第2章 白銀が呼ぶ憧憬〜ゲンブ国編〜

第13話「雪国」

 セイリュウ国北部、街道沿いのとある山小屋。

 本格的な冬も間近に迫る、とある日の朝。2人の美しい女性が顔を見合わせ、困惑と剣呑の表情を同時に浮かべていた。

「あのバカ! マジなにやってんだよ! お嬢様……あいつ本当に大丈夫なんですか?」

 銀色の髪を短く整えた大柄で筋肉質の女性が、怒りと焦燥を隠すことなく、慌てふためきながら叫んだ。

「……私にもわかりません。とにかく今は探すしかないでしょう」

 艶のある黒髪を長く伸ばした黒衣の女性は、努めて冷静な佇まいを崩さずに告げた。だがその言葉の奥に潜む微かな不安の色を、長年の従者たるレイは決して見逃さなかった。

「ったく、なに考えてやがる! あんなわけわかんねえ術を自分にかけるなんてよ! お嬢様、山頂とか海中とかに飛んでった可能性はありませんか?」

「すみません、レイ。例の空間転移術については、私にもまるで見当が付かないのです。ただ、彼が死んでいないのだけは確かです。……込められた闇力の規模からして、恐らくそこまで遠くに飛ばされてはいないと思うのですが」

 気丈に言うシャーロットの瞳が僅かに潤み、それを見たレイは苛立ち紛れに思いきり地面を蹴り飛ばした。土がバターのようにえぐれ飛び、星の瞬きが嘲笑うかのように漆黒の大地を焦がしていた。

(ったくよ! いつもいつもお嬢様に心配かけやがって! ぶっ飛ばしてやるから……さっさと帰ってこいやクソ商人!)


 事の発端は半日ほど前のことだった。

 夕刻から術の研究をしていたシャーロットと藤兵衛。その途中で暴発した転移術により、愛用のキセルのみを残し、彼は何処かへ消え失せてしまったのだ。

 それから2人で手分けして探し続けたものの、全く手掛かりすらも見当たらない。幸いにして敵襲こそ無かったものの、夜中危険を顧みず2人は探し回ったが、それでも彼の姿は何処にもなかった。

 そして、無為のまま朝が訪れた。疲労でぐったりし、目に見えて落ち込んだシャーロットは、臓腑から振り絞るような声を発した。

「すいません、レイ。私がもっとしっかり藤兵衛を補佐できていれば……」

 遂には頭を押さえて蹲ったシャーロットの背を優しくさすりながら、レイは静かに、努めて冷静に言葉を吐き出した。

「とにかく、1日だけここで待ちましょう。その後は……あのクソには申し訳ねえが、俺たちだけでも先に進むしかねえかと……」

「藤兵衛が死んでしまってもよいのですか、レイ! 私は彼が来るまでいつまでもここで待ちます!」

 プイとそっぽを向いて座り込むシャーロット。レイは首を振ってため息をつくと、再び山小屋の外に出た。空は白み始め、満点の星空は消え失せつつあった。レイはぼんやりと空を眺めた。なんとも言えぬ不思議な気持ちだった。他人の心配とか、不安とか、そういう類の思いを抱いたのはいつ以来だったろうか? 自分がシャーロット以外の者に、こうまで心を許したことなどあっただろうか? レイは空を見つめたまま、その場にごろりと横たわった。

「……なあクソ商人。頼むからさっさと……!?」

 その時、レイの視界の隅に何かが映った。横たわる姿勢になって初めて見えたのは、小屋の反対側の屋根の上、見慣れた漆黒の着物のようなものが……間違いない、あれは! 漆黒の中に浮かび上がる金色の蛇の印は!

「!! おい! まさか!」

 咄嗟に風を纏って山小屋を駆け上がり、刹那で屋根の上に到達するレイ。そこにいたのは、意識を失い倒れ込む大陸一の大商人、不老不死を手にした金蛇屋藤兵衛その人だった。

「お、おい! てめえ生きてっか?! 無事なのか?!」

 レイは彼の身体を崩れるほどに揺さぶり、耳元で大声で叫んだ。だが彼はすぐにぱちりと目を覚ますと、のんびりと欠伸をしてから不機嫌そうに話し始めた。

「ふわあ。何じゃ虫め。折角気持ち良く寝ていたというに。おや、ここは何処ぞ? ……寒い! 寒いわ! な、何じゃこれは! さては貴様の嫌がらせじゃな! 謝罪と弁償を致せ!」

 覚醒するや否や、べらべらと好き放題まくし立てる彼に、レイは内心でほっと胸を撫で下ろしながらも、体表から漆黒の闘気を撒き散らしてゴキリと拳を鳴らした。

「……ずいぶんと元気そうでけっこうなこった。けどよ……お嬢様がどれだけ心配したと思ってやがんだ!!」

「グェポ!!」

 レイの強烈な蹴りにより、藤兵衛は屋根から地面まで激しく吹き飛ばされた。したたかに頭を打ち大騒ぎする彼に気付き、室内からシャーロットが血相を変えて飛び出してきた。

「よかった、藤兵衛! 無事だったのですね!」

「これの何処が無事なのじゃ! 下劣な虫めが! しかし……生き物を対象にした“転移”は難しいのう。単なる物なら概ね問題ないのじゃが」

 クンと藤兵衛が軽く闇力を込めると、突如として彼の胸から複雑極まる術式が巻き起こり、右手の周辺に黒い空間の歪みが発生した。すると、小屋に置いてあった筈のキセルが突然そこから飛び出し、彼はさっと右手で受け止め術で火を付けた。

