第39話「師」

 1週間ばかりの時間が流れた。

 シャーロット一行は首都ダールからやや離れた街で、ただ時の経過を静かに待ち続けていた。ここボルオンは静かで平和な中都会。旅人が多く人の目にも触れにくく、潜伏にはうってつけの場所だった。

 街外れの小さな旅館、その隅の一室で、彼らは今迄にないのんびりとした時間を過ごしていた。今日は藤兵衛とレイが部屋の中央で将棋を指し、シャーロットがその様子をにこやかに見守っていた。

「……よし! 今度こそ追い詰めたぞ! 右上の戦車は届かねえ。てめえの戦法は見切ったぜ!」

「おお、怖い怖い。このままでは負けてしまうぞ。シャルや、どうか儂を助けてくれい」

 目尻を極限まで垂らし、にやにやとあからさまな余裕の笑みを浮かべ、藤兵衛はわざとらしく身震いをしてみせた。レイはそれを見て目を尖らせ大きく舌打ちをし、こめかみに血管を浮かび上がらせながら叫んだ。

「けっ! たいした余裕じゃねえか。負けたらどうなっかわかってんだろうな!」

「勿論じゃて。1ヶ月の便所掃除では飽き足らず、土下座して足を舐めたいとは、貴様も奉仕の精神が身についてきたではないか。褒めてつかわすぞ」

「うるせえ! 土下座すんのはてめえだ! 足ナメさせる前にたっぷり肥溜めを歩いてきてやる……ん? ……あっ! ち、ちょっと待て! 今のナシ! まっただ!」

 盤面の不穏な状況に気付いたレイが、慌てて駒を元に戻した。明らかな無作法極まるその振る舞いに、見かねたシャーロットが眉を顰めて注意した。

「駄目ですよ、レイ。これで何度目ですか。勝負は正々堂々行わなくてはなりませんよ」

「で、でもですね。このまま中央の隠密をほっといたら、聖女がブチ抜かれちまうんで……」

「ホッホッホ。よいのじゃシャルや。しかしよく気付いたのう。すっからかんの脳しかない癖に、この策を見通すとは大したものよ。褒めてやる代わりに、もう一つ教えてやろう。東方の盤面、儂の戦士に注目せよ。何かに気付かぬか?」

「あ? もうてめえの口八丁には乗らねえぞ。どうせテキトーに………あっ! (マ、マジか?! わざわざワケわかんねえ場所に進んでると思ったら、こっちの龍が詰んでるじゃねえか! てめえ……最初からこの状況を狙ってやがったな! 俺が総攻撃をかけるこの機に、まさか魔道士と騎士を犠牲にしてまで盤面を崩しやがるとは!)」

「ケヒョーッヒョッヒョッヒョ! 馬鹿ここに極まれりじゃのう。儂が何の策もなく自分に不利する訳がなかろうが。ほれ、次はどう動く? 全力で逃げてみるか? 中央に道化を差し向けるも面白いかもしれぬの。いやあ、実に楽しみじゃて」

 怒りに震えるレイの指先。何度も何度も逡巡し、思案を巡らすが何一つ良案は浮かばず、やがてレイは顔を真っ赤にして頭を掻き毟ると、盤上に拳を強く叩き付けた。

「……くそ! 詰みだ! これで10連敗じゃねえか!」

「いやはや、学習能力のない虫じゃわい。可哀想じゃが約束は約束じゃて。ほれ、たあんと舐めるがよいぞ」

 匂い立つ足先を躊躇う事なく、レイの鼻先に突き上げる藤兵衛。震えながら暫し逡巡するレイを見て、彼は鼻を大きく広げて意地汚く笑った。

「ゲッヒョッヒョッヒョ! ほれ、遠慮なぞ不要じゃぞ。多少刺激はあれど、却って身体にはよいのではないか? 遠慮せずにべろんといくとよいわ」

「てめえ……チョーシ乗ってんじゃねえ!!」

「グェポ!! き、貴様何をするんじゃ! 約束と申したであろうが!」

「うるせえ! いつやるかとは指定してねえだろ! 今日は気分悪いからダメだ! お嬢様、ちと夕飯の買い出しに出てきます。じゃあな!」

 そう言い残して風のように扉を空けて去っていくレイ。打たれた頭を痛そうに押さえる藤兵衛に、シャーロットは苦笑いしながら手でさすった。

「まったく……あの虫は本当に野蛮人じゃの! 負けを認めず暴力に走るとは、誠にどうしようもないゴミ屑じゃて!」

「申し訳ありません。レイはああいう性格ですから。後でしっかりお仕置きをしておきます。ですが従者の過ちは主人の責。代わりに私が足をお舐めいたしますので、平にご容赦を」

