第38話「遠景」
夜。天気は良好。空は一面の星々に敷き詰められ、風の吹く音だけが心地よく耳を通過していった。そんな美しい空の道を、流星のように通り過ぎる巨大な影があった。
輝く鱗に覆われた強大な体躯、天を覆うほどに広げられた逞しい翼、内からの力迸る美しき表情。現在では伝承上の存在となった荘厳な龍の姿が、ビャッコ国の空を舞うように雲を引いていた。
その姿をよく見れば、金属を思わせる重厚な蒼き鱗の上に、数人の人影があった。彼らはまるで当たり前のように龍の上で座り込み、和やかに談笑をしているようだった。
「……と、言う訳じゃ。つまり商売とは、他者も自身も全て幸福になるのが理想での。己の都合のみを考えていては長続きできぬのじゃ」
《成る程。とても興味深いな。それ故に人の営みの根源と。鉱山の奴隷を解放したのもそういう意味合いか?》
「その通りじゃ。あやつらにはたっぷり恩を着せておいた。故に必ず儂らの良き話をする。噂は広がり、必ずや金蛇屋の名声を高めてくれる。すると更に金が生まれようて。全ては世界の輪廻という訳じゃの」
《一時的な損失には目を瞑り、長期的な利益に目を向ける。トンネル開通といい鉱山奪取といい、先の先まで考えて、か。実に勉強になる。龍族には欠けた視点だな》
「いやあ、しかしお主は話が早くて助かるわい。龍とは初めて会うたが、まさかここまで聡明な生物とはの」
《私も同じ気持ちだ。対話とは実に重要だな。敵としても、時には味方としても無数の人間に出会ってきたが、お前のような者に会ったのは初めてだ》
「ガッハッハ! そうじゃろうそうじゃろう。まあ儂ほどの人物には早々出会うことは出来ぬわ。光栄に思うと良いぞ」
高笑いをする藤兵衛に、その背にぴったりと嬉しそうに寄り添うシャーロット。そしてその背後で、呆れ果てるレイとリース。
「……なあ。いつの間にあいつ打ち解けてんだ? 相手は龍だってのに、なんであんな堂々としてやがんだよ?」
「……さあ。気付いたらいつもの上から目線でしたねぇ。ご身内が亡くなったばかりだっていうのに。まったく理解できませぇん」
「ま、いろんな意味で相変わらずだよ。あいつも含めて……な」
呆れきった表情で、レイは後方に親指を突き刺した。その先には苦悶の呻きを流し続ける亜門の姿があった。
「オェェェェエ!!」
「ったく、いつまで吐いてるんでしょ。亜門くん本当にかっこ悪いですぅ」
天候は快晴。久方振りの暖かさが肌を包む清々しい夜を、一行は天を切り裂き突き進んでいた。時に雲の中を抜け、時に風の海を泳ぎながら、実に和やか且つ順調極まる旅路を過ごしていた。
出立から数時間が経ち朝日が顔を見せ始めた頃、魔女シャーロットが美しく微笑みながらインギアに話しかけた。
「申し訳ありません、インギア様。もし宜しければ、あとどれくらいでダールに着くのか教えて頂けないでしょうか?」
《ダールまでなら丸1日といったところか。龍力も戻っておらず、龍言語もままならぬ今の私ではそれが限界だ。火急の所遅くなって申し訳ないな》
「いいえ! 私こそ急かすような物言いをしてしまい、誠に申し訳ありません。ただ目安を知りたかっただけなのです」
「ま、しゃあねえな。いくらなんでも徹夜で行けってわけにゃいかねえ。そろそろ休むとすっか」
「それは不要じゃ。おい、インギア。ダールまで行く必要はないぞ。もう1時間ほどで大きな街が見えるはずじゃ。そこの側で降ろしてくれればよい」
思いもよらぬ藤兵衛の言葉に、ざわつく一同。特にレイは怒りを顔中に浮かべ、拳を鳴らしながら真っ先に叫んだ。
「ああ? なんでだよ! せっかく敵の本拠地まで直行できるってのに、てめえなに考えてやがんだ!」