「素晴らしいです! 近距離での物質転移は完璧ですね。よくもこの短期間で使いこなせたものです」

 シャーロットは驚き口を開け、嬉しそうに藤兵衛の肩に手をやった。彼は悠然とキセルをふかしながら、ふんぞり返ってそれに答えた。

「ガッハッハ! そうじゃろうそうじゃろう。儂の才能は勿論じゃが、シャルの教え方がよかったからのう」

「けっ! てめえのこった。どうせロクなことに使いやしねえだろ」

 屋根からタッと飛び降りて、軽蔑したようにレイは吐き捨てた。藤兵衛はふんと鼻を鳴らし、わざと聞こえるように大きく舌打ちをした。

「貴様のような能無しには分からんじゃろうて。この術がもたらす重大な意味をの。これさえあれば……流通の常識は一変するのじゃぞ。使い熟せば瞬時に、必要なものを好きなだけ、どこにでも運ぶことが出来ようて。この事実が商売にどれ程の革命を起こすか、貴様如き虫には想像も付くまい」

「ハッ! そいつはけっこうじゃねえか。つーか、ずいぶんとえらそうなことホザいてっけどよ、まだまだてめえの術はそんなレベルじゃねえだろうが。寝言は寝てから言えバカ!」

「……ぐうっ!(虫め! 珍しく痛いところを突きおるわ!)」

「レイの言うことはもっともですよ、藤兵衛。しばらくは人に対しての転移術は禁止とします。物のみに限って練習なさい。そもそも貴方はまだ闇術の基本が出来てはおりません。さあ、続きを行いますよ」

「ふん! 分かっておるわい! 御託は聞き飽きた故、さっさと始めぬか」

 シャーロットが珍しく厳しい口調で諌めると、藤兵衛は不服そうに口を尖らせながらも、彼にしては比較的素直にそれに従った。

「よろしい。では練習を続けましょう。まずは指輪なしで『マグナ』の発動を確実にすることです。これが出来ねば話になりません」

「……ううむ。何とか3割程度は出来るようになったんじゃがのう」

 藤兵衛はぶつぶつと呟きながら、手のひらの上で闇力の塊、立方体型の“キューブ”を3つ作成した。それをふわりと動かして正確な三角形の頂点に配置し、簡易な術式を描き一気に発動させた。一見綺麗な形を作ったかに見えたが、すぐにヒビが入り崩れ落ちて、集まった闇力の暴走による小爆発が彼の手を焼いた。

「ぐおっ! 何故じゃ!? 今のは綺麗だったじゃろうに」

「キューブが正確な立方ではありませんね。術式の角度も0.2度ほどずれています。これを完璧に身につけるまで、次の術は教えません」

 キッと容赦無く言い放ち、視線を読みかけの本に戻すシャーロット。その冷徹な態度にしゅんと落ち込む藤兵衛。そして、ごろりと横になって内心でほくそ笑むレイ。

(へっ。こりゃ気分いいな。あの小理屈タレのクソ商人が、スルメみてえにぺしゃんこになってやがる。この時間が俺の最高の息抜きだぜ)

「何をニヤついておる! 術も使えぬゴミ虫めが! ……グァム!!」

「集中が途切れていますね。約束どおり5回連続で成功するまで寝させません。覚悟なさい」

 藤兵衛の怒声を無視し、健やかに寝息をたてるレイ。穏やかながら手厳しいシャーロットの声も、やがて寝息の中に飲み込まれていった。藤兵衛の独り言と破裂音が響く中、一行の時間はゆっくりと過ぎていった。


 昼過ぎ。険しい山沿いの街道を北西へと進む一行。力車を引く藤兵衛が眠そうに大きなあくびをし、同時に車輪が道を外れて大きな石に躓いた。すると即座にレイが外へ飛び出して、彼に痛烈な怒鳴り声を浴びせた。

「おい、気いぬいてんじゃねえぞ! てめえのせいでだいぶ遅れてるんだからな!」

「ふん! 運ばれておる分際ででいい気なものじゃて! 心配せんでも今日中に国境に着くわ。貴様らの次なる目的地……ゲンブ国は目と鼻の先じゃて」

「次は北の国か。なあ、クソ商人。やっぱゲンブって今まで以上に寒いのか? 俺、寒いの大っきれえなんだよ」

「私は平気ですよ! 暑いのは苦手ですが、寒いのはへっちゃらです!」

 窓から元気に顔を出して、シャーロットが嬉しそうに言った。藤兵衛は軽く首を振りながら、しみじみと語った。

「寒いなんてもんじゃないわい。ゲンブは東大陸の北の果て、北大陸との国境沿いの国じゃ。冬ともなれば、見るもの全てが凍て付く白銀の土地じゃて」

「マジかよ……俺筋肉多いからよ、ほんと寒さに弱えんだよな。すげえ気分ナエえるぜ」

「……レイ。それは暗に私のことを指しているのですか? 私には脂肪しかないと、油女であると、だから寒さには強いと……貴女はそう言いたいのですね?」

「そ、そんなわけな……ギャアアアアアアアアアア!! 壊れる! 壊れちゃうううううう!!」

 そんな2人の遣り取りに目もくれず、藤兵衛は独り言のようにぶつぶつと呟いていた。

「あんな場所、何一つ楽しいものなどない土地じゃて。まったく……あんな金にならぬ国に、何故行かねばならんのかのう」

「仕方ないのです。次なる目的地、『楔』はここより一番近い隣国、ゲンブ国のいずれかに鎮座しています。やや不穏な情報もありますが、とにかく行ってみなければ何も分かりません。近くまで辿り着けば闇力で探知できますので、それまでは頑張りましょう」

