第28話「ミスト」

 夕暮れ時。困惑の一夜を経て。

 藤兵衛がひと時の泡沫から目を覚ますと、そこは力車内だった。傍らには侍るようにシャーロットがすやすやと気持ち良さそうに寝息を立てていた。窓から差し込める光は橙に染まり始め、彼は覚醒と共に即座に頭を回転させて、現状を把握しようとした。

(……むう。ちと眠ってしもうたか。見たところシャルは無事なようじゃが……)

「zzz」

 藤兵衛は安らかな彼女の顔にそっと手を当て、熱や変わった様子がないか何度も何度も確認した。しばらく状況を伺い、極めて健康そうに見える彼女にそっと微笑みかけると、彼は腕組みをして熟考した。

(昨日のシャルのあの様子、間違いなく今までに無い“症状”じゃった。じゃが現時点でそれが見られぬ以上、あれらは旅の疲れによるもの、そう考えるべきであろうか……)

 藤兵衛はもう一度優しく彼女の頬を撫でてから、外の様子に気をやった。力車は順調に進み続けているようだった。彼はキセルに火を付けると、扉を開けて走行中の力車から飛び降りた。

(これはいかんの。陽の方角から見て、1時間近く眠ってしまったようじゃ。ちと休み過ぎたわい。あの虫に借りを作っては、後でどんなことを言われるか分からぬ。早めに対処するが吉ぞ)

 彼はがばりと車内から跳ね降り、足元の石に足を取られ転びそうになるも、すっとレイの隣に並んで努めて気さくに声を掛けた。

「おう、すまなかったの虫や。シャルも落ち着いたようじゃ。ここからは儂が代わる故、貴様は休んでおれ」

 だがレイは藤兵衛の姿を見ると、意外にもはにかんだような微妙な笑みを浮かべて遠い目をした。

「お、おう。そりゃよかったぜ。いやあ、てめえが看病代わるなんて言いやがるくせに、いっしょに寝ちまいやがるからよ。亜門のバカもどっか行っちまうしな。ったく俺に感謝しろってんだ」

「……おい。何を隠しておる?」

 明らかな不審を問い詰める藤兵衛に対し、レイは目の焦点を上下させて動揺した。

「な、なにも隠しちゃいねえぞ。カンチガイもほどほどにしろよ。俺はなにもしちゃいねえ! ほんとだぞ!」

「ならば儂の質問に答えよ。……ここはどこじゃ?」

 藤兵衛はぐるりと周囲を見渡した。そこは眠りにつく前の光景とはまるで違う、山と岩肌に囲まれた何もない荒野だった。レイは遂に観念したように下を向いて項垂れた。

「うう……すまねえ。俺はよかれと思って近道したんだが、それが気付いたら……」

「……まあ仕方あるまい。貴様に悪気はないのじゃろうし、儂が眠ったのがそもそもの原因故の。とりあえず来た道を戻るとしようぞ。数時間程度の遅れなど些事に過ぎぬ。それで、儂らは一体どちらから来たのじゃ?」

