第12話「穢す者」

 奇妙な空間だった。

 地下の坑道の終着点から一歩足を踏み入れると、まるでそこだけ切り取ったかのように独立した大きな部屋があった。ぎっちりと積み上げられた岩石に包まれ、内部に陽光は一筋たりとも入ることはなかった。代わりに煌々と火が灯され、闇溜まる海の如き室内を不気味に照らしていた。部屋の中央には一際目を引く、七色に輝く謎の建造物。無数の岩石が尖塔の如く積み上げられ、中央部が怪しく光を放つこれこそが、シャーロットたちが求めし『楔』と呼ばれる存在だった。

 その場所に足を踏み入れたシャーロットとレイは、目的たる“それ”を発見し、一瞬だけ目に明るい光が灯った。だが、その場に渦を成す邪悪な気配に即座に我に返り、彼女らは慎重に臨戦態勢を取った。

「これはこれは。ようこそお越しいただきました。シャーロット“姫”」

 部屋の奥の椅子に腰掛け、仰々しく手を打ち鳴らす怪しき道化師の姿を見て、2人の顔色が目に見えて曇っていった。

「だれかいるかとは思ってたが、よりによっててめえかデュオニソス! この腐れ道化師が! バラムの犬がこんなところでなにしてやがる?」

 レイは心底不快そうに、言葉と共に地面に唾を吐き捨てた。だが金髪の道化師は全く意に介することなく、不思議そうに彼女の顔を眺めていた。

「おや、美しいお嬢さんですね。初めまして、“お人形”さん。お会いできて歓喜の極みです」

「て、てめえ!!」

 瞬時に内から沸き起こる怒りに身を任せるレイ。だがそれを制するように、おずおずと一歩前へ出たシャーロット。

「つまらぬ策に乗ってはいけませんよ、レイ。お久しぶりですね。単刀直入に言います、デュオニソス。そこを退きなさい」

「おやおや、姫様はずいぶんとお乱れのご様子。どこぞの殿方にこっぴどくふられたのですかな?」

「お嬢様を侮辱するんじゃねえ!」

 即座にレイの怒声が室内に響き渡った。空気がビリビリと揺れる中、とぼけた顔で肩をすくめるデュオニソス、そして物陰から大笑いする白銀の鎧を纏った巨大な眷属。

「ガッハッハ! こいつが例のシャーロットとその奴隷か。闇に生きる眷属の分際で我らが主に楯突く、たいそう気合の入った野郎だとは聞いてたが、見た感じ大したことなさそうだな、おい」

「誰だてめえは! ザコが話に入ってくるんじゃねえ! このデカブツが!」

「あらあら、そんなに冷たくしちゃいけませんよ。彼は私達の大切な同胞で、貴女の“お仲間”である銀角さんです。以後お見知り置きを」

 ニヤニヤと含み笑うデュオニソスと銀角。爆発寸前のレイの肩に手を置き、シャーロットは眉間に皺を寄せ更に一歩近付いた。

「貴方がいるという事は、バラム様も近くにいるのですか? となると……“あの方”も近くにいらっしゃると? 居場所を教えなさい、今すぐに」

「おっと、そんな怖い顔をしてもダメですよ。貴女はもう我らの統治者ではありません。バラム様も我が主もご多忙な方。あなたに構っている暇などないのです。実はね、これは主からの直々の通達でして。『満月の晩にシャーロットが来る』と。私達のやるべき事はただ一つ。あなたを捕えて主に引き渡す事です。大人しく降伏なさい」

「あ? んなことできるわけねえだろ! このクソが!」

「あなたには伺っておりません。用があるのはシャーロット様だけです。あなたはここでお死になさい。……ねえ、シャーロット様。昔のように仲良くしましょうよ。“家族”は仲がいいのが一番でしょう?」

 彼女は迷わなかった。目の前に瞬時に巻き起こった複雑な術式群を見て、すぐさま後ろに飛ぶデュオニソスと銀角。すんでの所で目の前を掠めていった巨大な火柱を見て、彼はわざとらしく額の汗を拭った。

「交渉決裂ですね。最初からわかってましたけど。それじゃ、銀角さん。そっちの人形は任せました。お仲間同士仲良くやり合って下さい。私はお姫様をたっぷり教育しなければいけませんので」

「あいよ旦那。さっさと片付けとくぜ。おい、そこのデカ女。俺は暇すぎて体がおかしくなりそうなんだ。せいぜい楽しませてくれよ」

 2人がそう言うと同時に、突如としてデュオニソスの仕掛けた術が発動し、地面が生き物のように動き出した。地面がせり上がって分厚い岸壁となり、あっという間に中央に集まると、天井まで広がって部屋を半分に区切った。斯くして2人の戦場は完全に分断された。

「お嬢様! ご無事ですか!」

「私のことは心配要りません、レイ。今の私に敵はありません。貴女は自分の闘いに集中なさい」

 その言葉を合図に、お互いの敵に向き合う2人。シャーロットとレイの真の戦いが今始まろうとしていた。


「おい、早く案内せぬか! これはどちらへ進めばよいのじゃ!」

 暗闇の中、藤兵衛の低いダミ声が坑道内に響いた。同行するイッピン族の若者は鍛え抜かれた夜目で周囲を伺いながら不快そうな、それでいて何処か不思議そうな声で返した。

「こんな真っ暗じゃすぐには無理だよ。ったく、なんで俺がこんなことに……しかしどうして灯りが消えてんだ? 前はこんなじゃなかったのに」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、慣れた足取りで闇の中を進む若者。尊大に踏ん反り返りながらその後に続く藤兵衛。

「……よくもまあ、こんな奇っ怪な作りの道を作ったものじゃな。相当な大工事が必要じゃろうに」

 藤兵衛は辺りの風景を見渡して、呆れたように吐き捨てた。殺風景で無機質ながら幾重にも道が交差し、あたかも迷宮と呼び得る程の構造となっていた。

(虫め! 手がかり位残しておくのが礼儀じゃろうに! そもそも彼奴ら……本当に辿り着けたのであろうな?)

「俺らもよく知らないけど、この坑道は昔からあってさ。俺らはよく遊び場にしてたんだ。お化けが出るって評判だったんだぜ」

「な、何じゃと! では……工場の方が後に建てられたということか?!」

「そうだよ。黒龍屋がどうしてもここに工場建てるって言ったみたいでね。西の連中はほんと変わってるよ」

 藤兵衛は考える。今までの違和感が少しずつ氷解していくのが分かる。全ての糸がほどけ、再び一つに繋がっていく感覚。脳内で組み立つ理の枠組み。

(……最初から妙だとは思っておったのじゃ。儂が麻薬工場を作るとするならば、原料の調達が容易な高地の山岳部に作るじゃろうて。その方が効率的じゃし、当局の目にも止まりづらかろう。つまり……この場所には何らかの意思が働いておる、そう考えて相違あるまい)

 腕を組んで静かに考え込む藤兵衛に、若者は少しだけ顔を引き詰め、思慮深い面持ちに変わった。

「でも藤兵衛さん、本当に注意してくれ。さっきも話したけど、あいつらはマジで普通じゃない。銀髪の大男もそうだけど、道化師みたいな奴が特にヤバい。魂の質が尋常じゃないよ。あんなの見たことない。サンジ族のホムラにだって勝るとも劣らねえさ」

「化け物がいる、貴様はそう評したの。あのホムラに匹敵するとは……そこまで危険な存在ということか」

「……底が見えないんだ。心の底まで持っていかれるような、凄まじい種類の魂だ。もしあいつらに会ったら、とっとと逃げた方がいいぜ」

「忠告痛み入るわい。よし、あの扉が最下層じゃな。ここまででよいぞ。助かったわい」

「ああ。悪いが俺は行くよ。藤兵衛さん……死ぬなよ」

「グワッハッハッハ! 儂を誰と心得るか? 儂こそが世界の富を喰らい尽くす男、金蛇屋藤兵衛その人ぞ。心配せんでも剣呑な事態と見れば、すぐに尻尾を巻いておさらばじゃて。さ、危険が及ばぬ内に行くがよい」

 だが勿論、その言葉通りに事が進む筈もなかった。藤兵衛は若者が何度も振り返りながら立ち去るのを見送ると、垂れた細い目を蛇のように鋭く光らせ、目の前に確実に待ち受ける危機に向き合った。

(……あの時と同じ思いだけは、同じ結末だけは決して訪れさせはせぬ。化け物じゃろう何じゃろうが、儂の進む道に何も変わりはせぬわ。いつも通り、今やれる事を全力でやるだけじゃて)

 その瞳に迷いの色はまるでなかった。かつて何度も味わってきた痛みは、世界を包み込む理不尽と無常は、彼の精神を鋼の如く鍛え上げていた。それは、ある意味では危険なことでもあったが、今この場で語るべきではない。今はただ、彼の意思を、彼の“力”を示すのみである。そして運命の扉の前に彼は立った。

「待っておれ、シャル(ついでに虫)。儂は必ずお前らを救ってみせるわ!」


 地下、光の遮断された室内。

 レイと銀角が10メートルほどの距離で睨み合っていた。互いの闘気が放つ鈍い瞬きだけが視認できる中、向かい合った瞬間から銀角はレイの力量を認めていた。

(おいおい。尋常じゃねえ闘気だぜ。旦那は相手にしちゃいねえが、こいつはただのオミソじゃねえな)

 銀角は即座に認識を改め、ゆっくりと金属の棍棒を上段に構えた。が、それすらも許さないのがレイの速度。レイは一足飛びに距離を縮め、一文字に放たれた拳が矢のように銀角の顔面を捉えていた。

(……あ?! んだこりゃ? ぜんぜん効いてねえぞ!)

 今度はレイが驚く番だった。完璧に貫いたはずの渾身の一撃は、銀角の脳を揺らすことも出来ず、手に残る不安定な感触から考えても、内部にダメージが到達していないのは明白だった。彼はニッと余裕の笑みを浮かべ、棍棒を大きく頭上に振りかぶり、レイに向けて痛烈に振り下ろした。

「悪いが俺は"特別製”でね。てめえとはデキが違うんだ。『白蠟』!!」

「へえ。おもしれえじゃねえか。やってみろやゴミ野郎!」

 轟音を立てて崩れ落ちる地面。恐るべき膂力により放たれた破壊の才槌は、触れたもの全てを微塵に化す威力を秘めていた。だがそれはあくまで、触れられれば、の話。レイは生死を分かつ刹那の瞬間に、敢えて銀角の胸元に風を纏って駆けた。そして、驚異的な速度で破滅の鉄槌を避けると、視界の中心に銀角の正中線を捉え、至近距離から鎧越しに金的・鳩尾・人中に神速の三連打を叩き込んだ。

「『蓮花』!! こいつでどうだ!」

(くっ! 強え!)

