第43話「奴隷」
初夏の日差しが痛いほどに突き刺す、とある暑い日の昼下がり。
色とりどりの建物が立ち並ぶ、ゲンブ国の首都ダールの街中を、1人の少女が楽しそうに歩いていた。美しい金髪を上部で二本に束ね、薄手の藍色のワンピースをふわりと着込み、薄い化粧を施したあどけない顔には可憐な笑みが浮かんでいた。街行く人々の雑踏に自然と溶け込みながら、彼女はただ街を散策しているように見えた。だがそんな彼女に気付いた兵士の1人が、顔を強張らせて目の前に立ち塞がった。
「おい、お嬢ちゃん。君はどこの子だい? ここらじゃ見ない顔だね」
「あ! 兵隊さんだ! かっこいい! その槍ってほんもの?」
厳しい口調を軽く受け流し、少女は無造作に彼の胸元に駆け寄ると、上目遣いで甘えるように返した。
「よ、よしなさい! ほれ、見せてあげるから、絶対に触っちゃダメだよ。危ないから離れなさい」
「実はわたしぃ、この街に着いたばかりでぇ。おばさんの家を探しててぇ、クツル通りに行きたいんですけどぉ、道とかぜんぜんわからなくてぇ。案内してもらえませんかぁ?」
「クツル通りか。ここからじゃちと遠いな。……仕方ない。おい、お前ら。俺はこの子を案内するから、厳戒態勢を解くんじゃないぞ」
「は! かしこまりました!」
粛々と油断なく警備を続ける兵士たちを見て、リースは心中で軽く舌打ちをした。
(ったく、どうにも徹底してるわね。シャルちゃんたちは無事かしら?)
1時間前。ダール郊外。街を取り囲む広陵地帯の一角にある湖のほとり。シャーロット一行は一旦街から退避し、額を付き合わせて紙切れを見つめていた。
「……と言うわけにて。敵はいよいよ己らを打倒せんと気を吐いている模様。これは由々しき事態にござる!」
一行の似顔絵が描かれた手配書を地面に叩き付けて、亜門は眼を怒らせ手を震わせた。だがその紙を取り上げて美しく微笑んだのは、他でもない一団の長たる魔女シャーロット=ハイドウォークだった。
「まあ! 実によく書けていますね。これが私ですか。何だか鼻も長くて皺だらけで、昔話のお婆ちゃんみたいですけど、それ以外はよく特徴を掴んでいますね。そして……この整った顔の優男が藤兵衛で……舌を出したトカゲ人間が亜門として、まさか……これがレイですか!? ふふ、これではゴリラそのものではないですか。ふふふ!」
「ガッハッハ! これは傑作じゃ! 今迄、虫だの蝿だのと申して済まなかったのう。やっと哺乳類に進化出来てよかったではないか。この絵を描いた者は見る目があるのう。儂など写実の如き美男子ではないか。ほれ、1つゴリラらしく吠えてみたらどうじゃ? その平坦な胸でも叩けば少しは音も……グェポ!!」
「……とにかくだ、それを描いた奴は殺す。それに触れた奴も殺す。俺からは以上だ」
煙を上げて吹き飛ぶ藤兵衛を伏せ目がちに見送り、亜門は空気を変えるべくごほんと咳払いをした。
「各々方、次に移ってよろしいでありますか? 特にそこの魔女、少しは黙って聞かぬか! そもそも其方の首にかけられた奨金額は尋常ではないでござるぞ! 1億銭など見たことも聞いたこともないわ!」
「はて。それは多いのですか? 藤兵衛ならすぐに稼いでくれそうですけど」
「ガッハッハ! さすがはシャルじゃ。よく分かっておるの。儂にかかれば1億なぞ鼻をほじりながらでも稼げるわい。で……儂には8000万か。ちと不満じゃが、妥当なところかの」
「おい! なんで俺は5万なんだ! 差つきすぎじゃねえか! 亜門ですら1000万だぞ! これ作った奴ぁマジで殺すしかねえ!!」
一層わいわいと盛り上がる一同に、さらに頭を抱える亜門は、自棄の如く大声でさけんだ。
「ええい! 今はそんなことはどうでもよろしいでしょう! 肝心なのはこの先にござるよ。この手配書がある以上、己らはこの街の全てを敵にしていると同意。このままではまともに動くことすら出来ませぬ。ここはダールを避けるのも一つの手かと」
「ここビャッコ国を素通りするとすれば、残る『楔』は南方のスザク国にあるとの事ですが……どうなのでしょう、藤兵衛?」
彼はキセルを咥えながら顎に手を置き、煙と共に深く吐き出すように苦渋の声を出した。
