第3話「旅立ち」
闇が闇たる所以は、手を伸ばした底の見えぬ容れ幅にある。そこから何が出てくるのか、どれだけ詰まっているのか、人の想像及ばぬ所に闇たる性の真髄がある。天下の大商人たる金蛇屋藤兵衛が今まさに目にしている風景は、深淵にも手の届く闇の果てにあった。
街外れ。
ぐにゃりと歪んだ世界の端、周囲を包み込む深い闇の中から、人型に近い“何か”が次々と形作られた。幻覚にも思える現の狭間。世界と世界を隔てる壁から這い出した“それ”は、光を求める虫のように藤兵衛たちに向かってにじり寄って行った。輪郭は朧で、闇と同化したかのように溶け込みながらも、野生の獣のような殺意だけが明確に放たれていた。
「……おいクソ商人。てめえは下がってろ。“仕事”のジャマだ」
短くそれだけ告げて、レイは拳を鳴らして自ら闇に足を踏み入れた。それを合図に戦が始まった。異形が牙を剥いて一斉に襲いかかる中、レイは全身の筋肉を怒張させると、渾身の力を込めて拳を繰り出した。風を纏ったレイの拳が一瞬で肉体とおぼしき部分を叩き潰すと、“それ”は嘘のように形を失い、元の闇へと還っていった。
「んだよ。今日はけっこういやがるな。新入りのクソみてえな臭いにひかれたか? ま、なんにせよ俺のやるこたあ変わらねえがよ」
乱雑に吐き捨てながらも、極めて精錬された動きで敵を一蹴するレイ。だがその数は減ることはなく、闇の底から新手が次々と巻き起こった。次々と出現する悪夢に対しても、レイはいかにも手慣れた様子で全身から技を繰り出した。血が、肉が、闇の中に濁った色を付けていった。
藤兵衛は呆然とした表情で、隣の木陰で横たわるシャーロットの顔を覗き込んだ。しかし彼女はいつもと変わらず、ただ美しく微笑むだけだった。
「……おい、シャーロットよ。あれは一体何じゃ? 儂は夢でも見ておるのかの?」
「あれらは“闇の眷属”と呼ばれる存在です。分類で言えばグールと呼ばれております。彼らは人間の死骸を食らう事で、自身の闇力を高める習性があります」
「そ、そういうことではないわ! 何故あんなものがこの世におるのじゃ?! 何故儂らがあれに襲われている? 納得いく答えを示さぬか!」
「……ZZZ」
(こ、この女……もう寝ておるわ!)」
一瞬で電池の切れたように、地べたで眠りこくるシャーロット。そんな彼女に諦観に満ちた眼差しを向け、藤兵衛はため息を一つ吐いてその場に座り込んだ。
事態は完全に彼の想像力の範疇を超えているようだった。しかし藤兵衛は動じない。この男は動じない。オウリュウ国随一の豪商と呼ばれる“中身”を持った彼にとって、この程度の危機など嫌という程に味わってきたのだった。
(ふむ。何が何だか皆目見当もつかぬが、可能な限り状況を把握せねばなるまいて。今日、儂は不老不死の体を手に入れた。それ自体は疑いようもない事実じゃ。今こうして見ても全身に若さが滾っておるし、時間が過ぎても衰える気配すらもないわ。シャーロットの術は紛れも無い本物で、儂は悲願を遂げた。現時点ではそう考えて間違いなかろうて)
藤兵衛は地面に座り込み優雅にキセルをふかし、繰り広げられる戦いを両の目でつぶさに捉えていた。時折飛来する闇の飛沫に眉を顰めつつ、五感と脳を全力で動かし、今自分が置かれている状況を整理し続けていた。
(……じゃが、そのお陰で儂は部下に裏切られ、この阿呆共に拉致された訳じゃな。そして気付けば、訳の分からぬ化生に襲われておると。やれやれ、今迄何百回と痛感してきたが、人生とは誠に思い通りにならぬものじゃて)
「おいクソ商人! ボケっとしてんじゃねえぞ! どうせなんもできねえんだ。おとなしく弾よけにでもなってろや!」
(ふん。知能の足りぬ虫が喧しく鳴いておるわい。貴様とて先程からずっと戦い続け、流石に疲弊しておろうて。これは見物じゃの。目障りな害虫を消す良い機会じゃわい)