 ぐらり、と僅かに揺れる銀角の体躯。確かな手応えを感じて追撃を試みるレイだったが、だらりとうつむく彼の眼はまだ死んでいなかった。

(まじい! きいてねえ!)

 全身に走る悪寒に近い直感に素直に従い、レイは追撃を諦めサッと後ろに飛んだ。同時に、目の前を走る横薙ぎの一閃が腹部を裂き、視界を染めるほどの大量の血潮が噴き出たが、レイは気にも留めずにぼりぼりと頭を掻いていた。

「ったく、かってえ野郎だぜ。なに食ってりゃんなことになんだ?」

「はっ! てめえの拳なんざ10発でも100発でも効きゃしねえよ。俺は戦う為に作られた存在。んなもん蚊が刺されたくれえした感じねえ」

「へっ。ならお望み通りやってやんよ! 『百鬼』!!」

 不意に高速で銀角の視界から消え去るレイ。彼は一瞬、自身の周囲に風が吹き荒ぶように感じた。しかしそれはすぐに痛烈な衝撃へと変化した。全身を襲う激しい突風、いや、それは既に暴風。息をつく暇もないレイの連撃が、四方八方から銀角を襲っていたのだった。

(な、なんだこりゃ!? まるで姿が見えねえぞ! このままじゃ押し切られちまう! ええい、離れやがれ!)

 振り払うように力任せに棍棒を繰り出す銀角。しかしその攻撃はレイのいた場所の数瞬後を無残にすり抜け、逆に反撃の暴風に晒され根元からへし折られた。その後も連撃は止むことのなく続き、徐々に身体の中枢にまで衝撃が通っていった。

(ダ、ダメだ! 鎧越しに衝撃が襲いやがる! 早すぎる……いや、こいつは強すぎる! このままじゃ間違いなくやられちまうぜ! しゃあねえ、主義に反するが……やるしかねえか)

 銀角は何事かを心中で決意すると、大きく息を吸い込んで集中を深めようとした。だがその隙を逃さず、レイは速度を更に上昇させて連打を叩き込み、遂に暴風は彼の体を完全に宙に浮かせた。

「こいつでしまいだ! 成仏しろや! 『辻車』!!」

 レイは空中の銀角を足と腕で器用に絡め取り、そのまま頭部を下に向けて関節を固めると、猛烈な勢いを付けて垂直に地面へ叩きつけた。ぐしゃり、と鉄のひしゃぐような音が響き、めり込んだ地面には小型のクレーターが発生していた。

「……ふう、手こずらせやがって。まあかてえだけのゴミ野郎だったな。……ん?」

 その時、倒れた銀角の腕が不意に天を指した。その動きに操られるように、レイの体が引き寄せられていった。まるで見えぬ糸に動かされるように、身体の自由を奪われていった。

「……間に合ったか。術式『アラーニャ』。まともにやっても勝てなそうなんでな。ちっと小技使わせてもらうぜ」

 レイが集中して周囲を見ると、無数の闇力の細い糸が放たれ、そのうち幾筋かが左手に絡み付いていた。先程の攻防の最中に付けられたことは明らかであるが、歴戦の闘士レイが至近距離でまともに術を喰らうなど、長い人生で初めての経験だった。更にレイは、この術糸が力尽くで剥ぎ取れる種類のものではないとよく知っていた。

(まじい! 『固定術式』だ! こんなザコがあんな高等技術を!?)

 だが頭で何かを思う前に、既にレイの体は宙を浮いていた。銀角の強靭な腕力が糸を手繰り、鍛え抜かれたしなやかな体を地面に叩きつけたのだった。

「ぐうっ!」

 あまりの衝撃に呻き声を上げるレイだったが、銀角は休む事なく何度も何度も叩きつけた。操り人形のように振り上げられ、幾度となく地を舐めるレイの五体。必死で争うその姿を見て、銀角は歪んだ笑みを顔中に浮かべた。

「ヘッヘッヘ。さっきまでの威勢はどうしたよ? どうにもこうにも張り合いのねえ女だぜ」

「言ってろクソが! てめえなんぞは俺の敵じゃねえ! すぐにぶっ殺してやるぜ!」

 威勢のいい言葉とは裏腹に、地面をもんどり打ち血反吐を吐きながら、レイはただ考えていた。正確に言えば、それは思考と呼び得るものですらなかった。そもそも戦闘中にそんな器用なことが出来る性格ではない。やるべき事を肌で感じ、本能のままに動き切り開く。それがレイの昔から変わらぬ流儀だった。

(おっしゃ。んじゃテキトーにやっか。こちとらそろそろ……ブチキレてっからよ!)

 答えなどとうに決まっていた。苛烈な攻撃の最中、レイは迷うことなく左足を垂直に振り上げると、捕捉された自身の左手を根本から速やかに切断したのだった。

(マ、マジかよ!? 躊躇い1つなく腕を切り落としやがった!)

 コントロールを失って吹き飛ぶ左手に引っ張られ、ぐらりとバランスを崩す銀角。そしてその隙を逃す事なく、敵の胸元に一瞬にして飛び込むレイ。その右手には全霊の闘気が込められていた

(まずい! またあの連撃か! だがどうせ片腕だ! なんとかして耐えろ!)

 銀角の思考に反して、凶悪な闘気を放つ右拳は極めてゆっくりと、彼の胸部を覆う鎧の表面に軽く触れただけだった。すぐに訪れる静寂。あまりの事態に拍子抜けした彼は、嘲笑うように牙を剥いて叫んだ。

「ハッハッハ! 肝心なとこでスタミナ切れかよ。つくづく笑わせてくれるぜ、“先輩”?」

「ハッ! 俺はてめえなんざ知らねえよ。それに……笑わせてくれんのはてめえのほうだ! どんなに固え鎧もこいつの前じゃ意味はねえ! 『滅閃・包』!!」

 レイは美しい顔を好戦的に歪ませて、押し当てた拳にそっと体幹の力を加え、猛り狂う闘気の青い光を放った。破壊の波動はまるで蒸気のように鎧や体表をすり抜け、瞬く間に身体の内側にまで行き渡ると、神経を焼き尽くすが如き爆発的な閃光を放った。

「グォォォォォォ! そ、そんな……これは“あの人”の技!? ま、まさか……」

「へっ。ひさびさに使ったがわるくねえな。さっさと死んどけザコ野郎。俺は忙しいんだ」

 内側からの闘気の爆発により、鎧だけを残して跡形もなく砕け散る銀角。レイは無残な彼の姿にぺっと唾を吐き、すぐさま部屋を分断する壁を殴り壊した。

(ったく、とんだ時間を食っちまったぜ。今のお嬢様なら敵はねえが、なにぶん相手がわりい。案の定、ちっとばかり手こずってるご様子だ。早くお助けしねえと……)

 ふっと壁の穴越しにシャーロットの方を見据えるレイに、意図的に視線を送るデュオニソスは、心底見下したような厭らしい笑みを作った。

(あ?  ……ま、まさかあの野郎!)

 気付いた時はもう遅かった。レイは胸元に鋭い衝撃を覚え、臓腑から込み上げる痛みを感じて激しく吐血した。下げた視線の先には鮮血の突起物、硬くて巨大な何かがレイの胸を貫いていた。

「ヘッヘッヘ、やっと油断してくれたな。さすがは『楔』の力ってとこか。どうやらまだ鐘は鳴ってねえみてえだぜ」

 銀角の太い声が後ろから微かに聞こえた。生暖かい鉄錆の味を口中で味わいながら、レイは目を見開いて拳にあらん限りの力を込めた。


 一方、魔女シャーロット。

 レイの激しい戦いが続く中、シャーロットとデュオニソスは静かにお互いを見つめ合っていた。だがその眼差しの内には静かなれど激しい殺気。ピリピリと肌を刺す剣呑な気配の中、突然デュオニソスはふう、とわざとらしく息を吐いて、呆れたように肩を竦めた。

「……嫌ですねえ。そんな怖い顔をして。昔のように仲良くやれませんか?」

「……」

 シャーロットは無言のまま、静かに首を横に振った。その表情からは明確な感情は読み取れなかったが、その張り詰めた空気を虚仮にするように、デュオニソスはけたけたと楽しそうに邪悪に笑った。

「もしかして、まだ“あのこと”を怒っているのですか? もう済んだことじゃありませんか」

「……貴方の挑発には乗りません」

 厳粛な声でシャーロットは端的に言い切った。そんな中でデュオニソスは、如何なる奇術かふわふわと宙に浮いて、けたたましく拍手と嘲笑を繰り返していた。

「ふふ。よく考えて下さいよ。私と戦っても貴女に得なんてありません。我が主もバラム様も、そんな事を望んではいませんですから」

「損得ではありません。私には使命があるのです。決して曲げることの出来ぬ、世界を守るという使命が!」

「殊勝なことですね。けれど貴女の生真面目さなど、今の世では何の意味も持ちませんよ。そもそも貴女の言っていることが正しいと、正義が誰にあるかなど、一体どこの誰が証明してくれるというのです?」

「私は、自分の意思を信じています。例え誰が何と否定しようとも、誰を敵に回そうとも、私は進み続けます」

「おやおや、問答になりませんね。誰に何を吹き込まれたか知りませんが、実に哀れなことです。それにね、お姫様。貴女が……私に勝てるとでも?」

 不規則に宙を漂いながら、彼はより一層小馬鹿にした笑みを浮かべ、かん高い声を四方から轟かせた。

「まず第一に、ここは地下です。月の光が届かぬ牢獄では、あなた“方”の力は半減します。如何に満月であるとはいえ、ね。第二に『楔』の力。私達はね、あそこから力を吸収しているのです。古来の呪物か何か存じ上げませんが、我が主が求めるのも理解できますねえ」

 空間内に無数の幻影を描き挑発を繰り返すデュオニソスを、キッと眉間に皺を寄せて見据えるシャーロット。しかし彼は動じない。変わらずのいやらしい笑みを貼り付けて、道化師は更に嘲笑する。

