第7話「闇術の手引き」

 秋の空気の中に夏の息吹を蘇らせたかのような、暖かく気候穏やかな今日この頃。一台の力車が、東国セイリュウへの中央街道を勢いよく走っていた。藤兵衛は鼻歌交じりに力車を引き、少し後ろからレイが呆れたようにその姿を見つめていた。

「やれやれ。陽気に当てられておかしくなっちまったか。自称大商人とやらも、こうなったら目もあてらんねえな」

 レイは退屈紛れに足元の石ころを蹴飛ばし、藤兵衛の後頭部の中心に綺麗に命中させた。痛みと衝撃に頭を抑え屈み込んだ藤兵衛は、心底愉快そうに笑い転げるレイに忌々しそうに叫んだ。

「グェポ!! な、何をするのじゃ! まったく……人がよい気分でいるというに、これだから脳味噌の足りん生き物は困るわい」

「うるせえ! おかしくなった頭を元に戻してやろうと してるだけだろが! 逆に感謝しろってんだ」

「ふん! 脳の存在せぬ下等生物には、儂の心の機微など到底分かるまいて。少しは想像力を働かせてみよ」

「んだてめえ! やんのかコラ!」

「何を……騒いでいるのですか?」

 その時、シャーロットが荷台の窓から不機嫌そうに、明らかに寝起きの青白い顔を見せた。ただ以前に比べ顔色も良く溌剌としており、美しく生気に満ちた表情だった。

「聞いてくれい、シャーロット。この虫が儂を虐めるのじゃ。こんなにも皆の為を思い身を粉にして働く儂に対し、遊び半分で石をぶつけてきたのじゃ。うっうっうっ……儂はこの先どうしたらいいか……」

 わざとらしく泣き真似をする藤兵衛。その哀れな姿を見て、大粒の涙を目に貯めるシャーロット。

「ああ、何と悲しいことでしょう! 直ぐにでもお仕置きをしたいところですが、まだレイは術の副作用下にあります。貴方のお気持ちはわかりますが、今日のところは私に免じて許してやってください、藤兵衛」

(くっ! 機が悪かったか! これでは儂が不利じゃ! )

(ざまあねえなチクリ魔め! 後で死ぬほどいたぶってやるぜ!)

「その代わり……完治した暁には、五体を引き千切るほどのお仕置きを用意しておきますからね。さあ、それでは行きますよ。道案内をお願いします、藤兵衛」


 日も暮れて。

 一行は山麓に築かれた旅人用の山小屋で休んでいた。レイの作った料理の匂いが、室内に温かく立ち込めていた。

「いやあ、今日も疲れたのう。こう汗をかいた後は、塩気の強い汁が五臓六腑に染み渡るわい。おい虫よ。匂いから察するに、これはオウリュウ国の味噌を使っておるか? 実に良い香りではないか」

 ほふほふと美味そうにうどんをすすりながら、藤兵衛は口角を曲げて満足そうに言った。レイは嬉しそうに顔をほころばせると、荷物の中から得意げに樽を取り出した。

「お、わかるか? ボンスンで買い込んどいたんだ。クソみてえな守銭奴のぶんざいで、あいかわらず舌だけは一人前だな」

「ホッホッホ。当然よのう。貴様は三流以下のゴミ屑生物じゃが、料理の腕だけは超一流じゃて。さっさと旅を終わらせ、ロンシャンで店を開くがよいぞ」

「けっ。テキトーこきやがって。けどま、せっかくいい味に仕上がってもよ、こうも食材がねえと味気ねえもんだがな」

「ふん! 相変わらず嫌味な虫じゃて。仕方なかろうが! ここは既にセイリュウ国じゃぞ! 美味いものなぞあろうはずがなかろうて!」

 一転して不機嫌な表情になり、忌々しそうに藤兵衛は吐き捨てた。シャーロットは不思議そうな顔で、彼の顔を真正面から見つめた。

「そういうものなのですか? 不勉強で申し訳ありませんが、セイリュウ国とは一体どういう場所なのでしょう?」

「ふむ。セイリュウ国は東大陸の東端、西大陸からは正反対の位置にある故な。行ったことなど無くても仕方あるまいて」

「……実は一度だけあります。貴方に会う前に、レイが迷って東の果てまで行ってしまいました。あのせいで、貴方にお会いするのに半年近く遅れましたから」

「グワッハッハッハ! まさかあんなに分かりやすい位置にあるオウリュウを突っ切るとはのう! 頭が悪過ぎるのはある意味では犯罪じゃて」

「うるせえ! ありゃたまたまだ! エラそうにぬかすんじゃねえ!」

「グェポ!!」

 鼻からうどんを吹き出しながら悶絶する藤兵衛。その背を優しくさするシャーロット。やがて水を飲み落ち着きを取り戻すと、彼は垂れた目を僅かに鋭く光らせつつも、キセルをふかしながら静かに語り始めた。

