第37話「大いなる眠り」
そこは、何も無い空き地のはずだった。
粗末なあばら家が一軒だけ寂しく立ち、誰1人訪れることのない不毛の土地。旧道は封鎖され旅人は通らず、役割を無くした寂しい場所。少なくとも一月前まではそうだった。
しかし、現在はどうか。数十軒の掘立て小屋が立ち並び、何人もの人々が行き交っている。そんな旅人を相手にする商人も現れ、歓声と陽気が楼のように立ち上っていた。人々は口々に噂をし合い、新しい集落の誕生に歓喜していた。
「おい、聞いたか? この金蛇屋トンネル、なんでもダールまで一直線に進めるみたいだぜ」
「ほんと便利になったもんだわあ。しかも金蛇屋で買い物すれば、通行料は全くかからないって言うじゃない。今後はこれを使うしかないわね」
「そうだそうだ。黒龍屋のバカ高い料金なんて払えるかっての。村のみんなにも教えてやろうぜ」
口々に放たれる人々の話を耳に通しながら、サンドラは怒りで震える拳を強く地面に叩きつけた。
「なぜだ!? いつの間にこんなことを! こんな大工事……なぜ掴めなかった!」
「そ、それが……何一つ報告がありませんで。それに気配なんて全然しなかったものですから……」
「言い訳無用だ! お前ら帰ったら全員奴隷に格下げだ! ええい、旦那様はこの事を知っていらっしゃるのか?!」
苛立ち紛れに部下を蹴り飛ばすサンドラの元に、トンネルから1人の男が必死の形相で走り寄って来た。それは彼の部下の1人、かつてダールに遣わした筈の男だった。
「さ、サンドラ様! 大変でございます!」
「見ればわかる! なぜ呑気にあんなところを通って来たのだ!」
「ご報告はその件でございます! 実は……数日前より我が社の管理する新道で、土砂崩れと落石が頻発し……通行が不可になっております!」
「な、何だと! そんなバカな! 俺は何の報告も受けておらんぞ!」
「実は……大変言いにくい話ですが、既にかなりの数の社員が……金蛇屋に買収されている模様です」
「!!」
サンドラの背骨に、稲妻の如き衝撃が垂直に貫いた。まさか、そんな筈はない、そう何度も言い聞かせた。だが思い当たる節は幾らでもあった。狭い世界で王として過ごす為に、彼は横暴と強権を存分に振るってきたのだ。彼を殺したいと思う人間は十や百ではきかないだろう。それでも彼は、与えられた黒龍屋の旗を盾に、心酔する主の為に周囲など気にする事もなく駆け抜けて来たのだ。だが、今彼は呑まれつつあった。巨大な蛇の腹の中に、音も無い闇に包まれて。
「……常に敵は自身の中にあり、か。旦那様の教え通りだな。糞共の話はいい。ダールの動きは? 軍は動くのだろうな?」
「それが……現在首都との遣り取りはここを通る他なく、金蛇屋の厳しい検問により黒龍屋関係者は立往生。私だけは変装してなんとかここまで来れた次第で」
「そんな……都合のよいことがあってたまるか! 絶対に奴の策略だろうが!」
周囲を憚ることなく大声で叫ぶサンドラ。怒りのままに振るおうとする拳を、突如として背後から伸びた手が押さえ付けた。
「ゲッヒョッヒョ! いやあ、随分とご立腹のご様子ですなあ。どなたか存じ上げませぬが、少し頭を冷やしてはいかがか?」
「貴様は……金蛇屋藤兵衛!」
にやけきった嘲笑を浮かべて、悠然と立ちはだかる藤兵衛。完全なる丸腰かつ余裕極まる小憎たらしいその表情を見て、サンドラは更にいきり立って彼に殴りかからんとした。
「この! よくも……」
「おっとっと、危ない危ない。いけませんなあ、商人が暴力など振るっては。指でも怪我すれば金勘定も出来ませんぞ」
振り向けられた拳を難なく避けて、藤兵衛は更に甘ったるい声で囁いた。真っ赤に顔を染めるサンドラにキセルの煙を吹き付け、ただでさえ垂れている目尻をこれ以上ないくらいに下げ、彼は邪悪な笑い声で高らかに叫んだ。
「ケヒョーッヒョッヒョッヒョ! 実に愉快ですなあ。天下の黒龍屋様は、社員の教育も上々な御様子で。ちと金子の香りを匂わせただけで、全て洗い晒し吐いてくれましたぞ。『金のある者が正義』、御社の社訓でしたかの? いやはや、正にその通りのようで笑いが止まりませんわい」
「全て貴様の思う壺か! そうはさせんぞ。……おい、一旦退くぞ! 今に目に物見せてくれる!」
「はてさて、今度は顔が真っ青ですな。今日は大人しく帰って、母親の乳でもしゃぶっておれば如何か? きっとよき知恵が浮かびますぞ。赤子並みの知恵しか持たぬ、自殺ものの無能を晒し続ける貴様ならのう。ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!」