「ば、馬鹿者が! 腹でも壊したら何とするか! ……まあよい。奴に一つ貸しにしておく故、ここは抑えてやるとするかの」

「ありがとうございます。しかし藤兵衛は本当に将棋が強いですね。私にはルールがよく分かりませんが、貴方がとても強いのだけは伝わりました」

「ガッハッハ! そうじゃろうそうじゃろう。一手二手だけではなく、さらにその先を読み、局面を立体的に考察するのがコツよ。読み合いで儂に勝てる者などそうはおらぬ。まあ儂も修行時代にはこてんぱんにやられて、研究に研究を繰り返したからの。あの頃の努力が実っておるだけじゃて」

「まあ。藤兵衛にも頭脳で負けてしまう時代があったのですね。私はびっくりしました。それにしても……ふふ。藤兵衛の修行時代ですか。一体どんな感じだったんでしょうか?」

 くすくすと上目遣いで見つめるシャーロットに対し、藤兵衛はキセルに火を付けながら、複雑な表情で眉を顰めた。

「ふん。そりゃそうじゃろうて。儂とて生まれつきに斯様に高貴で清廉潔白ではなかったわ。鼻っ垂れた田舎者の糞餓鬼での、無策のまま何とかロンシャンまで辿り着いたまではよかったが、騙されて金も尽き浮浪者同然になっていた折、とある男に拾われての。そこで商売のイロハを叩き込まれ……まあ色々あって今に至るという訳じゃ」

「ふふ。あまり話したくないようですね。なら話してくれるまで待ちます。私はいつまでも待ちますから」

「ふむ。なら待つがよかろう。……話すまで儂の側を離れるでない。よいな?」

「……!! ええ。もちろんです。私は……貴方の側を決して離れません!」

「約束じゃぞ。儂は約束を破られるのが大嫌いじゃからな。……ふむ。ちと眠くなってきたの。ちと手伝えい、シャルや」

「え? 手伝うとは何を……!!!」

 藤兵衛は躊躇うことなくすとん、と頭をシャーロットの膝の上に乗せた。あまりにも自然な動きに、彼女は顔を真っ赤にして固まるばかりだった。しかしそんな事は知ってか知らずか、彼は実に心地好さそうに目を瞑り、微かな声で彼女に囁いた。

「うむ。実に心地よい。想像以上じゃて。……お主が嫌なら止めるぞ、シャル。遠慮なく申せ」

「……いいえ。嫌ではないです。何やら心がその……落ち着きます」

 下を向き彼の顔を見つめ、シャーロットは頬を赤らめながら美しく微笑んだ。藤兵衛は口の端を微かに曲げて、心底からリラックスした表情で呟いた。

「しかし……実に平和じゃな。こんな状況は久しぶりじゃて」

「ええ。ずっと戦いの連続でしたからね。じきにこの旅も終わります。そうすればずっと平和に過ごせますね。何だか……妙に寂しくもありますが」

「そうじゃな。全ては……間も無く終わりなのじゃな。まあ上手くいけば、の話じゃがの」

 微かな沈黙。2人の間に流れる微妙な間。それを掻き消すように、シャーロットは努めて明るい口調で言った。

「ねえ、藤兵衛。この旅が終わったら、貴方はどうするおつもりですか?」

「儂か? ……そうじゃな。やるべきことは幾つかあるが、まずは金蛇屋を奪い返さねばの。儂を裏切った阿呆に地獄を見せてやらねばならぬわ」

「ふふ。藤兵衛らしいですね。じゃあ……それも終わったら?」

「全く決めとらん。決めとらんが、この旅でできた借りを返さねばならぬ。特に……お主に受けた恩は一命を懸けてでも返す心積もりよ。そういうお主はどうするのじゃ? 西大陸に戻るのかの?」

「いえ。戻るつもりはありません。あそこでは誰も私を待っておりませんし、辛い思い出が多すぎます。どこか新しい地で暮らそうと思います」

 暗い顔をして沈み込むシャーロット。藤兵衛はそんな彼女の足に優しく手を置き、目を閉じたまま、僅かな間隔を挟んでから一気に言い切った。

「なら決まりじゃな。ロンシャンへ来い、シャル。家くらい幾らでも用意してやるわ。生活も心配いらん。何も不安なぞないぞ」

「……え? それは……もしかして……?」

「言葉通りの意味じゃ。この旅が終わっても儂の側におれ。不老不死など関係ないわ。ただそのままの意味で取れい。言っておくが否定は許さんぞ。お主には貸しがあるからのう」