「第三に、これが一番の原因ですが……貴女は例の術を使ってるでしょう? あれだけ禁じられていたというのに、聞き分けのない娘ですね。我々の世界での不老不死とは、穢れた魂の移譲と同意です。つまりあなたは命の“淀み”を抱えているのです。そうして立っているだけでもやっとでしょう? 早く楽になったらどうですか? ……こんな風にね!」

 突如として動きを止め、道化師はシャーロットを鋭く指差した。その時既に、彼の背後には巨大な術式が浮かび上がっていた。ただふざけて空中を浮いているように見えてながらも、周到にこれだけの大術を準備していたのだった。すぐに術式は崩れ落ち、中央に光と熱が集中し一点に向けて放出された。轟音とともに放たれた極大の閃光に飲み込まれ、姿すら見えなくなるシャーロット。場には狂ったような道化師の高笑いだけが響いていた。

「……『ソル・グランデ』!! それだけの才能を持ちながら、世界に誇れる比類なき能力を生まれながらに携えながら、その甘さが全てを無にするのです。クハッハッハッ!!」

 放たれた閃光はやがて消え失せ、立ち昇る黒煙だけが部屋内を包み込んでいた。だが煙が晴れるにつれ、デュオニソスの顔から徐々に笑みが消えていった。そこには全くの無傷で、シャーロットが無表情で平然と立っており、彼は内心の忌々しさを隠してふんと鼻を鳴らした。

「……ほう。今のが通用しませんか。流石はハイドウォーク家に伝わる秘術『固定術式』ですね。自動発動でありながら、通常の術結界のレベルを遥かに超えています。一応褒めておきましょうか」

「はて? 今の私は『ベール』など使っておりませんが。もしかして……今のお遊びが貴方の全力ですか? だとすれば、あと1分で終幕と相成るでしょう」

 さらりと冷たく言い放つシャーロットの背後には、湧き上がる膨大な闇力の渦。桁外れの力を目の前で示され、背筋に冷たいものを感じた彼は、笑顔の裏に緊迫の色を浮かべた。

「なるほど。やはり貴女は怪物だ。これは引き締めてかからねばなりませんね」

「引き締める? 貴方如きが? ふふ。面白い話ですね。まさか引き締めた位で、私に勝てると本気で思ってらっしゃるのですか? ……『マグナ・トレス』!!」

(この一瞬で三重術式ですと!? い、いけません!)

 次の瞬間、デュオニソスに喰らいつくように地面から3本の火柱が上がった。咄嗟に宙を舞って回避した彼だったが、その視線の先には全身から漆黒の波動を放出する、漆黒の魔女シャーロット=ハイドウォーク。彼女の眼は狂いそうな真紅の狂気を帯び、魂まで握り潰さんばかりの漆黒の圧は、彼の臓腑を残らず縮こませていた。

「地下だから? 古き力を得た? 不死の呪い? それが私が負ける理由? ……昔から笑わせてくれますね、デュオニソス。忘れたのなら教えて進ぜましょう。真のハイドウォークの力を」

「好きに言うがいい! このデュオニソス、バラム様の忠実な僕にして、ハイドウォーク家に絶対服従する身。貴女など過去の遺産であると、その身に刻んで差し上げましょう!」

 その言葉を合図に、2人は同時に術式の構築に入った。物凄いスピードで組み上がる双方の複雑な術式は、空間全体に幾何学模様を描き、戦場は異様極まる相を呈していた。

(とは言ったものの……現実問題として私の闇術は、シャーロットの足元にも及びません。認めたくありませんが、満月の夜のハイドウォークは最強です。ならば……必要なのは速度! 機先を制し動きを止め、術そのものを封じるしかありません。通常術『ソル』の多重発動で片をつけましょう!)

 高速で組み上がるデュオニソスの術式は、即座にその形を失い、自然の摂理を捻じ曲がていった。すぐに3本の閃光が空間に現れ、シャーロットに向けて放たれんとしていた。だがその時!

「遅いですよ、デュオニソス。……『マグナ・グランデ・クアトロ』!!」

 シャーロットの術式はそれよりも遥かに早かった。彼女から放たれた4つの巨大な炎の塊は、デュオニソスの放った閃光を軽々と飲み込むと、更に力を増して彼に襲いかかった。

(じ、上級術式ですと!? しかもこの短時間で4つ!? やはりこいつは規格外の化け物です!)

 轟音を上げながらデュオニソスを飲み込む爆炎。だがシャーロットはその結末には目もくれず、次なる術式の構築に取り掛かっていた。重傷を負いながらも辛うじて宙に逃れたデュオニソスは、爆風に乗って飛翔しながら、一気に彼女に接近した。手に持った短剣が怪しく輝き、彼は愉悦の表情を顔中に浮かべていた。

「貴女の弱点はたった一つ。この距離ならば術は無力化できます。さっさと大人しくしてもらいましょうか!」

「……見識、技術、共に未熟極まりますね。この10年間、一体何をなさっていたのですか? ……『ビエント・グランデ・デッド』!!」

 瞬間的な術式の発動と共に大気が収束し、シャーロットの体の周りを風の刃が包み込んだ。見えない無数の刃の鎧が完全に彼女を守ると同時に、突き出したデュオニソスの右手を音も無く吹き飛ばした。

「グッ!」

 風に巻き込まれて吹き飛ぶデュオニソスを、シャーロットは冷たい目で見つめていた。その上で更に続く彼女の術式。今度も風。但し性質は全く異なる、空間全体を切り裂く爆発的な突風だった。

「貴方と問答する暇は私にはありません。速やかに消し飛びなさい。……『ビエント・グランデ・クロス』!!」

 回避不能の広範囲に渡る暴風は、デュオニソスの全身をいとも簡単に切り裂き吹き飛ばした。遥か彼方の防壁に打ち付けられ、半死半生で血を吐きながらも、彼の顔から独特の歪んだ笑みは消えなかった。

「……なるほど。やはりまともにやり合っては分が悪いですね。さすがです、シャーロット“様”。……ですが、今の私には勝てません。古の盟約『楔』の力、その身で思い知るが良いでしょう! いでよ、闇の眷属達!」

 部屋の各所が突如として揺れ動き、不吉な軋音が聞こえてきた。そしてデュオニソスの叫び声と共鳴するかのように、漆黒の文様が部屋全体に浮かび上がった。と同時に湧き上がる漆黒の影。人のそれを遥かに超える巨大な醜悪の姿、眷属オーガー。しかも……同時に10体以上!

 だがシャーロットは無表情のままだった。彼女はふうと1つ小さなため息をつき、術を操っていた両腕をだらりと降ろした。憤る闇の影に四方を包み込まれ、悪意に魂を握り潰されんその時に至っても、彼女の目から光が消えることは無かった。そして呆れ返ったような、失望したような口調で、彼女は道化師に哀れみの視線をぶつけた。

「よもやこんなものに頼るとは……つくづく落ちたものですね、デュオニソス。バラム先生の力に縋ったところで、彼も私も超えることはできませんよ」

「勝てばいいのですよ。どんな手段を使ってでも、目的さえ達せられれば全ては正当化されます。貴女のような甘い方には分かりませんよ。……それでは、第二幕といきましょうか! 行け木偶ども! 標的を沈黙させなさい!」

 甲高い声の合図を受け、一斉にシャーロットの元へと群がるオーガー達。ズシンズシンと地響きが鳴り起こり、地表を闇の波動が広がっていった。シャーロットは眉間の皺を一層深くさせ、術式の光を怨念のように青白く輝かせた。


 もう一つの戦場。

 胸を大きく貫かれたレイは、その瞬間痛みを感じてはいなかった。元々多少の痛痒など屁とも思わないレイだったが、目の前に広がる信じ難い光景に、本来感ずるべき感覚が吹き飛んでいた。

 それは奇妙な光景だった。背後には確かに銀角がいて、自分の胸を突き刺していた。しかしあろうことか、目の前には同じ顔の男が薄笑いを浮かべていた。いや、より正確に言えば……地面から生えてきていた。しかも……2人も!

(おいおい。マジかよ。あのクソ野郎お得意の幻術か!?)

 レイはデュオニソスの術技を思い浮かべ、意識を脳髄の芯に向けて急速に集中させた。激しい痛みとともに、感覚が錐のように研ぎ澄まされていく。が、目の前の像は全く変化する気配がなかった。鎧こそ着込んでいないものの、どれもこれもが確かに銀角の姿であった。彼らは地面から身を乗り出すと、岩石を細く棒状に変化させ、レイの頭部に向けて勢いよく振り下ろした。

(っと、こりゃ死ぬな。しゃあねえ。“使う”か。……『降魔・フェンリル』発動!!」

 激しい地響き。怒りの鉄槌により大地が裂け、残ったのはレイの肉塊のみとなる筈だった。しかし、実際に砕け散ったのは背後にいた銀角の1人だった。他の2人が気付いた時には、レイは銀色の闘気を身を包み、獣の如き姿に変化していた。瞬時に接合した左腕を足のように使い、周囲には銀色の疾風が吹き荒れていた。

「へっ。なんとか間に合ったか。ギリギリもいいとこだな」

「ああ!? てめえも『降魔』だあ? 舐めたマネしてんじゃ……」

「うるせえ! つうかよ……おせえぞバカ! 『紫電』!!」

 強力な力の波動を身に纏い、レイは目にも止まらぬ速度で戦場を駆け抜けた。乱雑に振り回す銀角達の攻撃などかすりもせず、瞬く間に吹き抜ける風の前に、彼らは廃材の如く瞬時に解体されていった。やがてレイが後方に着地した時、辺りに動くものは何もなく、静寂だけが場を包み込む……はずだった。

「おうおう。見事にやられちまったぜ。てめえほんと強えな。旦那もよくこんな仕事を押し付けたもんだ」

 野太い声が響き、レイの足を地面から生える腕がむんずと掴んだ。1人だけではなく2人……いや3人目も!