「げに頼りにならぬ話じゃの。まあお主が行くと言う以上、儂は従うしかないわい。しかし……ちと難儀じゃな。虫なぞどうなってもよいが、シャルに何事かあってもいかん。あの国はちと“ややこしい”からのう」

「ややこしいのはてめえだ! 言うことあんならさっさと言いやがれ!!」

「グェポ!!」

 レイは力車から降りながら藤兵衛の延髄に蹴りを入れた。悲鳴をあげてがくりと崩れ落ちた彼は、心底不快そうな表情でキセルに火を付けた。

「まったく……野蛮人にはつくづく道理が通じぬわい。現在あの国はの、ある宗教団体が実質的に統治しておるのじゃ。『アガナ神教』、貴様らも名前くらいは聞いたことがあろう? 光を纏いし聖母アガナが、闇を払い世界を光に包む等とほざく詐欺師共じゃて」

「アガナ神教? そりゃお嬢様……」

「……」

 レイはやや不安そうにシャーロットを見遣ったが、彼女は顔色一つ変えずに微かに手でレイを遮った。

「何じゃその態度は? どうも何やら怪しいのう。まあ今に始まった事ではないがな。今は話を続けるぞ。連中は北大陸を本拠とする宗教じゃが、近年では東大陸への足掛かりにと、ゲンブ国一帯を支配下に置いておる。奴らは金のない人間を、救いと平等などと謳って表面上は厚遇し、その裏では無償の奉仕と称して労働力の搾取を行なっておる。かつて儂も絡んだ事があるが、中々にやり手の連中での。ゲンブの貧乏人共が籠絡されるのも無理はないわい。そして、連中は何より『闇』という存在を嫌っておる。術者と疑われた者たちへの弾圧も、歴史上一度や二度ではない。てっきり迷信に基づいた野蛮人の行いと思っておったが、今では事情は大きく異なるの。何せ“本物”がここにおるのじゃからな。普通に行っても国境を越えられるか怪しいものじゃ」

 しんと静まる一同。冷たい風が彼らを包み込み、すぐにレイが耐え切れずに叫んだ。

「ふざけんな! てめえなんか策あんだろうな? ここまで来といて『ダメでした』なんて通じねえぞ!」

「ふん! 儂を舐めるでない! 貴様とは違って策も準備も完璧よ。その代わり、貴様もシャルも儂にしかと従うのじゃ。少しでも命令に違わば、未来永劫出国出来ぬと思えい」

「ええ、それはもちろんです。私たちは人の世の理に疎いので、正直どうすることもできません。ここは藤兵衛に任せましょう。ねえ、レイ」

「は、はい。お嬢様のおっしゃる通りに」

 その時レイの背筋に電流が走った。今まで何度も感じてきた、凄まじい程の嫌な予感。目の前の下衆な商人の不敵な笑み。それらが指し示す方向は、今日の天気のように暗雲立ち込めていた。


 その日の午後6時過ぎ。セイリュウ-ゲンブ間国境警備場。

 国境とは本質的に剣呑な存在。国家間の関係、国としての質が問われる、不落にして誇りに満ちたものであるのが通常である。しかし、この二国の間に聳え立つ国境、そこに厳重な警備など存在しなかった。いや、正確に言えば東大陸の全ての国の間に、人為的な国境線は存在していなかった。

 この大陸には何本かの垂直な山脈が聳え立ち、そこで区切られた土地を便宜的に『国』と呼んだところから、所有と領土の概念は始まっていた。呆れるほどにうず高い山脈を超えようとする人間など殆ど存在せず、僅かに広がる低地部分の警備のみで事足りていた。しかも自然が厳しく貧しい国であるゲンブに、わざわざ足を踏み入れようとする者はそうはいなかった。

 ゲンブ国側の警備隊はいつも退屈し、朝から日課のように酒を飲み、ただ一日が過ぎ去るのを指をくわえて待っているだけだった。

「おい。酒余ってねえか? もうすぐ空になっちまうんだが」

 老齢の警備兵が酒瓶の縁を舐めながら、向かいに座る若い警備兵に気安く話しかけた。彼は露骨に嫌そうな表情で、カードを並べながら目も合わせずにそれに答えた。

「勘弁して下さいよ。いつもそう言って返してくれないんだから。暇だったらそこら辺見回りしてくりゃどうっすか」

「ったく、最近の若者は反抗的で困るよ。俺の若い頃は、先輩の言いつけは絶対服従だったもんだ」

「つうか暇すぎっすよ。ああ、さっさとグラジールに帰りてえ。なんでこんなど田舎の、誰も来ない国境なんざ守らなきゃならないんすか」

 ぶつくさと呟く若者を無視し、老人は瓶の底に僅かに残った最後の一滴を喉から胃の奥に流し込んだ。

「諦めろ。聖母アガナ様の教えの通り、運命に従うのだ。運が良けりゃ10年くらいで戻れるかもな」

「ふうん。で、先輩は何年ここにいるんでしたっけ?」

「……聞くな。全てはアガナ様の思召しだ」

 彼らは2人揃って大きなため息をついた。彼らからすれば、ここは地の果て。楽しいことなど一つもなく、たまに通る旅人を徹底的に調べることが数少ない楽しみだった。それが“法外”な調査だったとしても、それを取り締まる者など存在しない。彼らは飢えていた。娯楽に、愉悦に、衝動に。