「阿呆じゃ阿呆じゃとは思うておったが、よもやここまで配慮の欠片も無い虫類とはの。よいか、貴様には想像付かぬじゃろうが、ダールは東大陸第2の都じゃ。しかも敵は準備万端で待ち構えておる。そんな所に、こんな目立つ格好で飛び込んでみよ。あっという間に包囲されて蜂の巣じゃて」
「んなの目立たねえとこに降りりゃいいだろうが! それを見つけんのがてめえの唯一の仕事だろ!」
「……ふう。貴様と話すと頭がくらくらしてくるわい。肝心要の月周りはどうするのじゃ? 満月迄は大分先じゃぞ。まさか敵の本拠で様子を伺う訳にもいくまい? 近場にて斥候を行いつつ、有利な状況を伺うのが上策じゃろう」
「ぐ……ま、まあ一理あっけどよ」
「まったく……貴様の頭は本格的に膿んでおるらしいの。力も頭も抜けておっては生きる意味などあるまいに。そもそも貴様はじゃな……」
「うるせえ! ごちゃごちゃうるせえんだてめえは!」
「グェポ!」
闇力を封じられながらも、鍛えら上げられた筋肉で的確に鳩尾を穿つレイの右拳。ひとしきり彼らのやりとりを目にしてから、インギアはふっと1人微笑んだ。
《了解した。従おう。何せ私はお前らのお陰で解放されたのだからな。それ位は何の痛痒もない》
「しかしインギア様。貴女ほどの方が、何故あのような場所に囚われておられたのですか? 我が兄の力がいかに強かろうが、龍とはそもそも人とも闇とも交わらぬはず。どのようにして此度の一件は起こったのですか?」
シャーロットの問いに、インギアは重苦しく考え込んだ。そして暫しの間を置いて、彼女は苦々しい表情になりながらも、ゆっくりとその重い口を開いた。
《……そうだな。お前たちには話す義務があるだろう。少し長い話になるが許せよ。私たち龍族は、知っての通り他種族との接触を絶っている。特に人間とはな。その背景にあるのは、他でもない龍と人との戦争。お前らの言うところの『龍戦争』によるものだ》
「ほう。御伽噺ではなかったという事かの。400年前に人と龍が戦ったという、儂らからすれば神話に等しき話じゃが」
《そうか。だが私たちからすれば、まるで昨日のように思い出せる。龍族は誰も忘れやしない。あの戦いは北大陸に端を発し、私の“列”は北に攻め込んだ。私も命を懸けて戦った。何人もの仲間が死んでいって、結果として残ったものは何もなかった》
「……そうね。そう聞いてるわ。北大陸の一部の人間の私欲の為に、世界が真っ二つに分かれたって」
《だがその話の前に、“そこ”に至るまでの道筋を明確にしておこう。そもそも龍と人は元々、古き神々に使役された種族とされている。この星の古き種にして、彼らへの従属を選んだ龍族。神々の手足として創造されし人間。発端に大きな違いはあれど、どちらも神々に隷属し、虫けらのように扱われていた》
「儂らの知る御伽噺とはだいぶ異なっておるの。神々の子孫が人と言われておるが」
《そう呼称したくなる気持ちも理解出来るが、これは歴とした事実だ。神々にとって、龍も人も只の奴隷に過ぎない存在。だがそれに不満を持った龍と人はいつしか手を組み、神々に対し反逆を起こした》
「所謂、『神戦争』と呼ばれる600年前の争乱ですね。これに勝利した人と龍が、今の歴史を創設したと聞いております」
《そうだ。しかし戦いは一方的だった。神々の圧倒的な力の前に、薙ぎ倒される龍と人の連合軍。手も足も出ずに蹂躙される我らに救いの手を伸ばしたのが、他でもない神々の一族の1人にして、歴史上最高の天才と呼ばれた才女。……そう、シャーロット様の祖先である、偉大なるアガナ=ハイドウォーク様だ》
