第44話「それぞれの戦い」

 大都会ダールの夜が更けていった。

 漆黒の闇が天を覆い尽くさんばかりに勢いを増す中、地の底で背を寄せ合う男女の姿、金蛇屋藤兵衛とシャーロット=ハイドウォーク。

 心中ではこれからの戦いに向けて不安が過ぎりながらも、2人はただ暗闇の中で無言で息をしていた。背中合わせになり、互いの心臓の鼓動が聞こえる位置。2人にとって初めての、互いのみで身を寄せ合う夜。その事実は彼らの意識を、嫌が応にも揺らしていた。

「……静かですね」

 シャーロットが決意を固めたように、曖昧な言葉を明確に告げた。澄んだ空気の中に霧散していく涼やかな声、その心地良い響きの中に身を浸す藤兵衛がいた。

「……誠にその通りじゃな。静かすぎて逆に眠れんわい」

 彼は努めて無表情にそう呟いた。シャーロットはそんな彼を微笑みながら見つめ、嫋やかに足を組み直した。

「私もです。何やら胸が熱く鼓動が高鳴り、眠れそうもありません。……ねえ、藤兵衛。何かお話をしてくれませんか?」

「まあ夜は長いからの。時間は山ほどあるわい。どんな話がよいのじゃ?」

「……そうですね。実は、ずっと前から聞いてみたかったことがあります。貴方の……その……奥様の話なのですが」

 しん、と沈黙が数段階も色を濃くした。暗がりの中で藤兵衛の表情は読み取れなかった。しかしシャーロットは自分の行動をすぐに後悔し、彼の方を振り向いて頭を下げた。

「申し訳ありません。私は軽率な発言をしてしまいました。許していただけるか分かりませんが、何卒ご容赦下さい」

「……雪枝と初めて会ったのは、今日のような闇の深い晩じゃったな」

 ぽつ、と声が鳴った。シャーロットは藤兵衛の口から紡がれる言葉に耳を澄まし、闇の中に映るキセルの火をそっと見つめた。

「あの頃の儂は、どこにでもいる餓鬼じゃった。自らの力も弁えずに我武者羅に駆けようとするも、全ては全て尽く裏目。そんなどうしようもない阿呆じゃった。今後の人生を変えるかもしれぬ大事な商談を、結果として自らの未熟ゆえに纏め切れず、失意の中で家に帰ろうとしたその折、道端で声をかけてきたのが雪枝じゃった」

「……」

「最初は只の商売女かと思うた。金も持っておらぬ、しょぼくれて下を向く男に声をかけるなぞ、誠に見る目のない女じゃ、そう思うた。しかし彼奴はそんな儂にこう話しかけた。『お兄さん、下ばっか向いてちゃダメだよ。辛い時こそ上を見ないと』。儂ははっとして声の方を振り向いた。如何とも表現し難い、容姿は正に中の中といった女じゃった。お主なぞと比べたら月とすっぽんもいいところよ。そんな大したことのない女が、満面の笑みでこちらに話しかけておった。儂は一瞬何が起こったのか分からなかったが、すぐに我に帰ると……頭に来て怒鳴りつけてやったのじゃ」

「ええ!? どうしてですか? 意味が分かりませんが」

「『この儂に説教など100年早い!』。確か……そんな感じで言った気がするの。じゃが奴は負けんかった。儂の剣幕に負けず劣らず語気を荒げてこう言ったのじゃ。『何よあんた! とにかく上向いてりゃいい事あるんだから! バッカじゃないの!』と。そして、暫し儂らはその場で口論した。『上など見ても躓くだけじゃ!』、『下なんて向いてても何も生まない!』。今考えても全く意味のない会話じゃて」

「ふふ。何だか妙な展開になってきましたね。それで、結局のところどうなったのですか?」

「ここからが本番じゃ。決して折れぬ儂に対し、業を煮やした雪枝は言ったのじゃ。『なら賭けましょ。この通りを抜ける間、ずっと上を向いてて。何もなければあなたの勝ち。何かいいことが起これば私の勝ち。それでいいでしょ?』と。益々意味が分からぬ話じゃ。そう言い返しても聞きはせん。それで、止む無く儂は奴と一緒に歩いたのじゃ。15分程の道のりを、お互いの話をしながらの」