藤兵衛の高笑いが響く中、憤死せんばかりに地面を踏みしめて帰るサンドラと、慌ててそれに続く部下達。藤兵衛は不快感に満ちたダミ声で絶叫しながら、悠然とキセルをふかしていた。そこにゆっくりと近づいたのは、眉を顰めて腕組みをするレイだった。
「おい、あんなに煽って平気なんか? ブチキレてムチャされても困っちまうぜ」
「間違いなくするじゃろうの。それが狙いじゃて。心配せんでも次の手は打ってあるわい」
「へいへい、と。まあてめえのこった。ぬかりはねえんだろうがよ」
呆れたように、だが何処か嬉しそうにレイはその場に座り込んだ。藤兵衛もどかりと隣に座ると、目を細めて人々の流れを見渡した。家一軒しかない荒野が、たったの一月で間違える程の街道に早変わりしていた。見る人が見れば奇跡のようだったが、この男にすれば全ては必然であった。レイは彼と同じ方向を見つめながら呟いた。
「しっかしよ……すげえ規模になっちまったな。もうこりゃ1つの街だぜ。最初からこれを狙ってたのか?」
「まあの。元々の不自然な話を、力付くで正常に戻しただけじゃがな。元々ダールへは旧道が最短距離。そこに沿って作った金蛇屋トンネルの利便性は、歴史のお墨付きじゃわい。馬鹿高い通行料など、誰も払いたくないじゃろうしの。故に、こちらに流れるは自然の道理。しかも今だけ、金蛇屋全店共通割引券まで付けてやってるのじゃ。この程度の混雑は予想内じゃて」
「そりゃそうだけどよ、言っちゃわりいがこんなの長く続かねえぞ。敵が本腰入れたら一網打尽じゃねえか? なによりよ、ダールへの出口は敵が待ち伏せしてるだろうぜ」
「ほう。珍しくまともな事を言うではないか。何か拾い食いしたのかの? 全て貴様の言う通りじゃよ。こいつは只の金儲けじゃからな」
彼の言葉を上手く飲み込めず一瞬の間を置いてから、一転して烈火の如く怒鳴り倒すレイ。
「てめえなにぬかしてやがる! なんのためにこんな苦労したと思ってんだ! 毎日毎日穴ほりさせられ、挙げ句の果てにお嬢様までこき使いやがって! ちったあ恥を知りやがれ!」
「グェポ!! ……おい、声がでかいわ! これだから阿呆は嫌いなのじゃ。最後までよく聞けい。金儲けなどは、帰結に至る中点に過ぎぬ。無論、本命は別にあるわ。楽しみに待ってるがよい」
「おい! ちょっと待て! 最後まで……」
そう言って立ち上がりその場を後にする藤兵衛。レイが慌ててその後を追いかけようとした、丁度その時だった。
「熊美! ここにおっただか。そんなことで油売ってねで、お客様にお茶でも出さんか。ったく……こんな時に藤吉は何やってんだか」
千里がふらふらと崖を上がって来くるのが見えた。レイは慌てて駆け寄ると、彼女を身体ごとしっかりと支え込んだ。
「おい! こんなこと来たら危ねえぞ! いいから下がってろ」
「っだらこたさ言って! 危ねえのはオメの方だべ。大丈夫だ、藤吉も藤三も熊美もみんなオラが助けてやっかんな。……あ! お客様もおったんですか。こりゃ失礼しましたべ」
レイの手を振り払うと、はにかみながらちょこんと姿勢を正す千里。それを見て力なく笑う藤兵衛と、複雑な視線を向けるレイ。
「おい、今日はとにかく帰るぞ。体調だってよくねえんだろ」
「なんだ、こんなもん。オラまだまだ……」
次の瞬間、千里は不意に姿勢を崩し、足元を狂わせて崖から落ちそうになった。そこに反射的に手を伸ばし支えたのは、藤兵衛だった。彼は両の腕で彼女をしっかりと抱え込み、怒鳴るように声をかけた。
「おい姉ちゃ! 平気か? しっかりせい!」
「……」
返事はない。目の焦点が合わず、意識が朦朧としているようだった。レイはすぐさま駆け寄って脈を見ると、目を伏せて小さく首を振った。
「……急を要すぞ。俺はバアさんを連れて先に帰る。てめえも必ずこい。……必ずだ」
そう言い残し、千里を抱えて風のように走り去るレイ。藤兵衛は震える手でキセルを取り出すと、煙を吐き出しながら小さく一声呟いた。
「そう……じゃの」
数日後。鉱山、サンドラの部屋。
彼は目に見えて焦っていた。現状の危機もさることながら、事態を知った黒龍屋幽玄斎が何を思い、何を言いだすか。彼には大体想像がついた。なぜならそれは、自分が今までやってきたことだからだ。彼は一人考える。追い込まれながらも必死に知恵を絞り出す。
(現在、あのトンネルを通らねばダールとの行き来はできない。とにかく迅速に新道を復旧させねば! 奴隷どもを不眠不休で作業に当たらせているが、早ければ早いに越したことはない。同時にこちらからも攻撃だ。あのトカゲをけしかけて全員焼き払ってやる!)
