第41話「閻熱」
闇渦巻く街ボルオン。その外れにある小さな旅館。
その屋上に威風堂々立ち尽くす1人の者あり。彼の名は金蛇屋藤兵衛。名実共にここ東大陸一の商人と呼べる男だった。つい先ほどまで自我を忘れ自信を喪失し、地に臥せっていた姿はどこへやら、気付けばいつもの尊大で傲慢な表情を隠そうともせず、仲間である2人の女性の前に悠然とふんぞり返っていた。
「ガッハッハ! お主ら待たせたのう。さて、ここからが真打の登場じゃて」
そんな彼の姿を見て、涙を浮かべながら抱きついたのは、彼を心から案じて止まなかった美しき魔女シャーロット=ハイドウォーク。
「よくぞ……戻って来てくれました。これで私たちは百人力です!」
「おう、シャルや。心配かけたのう。もう儂は何ともないぞ。お主にばかり負担をかける訳にはいかぬ故な」
抱き締めたまま優しく彼女の頭を撫でる藤兵衛。その様子を心底呆れ果てた顔で見つめる術士リース。
「あんたねえ……一体どういう頭の中してんの? さっきまで死ぬような騒ぎだったじゃない。よく平然と顔出せるわね」
「知性高き者ほど切り替えも早いのじゃ。お主のような北の田舎者風情には、理解出来なくても仕方ないことじゃて」
「まったく……ほんとやな性格ね。じゃあ好きにして。あたし行くから」
そう言って走り出そうとするリースを、藤兵衛は長い後ろ髪を2つまとめて乱雑に引っ張った。
「痛っ! なにすんのよあんた! 次やったらマジで殺すわよ!」
「ふむ。前向きに検討しようぞ。それより、お主は戦場に行ってはいかん。まずは亜門を治すが先決じゃ」
「はあ? 今の状況分かってんの? 亜門くん治して戦わせるより、あたしが出てった方が効率的でしょ」
「分かってるから言っておる。理由は3つじゃ。第1に、お主にしか頼めん仕事が幾つかある。第2に、亜門にしか完遂できん任務が残っている。第3に、虫はお主が思っているよりしぶとい。以上じゃ。質問はあるかの?」
「なによ、しっかり理解してるじゃない。てか、またあたしに面倒なことやらせるつもりなの? あたし嫌よ! あんたにコキ使われるのなんて」
藤兵衛はその声を右から左に受け流し、悠然とキセルをふかしながらさらっと答えた。
「まあそれは置いておくとして、じゃ。お主は儂らとは根本的に異なる。何も闇力がどうとかを言っている訳ではない。お主は何より連中に顔が割れておらぬ。このことがもたらすものは非常に大きいわい。じゃから今は動くべきではない。よいか、お主ら。耳を貸せ。実はな……という訳じゃから……ああしてこう来て………」
嫌らしさを前面に出してほくそ笑む藤兵衛の話を、2人は半ば呆れつつ半ば驚きつつ、実に神妙に聞き入っていた。そう、こうした悪巧みこそがこの男の本分。他者には真似できない、彼の最大の長所。
全ての話を終えると、藤兵衛はキセルの火を地に捨てて、実に邪悪な笑みを浮かべた。それを受けてにこにこと美しく微笑むシャーロット、頭を抑えてため息をつくリース。
「ふふ。了解しました。そういうことなら私は頑張ります! あ、でもこれはあくまでも作戦の一環ですから、決して下心がある訳では……ええ、そうですとも!」
「つうかさ、いつもいつもあたしのウェイト重すぎない? あんた人のことなんだと思ってんのよ」
「儂は出来る者にしか仕事は振らぬ。つまりじゃ、お主は儂に選ばれた類稀なる者ということぞ。光栄に思うがよい。よし、者共。打って出ようぞ。何も心配など不要じゃ。儂の言う通りにしておけば全て丸く治るわい。この儂を誰と心得る? のう、シャルや」
「ええ。勿論です。私は頑張ります! 貴方の事を信じておりますから!」
「へいへい、って感じね。もうやるしかないみたい。レイの苦労がわかるわ」