「そして……何かが起こったと?」

 藤兵衛はその問いにすぐには答えず、目を細めて静かにキセルをふかした。狭い空間の中に紫煙が幻想のように広がっていった。

「まあ、の。そんな所じゃて。儂は奇跡などという下らぬ概念は信じぬ。じゃが……時には必然の手が降りる事もある。それを……嫌が応にも学ばされたわ」

「何だか……よく分かりません。とても変なお話ですね。お2人の関係も、起こった出来事も」

「ガッハッハ! そのとおりじゃて。儂らの関係は最初から最後までずっと変じゃった。いきなり声をかけられたのもそう、怒鳴り怒鳴り返されたのもそう。あの時……いきなり空から金が落ちてきたのもそうじゃ」

「え?! お金が落ちてきたのですか? 本当にそんな奇跡が?」

「全くの偶然じゃ。誰も仕組んだ訳もない単なる偶然で、突然1000銭札が儂の手元にひらりと舞い降りたのじゃ。奴は実に得意げにこちらを見て、儂はといえばただ呆然と立ち尽くすのみ。そして捨て台詞を残して立ち去ろうとする雪枝を……あの時、儂はあいつの背を追ってしもうた。何故かは今でもさっぱり分からん。あの時既に儂は……奴めに惚れておったのかもしれんな。……まあ詰まらぬ話よ。さ、話はここまでじゃ。そろそろ眠ろうかのう」

 無理矢理話を打ち切って、藤兵衛はキセルをトンと地面で叩き火を落とした。だがそんな彼に食って掛かるシャーロットの姿があった。

「そこで終わりですか? そんなのずるいです! もっと話して下さい! 私は続きが聞きたいのです!」

「……まあ、数日は地の底で缶詰じゃ。ゆっくりと話すから待っておれ」

 シャーロットはそっと藤兵衛の背に自分の身体を預けた。鼓動が伝わり、再び2人の温度は一つになる。夜の闇の中にそっと伝わる熱に、冷え切った地下の闇が解けていくようだった。


 一方、奴隷商人ココノラの屋敷。

 目を怒らせたレイが怒りに身を任せて、その辺の家具を思い切り蹴飛ばしながら叫んでいた。

「ああああ! ほんとムカつくぜ! おいてめえ! いつまで時間かかってんだ! 亜門を探しに行くって言ってんだろ!」

「ひ、ひいい! さ、さすがにこの広い街で、こんな遅い時間に1人の人間だけを探すなんて無理でげすよお! それに……夜は外に出ないよう政府からきつくお達しが出てやして。何でも最近は外に化け物が出るらしくて……」

「てめえ殺すぞ! バケモンが怖えとか、エラそうな態度のくせに情けねえ野郎だぜ! ともかく俺は行くから道案内しろ! 断りゃこの場で内臓を引きちぎってやる!」

「そ、それならあっしじゃなく、こいつらを付けるでげす。おい、奴隷ども。この方を全力でお助けせよ。A24はどうした?」

 誰もその声に反応せず、しん、と静まる室内。気まずい沈黙の中でココノラの焦りの色だけが絵画の中のように広がっていった。

「ど、どうした? なぜA24の姿がない? ……さ、さては脱走?! まずい! こうしてはおられん! すぐに衛兵に連絡せねば……!!」

 次の瞬間、ココノラの首筋に衝撃が走り、今日2度目の失神をして地面に倒れ込んだ。彼の背後には奴隷の1人が手を震わせながら鉄棒を握り締めていた。レイはそれを横目でちらりと眺めると、まるで興味なさそうにソファにどかりと座り込んで、ため息を吐きながら乱雑に足を組んだ。

「なんだか知らねえが、そいつは逃げ出したってわけか。心配しねえでもチクりゃしねえよ。てめえらの勝手にしな。道案内がねえのは問題だけどよ」

「……あなたの仲間、秋津の侍は我らの同胞が連れて行った。彼は我々の計画に賛同してくれた。暫く合わせることは出来ないが、彼の安全は保証する」

 トネリコの仮面を付けた小柄な奴隷が、一歩歩み出て衝撃の事実をぼそりと告げた。レイは不服そうな顔で更に深く背もたれに寄りかかり、腕を頭の後ろで組み両足をテーブルに乱雑に乗せた。

「……気に入らねえな。んな話だけで、はいそうですかとてめえらを信頼しろと? 今俺はムシャクシャしてんだ。ちゃんと話しゃあカンベンしてやる。さもなきゃ……てめえらここで全員死ぬと思え!」