 そんな中、老人が急にがばりと椅子から立ち上がった。驚く若者を尻目に、耳を澄ます老兵の目が油断なく光った。

「……おい、若造。聞こえたか? 数日ぶりの足音だ。セイリュウ側から誰か来るぞ」

「確かに……間違いねえっすね。人数は3人か。……お、こりゃ女の足音だ。いいっすね! どっちが先に取り調べするか決めましょうよ」

 若者の能天気な声を無視し、老人は近づきつつある影に油断なく近付いていった。

(冬も近いゲンブに、女連れで入国する。その時点でまともではない。おそらく奴隷商人の類であろうが、もし神教の敵となる者なら……排除せねばなるまい。俺達のやり方でな)

 老人の無言の迫力を感じ、若者も慌ててそれに続いた。セイリュウ領土から続く長いトンネルの前に、槍を構えて立ちはだかる2人。ゆっくりと、確かに近付く足音。

 緊迫感の高まる中、彼らの前に登場したのは……奇妙な格好をした男だった。年の頃は20才程度の若者だったが、頭に金色のぶかぶかのターバンを被り、全身を漆黒に染まったシャツ、上着、帽子で固めていた。手には黄金のバラムチを持ち、弛緩しきった表情で力車を引くその姿からは、狂人の所業を感じさせた。

「(先輩、やばいのが来ましたよ! 取り調べはお任せします)」

 そう言って後ずさりする若者。老人はわざとらしく大きなため息をつき、槍を構えたまま慇懃無礼に言い放った。

「……はあ。分かったよ。おい、そこで止まれ。お宅らはいったい何者? 身分証ある? ゲンブ国で何するつもり? 」

 つっけんどんで矢継ぎ早な質問に、道化師のような男は不自然な笑顔を貼り付けたまま、てきぱきと訳知り顔で答えた。

「へい、旦那。儂らは南海屋一座と申すちんけな旅芸人で御座います。普段はオウリュウ国で公演をしておりましたが、実は今年になってアガナ神教に入信しましてな。本山への巡礼も兼ねて、グラジールへ進出しようかと思いましての」

(怪し過ぎる……)

 老人は分かりやすい疑いの眼差しを向け、無言で彼を観察した。年老いたとはいえ、軍で鍛えた冷静かつ怜悧な観察眼に晒され、普通の人間なら恐縮しきってしまうところだろう。だが、目の前の道化は動じない。この男は動じない。

「お勤めご苦労様じゃのう。流石は歴史あるシュライン王国の兵士ですな。ほれ、これが興行証明書ですじゃ。オウリュウ皇帝と金蛇屋の印が確認できますじゃろ?」

「余計なことを言うな。時代は変わったんだ。どれ……確かに本物だな。それでは質問だ。アガナに入信したと言ったな。では『3つの光』と『7つの槍』を言ってみろ」

「信ずべき光は、肉親へ、同胞へ、そして聖母アガナ様への光。果たすべき槍は、誠実な勤労、同胞への寛容、神への奉仕、年に一度の巡礼、適切な節制、アガナ法の遵守、異形の闇への裁き。まあ常識ですわいの」

 何ともなしに諳んじる道化に対し、内心でむっと唸りつつも、変わらず疑いの視線を向ける老人。少し離れた場所で槍を振り回しながら、若者は暇そうに呟いた。

「ったく、マジどうでもいいよ。せっかく暇潰せると思ったのによ。……そうだ! お前ら芸人ならさ、芸を見せてみろよ。それ次第では信じてやらんこともないぞ」

「お、おい! お前! 勝手なことを言うな!」

「ホッホッホ。かしこまりました。帝都に旋風をもたらした南海屋一座の晴れ舞台……とくとご覧あれ! 出でよ、奇跡の芸人よ」

 道化師はぶわん、と手持ちの煙幕を撒き散らした。と同時に、風のように力車内から飛び出た一体の影。それは空中で二回三回と錐揉みのように回転し、すたりと静かに着地した。大柄な身体を包み込む引き締まった筋肉、造られたように美しい表情。しかし何より彼らの目を引いたのは、全身に纏われた銀色の狼の毛皮だった。よく手入れされた艶のある毛皮は、彼女の頭から何から何までを覆い尽くし、まるで本物の狼が乗り移ったような異様な印象を与えていた。彼らが思わず狼狽え戸惑う中、道化師はヘラついた態度で大仰に叫んだ。

「さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! この女こそ南の果てスザク国の奥地で発見された、狼と人間の合いの子でござあい! その運動神経はまさに野生の獣そのもの! ささ、とくとご覧あれ!」

 派手な口上に乗せられ、思わず拍手をして盛り上がる警備兵に反し、下を向いたまま拳を握り締める狼女。そんな彼女に業を煮やし、道化師は右手のバラムチで激しく肩を叩きつけた。瞬間、ギロリと血走った眼が彼の心臓を突き刺した。