いよいよ終幕が始まる。復活を遂げた藤兵衛に勝ち目はあるのか? 敵は強大にして邪悪、その上彼を上回る智謀の持ち主。そんな状況でも彼は不敵な笑みを絶やさない。事ここに至り、金蛇屋藤兵衛という男の真価が問われようとしていた。
一方、街の中心部。
不吉な鳴動を繰り返す真紅の闇人形の塊、そこに向き合うレイの姿があった。その塊は肉を巻き込みながら宙で球形を作り、そこから一体の細い胴体が蔓のように生え、不安定な足取りでこちらに向かってくる、歪極まりない造形だった。塊に飲み込まれた人々の地獄の果てのような声に眉を顰め、レイは心底不快そうに舌打ちした。
(ったく、よりによって『レギオン』たあな。大した趣味でらっしゃるこって。ま、よくは知らねえが、とりあえず下のヘナった胴体ぶっ叩いてみっか)
レイは考えるよりも先に拳を構え、内なる闇力を闘気に変換させた。実際に体内の力は殆ど残ってはいなかったが、無理矢理掻き集めるように深く呼吸をすると、額に汗をしたらせて拳に力を込めた。
「……おい、俺の身体。頼むからもってくれよ。『滅閃』!!」
鈍く輝く拳の波動が、一直線にレギオンの下部を襲った。ぐにゃりと音を立てて一瞬で塵と化す胴体。その間、呻き声を上げるだけのレギオン本体。
「なんでえ。『強制降魔』にしちゃ、てんで歯応えがねえな。こりゃ俺1人でなんとかでき……!?」
「痛いぃぃぃ! 助けてえ!」
「殺してくれぇ! 誰かあ!」
「嫌ああああ! お家に帰りたい!」
悪意に取り込まれた人々の悲鳴がどんどん強くなり、それに呼応して更に渦巻く高純度の闇力。爆発的に収束するその密度に本能的な不穏を感じ、レイは反射的に後ろに飛んで距離を取った。
直後、噴火の如く爆発したレギオン。強力な圧により吹き飛ばされるレイ。その体は爆風で放物線を描き、家2軒を貫通して無残に道端に叩きつけられた。
(……ぐっ。息ができねえ。……クソが! あの野郎、負の感情を力に変えてやがる。このままじゃ触れることもできねえ。マジでどうする? クソ! 『降魔』さえできりゃ、まだなんとかできるんだが……)
遠ざかりそうになる意識。全身は千切れ飛び、身体中が休息を求めている。調節出来ずに飛散する闇力が、霧のように全身から立ち上がっていった。
しかしレイは屈しない。芯の奥から湧き出る反骨心だけがレイを支えていた。指を一本ずつ動くのを確認し、少しずつ立ち上がろうとするレイに、無残にも次なる闇の手が襲う。比喩ではなく、地面から這い出る無数の手が!
「んだこりゃ!? ナメんじゃねえぞ!!」
あえなく全身を羽交い締めにされたレイだったが、渾身の力で何とか捩切った。ぶちんと嫌な音を立てて千切れる手。だがそこから弾け飛ぶ痛みと怨嗟の叫び!
「ウォロロロロロロロ!!」
(まじぃ!)
負の意思が力となり、レギオンに膨大な闇力が集約していった。レイが危機を感じた時には既に遅く、爆裂音と共に再び衝撃が走った。先程よりは距離も離れ遥かに小規模な爆発ではあったが、それでも全身を焼き付かんばかりの威力。必死で足を動かし、もんどり打ちながらレイは全力で逃げた。
(クソが! これじゃ打つ手なしだぜ。まあ……そんなんどうでもいいけどな。俺はいつも通り、突っ込んでブン殴るだけだ。なあに、失敗しても俺が死ぬだけだしな)
レイは襲い掛かる手を避けながら深く集中し、引き出した闇力を金色の闘気に変換させ、手足のみに纏った。これはいわゆる、『部分降魔』と呼ばれし高等技術。長年の鍛錬により『降魔』を最小限の力だけ引き出して、効率的な戦闘継続を可能にさせた。
レイは駆けた。全身全霊で、四つ脚を激しく動かしながら。街を幻影のように駆け抜け、降り注がれる手を華麗に避け、レイはただ一点、レギオン本体を目指した。
(考えてもなにも始まんねえ。爆発する前にぜんぶブチ殺してやる!)