「けっ。反抗的な目をしやがって。後でシメてやっから覚悟しとけよ。……さて、そろそろ飽きちまったな。ここらで数を減らしとくか。『滅閃』!!」
レイはだらりと肩を回すと、腰を落として拳に力を集中させ、敵の群れに向かって一気に解き放った。闘気と呼ばれる錬磨された力の波動は、風を切り裂き唸りを上げ、抵抗も回避もする暇を与えずにグールの一団をまとめて粉砕した。空気を切り裂き肌を張り付かせる迫力に、思わず腰を抜かしそうになる藤兵衛だったが、それでも彼は冷静に事態の分析を続けていた。
(な、何じゃあれは?! あんな武技など見た事も聞いた事もないわい! 東方は秋津国の侍衆でもまるで太刀打ち出来まいて。化け物どもがまるで塵芥じゃ)
彼の見立て通り、敵はレイに全く歯が立っていないようだった。大挙して襲いかかっても、レイは獣のように鋭く疾く動き、全身をしならせてまとめて打ち払っていった。一見乱雑に見える拳の一振り一振りは、まるで彫刻家のノミのように的確に闇の生物の核を捉えており、グール達は呪詛のうめきを残してその場で消滅していった。
(驚きじゃな。あの虫の如き知能の女……単なる力任せの蛮族かと思いきや、厳しく訓練された凄腕の闘士のようじゃ。まあ頭の方はかなり足りなそうじゃがの。見るからに粗野で野蛮で、儂とは決して気が合わなそうじゃわい。顔は異常な程に整っておるが、心底腹の立つ表情をしておるのう)
そんな彼の思考を読んだかのように、レイは戦闘の最中キッと鋭い視線を藤兵衛に向けた。彼は不快そうにふんと鼻息を吐くと、胸元からキセルを取り出して悠然と火を付けた。
(あの動き、迷いのない判断から察するに……彼奴はこの手の戦いに慣れ切っておるの。見れば見る程人間離れした使い手じゃ。見世物屋に売らばさぞ儲かるじゃろうて。しかし……そうなるとちと問題じゃな。これらの状況から鑑みるに、これらの現象はあの阿呆共に付随する、連続して起こり得る“人災”と見て間違いなかろう。そして儂も不死を求めた事により、このどうしようもない程下らぬ祭りに巻き込まれたと。……やれやれ。人生とはいくつになっても驚きの連続じゃな)
藤兵衛が思考に耽る間にも、戦況は刻々と変化していった。新しく湧き出たグールの一団がレイから狙いを変え、藤兵衛とシャーロットの方に足を向けたのだった。忌まわしき闇の眷属の怒りの気配を感じても、藤兵衛は極めて冷静なまま胸元の銃を抜いた。
「ふん。単細胞な化物めが。この儂と人間の技術を舐めるでないわ!」
藤兵衛の手に持つ銃は、現時点の世界では本来存在し得ないものだった。かつてこの大地を支配した神々と呼ばれし種族が作り上げた、高位の技術が用いられた逸品であった。藤兵衛は単なる美術品とされていた鉄の筒に目を付け、金蛇屋技術部で独自の改良を加えることにより、火薬を用いて連続で五発の銃弾を撃ち出すことを可能にした。藤兵衛は銃の出来を大いに気に入り、毎朝の射撃練習を己の欠かしたことはなかった。その結果として今、彼の狙いは極めて正確に、グールの頭部らしき部位を完璧に撃ち貫いたのだった。
「ケッヒョッヒョ! どうじゃ! この国を、いやこの世界を統べる儂の力を思い知れ……?!」
脆くも崩れた頭部に注意すら払わず、グールは動きを止める事なく無心で歩みを進めた。やがて頭部は徐々に再生し、変わらぬ速度で確実に藤兵衛の元に迫ってきた。
「ヒ、ヒイイイイイ! お、おいそこの虫! 早くなんとかせい! 貴様の主人の危機じゃぞ!」
藤兵衛が情けない声を上げると同時に、疾風を纏ったレイが彼らの元へ舞い降りた。レイは一瞬でグールを微塵に粉砕すると、乱雑にと頭を掻きながら冷たい視線を向けた。
「……おい。最初に言っとくがな、てめえの身くれえ自分でなんとかしろや。俺が守んのはお嬢様だけだ。てめえなんざ俺からしたら、クソ以下のゴミ野郎だからよ」
(こ、この下等な虫めが! この国の支配者たる儂に何たる口の聞き方ぞ! 決して許してはおかぬ! 必ずや見世物小屋送りにしてやるわ!)
