第29話「ゴールドフィンガー」

 ビャッコ東部山中、夕暮れ時。

 暖かな春の陽が陰りを見せ始め、微睡みを覚えるゆったりとした陽気。旅人達が口を開けて麗かな眠気に身を任せる時間。

 しかしシャーロット一行に休息はなかった。数時間前から彼らの前に立ちはだかったのは、ミカエル配下の闇の眷属達。腐臭漂う巨魁オーガーや、骨のみとなっても戦う傀儡兵スケルトンを始めとした群れが大挙を成し、かつ連携の取れた波状攻撃を繰り広げてきたのだった。

「急ぎなさい。夜になればシャーロットが目覚めます。必ず夕の内に片を付けるのです」

 彼らの指揮をとるは、夜の闇ほどに漆黒に染まったローブを頭からすっぽりと被った、顔すらも隠したひどく痩せこけた男。彼は苦もなく無数の術式を構築しつつ、実に不敵に号令を下した。それを合図に数十体の眷属が、空中に開いた穴から這い出すように召喚された。

「くっ! キリがないわ! 前方の様子はどうじゃ、亜門!?」

 力車を引きながら銃を構え、上空より襲い来る鳥の如き眷属の一群を撃ち落としながら、藤兵衛は大声で叫んだ。

「間も無く山地を抜けそうでござる! 逃げるには今しかあり得ませぬ!」

 亜門は必死の声でそれに答えつつ、刀に龍力を纏わせ、地を這う死霊を数体まとめて切り裂いた。しかし次から次へと湧いて出る眷属の群れを前に、彼らの行軍は完全に停止させられていた。

「無駄ですよ。そう、全ては無駄です。悪いことは言いません。即座にシャーロット様を置いて立ち去りなさい」

「笑止千万! 攻め手のみで守りが抜けておるでござるよ! 高堂流『都牟狩閃』!!」

 ローブを目深に被った術師バラムは、余裕の表情をありありと見せてせせら笑った。だがその笑みを上段から切り裂く亜門の斬撃。劈く刃の軌道は彼を正確に両断した筈だった。しかし、実際には漆黒の輪郭が一瞬だけ搔き消えたのみで、まるで手応えというものがなかった。

「ふふ。秋津の侍は学習しない、古よりの慣いですね。貴方には一切興味がありません。下がっていなさい。……『ビエント・グランデ』!!」

「ぬうっ!!」

 突如として吹き荒れた風に吹き飛ばされ、亜門は岸壁に激しく叩き付けられた。血反吐を吐き何とか立ち上がるも、ふらつく足取りを止められず彼は膝を付いた。その背に投げ掛けられたのはレイの怒声だった。

「手え出すな亜門! 奴のこたあほっとくしかねえ! ありゃバケモンだ! どういう術かしらねえが、実体は他の場所にありやがる! とにかく逃げることだけ考えやがれ!」

「……御意」

 レイの罵声が響くにつれ、亜門は身体ではなく心中に微かな痛みを感じた。彼が感じていたのは途方もない違和感。敵と見ればいの一番に攻撃する筈のレイが、今日ばかりは何故か二の足を踏み続けていることに。苛烈を極まる戦場で、彼の心中には先日の情景が蘇っていた。

 あの時、確かにレイは密かに情報を伝えていた。己らの現在地、状態を事細かに。誰に? 何の為に? その迷いが亜門の刀を鈍らせた。警戒と疑念による睡眠不足もそれを後押ししていた。

(い、いかん! 敵がこんな近くに……)

 いつしか敵に取り囲まれつつある状況に、彼ははっと我に帰り自らの不覚を恥じるが、それすらも掻き消すように、後方から飛来した紫色の螺旋が周囲を一掃した。

「何をしておる、亜門! 戦場で気を抜くなどお主らしくないぞ!」

「も、申し訳ありません! 2度とこの様な失態は……」

「弁舌は不要! 答えは今後の態度で示せい! ……見よ! やっと道が開けおった! ここを突っ切るぞ!」

 山中に開けた場所を全速力で突き抜ける力車、その後に続く亜門とレイ。余裕の笑みを浮かべて後に続くバラムと闇の眷属達……の、その頭上から降り注ぐ岩の雨。

「『転移』!! 一箇所が崩れれば脆いものじゃて。山の天候は変わりやすい故、注意することじゃな! ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!」

 無残に押し潰された眷属の群れを興味無さそうに一瞥すると、バラムは藤兵衛の方に向き直して感嘆の声を上げた。

「ほう。あれが『賢者の石』の力ですか。しかも……よりによって『メタースタシス』とは。昔を思い出しますね。まあ苦みに満ちた、不快極まる記憶ですが」

 遠ざかる力車。バラムは構築しかけた術式を思い直したかのようにあっさりと仕舞い込むと、空間に穴を開けて眷属達をそこへ吸引していった。

「まあいいでしょう。貴方達の居場所はいつでも追えます。今回で戦力の分析は終わりました。次からが本番ですね。焦らずゆっくり追い込むとしましょう」

 1人呟くとバラムの輪郭は徐々に薄くなり、1秒もしないうちに跡形もなく夕闇の中へ消えていった。残ったのは闇に魂を浸した憐れな眷属の死骸のみ。そしてそれも、風とともに大地に溶けるように消えていった。


 夜。山脈沿いの窪地。

 死闘に疲れ果てた一行は、見通しのよい場所で束の間の休息をとっていた。特に藤兵衛は未だ肩で息をしており、それでも彼は痩せ我慢気味に手持ちの水を頭から一気にかけた。

「ったく、何じゃあの術は! バカバカバカバカ眷属を呼び出しおって! その上本人はこの場におらぬとは、舐め腐るにも程があろう!」

「……しゃあねえ。ありゃバラムって野郎でよ。類稀な呪術師で、お嬢様の術の師匠であり、ハイドウォーク家の大幹部だ。お嬢様なしでまともにやりあったら消しズミだぜ。分身みてえな姿になるあんな術は見たことねえが、本来の力からは程遠いにも関わらずアレだからな」