「そ、そんな無茶な話が……」

「うるせえ!!」

「ひ、ひいい!!」

 レイは座ったままの姿勢で脚を天高くから振り下ろし、轟音と共にテーブルごと床を真っ二つに切り裂いた。奴隷たちはその迫力に押され、腰を抜かしてその場に倒れ込んだ。

「わ、分かりました。全てお話しします。ですから、どうかご勘弁を……」

「早くしろ! 俺はほんとうに頭きてんだ! さっさとしねえとマジでブチ殺すぞ!」

 レイは怒りに震える拳を収めながらも、未だ不服そうに顎を上にしゃくり、怯えながらも口を開く彼らの話に耳を傾けた。

(ったく、どいつもこいつも。ほんとやれやれだぜ。お嬢様とクソ商人が身動き取れねえ今、俺は俺のできることをやっとかねえとな)

 レイはけっと不快そうに呟くと、彼らの方を向いてギロリと視線を飛ばした。その表情に弛緩の色は見えず、炎の如き闘志が渦巻いているようだった。外で一声鳴く雉が飛ぶ音がし、空に棚引く雲の波にそっと色を添えていた。


 ダール中心部、某所。

 一際異彩を放つサイケデリックな色彩の建物、その二階にて静かに冷えた飲み物を啜る亜門。彼は今まで目にしたこともない不思議な黒色の液体を口腔内で幾度か咀嚼した後、一瞬置いてから思い切り吐き出した。

「な、なんでござるか雪之丞! 己に毒を盛りおったか!」

「ワハハ! まったく其方は物を知らんな。これはこーひーと申してな、この苦味を味わうのが通でござるよ。ま、己くらいになれば余裕だが、其方の餓鬼舌にはちと早すぎたか」

「そ、それくらい常識であろうて! それにこの己とて、長き旅の中で酷い代物を何度も味わっておるぞ! どれ、ならばもう一口……オェェェェエ!!」

「はは。無理しなくてもいいさ、雪之丞。偉そうに言ってるけどさ、君だってこれを飲めるようになったのは最近のことじゃないか」

 顔を真っ赤にしてむせ返る亜門を見て、笑いながら上階から降りてくる1人の男がいた。上質な様々な色の絹を何層にもつぎはぎのように重ね、色付きの伊達メガネを鼻にちょんと乗せた、吟遊詩人めいた優男がそこにいた。艶のある黒髪をくるりと巻いてから腰まで巻き付け、やや浅黒い肌には人工的な光沢を放ち、洒脱な立ち居振る舞いで独自の存在感を示す男。亜門は瞬時に集中を高め研ぎ澄まし、意識を尖らせて気迫の槍を放つも、彼はそれを笑顔で受け流し、手を広げてにこやかに告げた。

「おっと、そんな怖い顔はやめてくれよ。私の名は遊山。ここダールで絵描きをしている。以後よろしく」

「これはご丁寧に。己の名は高堂亜門と申します。東の秋津国の侍にござる」

 両者は会釈をし、遊山は満足そうにそれを眺めると、彼らの側の真っ赤な革張りの椅子にふわりと腰かけた。

「雪之丞の知己ならば遠慮は要らないよ。のんびりしていってくれ。観光したいのなら力になるが」

「折角のお話ですが、遠慮しておくでござる。己には時間がありませぬもので、早速で申し訳ありませぬが本題に入っていただけませぬか? 秋津の格言にも『小猿の拙速は時として大龍の遅攻に勝る』とあり申す」

「こ、これ亜門! この方はな……」

 亜門は穏やかな表情の裏に鋭い眼光を隠し、臆す事なく意思を放った。慌てて間に入ろうとする雪之丞を手で止め、遊山はメガネの位置を正しながら実に満足そうに頷いた。

「いいんだ、雪之丞。それでこそだよ。いい男を連れてきてくれたものだ。では端的に話そうか。私は先程言った通り画家が本業だが、同時にこの国の大臣でもある。つまり今から話すことは、国家規模の案件と考えてもらって相違ない」

「ほう、そうでありましたか。失礼ながらそのようにはお見受けできませんで。無礼がありましたらお赦し下され」

「ははは。君は正直だね。全く気にしないでいいよ。ここダールでは他の国とは異なり、優れた芸術家が国を動かしている。これが、東大陸で一番洗練された国家と呼ばれる所以なのさ。民は自分の意思で国を動かす者を選び、民の意見を取り入れて国は回っていく。田舎者の君でも、ここが理想郷と呼ばれる理由が分かるだろう?」