「(どうした虫め! いいから儂の指示通りにやるのじゃ! ここからが本番じゃぞ)」

「(……てめえ。マジで覚えてろよ!)」

 道化師は微笑みを浮かべたまま腰からナイフを取り出すと、狼女目がけて激しく何度も突き刺した。目にもつかぬ連続攻撃だっかが、彼女は平然と全て紙一重で避けており、 疲れて息が上がる彼に反して退屈そうに欠伸をしていた。

「おお! すげえ! これが野生の力か」

「こりゃ本物の獣だ! まるで当たりやしねえ。しかし……まったく色気がねえな。足も太えし胸もねえし、ありゃ本当に女なのか?」

「ちょっと! 聞こえちゃいますよ先輩! 襲い掛かってきたらどうするんですか」

「大丈夫だよ。どうせ人間の言葉なんてわかりっこねえさ。見るからに頭悪そうな顔してるぜ」

「本当っすね。綺麗は綺麗だけど、筋ばってて抱き心地も悪そうだ。こりゃそそられねえなあ」

 観客の興奮が高まり続ける中、道化師は悔しそうな表情でナイフを掲げると、狙いすましたように心臓目がけて全力で突いた。今までとは打って変わり、突き刺さるその瞬間まで身動き1つしない狼女。観客から悲鳴が上がるの同時に、ナイフは彼女の胸を奥深く突き刺し鮮血が迸る……はずだった。

「え?! なに? どこ行ったの?」

 しかし気付けばどこにもナイフはない。驚いて口に手を当てて辺りを見渡す道化師、同じ動きをする観客達。そんな彼らをあざ笑うように、ゆっくりと弧を描いて上空から落ちてくるナイフ。ああ、何と言うことか! 狼女の目にも留まらぬ蹴りの一閃は、襲い掛かる凶刃を遥か上空まで弾き飛ばしていたのだった! 彼女は弧を描きながら落ちてくるナイフに狙いを合わせ、再び疾風のような蹴りを見舞った。刃は閃光と化し、風切り音を上げて衛兵2人の丁度真ん中を通り抜け、背後の壁に激しい音を立てて真っ直ぐに突き刺さった。あまりの派手な“演目”に身動き1つ取れず黙りこくりながらも、すぐに我に返って盛大に拍手をする2人の観客。

「こ、こんなん聞いてねえよ! マジひびったあ……」

「いやあ、本職の業ってのは凄いなあ。俺はてっきり死んじまうかと思ったよ」

(へっ。そうしてやってもよかったんだがな)

 レイは深く大きくため息をつき、その肩を藤兵衛が合図のように軽く叩いた。

「(そんな顔をするでない。見てみい、作戦は成功じゃて。連中は儂らは止めはせんじゃろう)」

 確かにその通りだった。彼らは今の見世物についてあれやこれやと話し合い、藤兵衛たちを止める気配は感じられなかった。娯楽の少ない彼らにとって、それは余りに鮮やか過ぎる手際だった。彼らの疑いが完全に晴れたことを感じ、レイは内心でふうと胸を撫で下ろした。

「(……まあいいか。気にくわねえが、お嬢様にまでよけいなマネをさせねえですんだしな)」

 だがその時、勢いよく力車の窓が開かれた。そこにいたのは、1人の女性。蝶を模したピンク色の派手な仮面をつけ、露出の激しいピンクのドレスを身に纏い、胸の谷間を強調させながら悠然と降り立つ、美しい黒髪の女性の姿があった。

「お、お嬢様! どうして出てくるのですか!」

「シ、シャル! 無事終わったのじゃ! もうよい! 引っ込んでおれ!」

 慌てて同時に叫ぶレイと藤兵衛。だが彼女はその声に全く反応せず、素知らぬ態度のままにっこりと警備兵達に美しく微笑みかけた。彼らはその美しさと異様さに、思わず固まって動くことが出来なかった。

「初めまして。私は南海屋一座の美しき奇術師、その名をシャーロットと申します。気軽にシャルちゃんと呼んで下さい。これから西大陸1000年の秘伝中の秘伝をお見せします。どうぞよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げたシャーロット。戸惑いながらも、次なる演目を期待し拍手をする警備兵。言葉を失い頭を抱える藤兵衛の胸を、ドンとレイが突き飛ばした。

「(おい! なんでお嬢様が降りてくるんだ! 打ち合わせとちげえぞ! てめえがなんか吹き込んだんじゃねえだろうな!)」

「(彼奴の言動を読める訳がなかろうて! だから狂人は手に負えぬ! やけに大人しいと思っていたが、最初からやる気満々じゃったか! ええい、何にせよこの状況ではもう止められぬ! 好きにやらせるしかあるまい)」

 2人があれこれ小声で話す間も、シャーロットは楽しそうに“奇術”を披露し続けていた。

「はい! 何もないところから火の輪が出ました! タネも仕掛けもありませんよ」

「うお! 本当に出たぞ! さっきの狼女もすげえが、このねえちゃんも大したもんだぜ」

「おおお! すげえ! まるで術みてえだ!」

「ん?  ……術? いや、まさかな……」

 ぴくり、と場が一瞬の静寂に包まれた。瞬く間に広がる緊張感、そして剣呑な雰囲気。藤兵衛が必死に頭を働かせ、レイが密かに拳を構える中、その空気を打ち砕いたのはやはり、美しき魔女シャーロット=ハイドウォークであった。