「ふん。弱音ばかり吐きおって。さっさと方策を言わぬか阿呆が……グェポ!! (しかし……儂は何処かであの男を? 何かが引っかかっておるのじゃが……ええい、駄目じゃ。まるで思い出せぬ! これだから年は取りたくないわい)」

 レイも傷付いた身体を休めるように、地面に大の字になったまま答えた。そしてそんなレイを無言で、目の奥に澱を秘めたまま見つめる亜門の姿があった。

「ん? どうしたアホ侍? 俺の顔になんかついてっか?」

「い、いえ。別にその……何でもないでござる」

 不思議そうに聞くレイに、慌てて目を逸らした亜門。藤兵衛はキセルに火を付け、その様子を無言で見守っていた。

「ったく変な野郎だぜ。ま、どうせあっこの使えねえクソの影響だろうがよ」

「ふん! 大方貴様の無様な態度に愛想が尽きたのであろう。普段偉そうなことを抜かすわりに、逃げ惑うだけとは情け無い虫めが!」

「うるせえ!!」

「グェポ!!」

 彼らの様子を耳で聴きながらも、亜門の脳には入らない。彼の中に何度も何度も言葉が響く。如何にしても振り払えない、脳髄から溢れ出る疑念があった。

(なぜ……敵は己らの場所が分かったのか? 気配だけは十分に気を付けた。追跡された筈はない。それでも、まだ街道沿いを張られていたのなら理解できる。だがここは“偶然”訪れた場所、敵も知る術はない。そもそもここに来たのは何故か? 誰が“間違えた”せいなのか? 全ては……1つの方向を指してしまっている! ああ、仲間を疑ぐるとは己は一体……)

 深く悩み、無言で頭を抱える亜門。横目でちらりとそれを眺めるレイ。黙したまま力無くキセルをふかす藤兵衛。そんな中、力車から美しき魔女シャーロットが明るく声をかけた。

「お疲れ様です、皆様。まさかバラム様まで出てくるとは、いよいよお兄様も本気のようですね」

「ふん! 呑気な物言いよ。己らが命懸けで戦っていたというに!」

「誠に申し訳ありません。月齢の弱い今は、私は昼にまともに戦うことも、動くこともできないのです。どうか御許し下さい」

 深々と心底済まなそうに頭を下げるシャーロット。亜門は自らの内に芽生える苛つき、疑念を八つ当たりした事を瞬時に恥じると、誤魔化すように彼女から目を逸らした。

「そう言うでないわ、亜門よ。敵からしてみれば、シャルの不在を狙うは上策ぞ。恐らくは明日も同じ展開じゃろうて。そこは割り切るしかあるまい」

「……御意。失礼致しました。しかし敵は己らのことを知り尽くしている様子。何か手立てはありませぬか……レイ殿」

「あ? ねえよ、んなもん。なんとかして逃げ切るしかねえだろ」

 ぶっきらぼうに目も見ずに答えるレイ。亜門の心の中に、再びじめりとした陰りが藻のように広がっていった。だがその時、藤兵衛が鼻から煙を吐き出しながら下卑た笑いを浮かべた。

「無駄じゃ、亜門。斯様な下等生物に何も期待するでない。策なら1つだけ儂がある故安心せい。シャルや、例のものは出来たかの?」

「ええ。何とか形にはなりました。今お持ちしますね」

 シャーロットはがさごそと車内から何かを取り出した。それは銀色に光る装飾具で、その各々に小さいながらも複雑極まる術式が細かく刻まれていた。

「こいつは……ドニがくれた精霊銀の? っても……ちと前と形がちげえな」

「ふふ。見てのお楽しみです。これは藤兵衛のアイディアなのですよ。それでは亜門、その腕輪をはめて少し離れてください」

「其方に命令されるのは癪だが、殿のお考えとあらば仕方ない。どれ……こんなものか?」

 渋々と立ち上がると、即座に100メートルほど離れた位置に飛び移る亜門。彼は完全に背を向けて、そこから藤兵衛たちの姿は見えなかった。だがその時、いきなり腕から声が鳴り響いた。

(もしもし。儂じゃ、藤兵衛じゃ。聞こえるかの?)

「な、なんですと! 腕輪から声が!? 殿の声が聞こえるでござる!? 如何なる呪いでありますか!?」

(ゲッヒャッヒャッヒャ!! お主のその顔が見たかったのじゃ。予想と違わず十分驚いてくれて何よりじゃて。さて、驚きついでに腕輪に何か言ってみよ。貴様にしか分からんことを、小声での)

「そ、そうですな。では……己の1番の好物は納豆でござる。こ、これでよろしいか?」

(あ? んな腐ったもんよく食えんな! まあ今度手が空いたら作ってやらあ)

「ヒイッ! こ、今度はレイ殿!? こちらの声も届くでござるか!」

(ふむ。感度は十分じゃな。実験は終了じゃ。戻ってくるがよかろう)

 驚きふためきながら亜門はすぐに一行の元へと帰って来た。得意げな笑みを浮かべる藤兵衛に、彼は急き立てるように尋ねた。

「と、殿?! これは一体どんな妖術を使ったのでござるか? まさかこの距離まで声が届くなど信じられませぬ」

「よくぞ聞いてくれたのう。これは儂の『転移術』と、ガーランドめの『首輪の術』の応用よ。常時闇力を発する精霊銀に術式を写し込み、儂からは言葉を『転移』させ、お主らの音も『首輪』で受け取る。奴の術は国一つ、国民全体にまで跨る大規模なものじゃったが、儂の方は極めて限定された対象にしか使用出来ぬ。しかし指輪を持つ対象ならば、高精度かつ中長距離の言語の送受信が可能じゃ。まあどの程度の距離まで届くかは今後の実験次第じゃが、これで戦闘中でも儂を介して連絡を取り合えるの。どうじゃ、なかなかの発明と思わぬか?」

