第40話「狂気」
苦境。明白で疑いようのない、未だかつてない苦境。彼らが包まれていたのは、正にそうとしか表現出来ない状況だった。
紛う事なき異常者である黒龍屋幽玄斎の策により、シャーロット一行は膨大な量の闇に取り囲まれていた。街1つを犠牲にするほどの壮大で、慈悲の欠片もない最悪の策。そしてそれにまんまと嵌った形になったのは、他でもないあの金蛇屋藤兵衛だった。
未だ状況を飲み込めぬ仲間たちを前にして、呆然と闇の中に立ち尽くす藤兵衛。彼の胸にあるのは、焦燥、怒り、そして何より圧倒的な敗北感。
(また……負けたというのか? 儂はやはり……あの男には勝てんのか? ……ええい、今はそんなことを考えている時では……)
心中の迷いをあざ笑うかのように、四方からゆっくりと押し寄せるは、闇に覆われた人間の群れ。即座に討ち払わんとする彼らの前に広がるは、かつて目にしたこともない絶望的な光景。
「た、助けてくれぇ。だ、誰か!」
「いやあ! 体が動かない! 何なのこれ!?」
「な、何が起こってんだ?! 誰でもいいから早く来てくれえ!」
そこにいるのは紛れもなく普通の人間だった。だが彼らの全身には骨の髄まで闇がべっとりと絡みつき、操り人形のように強制的に体を動かされていた。そんな地獄の如き状況を把握し、亜門は怒りに目を燃やした。
「おのれ! 無辜の民衆を斯様に扱うとは! 絶対に許せぬ!」
ぎらりと白刃を抜いた亜門を目にしたシャーロットは、即座に駆け寄り身を呈して押し留めた。
「いけません、亜門! 人々を傷付けてはなりません!」
「ええい! ならどうするのだ! このままでは囲まれるぞ!」
「何とかして切り抜けなくては! 何か策はありませんか、藤兵衛?」
振り返る彼女の視線の先には、呆けたように力なく天を仰ぐ藤兵衛の姿があった。心ここにあらずといった風態で、ぼんやりと目を泳がせる彼に、かつての力強い輝きは微塵も感じられなかった。
「……まさか……儂のせいで……すまぬ……シャル……」
「殿! どうしたでござる!? 早く策を頂けませぬか!」
「儂は……儂は………」
「お、おじさま?! どうしたんですかあ!」
「藤兵衛? 何か術をかけられたのですか? このままではいけません!」
藤兵衛の変わり果てた様子に一行に動揺が走る中、ただ1人レイだけは冷静に状況を伺いながら、吐き捨てるように呟いた。
「お嬢様、なんだか知らんがこいつはもうダメだ。とにかく今はこいつ抜きでやるしかねえ。おい、リース。俺の術を解け。大至急だ。“入れ”んのは時間かかっても、“出す”のはすぐだって言ってたろ」
「え、ええ。でも……」
「なにも言うな。今はやるしかねえ。すぐに宿に戻るぞ。おい、亜門。俺が行くまでなんとかしろ。ぜんぶてめえにまかせた」
レイの端的で明確な言い切りに対し、亜門は長髪を揺らして実に嬉しそうに微笑んだ。
「“なんとかしろ”、でござるか。実にレイ殿らしい言葉にござるな。委細承知にて。ここは己に任せていただきましょうぞ」
「へっ。こんな時までのんきな野郎だ。終わったらうんめえ秋津料理作ってやっかんな」
「はっはっは。それは楽しみでござるな。支払いは殿に任せるでござるよ」
その言葉にも微動だにしない藤兵衛。亜門は迫り来る敵を前にしながらも、ちらりと彼の方を向いて、一言だけ告げた。
「何があったか存じませぬが、生きていれば丸儲け。これは殿が教えてくれた言葉でござるよ。己は殿を信じておりますゆえ。……ではこれより高堂亜門、修羅となり申す! リース殿、後は任せましたぞ!」
「亜門くん……どうか無事でね!」
その声が終わるか終わらないかという時に、閃光の如く闇の渦に飛び込む亜門。斯くして戦いは始まり、残る一同は宿へと駆け込んだ。その様子を遥か遠方から、にやにやと眺める黒龍屋幽玄斎の姿があった。
「いい! いいよ! なんて絶望的な姿なんだ! こんなの続けられたら私の体がもたないよ! ……ううっ! ……う、う、う、うううううっ!!」
全身を激しく痙攣させ、歓喜に浸る彼の姿に気付く者は誰もいなかった。吹き荒れる闇の嵐の中、絶望としか呼び得ぬ戦いが幕を開けた。
旅館内。
半裸になりうつ伏せのまま目を閉じるレイに、汗をかきながら印を描き続けるリース。解放の術自体の難易度は高くなかったが、逼迫した状況に対する焦りの色が彼女の手を鈍らせていた。
「おい、慌てねえでいいぞ。どうせなるようにしかなんねえんだ」