「……てめえ。フザけた身体してると思ったら、やっぱ『降魔』か。ゴミのくせにチョーシこいてんな」

 だがレイの問い掛けは宙に浮いた。比喩では無く、その身体が宙を高く舞ったのだった。捕まれて投げ飛ばされ、体をしたたかに壁に打ち付けられるレイの耳に、不敵な笑い声が多方面から届いた。

「ガッハッハ! どんなにてめえが強かろうが、この俺にはぜってえに勝てねえよ。『楔』の加護の前には全てが無力だ。大人しく死んどけや」

「笑わせんじゃねえ! ここで死んだらあのクソに顔向けできねえだろうが! 一気にブチかますぜ! 『紫電』!!」

 白銀の体毛をはためかせ、再び高速で駆け抜けるレイ。強大な体術の前に、またしても面白いほど簡単に砕け散る銀角達。そして、面白いほど簡単に復活する彼ら。

 それでも諦めることなく、ただ闘い続けるレイ。脳裏に過るのはシャーロットのこと。そして、旅の中ですれ違った1人の人間の男のこと。

(お嬢様、ご無事でいらっしゃいますか? 俺は必ずお嬢様のために……見てやがれ、クソ商人!)


 シャーロットの戦場。

 彼女の周囲に無数に生まれ続ける術式。押し寄せる無数の闇の眷属達に対し、破壊の術が次々に炸裂し弾け飛ばしていた。だがそれでも止むことのない闇の蠢き。遂には肩で息をし始めたシャーロットに対し、デュオニソスは心底楽しそうに笑った。

「いいですねえ。流石の貴女でも限界が近そうです。いくら何でも“この世界を統べる力”には太刀打ちできませんよ。いい加減負けを認めなさい」

「……」

 シャーロットは無言で腕をダラリと垂らした。顔を下に向け、力なくその場に立ち尽くす姿に、デュオニソスは恍惚の表情を向けた。

「そうです! それでいいのですよ! もちろん命は取りませんよ。貴女には我が主の元に戻ってもらいます。それが貴女にとっても最良なのです。有るべきものは、有るべきところに置かれるべきなのです」

「私は……」

「何です? 聞こえませんよ。はっきり降伏の意思を示しなさい」

「私は……誰の所有物でもありません!」

 見開かれる真紅の瞳。全身を覆う紫がかった漆黒の力の奔流。そして描かれる5メートルほどの立体術式。地上にいる工場中の人々が威圧感を感じるほどの、世界を震撼させる程の力がここに集まっていた。

「こ、これは! この術は! ……者共、大至急私を守りなさい! 事は一刻を争います!」

 デュオニソスの顔から初めて一切の余裕が消えた。わらわらと彼の元に寄るオーガーの群れ。だがその時既に、シャーロットの極大術が完成していた。

「闇とは深淵の意思、言うなれば深き記憶の結晶です。しかし私は私の意思でここに立ち、貴方を滅します。必ず! ……禁術『プルガトーリオ』!!」

 シャーロットの手から産み出されたのは、その膨大な闇力の勢いに反し、卵ほどの小さな黒い塊だった。“それ”は誕生するや否や、ふらふらとデュオニソス達を目掛けて進み、極めてゆっくりとした速度で浮遊していった。部屋の中央に進んだ辺りで、1匹のオーガーが力任せにそれを腕で叩きつけた。と同時に巻き起こる闇の鳴動、絶叫、咆哮。

「オ、オ、オ、ゴログォォォォォォオ!!」

 まるで赤子の叫びのように、深く揺れる深淵の吐息。“それ”の中央から聞こえてくる、誰もが耳を覆う絶望の呻きと共に、徐々に広がる闇の渦が部屋一面を覆い尽くしていった。“それ”に皮膚一枚触れただけのオーガー達は、瞬く間に渦に吸い込まれ跡形も無く消えていき、更にその勢いを増していった。漆黒の渦はやがて部屋の隔壁をも飲み込み、レイたちの領域にまで侵食していった。

「お、お嬢様! あの術は……危険すぎます!」

「な、なんだありゃ! おい旦那! そりゃやべえぞ! さっさと逃げろ!」

 危機を告げる2人の声が同時に重なった。だが一切止まる気配を見せぬ絶望の奔流を前に、死闘を中断し一旦距離を取る2人。一方でデュオニソスは、自身が行使し得る最大の術式を構築し、決死の覚悟で身構えた。

「(馬鹿めが。逃げられるならとうにやってます。まさか禁術を使うとは……ですが、考えようによってはまたとない好機です。これに耐えさえすれば、凌ぎ切れれば、いくらシャーロットとはいえ暫く術は使えないでしょう。木偶どものおかげで術式の時間は稼げました。私の最大の術で防ぎ切るしかありません)……究極術式『ソル・ウルティマ』!!」

 周囲の空間が妖しく捻じ曲がり、光り輝く熱の集合体がデュオニソスの目の前に出現した。煽りを食らって一瞬で消し飛ぶオーガーの一群になど意にも介さず、膨らみ続ける光球はやがて臨界点を超え、空間を覆い尽くす巨大な一閃となり闇の塊に襲いかかった。

 激しい音を立ててぶつかり合う光と闇、弾け合う強大な術空間、そして大汗をかきながら目の前の術に力を込める2人の術者。レイと銀角は唖然とすることしか出来ず、固唾を飲んで成り行きを見守っていた。

 それは、時間にして数秒のことだった。しかし見ている者には数時間にも感じられる、緊迫した時間がようやく終わりを告げた。2つの術が同時に収束して、煙が晴れた後には、がくりと膝をつくシャーロットの姿があった。一方では不敵に笑みを浮かべるデュオニソスだったが、その首から下は何も付いていなかった。不敵に微笑んだままごろりと地に落ちる頭部を見て、レイは勝利を確信して思わず腕を突き上げた。

「お嬢様! やりましたね!」

 シャーロット美しく微笑んで、駆け寄ったレイを強く抱き締めると、そのまま……手刀で内臓を抉った。

「え?! そ、そんな……お嬢様、どうして……」

 口から激しく血を吐きながら、レイはその場に崩れ落ちた。生気の籠らない目付きで、シャーロットの真紅の瞳はいつしか灰色に落ち込んでいた。無残な光景に腹を抱えて笑う銀角、そして……無傷のままのデュオニソス。

「て、てめえ……なんで生きてやがる!」

 必死に言葉を振り絞るレイに、彼は手元で怪しく輝く術式を愛おしそうに見つめながら、小馬鹿にしたような半笑いで返した。

「いやあ、実に危ないところでしたよ。正確に言えば、ちゃんと殺されはしたのですけどね。やはり私がシャーロットに勝つ事など不可能でした。種明かしは簡単ですよ。あらかじめ私は自分の一部を、『楔』の内部に避難させておいた、ただそれだけです。囚われのお姫様は決してあそこを攻撃しませんからね。つまりどんな術を使われても、あそこだけは安全という訳です。ご存じの通り、魂魄の分離は私の特技。保険のつもりで欠片だけ残しておいたのですが、まさかこんなに上手くいくとはね」

「うるせえ! お嬢様になにをした! 許さねえぞクソ野郎!」

「見ての通り、呪術ですよ。この術式が見えませんか?  ……おっと、貴女のような下等生物に無茶を言ってすみませんね。私の師であるバラム様より下賜された、太古の秘術の欠片です。あなたに解除など不可能ですよ。既にシャーロットは私の支配下にあります。さて、貴女にもう用はありません。銀角さん、お願いしますよ」

「あいよ。そういう訳だ。そろそろ死にな。……『降魔・ペテルギウス』!! 」

 再び地面から無数に生えてくる銀角の一群。必死にシャーロットを引き離したレイの前に、容赦のない渾身の打撃が四方から振り下ろされた。頭蓋骨をへし折られ、全身引き裂かれ血塗れになりながら、無惨にもレイは吹き飛ばされていった。その体は人の形を保てぬほど歪に変形し、部屋の入口をも突き破り外壁部にまで叩き付けられた。

「いやあ、頭が軽いせいかよく飛びますね。とはいえ奴は生まれこそアレですが、ガンジ様に直々に鍛え上げられ、降魔まで授かった屈強な戦士です。絶対にまだ死んではおりません。さあ、シャーロット。自身の手でトドメを刺しなさい。貴女の希望を、自分の手で絶望に塗り替えるのです」

「……」

 彼の声に従い、ふらりと入口に向かうシャーロット。その手には一振りの短剣が握り締められていた。その光景を見て、けたたましく笑い続ける道化師。

「ああ、なんという喜劇でしょう! まさか最愛の主にトドメを刺されるとは! しかしすべては貴女の責任ですよ。貴女がこんなに弱いからいけないのです。弱くなったからいけないのです! 貴女のヘドの出る甘い思想が、今この世界が置かれている原因なのですよ! オーッホッホッホッホ!!」

 派手に術式で火柱を打ち立てながら、狂ったように笑うデュオニソス。2人の戦いには、既に敗北が焼印の様に刻まれていた。もう救いはないのだろうか? このまま2人は闇に屈してしまうのか? どこかに希望の2文字はないのだろうか?


 一方、レイの意識は失われつつあった。今迄の記憶が混濁し、目の前の絶望的な光景に疑問を抱くこともなかった。

(……まちがいねえな。俺は、ここで死ぬ)

 真実に肉薄した直感だった。身動きも取れない。闇力も切れた。降魔もとうに時間切れだ。それよりも何よりも、既に気持ちが切れていた。仮に動けたところで、今の自分には悪意に操られるシャーロットをどうすることも出来ない。まさに詰みだ。次第に近付きつつある主人の変わり果てた姿を見て、レイは目を閉じてぽつりと呟いた。

「お嬢様……本当にすみません」

 涙が出てきた。自分の情けなさに、弱さに、無念に。止めようとしても止められない。その時、頭の中に、記憶にあるいつもの低いダミ声が響いた。

(何じゃ、情け無い虫じゃのう。いつもの強気は何処へ行きおった? これだから下等生物は好きになれんのじゃ)

 反射的にふっと笑うレイ。いよいよ幻覚が見えてきやがったか。そう自嘲しながらも、ふんとせめてもの気を吐いた。

「……ふざけんじゃねえ。この状況見ろよ。どうにもなんねえよ。いつもいつも好き放題言いやがってよ」

(貴様の羽毛の如き脳味噌では理解出来んじゃろうが、一見して危機に見てる状況ほど、底には好機が潜んでおるものよ。今後の為に覚えておくがよいぞ)

「うるせえ! んなのどこにあるってんだ! 俺は死にかけてんだ。策があるならさっさと言え! この口だけ野郎が!!」

「ケッヒョッヒョ! 儂の知恵が欲しいと申すか? ならば土下座して頼むがよい。貴様の軽い頭ならば容易に大地に埋まろうて」

「てめえいい加減に(……ん? ……ま、まさか?)」

 ぼやける視界の先には、傲慢なあの男の顔。垂れた目と下卑たにやけ面で、悠然とふかしたキセルの臭い。そう……これは!!