「……アガナ様、ですか。フィキラ様も仰っておりましたが、俄には信じられません」
「……シャルちゃん。インギアの言ってることは、神教の伝承とも一致するわ。確かにアガナ様は人を助け、龍と盟を結び、神々を敵に回し戦い続けたとされているわ」
「ふむ。ここでもアガナの名か。この世界の長い歴史の中でも、最重要人物と言えそうじゃの」
藤兵衛はキセルをふかして神妙な目付きで空を眺めた。一行は同じ気持ちで胸襟を正し、美しき蒼龍の言葉に耳を澄ましていた。
《アガナ様は強かった。神々の軍勢を相手取り、一歩も引かずに戦い続けていた。そんな彼女に励まされ、背を押され、背を預けるうちに、龍と人の間にいつしか絆のようなものが生まれていった。そして激戦に次ぐ激戦の後、世界から神々を打ち払ったその時、龍と人は共に手を取り合い、神無き世界を統治すると誓ったのだ》
「なんつうか……どえれえ話だな。俺らにとっちゃマジで神話の世界だよ。雲をつかむような感じだぜ」
《ふふ。そうだな。今からでは考えられぬ、激動を絵に書いたような時代だった。私も幼い身ながら、かの英雄たちの生き様を羨望の目で見ていたよ。彼らを見ていると、心から誇り高い気持ちが湧いてきたものだ》
「おお! そこには典膳公もおられたのでござ……オエエエエエ!」
《ああ。典膳を始めとした人間の英傑もそこにはいた。私たちは仲間だった。龍も、人も、神も全て等しく同じ志を持った同胞。正真正銘、一点の偽りも曇りもない筈のな。だがそれもあの日までのこと。大恩あるアガナ様が……人間に殺された時までのな》
突然の衝撃的な一言に、一同はぽかんと口を開いたまま動けなかった。だが真っ先に我に帰ったリースが、顔を真っ赤にしてインギアに食って掛かった。
「ち、ちょっと待ってよ! アガナ様が……殺された? しかも人間に? 意味わかんないんだけど!」
《……》
「落ち着くのじゃ、女狐。地が出てしまっておるぞ」
「これが落ち着いてられるかっての! あたしらアガナの信徒はね、アガナ様の魂を安寧するために生きてきたの。死にかけた教祖様が彼女に救われてから、ずうっとそうやってきたの。あたし自身はべつに信仰心なんて強くないけどさ、安らかに眠るアガナ様を守ろうとして生まれたのがアガナ神教、そう信じて、そう教えられて生きてきたのよ。今の言葉はあたしらの仲間全部を侮辱する言葉なの! いかに龍とはいえ、適当なこと言ってると許さないわ!」
インギアはリースの怒気に満ちた言葉を深く飲み込むと、深々と頭を下げつつも、はっきりとした口調で返した。
《気を悪くしたのなら謝罪しよう。だが……真実は曲げられん。これは間違いなく600年前に起こった、紛れも無い事実なのだ》
「まるで見てきたようなことを言って! 証拠もないからって好き放題ね!」
《……なら見せよう。私の“魔眼”も回復してきた。あのとき私が直に見た光景、アガナ様が人間に刺されて絶命する瞬間を》
「!!!!」
インギアは顔をぎろりと彼らに向け、その目を深く突き刺すように見つめた。彼女の目からは膨大な力が溢れ出し、まるで幻術の様に彼らの意思を包み込んでいった。次々と昏倒する彼らの脳内に、やがて1つの光景が映し出された。古ぼけて白黒の、絵画の如き風景。音も光もひび割れながらも、鮮明に浮かび上がる不安定な色を。
それは、幸福な光だった。
そこには、多くの生命が集まっていた。人も、龍も、皆笑顔で。何処かの城のような風景、集まる命、湧き立つ熱気。皆嬉しそうに笑い、集まり、時に涙を流し、場はあたかもお祭りの様相を呈していた。