サンドラは迅速に思考をまとめ、作戦へと昇華させた。彼とてダールの奴隷階級から、才覚だけでのし上がってきた男。既にやるべきことは見えている。彼が勢いよく立ち上がり、誰かを呼び付けて指示を出さんとしたその時、部屋に部下が慌てて飛び入って来た。
「火急の報告です! 新道は明日にでも復旧するとのこと!」
「そうか。随分とかかったな。やはり無能なクズどもに任せるべきではなかったか」
「は。実際は大した土砂ではなかった様子で。ただ……奴隷共の過半数以上が脱走しましたが」
「そんなことはどうでもよい! 幾らでも代わりはいる。どうせ端金で黒龍屋を裏切ったクズどもだ。これで奴らの計画も仕舞いだな」
「更に朗報があります。事態を重く見た旦那様の要請により、首都からガンジ様がこちらへ向かっているとのこと。彼の速度なら、明日には到達する見込みです」
「あのガンジが!? ヒャッハッハ! 流石は旦那様。これは傑作だ。あんな化け物が来れば金蛇屋なぞ屁でもないわ」
「もう一つ重大な報告が。ゲンブ国の神聖アガナ公国の大司教が、明日にでもこちらに到着するらしく、我ら黒龍屋に首都ダールまでの案内を依頼したいとのことです」
「ほう、例のはぐれ物どもか。我らは北の拠点が少ない。これは極めて重大な好機だ。大至急兵を迎えによこせ! たった1日の間だ。坑道の警備など最低限で構わん! 大司教と新道の様子、そして金蛇屋の動きのみに注視せよ! 俺も準備が出来次第すぐに向かう」
「は! かしこまりました」
「それと……連中の作ったトンネルに工作員を送っている。今頃内部は爆破されている事だろう。受けた恨みは万倍に……旦那様の教えだ。何か動きあらばすぐに俺に伝えろ!」
「ははあ! 赤龍屋サンドラ様!」
部下が慌ただしく動き出すのを見て、一人ほくそ笑むサンドラ。死中に活ありとは正にこのこと。かの金蛇屋藤兵衛を退けた上に、外交案件まで達成したとあれば、今より更に上の要職を当てがわれるのは間違いない。彼は不自然なほど都合よく動き出す事態に身震いした。坑道内の空気がまるで変わっていることにも気付かずに、彼はただ1人笑った。驚くほど真っ赤に染まる月が、彼の背を透かすように照らし出していた。
次の日。
揃いの白銀のローブを羽織った50名ばかりの一団が、彼の地をゆっくりと厳かに行進していた。彼らは一様に口をつぐみ、中央の籠を注意深く見張っていた。彼らは揃って怪しげな文言を口ずさみ、四方で焚いた香が立ち籠り、場には神秘的な雰囲気が醸し出されていた。
新道に差し掛かる手前でその集団を出迎えたのは、赤龍屋サンドラ率いる黒龍屋の一団だった。彼は酷薄な顔を崩れんばかりににこやかに取り繕い、腰を落とし低い背を更に縮め、もみ手をしながらささっと駆け寄った。
「いやはや、よくぞお越しくださいました。昨日の晩の我らの接待、いかがだったでしょうか?」
彼は万全を尽くしていた。人、金、料理に女に、彼らが必要であろうものを全て与えていた。信徒の末端たる取り巻き連中は声を上げて喜んだが、敬虔なる中枢部の人間は呆れたように目を背け、特に籠におわす大司教は彼に顔を見せることもしなかった。サンドラはそのことに歯噛みしながらも、どうにかして一目拝見しようと、今日も分かりやすい態度で擦り寄っていった。
「……ご苦労である。今、大司教様はお疲れであるので、またの機会に致せ」
「確かにそうでございます。仰る通りで。ただ、私めは一信徒として大司教様のお目にかかりたいのみで。ええ、野心なぞひとかけらもありませんとも!」
「くどい! 下がらんか!」
堪らず信徒が一喝したが、サンドラは異様な粘りでごね続け、一切引く気配を見せなかった。ここまで来て手ぶらで帰るわけにもいかない。何としてもアガナ上層部との接点を作らねば。そんな固い思いを胸に食い下がる彼に、籠から静かに老いた手が伸びた。
「ほほほ。まあ話くらいはよいではありませんか。どれ、籠を止めてください」
突如として場に静かで優しい声が響いた。取り巻きは戸惑いながらも素直にそれに従い、黙ってその場に籠を下ろした。そこから顔を出したのは、純白の僧衣を身に纏った肥満体の老人だった。柔和で和かに、それでいて油断ならぬ光を目に灯し、彼は口元を緩ませてサンドラに恭しく礼をした。
「初めまして。私は神聖アガナ公国で大司教を務める、フレドリックと申す者です。今後ともよしなに」
恰幅のいい白髪の老人は、頬の肉を緩ませてのびやかに籠から降り立つと、サンドラの頭の上で優しく手を翳した。彼は芝居がかった動きでその場に跪き、涙を流しながら叫んだ。
「おお! なんという光栄でありましょう! この赤龍屋サンドラ、一商人の身にこんな素晴らしい機会を与えて下さり、殿下の広き心に御礼申し上げます!」
「ほほ。大げさなことで。ともかく、話はダールに着いてからですな。無事に到達できてから、初めてご用件を伺いましょう。それでよろしいですか?」
「は、はい! もちろんでございます。それでは先導いたしますので、後に続いて下さいませ」
そう言って勢いよく小走りに進むサンドラ。その後をゆっくりと続く一団。まるで華やかな大名行列に、行き交う人々は目を見張った。サンドラは誇らしげに先導し、何かと籠の中のフレドリックに話しかけながら、一路ダールへと街道を進んでいった。
「どけクズども! 今日はここは貸切だ! 貧乏人は前に進むことなど許されぬぞ!」
新道の入り口付近に溜まる旅人たちを汚らしい言葉で押しのけながら、彼は部下に目で合図した。そんな彼の耳元に近寄り、逐一報告する部下の姿があった。
「委細完了です。土砂も岩も全ての撤去を確認しました。兵らしき姿も皆無かと」
「よろしい。して、ダール方面の様子は?」
「傭兵団が中腹と出口に待機しております。ガンジ様の姿は見えませんが、近辺には確実におられます。最早邪魔をする隙間はないかと」