「やれやれ、話の途中じゃったな。ここセイリュウはの、一言で表現すれば“戦士の国”じゃ。特産品も少なく作物も取れない不毛の地じゃが、大昔より屈強な戦士たちが、ある種の“商品”として各地に輸出されておる。連中の文化もそれに合わせ剛毅で朴訥、そして独特の風習と価値観を持っていての。商売で進出する際、儂も最初はかなり苦労したわい」

「いわゆる傭兵ってやつか。ここいらはそんなに戦争が多いのか?」

 レイは腕を頭の後ろで組んで、壁にもたれかかりながらぼんやりと尋ねた。藤兵衛は静かに頭を回転させ、脳に蓄積された知識と概念を噛み砕き、丁寧に再構築しながら言葉を紡ぎ出した。

「昔はそうじゃったが、今は主に要人の警護じゃて。儂も連中を護衛として雇っておったわ。ただ、やはり人がいる限り戦争は絶えぬ。特にここ東大陸には、とある巨大な紛争地域があるものでな。その上、数年前には東海に浮かぶ秋津との大戦もあっての。結果として今でも、多くの戦士が常に戦いに臨んでおるわ。まったく馬鹿らしい話よ。勇ましく死んだ所で一銭にもなりはせぬわ」

「本当に悲しい話です。私たちは世界の人々の平和と幸福のため、立ち上がらねばなりません」

(……始まったわ。どうも狂人を刺激してしもうたかの)

 藤兵衛は聞いていないふりをして、うどんの残り汁を一気に啜った。レイもシャーロットの話に頷きながらも、一方でてきぱきと食器を片付け始めた。

「し、しかしあれじゃの。ここのところ化物も現れぬし、このまま平和に過ごせればよいのう」

「どうでしょうか。人々の怨念、恨み、悲しみ。そういったものが強ければ強いほど、彼の者たちは力を増します。幸いにもこの辺りは、そのような力を感じませんが」

「ふむ。確かにオウリュウ国とセイリュウ国は、長年友好関係にあるからの。国境付近では争いも起こりようがない。というと逆に、かつての戦場だとかそういうところでは……」

「ええ。ご想像通りです。しかし、私たちはそれも乗り越えて行かねばなりません。この世界の平和のために!」

「ふむ。極めて有用な情報じゃな。じゃがまあ……この行程では紛争地を通ることなどあるまい。セイリュウも東側の海岸沿いと南西部を避ければ安心じゃろうて。念の為、古戦場付近は避けるとしようぞ。明日は少し道を変えるとするか」

 藤兵衛は悠然とキセルをふかしながら、腕組みをして脳内のルートを再構築し始めた。その様子を見て、シャーロットは頼もしそうに美しく微笑んだ。

「ありがとうございます。しかし、やはり藤兵衛は流石ですね。相変わらず東大陸のことをよく知っています。貴方がいれば今後の旅も安心ですね」

「ホッホッホ。そうじゃろうそうじゃろう。もっと褒め称えるとよい。この東大陸で儂の知らぬ道など存在せぬわ。何せ現存する街道の殆どの建造に、金蛇屋が絡んでおるからのう」

 尊大にふんぞり返りキセルをふかしながら、口角を曲げて大きく笑う藤兵衛。そんな彼を見て可笑しそうに微笑むシャーロット。だが一方で、そんな彼らの様子を横目に露骨に不機嫌になるレイ。

「へっ。んなもん俺でもできらあ。たまたまうまくいってるだけだろ。こんな性根の腐ったクソのこった、どこでボロ出すかわかったもんじゃねえや」

「何じゃ虫。そんなに強がらんでもよいぞ。儂がしっかり案内してやる故、貴様は鏡でも見てうっとりしてるとよいわ」

「て、てめえ! 見てやがったのか! このノゾキ野郎が!」

「シャーロット、聞いてくれい。此奴は先日、下々の者に美人とか何とか言われた世辞を真に受けての。ここの所お前が寝入った後、ずっと鏡の前で粧し込んでおるのじゃ。昨日など1時間も鏡の前から動かんでのう。儂は笑いを堪えるのに必死で、今も腹が痛くて仕方がないわい! プスークックックック!!」

 藤兵衛はレイを指差し、腹を抱えて笑い出した。レイは怒りで顔を真っ赤にして拳に渾身の力を込めたが、シャーロットはそれに反してにっこり笑い、レイの肩に優しく手を乗せた。