「……却下じゃな。スザクは危険過ぎるわい。細かい歴史はさておき、今のあそこはまともな土地ではない。戦乱、貧困、疫病、犯罪。東大陸の全ての闇が凝縮した場所じゃ。出来ることなら足を踏み入れずにおくべき土地じゃて。とてもシャルを守り切れるとは思えぬ」
「じゃあどうすんだ! このまま手をこまねいてろってのか?!」
「相変わらず五月蝿い虫じゃ。何としてでもダールでケリをつけるしかあるまいて。忘れるでない。儂らには“取って置き”があろう? 今こそ有効活用する時じゃな。おい、リース。聞こえておるか?」
藤兵衛は力車の中に向かって傲慢に声を放った。すると一瞬の間を置いて、甲高い呆れ声が跳ね返ってきた。
「はいはい。聞こえてますよ、っと。あんたが想定してたのはこの状況ってわけね。どうせ偵察でもしてくればいいんでしょ?」
「話が早くて助かるわい。唯一顔の割れておらん、お主だけが頼りじゃ。宜しく頼むぞ」
「ま、待ってくだされ! それは幾ら何でも危険すぎるのではありませぬか? 人相はさておき、恐らく戦力としては敵も存在を把握しておりますぞ。リース殿にもしものことがあれば……」
「心配いらないわ。亜門くん、あたしを信じて。でも……この機会に一つだけ言っておくわ。みんなよく聞いて」
リースの決意を込めた声が、場に凛と響いた。一行は黙したまま軽く頷き、顔を揃えてその声に耳を澄ませた。
「大体わかってると思うけど、あたしにはあたしの目的がある。あたしが最優先するのはそれ。そこだけは譲ることは出来ない。でも、それに片を付けたら、あるいは目処がついたら、あたしは必ずあんたたちの力になる。そのことだけは信じて。少なくとも今、あたしはあんたたちの敵では決してないから」
力と意思が芯に潜む強き声。冷たいほどの一瞬の間の後、揃って笑い出す一堂。思わず顔を赤くさせるリースに向けて、彼らは実に愉快そうに語りかけた。
「な、なによ? あたし変なこと言った?」
「今さらなに言ってやがんだ。どうせいつもの腹黒だろ? てめえの好きなようにやりゃいいよ。なんも気にするこたあねえや」
「胡散臭い女狐の分際で、随分と殊勝なことを申すものよ。お主の腹中の一物も儂の計算の内じゃ。まあ貸し一つとしておいてやろうぞ」
「はっはっは。己はリース殿を信じておりますぞ。ですから遠慮せずに、果たすべき責務に注進して下され」
「私もリースを信じています。貴女は私の初めての女友達です。どうか危険にだけは気を付けて。そして、必ず私たちのところに帰ってきて下さい。そうしたらまた一緒に買い物に行きましょう」
熱くなる目頭を誤魔化すように、リースは顔をわざと笑顔に作って力車から出し、皆に向かって一言告げた。
「はぁい。じゃあ言ってきますねぇ。亜門くん、おじさま、レイ、それに……シャルちゃん。気を付けて下さぁい。みんなわたしがいないと何もできないんですからぁ」
そして、時は現在。
兵士に手を引かれダールの街を案内される、幼子のようにはしゃぐリースの姿があった。
「わぁい! こんな大都会わたし初めてですぅ。どこまで街が続いてるんですかぁ?」
「ああ! そっちはダメだよ。まあ北大陸のど田舎に比べたら、このダールは想像がつかない程の文明国だからね。はしゃぐ気持ちも分かるけどさ」
「そうですねぇ(余計なお世話だボケが!)。あれぇ、あの人たちは何をしているんですかぁ?」
リースの細い指が差す先には、馬車の荷台から伸びた鎖に、十数人の男女が繋がれている姿があった。彼らは肌や目の色こそ違っていたものの、一様に虚ろな目をし、何を見つめるでもなく、ただ視線を虚空に泳がせていた。彼らは仮面のように彫金された目出し帽を頭からすっぽりと被り、仔細な表情は読み取れなかったものの、過ぎ行く人々は彼らの存在すら気にかける様子もなかった。兵士は悪びれる様子もなく、朗らかな声でリースの質問に答えた。
「ああ、“アレ”ね。うーん、説明が難しいな。アレは私達の生活を助けてくれる、とても便利な連中なんだ。おかげで他の街とは違って、私達市民は働かずに裕福に過ごせる。奴隷って言うんだけど、北大陸にはいないのかな?」
「えぇー。わたしぃ、よくわかりませぇん(奴隷……ね。いい趣味してること。文明国が聞いて呆れるわ)」
「はは。お嬢ちゃんにはちょっと早かったかな? さ、クツル通りはもう間もなくだよ」