「ふん。ようやく目が覚めおったか。軟弱な弱音を吐き終えたのならば、さっさと耳を貸せい。後悔など時間の無駄じゃ。つまりは損じゃ。儂は損だけは大嫌いなのじゃ」

「……てめえ! 今までなにしてやがったんだクソ商人!」

「まったく喧しい声じゃのう。いいから儂の話を聞けい。そもそもあの術をの……儂の見ておった限り、例の岩男の本体はの……つまりは貴様はじゃな……」

「!! マジか! 言われてみりゃ……つうかてめえ、なにコソコソしやがんだ! 見てたんなら最初から手伝いやがれ!」

「グェポ!! ……ふん、まったく仕様のない虫じゃ。作戦はしかと理解出来たかの? もう動けぬなどと泣き言を申すでないぞ。貴様の汚らわしい泣き顔で、既に儂は胸焼け寸前じゃて」

「ったりめえだ! 誰にモノ言ってやがる! 10秒でぶっ殺してやるぜ! だからよ……あとはまかせたぜ!!」

 へし折れた心が、瞬時に元に戻った。頭の先からつ足の指にまで、今まで感じたことのない力が溢れていった。レイの唇は僅かに歪み、脳髄を貫く仄光のような感覚に身を任せた。

(……ったくよ。しゃあねえ、認めてやらあ。てめえはどうしようもねえクソだし、ゴミ以下のダニ野郎だがな……まちがいなく俺たちの仲間だ!)

 翔る、レイ。その動きには先ほどまでの迷いや逡巡は微塵もなかった。レイは、心から彼を信じたのだ。それはレイにとって、生まれて初めての感覚だった。信頼に足る男が、信頼を決して裏切らぬ男が、自分の代わりに必ず成し遂げてくれると、一切の疑いなくそう思えたのだ。

 全身から噴き出す鮮血など気にかける様子も見せず、レイはただひたすらに駆けた。こちらへ向かうシャーロットの攻撃を容易く潜り抜け、ただ一目散にデュオニソスの元へと。それを見て道化師は心底楽しそうに笑った。

「ねえ、銀角さん! 見てくださいよ! あの必死な顔ったらないですね。命懸けで私の術を解除しようって腹積もりなんでしょうが、何の策も浮かばず猪のように突進するだけが関の山、と。これは上質な喜劇ですね! いや、悲劇かもしれませんが。ふふ、ふふふ! こんなに笑ったのは久しぶりですよ。本当に愚か者は救えませんね。私は手が離せませんので、あれに現実を教えてやって下さい、銀角さん」

「ヘッヘッヘ。旦那に言われるまでもねえよ。行け!『ペテルギウス』!!」

 にやにやと笑う銀角は、異形と化すほど全身に闇力を集め、内から湧き出す異能を大地に込めた。数秒後、彼の視線の先には、もう二体の銀角によって突き刺された哀れな人形の姿。血を吐きダラリと全身を弛緩させたレイは、これ以上身動きする気配すら示さなかった。

「おっと。銀角さん、やりすぎですよ。とどめはシャーロットにやらせなくては。死にゆく彼女にも、生かされる彼女にも、平等に絶望を与えましょうよ」

「へへへ。本当にたちの悪い男だぜ。性格までバラム様そっくりだよ。つくづく敵に回したくねえや」

「ふふ。光栄ですね。高尚な趣味とは、凡人にはなかなか理解されないものですよ。さあ、シャーロット。今度こそあれを始末なさい!」

 部屋の入口付近で立ち尽くすシャーロットの方を、改めて見遣るデュオニソス。だがその時、彼の眼に飛び込んできたのは、視線を迷わせながらふらつくシャーロット……だけでなく、彼女の背後から勢い良く飛び出す3本の紫色の螺旋の軌道だった。

「なっ! 一体何ですか?!」

「おし! バッチリだクソ商人! 『紫電』!!」

 驚く暇もなく彼に襲いかかる破壊の螺旋。それは寸分違わずデュオニソスの手元、シャーロットを縛る忌まわしき術式を真正面から捉え、激しい破裂音と共に崩壊させた。集まった闇力は行き場を無くして暴走し、その反動で彼は壁まで吹き飛んだ。更に残りの弾丸は銀角達を捉え、装甲に弾かれたものの一瞬だけ彼らの動きを封じ、次なる動きを遅らせた。そこに合わせて復活したレイの拳が、実に易々と彼らを塵芥へ変えていった。

「グワッハッハッハッハ!! まさかここまで上手くいくとはのう。虫も中々の演技じゃったわい。貴様らの傲りに感謝と言ったところじゃのう」

 けたたましい笑い声と共に部屋の入口から登場したのは、この物語の主人公、オウリュウ一の大商人……そう、金蛇屋藤兵衛その人であった。悠然とキセルをふかし、右手の銃をくるくると回転させ、傲慢と自負を全身で示し、彼は尊大に言い放った。

「貴様……シャーロットの影でせこせこと! そんな矮小な闇力で、よくもこんな舐めた真似をしてくれたものですね」

 衝撃に口から血を吐きながら、内心に怒りを隠しながらも、デュオニソスは闇力を滾らせて激しい口調で恫喝した。しかし藤兵衛は動じない。この男は動じない。

「その矮小な者に、つまらぬ人間風情に一杯食わされたのは何処の誰じゃ? 負け惜しみも大概に致せ。悔しくて堪らぬと顔に浮き出ておるぞ。そもそも貴様のその格好は何じゃ? 無為に似合わぬ化粧などしおって、阿呆の趣味とはつくづく理解出来ぬのう。貴様風情が儂の前で背伸びなぞしても、足を挫くが関の山ぞ。ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!!」

「……貴方の事は知っています。穢らわしい人間がよくほざくものですね。例の術で死なぬと高を括っているようだが、死ぬより辛いことなど世の中にいくらでもあるのだぞ!」

「何じゃ? どうした? しっかりせい。狂人の次は凶人など、実に単純な演技じゃのう。そもそもこの戦に於いて、高を括っておるのは貴様らの方じゃな。貴様らは……うちの虫を舐めすぎじゃ!」

 その時やっと、この場に起こりつつある異常に気付いたデュオニソス。傷付き無力に見えたレイは既に行動を開始しており、身に纏う異形の銀狼の力にぞくりと背筋が震えた。明らかに余力を残し、大地を震わせる程の闘気を拳に集め、しかもレイの狙う先には……。

「い、いけません銀角さん! 奴を止めなさい! 本体が割れています!」

「もうおせえぞバカ! こいつでしめえだ! 『降魔・フェンリル』全霊発動!! ……『滅閃・風狼』!!」

 異形の四足獣の化したレイの拳の先から、研ぎ澄まされた銀色の闘気が破裂するが如く飛び出した。その威力に耐えきれずに千切れ飛ぶ右腕。狙う先は一点、脱ぎ捨てられ部屋の隅に捨て置かれる銀角の鎧。

「マジか! んなの……させっかよ! 『降魔・ペテルギウス』全霊発動!!」

 地から這い出した無数の銀角が壁のように立ちふさがり、拳と鎧を結ぶ一直線上に割って入った。瞬く間に粉々に砕け散る彼らだったが、その分の勢いを殺され、鎧には致命的なダメージは入らなかった。

「見たか馬鹿野郎! てめえはもう終わりだ! 所詮は出来損ないが……」

 塵芥に砕け散りながらも、必死で悪態をつく銀角。しかし、最後の闘気を左腕に込めて、妖艶に笑うレイの姿がそこにはあった。

「へっ。ざけんなクソ野郎! これが最後の一撃だ! 『滅閃・連』!!」

 絶叫と共にレイの左腕が神々しく光った。渾身の、文字通り全身全霊を込めた一撃が、射線上の鎧を再び襲った。二筋の銀色の閃光は、一瞬だけ鎧にまとわり付くように包み込むと、次の瞬間爆音と共に貫通し粉砕した。魂の宿る器を砕かれ、その場に突っ伏して崩壊する銀角。

「ぐわああああああ! い、嫌だ! 死にたくねえ! デュオニソスの旦那、なんとかして……」

「やれやれ、所詮は実験台の人形といったところですか。よく頑張りましたね。ではさっさと地獄へ落ちなさい」

 デュオニソスは首を横に振り、口元だけに笑みを貼り付けた。銀角達は足掻き踠きながら全身から謎の青い発光を放ち、一言だけ、すぐ側のレイにだけ伝わる小さな言葉を放った。

「俺……は……お前の……」

 それを聞くとレイの表情が僅かに強張った。だがすぐに無表情に戻ったレイは、断頭台の様に足を振り下ろし、全ては風の中に消えて行った。そして、レイは力無くその場に崩れ落ちていった。

「おい、クソ商人。……あとは任せた」

「ふん。阿呆は阿呆らしくさっさと寝ておれ。後はこの儂、金蛇屋藤兵衛に任せるのじゃ」

 レイは少しだけ微笑み、中指を立てたまま意識の海に落ち込んでいった。その様子をちらりと眺めてから、彼は悠然とキセルをふかしつつデュオニソスに向き合った。

「お待たせして悪かったのう、道化よ。命乞いをする準備は出来ておるか?」

「いいえ。待ってなどいませんし、既にあなたを殺す準備は出来ています。さっさとお死になさい。……『ソル・グランデ』!!」

 デュオニソスの構築した術式から生み出された巨大な閃光が、藤兵衛目がけて放たれようとするその刹那、藤兵衛は床に倒れ込みピクリともしないシャーロットを無理矢理立たせると、あろうことかその陰にぴたりと隠れた。

(こ、こいつ! まさかシャーロットを盾に!)