 藤兵衛は目を合わせぬまま、そっぽを向いて傲慢に言い放った。シャーロットは驚きを隠しきれない様子で、ぽとりと大粒の涙を零した。

「お、おいシャルや! そんな泣くほど嫌じゃったか?! す、すまん! 儂はそんなつもりでは……」

「……違います。私は……本当に嬉しくて……。私は誰かに歓迎されたこともありませんし、みんなから化け物扱いされてきたのに、それなのに……一緒にいてもいいなんて……しかも……私が一番一緒にいたい貴方と……」

「ふん。嬉しいのなら笑うがよい。儂は辛気臭いのは大嫌いじゃて。この先も儂の側におりたいのなら、ゆめゆめ忘れぬでないぞ」

「ふふ。そうですね! 心がけます」

 彼の言葉に満面の笑みで応えるシャーロット。そのあまりの暖かさと眩しさに、照れ臭そうにごろりと横を向く藤兵衛。

「そうじゃ。それでよい。お主はそうしてるのが一番美しいわ。……貴様らもそう思うじゃろ? ……この出歯亀どもが!」

 藤兵衛は急に不機嫌そうに、入り口の辺りに大声を吐き出した。すると戸の向こうでガタリと物音がして、恐る恐る出てきたのはへらへらと笑う亜門とリースの姿だった。シャーロットは恥ずかしそうに顔を赤らめると、藤兵衛の頭をそっと退かした。

「い、いやだあ、おじさま。わたしたち、ちょうど今来たばっかりでぇ……」

「そ、そ、そ、そうでござるよ! いやあ、正に今ちょうどでござった。己らは何も見ておりませんし、何一つ聞いておりませぬ。は、はははは!」

「ふん。白々しいの。で、首尾はどうじゃった? 刀は治せそうかの?」

 藤兵衛は姿勢を正し悠然とキセルに火を付けると、亜門の腰に刺した古刀を指差した。だが彼は力無く頭を振って、暗い表情になるだけだった。

「いえ。残念ながら殿の見込み通りでござった。ここ1週間で10件以上回ったのですが、誰1人として扱える者はおらぬとのこと」

「じゃろうな。その刀……ボロボロの見た目に反して、あまりに特異過ぎるわ。こうしているだけで身が焦げそうじゃわい。龍の力とはここまで強力なものかの」

「錆があるとか古いとか、そういう段階じゃないみたいですねぇ。これって最早金属としても呼べない、生き物みたいなものですよぉ。普通の鍛冶屋じゃ扱えませんでしょうねぇ」

「フィキラ様の膨大な力を受け続けただけでなく、他の龍の力まで受けておりますからね。霊的にかなり高い次元に到達しております。恐らくは同じ龍族か、もしくは龍の力を持つもの以外は扱えぬことでしょう」

「ふん! 其方に何がわかるか! まあしかし、今はこの件はとりあえず保留するしかなさそうでござる」

 亜門は古刀を抜き、その朽ち果てた姿をしげしげと見やった。そして、そこに込められた龍たちの思いについて思いをやった。空から注ぐ光の筋が、波紋をきらりと浮き上がらせていた。


 遡ること1週間前。街外れの地。

 巨龍インギアは夜深くに注意深く降り立ち、シャーロットたちは彼女の背からそっと大地に降り立った。皆口々に彼女に礼をいう中、亜門は静かな強い表情で彼女を見つめていた。