大足で先導する兵士の後に付いて、リースはぴょこぴょこと跳ねるように歩きながら、五感を最大限に稼働させて街中の様子を、周囲のあらゆる情報を集めていた。声から、仕草から、匂いから、空気から、肌の感覚から。それは彼女が後天的に身に付けた特技だった。工作員として生き、今まで練り上げてきた能力だった。
「ねえ、兵隊さん。なんだかみんな、この紙のことを噂してるみたいですけどぉ、いったいこれってなんなんですかぁ?」
リースは不思議そうに首を捻りながら、地面に落ちている手配書を拾い上げた。シャーロット一行が悪意に満ちた表情で描かれたその紙面を、兵士は忌々しそうに一瞥して吐き捨てた。
「何もへったくれもないよ。この国始まって以来の凶悪な犯罪者さ。隣町のボルオンを訳の分からん力で焼き払った、とんでもなく悪い連中だよ。黒龍屋さんの助けがなかったら、我々ダールの民も危うかったところさ」
「(ずいぶんとまあ、徹底した情報統制だこと)ええー、わたし怖ぁい。特にこの蛇みたいな目をした人が生理的に無理ですぅ」
「はは。隣のゴリラ女の方が怖そうだけどね。お嬢ちゃんも気をつけなさい。この悪魔達の首領、魔女シャーロットは見ての通り醜悪極まる老婆で、若い女の生き血が大好物なんだそうだ。おお、怖い怖い」
(む、むしろシャルちゃんは安全なんじゃないかしら? それにしても……見れば見るほど悪意たっぷりの人相書きね。なのになんであのクソ狸だけ、やたらめったら美形に書かれてるのかしら?)
やがて彼らは、目的地であるクツル通りに差しかかろうとしていた。今までの本通りとは異なり、やや陰湿で陰の射す街並み。そのときリースは突然歩みを早めた。兵士が驚いて声をかけようとした時には、既に遅かった。突如として振り返った彼女の放つ1枚の符が彼の喉を直撃し、即座に彼の目は虚ろに変化していき、その場に力無く立ち尽くした。
「はい、そのまま。ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「……はい。何なりと」
「止まらないで。そのまま話すの。いいわね。とりあえず、現在のこの街の警備状況について聞こうかしら」
「……北の大門の間に詰所があり、司令部もそこに。敵の襲来や奴隷の反乱に備え、東西南北に兵士が100名ずつ。更に黒龍屋の私兵が……」
「いいわ、その調子で続けて」
打って変わって冷静なリースの声。周囲を通る人影もなく、彼女たちの姿に違和感を感じるものはいなかった。だがその時、術に集中するリースは感じることが出来なかった。裏通りに漂う微かな闇の破片が、もわりと沸き立った事実に。集まりし闇は徐々に人の姿をとり、彼女の姿をはっきりと認識すると、再び空間に霧散していった。
「……幽玄斎様の仰った通りだ。対象らしき者を発見。これより追跡に移る」
夕刻近く。ダール中心街付近。
一台の力車を引く着流しの老人が、人目を気にする事なく目抜き通りを走り回っていた。彼は気さくに行き交う人々と会話をし、悠然とキセルをふかしながら談笑していた。
「ほう。それは不思議ですな。10年前には確かにこの辺りにあったのですがのう」
「悪いけど知らないねえ。旅の人、覚えときな。ここダールじゃ10年前なんて、神が統治してた時代みたいなもんだ。そんな様子じゃ、ここで商売なんて夢のまた夢だっての」
「ホッホッホ。一本取られましたな。確かに儂などまだまだひよっこですわい。それではまた。お互い良い日を」
笑顔で手を振りながら男は、老化した姿の金蛇屋藤兵衛は考える。明らかに良からぬ事態が起きている、と。
彼は朝一からずっと、シャーロットの安息の地を探し、ダールの街中を探し回っていた。顔の広い彼ならばそれくらいは容易い……筈だった。しかし行けども探せども、彼が懇意にしていた、数年前までダールの地にいたはずの人間が、煙のように消えていたのだ。周囲の者に尋ねてみても、まるで最初からそんな者は存在しなかったかのように、不思議そうな顔をされるのみ。
そして、半日間それを繰り返すに至り、藤兵衛も気付かざるを得ない。既に敵は幾重にも周囲を覆っているということを。最初から全て計算し尽くされて、待ち構えられていたということを。
(……成る程の。徹底しておるわ。流石としか言い様のない動きじゃて)
「おい、そこのお前。何をしている?」