「それでは次の演目です。この火の輪を使って芸をします。御出でなさい、レイ」

 不意を突かれて戸惑うレイに、無表情で周囲に炎を放ち続けるシャーロット。

「さあ、潜り抜けさない。貴女ならできますよ、レイ」

「お、お嬢様! さすがにこの大きさではちょっと……それにいつの間にか、輪がかなり増えているような、そんな気が……」

「気のせいです。お仕置きされたくなければ飛び込みなさい、速やかに。やらねばこの場で輪切りにしますよ」

 レイは助けを求める弱々しい視線を藤兵衛に送った。だが、彼は瞬時に目を逸らして口を抑え、内から込み上げる愉悦を必死で隠していた。

(ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!! すまんが儂には何も出来んわい。せめて派手に散るがよい。骨だけは拾ってやろうぞ)

(あのクソ……ぜってえ楽しんでやがる! 後で絶対にぶっ殺してやるぜ!)

 そう心の中で呪詛を唱えながら、レイは冷静に炎の輪を見つめた。輪は全部で12。大小も角度もまるで異なる、言わば死を呼ぶ罠。だがレイには見えていた。唯一の逃げ道、光の差すべき道を。

(……見えるぜ。俺ならできる。つーか、やるしかねえ! 『部分降魔・フェンリル』!!)

 レイは決意を固めて、勢いよく炎の輪に特攻した。1つ、2つとみるみる炎を避け、降魔がもたらす獣の柔軟性で部分的に身体をくねらせ、時に無理矢理関節を外し、限られた隙間を縫うように進んでいった。

(へっ! 見たかクソ商人! てめえの思うようには……!?)

(ふん。貴様がそれ位こなすのは想定済みよ。この場を借りて積年の恨みを晴らしてくれるわ!  ……『マグナ』!!)

 最終地点付近にて理外の位置からレイに襲い掛かる火の玉。藤兵衛が放った術式は火の輪を器用に潜りながら、レイの身体に向けて今にも降り懸からんとしていた。

(ぐっ……この体勢じゃかわせねえ! なら……しかたねえ! てめえも道連れだ! 『滅閃・炎』!!)

「な!? ま、まずいわい!」

 全てを避けきれぬと悟るや否や、レイは最後の力を振り絞り拳から闘気を噴き出した。闘気は波動となり術も火の輪をも巻き込んで、そのまま藤兵衛に降り注いだ。

「グワアアアアアアア!! 熱い! 死ぬ! 死んでしまうわ!!」

「ギャアアアアアアア!! 熱い! ちくしょう! ケツが焼けちまう!!」

 直撃こそは避けたものの、降り注ぐ炎に包まれる藤兵衛…そして攻撃の反動で火の輪に突っ込み、瞬く間に火だるまになるレイ。

「すごいなこりゃ! 本当に燃えてるみたいだよ」

「2人ともいい演技しますね。これならグラジールでも大好評間違いなしだ」

 興奮して歓声を上げる衛兵達の間を、迫真の演技で転がり回る2人。そこにシャーロットがふわりと降り立ち、彼らに美しく微笑んだ。

「さあ、ではこれで終いにしましょう。シャルちゃん奇術団の最後の演目です。お出でなさい、水よ!!」

 その言葉と同時に、上空から膨大な水流が巻き起こった。小規模な嵐ほどの雨がうねりとなり、あっという間に火を掻き消し、そのまま藤兵衛とレイを飲み込んで消えていった。残ったシャーロットは右手を恭しく掲げ、一瞬の間を置いて今日一番の拍手。いつまでも鳴り止まぬ歓声が、作戦の成功を明確に示していた。


 暫し後。国境を超えた先の、山間部を貫くトンネル内。疲れ果てた表情で一行を先導するレイ。とぼとぼとしたその背に、藤兵衛が苛ついたように声をかけた。

「おい、虫。目障りじゃから大人しく乗っておれ。まだまだ先は長いぞ」

「うるせえなあ。べつにいいだろ。ケツが焼けちまって座ると痛えんだ。歩いてる方が楽だぜ」

「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ!! よりによって尻が焼けたと申すか! 間抜けにも程があるのう」

「うるせえ!! てめえも味わえ!」

「グェポ!!」

 痛烈に藤兵衛の尻を蹴り上げたレイ。その反動か、叫び声を上げて猛烈に走り出す藤兵衛。

「おい! 急ぐとコケんぞ……って、お? ここが出口か?」

 いつの間にか到達していたゲンブ国方面の出口。そこから見えた風景は、今までのセイリュウ国とはまるで違う、一面の銀世界だった。見るもの全てが深い雪に包まれ、僅かにさらさらと細かい雪が天から降り注いでいた。

「なるほどな。どうりで寒いはずだぜ」

 レイは手を擦り合わせて独り呟き、少し前で佇む藤兵衛の肩をどんと叩いた。

「おい、ボサっとしてんな。雪なんぞで止まってんじゃねえ。旅はまだまだ続くぜ」

 即座にビクッと我に帰り、藤兵衛は驚きを隠し切れずに振り向いた。この男にしては珍しく、意識を他にやっていたようだった。不思議そうに見つめるレイに、彼は悠然とキセルに火を付けて口角を曲げた。