 歯を噛み締めて咄嗟に術の方向を変えるデュオニソス。閃光は彼らを僅かに逸れて、背後の岩壁を易々と粉砕した。怒りの視線を向ける彼を見て、藤兵衛は心底小馬鹿にしたように嘲笑した。

「ガッハッハ! 先の闘いで明らかじゃ。貴様らはシャーロットを決して殺せぬ。極限まで弱らせ拿捕せんとする魂胆、それを傲慢と呼ばずして何と呼ぼうかの? ケヒョーッヒョッヒョッヒョ! 悔しそうじゃのう? 実によき顔じゃ。ほれ、先ずはこの状況を何とかしてみぬか。『ミヅチ』!!」

 藤兵衛は歯切れよく言い放ちながら、銃弾を3発同時に打ち込んだ。とっさに身をよじって避けようとするも、かわし切れず1発を左肩に食らってしまうデュオニソス。血を流し歯軋りす彼に、藤兵衛は下卑た笑いを浮かべて次なる弾を装填した。

(まさか身動きのできない女を……よりによって自分の主を盾にするとは! 何たる下衆な男ですか! それに加え……厄介なのはあの銃弾です。普段の私ならば簡単に弾ける威力ですが、今の私は通常時の10分の1程度の力しかありません。物量と発射速度にのみ特化したあの攻撃は、この状況下では極めて危険です。この男は……それら全てを最初から計算に入れています! 自らの弱さを逆に活かし、勝利のためにあらゆる手を講じて! たかが人間と侮っていましたが……このままでは間違いなくやられます。後先を考えず本気で挑まねば、あの穢らわしい男に殺されます!)

 デュオニソスが手を止め思考を繰り返す間も、藤兵衛は呼吸を整えつつ、慎重に次なる銃弾を装填させていた。油断を消し去り冷静さを取り戻したデュオニソスの目は怪しく光り、彼の動きをつぶさに捉え、やがて不敵な微笑みを浮かべた。

「どうやら貴方のその攻撃は、同時に3発が限度のようですね。その程度の実力で向かってくるとは、この私も舐められたものです」

「さて、どうかのう。当たっていればよいのじゃがな。先ずは現実を見据えい。もし仮にそうだとしても、そんな程度の低い力しか持たぬ儂に、貴様はここまで追い込まれておるのじゃ。情けない話よのう。地獄で己の未熟さを悔いるがよいわ。くらえい! 『ノヅチ』!!」

 シャーロットを背負う手を強めて、藤兵衛はデュオニソスを憐れむように口角を曲げながら、狙い澄ました弾丸を心臓目掛けて発射した。だが彼は回避することなく敢えて正面から攻撃を受け、血反吐を吐き吹き飛びながら再び不敵に笑った。

「……確かに貴方は強い。これが人間の戦い方というものですか。勉強になりました。しかし……こうしたらいかがでしょう?」

 ずるり、とデュオニソスの体内から不吉な音がした。心臓から湧き出る闇力を全身に行き渡らせると、次の瞬間まるで細胞分裂のように、内側から花びらの如き触手が湧き出した。触手は瞬く間に本体を覆い尽くし、同時にその一本一方から無数の術式が湧き上がった。突然の事態に狙いを定め切れぬ藤兵衛に向け、術が嵐となり一斉に襲い掛かった。

「な、何じゃこれは! ヒ、ヒイイイイ! お、お助けあれ!」

「悔いるのは貴方の方でしたね。これが私の最後の切り札です。踊りなさい、『降魔・アルラウネ』!! 下賤な者を打ち払うのです!」

 触手が舞い、場に溢れる闇の術。シャーロットを器用に避けながら、逃げ惑う藤兵衛のみを追跡し、闇の腕は幾重にも喉笛を狙い続けた。それでも彼はシャーロットを振り回しながら銃撃と後退を繰り返し、辛うじて致命傷を避けていた。

「ふ、ふざけるでないわ! こんな話は聞いておらぬぞ! おい、シャーロット。早く目覚めぬか!」

「何ともまあ、逃げ足だけは早いものです。貴方に彼女ほどの力があれば、こんな目には合わずに済んだのですよ。すべては貴方の未熟さが招いた結果です」

「ふん! 喧しいわ! 未熟じゃろうが何じゃろうが、儂は今出来る事を全力でやる以外に道はない。貴様のような阿呆には分かるまいて」

「あなたとの問答も飽きました。ではフィナーレと行きましょうか。害虫を食い散らす守護者よ、御出でなさい。……『アラーニャ・グランデ』!!」

 複雑な術式が巻き起こり、デュオニソスの身体から何百本もの白い粘着質の糸が産み出された。ぬるぬると激しく湧き出る糸は、藤兵衛たち目掛けて広範囲に押し寄せた。咄嗟に逃げようとする藤兵衛だったが、部屋の大半を占めるほどに撒き散らされた糸の前に、為すすべもなく追いやられていった。やがて糸の先端が彼らを捉えたかと思うと、あっという間にシャーロットの身体をぐるぐる巻きにし、藤兵衛の銃も巻き取られ、糸の塊の一部となってしまった。

「な、何ということじゃ! まったく離れれぬぞ! これはまずいわい!」

「さて、形成逆転ですね。簡単なものです。その銃はもう使用できませんよ。何か言い残すことはありますか?」

 一歩ずつ彼に近寄りながら、デュオニソスは勝ち誇った厭らしい笑みを浮かべた。何とか銃を取り出さんと必死に身動きをしていた藤兵衛は、圧倒的な不利を悟るや否や急にがくりと膝の力を抜いて、地面に深々と頭を押し付けた。

「この度は……誠にすみませんですじゃ! どうか命だけは、この憐れな男の命だけはお助け下され! 全てはそこの忌まわしき魔女に命令され、忌まわしき虫めに強制的にやらされたことでして! 何処にも他意などありはせんですじゃ!」

「……はあ?」

 デュオニソスは自分の耳を疑いながら、大きくぽかんと口を開けた。それに対して藤兵衛は、額を力一杯地面に擦り付けて、泥塗れで滝のような涙を流しながら、憐れを誘う惨め極まる声で叫び続けていた。あまりに情け無いその姿を見て、彼は完全に呆れ果てて深々とため息をついた。

「何ですかそれは。……ふう、もう興味を失いました。人間とは実に浅ましきものですね。品性も誇りもありはしない。こんな虫ケラに術を使う価値もないでしょう」

「何たるご聡明な判断! そうですじゃ! すべてはあの魔女と虫ケラの描いた絵図でして、儂はただの憐れな奴隷に過ぎませんのじゃ。デュオニソス様のお力で、この儂は遂に解放されましたわい。ああ、誠に重畳ですじゃ。この金蛇屋藤兵衛、あなた様の足でも何でも舐めましょうぞ」

 そう言うや否や、藤兵衛はデュオニソスの足元に迷わず舌を這わせようとした。彼は心底不快そうにサッと一歩引いて、汚らしいものを見る目で見下ろした。

「まったく……シャーロットも人選を誤りましたね。こんな情けない、ろくに術も使えぬ男を僕にするとは。まあいいでしょう。このまま我が主の元へ運び、判断を委ねましょうか。しばしそのままお待ちなさい」

 そう言うとデュオニソスは、部屋の中央の楔へとゆっくりと歩み寄っていった。その後ろ姿を土下座したまま見送りながら、藤兵衛は静かに口だけを僅かに開いた。

「……おい、シャーロット。起きておるのじゃろう?」

「……」

 返事はなかった。ただ沈黙だけが彼らの間に広がった。しかし藤兵衛は続ける。今出来る事を、ただ全力で。それは故郷を出たあの日から、今日に至るまでずっと。

「読み通りじゃの。今の奴は力を失い隙だらけじゃ。ああは言っておるが、儂を殺す闇力すらも惜しいと見える。げに甘い男じゃて。じゃが儂だけではどうにも出来ん。お主の助けが必要じゃ」

「……この糸は、通常の術式の構築を封じます。今の私には何もできません。それに……忌まわしい化け物なぞに助けて貰くのは嫌でしょう」

「既に“準備”は出来ておるわ。儂を誰と心得るか? なあ、シャーロット。1つだけ言っておくぞ。……申し訳なかった! すべて儂が悪かった! 頼むから儂を許してくれい! お主は化け物などでは決してなく、紛れもなく美しい! いや、強くて美しい、世界最高の女じゃ!」

「……それだけ?」

「も、勿論まだあるわい! 聡明で、気が利き、誰よりも仲間思いじゃ。お主より素晴らしい者は他におらん! 出会ってからというもの、儂の心は常にお主に向いておるわい」

「私も……大変無礼をしてしまいました。素直になれず申し訳ありません。こちらこそ許して下さい、藤兵衛。……全てが終わったら、あらゆることに決着が着いたら、さいちゃんの店でまた美味しいご飯を一緒に食べましょう。それで……お互いちゃらにしませんか?」

「無論じゃ! 二杯でも三杯でもこの儂が奢ってやろうぞ! 兎も角、今はあの道化を何とかせい! 油断しきっておる今しか機は存在せぬ! お主だけが頼りじゃ……シャルや!!」

「ふふ。約束しましたからね……藤兵衛!!」

 次の瞬間、シャーロットを包み込む糸から炎が燃え上がった。藤兵衛の唯一の術式、指輪に込められた闇術『マグナ』がメラメラと立ち上がり、彼らを絡み取る糸を瞬く間に燃やしていった。

「ウギャアアアア! 熱い! 予想以上に燃え過ぎたわ!」

 その悲鳴に反応し、咄嗟に振り向いたデュオニソスだったが、その時はもう遅過ぎた。彼の視線に映るは、炎上する糸の中からゆっくりと歩み寄るシャーロットの姿。手元には既に複雑な術式が幾重にも描かれていた。

「シ、シャーロット! なぜ? いつの間に?!」

「これは私の仲間を舐めた罰です、デュオニソス。久遠の業火に焼かれなさい。……『マグナ・グランデ・トレス』!!」

 瞬く間に3本の火柱が立ち上がり、無防備なデュオニソスの体を包み込んだ。呻き声を上げて炎に包まれる彼の姿に、彼女は哀しい眼差しを向けた。

「……さようなら。かつての“家族”よ」

 ドスン、と大きな音を立て倒れ込むデュオニソス。何処か遠い目をして見つめるシャーロットに対し、藤兵衛は転がり回って体の火を消しながら、歓喜の声を上げた。

「やった! やったわい! 遂にこの旅も終わるのじゃな! 何という僥倖じゃ!」

「……うるっせえなあ。おちおち眠れやしねえ。で、ちゃんと終わったんだろうな?」

 レイが再生したばかりの右手で、目をこすりながら体を起こした。藤兵衛はふんと鼻を鳴らし、レイを睨み付けて激しく叫んだ。

「貴様……随分と呑気に眠りおってからに! 儂がどれ程苦労したか分からんのか!」

「うるせえ! さっさと来いってんだ! このクソ商人が!」

「何じゃと! 正論に暴言で返すは愚劣の極みぞ! この知恵無き阿呆めが!」

「うるせえ!!」

「グェポ!!」

 いつもの光景、いつもの会話。微笑むシャーロット。だが皆分かっていた。これが終わりだということを。こんな日々は今日までということを。漂う微かな寂寥感を振り払うように、彼女は力強く仲間たちに告げた。