考え込む彼の不意を付き、衛兵が刺すような警戒の眼差しを向けて来た。手に持つ手配書が如実に目的を告げる中、藤兵衛は堂々と、至極当然といった面持ちで衛兵に話しかけた。
「おお、よい所に! 儂はゲンブ国から来た南海屋と申しましての。もしご存知なら、ココノラという商人の住所を教えて頂けませぬか?」
「ああ、ココノラなら知っているが……南海屋とやら、まずお前は何の目的でここにいるのだ?」
警戒を解かぬ衛兵を真っ直ぐに見据えて、藤兵衛はおくびにも動揺を示さずに邪悪に微笑んだ。そう、藤兵衛は動じない。この男は決して動じない。
「決まっているでありましょう? 公には中々難しいお立場でしょうが、奴隷商人に用など1つしかありますまい。ほれ、中をご覧になって下され」
「ん? 中とはこの力車か……こ、これは!」
不審そうに扉を開けて中を見た衛兵が目にしたのは、絶世の美女の姿だった。美しく長い黒髪を携えた純白の肌の女性が、目隠しと猿轡をされて鎖で縛り付けられる官能的な光景。衛兵がその景色に見惚れ、一瞬言葉を失ったのを確認すると、藤兵衛は下卑た笑みを顔中に浮かべた。
「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ! 上玉でありましょう? これは北大陸の集落から攫って来た姫君でしてな。ここダールでは相当な高値が付くと聞き、遥々やって来た次第ですじゃ。いやあ、幾らになりますかのう。心底楽しみですわい」
「……ふん。世も末だな。お前のような死にかけの老人までが、奴隷商売に精を出すとは。商人なら少しは黒龍屋殿を見習って、お国の為になる商売をしたらどうだ?」
「国だの民族など、そんなものは金になりますまい? 儂に必要なのは金だけですじゃ。こうして街を練り歩く事で評判にもなりますからのう。して、ココノラ様のお屋敷は何処に?」
「勝手に探せ。それより一度本部まで……!!」
向きを変えようとした衛兵の胸元に、そっと差し込まれる黄金の欠片。どう見ても数万銭は下らないであろう価値に、彼の表情が急変するのを藤兵衛は見落とさなかった。
「まあまあ。そう言わんで下され。これはあくまで道案内の礼ですじゃ。それ以外は何の意図もありませぬ。親切な衛兵様への感謝を込めた、一市民のささやかなる親愛の印。どうか受け取って下さりませぬか?」
「……ふん。まあいい。ココノラの屋敷はこの通りの先、街外れの邸宅だ。後は勝手にしろ。この下衆が!」
「グッヘッヘッヘッヘッ! 衛兵殿も悪う御座いますな。さて、それでは下賤の民は失礼するとしましょうぞ。お勤めご苦労様でありますなあ」
去り行く衛兵にも注意を怠らず、藤兵衛はキセルに火を付けて下劣な高笑いを上げ続けた。心中で反吐を吐きながらも、彼は決して折れることはない。行くべき道のため。そして、守るべき者のため。自らをどんなに卑しめたとしても、彼の確固たる信念に刺さる刃など、この世に何処にも存在し得なかった。
「さて、と。次を当たるとするかの」
一方、夕刻近い街並み。
街には奴隷を引き連れた住民が、1日の仕事を終えて笑顔で会話を交わしていた。その中でも一際衆目を集めたのは、極めて屈強な男女の奴隷の姿だった。2人とも仮面を被り手足に枷を嵌められていたが、男のしなやかで鍛え上げられた長身の体躯。そして女の傷だらけの身体と、張り裂けんばかりに膨張した筋肉は、行き交う人々にある種の緊張感を与えていた。
主人と思われる優男風の商人は、涼しい気候に似つかわしくなく汗をびっしょりとかきながら、震える手で鎖を引き一路家路へと向かっていた。そんな彼に話しかける、派手な格好の女が1人あった。彼女は5人の奴隷を繋ぐ鎖を緩く握り、知己の顔を見てにこやかに話しかけた。
「あら、ココノラ。元気そうじゃない。実にいい体の奴隷だねえ。どこで捕まえて来たんだい?」
ココノラと呼ばれた男は一瞬ビクンと痙攣するも、すぐに震えを隠すように早口でまくし立てた。
「ち、ちと伝手がありやしてね。い、急ぐんでまた今度ゆっくり……」
「なんだ、変な奴だねえ。軍を辞めてから羽振りはいいみたいだけど、幾ら儲かるからって身体は大切にしないと」
「そ、そうでやすね。そうしやす。あ……あの、実は……」