「そ、それが……その………すまねえ! ほんとうに!」

 土下座をする勢いで頭を下げたレイ。呆然と立ち尽くす藤兵衛、すやすやと寝息を立てるシャーロット、何やらを手に持ちこちらへ駆け寄る亜門。

 一行の道は、再び閉ざされようとしていた。


 夜の始め。

 野営の準備のため火をおこす藤兵衛。傍らには石と草木を積み立てて簡易的な寝床を作る亜門の姿があった。

「ったく、あの虫だけは本当に仕様のない奴じゃて。そうじゃろう、亜門や?」

 苦虫をすり潰したような顔で吐き捨てた藤兵衛に、亜門は穏やかな口調で彼を宥めた。

「まあまあ。これも仕方ありませぬ。そもそもあの魔女めが全ての原因でござる。ところで己の丸薬はお与え下さりましたか?」

「む、むう。あの凄まじい臭いの玉か。とりあえず口に押し込みはしたが、今にも吐き出さん勢いじゃったぞ。本当にあれは薬なのか?」

「無論にて。古来より秋津に伝わる秘伝の薬にござる。己も幼少のみぎり、あれを毎日飲むことで寝小便が綺麗に治り申したぞ」

「そ、それは重畳じゃな。気持ちだけは確かに伝わっておろうて。しかし……本当に大丈夫かのう? 昨晩のあの苦しみよう、とても普通とは思えぬわい」

「はっはっは。何も心配など要りませぬ。あの程度、戦場なら日常茶飯にて。大方、先の激闘の疲労が溜まっておったのでありましょう」

「……だとよいがのう。まあ考えてもせんなきことか。何処かの街で医者に見せるしかあるまい。出来る事は尽くした故な」

「そうでござるよ、殿。深刻に考えた所で物事が好転するとは限りませぬ。たまには己を見習うも善きことでありますぞ」

「グワッハッハ! 確かにお主の呑気も時には役に立つかの。……そうじゃな、兎にも角にも儂らは進むしかあるまいて」

 呑気に笑い続ける亜門に、釣られるように笑みを零す藤兵衛。そんな中、力車からレイの低い怒声が聞こえてきた。

「おい! お嬢様の体調がよくねえってのに、なにてめえらヘラついてやがる! メシだからさっさとこい! すぐこねえと捨てちまうぞ!」

 騒音が頭上を過ぎゆくや否や、藤兵衛は首をすくめて亜門の方を見た。彼も同じように苦笑し返し、手を止めてすたりと直立した。

「まったく……反省のハの字もないわ。調子のいいことじゃて」

「はっはっは。レイ殿はいつものことでありましょう。むしろ、しおらしく振る舞われる方が気持ち悪うござる」

「ガッハッハッ! お主も言うではないか。確かにあの野蛮人が三つ指ついて謝ったりしたら、槍でも降ってくるのかと疑うわい」

 2人は笑い合いながら、揃って力車の方に歩いて行った。雪の季節の終わりを告げる穏やかな日差しが、彼らの影を色濃く大地に映し出していた。


 食事後、いつもより贅を尽くした栄養たっぷりの食事を平らげた一同。シャーロットは昨日の事などすっかり忘れてしまったかのように、笑顔で料理に箸を伸ばしていた。山の上に広がる眩い星々が、彼らの姿を照らしていた。彼らはどこかぎこちなくも談笑し、何となく休み、何となく黙った。それが彼らのいつもの光景。一つだけ違うのは、何処か考え込みがちのシャーロットと、それに気を遣う一同。

「……どうしたシャルや? 心ここに在らずといった具合じゃが、具合はもう平気なのかの?」

 彼女の隣に座る藤兵衛が、直球ながらも優しい口調で問うた。彼女は美しく微笑むと、無言で首を縦に振った。

「ふん。おおかた糞でもひりたいのでござろう。おい、己は気にせんからその辺で用を足すとよい」

「うるせえバカ! お嬢様になんて口きいてやがる!」

「グェポ!!」

 そんな遣り取りの中、シャーロットは静かに目を見開いて、何事かを決意したように口を真一文字に結んでいた。藤兵衛は不審そうに彼女の目を覗き込んだ。正確に言えば、その目の奥にある何かを感じ取らんとしていた。この男は人の目を信じない。常にその奥にあるものを読み解き、今の今まで生き抜いてきたのだった。

「……シャルよ。何を隠しておる?」

 藤兵衛がぽつりと彼女に問うた。彼女ははっと顔を上げて彼を見遣った。レイと亜門も顔を上げる中、彼女はほんの少しだけ顔を翳らせたものの、すぐに意を決して顔を皆に向けて口を開いた。