風を纏い一直線に突き進むレイ。すぐに目の前に見えてくる異形の球体。怨嗟の声で脳髄がひっくり返りそうになるが、レイは迷わない。ただ一点、本体の中心に向けて強く地を蹴って拳を突き立てた。
「くらいやがれ! 『百鬼』!!」
弓の如く引き絞られた右腕の拳から始動する、暴風のごとき連撃。その威力は常軌を逸しており、小山程度ならば容易に微塵に化すほどだった。無論それは、万全の状態ならばの話。いつものレイならば滾る闇力を肉体を強化する闘気へと変換させ、攻撃の隙を一切与えることなく、瞬く間にレギオンを千の肉塊に変えていたことだろう。しかし、今のレイにはそれは叶わない。
撃ち抜いた初撃に、レイは今迄感じたことのない重みを感じた。敵がどうというよりかは、自身の致命的な衰弱に気付かざるを得ない。それでも渾身の初撃は敵を貫通するだけの威力はあったが、夥しい肉の鎧に手をとられ血に滑らせ、次の一撃は明らかに遅れた。その隙にレギオンから伸びる数十本の腕。振り払おうとして中断される技、そうしているうちに更に伸びる数々の腕。レイが完全に雁字搦めにされるまでに、実に3秒。余りにもあっけない幕切れだった。
「クソが! 離しやがれ!」
狂ったように暴れまくるレイ。だがその行為に意味はなく、徐々にレギオン内に引き込まれていく。しかしレイは諦めない。美しい顔を醜く歪ませて、唸り声とも叫び声ともつかぬ咆哮を発し続けていた。そんな姿を見て、呆れきった顔でため息をついたのは、物見台の上の黒龍屋幽玄斎だった。
「何という醜い生き物なんだろう。どうせ皆ここで死ぬのだから、綺麗に散っていけばいいのに。藤吉と気が合わぬのも頷ける話だよ。さっさとレギオンの餌になってもらおう」
彼が指を軽く鳴らすと、更にレギオンに多くの闇人形が加わった。同時に大きく膨れ上がり、瞬く間にレイを飲み込み押し潰していった。
「んだコラ! ふざけんじゃねえ! 俺はこんなとこで……」
「死とは救いだよ。特に君のような存在にとってね。さあ、終わりにしよう。せめて美しく散っていきたまえ」
「ざけんな! 俺は死なねえぞ! お嬢様、俺は………ぐおおおおおお!!」
こうして消えて行くレイの姿。断末魔の叫びにうっとりと聞き惚れる黒龍屋。その股間は強く熱く固く膨れ上がっていた。
「ああ……なんていい声なんだ! あんな下劣な生命にも、いや……それ故の輝きか! ああ、美しい! 藤吉があそこに飲み込まれたら一体どんな声をあげるんだろうか? 泣き喚くかな? 怒り狂うかな? 絶望に染まるかな? ああ、それを想像しただけで……う、ううううっ!!!」
激しい激情に襲われる黒龍屋。再び巻き起こる闇の大渦。戦況は決まったも同然だった。邪悪がその力を存分に払って勝利し、意思あるものが地を這い屈辱を舐める。この世に極めて有りがちな、聞き飽きたような結末。幽玄斎は笑った。眼だけは笑わずに、全身を使って笑いを表現した。
「はは、ははは! 龍は地を這い、人形は潰され、妹君は無力。後は愛する藤吉のみだね。あいつのことだ、きっと何かしてくれるに違いない。あの太くて固いやつを思い切りぶち込んでくれるのかな? それとも覚えたての技で弄ってくれるのかな? そしてその全てが無駄に終わったら、またあの顔を……絶望に満ちた顔を私に見せてくれるのかな? ああ、楽しみだ。想像しただけで堪らない! ……ん? あれは?」
幽玄斎の視線の先には、件の旅館の屋上の2つの影。彼が目を凝らすと、そこにいたのは金蛇屋藤兵衛とシャーロット=ハイドウォーク。だが、彼の想定と異なっていたのは、彼らはまるで絡みつくように寄り合って1つになり、唇同士を強く強く合わせていた。想像だにしなかった光景に、一瞬言葉を失う幽玄斎。しかしすぐに、とてつもない漆黒の感情が彼の全身を貫いた。
「な、な、な、何を……何をしているのだ?! わ、私の藤吉に、よりにもよって貴様のような化け物が……く、口付けを交わすだと????!! まさか貴様のようなぽっと出の化け物が……私の藤吉にぃいいいい………!!!」
あまりの衝撃。意識を失いそうになりながらも、彼は心臓に手を当てて掻き出すように闇力を振り絞った。先程までの余裕は一切なく、ただ怒りと焦燥が彼の内的宇宙を支配していた。
「こ……殺せ! ミカエルなどどうでもいい! あの魔女を殺せ! サンドラ、奴を……シャーロットを殺すのだ!」
その指令を受けてズシン、と歩みを始めるレギオン。戦いの趨勢はある一方に傾き始めた。藤兵衛はシャーロットの背中越しにその色を感じ始めていた。
(さあ、来い。儂のところへ来るのじゃ。さすれば必ずこの状況を打ち破ってみせようて!)
