第25話「ガーランド」②

 街外れ。意志を秘めた女たちの死闘。

 レイの視線の先には、突っ伏したまま『降魔』を発動し、闇の異形に染まるカミラの姿があった。だがそれを悠長に待つようなレイではない。悠然と風を纏い駆け寄ると、渾身の前蹴りを細い顎に向けて叩き込んだ。集中を深めるカミラは攻撃に対応できず、まともに打撃をもらい、呻き声を上げて後方の雑木林へ吹き飛んでいった。

「へっ。スキありすぎだろ。あの熊野郎もそうだったが、てめえらの降魔は弱点だらけだぜ。俺が教えてやるよ。本当の闇ってモンをな!」

 唾を地面に吐き捨てて、視界外のカミラに言い放つレイだったが、彼女からは一切の反応が感じられなかった。

(お? んだよ。もう死んじまったか?)

 ふっと林の中を覗き込もうとした瞬間、ぞくりと背筋に違和感が走った。レイはその感覚に従い、本能のまま脇に飛び跳ねた。と同時に貫く閃光。地面が抉れるほどの一閃に思えたのは、降魔を終えたカミラの突進だった。青黒く輝く馬の如き姿。たてがみは特徴的な金髪だったが、頭の中心から頭上に向けて禍々しい角が突き上げていた。

「へっ。一角獣ってやつか。ビッチのテメエにゃ似つかわしくねえな」

「黙れ! 穢らわしき下郎が!」

 再び稲妻の如き突進。それはレイの反射神経をもってしても反応出来ぬ程の凄まじい速度だった。完全には回避出来ず左肩を貫かれ鮮血が撒き散り、白い大地を赤に染めていった。

「数ある降魔の中でも、バイコーンの速度は最上位だ。お前程度では見切る事は出来ん。己の無力を恥じながら死んでいけ。『パルチザン』!!」

 後ろ足を蹴り上げて、更に鋭い突進を行うカミラ。幾度となく雪原に閃光が走り、避けきれぬレイはその度に雪原を血に染めていった。しかしレイは余裕の嘲笑を失うことなく、何処か見下したように彼女を見つめていた。

「ずいぶんと余裕だな。降魔を使わんでいいのか? このままでは何もできずに死ぬだけだぞ」

「へっ。こりゃ余裕なんかじゃねえよ。あまりにてめえがヌルいからよ、ちっと退屈してただけだ」

「……調子に乗るな!」

 再び放たれた突進を食らい、後方へ激しく吹き飛ばされながらも、レイは空中でくるりと回転して近くの木の頂上に降り立った。それを見てカミラの動きが一瞬だけ止まった。レイは中指を立てながら、闘気と狂気を同時に孕んだ笑みを浮かべた。

「さて、この状況でどうするよ? てめえらの『降魔』にゃ大きな欠点がある。今から俺が教えてやんよ」

「……私を舐めるな! 『パルチザン』!!」

 怯む事なき突撃。カミラの一閃は容易に大木を突き倒していった。だが、レイは事前にそれを予測して、既に次の木の上に飛んでいた。彼女は歯を噛み締めて、息を荒げながら次々と木々を薙ぎ倒していくも、レイはまるで踊るように天を渡り歩き、彼女を翻弄し続けていた。

「へっ。ずいぶん息が上がってやがるぜ。まず第1だ。てめえらの『降魔』は消費がデカ過ぎるぜ。闇力は本来、人の身には存在しねえモンだ。それでも力を求めるなら何年もかけて、ゆっくり身に馴染ませなきゃならねえ。それをよっぽどムチャこきやがったんだな。その突進……あと何度行えるよ?」

「うるさい! 貴様に何が分かる! 『トライデント』!!」

 後ろ足を何度も蹴り上げてから、カミラは闇力を極限まで集中させて、爆発的な突進を繰り出した。額の角を中心に衝撃波が広がり、彼女の目の前の木々を纏めて切断していった。だがレイは荒野と化した一帯からふわりと降り立ち、風を纏って森の中に飛び込んでいった。それを追うように中に突進したカミラは木々をなぎ倒し、一目散に闇力の指し示す場所に飛び込んでいった。

「!?」

 しかしそこに無数の岩が降り注いだ。回避が間に合わず激しい音を立てて吹き飛ぶカミラ。

「そういうこった。第2に、てめえらは闇力感知に頼りすぎる。前くらいちゃんと確認しろよ」

「……貴様!」

 ひょいと目の前に飛び出したレイに怒りの視線を向け、カミラは足を奮い立たせ再び突進しようとした。外す距離ではない、そう確信して放った突進は無残にも空を切り、レイは遥か彼方で余裕の表情を浮かべていた。よく見るとレイの足のみが銀色に輝き、獣の如き異形を形作っていた。

「こいつが『部分降魔』ってやつだ。使いこなすのにコツがいるんだが、やっぱ知らねえみてえだな」

「ええい小賢しい! 次こそは貫いてくれる!」

「そうかよ。好きにしな。いつになるか知らねえがな。つうかよ、てめえ……いつまでもこんなとこにいていいのか? 愛しのガーランド様を放っておいてよ」

「!?」

「アホなてめえが気づいてるのかしらねえがよ、今頃大広間じゃウチのお嬢様とクソどもが大暴れしてんぜ。のんきに俺の相手してるヒマあんのか? ま、俺としちゃどっちでもかまわねえけどよ」

「……最初から時間稼ぎが目的か! 全ては私の足止めの為に!!」

「ま、もうおせえだろうけどな。いっちょ頑張ってみりゃどうだ? 俺は逃げるだけだけどよ。ほれ、俺にくっついてた『首輪』とやらも消えてるぜ。だいぶ苦戦してんじゃねえの?」

 カミラは考える。自分は今からどうすべきかを。無視してガーランドの元に進むべきか、目の前の障害を確実に全力で排除するか。

「(不確定な情報が多すぎる。私では判断出来ん。一つだけはっきりしているのは、ガルが私に言った事だ。あいつは私に……信じろと言った。ならば私は……)お前は危険すぎる。今ここで殺るしかない。……『エスペヒースモ』!!」

 カミラの胸元に不思議な術式が光り、即座に闇術が発動した。彼女の身体は千切れるように3体に分かれ、その各々が時間差をつけてレイに向けて突進した。

(やべえ! 『固定術式』だと?! なんでこんなアホが!)