「そうだったのですか、レイ。言ってくれれば一緒にお化粧をしましたのに。きっとレイなら見違えるくらい美しくなりますよ」

「やめいやめい、シャーロット。何をどういじっても、此奴など所詮は野獣のままよ。0に何を掛けても0のままじゃて」

「言っておきますが、藤兵衛。レイは私より遥かに美人ですよ。いつも私の為に泥に塗れてくれていますが、本当はお人形さんの様に綺麗なのです」

「顔だけはのう。しかし育ちと頭が悪すぎるわい。そもそも此奴は……」

 ドン! と大きな音。小屋の壁を容易く粉砕した拳。静まる周囲。顔を変色させて震えるレイ。

「んだよ、どいつもこいつもふざけんじゃねえ! もういい! お嬢様もクソ商人も大っ嫌いだ! もう知らねえよ!」

「ち、ちょっと待てい! 儂は別にそんなつもりではないわ! そんな怒るほどの事は言うたつもりはないぞ」

「そうですよ、レイ。私はただ貴女が作り物みたいに綺麗だと……」

「うるせえ!!」

 風を纏い外に駆け出し消えて行くレイ。藤兵衛は落ち着いた様子でキセルをふかしながら、肩を落とすシャーロットにしんみりとした口調で告げた。

「……参ったの。ちと調子に乗りすぎたか」

「過去に経験があります。ああなったレイはしばらく手が付けられません。放っておくしかありませんね」

「信頼関係のある貴様はそれでよいかもしれぬが、儂だけは別じゃ。不本意ながら、一応謝ってくるわい。そうでもせぬと後で10倍にされそうじゃからの」

 そう言って藤兵衛は力なく笑い、シャーロットもほんの少しだけ微笑んでみせた。風が山あいを吹き抜けてる音だけが、彼らの背をさするように流れていった。


 山中。川辺に座り込むレイ。頭の中を様々な思考が通り抜けていった。ぐにゃぐにゃと纏まらぬ気持ちを抑え切れず、レイは頭を抱えて大声で叫んだ。

「……ああ、マジか。やっちまったぜ」

 自身の軽率な行動を心底恥じるレイ。だが、それは一番触れられたくない部分だった。レイにとってそれは、ある意味では根幹に関わる部分だったのだ。

(あのクソ商人はいい。あんな肥溜めみてえな生き物に、なにかを求める方が間違っている。ただお嬢様には……あの方にだけは……)

「おおい。虫よ、いるのか? 儂じゃ。居るなら返事をせよ」

 その時、藤兵衛の低いダミ声が静かな山中に響いた。レイは小さくため息をつくと、ぶっきらぼうに怒気を込めて言い返した。

「あ? いちゃ悪いのか」

 その声を頼りに近付いて来た藤兵衛は、何も言わずにレイのすぐ側に腰かけた。

「んだよ! ほっとけって言ったろが!」

 藤兵衛は何も言わず、無言のまま視線を彼方に向けるだけだった。その態度にレイは苛立ちを隠さず、大きな声で当たり散らした。

「おい! なんか言えよ! どうせまた馬鹿にしに来たんだろ! 俺は気が立ってんだ! 殺されねえうちに帰れ!」

「……すまぬ。全ては儂の不徳の成す処じゃ」

 驚くべきことに、藤兵衛は地面に額を付けるほど、深々と土下座をした。想定外の事態に、さすがのレイも戸惑いを隠せなかった。

「な、なんだよ。珍しく素直じゃねえか。メシに変なものでも入れちまったか?」

「貴様がこれほど嫌がると、露ほども知らなかったのじゃ。誰しも触れられたくない部分はあろう。儂は愚かにもそこを踏んでしまったようじゃ。容姿で金を稼ぐ者もおるし、否定するどころか立派な才能じゃが、外見だけで人を小馬鹿にするは愚の骨頂。貴様のことは依然変わらず大嫌いじゃし、出来れば直ぐにでも消え去って欲しいが、斯様な迂闊で禍根を残したくはない。どうか勘弁してくれい!」

「ったくよ……てめえ、それでも謝ってるつもりかよ」

 あまりにも馬鹿馬鹿しい言い回しに、何となく笑みが零れてしまうレイ。合わせるように顔を上げて笑う藤兵衛。

「まあ、頭を下げるだけならタダじゃしの。得はあっても絶対に損はせん。こういうのは下げ得というやつじゃて」

「ハッ! てめえらしいぜ。まあ、その……俺も悪かった。ついカッとなっちまってよ。かんべんな」

「グワッハッハッハ! 貴様までどうした? 山中で毒茸でも拾い食いしたかの?」

「けっ。うるせえなクソ野郎が!」

 顔を見合わせて笑い合う2人。静寂の中、穏やかに時間が流れていった。レイはキセルを美味そうにふかす藤兵衛に、ぽつりと言葉を投げ掛けた。

「しかしよ……てめえもかなりの変人だな。大陸一の商人とか、世界一のごうつくばりとか聞いてたからよ。もっと救いようのねえクズだと思ってたんだがな。ま、クズにはちがいねえが、どうも思ってたのとは異なんな。正直よ、こないだのボンスンでの一件……みごとだったぜ」