旅館一階。
リースは集中しながら亜門の体に符術を刻んでいた。焼け焦げた体躯が少しずつ、確実に癒えていくのが見て取れ、彼は長い髪を再び一つに結いながら、実に朗らかに笑った。
「ふう。なんとも心地良い技にござるな。天にも昇る心地とはまさにこのこと。流石はリース殿にござる」
「死にかけといてよくそんなこと言えますねぇ。ほんと、呑気なんだからぁ(脳味噌足りないんじゃない、ほんと)」
「はっはっは。己はそれだけが取り柄でござるからな。して、急かすわけではありませんが、後どれくらいかかりそうですかな?」
「……まともに動けるようになるまで、10分はかかると思いますぅ。ただ、あくまでも応急処置ですからねぇ。無理はしちゃダメですよぉ」
「申し訳ござらんが、それこそ無理にござるよ。己は無茶をするのが役目。如何にレイ殿とはいえ、病み上がりの状態では苦戦は必至。早くお助けせねばなりませぬ」
「言うだけムダでしたぁ。なら……ちゃっちゃと頑張んなさい」
その時、ドシンと蠢く音。明らかに外で異変が起きていた。闇の気配が肌を刺す様にひりつき、亜門とリースは同時に振り向き、深く頷き合った。
「殿の読み通りでござったな。敵は動き申した。ここより己らの仕事にござる」
「しっかし、結果オーライとは言え……なんであの2人ずっとキスしてんのかしら? まったく理解できないわ」
「き、き、き、きす?! 即ちそれは……接吻!? 殿と……魔女めが?!! あ、あ、あ、有り得ぬ! 婚姻前の男女が、よりによって接吻とは! ふしだらにも程があるでござる!!」
「べつにいいんじゃないですかぁ。減るもんでもないしぃ。それにあの2人……もう愛し合ってますしねぇ」
「な、な、な、な、なにぃいいいい!! バ、バカな! 魔女めにはレイ殿という思い人が確かに……」
「(何言ってんのこの童貞は?)あの……もしかして前言ってた、レイさんのこと男だと……まさか本気で思ってるんですかぁ?」
「!!!! な、何ですと!? ……そんな事は有り得ぬ! だ、だが言われてみれば確かに……」
亜門は混乱しきった頭で、何とか状況を整理しようとした。が、痛み切った身体では脳は上手く動かず、呆然と天を仰ぐのみだった。そんな彼を心底呆れ返った表情で見つめるリースは、ふうと一息付いてから強引に話題を変えた。
「ところで、そういう亜門くんはチューしたことないんですかぁ?(もちろんないだろうけど)」
「そ、そ、そ、そんなの当たり前でござろう! 秋津の接吻王とは己のことでござる!」
「へええ。そりゃ凄いですねぇ(はいはい。ほんとはいはいだわ)」
「そ、そういうリース殿はあるのでござるか!? ま、ま、ま、まさかある訳が……い、い、い、いや、やもすれば……」
「ないしょ。さ、そろそろ傷も癒えますよう。わたしべつの仕事もあるしぃ。ああ忙しい忙しい」
「ち、ち、ち、ちょっと待つでござる! この戦いが終わったら必ず聞かせてもらいますぞ!」
ばたばたと動き始める2人。その上の階では、藤兵衛とシャーロットがじっと動かず、距離を零にしていた。重なった唇から僅かに吐息が溢れ、濃密な気が2人の体温を上げていった。
数分が経過したところで、やっとのことで唇を離す2人。少し照れ臭そうに微笑む藤兵衛と、顔を真っ赤にして俯くシャーロット。暖かな時間が流れ始めたその時、屋根の上に一面の手がびっしりと生えた。レギオンの“触手”が2人を、いやシャーロットを瞬く間に補足したのだった。
「シャル!」
藤兵衛は咄嗟に手を伸ばすが、彼もまた触手に雁字搦めにされ、地面に押さえつけられた。
「藤兵衛! 大丈夫ですか!?」
自らの身を顧みず必死で声をあげるシャーロットは、顎を持ち上げるように下から触手に掴まれた。そして、彼らの目の前にゆっくりと出現したのは、朧なる姿の黒龍屋幽玄斎だった。彼は両目を爛々と怒らせて、身体を震わせて彼らを見つめていた。
「……やあ、藤吉。さっきは驚いたよ。まさか、と思ったけどさ。お陰でよく分かったよ。お前がいつまでも緩いままなのは、そこの魔女シャーロットが全ての元凶だ。ここで処分するしかないようだね」
「処分じゃと?! ま、まさか貴様、ミカエルを裏切るつもりなのか?」
「さっきも言ったろう? あんな化け物、最初から味方でも何でもないさ。それよりも何よりも、今はこっちの化け物の処理の方が肝要だ。私の藤吉を誑かし、誘惑せんとする魔女中の魔女! お前は万死に値する!」