「けっ、エラそうによ。くだらねえもんを作りやがって。実際にはお嬢様がやったんだろうが」

「私は手伝っただけですよ、レイ。藤兵衛の構築した術式を固定術式として刻んだ後、安定化の焼き直しをしただけです。しかし……驚きました。こんな発想がこの世に存在するとは」

「流石は殿にござるな。秋津の格言にも『報せ駆けるは天高き龍の道』とあり申す。戦場での情報伝達は、戦の要とも言えましょうぞ。これで殿の策が瞬時に皆に伝わりますな」

「ええ、そうですね。これからは藤兵衛の悪だくみに皆で協力出来ます。そうすればきっと今の困難も乗り越えられます!」

 シャーロットが率先して、嬉しそうに長い黒髪に蝶の髪留めを付けた。亜門も朗らかに笑いながら龍の描かれた腕輪をきつく左手首に締め付けた。一向に暖かな気が満ちる中、レイだけはぶっきらぼうにピアスを投げ捨てた。

「俺はこんなもんいらねえよ。なんでこんなクソに、俺の声を聞かれなきゃなんねえんだ。なにに悪用するかしれたもんじゃねえ。俺は俺で好きにやらせてもらうぜ」

「はっ! 貴様だけはそう言うと思ったわ。つくづく協調性のない虫じゃて」

「てめえにだけは言われたくねえよ! こんなくっだらねえモンのために、大切なお嬢様の時間を使ってんじゃねえ!」

「いい加減にしなさい、レイ! 藤兵衛が折角ですね……」

「はいはい、わかりましたよ。とりあえずケンカん時に持ってりゃいいんでしょ。ちと気分わりいんで散歩でもしてきますわ」

「お待ちなさい、レイ!」

 シャーロットの声に耳も貸さず、悠然と歩き去るレイ。その姿を冷静に見つめる亜門。

(……魔女めの命令を拒否した。まさかこれも……いや、レイ殿に限ってそんな訳がなかろうが! だが……聞かれてはまずい“声”が存在するとすれば……)

 彼の忸怩たる思いとは裏腹に、砂時計のようにゆっくりと夜が訪れていった。


 夜も更け、彼らは束の間の休息を取っていた。敵の腕は恐らくはかなり長く、彼らの喉元に届くのも時間の問題だった。しかし彼らは焦らない。焦ったところでどうにもならないのは分かっていたし、焦るくらいなら少しでも疲れ果てた体を休めたかった。

 そんな中、シャーロットと藤兵衛は、力車の中でいつもの術の講義を行なっていた。毎日の日課となっている、2人だけの闇術の講義。彼は疲れ切った身体をものともせず、一心不乱に術式を構築していた。

「……えいや! 『マグナ』! 『ビエント』! 『ソル』! ……うむ! 今度こそ上手くいったぞ! 見たかシャルや?」

 幾つかの術式に成功し、荒れる自然の摂理を前にして浮かれ顔で叫ぶ藤兵衛。シャーロットはとても美しく微笑むと、静かに落ち着いた声で返した。

「はい。まだまだ発動は遅いですが、初級術は概ね合格ですね。あとは実戦でどうなるかというところです」

「そこは任せい! 儂は常に実戦派じゃからな。それよりシャルや、お主のよく使う上級術とやらをそろそろ教えてくれんかのう。ほれ、何ちゃらグランデとかいう、あの破滅的な術をの」

「もちろん教えるのは構いませんが、今までとは難易度の桁が違いますよ。本格的に使うなら10年単位の修練が要ります」

「ガッハッハ! 任せい任せい。儂にかかれば赤子の手を捻るようなものよ」

 高笑いする藤兵衛に、美しく笑い返したシャーロット。だがその暖かい空間はすぐに冷え切ることとなる。彼女は一転して真剣な表情になり、ゆっくりと闇力を集中させていった。

「それでは、まずおさらいです。術式の基本はキューブと呼ばれる1センチ四方の闇力の立方体を、特定の形に組み上げて発動させます。ここまではいいですね?」

「当然じゃ! 儂を誰と心得るか? 皆まで言うでないわ」

「ふふ。頼もしいことですね。では上級術についてです。原理は全く一緒で、術式の形もほぼ同一。違うのは使うキューブのみです。論より証拠ですね。こちらをご覧ください」

 シャーロットは目の前に、通常より遥かに巨大な立方体を生み出した。継ぎ目が見えぬほど正確に形成されているが、よく見ると小さなキューブが固まって出来ているようだった。

「こ、これは……一辺につき5個のキューブでできておるのか? と言うことは、5×5×5で……125個! 1つでそんなに使うのかの?!」

「そうです。これが上級術の基本中の基本、グランキューブと呼ばれるものです。これで術式を組むだけです。簡単でしょう?」

「う、うむ。原理は理解できたが……その数は余りに……ええい! 論より慣れじゃ! ちと待っておれ」

 藤兵衛は狼狽えながらも、試しにグランキューブを組み上げようとした。下から丹念に作っていったが、一辺を作る前にバランスを崩してボロボロと消え去ってしまった。その後も何度か挑戦するも、1段目を組み上げることすらままならず、流石の彼も頭を抱えてしまった。