レイは、状況にまるで似つかわしくない態度で朗らかに、実に呑気な口調で笑っていた。そんな姿に苛立ちを隠すことなく、リースは怒りを露わにして叫んだ。
「この状況でよくそんなこと言えるわね! ここに結界は張ったとはいえ、物量で押されたらたまったもんじゃないわ! あたし死にたくないの!」
思わず顔を赤くしてはっきり言い放ったリースを見て、レイは実に楽しそうに吹き出した。
「ギャハハハハ! ったくよ、やっと本音出してくれたな。安心しろや。てめえらは必ず俺が守る。てめえは他にやることがあるんだろ? 俺らの都合に付き合う必要なんざねえさ」
「……レイ。術を解いたところで、あんた闇力空っぽなのよ。そんなんでまともに戦えるわけないじゃないの!」
「まあな。てめえの言う通りだよ。でも俺は進む以外の道を知らねえ。俺が戦いに出たら、お嬢様と……あのバカを連れてすぐに逃げてくれ」
「バカなこと言わないで! そんなん出来るわけないでしょ!」
レイは整った大きな目を細めて、部屋の隅で呆然とする藤兵衛を苦笑交じりに指差した。リースは大きく舌打ちして、足を強く踏みしめながら叫んだ。
「ったく、シャルちゃんも術を殆ど使えないってのに、あいつまで何してんのよ! ほんと嫌んなっちゃう!」
「……そう言うな。俺が油断してたのが悪いんだ。あいつを責めねえでやってくれ」
「どうして?! レイはいつもあいつのこと嫌ってるじゃない! こんな時に戦えない奴のことなんて……」
「そこまでだ。それ以上言ってくれるな。こんなん言いたくねえが、この旅はあのクソがいなきゃとうに終わってた。あいつの悪知恵と計算高さ、尋常じゃねえしぶとさや諦めの悪さに、俺たちは何度も何度も助けられてきたんだ。そんなアレが、ここまでヘコまされてる。間違いなく今が、この旅始まって以来の最大の窮地だ。だからこそ……俺はあいつを信じる。あのクソはこのままで終わる男じゃねえ。なんせ蛇並みに執念深え男だかんな」
そう言って、レイは快活に笑った。呆れ返り無言でため息をついたリースだったが、その時眩い光と共に符術が解除され、レイの身体から闇力の波動が湧き出て来た。
「ふう。久しぶりだぜ。よっしゃ、ひと暴れしてくんわ。お嬢様は任せたぜ」
「ええ。シャルちゃんは屋上で何かやってるみたいだけど、様子を見に行ってみるわ。こっちは任せて。……ねえ、レイ。1つだけあたしの話を聞いて」
「あ? べつにいいけどよ、手短に頼むぜ」
「たしかにあたしは、100パーセントあんたらの仲間とは言えないかもしれない。あたしには使命があるし、向かう道は違うのかもしれない。……けどね、これだけは言えるわ。あたしは絶対にシャルちゃんを守ってみせる。あたしのことは信じてくれなくても、それだけは信じて。どうかお願い」
何処か縋るような言い方をするリースの声が耳に届くと、レイは美しい顔をにっこりと微笑ませ、彼女の頭に優しくぽんと大きな手を置いた。
「勘違いすんな。俺はてめえを信じてる。例えてめえがどこの誰だろうと、俺はてめえの気高さと誇りを知ってるつもりだ。だから任せた。文句あっか?」
「……レイ。死んじゃダメだよ。あたし……絶対許さないから」
「はっ! ま、気いつけてみんぜ。じゃあ行くとすっかね。貧弱なクソ侍に死なれても困るかんな」
レイの体内から僅かながらも力強い闇力が迸った。次の瞬間、レイは風を纏い一瞬で窓から消え去って行った。風をたなびくその後ろ姿を、本来の姿からはかけ離れた弱々しい背を、リースは両目にいっぱいの涙目で見送った。
また1人、絶望的な戦いの渦に巻き込まれていった。闇の中で踊り続ける者たちの宿命。ただ戦うことが義務付けられた、渇いた魂の輪廻。そして、その中から弾き出された金蛇屋藤兵衛は、1人忘却の海中に沈んでいた。
街はずれ。旅館周辺の道。
高堂亜門はただ1人、闇を纏い襲い来る人々の群れに向けて、青白い輝きを放つ古刀を振るい続けていた。全てを無効化する龍力を身体中から汲み上げ、切っ先に込めた力で最小限度の斬撃を放つ。斬られた者たちは瞬く間に闇力を失い、その場に突っ伏していった。
だが、それも長くは続かなかった。恐怖心など微塵もなく、四方からゆっくりと迫る操り人形。彼らは亜門に向けてその体躯からは思いもつかぬ膂力で、強力で原始的な一撃を放ち続けていた。
(……くっ! 何という数、そして力か!)