 回避も間に合わず、三方向からの閃光によって貫かれるレイの身体。口から激しい吐血、ぐったりと力を失うレイを確認し、カミラは激しく息を切らしながらも勝利の笑みを浮かべた。

「……無駄な時間を過ごした。早くガーランド様の元へ向かわねば」

 忌々しそうにレイを投げ捨てて、カミラは一声嘶いてから4本の足で一直線に街へと駆け出した。一気に速度は最高地点に達し、街道を駆け抜けんとしたその時、背中に違和感と異物感が広がった。確かな重さを感じた彼女が振り返ると、そこに居たのは勿論レイだった。

「へっ。きいたぜ。なかなかやるじゃねえか。さて、んじゃ次行ってみっか。俺をナメんじゃねえぞ」

「貴様! 降りろ!」

 レイは全身を銀色に発光させて、カミラの背の上で獣のような異形を露わにした。彼女は駆けながら体躯を左右に大きく振り、背に乗るレイを振り落とそうとした。だがレイの握力、そして体幹の筋肉は、彼女をがっしりと捉えたまま決して離すことはなかった。

「いい速度だな。ほれ、もっと気合い入れろや」

 嘲笑しながらレイはパンと強くカミラの尻を蹴り飛ばした。彼女は苦悶の声を上げつつも、反射的に速度を上げた。

(くっ! なんという屈辱か! だが今は……何としても!)

 彼女は即座に決断して、自ら森の中に突っ込んでいった。神速と呼べる速度での走行を維持しながら、自らの体ごと木々や岩を薙ぎ倒して、ひたすらに前へ突き進んでいった。皮膚が裂け肉が抉れても一歳怯むことなく、ただ背の上の異物を取り払うことだけを考えていた。

 だがそれはレイも同じこと。常人離れした握力で必死にたてがみに掴まり、襲い来る凄まじい速度と障害に耐え続けた。やがて2人は絡まるように街中に突っ込んだ。両者は大聖堂の柱に突っ込み、弾けるように10メートルほど吹き飛んだ。空中でカミラは喘ぐように嘶き、それを聞いた血塗れのレイはにっと不敵に笑った。

「へっ。やっと根を上げやがったか。なら……俺の勝ちだぜ!」

 溜めに溜めた闘気を一気に吐き出して、レイは空中でカミラの首に手を回した。狂ったように暴れる彼女を力尽くで抑え込むと、両手足で4本の足を器用に折り畳み、首を地に向けて一気に風を纏い急降下した。

「てめえにゃ恨みはねえが……闇に連なる者の運命だ。せめて一息で楽にしてやる。『辻車・風狼』!!」」

 激しい衝突音。地面に亀裂が幾重にも走り、竜巻の如き土煙の中から影が、立ち尽くすレイの姿が見えた。降魔を解き足元で痙攣するカミラに何処か悲しげな視線を送り、レイは足を高く振り上げた。

「ガル……私は必ず……あなたを……」

「……くだらねえな」

 レイの足は直前でカミラを避け、ぐんと地面に向けて叩き付けた。レイは瀕死の彼女から目を逸らし、天に浮かぶ闇の雲をきっと睨み付けた。

「ありゃクソ商人か。ずいぶんハデにやってやがる。あの石コロを奪われても後々めんどうだ。しゃあねえ、一つ行ってやるとするか」

 レイは駆けた。その足取りに迷いの色はない。戦いこそが彼女の全て、そう信じていた。だがレイは知らない。その思いこそが自身を縛り付けていることを。レイの物語はまだ先へ、この道の遥か先にまで続いていた。


 大広間。ガーランドvs藤兵衛。

 右腕を失った藤兵衛は、ガーランドの視界から外れようと、必死で地面を転がり回っていた。

(もう少し行けば民家が残っておる。そこに隠れて様子を伺って……!!)

 その想い虚しく、派手な音を立てて今度は左腕が吹き飛んだ。両腕を奪われた藤兵衛は、その場に倒れ込み天に目を凝らした。周囲には無数の闇の羽が浮遊し、破壊の合図を待ち構えていた。

「やっと気付いたか。この俺がただ呑気に飛んでいたとでも? 全ては布石。貴様を仕留める為の罠だ」

 ガーランドの尊大な声が上空から響いた。藤兵衛はびっしょりと脂汗をかきながらも、悠然とキセルを咥えながら平静を装って答えた。

「それはご苦労なことじゃな。じゃが儂の経験上、無駄な苦労ほど堪えるものはないわ。精々無為に力を使わぬ事じゃな」

「貴様の言葉は聞かん。この空間内は全て俺の領域。食らうがいい! 『絶対空間』!!」

 合図と共に一斉に炸裂する空間。あまりの量、あまりの迫力に身動きが取れず、なすがままに攻撃を喰らう藤兵衛。彼の全身は千切れて吹き飛び、肉も骨も何もかもが削がれ、飛ばされていった。それは彼だけでなく、この場に残り祈りを捧げる信徒達も同様。叫び声を上げて破裂していく人々。祈り、救い、絶望、全てが入り混じった悲鳴。その中で彼は立ち尽くす。ただ虚空を眺めて立ち尽くすのみだった。

「……ガーランドよ。もう止めにせい。これ以上無関係の民草を巻き込むのは耐えられぬ」

「貴様のことだ。何か考えあっての発言だろう。繰り返すが貴様の言葉は耳に届かん。貴様が全面降伏するのなら止めてやる。そうでないならば……」

 無機質な宣言と共に、更に爆発の速度と密度を上げるガーランド。逃げ惑う信徒達が、藤兵衛の目の前で木っ端微塵に吹き飛んでいった。それをただ見ている藤兵衛、見ることしかできない藤兵衛。やがて、スローモーションのようにゆっくりと、彼の両足も吹き飛んでいった。勝利を確信しニヤリと笑うガーランド、仰向けで絶望的に言葉を吐く金蛇屋藤兵衛。

「儂の……負けじゃ。石でも何でも持っていけ。その代わり周りの人々は……シャルたちは……助けよ」

「安心しろ。素直に石を渡せば誰の血も流れん。さあ。早く差し出せ」

 藤兵衛は再生しかけの右腕で銃を握りしめ、自らの心臓に向けて1発、肉を撃ち抜いた。大量の血を吹き出しながら露わになる賢者の石。心臓とほぼ同化しているものの、それは徐々に力なく剥がれていっているように見えた。

「持って……いけ。もう……儂は………」

 ガーランドはその状況下においても、注意深く藤兵衛の闇力を測っていた。術式もない、石も分離しつつある、何より紛れも無く風前の灯火の如き闇力しか残っていない現状を確認し、彼は初めてにっと頬を緩ませた。

「遂に覚悟が出来たか。ならばありがたく頂くとしよう。……さらばだ。金蛇屋藤兵衛。『慈愛の抱擁』!!」

 ガーランドは優雅に僅か上に飛翔すると、そのまま一直線に藤兵衛の心臓、賢者の石目掛けて降下した。その速度は音を遥かに超え、石を奪うと同時に衝撃波で彼を粉々に砕かんとしていた。集中した視界には、苦しそうに呻く藤兵衛の顔が見えた。彼は僅かに口を動かし、たどたどしくもはっきりとこう言った。

「……ふん。想定より5分は遅いわ。……愚鈍な虫めが!」

 見えたのは、閃光。疾風の如き光の矢が、突如としてガーランドの視界に飛び込んだ。彼の全身には危機警報とも呼び得る猛烈な悪寒が走るも、あまりの速度故に既に自分でも止められはしなかった。光は空中で確実に彼に接近しながら、嘲笑うように言葉を発した。