「……」

「おっと、話が逸れたな。問題はここからだ。こんな理想の境地であるこの国にも、一つだけ恥じるべき文化が存在している。何だか分かるかい?」

「それはもしや……“奴隷”のことでござるか?」

 亜門はちらりと雪之丞の首輪に視線を送り、唇を噛み締めながら答えた。遊山はその答えに満足したのか、何処か芝居じみた態度でゆっくりと立ち上がると、窓から階下の街並みを眺めながら独り言のように言った。

「我が国の成り立ちとして、奴隷という存在は切っても切り離せない。太古の昔に神々への労働力を担保する拠点として成立し、やがて南のスザク国の野蛮人どもを西大陸へ輸送する都市として発展していった。道徳的な是非はさておき、それは当然の運びだったと言えよう。幾ばくかの鉱石しか資源のない国の、物を知らぬ原始人に我らの手で教育を施し、新たな労働力として生まれ変わる。文明の進歩には犠牲は付き物だからね」

「………」

「だが、そこで1つの転換点が訪れる。とある冒険者の調査により、かのスザク国の地に、新たな資源の可能性が発見されたのだ。それを知った我が国が侵攻するのは当然の成り行きだが、他の国も指を咥えて見ているだけではない。特にオウリュウ国はセイリュウ国と同盟し、我らビャッコ国との間に大きな戦乱が何度も起こった。そして戦が長引くにつれ、労働力の需要は高まり続けた。結果としてセイリュウや君の祖国である秋津国。更にはあろう事か、同じビャッコ国民でも奴隷に身をやつす者も現れ始めた。私の美意識では、自国民が奴隷となる事態を看過出来ない。そう、私達は奴隷から脱却せねばならないのだ! その時期が来ているのだ! 君もそう思わないか?」

 心中の昂りを顔中で表し、遊山は身振り手振りを交えて嬉々として話した。亜門は呆れ顔でその言葉を受け流すと、刀の柄に手を当てて静かに低く告げた。

「己には政治などてんでわからぬゆえ。だが其方の申す事は……正直夢物語にしか聞こえませぬな。これだけ根付いた奴隷文化を解放する? 諸方の反発が尋常ではないと想像出来ますが」

「はは。心配は要らないさ。私はね、亜門。何でも出来てしまうんだ。この国の金と権力は全て私の手の中にある。体制を覆すのは今しかない。全て私に任せてくれ」

「……理解出来んでござるな。しかし現状として、己が同胞も奴隷として拘束されている身。奴隷の解放には全面的に賛成でござる」

「よくぞ言ってくれた! なら決まりだな。明後日の夕刻の本番までここで英気を養ってくれ」

「ち、ちょっと待つでござる! 話が見えぬぞ! 一体全体何がどうなっているのか?!」

 亜門の動揺を受けて、遊山はメガネの奥からちらりと、雪之丞に氷のような冷たい視線を送った。彼はそれだけで慌てふためいて、両者の顔色を伺いながら必死で弁明をした。

「い、いえ! 先ほどは急いでおりましたので、まだ彼には何も伝えていないのでござりまする。すぐに己から……」

「もういい。使えん男だ。実はね、この哀れな奴隷たる雪之丞の為に、亜門に一肌脱いでもらいたいんだ。なあに、秋津一の侍と噂される秘技を振るって頂くだけでいいさ」

「……己が刀は見世物ではござらぬ。いい加減其方の芝居には飽き申した。己に用あらば虚飾は無用ぞ。さもなくば……この場で斬り申す」

 交差する鋭い視線。ピリ、と凍える空気。不気味な静寂が場を包む中、遊山は不意に手を叩き、実に楽しそうに笑った。

「はは、ははは! そんな怖い顔をするなって。君にやってもらいたいのはただ一つ。私が主催するコロシアムへの出場だよ」

「コロシアム? それは一体何でござるか?」

「ふむ、何といえばよいか……闘技場とでも言えば君にも分かって貰えるかな? 勝者には栄華と富を、敗者には屈辱と死が与えられる、そんな場所さ」

「己に命を張り、刀を振れと? まさかその代償というのが……」

「無論、君の友邦の自由と安全だ。私はいついかなる時でも強制はしない。逃げると言うのならばそこまでの話。戦う事を選び、生き残れば雪之丞を含め多くの奴隷の自立を勝ち取れる。素晴らしい話だろう?」

 実に愉快そうに笑う遊山を見て、亜門の目は更に細く鋭く光った。場が一気に剣呑な雰囲気に包まれる中、心配そうに見つめる雪之丞をよそに、高堂亜門の心は動じない。生粋の侍である彼には、生きるだの死ぬだのといったことは些事に過ぎない。彼は真っ直ぐに遊山を眺め、ただ拳をぎゅっと力強く握りしめた。


