第42話「ダールへ」
闇夜。
街道から一本外れた獣道を、風を切って走る一台の力車あり。周囲の景色など一切気にかけず、力車は目的地を向けて突き進んでいた。
途中何度か、側を付き従う痩身長躯の侍から、引き手の若い男に向けて何事か報告。男は眉を顰めてキセルをふかしながら短く指示を送ると、侍はすぐに軽く頷いて持ち場に戻った。彼らは周囲に気を配りながらも、時として大胆に前へ前へと進み続けていた。
ボルオンでの死闘は終わり、金蛇屋藤兵衛一行は追っ手を逃れ、ダールに潜伏することを目的としていた。虎穴に入らずんばの言葉の通り、彼らは死中に活を求めていた。彼らの最終的な目的地はここなのだから、戦いが終われば平和が訪れるのだから。少なくとも彼らはそう信じて止まない。
朝が訪れ、ダールまで数時間の距離に差し掛かった頃、彼らは山中の庵で今日初めて休息をとった。湧き水で喉を潤しながら、藤兵衛と亜門は一斉に疲労の息を吐いた。
「……殿、目的地まではあと幾らほどでしょうか? いえ、己はまだまだ問題ありませんが、殿がお疲れではないかと」
「うつけを申せ。あれだけの死闘の後、3日に渡り不眠不休で飛び出したのじゃ。如何にお主とてとうに限界は過ぎておろう。じゃが安心せい。あと1時間ばかりで到着する筈じゃ」
「それは何よりでござる。正直に申すと、中々に身体が軋んでおりまして。殿の虚弱が伝染したのやもしれませぬな」
糸の切れたように長身を畳み、その場にくたりと座り込むと、亜門はにっと快活に歯を見せた。藤兵衛もつられるように豪快に笑い飛ばしながら、彼の隣に座り込んだ。
「ガッハッハ! お互い素直にならねばのう。儂なぞ半日前から既に限界なぞ超えておるわい。まあダールにさえ着けば当てはある。それまでの辛抱じゃて」
「殿に意見する訳ではありませぬが、果たしてそう上手く運ぶかどうか。敵の手は想定より遥かに長いですぞ。あの変態は一角の策士の模様。いかに殿とはいえ、油断していては先日の様に足元を掬われかねませぬ」
「うむ。その通りじゃ。敵は強い。そして、儂らの決戦は間近に迫っておる。気を引き締めねばの。……にしても、うちの女衆は何処へ行ったのじゃ? こんな時に道草を食うておっては、これから先に影響するというに」
「まあまあ。かの魔女はさておき、レイ殿とリース殿に油断などはありませぬ。来るべき決戦に備え、綿密に準備されておるのでしょう」
疲労困憊の2人が顔を突き合わせてそんな話をしている最中、彼方より楽しそうな3人の嬌声が風に流れてきた。
「やだぁ。シャルちゃんのその蝶の柄のマフラー、ほんと素敵! いいなあ、よく見つけたねぇ」
「ふふ。幾らリースでもこれはあげませんよ。見た瞬間、私にはびびっと来たのです。でもリースのその帽子も素敵ですよ」
「へへへ。いいでしょ。前からピンクのハットが欲しかったの。やっぱり買い物は楽しいねぇ。最初は色々言ってたけど、レイだっていいの買えたじゃない」
「お、おう。けどよ、俺ぁこんな短えスカート履いたことねえよ。虹みてえなトンチキな色だし、股もスースーしやがる。ま、動きやすくていいけどな」
「そんなこと言いながら、とても楽しそうに選んでいたではないですか。とてもよく似合ってますよ、レイ。やはり買い物は楽しいですね」
「あたしダールは初めてだけど、大都会らしいからもっと素敵なのあるんじゃない? 今度はおじさまにたかって……」
「ちょっと待てい! 貴様ら何をしておるか!」
暖かな雰囲気を切り裂く、藤兵衛の忿怒の声。一瞬きょとんし顔を見合わせるも、即座に楽しそうに会話を続ける3人。
「でねえ、サイズもDまでしかないって言うからぁ。シャルちゃんはいいけどぉ、あたしとレイがねぇ……」
「だ、か、ら、やめんか! こんな時に何を楽しんでおるのじゃ!」
「買い物です! ここのご主人は装飾具の職人さんのようでして、休ませて頂く代わりに物を見ていたのです。よかったら藤兵衛もいかがですか? 男物もあるようですけど」
藤兵衛は心底嬉しそうなシャーロットの表情を見て、心底からのため息をつくと、横目でちらりと工房の奥を眺め、吐き捨てるように叫んだ。