「へっ。この甘ちゃんが! 喰らえ『紫電』!!」

 地上に追突する瞬間、殺意の一撃が藤兵衛を喰らい尽くさんとした瞬間、レイの音速を超えた全霊の拳がガーランドの柔い腹部を抉り飛ばした。

「ぐおおおおお!!」

 無防備な状態で極限の一撃を食らい、体液を撒き散らして遥か彼方へ吹き飛ぶガーランド。レイは闘気を漲らせたまま皮肉に微笑むと、地面に着地するや否や、藤兵衛の頭を力一杯蹴り上げた。

「てめえ! あんな馬糞臭えとこに半日も放置させやがって! 知っててやったろ!」

「ご、誤解じゃて! ああ、今のであの世に逝きかけたわ! 死ぬ! 死んでしまうわ!」

「てめえは殺したって死ぬタマじゃねえだろ! ああ腹立つぜ。臭いが取れやしねえ」

「ふん! 貴様など普段から……グェポ!!」

 レイはひとしきり藤兵衛を痛め付けると、ガーランドが飛んで行った方を注意深く眺めて、大きく欠伸をしながら言った。

「……おい。あのハエ野郎まだ生きてんぞ。手ごたえはあったが、なかなかしぶとい野郎だぜ」

「不愉快じゃがまだ終わりそうもないの。そのうち元気一杯に飛んで来ようて。貴様の助けが要る故、早く何とかせい!」

「なんで上からなんだ! ったく……ほんといつも変わらずクソだな。てかてめえ、俺らから抜けたんだろが。その件について何も聞いちゃいねえぞ」

「それに関しては誠に申し訳ない! この金蛇屋藤兵衛、心より反省しておる! さ、これでよいか? 気が済んだなら早く何とかせい」

「ぜってえ反省してねえだろ! ったく、いつもながらてめえにゃ呆れるぜ。……なあ、一つだけ聞いときてえんだけどよ。もしもよ、仮に俺が……俺の正体がよ……本当の化け物だったとしたら、てめえは……どう思う? お嬢様にとって害をもたらすようなクソみてえな存在だとたら……てめえはどうする?」

 突然の問い掛けに、藤兵衛はキョトンとした顔になった。レイは頭を掻き毟って、その言葉を発したことに後悔し、表情を隠すように大きく手を振った。

「ちっ。なんでもねえよ。今のはナシだ。忘れろや」

「何を勘違いしてるか知らんが、貴様は既に大概な化け物じゃ。儂からすれば、あのヘドロを撒き散らすガーランドより醜い、汚物の如き虫じゃて。じゃから何も心配せんでよい。これ以上儂の評価が下がることは未来永劫ない故の」

「うるせえ! てめえに言ったのが間違いだったぜ!!」

「グェポ!! な、何じゃ貴様は! 勝手に言って勝手に切れおって! まったく脳の足りぬ阿呆とは会話にならぬわい!」

 いつのもやり取り。一切変わらぬ彼を見て、レイはふっと笑った。そうだな、そういうこったな。拳に熱に血潮を込めつつ、レイは彼を乱雑に背に乗せると、彼方へ向けて走り出した。

「おい。策はあんだろうな? あんだけ好き放題飛ばれちゃ俺の攻撃は届かねえぞ」

 藤兵衛はレイに尊大に跨がると、悠然とキセルをふかしながら四肢を再生させ、余裕綽々たる厭らしい笑みを浮かべた。

「任せておけい。貴様のような能無しは黙って儂の足となるがよいわ。さあ、ここからが金蛇屋藤兵衛の見せ場ぞ! 見せ掛けの白き都を金色に染めて見せるわい!」

 2人は向かう。最後の決戦に向けて。彼らは知っていた。自分たちが力を合わせれば、破れぬ存在はないと。例えどんな困難も乗り切れると。向かう先は、未来。今より少しだけ先を見据え、最終決戦を告げる鐘が今鳴り響いた。


 大聖堂地下。高堂亜門、龍に連なる者として初めての戦い。

 彼は自らの中に聳え立つ偉大なる力に震えていた。全ての感覚が透き通る。死角にあるものすら容易に察知できる。襲い掛かるドニの触手など止まって見えるようだった。

(これが……龍の力! これが……秋津典膳公を支えた古の力!)

 全身に震えが止まらず、彼は脳内で呟いた。とても澄んだ感覚が脳に降りてきている。全身を覆う鱗の一つ一つから力がこみ上げる。彼はその感覚のまま、後方より絡めとらんとする触手にただそっと刀を這わせた。それはあまりにも軽く、あまりにも容易に、迫り来る触手を3本纏めてするりと切断した。

「!!」

 すぐに再生を試みようとするドニ。しかし、その傷口からは何も生えてはこなかった。闇力が霧のように消え失せ、その部分の降魔がボロボロと剥がれていった。亜門は自らの行った技に驚きながらも、刀から響くフィキラの声にしかと耳を澄ましていた。

《亜門よ。これが龍の真の能力だ。別次元の力を以って、お前らが『闇』と呼ぶ力も、更には『光』と呼ばれる力も全てを無効化する》

「……信じられませぬ。こんな力が存在するとは……」

《おっと。呆けている暇はねえぞ。まだ奴は動く筈だ。『強制降魔』は悪意に満ちた技法、宿主を喰らい尽くすまで途切れることはない。力だけでは足りん。後はお前の技にかかっている。亜門よ……信じているぞ》

「委細承知にて。ドニ殿……しばしご辛抱下され。高堂流奥義『天龍地尾』!!」

 触手を振り上げて襲い掛からんとするドニに向けて、渾身の気合いを込めた亜門の2連撃。振り上げと振り下げの動きはほぼ同時で目にも止まらず、いとも容易く全ての触手を切り裂くと、更には彼の体表に付着した異質な細胞を全て切り払った。闇は完全に消し去られ、彼はたまらずその場に倒れこんだ。亜門はすぐさまそこに駆け寄ると、耳を胸に押し当てて心音を聞いた。

「まだ脈はあるでござる。だが……弱い。このままでは助からぬ……」

《落ち着け。その心の臓に龍刀を突き刺すのだ。時間がない。早くしろ!》

 急かすフィキラの声に亜門は僅かに頷くと、迷い無く古刀をドニの胸に深々と突き刺した。刀は途中からずぶりとひとりでに埋まっていき、不思議な七色に輝き始めた。同時に何かが砕ける音がして、ふっと闇の気配が途切れた。最初こそ苦しそうに蠢いていたドニだったが、やがて呼吸を落ち着かせ、静かに寝息を立て始めた。その異形は少しずつ形を失い、やがて全ては凪の如く鎮まっていった。