捨て台詞と大きく深いため息を残し、レイは再び戦いの渦中に身を置いた。藤兵衛は怒りと屈辱で拳を強く握りながら、隣で眠るシャーロットを睨み付けた。だが彼女はまるで闇の中に身を浸すかのように、静かなる眠りの中で微動だにしなかった。その美しい顔を無防備に晒し、身も心も深い夢の中に浸っていた。
(此奴……従者が闘っておるのにいい気なものじゃの。単に呑気なだけか、それとも……)
藤兵衛は目を細め、彼女の健やかな寝息を耳にしながら、力なく首を横に振った。血肉と腐臭漂う戦場において、彼女の存在のみが世界を切り取ったような神秘的な輝きを放っていた。藤兵衛はもう一度深く首を振り、キセルを不味そうに吐き出した。
戦いが始まってからどれ位の時間が経っただろうか。闇は極限まで深さを増し、レイの孤独な戦いは数時間に及んでいた。藤兵衛は天を見上げ星の位置を確認し、月明かりにを背で受けながら再び思考に耽った。
(概ね3時といったところかの。やれやれ。いつもなら起きる時間というに、不思議と全く眠くはないわ。それどころか逆に身体中に力が湧いてくるようじゃて。しかし……あの化物共は闇の中から、明確な意思を持って湧いておる。逆に言えば闇が失せれば消滅する、そういう道理かの? もしそう考えれば、日中にシャーロットたちが無警戒に行動していた事実とも符丁が合うわい)
藤兵衛は何本目か分からぬキセルを深々と吹かしながら、レイの闘いの様子をぼんやりと眺めていた。その時、ふと空気が変わった。少なくとも彼は場の違和感を機敏に感じ、細く垂れた目を一層細めた。
(……妙じゃな。突然連中の気配が変化したわい。何ぞ起こるのやもしれぬ)
先程までとほんの僅かに、だか確実に“何か”が違っていた。それを言語化することは、今の藤兵衛には出来ない。しかし彼は経験から知っていた。自分が感じたこの感覚、直感から導かれる“違和感”こそが、有事に於いては何よりも優先すべき事柄である事を。
「いかん! おい、下がるのじゃ! 何かが起こらんとしておるぞ!」
「ああ!? くだらねえクソが俺に命令してんじゃ……!?」
突如として沸き起こった異変。瞬時に藤兵衛はシャーロットを抱え、後ろの茂みの中に飛んだ。それとほぼ同時にグールの群れは一斉に大地の闇の溜まり中へ姿を消し、闇の中で溶け合いながら巨大な手の形を取ると、藤兵衛たちに向かって襲い掛かった。一瞬でも判断が遅れていれば、2人は闇の中に無残に引き摺り込まれていただろう。ふうと息を吐いた藤兵衛の前に、異変は更に激しく渦を巻き始めた。
「こ、こいつは!? お嬢様、来ます! お目覚めを!」
レイの絶叫に呼応したかのように、空間の闇がぐにゃりと一箇所に集まり、グールの数倍にもなる巨大な影が姿を成した。それは人というよりも、漆黒の影を纏った獣の如き姿だった。
「こ、今度はなんじゃ! 何が起こっておるのじゃ!」
「マジか! よりによって“オーガー”だ? ったくよ……大術の隙をこうも見事に突かれるたあな」