彼らはその内の1人。父親らしき巨大な龍の背に乗る、幼き蒼龍の眼を通した体験。彼女は間も無く始まろうとする儀礼に目を輝かせ、隣でウトウトと眠る、更に小さな紫龍を揺り起こした。
《今でもあの光景は忘れられん。戦争から数年が経ち、アガナ様と、彼女の愛した男の結婚式の日だ。戦争で傷付いた全ての種族にとって、この催しは救いと呼べるものであった。アガナ様は、言うまでもなく戦争の最大の功労者。敵である神々には悪鬼の如く映っただろうが、我ら龍や人からすれば聖母のような御方。その日のアガナ様は本当にお美しく、心の底から幸せそうに見えたよ。私はまだ幼い妹と戯れあいながら、両親に連れられ式に参加した。見ての通り、人も龍もごっちゃになりながらのお祭り騒ぎでな。こんなに楽しい気持ちになったのは生まれて初めてのことだったよ》
幻想の中で、彼らはインギアの嬉しそうな、それでいて何処か悲しげな声を聞いた。一行は黙したまま、目の前で繰り広げられる夢に再び意識を落とした。
やがて、大騒ぎと歓喜の中で、式は始まった。城の壇上に男女が見えた。その内1人はすらりと細い黒髪の、シャーロットに瓜二つの女性だった。彼らは驚き声を上げようとするが、強い力に押し込まれて傍観するのみであった。もう1人の男の顔は、不思議な霧のようなものに包まれよく見えなかった。2人は民衆に向けて笑顔で手を振ると、手を取り合って何かを話し始めた。その声は彼らには漠に響き正確には届かなかったが、周囲の割れんばかりの歓声が全てを物語っていた。
《アガナ様は最後の瞬間まで凛と美しく、慈愛を忘れない方だった。私は子どもだったので話の意味をよく分からなかったが、彼女の情熱的な輝きを忘れてはいない。だが、それもすぐに終わる。隣にいるあの男のせいでな!》
興奮極まる中、2人は笑顔で抱き合い、司会の声に促され誓いの接吻を交わそうとした。アガナは一際美しく微笑み、目を閉じて小さく頷くと、その時を待っていた。
しかし、そこに放たれたのは……刃だった。アガナの祝福を受けた、神の力を秘めた短剣で心臓を一突きにされ、彼女は音もなく口から血を吐いてその場に沈んでいった。
何が起こったか分からずに静まり返る場に、突如として四方から漆黒の炎が巻き起こった。燃え盛る人、物、全てが灰塵と化す中、逃げ惑う人々。そして、邪悪の炎は幸せな龍の家族にも等しく降り注がれた。
ここで彼らの意識は現実へと戻っていった。あまりに生々しいビジョンに茫然とするだけの彼らに、インギアは深々と頭を下げた。
《説明もなく済まないな。あれが私の見た風景だ。それから……突然の事態に慌てて飛ぶこともできない私たち姉妹を、父と母はその身を呈して逃げようとした。だがすぐに炎が襲ってきて、私の意識は遠くなっていった。気付いた時、私は同族の集落で手当てを受けていた。両親は……助からなかった。私を守って死んでいったらしい。妹とも逸れてしまい、私は1人ぼっちになった》
「……」
《誰一人として、事態を把握している者はいなかった。ただ確実なのは、“彼”が裏切った事により、私たちの全てが損なわれたという事実だけだ。私たちは人間と話し合い、彼の身を追った。だがどんなに探しても、彼は2度と歴史の舞台へと上がる事は無かった。そして、長い年月が流れた。共存の道を進んでいた人間は、やがて龍の地へ足を踏み入れんとしてきた。圧倒的な数と厚顔無恥な策略により、多くの龍族が駆逐されていった。私たちは彼らに憎しみを抱いたが、決定的な衝突にまでは至らなかった。アガナ様の教えは生きていたからだ。全ての種族は助け合い、愛し合う。私たちはそう信じた。信じたかった。だがしかし、人間はどんどん増長していき、結果として彼らは禁断の領域に足を踏み入れた。詳細はさておき、結果として帝龍と呼ばれる存在の一角が落とされた事実を以って、我々は遂に戦う事を決めたのだ。憎しみは連鎖し、膨れ上がり、そしてあの日の全ても人間が仕組んだ罠、そう私たちは信じた。大恩あるアガナ様に弓を引き、戦友である龍族すらも皆殺しにするための。そして始まったのが『龍戦争』だ》