「これが……龍の力でござるか。なんという偉大な力でありましょう。フィキラ殿、お力添え感謝いたしますぞ」

《礼など要らん。どうせ俺にとっては最後の力だ。さて、もう時間か。残りは亜門……お前に託したぞ。俺との約束、必ず果たしてくれ》

「フィキラ殿、どうしたのでござるか?! まさかお体に何か?!」

《終わりだ。全てな。だがくだらねえ俺の人生も、最後の最後で意味はあったようだ。あの日……仲間たちは人間を見限った。だが俺はそれが出来なかった。どうしても捨てられぬ思いがあった。お陰で散々な目にあったが……満更捨てたものでもなかったぜ。亜門、よく聞け。これからの世界は……あの娘を中心に回っていく。シャーロットを守れ。今日この瞬間、俺は確信した。俺がここまで生きてきたのは……恥を捨てて生き延びてきたのは……お前らと出会う為だったのだ。全ては……必然だったのだ》

「フィキラ殿! しっかりして下され! 世界は貴方様の偉大な力を必要としておりまする!」

《実に……滑稽だ。俺は本来、もっと早く死ぬ筈だった。だが古い仲間との誓いを……“あの方”の意思を……友の仇を……全てはそこに“込め”た。何かあれば東大陸南部の『龍の郷』を尋ねろ。そこにいる銀龍に……あのバカに全てを……》

「わかり申した! 委細承知にて。必ずや魔女めを守り、フィキラ殿の意思を継いでみせまする! ですから……」

《ありがとよ。全てはここに結ばれた。……“『メノス』は成した”。ハーシルのバカに……それだけ伝えれば全て理解してくれる筈だ。……では俺は先に行くぞ。くれぐれもゆっくり来るのだぞ。高堂亜門……俺と友の意思を継ぐ者よ》

 ふっと火が消えるように消失したフィキラの気配。亜門は無駄と知りつつも辺りを窺うが、しんと静まり返った部屋の冷たい温度に包まれるだけだった。彼は膝をつきドニに刺さる古刀に両手を合わせ、目を閉じて祈るように呟いた。

「正直理解出来ぬことばかりですが、フィキラ殿の御意思は痛い程伝わったでござる。己の一命にかけても、必ずや偉大なる龍の念願を叶え申す。己は行かなければなりませぬ。魔女めを守り通し、真実がその姿を見せるまでは。それまでこの御力……遠慮なくお借りし申す」

 暫しの祈りの後、亜門はばっと勢いよく立ち上がり、戦場へ向けて駆け出した。徐々に龍の力が体から失われ、体内の一箇所に集まっていく。彼の鳩尾の中心、そこには新たな龍の刻印が刻まれていた。

 亜門は駆ける。ひたすらに駆ける。そこから更に先に向かうため。ここより少しだけ先に進むため。


 大聖堂付近、路地裏。

 ハイドウォーク家使用人であるペインは、生まれて初めて感じる心底からの恐怖に、喉が焼き付かんばかりに乾き裂ける感覚に、その液体状の身体が飛び散らん程に身震いしていた。

 家の汚れ仕事を一手に引き受ける身として、様々な者と相対してきた。時に自分より遥かに強い者を相手取る事もあった。だが、そんな時ですら彼はしぶとく己の能力と知恵を駆使し、人を食ったような態度を崩さずに乗り切ってきた。彼は己が卑小な存在と知りながらも、歪んだ誇りと自信を胸に今まで生き残ってきたのだった。

 そんな彼が今、魂の根幹まで凍り付かんばかりの恐怖に震えていた。目の前に映る真紅の怪物を見て。彼女の周囲に渦巻く闇の、尋常ではない量と密度を確認して。切り裂かれんばかりの殺意に晒されて。

(ダメだ! ありゃ既にミカエル様と同格だ! 俺じゃどうやっても勝てる訳がねえ! とにかく隙を作って逃げねえと)

 そう思ったペインがほんの僅か、数ミリほど身体を動かした瞬間、10を超える巨大な火球が周囲を取り囲んでいた。いつの間に術式を構築したのか分からない程の速度で、確実に目の前に迫る死に覚悟を決め、彼は全身を闇の異形に染めた。

(やべえ! このままじゃマジで殺される! ……『降魔・スキュラ』全霊発動!!)

 ペインは全ての闇力を振り絞り高速で異形の姿へと変化すると、溶けた雪の流れ込む水路に向けて、まるで吸い込まれるように侵入していった。水と同化し水の流れに身を任せることで、彼は炎渦巻く戦場から何とか離脱する事が出来た。逃げそびれた右腕が蒸発し再生を必要としたが、今の彼に痛みを感じている暇はなかった。急ぎ水路から土の間を潜り抜け、一路地下水脈へと向かうペイン。液体と同化した彼の身体はそれを容易に行うことが出来た。

 暫くそのまま進み、漸く水脈に到達しようというその時、地獄の底のような声が彼の耳に届いた。

「あまり私を舐めないことです、ペイン。その程度の行動を私が見逃すとでも?」

「な……なんだこりゃあ!?」

 大地が、浮かんでいた。円錐型に抉れた大地が、ペインごと天高く浮かんでいたのだった。その真下には漆黒の表情のシャーロット。彼女は顔色一つ変えずに、手のひらをぐっと握り込んだ。と同時に崩壊する大地。咄嗟に地表に逃れた彼だったが、崩壊する土砂に巻き込まれ、ぐしゃりと情け無く地面に激突した。

(ぐうっ! か、勝てねえ! 逃げられねえ!)

「終わりです、ペイン。己の行いを後悔しながら地獄へと行きなさい」

 呻くペインの顔が絶望の色を更に深くしていった。その耳には無数の術式を引き連れながら、一歩ずつ大地を踏み締めるシャーロットの靴音が聞こえた。確実に、数秒後、俺は殺される。彼はそう確信した。救いを求めて周囲を伺う彼は、ふとした拍子に勝機の欠片を発見すると、急にへらへらと道化じみた笑みを浮かべた。

「ち、ちょっと待ってくれよ。シャーロット、さっきのは冗談さ。お前なら分かるだろ? な、冷静になろうぜ。俺らは仲間だろ? だから……ギャアアアアア!!」

 彼がそう言った瞬間、巨大な稲妻が天から降り注いだ。展開する水の防御壁を容易に貫かれ、全身を焼き焦がしながらペインは悲鳴を上げてへたり込んだ。

「手遅れです。ハイドウォークの名に於いて、私は貴方を抹殺します。確実に、この場で」

「へっ。裏切り者が偉そうによ。果たしてテメエにそれが……できるかな!?」

 と言うや否や、彼は近くで腰を抜かしていた信徒に神速で乗り移った。薄い液体が体表をぴっちりと覆い、苦しそうに蠢く彼女をせせら嗤いながら、ペインは勝ち誇ったように叫んだ。

「へへ。なんとか成功したぞ! おら、こいつの命が惜しけりゃさっさと退きやがれ! 知ってんぞ、テメエは人間の命は奪えねえ。こんなゴミクズの命でもだ。大人しく去りやがれ!」