幽玄斎は指先を突き付けて、高らかにシャーロットに告げた。だが彼女は冷たい眼差しで、はっきりと指を突き返した。
「お言葉ですが、この人は私のものです。貴方のものでは決してありません。既にそう決まっております。例え殺されてもそれは変わりません」
「ふざけ……るな!!」
触手に込められた力が一層強くなり、彼女の身体を締め付けてミシミシと音を立てた。しかしシャーロットは動じない。彼女の気持ちは微塵も動じることはない。
「ふざけてなどいません。これは紛れも無い真実です。何やら癪に触れてしまったようですが、貴方の愛する者とは、かつての有能な部下である藤吉。私が愛しているのは、今ここにいる金蛇屋藤兵衛という男です。下らぬ思い違いで言いがかりをつけないで下さい」
「…………よし、決まりだね。レギオン、口を開けなさい。生まれてきた事を後悔させながら、くれぐれもゆっくりと死に至らしめるんだよ」
屋根の下で悪しき肉の塊が、歓迎するようににちゃりと開いていった。噴き出る禍々しい血と肉と怨嗟に、堪らず藤兵衛が横たわったままで必死に叫んだ。
「た、頼む! それだけは勘弁してくれい! 儂などはどうなってもいい! 何でもする! どうかシャルだけは、シャルだけは助けてくれい!」
「……そうだね。じゃあ私に再び忠誠を誓えるかい? 私の足元に口付けし、永遠に私のものになるんだ。それならこの化け物を許してやらんこともない」
「勿論じゃ! 誓う! 誓うから彼女だけは……」
「そうかい? 良い心掛けだ。ならその覚悟、この場で試してみようか」
つかつかと藤兵衛に歩き寄る幽玄斎の姿。彼はゆっくりと時間をかけて靴を脱ぐと、艶めかしく足先を藤兵衛の口元に寄せた。彼は逡巡し躊躇いながらも、やがて意を決して目を閉じて舌を伸ばそうとした。
その時、幽玄斎の頭部を1発の銃弾が貫いた。手応えを感じにやりと微笑む藤兵衛。銃を隠した胸元からは焦げた匂いと闇の煙が上がっていた。だが!
「なるほどなるほど。これがお前の石の力、即ち『転移術』か。実に応用力がありそうだ。お前にとても合った力だね」
何事もなかったかのように、その場に君臨する幽玄斎。歪んだ輪郭はすぐに形を戻し、狂気と歓喜が詰め込まれた表情を見せる彼に、藤兵衛は絶望的な表情を見せてがっくりと肩を落とした。
「ま、まさか貴様……やはり幻影か! おのれ……」
「いい顔だ! その顔が見たかったんだ! 私が何の準備もせずのこのこやって来ると思ったかい? お前が何か企んでいるのは分かっていた。しかし、まさかこんな稚拙な策とはね。これが私の中の『賢者の石』が与えててくれた能力だ。空間を超越し、分身を作り出して操作する。分身はやられることもないし、応用次第ではご覧の通りだよ」
幽玄斎がぱちんと指を鳴らすと、空間中に無数の“彼”の姿が現れた。更に一体、また一体と。やがて視界を埋め尽くす程の数になった絶望的な光景に、藤兵衛は地に伏して無言で肩を震わせた。その哀れな姿を見て、全ての幽玄斎は同時に、狂気を極めた笑い声を上げた。
「はは、ははははは! さあ、そろそろいいかな? 今から私が、お前を惑わす魔女を消し去ってあげるからね。なあに、礼には及ばんよ。50年前と同じことをするだけだから」
「頼む! それだけは……それだけは勘弁してくれい! 先程のことは謝る! 何でもする! だから……儂の愛しのシャルだけは……頼む!!」
「はは、ははは。そうだよ。その顔だ。私は……お前の絶望に染まったその顔を想像して、その顔を見たくて50年生き続けてきたんだよ。だから……もう……我慢できませぇん!! うううツツツッ!!!!」
闇が、今までよりも遥かに鈍く密度を増していった。シャーロットはその渦に飲まれ、レギオンの中心部にゆっくりと落ちていった。藤兵衛の絶望の叫び声が木霊する中、狂気の笑い声だけがいつまでも鳴り響いていた。
一方、レギオン内部。
肉と血、怨嗟と絶望の詰まった球体の中で、静かに息をするレイがいた。その肉体はほぼ彼らと同化を始めていたが、思考力だけは未だ明確であった。
(……やられちまったぜ。ざまあねえや。このまま食われるだけか)
少しづつぼんやりと閉じてくる視界の中で、レイは自らに問い正す。自分は……一体今まで何のために生きてきたのか。自分とは……一体何だったのか?