「ふむ。肝心の金蛇屋の様子はどうだ?」
「連中は崩壊したトンネルの整備に注力しており、身動きが取れてない模様です。しばらく邪魔は入らないかと」
「はは、ははははは! 全てはこちらの思惑通りか! 金蛇屋藤兵衛など恐るるに足りんな!」
満足そうに頷くサンドラの手にも自然と力が入る。警護する兵の間を悠然と抜け、整備された街道を進む一行。そんな中、籠から顔を出したフレドリックが穏やかにサンドラに話しかけた。
「ふうむ。実によい道ですなあ。小耳に挟んだ噂では、最近何やらトラブルが多いということで、正直不安だったのですが」
「まさか! そんな話聞いたこともありませんな。大方、金蛇屋とかいう連中が流したデマでしょう」
「ほう。金蛇屋……ですか。噂だけは聞いたことがあります。碌でもない守銭奴の率いる、屑どもの集まりだとか。東大陸の中央で踏ん反り返るだけならまだしも、最近では我が国にも出入りしているようですが……これでは付き合いを考えねばなりませんね」
「いや、あくまでも噂ですがね。あそこの主人は金に物を言わせて、不老不死だの魔術だのに入れ込んでいるとか。上がそれでは先が思いやられますな。同じ商人として嘆かわしいものです」
「ほほほ。まさか不老だの不死だの、そんな子どもじみた御伽噺を信じるとは、噂とは程遠いどうしようもない阿呆ですな。一度顔を見てみたいものです」
「ケッヘッヘ! まったくです。さ、そろそろ中腹ですな。道が険しいので気をつけて……!!」
それは、突然の出来事だった。巨大な岩石、五メートル四方はあろうかという岩が、いきなり上空から落下して来たのだ。声を上げる暇もなく、それは一団の中央に位置する籠の上に、狙いすましたかのように命中した。ぐにゃりと嫌な音を立てて跡形もなくひしゃげる籠、流れ出る血液、動かぬフレドリック。あまりの出来事に腰を抜かすサンドラ。
その様子を遠方の崖の上から見ていた金蛇屋藤兵衛は、悠然とキセルをふかしながら満足そうに高笑いを浮かべていた。周囲の闇力の残り香がふっと掻き消えると共に、即座に彼は指輪に向かって声を放った。
「儂じゃ、亜門よ。万事首尾通り進んでおるぞ。綺麗に命中したわい」
「流石は殿にござる。それにしても……あの下衆を使うと聞いた時は正直怒りすら覚えましたが、まさかこのように利用するとは。正に感服の至りにござる」
「どうせ奴は簡単には死なぬ。アガナの慈悲とは誠に素晴らしきものじゃのう。なに、冥土での奴の罪を軽くしてやろうという、儂なりの優しき心遣いじゃて。むしろ感謝して欲しいくらいじゃわい」
「はっはっは。殿なら三途の川とて余裕で泳ぎ切りましょうて。……こちらは万端にごさる。すぐに向かう所存にて」
「うむ。此処からが本番じゃぞ。お主らの働きにかかっておる。信じておるぞ、亜門や」
「……御意!」
斯くして主従の通信は切れ、静寂が辺りに戻った。藤兵衛は一人呼吸を整え、次なる策が整うのを待つ。細い目を更に鋭く穿ち、彼はただその場に時が満ちるのを待つ。太陽が微笑むように優しくその背を映し出していた。
新道中腹。赤龍屋サンドラとアガナ神教の一行では、凄まじいどよめきと喧騒に包まれていた。彼らは完全に押し潰された籠に向けて駆け寄り、中にいるはずの人物に向けて涙ながらに悲痛な声をかけ続けていた。
「フレドリック様! ご無事ですか?」
「ああ、こんなに血が……。いくら大司教様でもこれでは……」
「おい貴様! どういうことだ! 間違いなく安全だと言ったのは貴様らだろうが!!」
「こ、これは……その……」
信徒たちに凄まじい気迫で詰め寄られ、目は泳ぎ何も言い返せないサンドラ。そこに黒龍屋の警護の兵が割って入ろうとし、場はもみくちゃの大騒動になった。明らかな混乱、だがさらなる混迷が押し寄せた!
ドン!!
再び凄まじい轟音が鳴った。鉱山の方角から放たれた音は雷鳴のように人々を穿ち、それと同時に旋風が押し寄せた。それは力を込めた、強力な風だった。圧倒的な力の渦、風、殺意。暴威の気と上空から共に現れたのは、あろう事か巨大な蒼き龍だった。
「な、な、な! なぜお前がここに!」
サンドラの言葉に、龍は心から愉しそうに口元を歪めると、天を舞いながら恭しい口調で告げた。
《……サンドラ様。ご命令通り、そこの人間は殺しました。次はそこの取り巻きですか?》
「……は、はあああああ?! き、貴様何を言っている! み、皆様誤解です! こんなことを私は……」
動転する彼の言葉には、周囲の信徒たちを鎮める力は微塵も込められていなかった。彼らは事態を理解した者から順に、悲鳴を上げて散り散りに逃げ出し始めた。
「正気か! 黒龍屋が我等を殺そうとするとは! すぐに本国へ報告せねば!」
「お、お待ちください! これは罠で……」
「罠を仕掛けたのはお前だろう! フレドリック様お許しください! おい、皆逃げろ!」
「絶対に許さんぞ、黒龍屋! 神教を敵に回したこと、一生後悔するがいい!」
瞬く間にアガナ神教の一行は、元来た道へと逃げ帰っていった。あまりの事態にサンドラを始め、警護の兵士は遠巻きにそれを眺めるのみ。その様子を上空から愉快そうに眺める蒼龍インギア。
「き、貴様! 自分が何をしたか分かっているのか!」
《実に愉快だな。だが全ては自業自得だ。この私を奴隷の如く扱った罪、この場で払ってもらうぞ》
「や、や、や、止めてくれ! 頼む! 金なら幾らでも……」
《もう遅い! 『ファイアーストーム』!!》
全身から憤怒の気を滾らせて、インギアは僅かに開いた口腔内から、青白く輝く炎を巻き起こした。術式と比較すると圧倒的に早い構成速度にも関わらず、その熱は既に彼の身を焼き尽くす程の威力を秘めていた。サンドラは尻餅をついて必死に逃げようと後ずさるも、背後には岩壁。もう逃げ場はない、彼がそう悟り目を閉じたその時!