全方向からの同時攻撃を紙一重で躱し、亜門は反撃に3人纏めて斬撃を見舞った。しかし、躊躇う事なく第二陣が押し寄せてくる。この場に居る人形はとうに意識など失われ、彼らはだらりと屍のようになりながら、操られるままに彼に向かって来た。
(まるで意味がないでござるな。このままでは己の龍力が先に尽きようて。殿や魔女には申し訳ないが、やはり殺すべきやもしれぬ。しかし……この数相手にどう立ち向かったものか)
目の前には500を優に超える人の波。この小さな街全体が、全て彼らの敵なのだ。亜門は意を決して古刀を鞘に仕舞い、目を閉じて集中を高めた。やがて刀身から光が満ち、龍の力が迸っていく。そして敵の手が伸びようとした瞬間に、彼は一気に戦場を駆け抜けていた。
「この構えは……亡き大殿の得意とするもの。つまりは高堂の魂にて。高堂流『居合』……疾ッ!!」
気合の声と共に、戦場に閃光が走った。人々の群れの中で、抜き打ちの刃から放たれた光は美しい軌道を描き、道を開くように人々を切り裂いていった。だが刀の軌道は僅かに狂い、本身が人々の身体を傷付けてしまった。
「がああ! 痛い……痛い!!」
「済まぬ。こは己の未熟。許せとは言わぬ。だが効果は……十分にござるな」
亜門の刀から漏れ落ちる龍力が闇を浄化し、多少の損傷を与えながらも、死人を出さずに闇の支配を退けていった。ここに至り彼は確信する。この力で最後まで戦うしかない、と。何人いるか知らないし、手加減もどこまで出来るか分からない。だが……それでもやるしかないと。戦う他に生き残る道はないと。
「己が名は高堂亜門。其方らの闇の頸城を斬る者の名ぞ。委細あらば後で幾らでも聞いてやろう。では……参る!」
闇の渦の中央で、龍の鼓動が走った。闇に打ち勝つ力が、澄み切った亜門の意志と共に戦場に溢れた。長い髪をたなびかせ、無心で刀を振るい続ける亜門の姿を、某所から見つめる影があった。
「へえ。あれが龍の力、ね。例の秋津の侍くんか。上手いこと誘導してシャーロットを暗殺しようと思ってたのに、よもや藤吉が先んじて部下にするとはね。流石は私の見込んだ男だよ」
幽玄斎は街を一望できるうず高い建物、街の中央集会場の上から、戦場を余すことなく見つめていた。その目は病的にとろんと濁り、正気のそれとは到底思えなかった。
「お! またやられたぞ! もう100人以上斬ってるね。まあ本職の侍に、超常の力を使わせるとこうもなるよ。まるでガンジの間抜けを見てるみたいじゃないか。このままじゃ全滅もあり得るな。さて、力も大分使わせたし、そろそろ次のステージに進んでもらうとするか」
にやにやと笑みを浮かべながら、ぱちんと指を鳴らす幽玄斎。それを合図に空間中の闇が更に強く深く力を増し、渦を描くように街の一点に集約していった。
「力の基本は物量。大原則だね。いかに屈強な侍とはいえ、数には勝ちようがないよ。さあ、侍くん。君ならこれをどう捌く?」
街の気配に明確な異変が巻き起こり始めても、亜門はただひたすらに刀を振るい続けていた。頭の中は既に空であり、ただ目の前に立ちはだかる人々を斬り伏せていくだけの、身体に染み込んだ本能的な動きのみを繰り返していた。血も、汗も、呻き声も、何もかもが彼には障ることはなかった。