「……そう考えても仕方ないわね。あんたの話を信じるなら、人間はそれだけの事をしてきたわ」
《だが、結果はお前らも知る通り、人間が勝利した。私たちの“列”は最後まで不敗であったが、世界的に見ると人間の圧勝に終わった。彼らは計画的に力を蓄え、数と武器で龍を圧倒した。単体の力では比較にならんが、人間には知恵があった。ひとり、またひとりと追い詰められた龍は、南大陸と東大陸の一部の地域を除いて駆逐されていき、龍と人は完全に袂を分かった。これが私の知る“真実”だ》
「………」
更に深まる沈黙。インギアの瞳と言葉には強い意志が感じられた。言い返す言葉もなく下を向くシャーロットたち。しかし、藤兵衛だけは動じない。この男は動じない。
「成る程の、インギア。お主が見せた光景は、確かに真実の一面なのじゃろうて。お主らの気持ちは察するに余りある。じゃがの、どうしても気になることが2点ほどあるの」
「おいてめえ! 空気よめや! 今そういう時じゃねえだろ!」
「……レイ。藤兵衛の話を聞きましょう。彼はこんな時に無茶を言う方ではありません」
《シャーロットの言う通りだ。お前の懸念とやら、実に興味深い。だが言葉には気を付けることだ。これは種族の歴史に関わる話だからな》
「ふん。儂に説教とは片腹痛いわ。まず一つじゃが、その話……余りにも都合がよすぎるのではないか? 衆目の面前で聖母などと崇め立てられるアガナを殺すなど、儂からすればリスクしかないわ。それにじゃ、龍を追い払いたいと望むならば、幾らでもやりようがあったはずじゃ。儂ならもっと上手く、真綿で首を絞めるように時間をかけて奪い取らんとするわい」
「はっはっは。確かに殿ならばお手の物でありましょう。ですが……己も気になっておりました。余りに芝居掛かった、まるで大見得にて。正直言って、不自然極まる感じがあり申したな」
「正にそれよ。その答えは何か? ……何者かの意思を感じるの。争いを求める、道化を演ずることで利を得んとする漆黒の意志がの」
「黙って聞いてりゃ、てめえなにぬかしてやがる! エラそうに水さすのもたいがいにしやがれ!」
《……いや、いい。そのまま続けろ。もう一つあるんだったな?》
がなり立つレイに対し、インギアは極めて冷静に目を細め、静かに端的に告げた。その魔性の目の奥にあるものを、藤兵衛は真正面から捉え続けていた。
「うむ。もう一つはの、貴様の儂らに対する態度じゃ。目の前で親を殺されておきながら、何故心の奥底では人を憎んでおらぬ? お主……何か隠しておろう?」
《……》
「恐らくその答えは1つ。貴様にはわかっている筈じゃ。その一件の裏に隠された確かな真実を」
強く指を突きつけて覇気と共に言葉をぶつける藤兵衛。しばしの時間の後、インギアは静かに彼の言葉を反芻すると、口を開けて笑った。
《……流石だな。その通りだ。私たちはあの時の真実を追い求めている。今回私が拿捕されたのもそれに起因しているが、結果として私たちは、一種の確信に近い部分へと到達している。だがそれは、現時点では誰にも告げるべきものではない。それに何より……私たちは“彼”を、心の底から疑う事が出来ないのだ。側から見れば馬鹿馬鹿しいとは十分理解しているが、かつての彼は……本当に……英雄と呼ぶに相応しい男だったからだ》