 ペインは勝利を確信し、醜く喚き散らしながら中指を突き立てた。もがき苦しむ信徒にふっと視線を向けてから、シャーロットは躊躇わずに複雑な術式を構築し始めた。ペインが見たことも聞いたこともない、明らかに最上級術式と見て分かる圧倒的な力を前に、彼は人質を盾にやかましく騒ぎ立てたが、シャーロットの冷たい眼は翻らない。

「や、やめろ! こいつが死ぬぞ! おら、退きやがれ! 今なら間に合う……」

「何も……間に合いなどしません。今日この瞬間、私は一線を超えてしまいました。恐らく、お兄様の狙いはこれだったのでしょう。ですが……私に後悔はありません。……『ディバイン・グレイス』!!」

 光が、シャーロットを中心に広がっていった。眩い光だった。目を覆いたくなるほど強く、それでいて温かみを感じる光だった。人々は遠くからその光景に祈りを捧げた。それは瞬く間に広がっていくと、荒れ果てた大地すらも癒し、闇に傷付けられ倒れ込む人々に潤いと癒しを与えた。

 そしてペイン。彼は光に包まれ、ゆっくりと消滅していった。取り憑いた人間は全くの無傷で、闇に生を受けた彼だけが音も無く消え去ろうとしていた。消滅する瞬間、彼は心中で確信した。全ての話が彼の中で一つに紡がれていったのだ。

(なるほどな。……これがハイドウォーク家の……いや、“あの方”が言っていた力か。やはりそうか……となるとミカエル様は……だとすると……バラム様に伝えなければ……)

 光はどんどんと広がり、グラジール全体を覆った。傷つき倒れたものもゆっくりと起き上がり、人々は涙と歓声を上げた。彼らの見つめる先には、光に包まれて美しく微笑むシャーロット=ハイドウォーク。

 やがて光が収まると同時に、彼女はにこりと大きく微笑んでその場に突っ伏した。だがその場に矢のように駆け寄り、それを支えたのは他でもない高堂亜門。彼はふんと鼻を鳴らしつつも、しっかりと体全体で彼女を抱き抱えた。

「しっかりしろ! とんでもない術を使ったでござるな。しかし……“魔女”、か。この様子ではとてもそう呼べぬな」

 気を失う彼女を背負い、白銀の大聖堂を背に立ち尽くす亜門。まるで神話の如きその姿に、人々は涙を流しながら祈った。愛と光を胸に人々を救った伝説の聖母、彼らの信じるアガナの姿を重ね合わせながら、終わることのない祈りと歓声が彼らに降り注がれていた。


 同時刻、街外れ。

 シャーロットの起こした奇跡をあんぐりと口を開けて見つめる藤兵衛とレイの姿があった。

「あ、あれは何じゃ?! 人が……生き返ったぞ! あれもシャルの術なのか! おい、虫! 貴様なら分かるじゃろう?」

「……しらねえ。だがありゃ闇とは根本からちがうぜ。むしろ対極の、言わば“光”の力ってやつか。俺らにゃ死んでもマネできねえよ」

「こんなに離れていても全身がヒリヒリするわい。どうにも儂らには毒なようじゃの。まったく、すっかり化け物稼業が板に付いてきたわい」

「……たしかにな」

 レイは眉を顰めて光の中心、シャーロットが居る筈の空間を見据えていた。だがそのうちレイは頭の疼きを覚え、側頭部を押さえ眉を顰めてちっと小さく舌打ちした。あの光を見ていると何かが、失った筈の何かが引き摺られるような気がした。思わず顔を背けるレイに対し、藤兵衛は不快と不信を等分だけ混ぜ込んで言った。

「何じゃ、虫? 無駄に整った顔は貴様の数少ない取り柄じゃというに、糞を握り潰したが如き表情じゃぞ」

「けっ。なんでもねえよ。……てかよ、そろそろアレがくんぜ。準備はできてんだろうな?」

 顎でくいと天を指し示したレイ。そこに浮かぶは巨大な蝿の王。先程受けた損傷は甚大ながらも、主要部の再生を終えて羽をはためかせるガーランドの姿があった。

「何じゃ、ずいぶん辛そうじゃな。貧弱な体を持つと大変よのう」

 レイの背の上に跨り、藤兵衛はキセルをふかしながら嘲笑った。返答の代りにガーランドは、空間内に漂う闇の蛆を爆発させた。レイは気配を察知し難なく避けたが、刺激的な音と匂いと共に爛れた粘液が流れ出し、みるみる地面が溶けていった。

「偉そうにほざいておいて一人では何もできんか。つくづく口だけの情けない男だ」

 ガーランドは大きく目を見開いて藤兵衛の姿を捉え、挑発するように呟いた。だが藤兵衛は動じない。この男は動じない。

「何を莫迦な事を……貴様なぞに儂1人で敵う道理がなかろうが! 冗談も休み休み言えい!」

(まあ堂々となんつう情けねえことを……)

 レイが内心でため息をつく中、ガーランドも同じように心中で呆れ返ると、レイに視線を移しゆっくりと言った。

「貴様が囮か。となると……カミラはもう死んだか」

「ああ。ブッ殺してやったよ。残るはてめえだけだ」

「……そうか。ならばもう語ることはあるまい。これが俺たちの最終決戦だ。揃って死ね!」

 会話を打ち切り、ガーランドは周囲の空間に闇力を満たし始めた。だが藤兵衛は悠然とキセルをふかしながら、口角を歪めて不遜な笑みを浮かべていた。

「先ほども申したがの、生憎儂は虫の扱いには慣れておるのじゃ。すぐに撃ち落としてやる故、覚悟するがよい。もし儂が勝った暁には……約束を忘れるでないぞ」

「そんなものをした覚えはない! 勝手に抜かすな!」

「やれやれ。素直になれぬ困った男よのう。反抗的な社員を教育する主の勤めじゃて。……胆石よ、儂に力を遣せい!」

 気迫と共に心臓から闇力が溢れ、瞬く間に再生していく藤兵衛の体。戦場に張り詰めるような緊張感が走り、三者の間に凍える空気が広がった。

 先に動いたのはガーランド。藤兵衛の周囲の闇力に干渉し、連鎖的に爆破を行おうとした。だが、それを一早く察知したレイは、嗅覚と本能で闇力の動きを嗅ぎ分けると、四肢に力を漲らせ無数に展開される爆破空間をぎりぎりのところで避け続けた。

「へっ。あっぶねえあぶねえ。だが俺を捉えるほどじゃねえな」

「忌まわしき人形め! 邪魔をするなら容赦はせん! ……『絶対空間』!!」

「ふん! 何が“絶対”じゃ。そんなものはこの世に存在せぬわ。さっさと地を這えい、ガーランドよ! 『ノヅチ・大蛇』!!」

 苛烈な攻撃の隙をついて、打ち出される極大の一撃。それは賢者の石の力が込められた、天を穿つ強烈な螺旋の波動だった。ガーランドは急速旋回し辛うじて避けたが、かすめた螺旋は頭の触覚を撃ち落とした。反撃として破裂する空間の間を縫い、レイは風を纏いながら戦場を駆け抜けていった。

「おいクソ商人! このままじゃ長丁場になんぞ。さっさとケリつけろや!」

「誰に物を言っておるか! 知性の無い虫の分際で頭が高いわ。今日の儂は絶好調じゃて。ちと一戦交えた程度で息が上がる貴様と一緒にするでない!」

「うるせえ! 誰のおかげだと思ってんだ!!」

「グェポ!!」

 言葉と表面の態度とは裏腹に、2人は完璧に息を合わせ戦いに臨んでいた。だがそれでも、戦いは五分と五分の様相を呈していた。空中から行われる爆撃、毒劇、突撃。地上から何度も繰り返される銃撃、打撃。お互いが紙一重で、僅かな傷を負いながらも、果し合いは長時間に渡っていた。

 10分以上拮抗は続き、3人とも体力は限界に近くなっていた。だが足を止めぬレイ、手を止めぬ藤兵衛、そして……破裂しそうな心臓を抑え込むガーランド。

(く……限界だ。いや……まだだ! 俺はまだやれる!)