(この感覚……思い出すでござる。戦場はいつもこうでござった。優勢で敵陣に踏み込もうが、劣勢に至り敗走しようが、身に染みた技と力でただ斬り続ける。ただそれだけが己の役目でござった。大殿……己は、あの時仰られた“問い”への答え、未だ見つけられそうもありませぬ)
暫く斬り続けて肩で息をしながら、ようやく彼は異変に気付いた。明らかに敵の動きが変わっていたのだ。宿を、シャーロットを狙って動いていた連中が、全て自分の方に向けて進軍してきたのだ。気付けば周囲は完全に包囲されていた。
「ほう。まず己を潰そうとは賢明な判断にござるな。どこぞより見ているのか知らぬが」
彼らは周囲からじりじりと距離を詰めてきた。どの方向を切り開こうとも、他の位置から詰められる。このままで押し潰されるのは時間の問題であった。
しかし亜門は動じない。こと戦地において、この男は決して動じない。あまりにも多くの戦場を経験してきたからか、あるいはこの男の生まれ持った素質によるものか、それともそう教育されてきたからか。戦の申し子のようなこの秋津の侍は、逼迫する状況をちらりと一瞥だけすると、さも当然のように構えを解いて、刀を天に向けて掲げた。
「諸兄ら、気を保つでござる。……『龍絶天覇』!!」
押し寄せる人の群れに構う事なく、亜門は瞑想するように目を閉じ、何事か力の籠る言葉を唱え始めた。次の瞬間、彼の刀が光ったように見えた。そして更に次なる刹那が過ぎ行くと、刀は一層青白く光り輝き、その刀身を眩く伸ばしていった。
「ほう……これは予想以上だ」
塔の上で思わず黒龍屋が驚きの声を上げた。情報にない動き、たなびく光の刀が天高く立ち上がり、亜門は足を軸に回転しながら一閃を放った。
「これが龍と人の力にござる! 高堂流『黒薙独楽』!!」
輝く光が人々をまとめて切り裂き、彼らを操る闇の糸が音も無く消滅した。ふらふらと人々は地面に落ちていったが、龍の姿へと変化した亜門は油断なく周囲を伺っていた。まさかの展開に目を見開き、幽玄斎は歓喜の涎を流し興奮を発露させた。
「ああ……いい! よすぎるよ! 藤吉のやつ、私に黙ってこんなにいい男を囲っているなんて! ……まさか、奴も藤吉のことを?! いやいや、そんな馬鹿な。あいつには私がいるんだ。でも……藤吉ほどの男が放っとかれる訳が……だとすると……許せない! この泥棒猫め! 絶対に殺して……う、う、う、ううっ!!」
どくり、と再び彼の中で闇が脈打った。それと同時に街中の空気が加速度的に穢れていき、更なる闇人形が亜門に向けて集結していった。彼らは呻き声を上げ、不気味に心臓の鼓動を高鳴らせながら、孤軍奮闘する侍へ狙いを定めていた。
「何度来ても同じことにござる。この高堂亜門、逃げも隠れもせぬ。例え己が朽ち果てても、貴君らの闇を払ってくれようぞ!」
荒ぶる息を必死で押さえ込み、亜門は再び刀を構えた。次第に詰まる距離、高まる緊張の色。だが斬り合いが始まるかと思ったその時、闇人形の体が不意にどくんと不吉に蠢いた。そして次の瞬間、彼らの身体は大きな炸裂音を立てて爆発四散した!
「ッ!!!」
咄嗟の出来事に反応しきれず、刀を握る利き腕を激しく負傷した亜門。その隙を付き、数体の人形が続けざまに取り囲み、一才の躊躇いなく連続して爆発していった。
(い、いかん! このままでは……『飛翔』!!)