「……ええ。ようやく私にも覚悟と準備が出来ました。今から全てを、私の目的の全てをお話します」

 厳粛な声だった。彼女の覚悟が皆に伝わり、自然と背筋が伸びた。藤兵衛はキセルに火を付け、再び彼女の目の奥を覗き込んだ。

「そうじゃの。確かにそれも頃合いじゃて。じゃが先ずは儂の質問に、己の口で答えい。シャルよ……体調はどうなのじゃ?」

「……問題ありません。少し疲れただけでしょう。この通り私はぜんぜんへっちゃらです」

 シャーロットはその場で勢いよく立ち上がると、ぐるりとその場で舞った。その元気で華麗な足取りにほっと顔を見合わせる亜門とレイだったが、藤兵衛だけは依然として爬虫類の如き目で鋭く彼女を見つめていた。何処か気まずい沈黙の後、彼はふっと僅かに肩の力を抜いた。

「まあよかろう。とりあえずその件は後にしておこうぞ。じゃがな、シャルよ。この儂に、世界を喰らい尽くす金色の蛇に、一切の偽りは通じぬ。ゆめゆめ忘れるでないぞ」

「……ええ。無論です。今は重要な話をしなければなりません。覚悟は宜しいですか?」

「お、お嬢様……ほんとにいいですか? んなこと話しちまって。このバカどもに話しても伝わるかどうか……」

「これは私の決断です、レイ。これからの戦いにおいて、仲間の協力は必要不可欠です。先の戦いで貴女も理解したでしょう?」

「はっはっは。己の力をようやく認めたでござるか。忌まわしき魔女とはいえ、多少は見る目が養われたようだな」

「ふむ。前は『世界平和のため』とか何とか言って、適当にはぐらかされたからのう。ここらで一つはっきりさせておきたかったのじゃ。儂らの敵は何処の何者で、何の為に斯様な無茶な道中を強いられておるかをの」

 藤兵衛はシャーロットの瞳から目を逸らす事なく、敵意にも似た鋭い気迫を真正面から放った。反射的にレイのこめかみに血管が浮き出るが、彼女は全く動じることなく美しく微笑むと、静かに、そして重苦しく口を開いた。

「いいえ。あの時話したことは嘘でも間違いでも、無論はぐらかしでもありません。私は、結果的にではありますが、世界を救う為に旅をしているのです」

「まどろっこしい言い方をするな! 話すなら一からしかと吐くでござる!」

「ああ!? てめえまでチョーシこいてんじゃねえぞ亜門!」

「お言葉ながら、レイ殿。これは大事なことにござる。己とて自らの使命と交わる点があると知り、この旅に同行している身でありますれば。万が一真実を告げておらぬと判断すれば、魔女めを刀の錆にする所存にて。……例えレイ殿を敵に回しても」

「あ? 上等じゃねえか。こいよ。てめえがなにホザいてんのか、その身にしっかり教えてやらあ」

 睨み合う2人。いや、その視線が交わる最中、突如として鳴り響いた銃撃が彼らの足元を抉った。彼らが同時に振り返ると、金蛇屋藤兵衛が銃を構えて無言で鋭い視線を送っていた。場をそっくり飲み込むその迫力に歴戦の2人も言葉を言い淀む中、彼は静かにはっきりと告げた。

「ちと黙れい。判断は儂がする。その後は好きにせい。……それで問題あるまい?」

「……は。出過ぎた真似をしてしまい誠に申し訳ありませぬ」

「けっ。クソのぶんざいでエラそうによ。まあこの場はてめえに預けてやる。とりあえず黙って話聞けや」

 感情を胸に収め恭しく頭を下げる亜門、不快そうにぶっきらぼうに吐き捨てるレイ。藤兵衛は軽く頷いて銃口を下げると、意識的に表情を柔らかくして再び視線をシャーロットに戻した。彼女はその様子を微動だにせず見守ってから、一息付いて更に気を込めて言葉を紡いだ。