《どうした亜門? 私の顔がどうかしたか?》

「なぁに、気にするこたあねえよ。どうせゲロ吐きすぎておかしくなっちまったんだろ。ほれ、行くぞクソ侍!」

 レイが面倒臭そうに亜門の尻を蹴飛ばしてから、力強く腕を引っ張った。だが彼はそこから動かない。動こうとしない。

「レイ殿、それに皆様、申し訳ござらぬ。己は最後にインギア様に聞かねばならんことがあり申す。先に街に行っていただく訳には行きませぬか?」

「あ? なにワガママ言ってやがる?! ここに長居しちゃ俺らも彼女も危険だろうが! 聞きてえことあるなら先に聞いときやがれ!」

「……申し訳ありませぬ。誠にその通りにて。だが、これは侍としての頼みにござる。どうか、どうか訳を聞かずにお願いいたしまする!」

 がばりとその場に跪いて、亜門は額を地面に擦り付けて頼み込んだ。その迫力にたじろいだレイは、ちらりと一行の方を振り向いた。

「レイ……亜門くんはなにか考えあるんでしょ。先行こうよ。あたし、お腹空いちゃいましたぁ」

 ふっと一息付いてから、リースはすたすたと歩き出した。レイが慌てて止めようとしたが、藤兵衛とシャーロットも微笑みながらそれに続いた。

「さて、儂らも行くとするかの。目印を残しておく故、遅くなる前に来るがよいぞ。無論……酒の肴くらいは持参するのじゃぞ」

「ふわわ。私は眠くなってきました。宿にいますので、ゆっくりおいでなさい、亜門」

「んだよてめえらそろってよ! 俺だけ悪者にしやがって! ……おいクソ侍! あんま遅れっとメシ抜きだかんな!」

 こうして去って行く一行の後ろ姿に深々と一礼をし、亜門はインギアと向き合った。彼は懐から古刀を抜き、彼女に見せつけるように突き出した。

「お騒がせして申し訳ないでござる。これが件の刀にて」

《ああ。間違いなくフィキラ様の愛刀だ。人を愛し、人と契りを結んだ偉大な龍の意思。そして……彼が唯一背を許した人間、秋津典膳の真心の結晶。600年以上経って姿形は変われど、込められた意思はそうは変わらぬものだな》

 インギアは軽く頷いて目を細め、懐かしむように刀に手を伸ばした。亜門はそんな彼女に向けて、実に嬉しそうに歓声を送った。

「おお、典膳公の話ならもっと聞きたいでござる。彼の方は秋津国の国父、実に厳粛で特に自らに厳しく、誠の侍といった方とされておりますぞ」

《……ぷっ! はは! そうか! 現世ではそんな風に伝わっているのか! 私にとっては……そうだな。よく軍議を抜け出して酒を飲み、酔っ払いながら遊んでくれる、気の良い兄ちゃんに映ったがな》

「ほ、ほう! そうでありましたか。流石は国父天膳公、意外な一面もお有りなのですな。しかし、いきなり念で話しかけられた時は驚き申した。己の仲間たちは、僅かな遅滞など気にする方々ではありませぬぞ」

《そうだな。そうかもしれないが……まあそれはいい。とにかく私は一度、それをしかとこの目で見たいと思っていたのだ。お前を悪者にしてしまい済まなかったな》

「はっはっは。気にすることはござらぬ。こんなのは日常茶飯ゆえ。それに我ら秋津の民は、龍族には深い借りがありまする。何も気にすることはありませぬぞ」

《……そうか。本当にありがとう。改めて礼を言わせてもらう。お前の、お前たちがしてくれたこと、私は一生忘れんぞ。……亜門、刀を掲げろ。すぐにだ》

 インギアはそう言って何事かを念じると、手から複雑な印が幾重にも連なって形成された。驚く亜門を尻目に、それらは全て古刀に向けて流れ込んで行った。

「こ、これは……龍の力?! インギア殿のお力にござるか?」

《正確に言えば違う。更に“上位”のものだ。フィキラ様がお前に“これ”を託した。この事実は、お前らが思うより遥かに重大なことだ。少なくとも龍族にとってはな。全ては偶然ではなく、必然なのだ。フィキラ様との邂逅も、私たちの出会いも、そして……この先のことも》

「ど、どういう意味でござるか? 己にはさっぱりにござるが……」

《今は分からなくてもいい。お前らの用が全て片付いたら、南方の『龍の郷』に来い。場所はその刀が導いてくれる。そして、必ずこの刀を復活させろ。お前にはそれをする義務と責任がある》

「勿論にござる。己を誰とお思いか? 秋津の侍は、一度言葉に出したことは、一命懸けてでも必ずやり遂げてみせるにござるよ」

《はは! お前ならそう言ってくれると思ったよ。流石は龍鳳の子孫にして、典膳の意思を継ぐ者だ。故に、もう一つの力を開放しよう。龍族が持つ、更なる可能性の力を》

 インギアが目を見開くと、古刀に込められた力がどんどん広がり、それは亜門の全身の髄にまで及んでいった。しかし彼はたじろぐことはなかった。これが、ここで与えられるべき力だと分かっていたから。運命を切り開くための力と分かっていたから。