「……駄目じゃ! 全く出来る気配がせん。お主……毎回こんなものをポンポンと作っておったのか?!」

「貴方の言う通り、要は慣れですよ。練習すればそのうち出来るようになります。まずはグランキューブを確実に作ることからです。その後、応用のクロスキューブやデッドキューブに進みましょう。そしてウルティマキューブに到達すれば、一応は術士を名乗る資格が得られます」

「な! ま、まだ先があるというのか。果たしてそんな所まで進めるものやら。ふう、自信をなくすのう……」

 がくりと項垂れる藤兵衛と、くすくすと笑うシャーロット。力車内の2人の親密な時間とは対照的に、外の2人は緊迫の様を示していた。

 無言で歩哨を行う亜門と、同じく無言のまま力車から離れて地面に座り込むレイ。流れる独特の緊張感の中で、彼は再び自分に問いかけた。

(どうする? 今は好機でござる。先日の件、問い詰めるなら今を置いてない。しかし……何と切り出せばよいのやら。こんな時、殿ならば底意地悪く周到に聞き出すのでありましょうが……)

「……! おい! 聞いてんのかアホ侍!?」

 驚くべき事に、先に話を切り出したのはレイの方だった。びくんと痙攣して振り返る亜門に、愉快そうに歯を見せて答えるレイ。

「んだよ。そんなにビックリすっこたねえだろ。ちと顔貸せや。話あんだよ」

「は、はい。実は己にも……レイ殿に話があり申す」

「へえ。奇遇だな。じゃ丁度いいや。ちっと離れっぞ」

 2人は少し距離を取ったまま力車から少し離れた野原に歩くと、そのままレイはどかりと座り込んだ。亜門は戸惑いながらも、僅かに時間を置いてそれに続いた。その手は刀に置いたまま、途切れる事なく緊張感を保ちながら。だが、レイはふわあと大きく欠伸をしてから、目を擦りながら話を切り出した。

「つうかよ……てめえなんかあったのか? ここんとこしばらく様子がおかしいぜ」

 ドクン、と彼の心臓が大きく一つ鳴った。平静な顔を繕うも、表情は固くなる一方だった。

「い、いえ。別に何もありませぬ。気のせいではないでござるか?(ええい、何故聞けん! 何を戸惑っておる!)」

「……そっか。ま、言いたくなきゃべつにいいけどよ。ただよ、あのクソ商人がなんかしたんなら、すぐ俺に言えや。相談くれえは乗れるからよ」

「はっはっは。生憎、殿は素晴らしい御方でござる。何も不満なぞありはしません」

「なら……やっぱお嬢様か。ま、おめえの気持ちも、ちったあわかるぜ。いきなり仲間を殺され、わけのわかんねえ戦いに巻き込まれ、眠れぬ日々を過ごす。どう考えてもまともじゃねえわな。俺だってマイっちまうと思うぜ。てめえはよくやってるよ。あのクソとは根性が違うぜ」

 その瞬間、亜門の心中に柔らかな固まりが入り込み、そっと解けるように広がっていった。レイのはにかむような微笑を見て、彼は自身に芽生え始めた褪せた色が変化しつつあるのに気付いていた。レイはもう一度ふっと笑うと、地べたにごろりと横たわって、気持ちよさそうにゆっくりと伸びをした。

「俺の話はそんだけだ。よけいな時間とってわるかったな。んで、てめえの話ってのはなんなんだ?」

「い、いや……己はですな……」

「うるせえ! はっきりしやがれ! ずっとグチャグチャしやがって、気持ちわりいったらねえぜ」

「……御意。ではレイ殿はなぜ……そこまでしてあの魔女に尽くすのです? あなた様ほどの武人が、文字通りその命を懸けて仕える程の、そこまでの価値のある人物でありますか? 己には……それが疑問なのでござる」

「……そうだな。いろいろあるけどよ、はっきり言や俺にほかには道はねえんだ。そもそもよ……あのクソには言ったが、俺にはお嬢様と旅をする前の記憶……ミカエル様に仕えてる頃の記憶がねえんだ」

「!! ま、誠にござるか?! ミカエルに仕えていたと?!」

 亜門の耳元で核心に近付く扉が開く音がした。彼は頷きながら注意深くレイの言葉に耳を向けた。

「正確に言やちっと違えんだけどな。まあどうでもいいや。あの方の為に生き、あの方の為に死ぬ。それがあの時の俺の存在意義だった。その為に力をつけされ、技を磨かされた。そして俺は、微塵もそれを疑うことはなかったよ」

「……」

「俺の役目は、お嬢様のお世話だった。それ以外は何もしなくていいと言われた。要はボディガードだな。最初は……困ったよ。だってよ、てめえもわかるだろうが……あの性格だろ? ほんと渋々やってたんだが、マジで渋々だったんだけどよ……」

 頷くのみの亜門を見てレイは少しはにかみながらも、珍しく流暢に話を続けた。

「お嬢様は、初めて会った時から俺を全面的に信頼してくれた。なんだこのアホは、と思ったけどよ、でもそれが……心地よくてな。人に信頼されるなんて今までなかったからよ。で、いつしか俺もお嬢様を信頼するようになった。そしたらよ、なんか毎日が楽しくてな。毎日笑って過ごせるようになってな。こんな日々がずっと続けばいいと思ってたし、続くもんだと思ってた。……悪いな。退屈だったらやめんぞ」

「いえ。とても興味深く聞いておりまする。是非続きをばお願い致します」

「……そっか。で、だ。例のあの日……ミカエル様が一族を皆殺しにした日のことさ。あの日、俺は初めてミカエル様に逆らった。まあいろいろあってよ、俺はお嬢様を連れて逃げ出したんだ」