「まずこの旅の最終的な目的は、私の兄であるミカエル=ハイドウォークを討つことです。彼を排除しなければ、世界に平和は訪れません」

「グラジールの騒動でも名前は出たの。ガーランドを陰で操り、ゲンブ国を我がものにしようとした。儂の見立てでは前大司教フレドリックに力を与えたのは奴じゃな?」

「……たぶんな。人体改造はあの方のオハコだ。それにセイリュウ国の件も、もっと言やてめえが追い出された件もな。つまり今この世界で起こってる謎の騒乱……そのすべてにミカエル様が関わってると俺らは読んでる」

「な、何じゃと!? 何故儂が関係するのじゃ!? 意味が分からんわい!」

 勢いよく立ち上がった藤兵衛を優しく宥めながら、シャーロットは再びその重い口を開いた。

「恐らくは間違いありません。今のお兄様は強大なる力で人を操り、世界を意のままにせんとしています。その為に1番邪魔なのは貴方でしょう。世界に名を冠する大商人、金蛇屋藤兵衛その人を」

「こんなこと言いたかねえが……てめえには力がありすぎる。莫大な金に世界中に散らばるコネ、んでもって気持ちわりいくれえの行動力と、薄汚えぶんよく回る脳ミソ、頭イカれた執念深さ。発酵したクソみてえな性格も含め、どれもこれもマトモじゃねえからな。もし世界を手に入れようとすんなら、俺だったらまっさきにてめえをなんとかすんね」

 2人のそれぞれの言い分を聞き、藤兵衛は腕組みをして深く考え込んだ。全ては1つに繋がっている、その事は明白になりつつあった。だがその時、亜門が首を捻りながら手を挙げて割って入ってきた。

「……確かに殿の御力は並ではありませぬ。その事は誰の目にも明らかにござろう。ただ、そうなると一つ疑問が。お気を悪くせず聞いて頂きたいのですが、殿を危険視するのは理解でき申したが、それならば何故早急に排除しなかったのでしょう? もし己ならば即座に暗殺を試みますが」

「確かにその通りじゃな。儂も自慢ではないが、これまで幾度と無く命を狙われては来たがの、いわゆる闇の眷属共なぞ目にしたこともないわ。間尺に合わぬ理屈じゃて」

「推論ばかりで申し訳ありませんが、もしかすると兄は、貴方を仲間に引き込もうとしていたのではないかと。貴方を金蛇屋から引き離し、その力を自らの為に行使せんと思っていたのかもしれません。ですが、その直前で貴方は私に出会い、偶然が重なって結果として今ここにいるのではないかと」

「……ちと弱い理じゃな。まあよいわ。そこは本題ではなかろう。聞きたいのは唯一つじゃ。シャル……お主の兄は何を求める? 何を考え斯様な暴挙を行っておるのじゃ?」

「『楔』です。彼の目的はそれのみです。『楔』の力を手にすべく、その過程として彼は世界を欲しています。それは紛れも無い真実です」

 即答するシャーロットに微かに眉を顰め、藤兵衛は悠然とキセルを吸い込むと、油断なき瞳に一層の圧を込めた。亜門も刀に込める力を更に強め、今にも飛びかからんばかりの気迫で彼女を睨みつけた。

「何故そう言い切れるでござる? 如何に身内とはいえ、其方の兄は敵ぞ。馬鹿正直な其方のことだ、誑かされていてもおかしくあるまい」

「……真実だ。俺もこの耳で聞いた。あの日、俺たちが屋敷を追放された日、俺たちがすべてを失った日、あいつが自らの口で言った」

 レイの断定的な重々しい口調に圧され、続く言葉を失う2人。暫しの沈黙の後、藤兵衛は状況を整理するように、ゆっくりと確認しながら言った。

「ではお主の兄であるミカエルとやらは、『楔』から力を引き出しておる。それを防ぐ為に、お主は世界を巡って封印せんとしておる、と。成る程、その点は理解できたわい。じゃが儂の疑問点はそこからよ。そもそも連中は自分達で『楔』を破壊したではないか。どうにも間尺が合わぬな」