ココノラがそう言いかけたその時、彼の持つ鎖が激しく引っ張られた。鎖の先の奴隷2人が何事か言いたそうに、一斉に暴れ始めたのだ。そこに込められた明白な殺意を感じ、彼はガタガタと震えながらも、何とか彼らを沈めようとした。
「ど、どうどう。見ての通り気が立ってるみたいでやしてね。申し訳ありやせんがまたの機会に……」
「ったく、躾がなってないね。お前んとこの奴隷は質が売りだろうに。最近物騒だから気を付けろよ。例の魔女が近くまで来てるって噂だからね」
そう言って笑いながら去る女。ココノラは失神しそうになる意識をどうにか持ち直して、呆然とその場に立ち尽くした。
「……余計なことは考えるでない。今度こそ死にたいでござるか?」
男の奴隷が仮面越しに、低く小さく呟いた。ココノラは首筋のミミズ腫れをそっと触り、小刻みに激しく震えていた。
「い、いえ。さっきのは違うでげす。あれは……」
「よけいなこと言ってんじゃねえ。早くてめえの家に進め。マジで次はねえぞ」
今度は女の奴隷が、ドスの効いた声を彼の耳に浴びせた。ココノラは自分の不運を心中一杯に呪いながら、重く突き刺さりそうな足をゆっくりと動かしていった。
「それでいい。俺たちにこんな鎖なんざ意味ねえってのは理解してんだろ? てめえは俺たちの奴隷だ。反抗は許さねえ」
「は、はい。言う通りにしやすから……その……どうか命だけは………」
「全ては其方の心掛け次第でござる。不審がられる前に進むのだ。早くせい」
「は、はいいい!」
彼らは喧騒激しき商店街を早足で抜け、静かな邸宅街にさしかかった。ココノラは灰色の大きな自宅の門を潜り、鍵を開けて応接間に入ると、すぐに魂魄抜けんばかりにがばりとソファに倒れ込んだ。だがそれを許さず、女奴隷がその脇腹を蹴り飛ばした。
「グェポオ!!」
「誰が休んでいいっつった! てめえにゃまだ使い道があんだ。俺らにたてついた借りは、10倍にして返してもらうかんな」
「はっはっは。まるで殿の言い方ですな。それ以上痛め付けて自害でもされたら大損でござるよ」
「ひ、ヒイイイイ!」
「おい、ゴミ野郎。俺は腹立ってんだ。よく覚えとけ。まずそこの連中を引っ込めろ。話はそれからだ」
「は、はい! 今すぐに! お前は部屋に戻れ。ここで起きてる事は決して他言するな! 早くしろ!」
ココノラは怪訝そうな使用人の奴隷たちを急いで追い払うと、恐怖に肩を震わせ続けていた。彼に鋭い視線を放ち続ける亜門を尻目に、レイはばっと仮面を脱ぎ捨てて、無造作にソファに座り込んだ。
「ふう、やっと着いたか。1時間以上歩いたぜ。デカすぎる街ってのも困りもんだな」
「しかし……なんとも趣味の悪い街でありますな。これが噂に聞く奴隷文化でござるか。無理矢理に人を捕え労働力にするとは、先進国が聞いて呆れますな」
「ま、たしかにてめえの言う通りだが、俺たちにゃなんの関係もねえ話だ。逆にこうして利用できるしな。おい、ゴミ野郎。早速出んぞ。休んでねえですぐに準備しろ」
地鳴りのような声でココノラを恫喝するレイ。彼はびくんと背筋を震え上がらせ、怯え切った声で懇願した。
「ひ、ひいい! もう勘弁して下せえ。あっしは決して何も喋りやせんから、どうかもう関わらせないで……」
「最初に関わって来たのはてめえの方だろ! 殺されたくなきゃさっさと動け!」
「ココノラとやら。其方には忌まわしき魔女の呪いがかけられているでござる。仮に逃げようとしても、数時間後には五体が花火の如く弾け飛ぶだけのこと。くれぐれも慎重に動くことだ」
「ひ、ひいいい! あっしは何てことに首を突っ込んじまったんだ! もう嫌だああああ!!」
弱音と涙を撒き散らし腰を抜かす彼を見て、レイは唾を吐き捨てると、彼の首根っこを乱雑に掴んで立ち上がった。
「おい、亜門。あんま目立ってもしゃあねえし、てめえはここで待ってろ。きっちり仕事はしてくっからよ」
「御意。己は己なりにこの街を探ってみるとしましょう。ただ、勝手に進むのだけは禁物にござるよ。放っておけば隣国まで行ってしまいそうですからな」
「はっ! 言いやがるぜ。このゴミに案内させっから心配すんな。てめえこそムチャすんじゃねえぞ」
「それは己の台詞にござる。レイ殿は無茶をするのが日課の御方。ご武運を祈っておりまするぞ」