「儂はそんなもの要らぬわ! ビャッコの連中が作るものなぞ糞と同じじゃ! 自由と芸術の国だか何だか知らぬが、儂から言わせば犬の餌以下よ!」
「藤兵衛……どうしたのですか? 何かお気に召しませんでしたか?」
そのどこか不自然な怒り方に何かを感じたシャーロットが、怪訝そうに彼に尋ねた。だがレイがそれを押し留め、小馬鹿にするように中指を立てた。
「お嬢様、気にしなくていいですよ。どうせただのひがみですから。いくら金があろうとも、てめえなんざクソみてえな服しか持ってねえもんな」
「ふん! そんな血色の悪い腰布を付けて喜んどる、貴様の頭の方がどうかしとるわい! これじゃから脳が未開発な生物は嫌なのじゃ」
「ああ?! だいたいよ、てめえのその辛気臭え黒服はなんなんだ? 金ピカの蛇の刺繍も悪趣味だしよ。金だけじゃなく、ちったあ自分の身の周りも気にしろってんだ」
「喧しいわ! 先程からの貴様の脳味噌の膿み具合には反吐が出るわい。何が『似合ってますよ』じゃ! 調子に乗りおってからに。そもそも貴様に似合う衣装など精々ボロ雑巾くらいが……」
「うるせえ!!」
「グェポ!!」
斯くして、一行は街道沿いの庵で暫しの休息を取った。静かで穏やかな時間が流れるも、彼らの内心から焦りの色は見え隠れしていた。いつ敵に背後を取られるか。この先に何が待ち構えているのか。誰も言葉には出しはしなかったが、少しずつ、だが確実に消耗は根を張っていった。
そんな彼らの元に、道の先より2人の男が尋ねて来た。1人は色とりどりのスーツを伊達に着崩した背の低い男で、先ほど話題に上ったこの工房の主人であった。その背後に侍るは、褐色の肌に肉体労働の跡が刻まれた、使用人らしき男だった。
「やあやあ、美しい人たち。お茶でもいかがですかな? おい、すぐに準備しろ」
「かしこまりました」
主人は親しげに女性陣に話しかけると、指を鳴らして使用人に合図を送った。彼は軽く頷くと、静かに屋敷の奥へと消えていった。藤兵衛はその様子を鼻で笑うと、興味などまるでないとばかりに何処かへ歩き去っていった。その後を追おうとするシャーロットに、主人が慌てたそぶりで腕を掴み、穏やかながらも否定を許さぬ口調で引き止めた。
「まあまあ。もう少しお話ししましょうよ。ちょうど裏の畑で取れた新鮮なハーブティーが出来上がるところです」
「ですが、私たちは急がねばなりません。お気持ちはありがたいのですが、連れも先に行ってしまいましたので」
「あんな若造などどうでも良いではありませんか。センスのない者に用はありません。私はね、あなた方のような美しい者とのみ交わりたいのです。あ、そこのむさ苦しい方は置いておいて」
へらへらとした態度で亜門を見下す主人を見て、シャーロットは態度を一変させ眉間に皺を寄せると、毅然とした表情で答えた。
「お断りします。私の大切な仲間を悪く言う方とお話するつもりはありません。行きますよ、レイ、リース」
「……つーわけだ。色男、残念だったな」
「あらぁ、がっかりぃ。でもわたしもぉ……亜門くんのこと変な風に言う人は嫌いですぅ。まあ頑張って下さいねぇ」
口々に言いながら去る3人。呆けたような怒ったような表情で立ち尽くす主人。そして彼女たちが家の門を曲がろうとした時、茶の道具を持った使用人とすれ違った。びっくりしたように彼女たちに会釈をする彼に、シャーロットは暖かく美しい笑顔を送った。
「お手数をおかけして申し訳ありません。私たちはもう行きますので。その美味しそうなお茶が飲めないのは残念ですけど」
「……」
黙して立ち尽くす男に、リースとレイも頭を下げた。
「ほんといい香り! ねえ、シャルちゃん。やっぱり一杯だけ飲んでってもいいんじゃない?」
「………」
「ったく現金な奴だぜ。でもやめときな。……死にたくなきゃよ」
「……!!」
深く刻まれた皺の下で、明確に見える動揺の色。レイは彼の手に握られたグラスを掻っ攫うと、すぐ側の草むらに向かって叩き付けた。ガラスが割れて液体が地面に染み込むや否や、みるみるうちに枯れていく草花。