「……」

「そもそもじゃ、儂らとて封印などと余計な手間をかけず、徹底的に破壊してしまえば話は早いのではないか? 連中の狙うものを奪えば何も出来まいて」

「己もそう思いまする。『楔』とやらを残しておいても意味はないかと。もし封印をせぬのなら、魔女めの行動に月齢に関係なくなるでござる。さすれば相手にも行動を読まれにくくなり、一石二鳥かと存じまする」

 2人の矢継ぎ早の質問を受け、ちらり、とシャーロットはレイの方を見た。レイはそれを受け、静かに小さく頷いた。そして、彼女は口調に微かな緊張を込めて、再び静かに話を続けた。

「……分かりました。お答えします。しかし、これは我が一族の最高機密です。くれぐれもご他言なさらぬよう」

「今更何を言うか! 儂を信頼せい!」

「うるせえ!! てめえが1番信用できねえんだ!」

「グェポ!!」

「……『楔』が発生した時代は、お祖父様の話では概ね600年前であるとのこと。かつて崩壊寸前だった東大陸を繋ぎ止めた力場、それが『楔』と呼ばれる術具とのことです」

「崩壊とは? まったく意味が分からぬ。何かが壊れる寸前であったと?」

「それを説明するには更に時代を遡り、神話の時代。当時は東大陸は大きな5つの島に分かれていました。オウリュウ、セイリュウ、ゲンブ、ビャッコ、スザク。今の国家と同じですね。伝承では神々は天より降り立ちましたが、海を渡れない彼らは強大なる力を行使して、5つの島を1つの大陸に変化させたとのことです。ですがその力は時間と共に失われ、東大陸がバラバラになる寸前の600年前に、何者かによって作られたのが『楔』です」

 シャーロットの突然の言葉に、ぽかんと口を開けるだけの藤兵衛と亜門。想像の範疇を超える内容に混乱し、亜門はいきり立って彼女に食ってかかった。

「な、なにを言うでござるか! そんなバカな話を信じられるか! 戯言にも程がある! 殿もそうでありましょう?」

「……いや。やもすれば荒唐無稽に聞こえる話じゃが、十分有り得る話じゃの。地理的に考えても、ここ東大陸は他大陸と比べて、各国間に隔が有りすぎるわい。うず高く聳える山脈で不自然な程に丁寧に区切られ、人種や文化も、地質や自然においても大きく異なる。シャルの言う通り、元々は全く別の島であったと考えても何ら矛盾はないじゃろう」

 別の角度から揺さぶられ慌てる亜門に対し、藤兵衛は神妙な面持ちのまま静かに煙を吐き出した。シャーロットは僅かに首を縦に振り、彼らに向き合った。

「『楔』には謎が多く、特に発祥には分からないことだらけです。ですが、間違いなく言えるのは、現時点ではあれらが東大陸を繋げている力場となっていること。しかもかなり強力に、無理矢理に近い形で。逆に言えば、もし『楔』が失われば……東大陸は遠くない未来に跡形もなく崩壊します」

「な、何じゃと! 儂の商売の拠点である東大陸が崩壊するじゃと!? そんなことがあってはならぬ! そんな莫迦な話が許されるものか! それでは大損ではないか! 儂は損だけは大嫌いなのじゃ!」

「バカだろうがクソだろうが同じこった。既に半数の『楔』は失われた。残るは2つ、是が非でも守らなきゃならねえ。俺の言ってること、てめえならわかんだろ?」

 レイが頬杖をつきながら苦々しく言った。再びしんと静まる一同だったが、亜門が真剣な表情で静かに挙手をした。

「魔女よ。質問が3つある。1つは、そうなった場合……秋津国はどうなる? いや、それには関係なく阻止せねばならんが、己が故郷にも影響があるかどうかだけは一応聞いておきたい」

「それには儂が代わりに答えるわい。残念じゃが、もし大陸が崩壊したとするならば、その影響が秋津にも及ぶは必須じゃろう。秋津近辺の海流は大陸の影響を多分に受けておる。大陸崩壊の余波を受けて、まともに生き残れるとは思えぬな」