「ほう! 儂を見直したか! まさか貴様……儂に惚れたのではあるまいな?」

「んなわけねえだろ! てめえの性根が腐りきってんのは間違いねえが、ヘドが出るほどじゃねえって話だ! 肥溜めよりゃちったあマシってくれえだバカ!」

「誰が肥溜めじゃ! 四海に轟く儂の魅力は貴様の足りぬ頭では判断出来まいて! 少しは人を見る目を養ってはどうじゃ」

「うるせえ!」

「グォポ!」

 いつもの遣り取り、いつもの空気。しかしレイの気持ちは何処か晴れない。言葉に出来ぬ澱を心に抱きながら、何となく天を仰ぐレイ。澄み切った夜の闇が一雫、心の底に落ちた。

「……なあ。てめえは家族とかいんのか?」

 レイがポツリと尋ねた。藤兵衛は若干表情をかげらせ、何処か遠い目をしてキセルを深く吸い込んだ。

「……今はおらぬな。いきなり何じゃ?」

「友達とか、仲間とかは?」

「さあての。居るような居らぬような。……ええい、じゃから何だというのじゃ! まどろっこしいわ!」

「俺にはよ……なんにもねえんだ」

 レイは異常な程に整った顔を高く高く空に上げて、薄闇の中に控え目に瞬く三日月を見つめていた。静寂を背景に、星明かりに照らされて確固として浮かび上がる美に、藤兵衛ですら思わず全身を震わせた。

「(友人などおらぬのは当然として)家族がおらぬのか?」

「……さあな。わかんねえ」

「おい! 分からんとは何じゃ! 儂が珍しく真面目に聞いてやっ……」

「俺には記憶がねえんだ」

 レイは表情を崩さずに、はっきりと一言だけ告げた。藤兵衛は発しかけた言葉を飲み込み、更に目を細めてレイの目をしげしげと見つめ込んだ。

「俺の記憶は、お嬢様の笑顔から始まってる。その前はなんも覚えちゃいねえ。お嬢様が笑って、名前を呼んでくれて、そこから俺という存在は生まれたんだ。あれから何年たったか知らねえが、俺はずっとお嬢様の側で働いて、そんで戦うことしか知らねえ。俺にはお嬢様しかいねえんだ。お嬢様だけが俺の生きてきた証なんだ」

「……」

「だから、俺にはお嬢様に否定されるのが一番つれえ。周りのクソどもになんざ、どんなこと言われたってかまわねえ。ゴミみてえに扱われ、人形だの傀儡だの呼ばれてもな。けどよ、お嬢様にだけは言われたくなかったよ。そんだけだ。……悪かったな、つまんねえ話して」

「よいわ。ある意味では……儂も貴様と何も変わらぬ」

 パッパと尻の周りの土を払いながら、藤兵衛は立ち上がった。その目にはレイが今まで見たことのない、不思議な光が宿っていた。

「あ? そりゃどういう意味だ?」

「さあての。そんなことはどうでもよいわ。で、貴様は今日はどうするつもりじゃ? 儂と一緒に戻るか?」

「どうもそんな気にゃなれねえな。気温も暖けえし、ここらでちと頭冷やすわ。悪いがお嬢様を頼むぜ。心配しねえでも、敵の気配がしたらすぐ駆け付けるからよ」

 藤兵衛は無言で首を縦に振って、レイに軽く手を挙げて歩き出した。その瞳には、先程とはまた違った深い内省の色が秘められていた。

「強くならんとな……貴様も、儂もの」

 ぼそりと言い残しながら去って行く藤兵衛。レイはまだ月をぼんやりと眺めていた。月もまたレイを見つめているようだった。些か大袈裟な光に包まれ、美しくも儚いレイの輪郭からは、一種の神々しさすらも浮き上がっていた。


 一方、藤兵衛が山小屋に帰還するや否や、シャーロットがバタバタと駆け寄り、彼の肩を両手で掴んで尋ねてきた。

「藤兵衛! よくぞ戻ってくれました! 貴方まで居なくなっては私は……。ところでレイは? レイはどこへ行ったのです? こんなにも長い間留守にするなんて、まさか私に愛想を尽かしていなくなってしまったのでは? どうしましょう、藤兵衛。すぐに迎えに行かなくては……」