現れたのは先程までの漠とした影とは打って変わり、腐臭漂う肉をみちりと推し集めた二本足の獣人。全長は瞬く間に10m程にも達し、装飾とも内臓ともつかぬ無数の突起を振り回し、地獄のような絶望の叫びを上げ、オーガーと呼ばれし眷属は殺意を剥き出しにレイに向かっていった。その動きは見た目の愚鈍さに反し、極めて俊敏に巨大な腕を振り下ろした。咄嗟に後ろに飛び間一髪回避したレイだったが、その胸元は大きくはだけており、深々と刻まれた傷からは赤い血液が無数に滴り落ちていた。
(ほう。あの化物にも赤い血が流れておるとはの。しかし……些かに屈強が過ぎる胸じゃて。まあどんなに見た目が良かろうが、あの性格ではのう)
シャーロットを両手で抱え、呑気に状況を見守る藤兵衛。オーガーは迷うことなくレイに背を向けると、鼻息荒くシャーロットに向かって走り寄った。
「き、来おったぞ! おい貴様、何とかならんのか?!」
「うるせえ! いまやってる! ……くっ、こっちにもかよ! おい、クソ商人! なんとかして逃げろ! お嬢様に指一本触れさせんじゃねえぞ!」
いつの間にか現れたもう一体のオーガーに攻撃を繰り出しながら、レイは必死の声で叫んだ。強力な打撃が敵の胴体を貫くも、あまりの巨体の前に決定的な損傷を与えられない。迫り来る敵に背を向け逃げながらも、藤兵衛は隙を見ては銃弾を打ちまくったが、当然のように一切の効果は見られなかった。オーガーは巨体を揺らしながら距離を詰め、やがて藤兵衛とシャーロットの目と鼻の先に迫っていた。
「シャーロット……我ガ主人ノ命……奪ウ……」
その時オーガーは不明瞭ながらも意味の通る響きで、人の言葉のような声を発した。憎悪に塗りたくられた地獄の底のような声を耳にした藤兵衛は、無駄と知りつつも銃弾を放ちながら、自身に一つの大きな決断を下した。
(……ふむ。見えたの。意味は全く分からぬが、此奴らの狙いは間違いなくシャーロットただ一人じゃ。ならば……ここで儂の成すべき行動は1つじゃて)
「お嬢様! 早くお目覚めください! このままじゃほんとに……」
オーガーが振り上げた巨大な爪が、鈍く風を切ってシャーロットに振り下ろさられた。レイの顔が絶望に染まるのに反して、藤兵衛は口の端を捻じ曲げ、細い目をいやらしく垂らし、実に不敵に笑っていた。彼は動じない。そう、どんな窮地にあっても、この男は決して動じない。
「やれやれ。実に下らぬ与太話よ。この儂が命懸けで女を庇うとはの。まあこれも乗りかかった船というやつならば……仕方あるまいて!」
敵の攻撃が突き刺さる正にその瞬間、彼はシャーロットを後ろに放り投げた。そして悲鳴を上げる暇もなく藤兵衛の上半身はゴミのように無残に潰され、茂みの中へ吹き飛んでいった。
(ふむ。やはり痛みはないの。計算通りじゃな。あの原始人に殴られた時もそうじゃった。不老不死、あの魔女の言と術が確かであらば、儂がこんな所で死ぬ道理はあるまい。そもそもこの儂は不死身と呼ばれた……い、痛あああああああ!!)