 だが現実は非情だった。苦しみもがくその隙を、抜け目なき藤兵衛が見逃す訳がない。

「緩いわ! 『ミヅチ』!!」

 藤兵衛は渾身の螺旋を数発彼の胴体に叩き込んだ。体液を噴き出して距離を取ろうとした所に、更なる追撃の螺旋の鶴瓶撃ちが襲いかかった。

「ぬ、ううううう!!」

 藤兵衛の狙い澄ました攻撃は、ガーランドの羽を残らず吹き飛ばした。彼は苦痛の絶望に顔を染め、地面に錐揉みのように落下していった。地に落ち身動き一つしない彼に、間髪入れず近付く藤兵衛とレイ。

「……終わりじゃな。では約束は果たしてもらうぞ」

「あ? さっきから言ってやがるが、約束ってえのはなんだ? ま、どうせてめえのこった。ロクでもねえ話だろ」

「ふん! 煩いわ。儂らだけの密約じゃて。のう、ガーランドや」

 無遠慮に顔を近付ける藤兵衛を見て、ガーランドは初めてその顔に笑みを浮かべた。それは今までに誰も見たことのない、大きく穏やかな笑みだった。

「そうか。そうだったな。まあ……悪くはない話だ」

「そうじゃろうそうじゃろう。金なら弾むわい。それに大陸一の名医を用意する故、貴様の心臓の事も何も心配することはないぞ」

「確かに悪くない。だが……もう俺は……」

「ふん。小人とは得てして結論を急ぐものよ。貴様の願い、儂ならば必ずや叶えようぞ。この儂を誰と心得るか? 世界の富を喰らい尽くす天下の大商人、金蛇屋藤兵衛その人ぞ!」

 高らかにふんぞり帰る藤兵衛、心底呆れ返るレイ、そして……穏やかに微笑むガーランド。彼は何も考えられなかった。もう既に自分は負けたのだ。何も残ってはいない。そう、何も……。

「ガル! そいつに耳を貸すな! 『トライデント』!!」

 後方から凄まじい閃光が走った。猛烈に吹き飛ばされる藤兵衛とレイに視線をやることなく、息を切らして登場したカミラ。彼女は全身血塗れになりながらも、致命傷に近い傷を鑑みることもなく、ただ彼の為に全ての闇力を投じて最後の残り火を燃やし尽くしていた。既に立っているのがやっとの彼女は、力なくその場に突っ伏すと、冷たい唇を彼の唇に押し当てた。

「……カミィ」

「……ガル。私の力を吸え。私はもう保たない。“誓い”を忘れるな。ずっと……一緒だ」

「そうか。そう……だったよな。今はお前しかいないが……忘れてはいないさ。この腐った全てを……世界を壊し尽くす!」

「それでいい。先に……待ってるからな。ありがとう。私に全てをくれて。……愛してるよ、ガル」

 ドクン、と彼の心臓が脈動した。崩壊しつつある臓器の中心、賢者の石の欠片が爆発的な勢いで発動していった。周囲の闇力を洗いざらい集め、目の前のカミラの全てを奪い去り、自身を中心に分厚い闇の層を形成していった。

 闇が、膨れ上がった。比喩ではなく、グラジールの頭上で、負の塊が渦のように広がっていった。活性化した闇が生き物の様に蠢き黒雲と化し、その大きさは10キロにも及んで街全体をすっぽりと覆っていた。その禍々しさは、人々に伝承に語られる地獄を思わせた。

「これが、俺の最後の術……禁術『パライーソ』。世界を……闇に……」

「おい、やべえぞクソ商人! あのボケ完全に自分を失ってやがるぜ。早く逃げっぞ!」

 レイは大声で叫んだが、藤兵衛はのそりと背から降りると、その場に立ち尽くして天を見上げた。彼は目を閉じて、悠然と最後のキセルの一吸いを深く肺に入れると、意識と闇力を集中しながら告げた。

「儂はここに残るわい。彼奴を止めねばならぬ。シャルたちは大聖堂にいるはずじゃ。くれぐれも宜しく頼むぞ」

「バ、バカかてめえ! あんなの食らったらいくらてめえだってタダじゃすまねえぞ! とにかく今は逃げるしかねえ。早くしろ!」

 レイは藤兵衛の肩をぐいと力強く掴んだ。しかし藤兵衛は尊大に踏ん反り返りながら、その手をやんわりと振り払った。

「この闇団子を放置して、この街はどうなるのじゃ? 折角儲かりそうな匂いがしてきたのに、このままでは大損ではないか。儂は損だけは大嫌いなのじゃ! 心配なぞ要らぬ。この儂を誰と心得るか?」

「……てめえ、マジで知らねえからな! ほんとうに行くからな!」

「社員の不始末は主人が責任を取らねばならぬ故の。これも上に立つ者の努めじゃて。虫よ……今まで世話になったの」

 そう言って藤兵衛は不敵に笑った。この男は動じない。どんな時も動じない。彼はレイの目をまっすぐに見た。レイは、その視線を受けほんの僅かに頷くと、次の瞬間にはその場から風のように去っていった。彼は満足そうにそれを眺めると、這いつくばり動かないガーランドに向けて言った。

「さて、ではやるとするかの。そこで見ているがいい、ガーランドよ。そして知るがよい! この儂がいかに諦めの悪い男かということを、蛇の如きしぶとき男であるということをの!」

 身動きの取れぬガーランドに大見栄を切りながら、藤兵衛は銃を頭上の黒雲に向けて構えた。と同時に心中で呟いた。強く、深く、叫ぶように呟いた。

(……おい、胆石。聞いておるか? 言わずと知れておるが、ここからは全力じゃ。誰ぞが貴様に預けた“預金”、全て儂に寄越せ! 四の五の言いたいなら後で幾らでも聞いてやろうて。兎に角、今は力を寄越すのじゃ! これは賃借人の命令じゃぞ! 貴様の常識は知らんが、現世では持つ者が何より強いのじゃ! 払えぬなら今すぐ出て行けい!!)

