……」

「何も言うでない。儂とてこの50年間、何度も自問したわ。全ては儂に起因する話じゃ。この責は一生懸けても儂の肩に染み付いておる。……迷惑かけたの」

 ぽんとサクラの肩を叩き、すぐに静かに手を離す藤兵衛。彼女は溢れる泪を拭い、声にならない声を上げていた。

「大叔母さんは……きっと幸せだった。きっとあなたに感謝してる。……お願い。もう2度とあれを繰り返さないで。後のことはわたしが、桃蛇屋サクラが責任持って全て受け持つわ」

「ホッホッホ。それでこそ蛇の名を冠する者ぞ。実に頼りになるわい。蔵八とは大違いじゃな。何かあったら容赦なく頼むからの。逆に……もし金蛇屋に何かあらば、遠慮なく儂を頼れい。何処におっても何をしていても即座に駆け付けるわ。お主は儂の……数少ない身内じゃからな」

「……うん。わかった。待ってます。必ず、いつまでも、金蛇屋の皆で」

「すまんの。結局のところ、儂は儂でしかないようじゃ。何十年経っても何も変わらぬの。……おい、そこの若人。儂を地下まで案内せい!」

 そう言って藤兵衛は近くの若者に声をかけた。だがその言葉を聞いて、彼はみるみる青い顔になっていった。

「どうした? 何ぞ可笑しな事でも申したかの?」

「き、金蛇屋の旦那。悪いことは言わねえ。ここの地下だけはやめておきな。あそこは化物の住処だ。あの連中は人の形こそしてるものの、間違いなく俺たちとは違う種の生き物なんだ!」

「痴れ者が! それを早く言わんか! つまりは……待ち伏せではないか! こうはしておれん! さっさと行くぞ!」

 若者の首根っこを捕まえて走り去る藤兵衛。みるみる小さくなる影に向け、ため息をつきながらほんの僅かだけ微笑むサクラ。

「昔っから変わらない。止めてもぜんぜん無駄ね。せめて無事に帰ってきて。……言ってらっしゃい、旦那様」


 同時刻、工場地下のとある部屋。薄暗い室内に浮かぶ不吉な2つの影。

「どうだ! 今度こそ俺の勝ちだぜ ……スリーカード!」

 燻んだ銀色の重武装を纏った2m近い大男が、逞しい身体を震わせて勝ち誇ったかのように奇声を上げた。その表情は甲冑に隠れ見えないが、上擦った歓喜の声は不思議なくぐもり方をして場に響いた。

「ふふ、それはどうでしょう……こちらはフルハウスです。これで30連勝ですね」

 もう1人は、道化師の如き色彩豊かな衣服を身に纏った男だった。明らかに彩色された黄色の髪をひっつめ、小柄で痩せた身体はくねくねと動き、整った童顔には赤字で様々な紋様が描かれていた。彼が嫌らしい笑みを浮かべて嘲るように言った次の瞬間、大男はバンとテーブルを蹴り上げた。

「やめだやめ! お前絶対イカサマしてやがるだろ! もう金がねえ。仕舞いにしようぜ」

「暇すぎるって駄々こねたのはあなたの方でしょ? まったく短気なんですから」

 いそいそと飛び散らかったカードやカップを集める道化師、腕を組んだまま顔を真っ赤にする大男。

「ああ、かったりい。これもぜんぶ暇なのが悪いんだ。夜明けまであと何時間?」

「まだまだ5時間はありますよ。しかし確かに暇ですね。情報が確かなら間も無くですが」

「けっ。ほんとかね? 満月だからって連中が来るとは限らねえだろ。“あの人”も神経質過ぎるぜ。ちょっとくらい抜け出してもバレねえさ。なあ?」

 その瞬間、大男の手に持つグラスが閃光と共に弾け飛んだ。絶句する彼に、道化師は口元に怪しい笑みを浮かべたまま、漆黒に澱んだ眼を光らせた。

「我らが主の名、それだけは汚してはいけません。……ナメた口を聞いたらブチ殺しますよ」

 緊迫した空気が一瞬流れた。が、すぐに頭を下げて、手を叩き大きく笑う大男。

「悪い悪い。ちっとふざけ過ぎたよ、デュオニソスの旦那。俺が悪かったから勘弁してくれ。それじゃよ、暇つぶしに上の階から人間でも攫って遊ばねえ?」

「いい考えですね。ちょうど試したい術がありました。銀角さん、ちょっと2、3人生かしたまま連れてきてくれませんか?」

「いいぜ。俺も腹減ってるしな。たまにゃ楽しませてもらわねえと」

 2人の姿は一見すると人に見えるが、その内は全く異なる種であり、髄まで漆黒に染まる魂が透けて見えるかのようだった。銀角と呼ばれた大男が、どっしりと地に足を付け立ち上がったその時、僅かに部屋全体が不思議に赤く光った。瞬時に緊迫感を走らせた2人は、同時に顔を見合わせた。

「……おいおい。まさか本当に来るとはな」

 銀角が壁際に立てかけた鋼鉄の棍棒を肩に担いだと同時に、デュオニソスもローブを目深に被り即座に戦闘態勢へと入った。

「この波動……間違いなくシャーロット様ですね。くれぐれも警戒なさい、銀角さん。満月時のハイドウォーク家は無敵です」

「難しいことは知らねえが、作戦の通りやればいいんだろ? 細かいこたあ旦那に任せるぜ」

「それで万事上手くいきます。主のために、高き目標のために、お互い協力しようではないですか」

 2人の表情は闇のように蠢き、輝き、渦巻いていた。その笑みは実に凶悪にして絶望的だった。

 

 神代歴1278年11月。

 金色の蛇の導きにより、運命の扉は開かれた。シャーロットとレイ、2人の戦いの舞台が今幕を上げようとしていた。

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