「落ち着けい! 彼奴は暫し一人で考え事をしたいそうじゃ。単細胞なりに思う所がある様子。こう言う時は放っておくのが一番よ。貴様がそんな感じで動転しておれば、彼奴とて逆に戻るに戻れんわ。一団の長たる者なら、いつ如何なる時でも動じてるでない!」

「……分かりました。勉強になります。ならば必死で落ち着いています」

「お、おいシャーロット。儂の言った意味が分かっておるか? ……おい! 返事をせぬか! おい!」

 スッとその場に座り込んで、回路が切れたように黙するシャーロット。焦点は虚空の一点を見つめ口をぴったりと閉じ、藤兵衛が話しかけても反応すらしない。

(……やれやれ。儂一人でこの狂人をどうせいというのじゃ!)

 暫し時が流れた。シャーロットは未だ動かない。藤兵衛は不安定極まる時間に耐えかねて、とにかく彼女の気を引こうとした。

「おい、シャーロットや。ちょっと儂の相談を受けてくれんかのう?」

 彼女は動かない。

「実は困った事があってのう。美しくて賢い貴様にしか頼めぬ事案なのじゃ」

 動かない。

「儂はとても困っておるのじゃ。これはの、世界の平和に関わることなのじゃが」

「はい。何でしょうか?」

 やっとのことで口を開いたシャーロット。だがその目に生気はなく、次の矢で仕留められねば元の木阿弥となる事は明白だった。

「(ええい、ままよ! 毒を喰らわばじゃ! 丁度よい、一気に進み切ってしまえい!)のう、シャーロットや。儂にも貴様の術とやらを使うことは、その……出来るのかのう?」

「ええ。可能です」

 短くはっきりとシャーロットは断言した。拍子抜けした藤兵衛が内心でため息をつく中、彼女の魂が再び遠方へ飛び立とうとするのを感じ、彼は身振り手振りを加えてまくし立てた。

「そ、そうか! その、何というか……えらくあっさりじゃのう。もし可能であるならば、一つ儂に伝授してもらう訳には……」

「暫しお待ち下さい」

 スッと音もなく、シャーロットは小屋の外に消えていった。藤兵衛は胸を撫で下ろしながらも、何度目かも分からぬため息をついた。

(……何たる異様な状況じゃ。あの虫が居らねばこうなってしまうのか。このままでは心臓と神経が保たぬわ。誠に不本意じゃが、何としてでも彼奴に戻ってもらわねばならぬ)

「お待たせしました」

 出る時と同じく、一切の音もなくシャーロットが小屋に戻ってきた。ビクンと跳ね上がる藤兵衛に一瞥もくれず、無表情でシャーロットは不思議な形の指輪を差し出した。小さな三角形の飾りが特徴的な、金色の指輪。3つの頂点には1ミリ程度の立方体の枠が設置され、三角形の中心には同じ大きさの立方体が鎮座していた。

「これを付けて下さい」

「ほう。これがあれば儂も魔術の使い手になれる訳じゃな! どれどれ……えいや!!」

 敢えて大袈裟に、うきうきとした様子で右人差し指に指輪をはめ込み、藤兵衛は道化じみた動きで腕を出鱈目に振り回した。その滑稽な姿を見て、シャーロットも堪らず笑みを零した。

「ふふ。誰でもすぐに使えるような、そんな便利なものではありませんよ。それに、私の使役する術は魔術ではなく、“闇術“と呼ばれています」

「闇術か。何度か聞いたが、実に興味深い響きじゃの。儂の体を流れるという、闇力とやらと関係が?」

「その通りです。貴方は既に、人間という種を飛び越えつつあります。私たちと同じく闇に生きる存在に。闇力はその証です。詳細は省きますが、闇力によって自然の摂理をこじ開ける行為、それを称して闇術と呼ばれます」

「そんな大層なものが儂の中にあるとはの。要約すれば、闇力とやらを制御し、一定の法則に従えば闇術とやらが行使出来ると。その理解で構わぬか?」

「ええ。流石ですね。しかし、そこに至るまでに近道はありません。日々の訓練のみが、貴方に新たな力を授けます。よろしいですか?」

「ホッホッホ。そりゃそうじゃの。世の中は万事同じじゃて。容易に映る近道など、得てしてまやかしか欺瞞のどちらかよ。どれ、そろそろこいつの使い方を教えてくれぬか」

「ええ。もちろんです。まずは集中すること。闇力を体に満たしてください。もう貴方には出来るはずです。心の臓に溜まる漆黒を汲み上げ、血管を伝って全身に行き渡らせるイメージです」