 気付くと、彼は龍の力を身にまとっていた。鱗と力に包まれた、龍と人の相する姿に。だが以前とは一つ違っているのは、一対の翼が背から生えていたことだった。

「これは……翼? まさか空を飛べるのでござるか?」

《お前次第だ。龍族における最高峰の力、天駆ける空への鍵……確かにお前に託したぞ。私はそろそろ去らせてもらう。良き旅をな、高堂亜門》

 翼を羽ばたかせゆっくりと飛び上がるインギアに、同じく本能の赴くままに翼を振るい、亜門はふわりと空を舞った。天地の理などまるで冠することなく、ただ風に身を任せて浮かぶ自分の姿に戸惑いながらも、彼はにっと気持ちよい笑みを浮かべた。

「確かに受け取り申した! インギア殿、必ずまたお会いしましょうぞ!」

《ああ。待ってるよ。借りは必ず返すからな》

 二つの影は上空で幾度か交差し、やがて二筋の軌跡を描いた。亜門は自らに込められた力を幾度も確認しながら、全速力で目の前に広がる街の灯りに突っ込んでいった。


 そして、夜。

 レイの作った麺料理を啜りながら、話に花を咲かせる一行。穏やかで平和な時間。亜門は横たわる藤兵衛の肩をのんびりと揉みほぐしていた。

「おお……実に良き気持ちじゃて。流石は亜門じゃ。しかし、お主は一角の侍であろう? どこでこんな業を身に付けたのじゃ?」

 亜門の手はふんわりと軽く、傍目からは力を入れているように見えないのに、的確に患部をなだらかに揉み解してした。彼は照れ臭そうに笑うと、肘で腰部を圧迫しながら何ともなさげに言った。

「はっはっは。殿にお褒めいただき光栄にござる。これは亡き大殿の為に、学舎の友から学んだ、秋津で言うところの『骨子術』という技術でして。全身のほつれを解くように、悪い部分や歪みを修正でき申す」

「ほう。何とも異な技よ。大したものじゃのう。……おお、効くわい! 今度はもそっと右の方を頼むぞ」

「けっ! なんもしてねえ丁稚のぶんざいで一丁前によ」

 レイが食事の後片付けをしながら、憎々しげに吐き捨てた。藤兵衛は目を鋭く光らせて、ふんと唸りながらレイに噛み付いた。

「つくづく騒々しい下等生物じゃて。儂は貴様と違っての、ちと前に激しい戦いを敢行しておるのじゃ。使えぬ木偶の分際で、戦士の邪魔をするのは大概にいたせ」

「ああ? てめえより亜門の方が働いてんだろうが! 按摩なんざてめえがやってやりゃいいだろ!」

「ふん! 貴様には一生分からぬ知的部分で精を削っておったのよ。これだから脳味噌の不足した生き物は嫌いなのじゃ。おお、汚い汚い」

「うるせえ!!」

「グェポ!!」

 そのやりとりを快活に笑いながら見つめる亜門だったが、どこか思い詰めた表情になり、真剣な口調で2人に話しかけた。

「しかし……例のガンジとか言うご老体。彼は心底強敵でござった。あのまま戦っていたら、己らに犠牲が出ていたやもしれませぬ。見た目の老齢からは考えられぬ、ずば抜けた体術の持ち主にござる。にしてもあの技……どこかレイ殿のものに似ておりましたが……」

「おう。そりゃそうだ。ガンジは俺の体術の師匠だ。俺の技はぜんぶあいつに習ったからよ」

 水洗いしながら、鼻唄混じりに事もなげに言ったレイ。それを聞いて2人は揃って顔を見つめ合った。

「そ、そうなのですか! それでは奴は、やもすればレイ殿よりも?」

「おう。手も足も出なかったぜ。もうボッコボコよ。まあ今なら俺が勝つけどな」

「何を偉そうにしておるか! 何の根拠もないくせによう言うわ。そこまで言うなら奴は貴様に任せたぞ。そのつもりで策を立てるからの。後で出来ぬと泣き言を言うでないぞ!」

「上等だクソ商人! ダールに着いたら大暴れしてやるぜ!」

「はっはっは。その意気ですぞ。秋津の格言にも『窮する鰯は鯛をも齧る』とあり申す。死ぬ気で掛かれば倒せぬ者などありはしませぬ」

「誰がイワシだ! このアホ侍!」

「オゥン!!」

 そんないつもの大騒動の中、リースは部屋の隅で1人静かに考え込んでいた。シャーロットはそれに気付き、心配そうに彼女の肩に両手を置いた。

「どうしました、リース? 難しい顔をして……お腹でも壊したのですか? よく効くシャルちゃん印の秘薬でも作りましょうか?」

「な、なにいきなり言ってんの! そんな訳ないでしょ! どっちかって言うと逆の方で……って、なに言わせんの! あたしが思ってんのは今の状況よ。ねえシャルちゃん、本当にこれって大丈夫なのかな?」