「さあ、それでは始めましょう。今より楔に封印を施します。2人とも下がっていてください」

 シャーロットが厳かに告げると、2人は無言で頷いて後ろに引き下がった。彼女の詠唱の声のみが地下に響く中、レイは何処を見るでもなくぼそりと尋ねた。

「……なあ、てめえはこれからどうすんだ?」

「決まっておるわ。ユヅキめを叩きのめし、帝都に戻る他に道は有り得ぬ。不老不死を得た今、儂のやることはただ1つよ。この世の富と栄華を喰らい尽くすまで、儂はおちおち死ねはせぬわ」

「そうかい。ま、最初からそういう話だよな。お嬢様も一緒に、だろ?」

「これも契約じゃ。今更文句を言うでないぞ。で、貴様はどうするのじゃ? 儂らに付いて来るのかの?」

「……さあな。お嬢様がそう言うなら付いてくが、そうでなきゃどうしていいか正直わかんねえ。俺にはやりてえこともねえし、帰る場所もねえからよ」

「ふむ。……貴様さえ良ければ帝都に来るがよかろうて。貴様とは色々あったが、極めて微力なれど世話にはなったからの。帝都でよき見世物……もとい、貴様の料理は絶対に評判になるわい。儂が出資し経営の専門家を派遣する故、そちらの方面でしかと励めばよかろう」

「ハッ! それ前も言ってたがよ、テキトーこいてんなよ。俺が店だなんざできるわけねえだろうが」

「儂は商売においては嘘は言わぬ。貴様は最低最悪の破綻者じゃが、こと料理だけは極めて優れた才能を持っておる。必ずや投資した以上の富をもたらすじゃろうて。結果、貴様は生活ができる上に、人に喜んで貰えて幸福。人々は美味い料理が食せて至福。儂は儲かって万々歳じゃて。真の富とはこういう事ぞ」

「へっ。いつもいつもエラそうによ。ただ……そうだな。それもいいかもしんねえな。わるくねえよ、マジで」

 何処か遠い目をして、とても澄んだ瞳で、レイは自らに言い聞かせるように呟いた。藤兵衛は垂れた目を細めつつその場に座り込み、ゆっくりとキセルに火を付けた。

「まあ、今後のことなど後でゆっくり考えればよいじゃろう。幸い儂らには時間が無限にあるわい。今日は一杯やろうではないか。儂の奢りじゃて」

「んだな。そうすっか。せっかくだし例の店にでも連れてけよ。おし、ひさびさの酒だ。ゆっくり味わうとすっか。ただ……お嬢様には飲ませすぎるなよ。俺には手に負えねえからな」

「うむ。それは同感じゃて。あれは実に酷いのう。この間もな……」

「……聞こえてますよ、2人とも。私も飲みますからね! 皆揃ってさいちゃんのお店でゆっくりしましょう!」

 膨れ面で言い返すシャーロットを見て、顔を合わせて笑う一同。全ては終わったのだ。そう、全ては……。

「いい気な……ものですね。真の絶望とは……こういう時にこそ……相応しい!」

 突如として響き渡るデュオニソスの声。とうに焼き尽くされた筈の死骸が、操り人形のように奇妙に捻じ曲がり、焦げた首を地に落としながら声を放っていた。

「!? て、てめえ!!」

 焔に焼かれ、息も絶え絶えになりながら絶叫するデュオニソス。咄嗟に身構える2人だったが、異質な気配を感じたシャーロットがそれを止めた。それでも彼女は術の構築を止めようとはせず、全力で集中しながら鋭い視線を彼に向けた。

「ふふ。ご心配なくとも……私はじきに死にます。しかし……私が死ぬと同時に……2発の固定術式が発動……バラム様の御命令……私の身体と楔本体が爆発し……この場所全てを灰燼と化すか、『楔』を内側から破壊するか……。選びなさい、シャー……ロット。『楔』を守り人間を見殺しにするか……人間を守り『楔』を破壊するか……2つに……1つ」

 今にも崩れ落ちんばかりの彼の言葉に、一瞬言葉を失う一同。だが沈黙を制したのは、やはり金蛇屋藤兵衛だった。

「欺瞞じゃ! 残り滓の貴様にそんな事が出来るわけがなかろう! 騙されるでない、シャルよ!」

「いや……できる。こいつはさておき、ハイドウォーク家大幹部のバラムの野郎ならな。あのクソはそれくらい平気でやる。あの術式はモノホンだ。ヘタに動くんじゃねえ!」

「ええい! ならどうすればよいか言えい! 外まで奴を捨てて来ればよいのか! こんな結末……儂は絶対に認めんぞ! やっとのことでこの国を救ったのじゃ! 死に物狂いでここの連中に希望を与えたのじゃぞ! ここで殺してしまっては、儂は只の大嘘つきじゃ! 契約違反の似非商人じゃ! 儂は自分の言葉にだけは嘘を付く訳にはいかぬ! 儂は絶対に諦めんぞ!」

 そう言って藤兵衛は、デュオニソス目掛けて脇目も振らずに飛び掛かった。彼は炎燃え上がる残骸に必死で喰らいつくと、全力で抱え込んで運び出そうとした。

「グワァアアアアア! 熱い! 死ぬぅぅぅ!」

「無駄……ですよ。金蛇屋……藤兵衛。せめて一緒に死のうでは……ないですか」

「この阿呆が! 人間を舐めるでないわ! 貴様は命を何と心得るか! 人の命は金になる、即ち儂の儲けじゃ! 貴様に殺されては大損じゃ! 儂は損だけは大嫌いなのじゃ!」

「誰かと同じような事を……これだから人間は……嫌いなのです……」

「ふん! 戯言は死んでから言うがよい! 儂は諦めんぞ! おいシャル! お主はやるべきことをやれい! 儂が命に代えても此奴を何とかして……ギャアアアアアアアアアア!!」

「……残念。もう時間……です。我が主よ……バラム様……さらば」

 その時、シャーロットの大きな目が一気に見開かれた。美しい瞳が語りかけていた。そう、答えなど既に出ていたのだった。彼女は決して……命に対して迷うことはない!

「ありがとう、藤兵衛。私は貴方にお会いできて本当に幸運でした。……許して下さい、レイ」

「へいへい。ま、そうなると思ってましたぜ。さっさとあのクソごとなんとかしちまいましょうや。じゃねえと賠償だのなんだの言いだしかねませんから」

「ふふ。そうですね。文無しの私には一番困る話ですから。では……禁術『ランザミエント』!!」

 彼女の詠唱と同時に、巨大な3次元術式が部屋の中央部を貫いていった。崩壊する術式から徐々に漏れる、眩い光は次第に強さを増し、やがて臨界点を超えて雨のように一点に降り注いだ。向かう先は……暴発寸前のデュオニソスにだった。

「やはり……そうですか。貴女は……高潔すぎます。でもね……シャーロット。私は……そんなあなたが……。道化師など最初から……誰からも……貴女以外は……。さようなら……またいつか……木漏れ日の下のあの場所で……」

 次の瞬間、光の中で巻き起こる凄まじい爆発。だが多重結界はビクともせずに、その場で穏やかで暖かな光を放ち続けていた。そして、その代わりに部屋の中央で起こる微かな爆発音。鈍色の結晶が、『楔』が、欠片の粒となりゆっくりと風化していった。

「駄目……じゃったのか。何ということじゃ……」

 状況を察し、藤兵衛が力なく膝をついた。シャーロットはへたり込んだ彼の側に歩み寄ると、その身体を力一杯抱きしめた。

「これで……いいのです。私の選択とはこういう事です。私は命あるものを、光の中で生きるものを殺すことはできません。貴方と一緒です」

「……ふん。まあよいわ。悔やんだ所で一銭も得はせぬ。建設的かつ計画的に先を見ねばなるまいて。しかし……見てみい、シャルや。こんなに粉々になっては……ん?」

 藤兵衛は『楔』の残骸の近くに寄ると、その内部にきらりと光る何かを見つけた。気になり覗き込んだ彼の動きに対応するかのように、まるで何かに誘われるように、奥底から虹色に輝く結晶体が飛び出し、彼の心臓部に深々と突き刺さった。

「グ、グワアアアアアアア!! こ、これは何事ぞ?! 一体何が起こったのじゃ! ヒイイイイ!!」

 藤兵衛は突き刺された胸を押さえ、その場で蹲った。駆け寄るシャーロットとレイの顔にも驚きの色が走っていた。

「どうしたクソ商人! 生きてっか! お、お嬢様、こいつはいったい……」

「こ、これは……『賢者の石』!  伝承にある禁忌の……まさか実在するとは思いませんでした。しかしなぜ『楔』の中に?」

「石なぞ胆石だけで充分じゃ! そんなことはどうでもよい故、早う退けてくれい! このままでは死んでしまうわ!」

 喚き立てる藤兵衛を心配そうに見つめながら、シャーロットは闇力を込めた手をかざし術式を構築しようとした。しかし賢者の石は優しく、それでいてきっぱりと彼女を否定するように、尖った光を放ちながら彼の肉体の内側へと潜り込んでいった。心配そうに見つめるレイに小さく首を振ると、彼女は確信した表情で藤兵衛にはっきり告げた。

「……無理です。この石は既に、貴方の体と同化しています。これは“そういうもの”なのです。文献によれば、『賢者の石』はある種の意思と術の結晶体。強き意思を持つ者に惹かれ、その肉体と魂に同化し、莫大な力を産むとのことです。一度試してみて下さい、藤兵衛」

「嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ! 昔の胆石の痛み……思い出しただけで吐き気がするわい! 早く何とかしてくれい、シャルや! 何億銭でも払う故、どうかお願いじゃあああああ!」

「うるせえ! お嬢様の命令だ! さっさとやりやがれ!」

「グェポ!!」

 レイの強烈な回し蹴りが延髄に刺さり、もんどりうつ藤兵衛。その間も何事かを考え続けるシャーロットの姿があった。

「ふん! 虫の分際で偉そうに。……ふう。やっと落ち着いてきたわい。しかしの、何をどうすればよいか儂には皆目見当も付かぬぞ」

「私にもよくわかりません。しかし、原理としては固定術式と同様でしょう。ゆっくり心臓に意識と闇力を集中させ、体内を循環させなさい。恐らくはそれで、自動的に何らかの“力”が発動するはずです」