「ええ!? レイ、これって?!」
「てめえらしかねえな。数種類の匂いのきついハーブの中に隠れて、腐れ草の独特の刺激臭がしやがる。加減が絶妙なのはほめてやるが、この俺の鼻はごまかせねえよ」
キッと男を睨みつけるレイ。男は怯えるでも怒るでもなく、感情を失ったようにただ立ち尽くしていた。シャーロットはとても悲しげな目で、まっすぐに彼を見つめることしか出来なかった。
「で、お嬢様。こいつどうします? さっきのクソ野郎もグルでしょうし、とりあえず2人とも内臓ぶっ潰すとして……」
「……レイ、お黙りなさい。そこの方、心配なさらないで下さい。どんな理由があるにせよ、私たちはただの人間に危害を加えたりはいたしません。さあ、行きますよ」
精一杯の笑顔を残して立ち去ろうとするシャーロット、戸惑いながらもそれに続くリース、ぎろりと睨み付けるレイ。だがその背後から、男が振り絞るように告げた。
「……俺は只の奴隷だ。何の意思もない、主人の道具に過ぎぬ。だが一言だけ伝えておく。ダールへは近付くな。お前らは……狙われている」
その言葉は、しんと刃のように空間を裂いた。だが一瞬の間を置いてから、その空気を吹き飛ばすように笑う一同。ぽかんとする彼の肩をばんと強く叩いて、レイはにっと白い歯を見せた。
「なんだよ、んなことか。悪いが俺らにとっちゃいつも通りでな。ま、てめえは生かしといてやる。好きに報告でもなんでもしろや」
それに続いて、退屈そうに欠伸をしながら立ち去るリース。
「なんかお腹すいちゃいましたぁ。レイさん、なにか作って下さぁい」
そして、美しい笑顔で彼の手を取るシャーロット。
「ご忠告ありがとうございます。けれど、私たちは行かねばなりません。親切にご忠告を頂いた貴方の人生に、より良きことがあるよう、私は心から祈っております」
無言でその場に立ち尽くす男。3人は楽しそうに談笑しながらその場を去って行った。熱を帯びた風が彼女らを隠すように吹き荒び、すぐに彼の目の前から消えていった。
数時間後。
ダールにほど近い山道。彼らは無用の難を避けるため、主たる街道を通らずに目的地へと向かっていた。車を引く藤兵衛の額には大粒の汗が次から次へと噴き出していた。もう夏は近い。温度も湿度も上がり、熱気がべっとりと全身に張り付いていた。
そんな彼の様子を見て心配するように、少し先を進む亜門が足取りを遅めながら声を掛けた。
「殿、大丈夫でござるか? ここらで己が代わりましょうか?」
「気にするでない。こんなもの朝飯前よ。それに……間も無くダールの都に着く故の。そろそろ後の方策も考えねばならぬな」
藤兵衛は袖で滴る汗を拭きながら、意思の籠った力強い表情で答えた。その姿を見た亜門は、決意を込めて顎を引き、静かに彼の隣に侍った。
「しかし殿。先程はどうされましたか? 随分と機嫌が悪いようにお見受けしましたが」
「……さあの。お主の見間違いじゃろうて。彼奴らがちと弛んでおった故、喝を入れてやっただけの話よ」
「はっはっは。己に隠し事は通用しませぬぞ。秋津の格言に『其の者を知りたくば拳に握られた力を見よ』とあり申す。殿のあの怒り方、冷静沈着な大陸一の商人のものとは到底思えませぬな」
「……まったく、どうにもお主の呑気には勝てんわい」
藤兵衛は僅かに口角を曲げてため息を吐くと、亜門に合わせて歩みを僅かに緩め、観念したようにキセルに火を付けながら呟いた。
「儂はな、このビャッコという国家自体が大嫌いなのじゃ。この国の民は揃って、儂の理念に大きく反する連中での」
「はて。それほど悪しき面構えには見えませんでしたが。何か過去にお有りで?」
「儂は連中のやり方が心底気に入らぬのじゃ。先程の使用人を見たであろう? そもそもビャッコとはの……」
「しっ! 話の途中失礼つかまつる。……何者かが付けておるようでござる」
顔色1つ変えずに、微塵も態度に出さず、亜門は歩幅一定のまま極めて小さな声で呟いた。
「ほ、本当か?! 儂にはまるで分からぬが……」
「無理もありませぬ。闇力がほぼ感じられませぬゆえ。独特の足取り、距離感、呼吸、察するに人間の軍人かと」