凄まじい爆連を掻い潜り、亜門は急速に上空へと跳んだ。彼は焼け焦げた翼を展開させ必死に空を掴み、辛うじて爆風を回避していった。だが損傷と疲労からか、ふらふらと死にかけの虫のように漂うだけであった。その哀れな姿を見て、手を叩き嘲笑う幽玄斎。
「何という下衆な策か! 人を無為に殺し、あまつさえ道具として扱うとは! 許せはせぬ!」
「はは、ははは! 実にいい気味だ! 藤吉を誑かし弱さを植え付けた罰だよ。天が許してもこの私が許しはしないさ。はは、ははははは!!」
半死半生の亜門はその眼をしかと見開き、焼け焦げた翼で近くの建物の屋根の上に軟着陸した。だが闇人形の群れは即座にそれを察知し、その身を以て建物自体を破壊にかかった。突進、爆破、突進、爆破。数を武器にした波状攻撃に、彼はなす術なく振り落とされた。
「そうだよ、侍くん。個人がどれほど強くとも数には勝てない。策に嵌った英雄など塵と変わらないさ。諦めて四散するといい。暖かく優しく微塵に化してあげるよ」
絶望の海の中で高笑いする幽玄斎。だが、それでも一切諦めることなく、刀を振るい続ける亜門。両腕はいつしか捥がれ、全身を骨まで焼き焦がしながらも、彼は刀を口に咥えて戦い続けていた。
「秋津の格言に……『刃折れん時こそが全霊の時』と……あり申す。己の名は……高堂亜門! 仮にこの地で力尽きようとも……己の魂は逃げも隠れもせぬ! 戦いこそが……己の唯1つの生きる意味。この命……燃やし尽くすは今ぞ!」
気高くも、儚い宣言。ぼろぼろに朽ち果てん寸前にも関わらず、折れぬ余地のない鋼の精神。これこそが高堂亜門の一番の力、それは強き意志の結晶。鬼畜極まる幽玄斎ですら、その誇り高き姿にほんの数瞬だけ見惚れてしまった。
「……美しい。あの藤吉が気にいる訳だ。しかし美だけでは利は得られないな。さあ、クライマックスは派手にいこうか。中央の人形くん達、一斉起爆だ。皆で星になろう」
幽玄斎が指揮者のように手を振り上げると、街の中心で一際大きな爆発音が鳴り響いた。その爆風で浮かび上がった1体の人形が、亜門の右足を尋常ならざる力で掴んだ。彼は咄嗟に目を怒らせて蹴り飛ばすも、やがて時間の針がゆっくりと動き、闇力の渦がその場に溢れ出た。次の瞬間、致命的な爆発が巻き起こった。闇人形数体の波状効果による、建物数個分を巻き込む激しい暴走。跡形もなく消え失せる命の破片。
「はは、ははは。無くなってしまった。命とは実に儚いものだね。さあ、残るはシャーロットのみか。幾ら何でも……ここで彼女を殺すわけにはいかないよね。以前ならさておき、ここビャッコ国でそんなことをしたら、ミカエルに何をされるかわからないよ。……まあそれはそれで楽しいけど、私の目的の邪魔をされても面倒だ。工夫して捕まえないとなあ。いや、実に楽しみだねえ」
狂気の笑い声を臓腑からぶち撒ける幽玄斎。その瞳の中にあるのは生か、死か、聖か、邪か? それとも……全く別の何かか? しかし、次の瞬間その蕩ける目に映り込んだのは、彼の策からは大きく外れた光景だった。
「……おや? 何故奴が……?」
立っていたのは、レイだった。全身に鋼のような筋肉を纏い、怒りに満ちた眼差しでレイは街中を駆け抜けていた。その腕の中には、血まみれで片足を失い、死亡寸前の亜門の姿があった。レイはへっと小さく微笑むと、穏やかな声で彼に話し掛けた。
「よくやったぜクソ侍。だいぶ数は減らしてくれたみてえだな。てめえにしちゃ上出来だぜ。あとは俺に任せな」
「申し訳……ありませぬ。全滅には程遠く……その上、レイ殿にもご迷惑をば」
亜門は自分を庇い損傷を負ったレイの全身を申し訳なさそうに見つめ、歯を強く噛み締めた。
「へっ。なに言ってやがる。あの状況でよく咄嗟に足を斬り捨てられたな。とりあえず宿まで運ぶからよ、そのへんはリースになんとかしてもらえ。選手交代だ」
「……かたじけない。レイ殿、お頼みいたしますぞ」
風のように屋根を伝い消えていくレイたちの姿を、幽玄斎は目を釣り上げて見据えていた。
「成る程。あれが例の……。確かに使えそうだけど、今は邪魔でしかないな。とりあえずこちらも仕切り直しといこうか。侍くんに斬られて人形も予想以上に残り少ないし、ここは1つ決めるしかないな。……先行部隊のみ追尾即爆破、後方部隊は“リーダー”の元に集まれ! 皆で力を合わせて戦おう! さあ、益々面白くなってきたぞ」
旅館内。
部屋の隅に蹲る藤兵衛。今の彼には何も聞こえず、彼の心には何1つ届かない。彼はただ自らの内に嵌り込み、渦に飲まれもがくのみだった。
(……何故じゃ? 何故勝てぬ!? 儂は今まで何をしてきたというのじゃ?)