 一方、奴隷商人屋敷。

 奴隷たちから事のあらましを聞いたレイは、烈火の如く怒りをぶち撒け続けていた。

「ああ!? コロシアムだ! なに考えてんだあのアホは! 怪しすぎて言葉も出やしねえぜ!」

 怒鳴り声を上げて、その辺の家具を蹴り付けて暴れまくるレイに、奴隷の1人がおっかなびっくりながらも異を唱えた。

「け、けれどですね。遊山様はこの街でも有数の権力者です。その彼が解放を賭けると言った以上、間違いなくそうされるはずです」

「……あのよ、本当にそんなことできると思うか? こんなこと言うのは酷かもしんねえけどよ、ここまでこの国に根付いた奴隷制度を、お偉いさんが『はいそれまで』って言っただけで、キレイさっぱり無くなると本気で思ってんのか?」

「うるさい!」

 その時、背後から子供の奴隷の声。はっと振り返るレイに、壊れた家具の破片を投げ付ける、年端もいかぬ女の子の姿があった。目に一杯に涙を浮かべ、彼女は怒りとも苦悶とも取れる必死の表情で、レイに向けて感情を叩き付けた。

「お前に何がわかる! あたしらの苦労のなにがわかる! 家族を殺されて、人間として扱われず、ただ死んでくしか道のないあたしらの何がわかる!」

「そうだそうだ! 遊山様は俺たちを救ってくれるんだ! あの方を信じずに、俺たちはこれからどうすりゃいいんだ!」

「もう信じるしか道はない。俺らはそこまで追い込まれてるんだ。よそ者が偉そうに言うんじゃねえ!」

 徐々に巻き起こる罵声の渦。大勢で喚き立てる彼らを横目に、レイはどかりとソファに腰掛けて、大きくため息をついて退屈そうに頭をぼりぼりと掻いた。

「わかったわかった。好きにしな。正直俺にゃ興味もねえし、誰かにチクるつもりもねえ。仲間が戻りゃそれでいい。やれやれ、めんどくせえ話だぜ。……おい、こいつジャマだろ? いらねえならもらってくぜ」

 レイは床でのびたままのココノラを肩に担ぎ、そのまま無愛想に外に出ようとした。だが奴隷たちは慌ててそれを止めようとした。

「お待ち! 外は危険よ。この街は夜になると化け物が出るんだ。この前も貴族の一団が無残に殺されたって話さ。建物の中は安全だから、出てくなら朝まで待った方がいいよ」

「……俺にゃ関係ねえな。俺にはやるべきことがある。危険だとかそんなのは、ビビったクソの言い訳だ。今は時間が足りねえ。んじゃ邪魔したな」

 そう言って悠然と飛び出そうとするレイに、先ほどの女の子が駆け寄って通せんぼをした。レイは面倒そうに舌打ちをすると、膝を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。

「あ? まだ俺になんかあんのかよ? べつに聞いてやってもいいが、ちっと今は時間がねえんだ」

「……さっきはごめん。何の関係もないあなたに悪口を言っちゃって。ほんとうにごめんなさい」

「はっ! なにかと思えばんなことか。いいよべつに。嫌われんのは慣れてっからよ」

「……ごめんなさい。でも、私たちは今はこれに縋るしかないの。分かってくれとは言わないけど……」

「……1つだけ言っとくぜ。俺の知る限りよ、戦わずに得られるものなんざこの世に存在しねえ。人におぶさって恵まれるもんなんて、だいたいはまやかしかクソみてえな罠だ。てめえらは必死で戦ったのか? ここは確かに絶望の淵かもしんねえが、自分の足であがいてみたのか?」

「……」

「ま、いいさ。もう会うこともねえだろうが、せいぜい頑張んな。べつに応援はしねえが、これも縁ってやつだからな。てめえらの幸運を祈ってるよ」

 そう言い残して、レイは風を纏って闇の中に消えていった。奴隷たちは無言でそれを見送った。誰も何も話すことは出来なかった。ただ途切れ行く言葉だけが室内に残った。彼らのうち何名かはそっと自らの掌を握り締めた。あまりにも微かで、吹けば飛ぶような力だったが、その爪痕はいつまでも彼らの中に残り続けた。


 時間を少し遡り、ダール東端のクツル通り。

 リースは案内役の衛兵と手を繋ぎながら、術により彼の自制心を大幅に緩めて、小声で囁くように情報を収集していた。時刻は夜に差し掛かり、この街を闇が覆い始めた。

(……なんだか嫌な予感がするわね)