「おお、すまぬすまぬ。心配要らぬわ。雪は餓鬼の頃から慣れておる。儂からすればこの程度の雪など埃も同じよ」

「へえ。てめえ雪国出身なのか? 都会生まれ都会育ちだとばっかり思ってたよ」

「グワッハッハッハ!! 溢れる気品がそうさせるのじゃな。儂なぞ只の田舎者に過ぎぬわ。まあそこからのし上がった手腕、類稀な豪腕が素晴らしいというだけの話じゃて」

「けっ。チョーシ乗りやがってよ。てめえの自慢なんざもうウンザリだぜ」

 しかしその言葉に反し、今のレイはこうも思う。この男は、また何かを隠していると。何となく、この感じは“そう”であると、今までの経験から知っていた。

(このクソは、てめえの話を決して話したがらねえ。いつだってテキトーな与太話で濁して、本質的な話は外に出そうとしやしねえ。……だがまあいいさ。そういうやつなんだ、こいつは)

 レイは思う。垂れた目を細めて雪を見つめる彼の表情には、様々な感情が内側からこぼれ落ちているようだった。レイはふと足元の柔らかな雪をひと掬いすると、手の中できつく固め、数歩先を進む彼の後頭部めがけて思い切り投げつけた。バンと小気味良い音を立てて見事に命中する雪玉。きっと振り返る彼の怒りの表情を見て、レイは心底嬉しそうに笑った。

「ギャハハハ! クソがボけてやがら! ああおもしれえ!」

「この阿呆めが! 一体何のつもりじゃ!」

「べつに。なんでもねえよ。神様からのバチってやつじゃねえのか?」

「……ふん。貴様がそのつもりなら、受けて立とうではないか」

 その場に力車を止めて立ち止まる藤兵衛。コキコキと首を鳴らすレイ。2人の距離が徐々に縮まっていき、ある地点で止まる。緊迫した空気が流れる中、先ずは藤兵衛が動いた。僅かに屈んで両手で雪をつかみ、器用に二連続で雪玉を投げつけた。だがレイは苦もなくひょいとかわし、その動きの中で雪を土ごと掴み、カウンター気味で投げ付けた。唸る豪速球は顔面を直撃し、彼は真っ白になった顔を抑えて悶えた。

「グォォォオオ!! き、貴様! 石は禁止じゃろうて! どの世界でも常識じゃぞ!」

「うるっせえなあ。たまたまだろ。ほれ、悔しかったら1発くらい当ててみろや」

 レイは挑発するように、更に雪球を2発投げた。必死にかわそうとする藤兵衛だったが、球はその動きを遥かに凌駕する速度で飛び、彼の右肩と左太腿に激しい音を立ててぶち当たった。彼も負けじと球を連発したが、どんなに狙ってもレイの風のような動きの前では、かすることすら許されなかった。数分後、全身真っ白になりながら息を荒げる藤兵衛とは対照的に、余裕の笑みを浮かべるレイの姿があった。

「おいおい。なんだ、疲れちまったのか? この辺で終わりにしてやろうか? しかしよ、まさか1発も当てらんねえとは……さすがは頭でっかちのクソモヤシ商人だぜ」

「ふん! 貴様のような単細胞生物に戦術の概念など到底分かるまいて。戦の要は一撃、痛恨の一撃のみを確実に当てればよいのじゃ。次の1発、これを外したら、儂はどんな命令にも従ってやろうぞ。ただし貴様が避けれんかったら、儂の命令を1つだけ、どんな命令でも聞けい! よいな!」

「は? 誰にぬかしてんだ? てめえのショボ球なんぞに当たるわけねえだろ? ……おもしれえ、やってやんよ。てめえには言うまでもねえが、約束っては絶対だかんな」

 シン、と静まり返る場。藤兵衛はゆっくりと、地面からかなり大きめの雪塊を搔き集めると、丁寧にゆっくりと固め始めた。そして、ギリギリ手に収まるほどの大きさまで縮めると、静かに投球の姿勢に入った。レイは腕組みをしながら彼の動きを注視し、雪玉の軌道と速度を完璧に予測して、まったく動じることなく立ち尽くしていた。

(てめえの狙いはわかってる。わざわざあんな大きな球を使うってことは、投げた瞬間に球に石でも投げつけるつもりなんだろう。現に左手でコソコソやってやがる。んでシブキ一つでも当たったら、勝ったって大騒ぎするにちげえねえ。まったく品性のねえ野郎だぜ。ま、それならそれでやりようはあるけどな)

 そして藤兵衛が振りかぶり、大きな動きで雪玉を投げつけた瞬間、レイは猛然と前方に駆けた。レイは風となり雪玉と一瞬ですれ違うと、彼の顔面めがけて雪の塊を直接ぶつけにいった。

「へっ。やられる前に動きゃ意味ねえよ。あまいぜクソ商人!」

「ケッヒョッヒョ! 甘いのは果たしてどっちかの? 己の無知を知れい! ……『転移』!!」

 瞬間、ゆらりと空間が歪んだかと思うと、レイの視界がいきなり雪に塞がれた。ドスンと顔面に重い衝撃、暫くして漂う刺激臭。

「て、てめえ! こりゃ犬のクソじゃねえか! うっ、くせえ! マジでくせえ! これこそどこの世界でも認めらんねえぞ!」

「ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!! 何とも愉快、実に痛快! こんな気分がよいのは初めてじゃ。汚らわしき銀蠅がクソ塗れとは、いやはやここ数年で一番心温まる話じゃわい」