「で、ではレイ殿のお陰で魔女めは生き延びられたと? そういうことにござるか!?」

「逆だよ。俺がお嬢様に助けられたんだ。あの混乱しまくった状況で、パニクりまくる俺とは対照に、お嬢様は涙一つ見せず、しっかりと戦う意思を見せた。そして……俺の名を呼んでくれたんだ。『行きましょう、レイ』と。その時俺は、この方に一生付いていくと誓ったんだ。さっきとは矛盾する言い方だけどよ、俺の記憶はある意味じゃそこから始まってるんだ。その前はどっかおぼろげでよ。んで今に至る、と。……まあそんな感じだよ。な、大した話じゃねえだろ。くれぐれもあのクソに言うんじゃねえからな」

 少し照れ臭そうに言うレイを見て、亜門は次に発すべき言葉に固く封をした。もう委細は問わぬ。己はレイ殿を信じるのみ。そう心の中で決めた。さすれば何一つ迷うことはないと。

「夜もふけてきたな。そろそろ戻ろうぜ。今のうちに休んどかねえとな。いつもと逆になってっけどよ」

「はっはっは。そうでござるな。次こそは奴を討ち払わねば。この己に万事お任せ下され!」

「ったくてめえは……いっつも威勢だけはいいよな。ま、あのクソとは違って頼りにしてるぜ。いっちょブチかまそうぜ!」

 笑顔で向き合いごちん、と拳と拳をぶつけ合う2人。やるべきことは見えていた。あとはただ戦うのみ。そこに迷いの色はなかった。亜門は意識を集中させ、戦いの舞台に根を下ろした。


 次の日の早朝、戦いは突然始まった。

 山間の大地の窪みから湧き出る眷属達。50を超えるスケルトンの群れが、戦意を高揚させ地中より襲いかかってきたのだった。

「くっ! 倒しても倒してもキリがないでござる!」

 数で押し寄せる骸骨の群れに押され、手傷を負いながらも切り払い続ける亜門。だが後から後から湧き続ける敵に、流石の彼も疲労を隠しきれなかった。

「ええい! 次から次へと。いい加減体力の限界じゃ!」

「情けねえこと言ってんじゃねえ! てめえら退け! 俺がやるからちっと休んでろ!」

 そう言って躊躇いなく矢面に立つレイ。波の如く襲いかかる敵をものともせず、衝動の赴くままにレイは動いた。躍動する純烈たる体躯、風の如く襲い掛かる技の前に、瞬く間に塵と帰る眷属達。しかし後方で陣取るバラムはまるで動じず、顎に手を当てて、見るからに弛緩した様子で成り行きを伺っていた。

「ふむ。あの出来損ないがここまでだとは、私の見込み違いだったようですね。後でガンジに詫びなければなりません。とは言え……結果は同じですが」

 バラムはふっと目の前で術式を結んだ。複雑で立体的な術式が瞬時に描かれ崩壊していくと、空間に空いた穴から新手が湧き出してきた。次の敵は巨大な眷属、オーガーが10体同時に。

「ざけんじゃねえ! 多すぎんだろ!」

 レイの叫びが虚しく戦場に響いた。それを合図にしたかのように、絶望の呻き声。襲いかかる巨大な肉塊。

「ええい! キリがないわ! 突破口は何処じゃ?」

 渾身で戦い続けるレイ、それに続く亜門、後方から撃ちまくる藤兵衛。数が減ったかに見えても、次々と補充される敵。まるで無限に続くように見える戦い。しかし結果は分かりきっていた。徐々に傷つき疲弊の色を深くする一行とは対照的に、まるで変わりのないバラムは、ローブの下から欠伸混じりにのんびりと呟いた。

「この月齢のシャーロット様は敵ではありません。後は可能な限り疲弊させるのみですね。叩き潰せればそれに勝るものありませんが、今回はアレに『降魔』を使わせるだけでよいでしょう。『賢者の石』を使い果たしてくれれば更によい。どう転ぼうが問題ありません。何とも簡単な仕事ですね」

 無限、とは比喩に過ぎない概念である。現実世界ではあらゆる意味において、この世にそんなものは存在しない。しかしバラムの力は、彼らにそれを想像させるほど絶大だった。しかも彼は幻体に過ぎぬ状態にも関わらず、現在のシャーロットに匹敵する闇力を秘めていた。

 彼は知っていた。自らを脅かす存在などここにはないと。彼は確信していた。自分が負けるはずがないと。そう、彼が抱える自惚れと自負。それを刈り取るのが、他でもない金蛇屋藤兵衛のやり方だった。

(……ようやく見えたわい。今じゃシャル! 放てい!)

 全員の術具から低いダミ声が鳴り響いた。と同時に、遅い来る眷属を無視して射程外に飛ぶ3人。そして次の瞬間、“その時”に備え力車内で練りに練り続けたシャーロットの術式が構築された。

「見通しが甘いですね、バラム様。今の私でも時間をかけ、仲間の力を借りれば充分に術は使えます。貴方の育てた私の力、舐めないことですね。……禁術『ケラウーノス』!!」

 掛け声と共に真紅の稲妻が大地を貫いた。その力は一点に収束し、そこから瞬間的に全方位へと膨れ上がった。真横に円の軌道で広がる稲妻の車輪は、いとも容易くオーガーの群れを焼き払い、周囲の全てを喰らい尽くしていった。遠く離れた位置のバラムの服ですら焼け焦げ、彼は額に微かに皺を寄せた。

「この状態で禁術とは……また腕を上げたようですね。ハイドウォーク家の歴史上、有数の天才と呼ばれるだけはあります。まさに“彼女”を見ているようですね。しかし、これで終わりと言うのならば……余りにもにも無為。余りにも無謀。それでは新手といきましょうか」

 再び10余りの術式を同時に刻み始めたバラム。だがそれらは、疾風とともに一瞬で破壊された。目を鋭く細めた彼の目の前には、術の間に高速で接近したレイの姿があった。

「誰かと思えば……実に不快な廃棄物ですね。意思なき人形に出る幕などありません。早々に退がれば命だけは助けてあげましょう」

「なに言ってやがんだこのタコ! てめえこそ覚悟しやがれ! 『百鬼』!!」

「……む! まさか!!」

 レイの狙いは只1つ、バラムの次々に生み出す術式を撃ち落とすことだった。極まった術構成速度と釣り合う神速で拳を打ち込み、次々と術を阻害していった。その度に爆風が舞いその腕を焦がすが、まるで怯むことなくレイはただ拳を突き立てていった。

(その調子じゃ! やれば出来るではないか! なんとしても奴めに術を使わせるでない!)