 彼女は皮膚にべったりとまとわりつく本能的な感覚について、深く深く熟考しつつ更に周囲に警戒を放った。工作員としての豊富な実戦の中で、リースの勘が外れたことは一度もなかった。彼女にとって勘とは、荒唐無稽な超自然的性では決してなく、経験に裏打ちされた不測の可能性の発露であった。

(そろそろ潮時かしら。一度戻って相談しないとね)

 リースは衛兵の背から符を外しつつ、軽く指を鳴らして術を解除した。瞬く間に正気に戻り不思議そうに頭を抑える彼に、リースは和かで無邪気な笑みを返した。

「あれぇ、兵隊さんどうしたんですかぁ? こんなところでぼうっとしてちゃダメですよぅ」

「……ん? あ、ああ。もうこんな時間か?! 俺はいったい……」

「へへ。お疲れなんですねぇ。親戚には会えませんでしたけどぉ、ここまで来たら自分で探しますからぁ。宿は取ってあるんで心配しないでくださぁい」

「これはすまない! なんたる不覚か! そ、それじゃ私はこの辺で。お嬢ちゃん、この事は軍には内緒にしててくれないか?」

「はぁい。あたし黙ってまぁす(保身が髄まで染み付いてやがるわね。ま、あんたには最後に一働きしてもらうけどね)」

 リースはわかりやすく媚びた態度で兵士に抱き付き、符の切れ端を貼り付けると共に、さっと懐に紙切れを忍び込ませた。彼は再び目の焦点を失い、そのまま踵を返し街の中央部へと歩みを進めていった。

 リースは迷うことなく街外れの一軒の宿に入っていった。その姿を離れた位置から見つめる、複数の黒い影があった。影は裏通りの闇の中でぼんやりと形を作り、輪郭を漠としながら低く小さな声を発した。

「……やはり北大陸の術士か。しかもかなり手馴れている。工作員と見て間違いあるまい」

「は。クロガネ様の読み通りかと。あの衛兵はどういたしましょう? 捉えて尋問しましょうか?」

 影の中央に君臨する一際大きな漆黒が、額に皺を寄せて部下達をぎろりと一瞥した。

「証拠は残してはおるまい。だが何か術をかけたのは間違いない。隙を見て調べ、必要とあらば余計な口を封じろ。遠慮は要らん」

「かしこまりました。しかし……何故アガナの術士がここへ?」

「善は、単なる諜報。泳がせてから始末すればいい。悪は、我らを知った上での計画的行動。ならば即座に捉えて始末する。最悪は、幽玄斎様が仰った通りの状況。シャーロットのバックに北大陸が付いた場合、事は単純な話ではなくなる。現時点での拙速な判断は危険だ。我らのすべきことは探るのみ。者共、配置に付け。夜とはいえ気を抜くな」

「は! かしこまりました!」

 散り散りに霧散する影。闇に紛れ一瞬で四方から宿を囲み、一切の油断なく監視する彼らの動きは、とても人のものとは思えなかった。だが、それはリースも同じこと。既に宿の2階から状況をつぶさに伺っていた彼女は、宿に張り巡らせた符により敵の動きを捉え、紙タバコをふかしながら小さく舌打ちをした。

(……やれやれ。厄介なのがいるわね。すぐに諦めてくれるとは思えないけど)

 リースは部屋の窓からで周囲を伺いつつ、先を見据えてあらゆる準備を進めていた。やがて深夜を迎え、それでも微塵も緩まぬ敵の動きに呆れたように首を竦め、彼女は小さく呟いてから立ち上がった。

「ずいぶんとまあ勤勉なことね。このまま手をこまねいていてもジリ貧ってやつだわ。亜門くんかレイが気付いてくれればいいけど、この状況じゃあんまり期待できないか。気は乗らないけど……打って出るしかなさそうね」

 彼女はその場で一息大きく吐くと、次の瞬間、大きく開け放たれた2階の窓から一気に外へと飛び出した。その動きを即座に察知して影が慌ただしく動く中、リースは夜の街を疾走していた。その足に迷いはなく、闇のうねりを越えて走り抜けていった。

(さあ、ここからがあたしの腕の見せ所ね。アガナ神教の真の力、このあたしが見せてあげるわ!)


 神代歴1279年7月。

 金蛇屋藤兵衛と愉快な仲間たちのそれぞれの戦いが、漆黒に染まるダールの都にて始まろうとしていた。

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