 ドクン、と心臓が高鳴った。藤兵衛の呼びかけに呼応するように、今までにない速度で脈打つ心臓。高鳴る鼓動、そして、引き出される莫大な闇のうねり。ガーランドの術にも比肩し得る爆発的な闇力が、全て彼の手の内に集まったのだ。

「きたぞ! きたぞ! 人の気も知らずに呑気にぷかぷか浮かびおって。恥を知れい! 『ノヅチ・大蛇』!!」

 藤兵衛は一撃、黒雲の中央に巨大な螺旋を打ち込んだ。かつてセルシウスに放ったものを超える、天地を貫くが如き渾身の一撃。だがそれはあっさりと黒雲に飲み込まれ無効化され、その場で音もなく消えていった。

「ふん。最初から一撃でやれるとは思っとらんわ。力尽きるまでやらせてもらうわい。『ミヅチ・大蛇』!!」

 次は連撃。矢継ぎ早に放たれる紫色の螺旋。しかしそれらも全て先程と同様に、いとも容易く黒雲に飲み込まれていった。

「まだじゃ! 効かぬ筈がない! 必ずこの先にあるはずじゃ! くらえい!!」

 先のことなど顧みぬ五月雨の連打。その結果、やはり虚しく飲み込まれる攻撃。だが藤兵衛は諦めない。何度も何度も撃ち込み、無為に時間だけが過ぎていく。気付けば黒雲は最初の半分以下の高さまで降下していた。徐々に加速度を付けていく死の塊を確認し、ガーランドは横たわり吐血しながら吐き捨てた。

「無駄だ。諦めろ。もう世界は……終わる。闇に生きる貴様とて……食われ尽くされるのみだ」

「ふん。それがどうかしたかの? この金蛇屋藤兵衛、裸一貫から大陸一の商人にまで上り詰めた男ぞ。この程度の苦境など屁でもないわ」

「貴様の得意な策など通じん。あれは全てを……飲み込む。命も、街も……俺自身も……」

「下らん話じゃな。儂の前で自殺なぞ許さぬ! 人は生きているだけで金になるのじゃ! 死ぬなら金を稼いでからにせい!」

 撃って撃って撃ちまくる。今の藤兵衛に出来るのはそれだけのこと。だが、やがて彼にも限界が訪れた。手が震え視界が狭まる。全身の倦怠感を無理矢理抑え込み、彼は全ての力を銃口に込めて、最後の一撃を見舞った。

「儂は死なぬ! 世界の全てを手にするまではの! お主を手にする事はその第一歩じゃ! 今、儂の全てをここに込めん! 『ナーガラジャ』!!」

 その一撃は、今までよりも遥かに巨大で強烈だった。魂の芯に燃ゆる最後の華炎を振り絞った螺旋は、天高く登る柱と化し、黒雲の中央部を真正面から撃ち抜いた。強烈な波動に雲は晴れ四散し、みるみる霧へと変化していった。

「やった……遂にやったわい!!」

 しかし、現実は無惨。全てはそこまでだった。黒雲は半分以上失われたものの、核となる目のような部分が露出されたのみ。今度こそ、あの目を撃てばケリはつく。そう感じ闇力を集中させる藤兵衛だったが、息は荒く視線も定まらない。どんなに振り絞ってもこれ以上一欠片も出てこない。

「くそ! あと一息じゃというに何たる醜態じゃ! おい、何とかせい! あと一撃でよいのじゃ!」

 彼の中で眠るように沈黙する賢者の石。全ては無に帰ったのだ。嘲笑うガーランドを尻目に、諦めずに心臓を叩き続ける藤兵衛。

「無駄だ。世の中はどう頑張っても出来ないことだらけだ。諦めて破滅を……受け入れろ」

「甘いわ! 実に甘ちゃんじゃ! かつて儂より才気に溢れた者など幾らでもおった。綺羅星のように頭が切れる者、機械のように計算が早いの者、甘い果実のように人を惹きつける者。その点、儂に出来たのはこれのみ。蛇のような執念深さと……みっともなく他者を信頼するのみよ! それだけで儂は今まで生来れた。やると決めたら泥を啜ってでも、土下座をしてでもやり切るのみじゃ! さすれば必ず光は射す! 儂が出来なくとも、誰かが必ず助けてくれようて!」

「結果を出してから……言え」

 黒雲の主パライーソの目は、徐々に力を再構築し始めた。周囲の闇を集め、鎧のように纏い始めていった。藤兵衛はまだ力を練り続ける。なんとか、あと1発。だが、やはり何も湧いてはこない。沈黙が場を支配し、それでも彼は目を見開いたまま天を仰ぎ歯を食いしばる。そして!

「ったく……ほんとしゃあねえクソだぜ」

 勿論、そこにいたのはレイだった。だるそうに首を鳴らしながら、ぐいと藤兵衛の身体を自身へと引き寄せた。

「な、何じゃ貴様!? 何をするつもりじゃ?!」

「ケジメだ。あの馬女を見逃したのは俺だかんな。……1回だけだ。後にも先にもこれっきりだ。いちおう聞くがよ……ちゃんと今朝歯は磨いたんだろうな?」

「む? そんなの当たり前じゃ! だから何じゃと申して……!!」

 レイは力一杯藤兵衛の肩を掴むと、顔を極限まで顰めてから、力いっぱいに唇を藤兵衛の口に押し合わせた。歯と歯がぶつかり激痛が走るが、同時に送り込まれる膨大な闇の奔流。時間にすれば数秒、いつの間にかレイの降魔は解かれ、その分だけの力が彼に注ぎ込んでいむた。

「けっ! クソまじい。それにくせえぞ! ほんとに磨いたのかよ! おら、あとはてめえの仕事だ。早くあのクソ団子をなんとかしやがれ!」

 忌々しそうに藤兵衛を蹴り飛ばして吐き捨てると、レイはその場にゆっくりと崩れ落ちた。彼は一瞬だけ呆然と立ち尽くした後、すぐに我に返ってしっかりと銃を構えた。

「虫の分際で味な真似をしおるわ。……恩にきるぞ。貴様の野望もこれで仕舞いじゃ、ガーランド! 『ナーガラジャ』!!」

「……」

 再び、渾身の螺旋。余りの威力に銃口が溶けんほどの一撃。誰しもが息を飲む中、螺旋は黒雲の目を完全に貫き、音を立てて四散していった。

 残った闇の残骸がキラキラと煙を上げて大地に降り注いでいた。信徒達はその光景に神聖を感じて平伏して拝み、救いの祈りを捧げていた。

 全ての力を使い果たした藤兵衛は地面にへたり込み、すぐ側で半死半生となっているガーランドに笑いかけた。

「と、いう訳じゃな。運命とかいう迷信などこの儂には通用せぬ。世界の全ては儂の手の内じゃて。ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!!」