「さあ。私には見当もつきません。そういうことは全て藤兵衛に任せてあります。彼が平気だと言っているのですから、私は信じるだけです」

「ガッハッハ! 心配なぞ要らぬわ、女狐よ。お主も手伝ったでたろう。この街の至る所に儂の転移術と、お主の符術の仕掛けがばら撒かれておる。異な動きあらば、たちどころに検知されるが道理よ」

 自信満々に高笑いする藤兵衛を見て、リースは呆れ果てたように小さくため息をついた。

「まあね。確かにそうなんだけどさ。上手くいきすぎてる気がしちゃうのよね。本当にこれでいいのか、ってあたしの勘がざわめいてるの」

「はっはっは。リース殿、その時はその時でやるのみにて。確かにレイ殿のお力が借りられぬは不安でしょうが、己の刀とて捨てたものではありませぬぞ。魔女めはへばっておるでしょうが、何より殿の悪知恵があれば百人力にて。何も心配要りませぬ」

「グワッハッハ! よく分かっておるのう、亜門や。褒美を遣わす。今日の駄賃も含めて1万銭じゃ。大事に使うとよかろう」

 上機嫌で札をばら撒く藤兵衛に、恭しく受け取る亜門。呆れ果てて彼らを見つめるリースに向け、シャーロットは実に美しく微笑んだ。

「そうですよ! 藤兵衛がいれば全ては上手くいきます! この私が言うのだから間違いありません」

「けっ。どうだかな。けどよリース。このクソはさておき、てめえも亜門もいるんだ。ちったあ肩の力抜けよ」

「……ごめんね。心配症だったかも。あたしの悪い癖ね。忘れて」

 そう言って小さく頭を下げるリースに、明るく微笑みを浮かべる一同。彼らはそれから間も無くして床に着いたが、彼女の言葉は、皆が心のどこかで感じていた不安を浮き彫りにしていた。


 夜も更けて。

 藤兵衛の夢枕に立つのは、かつての記憶の残渣。オウリュウ国で修業中の駆け出しだったあの頃の記憶。不安定で不確かな、陽炎薫る在りし日の情景。

「王手! 今度こそ俺の勝ちだ!」

 若かりし頃の藤兵衛、いや、藤吉は勝ち誇った笑みを見せる。目の前の男は考え込むように、それでいて薄ら笑うように藤吉を眺める。

「ふうむ。これは手詰まりだね。いや、上達したものだ。感心するよ」

「それでは、約束通り店を持たせてもらうぞ。よもや嘘だったとは言うまい?」

「勿論だよ、藤吉。私がお前に一度だって嘘を付いたことがあるかい?」

「んなのいつもだろが。さ、手がないなら投了で……ッ!!」

「どうしたんだい? 私はただ苦し紛れに天馬を動かしただけじゃないか。お前の攻勢は続いているぞ。さあ、早く次の策を打ったらどうだい?」

 決定的な綻びを突かれ、俯いて考え込む藤吉。その様子を見て意地悪く含み笑う男。

(……これがああ来て、ああなって………ダメだ! 右舷で道化が睨んでやがる!)

「どうした、藤吉? まだ勝負はついていないよ。ほら、来なさい。いくらでも勝ち目はあるよ」

「……クソ! 詰みだ! また負けちまった! 一体いつになったらあんたに勝てるんだよ」

 男は懐からキセルを取り出し、火打石で火を付けて美味そうに深々と煙を吐いた。

「藤吉、一つだけ教えてあげるよ。私達は似た者同士だ。同じ思考様式があり、同じ世界を共有できる。なのに私は勝ち、お前は負ける。その違いはね、私はお前を心から愛しているからだよ。だからお前のことは何でも分かる。私に勝ちたければね、藤吉。全てを捨てて私を愛しなさい。お前にはそれが必要なんだよ」

「……? よく意味が分からんぞ。何にせよ次は勝つ! 勝って必ず自分だけの店を持つんだ!」

 悔しさを必死で隠し、その場からつかつかと歩き去る藤吉の背に、涼しくも熱のこもった声がねとりとこびりついた。

「お前では、私に勝てないよ。何故なら……お前は何も捨てられないからね」


 ガバッと跳ね起きた藤兵衛。額にはびっしょりと汗を滲ませていた。息は荒く、顔は氷河のように青ざめていた。

(……やれやれ。未だ冷めぬ、か)