答えは出ない。彼は暗い室内でただ1人俯き、現実から目を逸らしていた。部屋には誰もいない。シャーロットとリースは屋上で何かをしているようだった。彼には何も思えない。何も感じられない。
その時、窓ががしゃりと音を立てて吹き飛び、レイと亜門がもんどり打って飛び込んできた。息も絶え絶えの亜門が嫌が応にも視界に入り、藤兵衛の心臓がとくんと僅かに鳴った。
「んだてめえ、まだんな感じかよ。まあいい、こいつを頼んだぞ。リースに手当てしてもらってくれ」
そう短く言うと、レイは再び闇力を集中させ、戦場へと目をやった。普段からすれば悲しくなるくらいの少ない闇力。だがレイは躊躇うことなく、集中を深めて戦う姿勢を取った。
「……無駄じゃ」
「あ?」
藤兵衛の小さな呟きが耳に入り、レイは視線をそちらに向けた。
「奴は……強い。強すぎる。儂らは、いや儂は嵌められたのじゃ。この苦境は全て儂のせいじゃ!」
その言葉が終わる前にレイは集中を解き、彼の前につかつかと歩み寄った。そして怯えたように体を抱え込む彼の腹部に、レイの拳が痛烈に突き刺さった。
「グェポ!! な、何をするか!」
「……いいか、1つだけ言っとくぞ。俺はてめえなんざハナっから戦力になんぞ考えちゃいねえ。てめえはただのオマメ野郎だ。てめえのミスだかなんだか知らねえが、んなもんで戦況が変わるわけねえだろ! うぬぼれんなこのタコ!」
「うるさい! 貴様に何が分かる! 儂は……」
「んなもん知るわけねえだろ! んなこた俺にゃどうでもいい! 俺はお嬢様を守る。今も昔もそんだけだ。なんもできねえならお嬢様だけでも守れ!」
「……」
「てめえ約束したんだろ? お嬢様を守るんじゃねえのか! 受けた恩も恨みも万倍にして返すんじゃなかったのか! てめえは自分の言葉も守れねえのか!」
「………」
「へっ、だんまりかよ。大陸一の商人が聞いて呆れらあ。俺はもう行くぞ。亜門、こいつはもうダメだ。悪いが1人でなんとかしてくれ」
「…………」
藤兵衛は何かを言おうと最後に手を伸ばした。だがもう既にレイの姿はそこにはなかった。レイは風のように消え失せ、戦いの渦に自らの身を投じていった。
暫くの間、藤兵衛はずっと、先ほどのレイの言葉を思い返していた。その前の屈辱と、今迄の情けない自分を短い時間で何度も何度も反芻した。やがて、彼は顔を上げ、隣で苦しそうに横たわる亜門に声をかけた。
「……亜門や。今の儂を何と思う?」
亜門は荒い息を抑え、口元を少しだけにこりと微笑ませた。既に彼には確信があった。付き合いはそこまで長くはないとは言え、亜門には金蛇屋藤兵衛がどういう男なのか、心でしっかりと理解出来ていた。そして今、彼が言うべき言葉さえも。
「……はあ。では遠慮なく。所謂……典型的な負け犬といった所かと」
藤兵衛はその言葉を全身で浴びるように受け入れると、カッと目を見開いて大きく声を出して笑った。
「グワッハッハ! 確かにその通りじゃ! 何の異論もなかろうて。……よし、目が覚めたわ。シャルは何処へ行った? 兎に角、今はこの状況を何とかせねばならぬ。……礼を言うぞ、亜門」
「御意にて。己は最初から信じておりましたぞ。ただ……可能でありましたら、早急にリース殿を呼んで頂けませぬか?」
2人の視線は交わり合い、揃って大きく笑った。これは兆しにして、結論。この戦いを決定付ける重要な出来事。金蛇屋藤兵衛はキセルに術で火を付けると、一足飛びに屋上へと駆け上がっていった。
ボルオン中心街。
唸る風を切って進むレイ、その行く手を塞ぐ闇人形の一群。レイはへっと笑って深く構えると、気迫と共に拳を撃ち抜いた。