「……了解にござる。では2つ。己ら高堂家を滅ぼしたのは、貴様の手でないとするならば……そのミカエルとやらの手によるものか?」

「恐らくは。理由は分かりませんが、世界を混乱させるのがお兄様の目的の1つであるならば、十分に考えられることです」

「俺らはセイリュウ国の惨状を見てきた。てめえら秋津の侍とやりあった結果、連中は眷属に付け入るスキを与えちまった。そういうことも含めてだろうな」

「……なるほど。ではそれを踏まえて、最後にもう1つ聞き申す。なぜ、貴様の兄はそんなことをする? 世界を混乱させ、滅ぼした先に何の意図がある? 正直、己には全く意味がわからんでござる」

 その問いにシャーロットは長い時間をかけて考え、その後に非常に言いにくそうに、躊躇うように時間を置いて答えた。

「兄は……世界の崩壊それ自体を望んでいるのかもしれません。彼が真に求めている物は私には分かりません。しかし、その為ならば彼は全てを犠牲にするでしょう。現に私の家族も……父も母も、優しかった祖父ですら、私の目の前で皆殺しにされました。今の彼は、力に取り入られた狂人です。私は最後に残された家族として、神々の系譜ハイドウォーク家の最後の1人として、必ず彼を止めねばなりません」

 衝撃的な事実を突き付けられ、言葉を失う藤兵衛と亜門。下を向き暗い表情をするシャーロット。そして、何処か遠い目をするレイ。

 ゆっくりと空が流れていった。闇の中を白い渦がぼんやりと湧き上がり、その側から消えていった。藤兵衛はキセルを一際大きく深く吐き出すと、結論付けるように低いダミ声で断言した。

「正直な所……分かったような分からんような、何処か雲を掴むが如き話じゃな。どうも奴にとって世界を崩壊させると、何らかの利があるということなのじゃろう。その真意は気にはなるが、幾ら何でも損害が大きすぎるわい。何よりこの儂に大損をさせるなぞ放ってはおけぬ! 何としてもシャルの兄は止めねばならん!」

「己も殿と同じ気持ちでござる! 我ら志こそ違えど、ここで1つに団結して事に当たる必要があり申す。今一度、力を合わせて戦うでござる!」

「へっ。だから最初から言ってんだろ。俺らの目標は1つだ。あのクソイカレを止めて世界を守る、と。んじゃ改めて旅立ちといこうか。じゃあ、お嬢様」

 グラスを掲げてシャーロットの言葉を促すレイ、それに倣う藤兵衛と亜門。彼女は太陽のように大きく美しく微笑んで、勢いよくグラスを突き上げた。

「今、私たちの目標は1つになりした。この長き険しき道の末に光りあらんことを!」

 カン、と金属のぶつかり合う音がし、口々に流し込まれる。ここに至り、旅の真の目的が明らかになった。一行の団結は固く、皆で遅くまであれやこれやと今後について話し合った。彼らの力が揃えば敵はない、そんな風に誰しもが思えた。

 だが……。


 夜も更けて。

 微かな物音に気付き、亜門は浅い眠りから目を覚ました。どんなに疲れていても、軍にいた頃の癖は簡単には治らない。彼は何か異変があれば、どんな小さな気配でも目を覚ましてすぐに察知した。そんな彼の能力が一行を救ったことは、今まで幾度となくあった。

 しかし、今回ばかりは趣が違っていた。寝床から静かにむくりと起き上がったのは、他でもないレイだった。レイは周囲を警戒するように気配を殺し、静かに寝床を後にした。

(ははあ。厠でござるか。己らに気を使って静かにして下さるのだな。レイ殿はああ見えて中々に気遣いの方よ)

 すぐにレイの姿は見えなくなったが、藤兵衛はそれに気付くことなく轟々とイビキをかいて眠っていた。力車内のシャーロットも反応する気配はなかった。気付いているのは亜門ただ一人という状況で、彼は呑気に伸びをしてゆっくりと立ち上がった。