「……やれやれ。こんなことだろうと思っとったわあ」
強大な熱線がサンドラを焼き払うその瞬間、何処からか1つの影が飛び出して彼を抱え込んだ。焼き尽くされる他の兵士達には目もくれず、影は目にも止まらぬ速度で風を纏い炎を容易く回避すると、面倒そうにサンドラを投げ捨ててその姿を現した。
《暴力的な闇の気配が鼻についてはいたが、よりによってお前か……ガンジ!》
「久しいの。“赤いの”は元気か? しっかし……バラムはどこをほっつき歩いとんじゃあ」
初老の男が立っていた。年齢にそぐわぬ、全身に漲る筋肉と闘気の迸り。明らかに只者ではない。彼は警戒を緩めることなく、自信に満ちた口調で静かに告げた。
「しかしどうしたものかの。おどれは解放され、状況はえらいことになっちょる。ここは一旦退くのも手かいのう」
《……見え透いたことを!》
瞬時に、両者の距離が縮まった。ガンジは風を纏いつつ空を駆け上がっていた。彼は空気の壁を蹴り進み、凶悪な闘気を拳に込め、振り下ろされるインギアの爪を容易く掻い潜って懐に入った。
「無駄じゃ。あの時と同じよ。おどれじゃワシには勝てん。黙って捉えられとけえ! 『紫電』!!」
《ぐっ!!》
閃光が一直線にインギアの身体に突き刺さり、爆発音と共に龍の分厚い鱗を貫いた。血反吐を吐き地に落ちていくインギア。彼の無双の拳には、古の種族たる龍といえども、容易く葬り去る程の力が秘められていた。地に突き刺さり身動きが取れぬ彼女を見て、ガンジは不快そうに唾を吐くと、もう一度拳に闘気を込めた。
「龍に恨みなぞないが、こリゃあワシの仕事じゃ。ちと意識だけ奪うけえの。悪く思わんでつかあさいや。『紫電』!!」
《……おい。早く出ろ。このままだと死ぬ》
再び閃光が瞬くのを見て、ぽつりとインギアは呟いた。その目には怪しき光が込められており、それに呼応するかのように彼女の影が不定形に蠢いた。視界の隅に映るその光景を認識した瞬間、ガンジは空気を蹴り別方向へと回避した。その瞬間、彼の身体に降り注がれる死神の刃!
「殺ったでござる! 高堂流『天龍地尾』!!」
「くっ! 何じゃあわりゃあ!」
音も無くウペンドの影から湧き出たのは、秋津国の侍高堂亜門。彼の刃はガンジの首筋を完璧に捉えていたが、彼は咄嗟の判断で変形する程に身体を折り畳み、体表を掠めただけに留まった。ガンジは左手で首筋の血を拭いつつ、拳を鳴らして心底嬉しそうに亜門の方を向いた。
「ええ刃じゃあ。危うくぶつ切りになるところじゃったのお。おどれ……中々強いな?」
「己の名は高堂亜門。秋津国の侍にござる。ガンジ殿とやら……退く気はないと考えて宜しいか?」
「ダッハッハ! 論ずるに及ばずじゃあ。じゃがの、おどれ程度でワシに勝てると思うたあ……ちいと甘すぎやせんか?」
2人の中間地点で、刃と拳が凄まじい速度で交差した。龍力と闇力の激しいぶつかり合いが起き、正面から交差した一撃で両者は互いに弾け飛んでいった。だが、強者たちの攻防はそれでは終わらない。彼らは一瞬で再び距離を詰め、互いに零距離で叩き合い、目にも止まらぬほどの戦いが繰り広げられていった。
(ぐっ! この男……本当に強いでござる!)
そう、現状で押されているのは亜門の方だった。最初こそ互角に見えた両者だったが、徐々にガンジは的確に動きを読み、打ち込む刃は次第にいなされていった。そして撃ち終わりの隙を付いて、凶悪な拳が彼の体を確実に捉え始めていた。
「亜門とやら、人にしてはまずまずじゃのお。しかし……この程度ではワシには勝てんわあ。ここらで終わりにしとこうかい。『蓮花』!!」
(こ、この技はレイ殿の! ……まずい、殺られる! ならば……『龍絶天覇』!!)
亜門の刀を掻い潜り、超至近距離から放たれる神速の三連撃。人の反射神経を遥かに超える光の瞬きは、亜門の人中を完璧に捉え、即座に絶命させる威を秘めていた。だがその刹那、彼の中で発動する龍の力。腰の龍刀から湧き出る力が彼の身体を包み込み、全身から鱗の如き龍の姿を発現することで、殺戮の連撃を僅かにずらして辛うじて耐える事が出来た。
(ぐむっ! 龍体でもこの威力……まともに食らったら即死でござる!)