(俺は、お嬢様を守る。あの時そう決めた。でもよ、実際んとこ……俺の力なんて大したこたあねえ。いつも、いつも、いつだって、お嬢様に迷惑をかけてきた。しかも敵から術までかけられて、仲間を売ってたときた。んでエラそうに飛び出したかと思えば、手も足も出ずにボコボコ。ほんと意味わかんねえぜ。このまま死んじまった方がいいのかもしんねえな)
レイは自嘲的に呟いた。それは悲しいくらいに無力な自分にむけた言葉だった。
(それに……あのときフィキラに聞いた、俺の正体について。俺という生き物がなぜここにいるかについて。聞きたかった答えとは言いがてえが、どうも俺はそういうことみてえだな。……ま、それももういいか。後は亜門とリースがなんとかすんだろ。俺の役目はここまでか)
〈ダメだよ。それは許されない〉
どこかから声がした。どうせ幻聴、鼻で笑って目を閉じようとするレイに、先程よりはっきりとした声が、体の奥底から地響きのように脳に打ち込まれた。
〈黙って聞いていれば好き放題言って。このままじゃ本当に死んじゃうよ〉
「うるせえ! 死に方くれえ好きに決めさせろ。誰だか知らねえがエラそうにぬかすなこのボケが!」
〈ええ?! どういう口の聞き方なのさ。まったく、どんな教育受けてきたんだか……〉
「ああ、めんどくせえ。幻でもなんでも構わねえが、とにかく今すぐ消えやがれ! 俺は眠いんだ! じゃあな。……ZZZ」
〈ま、待って! ほんとに! 大事な話! このままじゃほんと死んじゃうから! ほんとやばいんだって! 緊急事態なの! だから“ここ”まで来たの! とにかくボクに“操作”を任せて。そしたらなんとかするから。力を使えるから〉
「あ? 意味わかんねえぞ。生意気ぬかすんじゃねえ。そもそもてめえどこの誰だ?」
〈……知ってるでしょ? ボクはボクだよ。ずっと……一緒だったでしょ?〉
「あ? さてはてめえストーカーか! 俺を犯そうってんだな! おもしれえ、てめえのくせえ◯×なんざ食いちぎってやるぜ!」
〈な、なんて下品なのさ! そんなこと出来るやつなんてこの世にいないでしょ! ああ、どうして伝わんないのかなあ。ほら、もう“期限”が近付いてるんだよ! 早くボクに舵を渡してくれよ! このままじゃ共倒れだからさ〉
「おい、ストーカー野郎。よく聞け。俺はもうやるべき事はやって、後は仲間に任せてる。俺が死ぬも生きるも含めてな。ここで死んだらそれまでの話よ。だからてめえの入り込む余地は1ミリもねえ。理解しろ。んで諦めて俺に従え。以上だ」
〈なんというか……いつもながら無茶苦茶だね。だから誰からも、ミカエル様からも見捨てられる。シャーロットもそう。あれじゃ誰にも相手にされやしない。そんな嫌われ者同士が手を組んで、今の君たちがいる。本当にいじらしい話だね〉
「ベラベラうるせえ野郎だな。俺のことはなんと言ってもかまわねえが、お嬢様だけは悪く言うんじゃねえ!」
〈そうやって本当の自分から目を背けるんだね。キミはいつだってそうだ。ボクはそんな姿をずっと見せられてきたんだよ。それで、今度はこんなとこで無駄死にしようとしてる。ほんと救えない。まったく理解できないよ〉
沈黙。2人の会話は虚無へと吸い込まれていった。やがて身体が溶け出し、いよいよという時になっても、それは飽きる事なく続いていた。
そこでレイは大きな目を見開いて、ふうと大きく息を吐いた。
「……光が見えるな」
〈何言ってるのさ。幻覚が見えたらおしまいだよ。さ、本当に間に合わなくなる前に、こっちに寄越して。見たところあと数秒しかないよ〉
「いや、たしかに見える。俺にはわかる。なんなら賭けるか?」
〈死んだら賭けもへったくれもないでしょ! ねえ、ボクはね……〉
「てめえが誰かはなんとなくわかった。おい、もし俺が賭けに勝ったら、ここで生き延びたら、ミカエルのバカにしっかり伝えろ。ここであった事を全てだ」
〈言われるまでもないよ。見えてなかったかもしれないけど、まさかシャーロットを殺そうとするとはね。あの男はやはり危険だ。必ず始末しなきゃいけない〉
「んだと! ふざけんじゃねえ! おいてめえ闇力あんだろ? ちっと俺に貸せ! 必ず返すからよ」
〈……正気? なんでボクがそんな話を飲まなきゃいけないの?〉