彼女は遠い目をして自嘲気味に笑うと、風の中を疾く全力で駆けていった。一行は声をあげてしがみ付き、その速度を楽しむかのように(1人を除いて)笑っていた。風の中を進む彼らの足取りには、先に控える不穏な空気など一片も感じられなかった。
数日後。
ビャッコ首都、ダール。美しい煉瓦模様が目につく、自由と芸術の街。その中央、かつては国家総督府が置かれていた巨大な城塞の屋上に、1人の男が涼やかに風を浴びていた。
彼は鮮やかな輝きを放つ黒髪を下腹部までだらりと垂らし、豪奢な白の下地に黒の龍の刻印が打たれたスーツを身に纏い、静かに目を瞑って何事かを考えているようだった。年の頃は30代半ばといったところだろうか。その険しい表情からは測りかねる部分もあったが、いかにも死線をくぐり抜けてきたような、明らかに只者ではない雰囲気を浅黒い肌の下から放っていた。
そんな彼の背後に1人の男がいた。彼は短い赤髪ごと頭を地にぴたりと付け、微動だにせずに控え続けていた。実に彼は数時間に渡りその姿勢を貫いていた。そこにあったのは忠誠心などでは決してなく、むしろその逆である、極度の恐怖によるものだった。
そんな彼の姿をようやく男は一瞥し、静かに冷酷に告げた。
「で、どういうことだい? サンドラ」
男の冷ややかな声を受けて、サンドラの体は冷水を浴びた様にみるみる震え上がっていった。
「も、申し訳ありません! 旦那様、本当に申し訳……」
「それはもう聞いたよ。私は、どうしてこうなったかを聞いているんだ」
「そ、それは……実は私にも、どうして事態がこうなったのかさっぱりでして……」
カツッ、と乾いた足音が聞こえた。その音を鳴らす時は、彼が心から怒っている時。もしくは……対象に何の興味も持っていない時だった。サンドラは過去に何度もそれを見ていた。ガチガチと歯が鳴り、震えが止まらない。そんな彼に、男はそっと優しく肩に手を寄せた。
「どうした? 何故震えるんだい? 何も怖がる必要なんてないさ。私はお前のことをね、一番信頼できる男と信じているんだよ。さあ、全て話してごらん。その代わり……隠し事はなしだよ。お前の脳裏に焼き付いた全てを、あらゆる物事を端的に、甘い見通しなしで事実のみを話すんだ。いいね?」
「は、はい。実は……」
サンドラは未だ膝を震わせながらも、途切れがちにここ数ヶ月の出来事を話し始めた。シャーロットを捕捉したこと、金蛇屋が参入してきたこと、龍と奴隷が逃げて坑道が崩壊したこと、そのすべてを。
うんうんと頷きながら黙って聞いていた男は、やがて狂おしい笑みを顔中に浮かべ、顔を抑えてその場に蹲った。
「はは、ははは! 成る程ね。見事に型に嵌められたという訳だ。まあ“あいつ”を敵に回したらそれも当然のことだな。まったく厄介極まる男だよ。そう思わないかい、サンドラ?」
「は! で、ですが全て偶然のようにも思えるのですが……!!!!」
サンドラが気付いた時には、彼の肩にはぽっかりと巨大な穴が開いており、一瞬の間を置いて、えぐれ落ちた肉穴から血が滝のように注ぎ落ちた。絶え間なく襲う激痛に絶叫を上げるサンドラ。だが男は全くの無表情で、這いつくばる彼の傷口に狙いを定め、更に3発同じ場所に闇に包まれた何かを打ち込んだ。
「ぐわああああ!!」
「痛いかい、サンドラ? でもね……私の方がずっとずっと痛いんだ。この件での損失は、はっきり言って億でもきかない。お前の命を差し出したところで私の傷は癒えやしないよ。お前もそう思うだろう?」
「は……はい。申し訳ございま……ぐわあああ!!」