 こくりと頷き、素直に目を閉じる藤兵衛。彼は既にそのコツは掴んでいる。深く、深く、自らの魂の淵に釣り糸を垂らす感覚。そして、すぐにそれはやって来た。内側から捲り上がるように、暗い力の波動が全身を包み込んでいった。

「ここまでは問題ありませんね。では、次からが本題です。貴方の体の中に流れるその力を、指輪の中央のキューブにぴったりだけ、一切の過不足なく注いで下さい」

「キューブ? この立方体の枠かの? そんなの簡単であろうが。……!? い、いかん! 流れ出てしもうた!」

 藤兵衛の身体から流れ出る漆黒の波動は、勢い余ってキューブから大量に溢れ出し、その場で渦を巻いて消えていった。

「量が多すぎます。もっと少なく、ぴったりの量で」

「それならば……えいや! ……むむ! 今度は半分もいっておらぬ! 本当にこんなことが出来るのかのう」

「貴方なら出来ますよ、藤兵衛。私が保証します」

 微かな微笑みで応えるシャーロット。悪戦苦闘する藤兵衛。暫しの時間が流れた。耽る夜の狭間に、彼の呻き声だけが響いていた。

「……ええい、これならどうじゃ! ……ああ! 駄目じゃ、また多すぎるわい。もう50回はやっておるのに、成功の兆しすら見えぬぞ。もしかして儂には才能がないのかのう?」

「いいえ。50回で駄目なら100回やって下さい。100回で駄目なら1000回やって下さい。闇術には基礎が大切です。基礎無くして応用は有り得ません」

「しかしのう……ああ、全然駄目じゃ。シャーロット、一度見本を見せてくれぬか? 正しいやり方を見て覚える故」

 藤兵衛はそっと指輪を外し、おずおずと指輪をシャーロットに差し出した。彼女はにっこりと美しく微笑み、左の薬指に指輪をはめ込んだ。

「分かりました。よく見ていてください。……はい、簡単でしょう?」

(な!? こんな一瞬で!?)

 瞬きする暇もなく、完璧にキューブに注ぎ込まれたシャーロットの闇力。それはコンマの狂いもなく綺麗な立方体を描き、呼応したキューブの縁が僅かに輝いたかと思うと、その輝きは周囲を形作る三角形の一つの頂点に移行した。

「何と美事な……これが成功例というわけじゃな! 今のを目指せばよいのか! 成る程のう。実に参考になるわい」

「ええ。同じことを3回繰り返し、三角形の頂点を全て光らせれば、簡易的な術が発動します。このように、三角だったり四角だったりする様々な形の紋様を、我々は術式と呼びます。上位術となると例外もありますが、術式の構築こそが闇術の根幹であり、全てと言って差し支えないでしょう。さあ、後はご自分で確かめて下さい。三角形の全てのキューブを反応させるのです」

 再び指輪を渡すシャーロット。目を輝かせてそれを奪い取る藤兵衛。

「成る程、理解したぞ! 後は儂に任せい! すぐにこの術を使い熟してやる故な!」

「まあ、何とも頼もしいです。では早くやって見せて下さい」

「……うお! また多いわ! 何故こうも上手くいかんのじゃ?」

「量の調整もですが、常にキューブの形を意識して下さい。こればかりは感覚です。慣れれば指輪なしでも術が作れますよ」

「そんな大海の果ての如き話は不要じゃ。今の儂に出来る事を全力で……おおっ! 見よシャーロット! 1個出来たわい! 遂に成功したぞ!」

 藤兵衛の素っ頓狂な叫び声に振り向くと、確かに三角形の頂点の輝きは増えていた。満面の笑みを浮かべる彼に、シャーロットは目を見開いて、にっこりと大きく美しく微笑み返した。

「すごいですね! 100回程度で成功させるなんて。レイは500回やっても駄目でしたよ」

「グワッハッハッハ! 皆まで言うでない。儂と虫とでは才能が違うわ。いやあ、実に気分が良いわい。祝杯でも上げるとするかの」

「そうですね。レイは闇力を術ではなく、自身の身体強化にのみ使っていますから。でも油断しては駄目ですよ。まだもう一つ残っておりますから。さあ、今の感覚を忘れぬうちに」

「ホッホッホ。貴様の言う通りじゃな。先達の言葉には従おうて。どれ、ここは連続で……グェポ!!」

「ふふ。調子に乗るからですよ。私はそろそろ寝ますが、どうか明日に残らない程度でお願いします」

 温かい笑い声が沸き起こる室内。それをすぐ近くから眺める一つの影。レイはその場でピタリと動きを止め、目を伏せて舌打ちしながら踵を返した。

(へっ。なんでえ。俺がいなくてもずいぶんとにぎやかだな。これじゃ……やっぱ俺がいる意味なんてねえか)