「エラそうにぬかすんじゃねえ! こちとらしぶしぶてめえに従ってやってんだ! ありがたく思え!」

 狼を模したピアスから響く低いダミ声に怒鳴り返しながら、レイは風を纏ってただ任務を果たそうとしていた。至近距離での苛烈な攻防は1分ほど続き、ボロボロになったレイにバラムは眉を顰め、呆れたようにため息を一つついた。

「やれやれ。これでは術は使えませんね。ここまで接近されては、本来なら殺されていてもおかしくありません。とはいえ、如何に蛮勇を振るったところで、今の私には触れる事も叶わないのですよ。いったい何を狙っているのです? スタミナ比べといったところですか?」

「へっ。まあそういうこった。最後までお付き合いいただこうじゃねえか」

「ふふ。出来損ないの分際で大層な口を。まあ幾らでも手段はあるのですが、今回は消耗させただけでよしとしましょう。さて、帰って寝ますか」

 術を操る手を止めぬままスッと後方に下がり、バラムは欠伸混じりに自分の体を闇力の塊に変化させた。だがその瞬間レイは目を鋭く光らせ、術式の中に自ら突っ込んでいくと、そのまま彼に拳を突き立てた。

「逃すかよ! 『紫電』!!」

「相変わらず阿呆ですね。そんなもの効きはしません。……『ソル・クアトロ』!!」

 レイの拳はバラムの急所を確実に捉えたものの、するりと擦り抜けて前方へたたらを踏んだ。そこへ4本の閃光が降り注ぎ、レイは四肢を焼き尽くされその場に崩れ落ちた。

「グオッ!!」

「ふふ。手加減し過ぎるのも逆に疲れますね。ですがこれも“約束”。それではお暇するとしましょうか。また数時間後に会いましょう、皆さん」

 傷付き地に伏せるレイを、虫けらのように見下して余裕の笑みを浮かべるバラム。勝負は完全についたと思われた。少なくとも彼はそう思った。だが……その時!

(今じゃ亜門! 貫けい!)

「御意にござる! 『龍絶天覇』!!」

 背後から、凶刃。レイに気を取られている間に密かに迂回し、気配を殺して潜み続けた亜門の一撃が、龍の力を帯びた小刀が、バラムの心臓を一直線に貫いていた。その錆びた刀からは闇力とは異なる力が溢れ、彼の体は意思とは裏腹に硬直し、術を構築することはおろか逃げることも身動きすら取れなかった。だが彼は完全なる危機に瀕しながらも、ぐるりと首を背後に向けて不吉な微笑みを亜門に向けた。

「おやおや、龍の力ですか。金島の侍が纏う龍の力。それではまるで……あの猪武者ですね」

「な! 貴様何を知っているでござるか!?」

「人間、ハイドウォーク、人形、それに龍の力。……成る程。役者は揃ってきた、と。実に面白くなってきましたね。私の求めるものは近付いているようです」

「意味の分からぬことを! この場で滅せよ! 高堂流『秘天返し』!!」

 感慨深そうに微笑むバラムから、まだ余裕の表情は消えていなかった。亜門は突き刺した刀に全霊を込めて引き裂こうとしたが、バラムは刀を抉り取るように引き抜くと、胸をぽっかり開けたまま術式を構築して宙に浮いていった。

「くっ! 逃すものか! 待つでござる!」

「今日は疲れました。一旦退くとしましょう。虚仮にして済みませんでした、侍くん。超常の力を受け継いだ君に敬意を表し、1つだけ忠告をしておきましょう。その場所に居るのは貴方の為になりません。すぐに故郷へお帰りなさい」

「……な!?」

「ハイドウォークと龍が再び交わる、それは破滅を意味します。強く勇敢な貴方にとって、最大にして最も屈辱的な終末を。それに……隠しても無駄ですよ。刀筋を見れば明らかです。貴方の心にある“疑念”は。お察しの通り……貴方たちの中には“裏切り者”が居ます」

「!!」

「ふふ。精々迷うがよいでしょう。次にお会いするまでに結論をお出しなさい。ではまた……」

「さてはて、貴様に“次”なるものがあるかのう?」

 遠距離から、シャーロットの術に巻き込まれ焼け落ちた力車内から、藤兵衛の低いダミ声が戦場に響き渡った。振り向くまでもなく、バラムは自身の身体に変化が起きているのに気付いた。周囲を包み込む立体的に複雑に絡み合う術式を目にし、彼はここ数日で初めて焦りの色を浮かべた。

「まさか……『メタースタシス』!? いつの間に?! 人体転移はまだ使えぬ筈では……」

「ふん! どこで聞いたか知らんが、確かに儂は安定して人を飛ばすことは出来ん。じゃが迂闊にも体の性質を闇力に変え、しかも儂の奴隷どもにずっぽりと力を削られ、それでも過信し余裕こいておる愚か者なぞ何処へでも飛ばせるわい!」