(……ふう。己ももよおしてきたでござる。どれ、ここは一つレイ殿と連れションといきましょうぞ)

 その時の彼に、何か特別な考えがあった訳ではなかった。ただ、レイを少しびっくりさせてやろうという、ささやかな悪戯心があっただけだった。彼は全力で気配と足音を殺し、影のようにレイの跡を追った。

(……はて。どこへ消えてしまったのでありましょう? 足跡は山中へ続いておりますが。……ははあ、さては大きい方でござるな。レイ殿のこと、さぞや逞しいブツでござろうて)

 そう思い亜門は一人含み笑い、足音を立てぬようそっと追跡を続けた。入り組んだ山中を進むにつれ、やがてレイの気配が僅かに、ある一箇所に感じられた。だが……その気配は………確実に2つ!

 亜門の背に悪寒が走った。一切の想定もしていない展開だった。考え得る最悪の未来を想定し、彼は咄嗟に木陰に隠れると、長い顎を引いて必死に気配を殺し続けた。

(こは一体何事でござるか!? とにかく今は状況を確認せねば……む? 何やら声が聞こえるでござる)

 微かな声。聞こえるのはレイの声のみ。聞き取りづらい小さな囁くような声を、亜門は必死に耳を澄まして聞き取らんとした。

「……通り……現在地……シャーロットは……確かに。……ビャッコ国北東部……ええ……ミカエル様の読み通りです」

 耳に飛び込んで来た幾つかの衝撃的な単語。それらは亜門の想定、半ば楽観的に過ぎる憶測を覆すのに十分過ぎる程だった。彼は乾き切った喉に唾を流し込み、流れる汗もそのままに必死で聴覚に全霊を集中させた。

(こ、これは……まさかレイ殿が!? いや! そんなことは絶対に有り得ぬ! 何かの間違いにござる! そうに決まっておる! ………む、いかん!)

 不意に声を止めて立ち上がったレイ。気配はいつの間にか1つだけになっていた。亜門は気づかれぬよう気を殺し続け、森の中を縫うように寝床へと一目散に戻っていった。数分後、布団に入るの頃には汗だくで動悸は荒く、視線も覚束ない。そんな不自然な彼の様子に気付いたのか、藤兵衛が寝ぼけ眼で話しかけた。

「おお、亜門や。お主そんな汗だくで何をしておるのじゃ? ……ははあ、さては腹でも下しおったか。昨晩あんなにがっつくからじゃて」

「……実は……その……そ、その通りでござる! いやあ、実に盛大でありまして、拭いた手まで茶に染まるほどでありましたぞ」

「グワッハッハ! 何という不潔な男じゃ! ちゃんと手を5度は洗ってから寝るようにの。ムニャムニャ……」

 そう言って再び眠りにつく藤兵衛。静かに暗闇の中で息を殺し、頭を回転させ続ける亜門。頭の中で思考と疑念が渦のように絡み合い、吐き気を催す程の痛みが胸の辺りを襲っていた。

(流石に現段階では、殿にも言うわけにはいかぬ。あの殿のこと、即座にレイ殿に詰問するに相違ない。だが現状の確たる証拠なきままならば、しらを切られて終わりでござる。……いや、そんなはずはない! もちろんレイ殿に限って有り得ぬ! ……しかし、とにかく今はもっと情報を掴まねば)

 そんな中、ガタと音を立てて寝床に入ってきたレイ。亜門の心臓の音が再び激しく上下する中、レイは眠そうに目を擦りながら藤兵衛の腹を蹴り上げた。

「グェポ!! き、貴様一体何のつもりじゃ!」

「わりいわりい。ちっと蹴りやすそうなゴミがあったからよ」

「何じゃと! 底辺極まる虫の分際で! 今日という今日は決して許さんぞ!」

「うるせえ!! お嬢様が起きちまうだろ!」

「ハァバ!!」

 いつもの風景、いつもの会話。しかしそれは、今日に限っては亜門の心の中に腐臭のような淀みを漂わせた。刀に伸ばしかけた手をそっと布団の中に仕舞い込み、彼は目を閉じて一言だけ心中で呟いた。