 寂しげな目をして、一人山中に引き返すレイ。その足音はシャーロットたちには届かず、静かな海のようにレイの姿は消え失せていった。


 そして朝が訪れた。

 シャーロットが目を覚ますと、目の前には高いびきをかいて眠る藤兵衛の姿があった。

「グォーゴゴゴ! グォーゴゴゴ!」

「まあ。練習しながら寝てしまったのですね」

 可笑しそうにくすりと笑って、彼女は藤兵衛を優しく揺さぶった。

「もう朝ですよ。起きましょう、藤兵衛」

「ぐうう。シャーロット……あと一個が、どうしても……」

「また今日頑張ればいいでしょう。さあ、出立の準備をしましょうか」

 そう言って陽の光を浴びに外へ出たシャーロット。だがそこには、レイが1人座り込んでいた。不機嫌そうな表情を隠す事なく、レイは1人身支度を整えていた。表情を僅かに硬くしながらも、シャーロットは努めて冷静に話しかけた。

「昨日はどこにいたのですか、レイ。心配しましたよ」

「べつに言う必要なんてないでしょう。俺はお嬢様の奴隷じゃありませんから」

 目も合わせずぶっきらぼうに告げるレイ。その態度を受けてキッと表情を更に固くするシャーロット。

「そんな言い方はあんまりでしょう。私は貴女が心配で……」

「ご心配なく。ちゃんとお嬢様のことはお守りしますよ。そういう“契約”ですからね」

「レイ!!」

 この旅が始まって以来、いやレイが彼女と会ってから初めて、シャーロットが激しく声を荒げた。驚いて外に飛び出した藤兵衛は、険悪極まる2人の間に恐る恐る割って入った。

「こ、これ! 喧嘩などやめい! そんな事をしても一銭にもならぬぞ。ここは互いに収めてはくれぬかの」

「てめえには関係ねえ! いいからさっさと支度しろ!」

「……支度なさい、藤兵衛。すぐ出発します」

 プイっと互いにそっぽを向く二人。暫し立ち尽くした後、諦めて無言で支度をする藤兵衛。

「今日のうちにセイリュウ国の首都、バイメンに到達したいと思います。道案内は任せましたよ、藤兵衛」

「今日中か。ここからだと山間部を迂回せねばならぬ故、少しばかり厳しいのう。せめて2日貰えぬか?」

「……そうですか。ならば仕方ありませんね。貴方がそう仰るなら、それが真実なのでしょう。私は貴方に従いますよ、藤兵衛」

 腕組みをしながら冷静に計算して答える藤兵衛。ほんの少しだけ微笑みを取り戻したシャーロット。だが……。

「けっ。なんでえ。普段エラそうにしてるくせによ、んなこともできねえのか。道案内くれえしか能がねえんだから、なんとかしてみろってんだ」

「いや、そうは言ってものう。この辺は地理的にも政治的にも複雑な地域なのじゃ。貴様の言い分も理解出来るが、そんな簡単なものでは……」

「言い訳してんじゃねえ! ったく、つくづく使えねえクソ人間だぜ!」

「いい加減になさい!」

 再び激しくシャーロットが叫んだ。その圧に思わずびくんと震えた藤兵衛と、平然と受け流したレイの姿があった。

「先程から貴女の態度は何ですか! 私に言いたいことがあるなら、はっきり私に向かって言いなさい! 関係ない藤兵衛に当たり散らすなど、情け無くて涙が出ます」

「べつにそんなんじゃないですよ。こいつが嘘ついてサボろうとしてやがるから、とっちめてるだけです。お嬢様には関係ありませんから」

「……分かりました。そんなに言うなら、今日は貴女が力車を引けばいいでしょう。貴方は乗りなさい、藤兵衛」

「当たり前です。なんの問題もありませんや。おい、クソ商人。お前も早くしろや」

 イラつきを一切隠すことなくレイは叫んだ。それでも藤兵衛は、こっそりとレイに近付き耳元で呟いた。

「お、おい。無茶するでない。こういうのは儂の仕事な故、貴様は少し冷静になってだな……」

「俺は冷静だ! ナマイキに心配なんざすんじゃねえ! セイリュウは一度来たことがあらあ。首都まで一気にぶっこんでやるぜ。グダグダ言ってねえでさっさと乗れや」

「グェポ!!」

 レイは力任せに藤兵衛を力車の中に蹴り飛ばした。壁にぶち当たろうかという勢いをシャーロットに抱き締められ、すぐに力車は動き出した。

「大丈夫ですか、藤兵衛? 一体レイはどうしてしまったのでしょう? 私には理解出来ません」