「ほう。龍力を纏う人間とは懐かしいがのお、全ては終わったが故の御伽噺じゃい。ここで断ち切るが吉よ!」
もんどり打って倒れ込む亜門に対し、ガンジはにやりと微笑むと、一呼吸置いて闘気を溜めてから追撃に移った。だがそこに極めて正確に打ち込まれる数発の銃弾。遠距離から撃ち込まれた強烈な紫の螺旋をちらりと一瞥し、彼は余裕の表情で全てをひらりと避け切った。
「今の内に退けい、亜門よ! この化物は儂が食い止めるわ!」
「何じゃあ、何処ぞに小バエがおるの。やれやれ、とりあえず全て潰しとくかのお」
軽く快活な笑みに似つかわしくない、ぞくりと凍るような威圧感。しかしそれは歴戦の戦士の自らへの戒め。周囲の気配を見極め、雪崩のように撃ち込まれる銃撃を紙一重で避けながら、ガンジは手元に闘気を溜めて渾身の一撃を放った。
「ワシを舐めるなよ! 『滅閃』!!」
「こ、これは虫の! ……グェポ!!」
巨大な拳が波動のように、岩陰から攻撃する藤兵衛に向けて飛んでいった。山も岩も巻き込んで、見るも無残に内臓を吹き飛ばした藤兵衛。だがその時、手応えを感じ微笑むガンジの頭上から、凄まじい数の岩石と土砂が襲い掛かった。
「……む! こ、こんなあ『メタースタシス』か!? ふざけおって! 『百鬼』!!」
突然の出来事に驚嘆を示すも、一切怯む事なくガンジは上方に目をやり、唸りを上げる拳で岩を粉砕していった。その連打は暴風のように全ての障害を消し去り、みるみるうちに粉塵と化していった。
最早この場に彼に相対する者はいなかった。圧倒的な力を持つこの男を止める事は出来ない。誰もがそう思う中、1人藤兵衛は笑った。敵の攻撃で惨めに粉砕され、血反吐を撒き散らし地を這いながら、全く動じる事なく下卑た笑いを浮かべて。
「何じゃあ。頭でもおかしくなったんかあ? おどれは殺さんようと言われちょるが、もうちっと大人しくさせる必要はあるかもしれんのお」
「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ!! 言うは易し、行うは難しよ。そこまで言うならやってみるがよい。まあ貴様に出来れば、の話じゃがのう」
「……何を言っちょるか分からんわ。これだから人間は……!? こ、こりゃあ……」
その瞬間に彼は全身に走る違和感を感じ、即座に全てを悟った。拳に纏わり付く数枚の紙切れ、そこから放たれる光の力の存在を。土砂の隙間に無数に編み込まれた符が彼の力を封じ、腕の自由を奪っていたのだ。
「さすがね。こんな早く気付くなんて。もうちょっとで全身を捉えられたんだけど」
「ほう、闇力を封ずるか。邪眼の影からの一撃にしては、ちいとばかり重いのお」
龍の影に隠れて術を行使するリースを一瞥し、何故か嬉しそうにカラカラと笑うガンジ。余裕すら感じられるその態度に、彼女は本能的な恐怖感を抑え切れなかった。
「強がりは止めることね。もうあんたはまともに闘えないわ。さっさと降伏なさい」
「ダッハッハ! そりゃ無理じゃあ。ワシは死んでも戦わねばならん。だがまあ……今日はその時じゃなさそうじゃのお」
「? 何を言っているの? あたしたちはあんたを……」
「おい、娘。顔は見えんが、察するに北の僧兵じゃろ。1つだけ忠告しちょいちゃる。ダールには来てはならん。来れば必ず悲劇的な未来が待っちょるけえ。シャーロットと……ここにおらんもう1人にもよう言っておけ。それじゃあの」
ガンジは最後に朗らかに笑うと、足をくんと一瞬だけ振り抜いてから、登場した時と同様に風のように消えていった。ほっと胸を撫で下ろし影から姿を現したリースの背後で、凄まじい轟音と共に岩山が真っ二つに裂けた。降り注ぐ瓦礫に腰を抜かしそうになる彼女を、身を挺してインギアが優しく包み込み防御した。
《ぐっ! ……大丈夫かリース? 怪我はないか?》
「ええ。なんとかね。……ありがと。死ぬかと思ったわ。ほんとにとんでもない男ね。レイ抜きじゃ絶対に太刀打ちできないわ」
《そうだな。あの男だけではなく、ミカエルの一味は本当に危険な集団だ。……リースよ。アガナ神教への感情はさておき、私はお前個人には心から感謝している。その上で、一言だけいいか?》
「お好きに。聞く聞かないはべつだけどね」
《勿論。……もしお前の進むべき方向が、シャーロット様と本質的に異なるのならば、ここで降りたほうがいい。私の魔眼にはこの先の道に、危険と困難しか映らない》
「……」
その言葉を耳に受けて、リースはじっと指を噛んで考え込んでいた。彼女が何を思いその意識を何処へ向けるのか、何も分からぬままにインギアは静かに見守り続けていた。だがその時、ドタバタと彼女の元へ駆け寄る男の姿があった。
「リ、リース殿! 大丈夫でござるか?! 己が弱いばかりに危険に晒してしまい、誠に申し訳ござりませぬ!」
現れるや否や勢いよく土下座して、亜門はリースに心からの謝罪を繰り返した。彼女はそれを見てぽかんと口を開き呆然と見つめるも、少ししてから本当に愉快そうに笑った。
「ったく……ほんとよ。あたしが死んだらどうするつもり? 責任とれるの?」
「そ、それは……誠になんと申してよいか……そ、そうでござる! 一先ず腹を切ってお詫びして……」
「バカ! そんなこと言ってるヒマあったらさっさと動いてよ。ほら、あのタヌキが死にかけてるから一緒に行くわよ」
「は……ははあ! た、ただいま!」
その様子を見て微かに微笑むインギア。季節は春、天気は快晴。谷合に静かに時が流れ、混沌吹き荒れる世界に暫しの凪が訪れていた。
その夜。
千里の家の前で深刻な顔をする一同。中にいるのはシャーロットとレイの2人のみで、他の者は外で待機していた。落ち着きなくうろつく亜門、静かにうなだれるリース、そして不気味なほど静かな藤兵衛。
「……」
「……」