「ガタガタぬかすんじゃねえ! 俺はてめえに手は貸さねえ。だが協力しねえとマジで死ぬ。だからてめえが手を貸せ。以上だ」
〈?! 相変わらずまあ……ほんとムチャだなあ。まったくワガママで困るよ。どんな育ち方したんだか〉
「うるせえ! てめえには言われたくねえ! とにかく早くよこせ! 俺は戦わなきゃいけねえ。借りは必ず返すからよ」
〈……シャクだけど仕方ないね。けど、覚えておいて。貸しは必ず返してもらうよ。ボクは自分の使命を果たすだけだから。キミの都合なんて知らないからね。じゃあ、また会う日まで〉
ふっとレイの意識に芯が戻った。ほぼ閉ざされた視界に一筋の光が、そして全身から漲る闇力を感じた。レイはにっこりと美しく、それでいてこの上なく邪悪に微笑み、眩い光の渦に向けて手を伸ばした。
「お嬢様、お待たせしやした。すぐに向かいますんで」
屋上。
地面に這いつくばり涙を流す藤兵衛と、狂気の笑みを浮かべ続ける幽玄斎。シャーロットはレギオンに飲み込まれ、希望の欠片も残っていなかった。絶望が藤兵衛の体を蝕み、世界は闇に包まれた。そして、それこそが黒龍屋の望んだことだった。
しかし、不意に彼を襲う違和感。形容しがたい違和感。彼は笑うのをやめてふと我に返った。この姿は50年前に見た光景と同じもののはずだった。この手で藤兵衛の愛する者を殺し、血まみれの瞳越しに見た風景と。だが今のこの風景に、欠けているものがあるように思えてならない。彼はそれについて思考を巡らせた。数十体の彼らは一様に同じように考え込んだ。
「……何じゃ。随分と息災のようじゃの」
にやりと微笑んだのは、見すぼらしく地面に顔をつけた金蛇屋藤兵衛。その表情には、先までの絶望の色など一欠片も存在しなかった。
「藤吉……何かしたね?」
幽玄斎は直感的に自身の失敗を感じ取り、分身を街中に飛ばそうとした。が、その時既に刃は突きつけられていた。全ての分身の胸が同時に鈍く引き裂かれ、揃って彼らは血を吐いた。
「ゴアッ!! ……いつの間に?」
「ケッヒョッヒョ! 随分と苦しそうじゃのう。龍の力とは恐るべきものじゃわい」
「な……! 藤吉、お前まさか!」
分身達が一様に振り向いた視線の先には、公会堂屋上に佇む“本体”があった。そこに背後から突きつけられた刃、高堂亜門の渾身の一撃が彼の心臓を貫いていたのだった。
「ゲッヒャッヒャッヒャ! やはりアレが分身を産む基地局であったか。ちと興奮しすぎじゃろうて。儂になぞ構わなければ容易く気付けたのにのう」
「なぜあの侍が……あの傷でどうして……何故私の位置を……」
「ゲッヒャッヒャッヒャッ! そんなことも理解出来ずに、よくもまあ偉そうに振る舞えたものじゃの。答え合わせなぞしてやらぬ。さっさと消えるがよい。後ほどダールでゆっくり殺してやる故の」
「阿呆が……レギオンは私がいなくとも……シャーロットが死ねば……お前も………」
「心配無用じゃ。あそこには虫がおる。さて、そろそろ消えよ。儂は貴様に毛頭の興味もないわ」
藤兵衛は無表情で銃を構えると、そのまま引金を引き幽玄斎の脳天に直撃させた。それと同時に幻影が一様に踠き苦しみ、すぐに何事もなかったかのように霧散していった。藤兵衛は既に事が解決したかのように呑気にごろりと横たわると、あくび交じりにレギオンの方を向いて叫んだ。
「来いシャル! しかと儂の力を使えい! おい虫め何をしておる! 早急にそれを破壊せよ!」
「はい!!」
「うるせえ!!」
交差する声と共に、レギオンの身体が真っ二つに裂けた。銀色の風が吹き荒れ、獣の異形に化したレイが破壊の波動を撒き散らした。全身に漲る闘気は大地をも揺るがし、標的に再生の隙すら与えなかった。
「へっ。闇力さえ戻りゃこんなもんだぜ。どんどん行くぞ! 『百鬼』!!」
気合の掛け声と共に放たれたレイの拳が、嵐の如く肉の塊を押し潰し、引き裂き、吹き飛ばしていった。嵐は渦となり、悪意の怨嗟の声をも跳ね除けていった。
「へっ。うめいてやがら。お嬢様、後はよろしくお願いしますぜ」
「……ええ。かつては人だったとはいえ、闇に染まった以上元には戻れません。可哀想ですが、ここで浄化します。準備はいいですか?」