「ふん。適当なことを言いおって。どうせ何も起きぬわ。まあ物は試しよ。少しだけ遊びに付き合ってやるわい。じゃがな、少しでも痛かったら止めるからの」

 そう言って藤兵衛は渋々と、ぶつぶつと闇力を練り始めた。暫くそれを見ていたレイだったが、何も起こりそうもない周囲の気配を察し、呆れたようにため息をついた。

「お嬢様、あいつの言う通りですぜ。どうせなんも起こりゃしねえですよ。さっさと進みましょうぜ」

「しっ。これは検証です、レイ。もしかすると……『楔』とは私の考えとは概念が違うものなのかもしれません。本来の役割の他に、何か別の用途があるようです」

「たしかに連中も『楔』から力を吸収しているようでした。そういう働きもあるってことですか?」

「あれは表面に過ぎません。大地の力を掬っていただけです。太古の昔に失われた賢者の石がここにある以上、『楔』の役割とは即ち……」

「うおおおおあ!! な、何じゃ! いきなり何か出たぞシャルや! た、助けてくれえ!!」

 絶叫に反応しはっと振り向く2人。その時既に彼の前には巨大な、シャーロットですら見たこともない複雑怪奇な立体術式群が構築されていた。慌てて駆け寄ろうとする彼女を、レイは力尽くで押し留めた。

「お、お嬢様! 近付いちゃいけません! 俺のカンじゃ、ありゃ禍々しきモンですぜ。もうあのクソのことはあきらめましょう。おしい男を失ったもんですぜ」

「か、勝手に殺すでないわ! ……ああ、今にも発動しそうじゃぞ! 早く何とかしてくれい!」

「落ち着きなさい、レイ。そして藤兵衛。“それ”は既に貴方の力の一部なのです。貴方の中に存在する、れっきとした真実です。貴方なら必ず制御出来ます。自分を信じなさい、藤兵衛。そして……貴方を信じる私を信じなさい。この私を誰と心得ますか?」

 シャーロットは身動き1つせずに、美しい微笑みさえ浮かべて、真っ直ぐ藤兵衛の目を見つめて言い放った。彼はそれを真正面から受け止めると、にっと皮肉に口角を上げた。

「成る程の。お主の言葉、確かに理に叶っておるわ。この金蛇屋藤兵衛、確かに信じたぞ。じゃが仮に失敗したら……大金を以て弁償して貰うがの!」

「ふふ。もちろんいいですよ。レイに死ぬ程働いてもらうとしましょう」

「い、いいんですか?! あんなわけわかんねえ力を信じて! もしここを吹き飛ばすような力だったら……」

「私を信じなさい、レイ。術式構造がまるで違うので断言出来ませんが、あれは攻撃用の術式ではありません。むしろもっと異質な種の術です。試してみる価値は十分にあります。何かあれば私が守りますので、遠慮は要りませんよ」

「ふん。気楽に言いおってからに。……おい、石よ! 儂の臓腑に用があると言うのならば、それなりの対価を支払えい! この儂を誰と心得るか? オウリュウを統べる金蛇屋一門の総帥に、無料などという甘えた概念は存在せぬぞ。家賃代わりに貴様の力、とくとこの場で見せてみい!」

 藤兵衛が浮かび上がった術式に触れた瞬間、光の輪が彼を中心に広がり、それはシャーロットとレイまでをも包み込んで、3人を喰らい尽くすように空間ごとふっと掻き消した。残ったのは楔の残骸と、激しい戦いの跡だけ。彼らは音もなく消え失せ、その場に何一つ残りはしなかった。


 気がつくと、そこは今までとは全く異なる場所だった。

 どこか見たことのある……今朝までここにいた……そう、ここはバイメンの宿の前の路上だった。藤兵衛が呆然と辺りを見渡すと、唖然とするシャーロットとレイ。そして道端で腰を抜かす肥えた老人の姿があった。

「な、何じゃと!? ここは……何故いきなりこんなところに?」

「大抵の想像はしていましたが、まさか『時空間術』ですか。俄かには信じられません。太古に失われた秘術中の秘術を、この目で見ることができるとは」

「マ、マジかよ?! 俺は夢でも見てんのか?」

「ひ、ひええ! 妖じゃ! 妖の仕業じゃあ!」

 実に興味深そうに藤兵衛を見つめるシャーロット、唖然として言葉のないレイ、そして1人哀れな声を上げる老人。よく見れば、前日に会った力車職人の老人だった。藤兵衛はふんと一声呟くと、彼に尊大に声をかけた。

「何じゃ、貴様か。そこで何をしておる?」

「お、俺はただ頼まれてた力車を運んできただけで、そしたらいきなりあんたらが現れて、それで……」

「ああ、もうよい。ほれ、金じゃ。多目に付けておく故、今日の事はさっさと忘れて一杯やるとよい。分かったかの?」

「へ、へい。そ、それじゃ失礼します」

 腰が抜けたまま老人は去り、その場には新品の力車が一台残された。藤兵衛は慎重にそれをあらゆる角度から眺め、やがて満足そうに頷いてキセルに火を付けた。

「良き仕事じゃ。力強く弾力もある材質、恐らくシイの仲間じゃの。過酷な旅にも耐え得る、誠に丁寧に作られた一品じゃて。ほんに仕事だけは一流じゃな。にしても……この先どうするのじゃ、シャルよ? 最早旅の目的は損なわれてしもうているではないか?」

「いいえ。次の『楔』を封印に向かいます。世界に『楔』は複数存在します。私たちの世界救済の旅は、まだまだ終わっていません」

 藤兵衛はキセルを深々と吸い込みながら、呆れたような何処か確信済みのような表情をすると、意を決したように一気に煙を吐き出した。

「まあ、そうなるじゃろうな。そんな気がしておったわい。やけに諦めがよかったしの。よかろう。これも契約の内じゃ。先ずは今日はゆっくり休むとして……」

「いえ、駄目です。今から向かいます。敵の手は思ったよりも広く伸びているようです。私たちにはやるべきことがありますから。すぐに支度をなさい、レイ」

「……だ、そうだぜ。当てが外れちまったな」

 レイは首をすくめて僅かに微笑み、荷物を取りに宿の中へ入っていった。藤兵衛は同じように苦笑いを浮かべ、深々と夜の空に煙を吐き出した。月に掛かる雲にまで、紫煙が闇の中を伝っていった。

「随分とやる気じゃのう。まあこれもそんな気がしておったわい。そうと決まれば善は急げじゃな」

「ふふ。そうですね。敵の動きも世界の情勢も見当が付きませんが、私たちに出来ることは1つです。ただ前に進みましょう」

「ふん。言うは易し、行うは難しよ。じゃがお主に何を言うても仕方あるまいて。パパッと行ってパパッと片付けるとするか。では者共行くぞ! この儂に続けい!」

「うるせえ! 下っぱがえらそうにすんじゃねえ!!」

「グェポ!!」

 こうして、藤兵衛たちの旅は続く。未だ見ぬ次なる『楔』に向かって。しかしこの時点で、藤兵衛は知らない。この旅が“パパッと”で済むものでないことを。『楔』と呼ばれる存在の本当の意味を。そして、彼らの敵の巨大さと、それを取り巻く闇の深さを。

 それでも彼らは進む。進まねばならない。眼前に聳える不安定な一本の綱渡りだとしても。それが仮に、万が一にでも、全くの見当違いの方向であったとしても。

 神代暦1278年11月。金蛇屋藤兵衛と愉快な仲間たちの最初の冒険が幕を下ろし、すぐさま次なる旅が始まろうとしていた。


 某日。食事処『さいちゃん』。

 木漏れ日の漏れ入る昼下がり。彩花は調理の下拵えを少しだけ休み、カウンターに突っ伏してうつらうつらと、ひと時の休みをとっていた。

 彼女は夢を見ていた。あの日、この店を訪れた奇妙な客のことを。彼の残した言葉を。ぼんやりとした意識の中で、彼女は自身の夢を何処か俯瞰的に眺めていた。

 その時、静かに入口の扉が開いた。

「ごめんください。彩花さんはいらっしゃいますか」

 眼鏡をかけた、知性的な顔立ちの女性が1人。手には一輪の花差しを抱えて。

「あ、申し訳ありません。まだ開店前でして」

 彩花は済まなそうに頭を垂れたが、彼女は全て分かっているとばかりにそれを制し、丁重に抱えた花差しを差し出した。

「私の名前は桃蛇屋サクラです。主人から頼まれてこれを届けに来ただけよ。まったく……人を何だと思ってるのかしら」

 サクラは几帳面に眼鏡の位置を直しながら、少々の照れを隠すように早口で捲し立てた。そして、彼女はキョトンとしたままでいる、目の前の女性をまじまじと眺めていた。

(話には聞いていたけど……本当に似てるわね。肖像画のまんま)

 彩花は状況を理解すると、穏やかに微笑んで荷物を受け取った。そして彼女はサクラに断りを入れて、丁寧に包みを剥がし始めた。

「これは……スターローズ? まさか! あの人が? ねえ、藤兵衛さんは何処へ行ったの? 知っているなら教えて!」

 特徴的な星型の花を強く握りしめ、彩花はせっつくように問い正した。だがサクラは静かに首を横に振り、眼鏡に手を当てて敢えて冷たく返した。

「さあ。私が知りたいくらいだわ。でも、伝言は預かってる。『約束は守ったぞ。全てが終わったら、必ずまた寄らせて貰うわい。借金の件はそこのサクラに伝えてある故、良きようになるであろう』ですって。今度は伝言板扱いね。ほんと……男なんてろくなもんじゃないわ」

 サクラは大きくため息をつきながらも、無表情を崩してうっすらと笑みを浮かべた。彩花も返答の代わりに嬉しそうに大きく笑った。

「よかったらお茶でも一杯いかが? 採れたてのベリーが入ったの」

「……そうね。いただこうかしら。お代はちゃんと借金から引いておくわ。もしお茶菓子なんかもあると、もうちょっと勉強出来るけど」

「ふふ。もちろんよ。ちゃんとお金稼がないとね。すこし待っていて」

 バタバタと台所に走り出す彩花。カウンターに座って頬杖をつくサクラ。

「もうすぐ冬ね……」

 彼女の独り言だけが、店内にそっと色を付けた。暖かい陽射しが差し込める店の中で、2人の時間もほんの少しの温もりを放ち、ふわりと優しく解けていった。

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