「ったくよ。おめえ最近あのクソに似てきやがったぜ。……ほれ、行くぞ。こちとら時間がねえんだ」
レイに掴まれ蹴とばされながら、無理矢理に外に連れ出される奴隷商人ココノラ。周囲に剣呑な空気がないことを何度も確認してから、亜門はふうと一息付いてソファに座り込んだ。
潜入は成功した。奴隷の仮面を被り、敢えて敵陣深くに忍び込む。藤兵衛の策に沿って何とかここまでは来れた。しかし、問題はこの先だった。リースはこの街全体を探り、レイが『楔』を探し、亜門はその援護。だがそれで、果たしてうまくいくのだろうか? 果たして敵はその程度の相手なのか? 亜門は自らの内に生じる疑問を振り払うことは出来ず、無為に思案に耽るばかりだった。
しかし彼はすぐに、そんな自分を諌めた。己は一体何を考えているのか。まずは仲間を信じなくては。それにあの殿が無策で物事を進む訳がない。敵の策がどのようなものであろうとも、自分はやるべきことを果たすのみ。そう思い直して彼は顎に手を当てて小さく微笑んだ。
彼がふと我に帰ると、奥から顔を出した数人の奴隷が、興味深そうに彼を見つめていた。亜門は明るくにっこり微笑むと、彼らに向けて声を張った。
「心配なさるな。己は高堂亜門と申す者。怪しい者ではない……と言っても信じてもらえぬでしょうが、少なくとも皆様に害をもたらす者ではありませぬ。暫しの間こちらに居りますので、ご迷惑かとは存じますが何卒ご容赦下され」
だがその時、1人の奴隷が驚きの声を上げた。岩のように体格のいい隻腕の男は、何度も何度も彼の顔を眺めてから、勢いよく自分の仮面を剥ぎ捨てた。
「ま、まさか本当に?! 本当に亜門なのか? お、己だ! 雪之丞だ! 進藤雪之丞だよ!」
「雪之丞!! 本当か?! まさかこんなところで出会えるとは!」
2人は自然に距離を近付けると、がっしりと抱き合った。見るからに強面の雪之丞の眼には、熱い涙が一筋だけ浮かんでいた。
「……其方、泣いておるのか? 鬼と謳われた雪之丞が脆くなったでござるな」
「何を申すか! 秋津の侍が泣く訳があるまい! これはただの眠気でござる!」
「はっはっは。強がりを申すな。昔から其方は般若の如き様相でありながら、その実は結構な弱虫であったろうが。覚えておるか? 餓鬼の頃に龍心に蛇を投げ付けられ、蹲って夕まで泣いておったであろうに」
「其方も一緒に泣いておったであろうが! しかし本当の鬼は其方でござる。桔梗群の戦での100人斬りは勿論、極め付けは時雨海での海賊狩りよ。秋津国の侍で其方を知らぬ者など、ただ1人もおるまいて」
「はっはっは。そんなこともあり申したな。しかし本当によく無事でおったものよ。あの戦で死んだものと思うておったぞ」
亜門は実に嬉しそうに微笑むと、再びソファにどかりと座り込んだ。雪之丞も何度か周囲を伺ってから、控えめにその横に座った。
「……そうだな。いっそ死ねれば良かったのにな」
失われた左腕を目を細めて眺め、独り言のように言い放つ雪之丞。亜門は目を細め、静かな口調で彼に尋ねた。
「あれから……何があったでござる? 其方ほどの侍が奴隷になっておるとは、己には到底信じられぬ。ゆっくり話してみよ」
「……其方は変わらんな。本当に懐かしいでござる。あれから何年になろうか……」
2人の間に流れる親密な時間、そして語られる濃密な闇。どろりと溶ける不安定な時間の中で、彼らはゆっくりと息をした。その吐息の中に確かに含まれる痛みと棘を全身で感じながら、亜門は静かに目を閉じた。
時は流れ、夜。
シャーロットを載せた力車をゆっくりと漕ぎ続ける藤兵衛。その瞳に映るのは、半月より僅かに痩せた月の微かな輝き。周囲に人気のなさを確認すると、彼は決められた合図の通り、力車をキセルで軽く2度叩いた。
「満月まではまだまだじゃのう。やれやれ。とんだ旅の終着となりそうじゃ」
徐々に若さを取り戻していく彼の肩越しに独り言を聞き、シャーロットは車内から不安そうに顔を覗かせた。
「申し訳ありません、藤兵衛。私のせいでこんなことになってしまって。心よりお詫びいたします」
「はて? 何故お主が謝るのじゃ? 理解出来ぬのう。全ては儂の力不足故よ。謝るのは儂の方じゃ。迷惑をかけてすまんの」
「そんなことありません! 藤兵衛はいつも私のために一生懸命……」