誰も声を上げなかった。皆分かっていた。ここでじっとしている時間などないことを。すぐにでも出なければいけないことを。だが……動けない。動くことが、出来ない。すぐそこの家にいる一人の老婆、彼女の命の灯火が消えつつあることを、ここにいる誰もが知っているからだ。長い時間、実際にすればそこまでではなかったが、途方もなく長く感じられる時間の流れの後、突如として藤兵衛がキセルに火を付けて、決意を込めて言い放った。
「よし、そろそろ時間じゃな。……行かねばの」
そんな彼の顔を戸惑うように見つめてから、亜門は目を伏せて臓腑から絞り出す様な小さな声を上げた。
「……殿。己は……」
「何も言わんでよい。昼の一件でも分かったじゃろう? 敵は儂らの想像を超えて強大じゃ。時は金也、よう言ったものよ。今は一刻たりとも惜しい。こんなところで道草を食う暇はないはずじゃ。皆も理解しておろうて」
「……殿。本当にそれで……いいのでござるか?」
「勿論じゃて。たかが老人が1人死ぬだの生きるなど、騒いだところで一銭にもなりはせん。さ、出立の準備じゃ。シャルと虫にも伝えてくれい」
何か言いたそうに立ち尽くす亜門を尻目に、藤兵衛は足早にその場を後にしようとした。だが、その袖を掴んだのは、他でもないリースだった。
「……ねえ。あんたさ……ダメだよ。今はここにいなよ」
口調は静かながらも、明確な意思のこもった声。藤兵衛はやや面食らいながらも、一目で無理矢理と分かる笑顔を作って答えた。
「ホッホッホ。異な事を申すの。考えてもみよ。これは儂だけの問題ではないのじゃ。お主ら全てに迷惑がかかるのじゃぞ。特に貴様には何の関係も……」
「そういうのいいからさ……とにかく残んなって。あたしのことはいいわ。それに、シャルちゃんもレイも同じこと言うと思うよ。もしここで見捨てたら……あんた一生後悔するよ。今までもずっと後悔してきたんでしょ?」
「!!」
「殿、リース殿の仰ったこと、全て己も同感にござる。ここは一つ、本音で語ってはくれませぬか? 己らは仲間でありましょう?」
「………」
「何も心配など要りませぬ。己にかかれば敵なぞ蚊トンボ同然でありますゆえ。後顧の憂いは己にお任せ下され」
そう言って快活に笑う亜門を横目で見て、暫し黙りこくっていた藤兵衛は、遂に我慢できずに大きく吹き出した。
「ガッハッハ! よう言うわ! あんな爺にボコボコにされておいてからに! あれで儂の計画は完全に狂いかけたわ!」
「はっはっは。それはお互い様でござりましょう? 殿もなかなかのやられっぷりでしたな。大いに内臓が見えておりましたぞ。腹黒な殿にしては随分と綺麗なモツでござったな」
「グワッハッハッハ! やかましいわ! あれも全て策の内よ。次こそは勝てるのじゃろうな、亜門や? 虫が使えん今、戦闘は全てお主の腕にかかっておるのじゃぞ」
「己は負けませぬ。何故なら死んでおりませぬからな。『どんな手を使っても、どんなに地べたを這いつくばったとしても、最後に立っていた者が勝ちじゃ』。秋津の格言にござる」
「嘘を付けい! 儂の言葉じゃろうが! ……まあよい。今日のところはお主らに乗せられてやるとするか。亜門、リース。あの龍のところで待つがよい。ちと野暮用を済ましてくるわ」
そう言って振り向きもせずに、藤兵衛はつかつかと小屋の中に入っていった。亜門はそれを笑顔で見送り、リースは呆れた表情でその場に座り込んだ。
「ほんっと、なんで素直に言えないのかしら。つくづくひねた男ね」
「はっはっは。まさかリース殿の口からそんな言葉が出るとは驚きですな」
「ははは。そりゃそうね。あたしが言えたこっちゃないわ。どうかしてるみたい。疲れてるのかしら」
「でも、己はそんなリース殿が好きでござるよ」
「……! バ、バカ! いきなりなに言ってんのよ!」
「痛っ! なぜ殴るのでござる?! 己は本当のことを言っただけで……」
「知らない! もう!」
顔を赤らめるリースを、心底不思議そうに眺める亜門。静かなる風が彼らを包みこみ、夜がゆっくりと更けていった。
室内。部屋の中央に眠る千里。その顔は安らかな笑みすら浮かんでいた。その隣にはシャーロットが座り込み、何かの術を構築し続けていた。レイは腕組みをして壁に寄りかかって立ち、藤兵衛が入ってくるのを見ると小さく舌打ちをして、彼女に歩み寄り肩に軽く手を乗せた。
「お嬢様……やっと来ましたぜ」
「……ええ。では行きましょう」
2人は藤兵衛にそれぞれ目で何かを告げると、そのまま玄関から外に歩き出した。彼の方も決して何も言わず、目だけで全てを伝えた。
藤兵衛は安らかに寝息を立てる千里の傍に座り込み、その顔をまじまじと眺めた。老いて皺くちゃなその顔の中には、かつて何度も夢に見た姉の昔の面影が感じられた。
「……静かじゃな」
声が響く。外の虫の声だけがそれに答える。
「なに、苦しいのは一瞬だけらしいぞ。皆いずれは帰るところ故、何も心配などする必要はないわ」
暖かな寝息が溢れ、触れた彼の手にかかる。
「随分と気持ちよさそうじゃな。シャルの術の効果かの? 彼奴は……本当に儂なぞに良くしてくれるわ。こんなどうしようもない儂にの。本当に……感謝せねばならんな」
静かな夜。何もかもが消え去るような、素晴らしく澄んだ風の吹く夜。藤兵衛は千里の顔をもう一度凝視すると、穏やかに微笑んで傍のとうもろこしを両手に持ち、軽く角のように掲げてからすぐに放り投げて、失笑気味に口の端を曲げながらゆっくりと腰を上げた。
「やはり……儂は行かねばならぬ。さらばじゃ。彼奴らは儂がおらねば何も出来ん烏合の衆での。まったく……馬鹿揃いで困ったもんじゃわい」
「……馬鹿はオメだ。藤吉」
突然響く小さな声。仰天して腰を抜かす藤兵衛を見て、千里は細い目を微かに開いて穏やかに笑った。
「ね、ね、ね、姉ちゃ?! なして?! お……儂のことが分かるのか?」
「あたりめだ。オメみてな手のかかるバカのこと、死んだって忘れるわけあんめ」
「……姉ちゃ。すまん……遅れた。儂は……何の力にもなれんかった」