「恐らくは……儂のせいじゃな。安定しておった貴様らの関係に、儂という余計な異物が入り込んだことで、阿呆がいつも以上におかしくなった訳じゃ。全ては儂の責任じゃて」

「そんな事はありません。これは私の決断です。全ての責は私にあります。レイとてその事はしかと分かっている筈です」

「さて、どうだかの。……おい、シャーロット。動き出したはよいが……凄い速度じゃぞ。本当にこのままバイメンまで行くつもりか?」

「私は知りません。レイの好きなようにやらせましょう」

 異常な速度で進み始める力車の中で、シャーロットはそっぽを向いて本を読み始めた。藤兵衛は暫しの間躊躇っていたが、やがて諦めると意識を集中し指輪に力を込めた。

(些細な事が原因で、良好だった人間関係が崩れることはままある。そして致命的な危機の9割は、不適な人間関係に起因するものじゃ。……何も起きなければよいがの)

 ぼんやりとこの先を案ずる藤兵衛。シャーロットの美しい横顔が、いつもより仄めいて見えた。赤く燃えるような美しい肌。そこでふと彼は我に帰った。何かが起こっている。今までにない変化が、自分の手元に生じていることに。

(……赤い? ……熱じゃと!?)

 藤兵衛が慌てて見ると、リングの三角形全体が赤く輝き、全てのキューブに力が満ちていた。藤兵衛は驚嘆の声を上げ、急ぎシャーロットを呼んだ。

「つ、遂に完成じゃ! やったぞ! で、この先はどうするのじゃ?」

「上出来です。まずは指で対象を指し、対象を具体的にイメージなさい。窓から見える適当な岩でいいでしょう。そして唱えなさい。術式に秘められた言葉を。そう……『マグナ』と!」

「了解じゃ!  ……『マグナ』!!」

 藤兵衛が神秘の文言を唱えると同時に、指輪の中に刻まれた三角形が空中に浮き、ボロボロと形を崩していった。そして輪郭まで消え去ったその瞬間、突如として空間から拳大の火の玉が湧き出て、彼が指し示した岩に向かい勢いよくぶつかった。火の玉は彼らの視界から消えるまで、ずっと消える事なく燻り続けていた。

「こ、これが闇術? 本当にあれを儂がやったのか?」

 藤兵衛はぽかんと口を開けて放心していた。その背をゆっくりと撫で、美しい笑顔で迎えるシャーロット。

「ええ。紛れもなく貴方の力です。おめでとう、藤兵衛。闇術の世界に一歩足を踏み入れましたね」

「グワッハッハッハ! 儂はやれば出来る男じゃからな。大闇術師になる日もそう遠くなかろうて」

「ふふ。期待していますよ。それではこの術を3秒で、狂いなく発動出来るようになってください。そこで初めて初心者脱出です」

「さ、3秒じゃと?! 1日以上かけてやっとというに……幾ら何でも無理じゃて!」

「おや、こんなところで音を上げるのですか? オウリュウ国一の大商人の根性はこの程度なのですか?」

 シャーロットはくすくすと楽しそうに微笑んだ。藤兵衛はくっと歯を噛み締めるも、すぐに平常に戻り、指輪に残った火でキセルに火を付け、煙をふんと一息吐いた。

「虚仮にするでない! この儂を誰と心得るか! オウリュウを統べる大商人、金蛇屋藤兵衛その人ぞ! 1週間あらばそんなもの余裕でこなしてやるわい。どれ、そうと決まれば練習の続きじゃ! ……ぐうっ! また溢れてしもうたわい!」

「ふふ。冗談でも何でもありませんよ。私は本当に楽しみにしています」

 和気藹々とした雰囲気の車内とは裏腹に、レイは忿怒の表情でひたすらに歩みを進めていた。レイは、心の中に湧いては溢れる思いに蓋することができず、怒りと不安の海に身を浸すだけだった。

(ふん! ヘラつきやがって。見てろよてめえら。俺が、俺だけがすべてをうまくやれるんだ! なにが大商人だ! なにが闇術だ! なにが……人形だ!!)

 偏狭な思い、内から滲み出る汗と涙。だがそこにレイが気付くことはない。今はまだ何も、レイは何一つ分かってはいなかった。


 神代歴1278年10月。

 藤兵衛たちの旅は暗く不安に包まれていた。それを暗示するように、暗い雲が目の前に立ち込めていた。太陽が隠れいくその背から、最後に放たれし眩しすぎる光が、レイの美しすぎる横顔を照らしていた。

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