「結果の出ぬ努力なぞ寝ているのと大差ないわ。疲弊せぬ分、寝ている方がマシ なくらいじゃの。しかし……ここまで徹底して儂の知己を排除しているとは、やはりあの男を敵に回すのは並大抵ではないのう」
自虐的に言い放つ藤兵衛に、悲しそうな視線を向けるシャーロット。彼の言う通り、事態は想像以上に逼迫していた。時間をかけてダールを巡るも、判明した事実はただ一つ。敵の手により彼らは孤立させられ、この大都会で味方は1人もいなかったということ。
だがそこで足を止めようとはしないのが、この金蛇屋藤兵衛という男だった。彼は僅かな可能性を求め、足を動かしダールの各地を駆け巡った。徒労に終わりながらも、明晰な頭脳でそうなると予想しつつも、ただがむしゃらに進み続けた。
そして今、夜も大幅に更けた不吉な闇の中、彼らは最後の目的地へ向けてひたすらに歩き続けていた。
「大丈夫か、シャルや。大分疲れたであろう。間も無く着く故、もう少しだけ我慢せい」
藤兵衛は強気の表情を崩さず、何ともないような口調で笑いかけた。疲れているのは藤兵衛の方、そんなことは重々承知しながらも、シャーロットは彼に負担をかけまいと美しく笑顔を返した。
「ええ。もう少しですね。きっとこの先に希望が待っていますよ」
「……そうじゃな。きっとそうじゃ。何せ今から向かうのは、金蛇屋のダール支店じゃからな。誰かしら力になってくれるに違いなかろうて」
「ふふ。この前みたいにまた、奥さんに間違えられてしまうかもしれませんね」
いたずらっぽく微笑むシャーロットに、藤兵衛は懐のキセルを取り出して苦笑気味に微笑み返した。
「まったく……あれには参ったわい。どいつもこいつも好き放題言いおってからに。彼奴ら全員減給じゃな」
「……そんなに嫌でしたか? 私はとても嬉しかったですけれど」
「やれやれ。実に困ったものじゃ。世の中とは難しい事だらけじゃて。……さ、もうすぐ着くぞ。捕まっておれ」
そう言って力車を急加速させる藤兵衛。シャーロットは不満そうに、だがどこか嬉しそうな顔でそれを見つめていた。
そして、5分ほどして。
夜はすっかり闇に染まり、月夜の光に晒されるシャーロットたち。眩い光が差し込める中、呆然自失で立ち尽くす藤兵衛に向けて、背後からそっと声をかけるシャーロット。
「これは……どうしたことでしょう? 何故こんなことに?」
目の前の光景を、素直に受け入れることのできない2人。そう、そこにあったのは、だだっ広い……廃墟だった。本来そこにあるはずの金蛇屋支店は影も形もなく、ただ建物の柱が数本残っているのみ。焼け焦げた木材の跡が、この地に振るわれた惨劇の全てを物語っているようだった。
明らかに、全てが狂っていた。藤兵衛は焼け残った大黒柱にどしりともたれかかり、地面を向いて発狂したように高らかに笑い始めた。あまりの声に圧されるシャーロット。だが彼女はきっと口を結ぶと、ツカツカと藤兵衛に歩み寄り、強く一発頬を張った。
「グェポ!!」
「しっかりして下さい、藤兵衛! こんな事態だからこそ、現実と向き合わねばなりません。ここがダメなら次を探しましょう。必ず希望はあります! 諦めてはいけません」
一瞬きょとんとして頬を抑える藤兵衛。だが彼は再びけたたましく笑い始め、それを見たシャーロットは悲しそうに目頭を抑えた。
「ああ……藤兵衛。貴方がこうなってしまったら、私はどうしたらよいか……。お願いです、どうか正気に戻って下さい」
泣きそうな顔で地面に膝を付くシャーロット。しかし、よく見れば藤兵衛の表情には曇り一つない。彼は狂ってしまったのだろうか? ……いや、賢明な読者諸君はご存知の筈だ。金蛇屋藤兵衛は動じない。この男は決して動じない。
「誤解するでない、シャルや。こんなに楽しいことはないぞ。まさかこんなことになっておるとはの」
「……え? どういうことですか、藤兵衛?」
その質問には答えずに、藤兵衛はどかどかと無遠慮に廃墟の中に踏み入った。焦げた木材を蹴り倒し、床に転がる大岩を明確な意思を持って転移させると、地面の木床の下から鉄製の蓋のようなものが見えた。
「これは? ……まさか地下室ですか?」
藤兵衛はにやりと笑い、その辺の木材を使ってテコで蓋をこじ開け始めた。5分もないうちにぎしりと不吉な音を立てて、深い闇が僅かに口を見せた。