「むう。ゲンブ国の時と同じか? 闇力を隠し、儂らを騙し打とうという算段と?」
「……いえ。あくまで己の勘ですが、恐らくはあの時とは違いまする。ここは己にお任せ下され。殿は何事も無かったようにお進み頂ければ、すぐに片を付けて追い付きますので」
「うむ。任せたぞ、亜門。頼りにしておるぞ」
亜門は微かに頷くと、静かに歩調を整えて気配を殺し、徐々に本道から身を逸らしていった。やがて力車は山間の曲がり角に差し掛かった。彼らを追う怪しい影は周囲を伺いながら、足音を立てずにその後を追っていた。が、角を超えたところで、不意に突き刺さる程の殺気と同時に、首筋を伝う冷たい違物感。
「動いたら、斬る」
白刃が彼の首筋に喰い込み、流れる血流に反応して冷や汗が、身なりのいい優男の額を伝った。彼はかつて軍で学んだ剣のいなし方を実行しようと、指先が微かに反応したその刹那、冷酷な声が脳髄に突き刺さった。
「無駄ぞ。斬ると申したら、必ず斬る。質問に答えるだけでいい。正直に答えれば、無事に家に帰れる。微塵でも疑あらば、即座に黄泉路行き。余計な言葉や婉曲は不要。慎重かつ端的に答えよ」
「……へ、へい」
その一言で男は覚悟を決めた。目の前の男が、自分より遥かに練磨された軍人であることは明白だった。ごくり、と唾を飲み込む音が脳内で幾重にも反響していった。
「何故己らを狙う? 狙いは何か? 即答せよ」
「……あんたらの首、目的はそれのみ」
「して、その理由は?」
「胸元。それが全て」
よく見ると確かに、彼の胸には丸まった紙きれが刺さっていた。亜門は目を鋭く光らせ、彼に自分の手で広げるように命じた。ゆっくりと差し出された紙に描かれた内容を目にして、亜門は驚愕を隠しきれなかった。
(な、なんと! これは……いかん! すぐに殿に報告せねば!)
亜門の戸惑った一瞬の隙を付いて、男は刀身を掴み体を捩って抜け出そうとした。だが高堂亜門という侍は、そんな真似を許すほど緩い男ではない。彼は躊躇う事なく刃の向きをするりと変えて、男の指筋を半分ほど切断し拘束を解くと、刀の峰で彼の首筋に一閃を見舞った。
「高堂流『閻魔活殺』。安心せい、峰打ちにござる。暫し意識はなかろうが、死ぬことはあるまい。まあいつ目覚めるかは運次第でござるがな。貴殿には色々と聞きたい事がある。己と一緒に来て貰おうか」
倒れ込んで微動だにしない男を軽々と肩に担ぎ、亜門は全力で藤兵衛たちの元へ駆けた。たなびく風に身をよじらせてひた走る彼の顔には、不吉の色が仮面のように張り付いていた。
一方その頃。
力車は進む。運命に導かれし者どもを乗せて。ダールへの一路をのんびりと進む車の窓から、レイがひらりと地面に降り立った。
「おい、クソ商人。ずいぶんしんどそうじゃねえか。少しだけ代わってやろうか?」
「ふん! お為ごかしを申すでない。どうせ儂に恩を着せておいて、後で強請る腹積りじゃろうて」
不自然な程に怒り喚く彼を見て、レイは呆れたように両手を上げた。
「おいおい、だいぶ機嫌わりぃな。お嬢様もリースも寝ちまってよ。手ぇ空いたから手伝おうとしただけだ。俺にしたら珍しく他意はねえよ」
「もう間も無くダールじゃ。貴様にはやってもらわねばならんことが山ほどある故、今は休んでおるがよいわ」
「は! ちっと前までメソついてたアホとは思えねえな。ずいぶん都合のいい脳ミソしてやがるぜ」
「切り返しが早いのも王の資質よ。まあ貴様には千回生まれ変わったとて理解出来まいて」
「ほんっと、うるせえクソだな。ちったあ黙ってらんねえのかよ。……ま、べつにいいけどよ」
暫しいつものように言い合った後、レイは空を向いて僅かに微笑んだ。それを見て、藤兵衛は怪訝そうに眉を顰めた。
「何じゃ? 遂に脳髄までやられたか? シャルの飯を食いすぎたのかのう」
「ちげえよバカ! なんかよ……こういうのもあと少しで終わりなんだなって、そう思ったら笑えてきちまってな」
「ほう。貴様のような下等生物でも、感傷などという高度な抽象概念を持ち合わせておったか。生物の進化というのも侮れぬな」