 急ぎ雪をかき集めて顔を洗うレイ。その姿を見て心底愉快そうに笑い続ける藤兵衛。

「おうおう、可哀想にのう。数少ない取り柄の整った顔が台無しじゃて。実は此度の奇術、種も仕掛けもありはせんでのう」

「うるせえ! 避けたハズの玉を『転移』しやがって! マジで気付きすらしなかったぜ!」

「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ! 完璧なる正解じゃて。何の景品もあげられぬが、約束通り命令は聞いてもらわんとのう。まさか貴様ほどの優秀な闘士が、約束の一つも守れんわけがあるまい、のう?」

 ぐっとその場で歯噛みするレイは、必死に悔しさに耐えていた。藤兵衛は表面的には控えめに口角を上げつつ、心中ではのたうち回るほどに大爆笑していた。

「(ケヒョーッヒョッヒョッヒョ! 何とも阿呆な奴じゃて。最初からこの取引を計算しておったに決まっておろうが。しかし……虫でも避けられぬという事実は大きな収穫じゃな)ホッホッホ。油断などするから足元を掬われるのじゃ。貴様の知能でも理解出来たかの? まあ秋津国の格言にもある通り、勝って兜の緒を……!!?」

 次の瞬間、藤兵衛の頭の上から降りかかる大量の雪玉、と言うよりも雪崩。雪の流れに身体を取られ、彼は回転しながら丘の下まで流されていった。その背後から実に楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「ふふ。私の勝ちですね、藤兵衛。では命令を聞いてもらいますよ」

「シ、シャル! お主いつの間に……」

 そこにいたのは、露出度の高いピンクドレス姿のままのシャーロット。降りしきる雪を一切気にせず、彼女はぽかんと佇む藤兵衛の顔に更に雪玉を投げ付けた。

「な、何をして……グェポ!!」

「ふふ。これで勝負は無効です。私に感謝なさい、レイ」

「へっ。だそうだぜ。お嬢様、遊んじまってすいません。すぐに出発……うおっ!!」

 今度は油断しきったレイの顔面にぶつけられる雪玉。ぽかんとした顔のレイの周囲で謎の力場が巻き起こり、四方八方から雪が降り注がれた。

「お、お嬢様!? なにをなさってるんです!」

「油断大敵ですよ、レイ。さあ、第二幕の開始です! かかってらっしゃい……キャアアァ!!」

 今度はシャーロットの顔を白く染める雪玉。離れた場所から悠然とキセルをふかし、気持ちよさそうに高笑いする藤兵衛の姿があった。

「甘いのう、シャルよ。これは合戦ぞ。ならば主従も師弟も関係ないわ。最後まで立っていた者が勝……ソゥゴン!!」

「なにお嬢様にぶつけてんだ! このクソが! さあ、そろそろ戻り……うおっ!!」

 雪玉がレイの顔面を襲い、嬉しそうに高笑いするシャーロット。が、その顔面にも再び雪玉! むせ返るシャーロットを見て高笑いする藤兵衛。いつまでもふざけ合う彼らの姿を見て、遂にレイも白い歯を見せた。

「……おもしれえ。なら今日は本気でやってやんよ! 俺の実力、ぞんぶんに味わえや!」

「ふん。貴様ら西の蛮族共が何をぬかしたところで、地の利は我にありじゃ。叩き潰してやる故覚悟するとよいわ!」

「貴方たちの主が誰なのか、誰が闇の世界を統べるのか、身を持って教えて差し上げましょう! さあ、いざ!」

 途端に雪まみれになる3人。楽しそうに声を上げ、はしゃぎ回る彼らには、これから目の前に広がる過酷さの気配すら感じられなかった。

 しかし、それこそが彼らの力。強さとは明るく前向きな心、そう思わせるような、とある陽の光が輝く雪の日のお話。

 現在地は広大なゲンブ国最東端、目標は中央部に位置する首都グラジール。金蛇屋藤兵衛と愉快な仲間たちの新しい旅が始まった。


 一方、国境沿いの剣状山脈、3合目付近。

 猛烈に吹き荒ぶ雪の中で、1人の男がはしゃぐシャーロットたちの姿を鋭く見つめていた。

 目を引く長身の男だった。見事な程にすらりと伸びた体躯からは、鋼のように鍛え上げられた筋肉が見て取れた。腰まで届く青みがかった黒髪を風になびかせ、袖が広く足先がスカートのように広がった蒼色の民族衣装を着込んだ、面長の精悍な男。彼の切長の目は漆黒の殺意で妖しく輝き、純然たる憎しみを込めて腰の刀を抜いた。

「ついに……ついに見つけたでござる!」

 男は全身を震わせて、一刀の抜き打ちを目の前の巨樹に向けて放った。するりと音もなく分厚い幹が切られ、轟音と共に雪の中に倒れる樹木に視線すら送らず、龍を模した髪留めにて高い位置で髪を括り、彼は静かに口の中で反芻した。

「あれが……魔女! 5年間探し続けた闇を操る者! 必ずや貴様を殺し……必ずや“仇”を討ってみせようぞ!」

 刀を仕舞うや否や、雪を蹴り山脈を駆け下りる男の姿。気迫の声は激しく降り注ぐ雪に飲み込まれていったが、彼の怨念は嵐となり負の奔流を産み出し続けていた。


 神代暦1278年12月某日。

 金蛇屋藤兵衛一行を取り巻く環境が大きく変化する前日のことだった。

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