凄まじい激痛が、やや遅れて脳から神経へと運ばれた。醜く血反吐を吐いてのたうち回りながら、彼は必死で脳内で考え続けていた。
(な、何じゃこれは! 普通に痛いではないか!? まさか術はペテンか? 儂が死ぬというか? 嗚呼……こんな阿呆共に関わったせいで、とんだ無様な死に様じゃわい。儂を謀るとは許しはせぬ! あの魔女めが! あの世から呪い殺してくれるわ! じゃが……よくよく考えれば、儂など此処まで来れただけでも僥倖よ。餓鬼の頃、あのまま死んでいってもおかしくなかった訳じゃからな。弟や妹は元気にしておるかの? 姉ちゃは何処で何を……はて。中々死なぬものじゃな。逝くならさっさと消えたいものじゃが)
その時、上半身だけとなった藤兵衛の視界に飛び込んできたのは、シャーロットの目が静かに開いた光景だった。彼女は微かに怒気の込もった憂いのある表情を見せると、目の前のオーガーが動く前に、瞬時に複雑な紋様を宙に描き切った。そして紋様がぼろぼろと崩れると同時に、5メートルほどもある巨大な炎の塊が何処からか召喚された。
「貴方は……私の仲間を傷付けました。許すことは出来ません。私は人の命は奪いませんが、闇に属する者だけは別です。……闇術『マグナ』!! 紅蓮の海の中で消滅なさい」
炎はオーガーの胸元で更に急激に膨れ上がり、灼熱が周囲の空間ごと敵を包み込んだ。いとも容易く怪物の胸から下は蒸発し、肉の焦げた不快な匂いだけが藤兵衛の鼻腔を掠めた。
(こ、こやつ……先程まで寝惚けておったかと思えば、何たる強大な妖術を! 見世物2号とするには流石に危険すぎるわい。というか……どうやら儂は生きておるようじゃな。シャーロットの覚醒と共に痛みまで綺麗に消えおったわ。今迄の事実から考えるに、不老不死とはつまり……儂は彼奴に生かされておるという意味なのかの?)
上半身だけで思考を働かせる藤兵衛に、シャーロットがそっと近付いた。彼女は優しく美しく微笑むと、そのまま全身で力一杯彼を抱き抱えた。いきなりの行動に唖然としながら、何とか彼は言葉を振り絞った。
「ま、待つのじゃシャーロットよ。儂の体は血反吐で汚れておる。貴様の見るからに高価そうな服を弁償せねばならぬ。それは損じゃ! 大損じゃ! 儂は損だけは大嫌……!?」
シャーロットは微笑んだまま何も言わず、そっと、ゆっくりと藤兵衛の口に自分の唇を合わせた。血流が脳内を駆け巡り、ドクンと心臓の鼓動が早まった。
(な、何を?! 接吻じゃと?! こ、この女は何を考えておるのじゃ? 何故儂は初心の様に狼狽えておる? ……いや、そうではない! この鼓動は何かが異なっておる! 儂の内側に……今迄にない何かが芽生えつつあるぞ! こ、これは……)
魔女シャーロットとの出会いと交差を経て、既に藤兵衛の中には通常の人間とは異なる力が芽生えつつあった。それは人としての感覚を消し去り、ある意味では新しい生を与える種のものだった。シャーロットは藤兵衛を抱き抱えたまま、右手にそっと手を当てて銃を一緒に構えた。
「あの者に止めを刺しなさい、藤兵衛。今の貴方なら可能です。貴方の中にある『感覚』を全て汲み上げ、指先に集中させなさい。貴方なら必ず出来ます」
「……ふん! 誰に物を申しておるか! 儂はこの国の実質的な王にして、世界の富を喰らい尽くす金色の蛇、金蛇屋藤兵衛その人であるぞ! 儂に出来ぬ事などこの世に存在せぬわ! 如何なる妖でも怪であろうとも、この儂が従えてくれようぞ!」
強き言葉に導かれるように、彼の身体から力が迸った。頭の天辺から指先の毛まで、禍々しくも強大な『闇』が渦巻いていた。藤兵衛はそっと、釣瓶で水を汲み上げるように、心中の深い部分から集めた意識を指先の銃に注ぎ込んだ。次の瞬間、バリバリバリと乾いた音が周囲に鳴り響いた。弾の込められていない単なる鉄の塊でしかない銃の先から、勢いよく漆黒の力の波動が迸った。猛烈な速度で放たれた黒き弾丸は、螺旋の軌道を描きながらオーガーの頭部に突き刺さり、内側から食い殺すように瞬く間に消滅させていった。