「けっ。てめえ1人でやったような顔しやがって。俺がいなきゃどうなってたかよ」

 唇をゴシゴシと何度も吹きながらレイは吐き捨てた。藤兵衛はそんなレイに気色悪い笑みを向け、下卑た笑い声を上げながらにゅっと顔を近づけた。

「そう言うでない。もう儂らは知らぬ仲ではないではないか。中々に柔い感触じゃったわい。褒めてつかわすぞ」

「!! 死ね! マジで死ねこのクソが!」

「グェポ!!」

 そんな遣り取りを横目で見ながら、ガーランドは静かに微笑んだ。既に降魔は解け、全身から血を流し激痛に身を苛ませながら、それでも彼は笑った。とても優しく、暖かい笑みを。

「……俺の負けだ。好きにしろ」

「うむ。それでよい。話は既に進めておる。使いの者は呼んである故、貴様はオウリュウの神明教本部に向かえばよい。とうに話はつけてあるので安心致せ。アガナ神教の大幹部と聞き、奴らは目の色変えて飛び付いたわ。先の通りありったけの名医も呼び寄せてある故、暫し養生の後に儂の補佐として務めてもらうぞ」

「おい待てや! マジでこいつ雇うっつうのか? こんだけのことをした悪党をか?」

「此奴がとんでもない悪党なのは間違いないわ。じゃが、儂とて人の事は言えぬ。殺したり罰を与えたしても1銭にもならんしのう。儂の元で働けば此奴の力は世界の為になる上、ついでに儂の懐も潤う寸法じゃ。何も問題ないわ。ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!!」

「……やれやれ。てめえってやつは本当によ」

 倒れ込んだまま空を見上げながら、レイはちらりと横目でガーランドを見て、静かに目を閉じて口元を緩ませた。

「俺は商売など全く知らん。それでも構わないのか?」

「勿論じゃ。この儂が直々に基礎から叩き込んでやるわい。これからは旦那様と呼ぶがよいぞ。儂は貴様の力が必要なのじゃ」

「必要……か。俺にそう言ってくれたのは……カミラともう1人を除けばお前だけだよ」

 それだけ言ってヨロヨロと立ち上がるガーランド。その視線の先には、ぼんやりと映る月明かり。そして力尽きたカミラの遺体。彼の中に様々な思い出が蘇る。こんな風に月を見るのは何年振りかな、ふとそう思う。

 振り向くと、横たわったまま談笑する藤兵衛とレイの姿があった。2人を眺め、彼は再び静かに笑った。今は何も考えたくない。自分はこの男に完全に負けたのだ。ならば、その運命ごと預けよう。そう決めた。

 その時、微かな飛翔音。ほんの僅か、ごく小さな何かが風を切り、こちらに近付くのを感じた。ガーランドは動けなかった。頭では動くべきと分かっていたが、本能的に目を閉じて彼は全てを受け入れた。

「ウッ!!」

 小さくも鋭い矢が1本、彼の胸に刺さっていた。ガーランドは呆然とそれを抜き取ると、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

「ど、どうしたのじゃ?! 何が起こった? おい、ガーランド!!」

「誰かいやがるな! そこで待ってろ。ブチ殺してやる!」

 途端に疾風のように駆け出し、レイは微かな闇の気配を辿り追跡を始めた。藤兵衛はガーランドに駆け寄ると、肩を抱いて揺り起こした。

「おい、ガーランド! 大丈夫か?! 目を覚ませい!」

「……終わりだ。実に呆気ない幕切れだった。まあこれも神の罰というやつだ。俺は黒き炎に焼き尽くされているからな。仕方あるまい」

 力無く目を閉じて彼は呟いた。藤兵衛は眼を怒らせて必死で彼の身体をさすり続けていた。

「心配ないわ! これしきの矢が何じゃ! この儂と対等に戦ったお主が、泣き言など言うでない!」

「……致命毒だ。今の俺では生き残れん。ミカエルの手の者か。知り過ぎた用済みなど不要と。相変わらず……徹底している」

「ミカエルというと、例のシャルの兄じゃな! 何という事をしおるか! 儂の社員に手を出すとは断じて許せぬ!」

「奴は……恐らくはビャッコ国にいる。そして……貴様の仇もそこに……約束を守れず……申し訳ない」

「何を言うか! 先程も申したであろうが! 決して諦めるでない! 諦めねば必ず光は射すと……」

「いや……もう射した。俺は既に……救われている。ありがとう……“旦那様”…………」

 がくりと糸が切れたように、ガーランドは藤兵衛の腕の中で息を引き取った。彼はその肩を強く抱き、無言で下を向いていた。やがてこと切れた彼の体から、心臓部からじわりと何かが飛び出してきた。そう、それは紛れもなく『賢者の石』の欠片だった。

 石は持ち主を求め、彷徨うようにふらふらと藤兵衛の体を求めた。彼は何も言わず、一瞥すらもせず、ただガーランドの冷たくなる身体を抱き締め続けるだけだった。石はまるで歓喜を表すようにするりと藤兵衛の心臓に入り込み、一瞬の間を置いて彼の体内の石と融合していった。その間も彼は一言も発さず、ただ歯を食いしばっているだけだった。

 暫くして戻ってきたレイは藤兵衛と目を合わすと、力なく首を横に振った。

「ダメだ。逃しちまった。すまねえ」

「仕方がなかろう。……こちらも駄目であった」

 ガーランドを地面にゆっくりと置く藤兵衛。その体をつぶさに眺めるレイは、何かを思い出したかのように傷口から矢尻を取り出した。

「そうか。残念だったな。この矢の形状……間違いなく毒だな。お嬢様が襲われたあの時と一緒だ。覚えてんだろ?」

「うむ。例の殺し屋か。……貴様の追手を撒くとは油断ならんの。今後も気を付けねばならぬな」

「……」

 努めて冷静な口調で藤兵衛は告げた。レイは何も返さずに拳を強く握り締めた。彼はゆっくりと腰を上げると、はだけて汚れきった白き装束をそっと彼に被せた。

「……なあ、虫よ。ちと手伝ってくれぬか。此奴を埋葬してやらねばならんでの」

「らしくねえな。『死んだら金にならんからゴミじゃ』とか言いそうなのによ」

「ふん。これは必要経費じゃ。ほんの一時とはいえ、此奴は紛れも無く金蛇屋の社員じゃったからな。労働災害の責任は、雇い主たる儂が取らねばならん。出来る限り……陽の当たる場所に埋めてやりたくての」

「……あいよ。まかせとけ。2人分だな」

「ああ、終わり次第すぐにでも行こうぞ。どんなに損をしようとも、儂らは進まねばならぬ故な」

 こうしてゲンブ国を舞台にした一つの大きな戦いが終わった。しかしこれもまた、次なる戦いへの序曲に過ぎない。そんなことは彼らも理解していた。だが今は彼らには時間が必要だった。自身の行く末、戦うべき理由を見定める時間を。


 神代歴1278年12月末日。

 雪深い都市に差し込める微かな光の中で、白銀に彩られた一人の男の物語が幕を下ろした。

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