藤兵衛は悠然とキセルに火を付けると、呆れたようでありながらも、何処か嬉しさを隠すように口を曲げた。
「ダールの『楔』さえ封印すれば、ぜんぶがしめえだ。そん時ゃ改めて一杯やろうや」
「ま、仕方ないの。不本意ながら付き合ってやるわい。それよりじゃ。全て終わったら、儂との約束を忘れるでないぞ」
「あ? なんだそりゃ?」
「これだから単細胞は嫌いなのじゃ! 前に言うたであろう! 帝都ロンシャンで料理店を開く件じゃ! 貴様の腕なら繁盛間違いなしじゃて。よもや忘れたとは言わせんぞ!」
レイは、今度は声を出して、再び空を仰いで大きく笑った。それは今まで藤兵衛が見たことのない、とても美しくて澄み切った笑顔だった。レイが本来持つ本質的な美しさを、そのまま浮き彫りにしたかのような生き生きとした表情に、藤兵衛は不覚にも一瞬だけ心を奪われてしまった。
「へへ。そうだったっけな。忘れてねえよ、もちろん。そうだな……たしか“約束”だったよな」
「そうじゃ! 儂は損することと約束を破るのが死ぬ程嫌いなのじゃ。故に腕は錆させぬよう、道中でもしかと励めい。くれぐれも儂に損をさせぬようにの」
「……ああ。頑張るよ。ま、今は目の前のことをこなすだけだけどな。しかしよ、さっきからずいぶん人通りが多いな。祭りでもあんのかね」
目に見えて増え始めた人通りを見なから、レイはぼんやりと呟いた。藤兵衛はそんなレイの姿に苛立ちを隠せず、心底忌々しそうに吐き捨てた。
「まったく、貴様はつくづく田舎者じゃな。ここはロンシャンに次ぐ大都市、東大陸第2の都市ダールじゃ。こんな行列はいつものことじゃて。ほれ、あちらを見てみよ」
藤兵衛が指差した先には、色とりどりの建物が立ち並ぶ、巨大な都市群が並んでいた。翡翠をあしらった飾りがどの家の門にも飾られており、街の広さは優に数十キロ四方に渡り、行き交う人々は落ち着いた表情でのびやかな顔をしていた。ここはビャッコ国最大の都にして、西大陸との玄関口、自由と芸術の都ダール。活気の中に混沌漂うオウリュウ国の帝都ロンシャンとは異なり、成熟した古都の雰囲気を醸し出していた。
「おお! たしかにすげえな! ちと見てきてもいいか? おい、リース。着いたぞ! すげえぞこりゃ」
「ったく、どうしようもない野蛮人じゃて。光に集う羽虫と何ら変わりないわ。おい、好きにしてよいがくれぐれも……ん? 何じゃあれは?」
漠とした違和感。周囲の視線がこちらに集まっているように感じる。同時にひそひそと何事かを噂されているような声。藤兵衛は深く神経を集中させ、目を閉じて耳を澄ました。
「おい……やっぱりアレって………」
「間違いない……手配書と瓜二つだ……今のうちに衛兵に………」
「あいつらがボルオンを……だとしたら許せねえ………」
かっと目を見開いて、今聞こえてきた情報から状況を整理しようとする藤兵衛。だが、その必要はなかった。彼らの目の前を吹雪のように舞う何百枚もの紙。その各々に描かれていたのは、他でもないシャーロット一行の似顔絵だった。油絵で精巧緻密に描写された顔の下には、大きく赤い字で堂々と印されていた。
『これらの者はボルオンの街を破壊し、住民を皆殺しにした、悪逆非道の魔女一味。見つけ次第、即座に黒龍屋まで通報願います。有用な情報には謝礼金をお支払いします。ただし、強力な力を持つ化け物につき、くれぐれも手出しは控えて下さい』
顎をひねり、しげしげとそれらを眺め込む藤兵衛。絶望の暗雲立ち込める大都会の外れで、彼は不敵かつ愉快そうに微笑むと、その目に確かな光が宿っていった。
「……成る程の。“敵”も本気と言う訳か。やれやれ、のんびりする暇はないようじゃの」
そう呟くと、伏せ目がちに思案に耽る金蛇屋藤兵衛。今の彼には迷いも躊躇いもなく、確固とした意思のみが背骨をしかと支えていた。
神代歴1279年7月。
美と芸術の古都ダールにおける、運命の戦いを告げる鐘が、今まさに打ち鳴らされようとしていた。
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