「ガッハッハ! まさかこんなものが残っておるとは! 作った儂もすっかり忘れておったわい。他の連中なら尚更よ。ほれ、入った入った」
シャーロットを先導し闇の中に入り込む藤兵衛。彼女は恐る恐るながらもそれに続いた。
地下室は十分すぎるほどの広さがあった。術式の火に照らされる室内には、沢山の備蓄食料を始めとした物資で溢れていた。藤兵衛はそこから干し芋を取り出して一口齧ると、満足そうににやりと笑った。
「ちとカビが付いてはおるが、保存状態は悪くないの。水路も整備されておる故、数日は余裕で持つ筈じゃて」
「……トイレは、どうなっていますか?」
「ん? そんなものその辺ですればよかろうて」
「無理です。何とかして下さい」
「仕方ないのう。儂が転移する故……」
「な、ん、と、か、し、な、さい!!」
「わ、分かったわい! じゃからその術式を解除せい! まったく……女とはこれじゃから困るわい」
そんな中、突如として藤兵衛の指輪に光が灯った。紛れも無く仲間からの至急の連絡を告げる通信に、戸惑いながらも即座に応答する藤兵衛。
「おうクソ商人! 今大丈夫か? お嬢様は無事か?」
その声、口調の不自然な速さから、何事かの異変が起こったのは明白だった。藤兵衛は目を細めキセルを火を付けると、煙を転移で外に飛ばしながら返した。
「こちらは問題ない。シャルも元気にしておるぞ。で、用は何じゃ? 察するに火急の案件であろう?」
「話が早くて助かるぜ。こっちにゃいい話が1つと……悪い話が山ほどあってな」
「何でもよいわ。順に話せい。どうせ貴様の説明では伝わらんとは思うがの」
「ったく、いちいちうるせえ野郎だぜ。まずはいい話だ。『楔』の位置が判明したぜ。黒龍屋本店の地下だ。凄まじい闇力を放ってるから間違いようがねえな」
その言葉を聞いて思わず顔を綻ばせるシャーロット。だが藤兵衛は渋い顔を崩さず、努めて冷静に状況を分析していた。
「……臭いの。隠そうとしても隠せぬなら、逆に戦力を集中させる。儂ならそうしようて」
「ああ、てめえの言う通りだ。で、ここからが悪い話だ。『楔』近辺の警備は凄まじく、厳重で近づくことすらままならねえ。おまけにバラムやガンジも揃ってやがる。敵はかなりここに力入れてやがるな。まともに行ったら総力戦になる。そしたらボルオンの二の舞だ」
「ふむ。珍しく貴様の言う通りじゃて。どうにかして陽動を行わねばならぬな。そこは儂が考えようぞ。で、悪しき知らせとは以上か?」
「残念ながら、まだまだだ。まずリースだけどよ、打ち合わせ通り、例の場所で落ち合おうとした。だがあいつは来なかった。代わりに置いてあったのは手紙だ。暗号で書かれてたが、問題はその中身だ。『敵に追われている。必ず後で連絡する』……だそうだ」
「ええ?! リースは平気なのですか?」
シャーロットの不意を付いた大声が、レイの耳を貫かんばかりに刺した。レイは耳を遠ざけ頭を振ると、可能な限り冷静な声で伝えた。
「正直……まったく不明です。あいつのことですから、そうそうやられたりはしねえと思いますがね。そしてもう一つ悪い知らせがありまして、実はこっちの方が厄介なんですが……」
「何じゃ! さっさと話せい! これ以上悪いことなどあるものか!」
レイは一瞬だけ間を置いて、意を決したように一気に言葉を発した。
「亜門が……消えた。俺がさっき帰って来たら、こっちも置き手紙だ。ご丁寧にそこのクソ商人だけに読んで欲しい、と書いてやがる」
「な……何じゃと! 一体どういう意味じゃ!?」
突然の事態に言葉を失う2人。その空気を察してレイも力無く首を振った。
「マジで謎すぎんぜ。ともかく俺はこれは読まねえ。明日に街の外で合流すっぞ。それまで待機だ」
「う、うむ。訳が分からぬが、取り敢えず了解じゃ。昨日の場所でよいか?」
「かまわねえ。それじゃあな。くれぐれもお嬢様を頼んだぜ」
通信が切れた後も、不気味な沈黙が彼らを襲っていた。それはまるで生物のように、いつまでもいつまでも肌に感覚として残り続けた。
神代歴1279年7月。
ビャッコ国首都ダールでの藤兵衛たちの一歩は、言いようもない不安に包まれた泥濘の中へと踏み出された。
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