「……よく分かりました。全ての鍵は貴方ですね。道理で思惑とずれる筈です。いつの時代も同じですね。一番注意しなければならない者は、何の力も持たぬただの人間、オウリュウ国一の大商人金蛇屋藤兵衛と。主にもそう伝えておきましょう」

「好きにせい。2度と貴様に会う気なぞないが、どうせ会う事になろうて。貴様の主たる狂人にも宜しくのう。……『転移術・大蛇』!!」

 藤兵衛の術式は蛇のようにバラムに絡み付くと、一瞬でその姿を消し去った。次なる眷属の気配はなく、ようやく勝利を確信した一行。はにかんで腕組みをするレイ。悠然とキセルをふかす藤兵衛。彼に抱きつくシャーロット。そして……1人考え込む亜門。

「んで、どこまで飛ばしたんだ? ずいぶんデケえ術式だったけどよ」

「ふん。儂を舐めるでないわ。兎に角、北に思いっきりやったわ。今頃北海で水浴びでもしておるのではないかの」

「はっはっは。よき戦術でござりましたな。さすがは殿、これでしばらく奴に悩まされることはないでござろう」

 亜門は心中の靄を振り払うかのように、大袈裟に笑いながら刀を腰にしまった。戦いは終わったのだ。しかし犠牲は大きい。レイは焼け野原と化した一帯を見やって言った。

「ただ……力車は消しズミ、現在地は不明。相変わらず困難な旅となりそうだぜ」

「確かにのう。払った犠牲も大きかったわい。儂らの手の内も見せてしもうたしの。また策を考えねばなるまいて」

「なあに、なんとかなり申す。己らがその……しかと協力し合えば、為せぬことなどありませぬぞ」

「ったく、てめえのお気楽ぐあいにゃ負けるよ。それじゃま、行くすっか」

 レイはピアスを乱雑に外しながら気迫を込めて言った。亜門の目が鋭く光り続ける中、藤兵衛は隅で倒れ込むシャーロットに声をかけた。

「体調はどうじゃ、シャルや? 1人で歩けそうか?」

「ふふ。私は平気ですよ。皆に心配をかけるわけにはいきません。一緒に進みましょう。皆の力を合わせれば何も問題はありません」

「……そうじゃな。お主の言う通りじゃ。力を合わせれば、な」

 彼は深く考え込むように目を細めた。その様子にシャーロットは気付かない。だが、この時点で確かに彼は何事かに注意を払っていた。深い洞察の中で彼は一呼吸置き、漸く歩みを進めた。ただ前へ進むため、ここより一歩先に進むため。それが、闇より深い深淵への片道通行だったとしても。


 とある場所。

 椅子に深く腰掛けて瞑想するバラムは、突然はっと目を覚ました。息は切れ、目は虚ろ。それを見て隣に侍るガンジが朗らかに笑いながら声をかけた。

「ダッハッハ! やられたか。まさかおどれがのお」

 その陽気な声にちらりと視線を送り、バラムはふっと苦笑いを返した。

「ええ、残念ながら完敗です。私の読みが甘かったですね」

「ま、そんな時もあるわい。で、何か見えたんか? 結果が伴えば何も問題ないわあ」

「まあね。……それにしても情けない話です。全ては私の慢心が招いたこと。責は私にあります」

「はは、ははは。正しくその通りだ。まさか貴方様程の方が、無慚に負けて帰ってくるとは」

 突如響き渡る尊大な声。2人が同時に顔を上げると、そこには部屋の入り口に寄りかかる1人の男。艶のある黒髪をだらりと脚の付け根辺りまで伸ばし、体にきつく密着する漆黒の商人服を着込んだ壮年の風貌の男は、その爛々と光る精力的な目付きをバラムにぎろりと向けた。

「これはこれは、黒龍屋様。お手を煩わせてしまい恐縮です。些か戸惑ってしまいましてね」

「ハイドウォーク家最強の呪術師が情け無い話だ。此度の敗北が連中にもたらしたものは大きい。此方の手の内も割れてしまい、敵も今後は慎重に行動するだろう。私がどんなに稼いだところで、現場がこの調子では先が思いやられるな」

 挑発的な物言いにぴくり、と眉間に皺を寄せたガンジ。だがバラムは笑って受け流すと、深く大きく頭を下げた。

「ふふ。確かに貴方の言う通りです。敗北は敗北、受け入れざるを得ませんね。まあ貴方にそこまで言われる筋合いなどありませんが」

「ここビャッコ国においては、私の言葉はミカエル様の言葉だ。よもや主の言葉を忘れたとは言わせんぞ。世界に依る術を何も持たぬ貴方達に富と安定を与え、何より『楔』の場所を教えたのは誰と心得る? このままでは私は大損だ。私は損だけは大嫌いなのだからな」

「貴様……拾われた犬の分際で何をぬかしとんじゃあ!!」

 ガンジは憤怒の表情で拳を構えて立ち上がった。同時に黒龍屋は即座に懐から指を突き出して闇力を集中させた。一触即発の空気が流れ、部屋が緊迫と沈黙に包まれる中、バラムだけが悠然と微笑んだままぱちんと指を鳴らすと、瞬く間に2人の間に術の隔壁が構築された。ガンジはちっと軽く舌打ちをすると、肩の力を抜いてどかりと椅子に腰掛けた。黒龍屋は厭らしくニヤつきながら、くるりと銃を弄ぶように仕舞い込んで、わざとらしくため息をついた。

「はい、お二人ともそこまでですよ。私たち幹部がもめていては、下に示しがつきません。我らは同じハイドウォーク家の“指”同士、仲間同士なのです。下らないケンカはやめましょう」