「悪いがな、俺は亜門と違って優しくねえぞ。とりあえずすっこんでろや。『滅閃』!!」
迸る闘気により吹き飛ばされる人形達。手を抜いたのか、はたまた闇力不足によるものか、彼らは命までは奪われずに全身の動きを止められ、レイに道を開けていった。
「とにかく、俺の仕事は殲滅だ。どこまでやれっかしらねえが、やれるとこまでやるしかねえ。頼むからもってくれよ」
風が吹き抜けた。闇人形の起爆が起こる前に、圧倒的な速度で闇を振り払うレイの拳。通りには瞬く間に人々の山が築かれていった。
「ふうむ。これでは敵わないな。このやり方ではアレには通じないか。……仕方ない。もう少し取っておこうと思っていたんだが」
幽玄斎は不満げに口をへの字にすると、指をパチンと鳴らして闇力を放った。ぞわり、と街中が震えて鳴動していき、街全体が受胎したように蠢いた。悪夢の終わりは未だ見えてはいない。
そんな不吉な影を機敏に感じながらも、レイは1人戦い続けていた。尽き果てそうな闇力を髄から絞り出し、あらん限りの闘気を吐き出しながら、ただひたすらに駆けた。手先に痺れ、全身に悪寒、それでもレイは手を止める事はない。その先に悪意が聳え立つ限り、決してレイの足を止める事はない。
「へっ。そろそろ来るか? くせえ腐臭がここまでビンビン来てやがらあ」
その時、ぞくりと背筋に悪寒。背後の町の中心街。そこに尋常ではない闇力が集まるのを感じて、レイは手を止めずに目を凝らして事態を観察した。
そこにあったのは、巨大な肉塊。ふわりと空に浮かぶ血肉の核が、周囲の人々を次々に吸収していった。中では肉がみちみちと音を立ててせめぎ合い、潰し合いながら、悲鳴と怨嗟の声が悪夢のように響き渡っていた。地獄にも等しい無残極まる光景に、レイですら思わず目を背けそうになった。
「なんつう悪趣味な……とにかくアレを潰すしかねえみてえだな」
意を決してレイは、闘気を漲らせて高速で中心街へ突っ込んでいった。その姿を幽玄斎は無感情に、冷静極まる眼差しで見つめていた。
「さあ、いよいよクライマックスだ。私の誠意を受け取ってくれよ。せっかくの上級降魔『レギオン』、君に気に入ってもらえると嬉しいのだが」
肉塊の中央に位置する1人の男が、まるで幽玄斎の問い掛けに答えるように、悲鳴とも唸り声とも取れる絶望の怨嗟を搔き鳴らした。
屋上。シャーロットとリース。
シャーロットは今日何度目になるか分からない術式の構築を試み、滝のように汗をかきながら必死に意識を集中させた。だがその試みは今までと同じように失敗に終わり、小爆発を起こして術式は四散していった。肩でぜいぜいと息をし、口元を押さえて倒れ込むシャーロットを、リースが目を真っ赤にしながら全身で押さえ込んだ。
「もうやめて! シャルちゃん、本当にあんた死んじゃうわ!」
声をあらん限りに張った、心からの必死の叫び。だがシャーロットはにこりと大きく美しく微笑むと、再び術式を結び始めた。
「私は……決して諦めません。亜門もレイも死ぬ気で戦っています。藤兵衛だって自分自身と戦っているのです。こんな時に私だけ休んでいる訳にはいきません。それに……こんな風に人の命を弄ぶ者を、私は絶対に許すことはできません。このシャーロット=ハイドウォーク、命に代えてでも彼の者を断罪します」
その強い意志に圧されて二の句を告げられないリース。そんな中、またしても術に失敗し血反吐を吐いて倒れ込むシャーロット。既に全身は傷付き血だらけで、息をするのもやっとの状態だった。リースは手を震わせてそんな彼女を抱き締めると、涙に震える声で叫んだ。