目を伏せて小さな声を吐き出す藤兵衛、そんな彼の手を優しく包み、困ったように頭を掻きながら、ニッと歯を見せる千里。
「オメは相変わらずだな。なーんも気にするこたねえだ。オラはオラで幸せにやっでだかんな」
「……嘘じゃ。姉ちゃは相変わらず嘘がヘタクソじゃの」
「はは。そういうこったらオメにゃ勝てねえな。……本当はオラ知ってただ。オメが商人として大成したこったも、オラをずっと探しててくれたこったも。でも……オラ怖かったんだ。汚れちまったオラを見せんのが怖えかった。オメの迷惑になんのが心底怖かったんだ」
「そんな訳がなかろう! 絶対に有りえぬわ! 儂が気にするはずなかろうて! 誰に何を言われようとも、例え姉ちゃに何があっても、儂らは姉弟じゃ! ……家族なのじゃ!」
「オメは誰よりも優しい子だ。そう言ってくれるのは分かっでた。だからこそ……言えねがっだ」
「………」
「……ところできょうだいたちはどうした? 藤三と熊美は元気でやっとんのか?」
「……ああ、勿論じゃて。藤三はセイリュウ国で料理人をやっとるわ。あいつの店は近辺でも評判での、姉ちゃ仕込みの料理はそりゃ涎が溢れるほどじゃわい。今では家族と一緒に……平和に暮らしとるわ」
「そうか! そりゃなによりだ! あれは本当に料理だけはうまかったかんな。本当に嬉しいべ。で、熊美は?」
「……ありゃ嫁に行ったわ。オウリュウ国のいいとこの坊主での。家族に囲まれて……幸せそうにやっとるわい」
「ほうか! 小せえときしか知らねえからあれだども、熊美は器量好しだかんな。男がほっとくわけねえべ。で、オメはどうなんだ? 家族はいんのか?」
「前はおったがの、嫁にも子にも逃げられたわ。今は独り身を楽しんでおるわい」
「オメは性格曲がってっかんなあ。ほんとどうしようもねえ男だべ。次こそは気をつけるんだど」
「む? “次”とはどういう意味じゃ?」
「決まってんべ。あのめんこい娘んこった。あの娘はほんといい子だべ。こんなオラのことずっと親身に看病してくれてよ。しかもよくよく聞けば、オメみてなアホを憎からず思ってるってよ。オメな……あの娘不幸にしたら承知してえかんな! あの世から化けて出てやっから!」
「お、おいおい! そりゃ誤解じゃて! そもそもな……」
「うるせ! ゴタクは要らね! わかったかわかってねかどっちだ!」
「……はあ。分かった分かった。了解じゃ。一応聞いておくわい。やれやれ、これで満足かの?」
「よかった。オメは昔っから本当に……優しぐって……オラもう思い残すことは……」
「おい! 姉ちゃ! どうした?!」
「もう……時間だべ。オメは本当に立派になった。オラなんかがいなくても……」
「姉ちゃ……」
「……藤吉?」
「……」
「……」
「……行かんでくれや。オラを……また1人にせんでくれや……」
「今のオメには……素晴らしい仲間がおる。村で悪さしとる頃のオメじゃね。オメは……決して1人なんかじゃね。だから……周りにいる人を大切に……支えてくれる人に感謝を……そしたら……オメも幸せに………」
「姉ちゃ! 姉ちゃ! ……姉ちゃああああ!」
「……約束、守れんですまねな」
ことり、と落ちる身体。ふわり、と消え行くなにか。そして、崩れ落ちる藤兵衛。遠い空の上でヤマガラの鳴く音だけが染みるように夜露に消えていった。
しばらくして。
外。既に夕闇が草木を漆黒に染めていた。そこに、金蛇屋藤兵衛が静かに戸を閉めて現れた。その表情からは何の感情も見出せず、いつもの彼とまるで変わらないように見えた。
「……藤兵衛」
そんな彼に控えめに声をかけたのは、この場にただ1人残ったシャーロット=ハイドウォーク。美しい貌を物憂げに沈め、彼女はその次の句を告げられずにいた。
「何じゃ、シャル。ここに残っておったのか? 今日は肌寒い故、風邪を引いても儂を恨むでないぞ。慰謝料など決して払わぬからな」
不気味なほど明るく、乾いた笑いを浮かべて、藤兵衛は不自然なほど明朗に彼女に話しかけた。
「その……千里さんは?」
「ああ。さっきくたばったわ。歳も歳じゃから仕方ないわい。後始末は金蛇屋の連中に任せてある故、急いで行くとしようぞ。阿呆どもをつけ上らせても事じゃからの」
「………」
涙が溢れていた。シャーロットの美しい大きな瞳から、大粒の雫がぽたりぽたりと流れていた。その姿に逆に慌てた藤兵衛は、芝居がかった戯けた動きで彼女に話しかけた。
「な、何じゃ? どうしたというのじゃ? 何故お主が泣く? こんなものは別にどうという事もないわ」
「昔……家族を失った日のことを思い出していました。そして、今の貴方の気持ちを考えると……私は胸が張り裂けそうなのです」
「儂なら平気じゃて。涙など流しても一銭にもならん。儂は損するのが大嫌いじゃからな。故に……」
「……無理をしないで。お願いですから、私の前だけでは素直になって下さい。……お願いします」
「………」
数秒の時を置いて、藤兵衛はゆっくりと口を開いた。そして2つの影はゆっくりと1つに重なっていった。
「……お主がそこまで言うのなら仕方なかろう。望み通りにしてやる故、覚悟するがよい。ただし……貸し一つじゃぞ」
「ふふ。そうですね。借り一つです。必ず利子を付けてお返しします」
「そうじゃ。それでよい。儂はタダは大嫌い……なのじゃ」
「ええ。知っています。でも私は、もっと貴方のことを知りたいです」
「戯言を……申……儂は……儂は…………!」
夜が深まるにつれ、空気がとても澄んで見えた。夜空の落ちてきそうな星々の瞬きの中に、深い闇の蠢きがあった。2人の影はそれらに晒され、やがてその輪郭すらも消え失せていった。
大陸歴1279年6月。
一つの命が大地に返った。それに伴い、金蛇屋藤兵衛の物語は重しを乗せた秤のように一方へ傾いていった。
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