 藤兵衛は息を整えると、周りを起こさぬように静かに部屋を出ようとした。途中でレイのいびきに顔をしかめて軽く尻を蹴りつけながら、外の空気を浴びに忍び足で出て行った。

 外は一面の星空だった。天を覆い尽くさんばかりの星の下で、輝きを失う月明かりに、彼は悠然とキセルの煙を吹き出した。

(あと2週間か。女狐め、不吉なことを言いおって。……しかし、奴の言わんとすることも何となく理解できるわ)

 藤兵衛もどこか不安がよぎるのを感じていた。しかし、自らの講じた策を信じようとした。そうせざるを得なかった。

(この感覚……昔何度も味わったわい。彼奴の側にいた時にいつも……ええい、迷うでない! 儂は昔の儂ではないわ!)

「そんなことはないよ、藤吉。お前は昔から何も変わっちゃいないさ」

 突如として背後に、背筋凍る邪悪な気配。咄嗟に銃を抜いて身構える藤兵衛だったが、そこに立っていたのは……。

「久しぶりだねえ、藤吉。あの日以来だ。見違えたよ。昔と変わらない姿じゃないか。不老不死の術とは凄いものだね」

「貴様……やはり生きておったのか!」

 語気を荒げて叫ぶ藤兵衛。その手には銃が握り締められていた。そんな彼を恍惚の表情で見つめるのは、30代半ば程の男だった。ねっとりと絡みつくように怪しく輝く黒髪を下腹部までだらりと垂らし、豪奢な白の下地に黒の龍の刻印が打たれたスーツを身に纏い、静かに目を瞑っていた。それは紛れも無く彼のかつての主人であり、現在のビャッコ国で確固たる地位を築く闇の商人、黒龍屋幽玄斎その人だった。

「おいおい、そんな物騒な物はしまったらどうだい? 見たところ北大陸の“遺物”だね。私の考える次世代の武器は、そいつを参考にして開発しているんだけど……おっと、話が逸れてしまったね。私はただ、お前と久しぶりに話をしたかっただけなんだ。どうだい、隣に座らないか?」

「断る! 貴様と話すことなど一つも無いわ!」

 とろんとした目付きのまま、幽玄斎は無造作にその場の石に座り込んだ。怒りの視線を解くことなく、藤兵衛は銃口をしかと眉間に定めたまま答えた。

「困ったなあ。お前と腹を割って話せるいい機会と思ったんだけど。……そうだ! なら私は話さないから、お前から何か聞きたいことはないかい? 今日は特別だよ。どんな質問にも3つだけ答えてあげよう」

 思わぬ言葉を受けて、百戦錬磨の藤兵衛の顔にやや逡巡の色が浮かんだ。幽玄斎は僅かに口の端を歪めるも、冷静極まる表情であったが、その実、彼の下腹部は純白のズボンの下ではち切れんばかりに膨張していた。しかし怒りに染まる藤兵衛にはそのことに気付く余裕もない。

「喧しい! 貴様のことじゃ。どうせ他に策謀があるのじゃろうが!」

「よし、最初の質問だね。勿論答えはイエスだよ。お前たちの状況を探れ、とミカエルに頼まれているからね。いいねいいね、その調子だ。あと2つだよ」

 地面に足で模様を描きながら、幽玄斎は指を突きつけてにやにやと笑った。完全に彼に飲まれている現状に剛を煮やしながらも、藤兵衛は引金に込める力を更に強め、揺れる心中を必死で堪えて続けていた。

「貴様……眷属の、ミカエルの犬に成り果てておるのか?」

「よしよし、2つ目の質問だね。乗ってきたじゃないか。勿論答えはノーだ。お前が一番よく知っているだろう? 私が人に尾を振る訳がないじゃないか。私達は対等なビジネスパートナーに過ぎない。彼は金でしか手に入らないものを欲しているし、私は再起の為に後ろ盾が欲しかった。ただそれだけの関係だよ」

「つくづく言うことか胡散臭いわい。そんな事が信じられるものか!」

「おいおい。そう言うお前はどうなんだい? お前こそシャーロットとかいう、胡散臭い魔女の犬らしいじゃないか? 聞くところによると、お前程の男が、人夫紛いのことをやらされているんだって? 私の跡を継いだ人間の仕事とは思えないね。はは、ははは!」