シャーロットの問い掛けに答えるように、街中から光の柱が立ち昇っていった。幽玄斎は薄れ行く視界の隅に、この現象の根源と見られる謎の符の存在を捉えた。
(こ、これは……北大陸の術?! 結界が最初から張られていたのか? となると、私を感知したのも……)
光の柱は街を渦のように呑み込み、中央のレギオンの位置に注ぎ込んでいった。湧き出る無数の光はシャーロットの身体を繭の如く覆い尽くし、彼女を押し潰さんと収縮するレギオンを内側から弾き飛ばしていった。
「邪悪よ、去りなさい。私の前から永遠に! ……『ディバイン・グレイス』!!」
数秒の綱引きの後、彼女はこれまで以上の強き光の波動を放ち、轟音と共にレギオンは弾け飛んだ。そして立ち昇る闇の残渣の中から、悠然と現れる2人の人影あり。焼け焦げた強靭な身体でへっと不敵に笑いながら大地を踏み締めるレイと、その腕に包まれて優しく美しく微笑むシャーロット。
「よし! 計算通りじゃて」
藤兵衛の歓喜の声。それを聞きつけて屋上に上がったリースは、2人の姿を確認すると大きく両手を天に上げた。
「やったあ! ほんとに上手くいったのね! こっちも何とかなったわ」
「うむ。“本体”と呼び得る存在の消失は確認出来たわ。敵の察知にシャルの術補助、お主も中々の手際であったぞ。褒めてつかわす」
「ったく、なんでそんなに偉そうなんだか。でも……よかった。ほんとよかった……シャルちゃんとレイが無事で」
リースは涙目でほっと胸を撫で下ろし、巻きたばこを咥えて軽く指で突いた。藤兵衛はふんと唸りつつもキセルを咥え、口角を曲げて2人分同時に火をつけた。
「かなり危険な賭けじゃったがの。儂も確信は持てなかった故な。じゃが1つ収穫じゃて。シャルは平常時でも、時間さえかければ“あの”形態になれる。今後の戦略に繋がろうて」
「……てかさ、あんた事の重大さをわかってんの? あれって闇の力じゃないわよ。ウチの……光の力じゃないの。なんでシャルちゃんがアレを使えるの?」
「知らぬ! シャルの言動は一切読めぬ! リースよ。一つ確認じゃが……アガナとやらもアレを使えた、これに相違ないか?」
「ええ。教団にはそう伝わってるし、現にあたしら使えるしね。やっぱり家系の問題ってことかしら?」
「……恐らくは違うの。奴らが何故シャルを追うのか、何故邪魔な存在を排除せんのか、何となくじゃが見えてきたわい」
藤兵衛は細い目を更に細めて、思考の海に入り込んだ。リースも無言のまま幾つかの仮説を組み上げていた。全ては繋がっている、そう彼女は心の中で告げつつも、話を変えるようにぼんやりと空を眺めた。
「しかし……シャルちゃん元気ね、あんなに弱ってたのに。……あ、空飛んでる」
「まったくいつも好き放題しおって。虫めが必死に追いかけておるぞ。しかし最近の亜門もそうじゃが、どいつもこいつも奇妙に勝手に変身しおるのう。げに浮世離れした世界じゃて」
呆れるように同じ光景を見つめる2人。亜門の元気な姿も遠目に確認できた。辺りには生き残った人々が数名見当たった。リースはほっと胸を撫で下ろすと、迷うことなく符を取り出して立ち上がった。
「生き残った人もいるみたいね。シャルちゃんの力に救われたのかしら。あたし、ちょっと行ってくるわ」
「うむ。頼んだぞ。くれぐれも金蛇屋の名を出すのじゃぞ。恩は金になるからのう」
「はいはい。で、マジでこれからどうするつもり?」
「勿論ここにはおれぬな。かといって他の街にも行くわけにはいかぬ。同じことの繰り返しじゃ。このままダールに乗り込むしかあるまい。異論はあるかの?」
「他に道はなさそうね。いいわ、行きましょう。しっかし……ほんとやれやれね」
「同感じゃて。と言っても始まらぬがの。片付き次第すぐに出立じゃ。虫めらにも伝えねばならぬのう」
慌ただしく動き出す運命の輪。その渦に飲まれていくシャーロット一行。彼らの前に立ちはだかるのは、高く険しい壁。だが、少なくとも彼らは絶望はしていない。そう、少なくとも現時点では。
神代歴1269年6月。
シャーロットの物語は加速し、とある終着点へ向けて動き出していた。未だ誰も知らぬ不可避の未来へと、舳先は確実に終わりを指し示していた。
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