「どうして……どうしてそこまでやるの? 他の人なんて放っておけばいいじゃない! あんたにはあんたの“使命”があるんでしょ?! それにあんたは……世間では化け物って呼ばれてんだよ!」
「ふふ。私の使命は……世界の平和です。藤兵衛には笑われますけど、私はいつも本気なのです。それに……化け物でも何でも結構です。目の前の命を救う為ならば、私は怪物でも悪魔にでも何でもなります」
「……シャルちゃん。あんたはほんとに……」
「でもね、リース。私は貴女には迷惑をかけたくありません。貴女は私の数少ない友達ですから。私が何とか道を切り開きますので、貴女だけでもお逃げ下さい。必ず私は貴女を……」
「バカ言わないで!」
リースの甲高い叫び声が響き渡った。きょとんと彼女を見遣るシャーロットに、彼女は更に激しく叫んだ。
「なによ! どいつもこいつも揃って人の心配ばっかり! あたしね、言ってなかったけど……北大陸の特殊工作員なの! アガナの光の術のプロなの! 今のあんたよりよっぽど使えるわ! あたしも前線に行くから!」
「待ってください、リース。ここは危険すぎます。貴女に危険が及んでは……」
「だからそういうとこ! あのね、一時的かもしれないけどさ、正直半信半疑だけどさ、あたしたち……仲間なんでしょ? あんた自分でそう言ったでしょ? ならちょっとはあたしのこと信じてよね!」
「……リース。ありがとう」
ぎゅっと力強く抱き締めるシャーロット。突然の出来事に、顔を赤くして振り解こうとするリース。
「な、なによいきなり! ちょっとやめてよ! 恥ずかしいじゃない!」
「ふふ。私はリースが大好きです。だから死んで欲しくありません。だから……一緒に戦いましょう! 一緒にこの窮地を乗り越えて、一緒に生き残りましょう! それが私の心からの願いです」
「……最初っからそう言いなさいよ! じゃ、あたし行くわ。幸運を祈っててね」
スカートの袖を払いながらにっこりと笑って歩き出すリース。その顔には笑みの他に、確かな決意が漂っていた。絶望に向けて歩みを進める彼女を、シャーロットは真剣な眼差しで見送ろうとしていた。2人とも覚悟はとうに決まっていた。後はただ進むのみ。死地へと向かう一本道を、血走った瞳で見つめる2人。
だが、その時。
「ふん。自殺に等しき暴挙じゃな。これじゃから阿呆は救えんわい」
2人の背後から低くて耳につくダミ声が降り注がれた。状況に似つかわしくない、余りにも明るく自身に満ち溢れた声。はっと振り向いてその声の方を見つめると、凍りついたシャーロットの表情がみるみる解けていき、その美しく大きな瞳に涙が溢れていった。
「ああ! 貴方は……やっぱり………」
「何じゃシャルや。儂が誰かと尋ねておるのか? 仕方ないのう。答えてやるとしようぞ」
彼はキセルを悠然と吸い込み、呆れ返るリースと笑顔のシャーロットを交互に見遣りながら、垂れた細い目を見開いて大見栄を切るように手を突き出した。
「儂の名は金蛇屋藤兵衛! お主らに富を授ける者にして、ここ東大陸の王の中の王であるぞ! 者共図が高い! 控えおろう!」
どんよりと曇る漆黒の空に一筋の切れ目が射した。闇が渦巻くこの街に、この戦いに、突破口となり得る男が遂に戻ってきたのだった。
神代歴1279年6月。
戦いの行く末は次なる舞台、金蛇屋藤兵衛と黒龍屋幽玄斎との直接対決に委ねられた。
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