(レイ殿……己は信じておりますぞ)


 神代歴1279年2月。昨日までの暖かな陽気とは裏腹に、ひっそりと這い寄る冷たい風が一行の体を撫ぜていった。


 一方、某所。

 1人の男がいた。見事な漆黒に染め上げられたローブを頭から目深にすっぽりと被り、病的な程に痩せ細った、見るからに怪しき雰囲気の男だった。彼は椅子に深々と腰掛け、身動ぎ1つせずに何かを待っていた。その姿は見る人に何処か高僧のそれを思い起こさせた。

「なんじゃあ、いたんかいのう」

 もう1人の男が乱雑にドアを開けて部屋に入って来た。はっきり老人と呼んでも差し支えない、皺だらけの顔と白髪混じりの短髪が特徴的な、天を突く程の大男だった。その筋肉は服を鉢切らんばかりに隆起し、只者ではない雰囲気と凶的な圧を全身から撒き散らしていた。

「無論ですよ。聞きましたか、ガンジ?」

「……」

 神経質そうな話し方で、ローブの男は老人に親しげに問うた。ガンジと呼ばれた老人はそれには答えず、不機嫌そうにテーブルを挟んだ向かいの席にどかりと腰掛けると、指だけで酒瓶の口をへし折りそのまま一気に飲み干した。

「その様子では聞いているようですね。遂に“姫”がビャッコに入ったとのこと。貴方の出番も近そうですね」

「なにがじゃ! もうネタは上がっとるわい。おどれが出るんじゃろ? ならすぐカタは付くじゃろが」

「ええ。ミカエル様の御命令で、“彼”に頼みましてね。位置は“彼女”が教えてくれますし、明日には問題なく捕捉出来るかと」

「ふん。ワシはあんなあは好かん。たかだか40年程度の新入りの分際で、ワシらだけでなくボンに対しても偉そうにしおってからに」

 ガンジは空になった酒瓶を忌々しそうに床に投げ付けて、両足をテーブルの上にどかりと投げ出した。ローブの男はふうと呆れたように肩を竦め、グラスに残ったぶどう酒を美味そうに口に運んだ。

「そうは言いましてもね、ガンジ。彼は有能な男ですよ。利用できるものは全て利用しないと。私たちの目的は遥か高みにあるのです。美学だけでどうこう出来るものではありませんよ」

「わあっとるわい。ボンの命令は絶対。こんなあワシらの唯一無二のルールじゃからの。ただ“アレ”になにかしたら……タダじゃすまんぞ。バラム、おどれわかっちょるじゃろな?」

「やれやれ。対象は違えど、彼も同じ事を言っていましたよ。面倒ですが全員生け捕りにしなければいけませんね。まったく困ったものです。……さて、そろそろ“行く”としますか。ミカエル様をお願いしますよ」

 バラムと呼ばれたローブの男は苦笑混じりにそう言うと、静かにその輪郭を朧にしていった。ガンジはふんと鼻息を鳴らし、彼がすっかり消えてなくなるまで鋭い目で睨み続けていた。

「ふん。どいつもこいつも困ったもんじゃあ。何が『楔』じゃい。あんなあなんざさっさとぶっ壊しゃええのに。……昔が懐かしいわい」

 ガンジの目に一瞬だけ何処か優しげな光が灯った。だがそれはすぐに虚空の彼方へと消え失せ、獣のような眼光に戻っていった。やがて彼は来た時と同じく乱雑かつ迅速に部屋を飛び出ると、嵐の如くその場から消え失せていった。


 そして嵐の予感は真実となり、豪雨にも似た“災害”が一行の背に降りかかろうとしていた。

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