 幽玄斎は天を仰いで無機質に嗤った。藤兵衛は内心で臓腑に汗をかきながらも、必死に感情を押し殺し続けていた。

「ふん。何とでも言うがよい。儂は儂じゃ。貴様とは全てが違っておるわ!」

「そんなことはないよ。私とお前は一対の存在だ。私にはよく分かるよ。……さて、そろそろ最後の質問かな。よく考えてするんだよ。とても大切なことだからね」

 またしても藤兵衛に僅かな躊躇い。だが、彼は銃の引金に一層強く手を当てながら、絞り出すように声を出した。

「……何故、雪枝を殺した?」

 その問いを受けた幽玄斎の目は濁りきり、その奥には何も写っていないように見えた。彼はのんびりと息を吐き、何事のもなかったように朗らかに言い切った。

「あの時も言ったろう? 理由はただ1つだ。お前に私の跡を継いで欲しかっただけだよ。大陸一の商人となり、世界を裏から支配する。その為には家族の情など不要だからね。身内に甘いのは、有能極まるお前の唯1つの弱点だ。私はお前のために殺してあげたんだ。……そうだ! あの汚らわしいメスはね、最後までお前の名前を叫んでいたよ。必死にお腹を庇いながらね。はは、本当に愉快だね。ぜんぶ無駄なのに。至極滑稽だね。はは、ははははは!!」

 次の瞬間、響く銃声。藤兵衛の銃の先から、どす黒く濃縮された螺旋の波動が放たれた。全身を吹き飛ばされ、粉微塵になる幽玄斎。だがすぐに彼に違和感が走った。これは、この手応えは……明らかに実在の肉体ではない!

「はは、ははは。やっぱり引金を引いたね。お前の弱点は正に“ここ”さ。何て強大で、濃く煮詰まった殺意なんだ! ああ、私の中にお前が溢れていくよ。……う、うううううっ!」

 邪悪に満ちた、とろりとした声が夜の空気の中に溶けていった。それを合図にしたかのように、突然街中に闇が溢れた。

「こ、これは?! 貴様の仕業か!」

「ありがとう。藤吉、お前のおかげだよ。お前が引金を引いてくれたおかげだ。既に“仕込み”は終わっていて、スイッチが押されるのを待つだけだったんだ。どうやらまた……私の勝ちのようだね」

 ぞわりと湧き上がる闇の渦。凄まじい闇の胎動。粟気立つ肌を感じて、震えを感じる藤兵衛。

「貴様……一体何を?!」

「質問の時間は終わりだよ。でも、特別に答えてあげよう。お前も知っての通り、“闇”とは人の負の感情に強く反応する。極限までネガティヴに振り切った条件下で発動する、私の極大術だよ。暫く前から丹念にこの街中に張っておいたんだ。全ての生きとし生ける者の中にね。そこにまんまとお前が乗ってくれたという訳だ」

(まさか……既に儂らの動きを察知していたのか! 何故? どうやって?!)

「言っただろう。私とお前は同じだ、と。ただお前は、昔から何も変わらない、甘さを抱えた緩い男のままだ。それでは私には勝てないよ。しかも、人は殺さぬ、人は資本だなどと言いながら、躊躇いなく私に引き金を引いた。その結果が“これ”さ。お前が何もしなければ、何も起こらなかった。つまり……今から起こる悲劇は、お前が引き起こした『人災』だよ。いや、実に可哀想な話だね。はは、ははははは!!」

 幽玄斎は実に愉快そうに笑うと、胸元をたくし上げて心臓に埋まる鉱石をこれ見よがしに見せ付けた。それは紛れも無く、至高の術具たる賢者の石だった。驚き手を伸ばす藤兵衛をすり抜けるように、幽玄斎は高笑いしながら幻の中に消えていった。

「待て! どこへいくのじゃ?!」

「私は何処へも行かないよ。いつも私はお前の側にいる。忘れるなよ、藤吉。私はいつだってお前を……私は……う、うううううっ!!」

 更に増幅された闇力が町中を包んだ。異変を察知し外に駆け出る仲間たち。だが時は既に遅く、彼らは完全に包囲されていた。闇に染まりきった虚ろな顔の人々が、明確な敵意を持って彼らを取り囲んでいたのだった。


 大陸歴1279年6月。

 金蛇屋藤兵衛一行にとって、最大の窮地が訪れた。鋭く伸びた邪悪な牙は、彼らの喉元を今にも喰らい尽くさんとしていた。

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