サンドラが何か言おうとする度に、容赦のない闇の弾が傷口を更に抉った。執拗に何度も何度も痛覚を捻じ切られ、既に彼の意識は恐怖と絶望に包み込まれていた。
「それはもう聞いた。もう言ったろう? 話を聞いていなかったのかい? そんなんだから彼の素敵な策に嵌ってしまうのだよ。もっと広く考えないければね。龍も、蛇の一派も、新坑道も、アガナ神教も、シャーロットですらも、全てはあの男の掌の上、震えが走るほど冷酷で怜悧な策さ。流石だよ。お前とは大違いだ。なあ、サンドラ?」
「どうか……どうかお許しください。命だけは……」
「おいおい、何か勘違いしていないかい? 私は無闇に命を奪ったりはしないよ。口を酸っぱくして言っているだろう? 命などはね……使い尽くすものさ。使えぬ命は特にね」
「ま、まさか! 奴隷に! それだけは、それだけはご勘弁を!」
男は全身からどくんと闇を吐き出すと、狂いきった笑顔をぴたりと貼り付けて、ゆっくりとサンドラとの距離を詰めていった。
「それも悪くないね。悪くはないが、もっと素敵な使い方がある。人には無限の可能性があるんだ。まあ悪くはしないから、大人しく待ちなさい。私はね、サンドラ。お前のことを心から信頼しているんだよ」
目を裏返らせて、歯をむいて顔中に撒き散らした、ぞっとするくらいの邪悪な笑み。今日最大の震え上り方を見せたサンドラを、男は決して逃さず、強く強く抱きしめた。
「だ、旦那様! 幽玄斎様! どうかご慈悲を! 自分は20年以上黒龍屋の為に……どうか……」
「はは、ははは! 世の中に私ほど慈悲深い男はいないよ。粗相をした部下を罰するどころか、挽回の可能性まで示してあげるんだから。ほら、大人しく力を抜きなさい」
幽玄斎を中心に、闇力が大地を揺るがさんばかりに膨れ上がった。サンドラの絶叫が木霊するが、外には微塵も漏れ出さない。部屋の中だけに広がる絶望と悲しみの声。その真っ只中で清々しいほどの邪悪な笑顔を見せる男。よく見ると、彼の下腹部ははち切れんばかりに膨張していた。渦巻く絶望と歓喜の中で、彼は目を蕩けさせながら、至福の表情で絶叫した。
「ああ、藤吉! 本当に楽しみだ! お前が、私が唯一愛した無二の存在であるお前が、まさかこんな近くまで来ているなんて! あの時と同じ表情を見せてくれるのかな? 絶望の反吐の中でのたうつお前がまた見れるのかな?! 私をまた殺しに来てくれるのかな? いっそ今すぐ会いに行ってみようかな? ……いや、だめだめ。何のために今まで我慢してきたと思ってるんだい? 落ち着け私よ。でも私は……私はもう………うううううっ!!!!」
「ぐわあああああああ!!!」
サンドラの断末魔に彩られた、彼の歓喜の宴はその後数時間にわたって続いた。悪魔的な饗宴の中、男は、黒龍屋幽玄斎は幾度となく恍惚を極め、その度に痙攣しながらどす黒い闇力を放出し続けた。
「ああ、待ちきれない! 早く藤吉に会いたい! お前のいる場所の察しはついているよ! なぜなら……私とお前は似た者同士だからね! 何を犠牲にしても本懐を遂げる、呆れた人でなし同士だからねえ! お前、ええと……名前は何だっけ? とにかくお前がまずお出迎えなさい。いいね? 万が一にも藤吉に無礼があったら……うっ、うっ、うううううううううっ!!!」
「は、は、は……ぐわああああ!!!」
闇の蠢く深い音がダールに響き渡った。藤兵衛たちの行く末にもまた、深い闇の霧が立ち込めていることを、彼らはまだ知らなかった。
神代歴1279年6月。
夜の闇に隠された狂気の宴が、運命の軋む音と共に遂に始まろうとしていた。
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