「……ふん。おどれはさておき、なんでこのクソが仲間なんじゃあ。ワシは認めんわい」

「まったく単細胞は困る。筋肉が脳味噌を侵食しているのではないか? 私とて貴様を認めるつもりは毛頭ない。さっさと消えろ」

「なんじゃあ!? こちとら幾らでもやってやるけえの!」

「口だけなら猿でも叩けるからな。私に逆らう意味をその身に教えてやろう」

 再び流れ始める剣呑極まる空気。が、即座にそれは止んだ。双方を隔てる隔壁が生き物のように蠢き、2人の身体を包み込んでいたのだ。身動きを取れず顔を顰める2人に、バラムは笑顔を貼り付けたまま一言だけ言った。

「……私は、止めよと申したはずですが?」

 ピシリと空間の歪む音が聞こえた。バラムから発せられる地獄の底の如き闇力に、室内の空気までが凍り付くようだった。忌々しそうに舌打ちをするガンジに対し、飄々とした人を食った態度を止めない黒龍屋。常人なら心の臓まで震え上がる力に対しても、彼は全く動じることのなかった。そう……この男は動じない。

 僅かな時間の後、黒龍屋は音も立てずに拘束から抜けると、ため息をついて嫌味たらしい顔で背を向けた。

「仕方ないな。ここは私が悪者になるとするか。だがこれで貸しは一つだぞ。商人に借りを作るという意味、後でしっかり教えてやらねばな。私は貴様らと違って忙しい。誰のせいとは言わんが、スザク国の件もまだ片付いていないからな。ああ、だから無能は嫌いなのだ。忙しい忙しい」

 実にわざとらしくバタンと戸を閉め、黒龍屋は急ぎ足で出て行った。部屋にはバラムとガンジが残された。顔中に怒りを浮かべたまま、苦もなく拘束を弾き飛ばすガンジを見て、バラムは困ったように微笑んだ。

「まったく……相変わらず短気ですねえ。あんなのをまともに相手にしていては身がもちませんよ」

「ふん! ボンの命令とはいえ、なんであんな下劣なクソにワシが堪えにゃいかんのじゃ! ったく嘆かわしいわ」

 白髪混じりの短髪を忌々しそうにくしゃくしゃと掻き分けて、ガンジは溢れる闘気を撒き散らしながら叫んだ。バラムはローブに隠れた顔を微かに微笑ませ、音もなく椅子から立ち上がった。

「昔からミカエルの考えていることなど分かりはしませんよ。それは貴方が1番よく知っているでしょう、ガンジ? ただ確実なのは、この国の全てにおいて“彼”が実権を握っていること。そして、ミカエルの命により私達はそれに従う立場であること。それだけは弁えねばなりません」

「……黒龍屋幽玄斎。極めて不愉快な男だが、使えるのは確かじゃ。今のところは黙って従うしかないのお。ま、シャーロットのことは問題ないわあ。“あいつ”がいりゃ連中を見失うことは有り得んけえ」

「ええ。貴方の言う通りです。彼女らの全ては私たちに筒抜けですからね。そろそろ気付く頃合いだとは思いますが、それを利用して既に猜疑心の種は撒いておきました。今ごろ芽が出ているかと思いますよ」

「ダッハッハ! おんしはほんに性格の悪い男じゃな。600年前から何も変わっておらんわ。信頼はせんが、当てにはしとるけえの」

「それはお互い様ですよ、ガンジ。せいぜい好きに暴れて下さい」

 楽しそうにひとしきり笑ってから、ガンジは風を纏い姿を失った。去り際に一言、言葉が風に運ばれた。

「まあ何がどうなろうとワシには関係ないわ。この拳で全て叩き潰すのみじゃけえの。ビャッコで待っとるわい……セロ」

 1人その場に残ったバラムは、身体を震わせながら何かを考え込んでいた。時折笑みを浮かべながら、頭を抱え歓喜に蠢く彼に、先程までの冷静さは微塵も感じられなかった。

「はは……ははははは! 遂に、遂にだ! やっと……全てが“見え”た! 私の1000年を超える年月、屈辱と敗北に塗れた日々、その全ては……“この時”の為に!」


 そして、もう1人。某所。

 黒龍屋幽玄斎の目はとろりと蕩け、だらし無く緩んだ口元からは止めどなく涎が流れ出ていた。先ほどの余裕など一切感じさせず、目の前に浮かんだ闇の塊をうっとりと眺め、弛緩し切った身体全体で“それ”を抱き締めていた。

「ああ、やっと会えたね。……長かった。本当に長かったよ。まるで“あの時”のまんまじゃないか」

 物言わぬ闇の塊は、いつしか1つの姿を形作っていた。痩せて引き締まった威厳ある表情、細く垂れた目から放たれる鋭い眼光、口元に浮かぶ人を虚仮にしたかのような薄笑い。そう、それは正に……。

「50年待ったよ! 私はこの為に生きてきたんだから! お前に殺される為に! その引金で撃ち抜かれる為に! ああ、もう我慢できないよ藤吉! 早くビャッコに来ておくれ。早く私に悪意を向けておくれ。早く私を……貫いておくれ! それで、それで……う、ううううううううっ!!」

 悪意が渦を成し、人外の闇を反吐の如き臭いで包んでいった。この男の歪んだ意思こそが、金蛇屋藤兵衛の人生を導き、同時に狂わせていった。終わることのない邪悪な狂宴の中で絶頂の至福に浸り、黒龍屋幽玄斎は内なる邪悪を何度も何度も吐き出していった。


 神代歴1279年3月。

 芸術の文化の国、ビャッコ国での戦いも遠くない未来。その時シャーロットたちが何を思いどう動くのか、それはまだ誰も知らぬ話。今はただ物語は風を失った帆船のようにゆらり、ゆらりと海を漂っているのみだった。

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