「ぐっ! 何たる威力か!? これを儂が……」
「ええ。これが貴方の新しい世界です、藤兵衛。今後ともよろしくお願いします」
反動で吹き飛んだ藤兵衛は、その下敷きになったシャーロットの暖かく美しい笑顔を見た。もう1匹のオーガーを粉砕し駆け付けたレイの大きなため息を耳で感じながら、藤兵衛の意識は深い夢の中に落ちていった。
朝を告げる鳥の鳴き声が聞こえた。木々の合間から光が遠慮なく差し込めていた。藤兵衛はぱっと目を覚ますと、大きく伸びをしながら目に映る光景から現状を分析していた。
「ここは……儂の屋敷の裏庭ではないか! 何故ここに? ……おお! 身体が繋がっておるぞ! 実に重畳じゃな。この先も千切れたままならどうしようかと思ったわい」
「おい。てめえうるせえぞ。ちったあ眠らせろ」
気付けば隣の芝生で横たわっていたレイが、眠そうに目を擦りながら心底不機嫌そうに言った。藤兵衛は不快そうにレイを睨み付けると、キセルに火をつけながら吐き捨てた。
「ふん! 偉そうな虫よの。昨日から思っておったが、この儂に向かって“てめえ”とは何様じゃ! 儂を呼ぶなら旦那様と呼ばぬか!」
「あ? チョーシこいてんじゃねえぞ! 黙ってろクソ野郎!」
「グェポ!!」
思いっきり腹部に蹴りを入れられ、藤兵衛は喘ぎながら城壁の辺りまで派手に吹き飛んだ。しかし胃液を吐き出し苦痛に悶えながらも、それでも彼は口を止めようとしない。彼は憎々しい視線をレイに向け、五月雨のように言葉を浴びせかけた。
「何をするのじゃ! 人に進化しきれぬ原始人の分際で! 折角上半身がくっ付いたというに、再び離れたらどうしてくれるのじゃ! この儂に何かあらばオウリュウ国が傾くは必然ぞ! 貴様にその責任が取れる訳がなかろう!」
「ったく、ベラベラとうるせえクソだぜ。つーか、あの程度の再生に1時間もかかるかね。俺だったら1分で終わってんぜ。これだから貧弱なカスはきれえなんだ」
「ふん! 貴様の様な単細胞生物と一緒にするでないわ! 儂は高貴かつ知的な人間なのじゃ! 下賎なワラジムシ風情が儂に意見するなど1000年早かろうて!」
「うるせえ!!」
「ホグゥ!!」
「ふふ。随分と仲がよろしいですね。私も混ぜて下さい」
背後の林の中から、シャーロットの穏やかな声がした。のたうち回る藤兵衛を尻目に、レイは即座に立ち上がって恭しく頭を垂れた。
「お嬢様! お休みのところをお邪魔してしまい、誠に申し訳ありません。今、新入りに道理と礼儀を教えていたところでして」
「それは構いませんよ。先程から起きていましたから。ところでレイ。私は少しお腹が空きました。何か食べ物はありませんか?」
「は。すぐに調達します。……おい新入り。ダッシュでなんか食いモン持ってこい」
「はあ!? 何故この儂が斯様な仕事をせねばならぬ! 貴様がやればよかろうが!」
「うるせえクソが! いいからさっさと行ってこい! 俺に逆らうなら今度は縦に真っ二つに引き裂いてやるぜ!」
「ヒ、ヒエェェェ! お、お助けあれ!」
レイの怒りの拳で地面に大きな穴が開き、振動で木々までもが揺れ動いた。藤兵衛は震え上がり反射的にシャーロットの背後に隠れると、彼女は穏やかに彼の頭を撫でながら、キッと鋭い視線をレイに向けた。
「私は貴女にお願いしていのですよ、レイ。それとも……よもや私の命令を聞けないとでも?」
「そ、そういうワケじゃなくてですね、俺はただ、新入りに上下関係ってモンを教えてやろうかと……」
一転して心底狼狽えた表情に変わり、レイは咄嗟に直立不動の体勢を取った。だがそれは何の意味も持たぬばかりか、通常ならざる性質を持つ美しき魔女には逆効果でしかなかった。シャーロットは眉間に深く皺を寄せ、昂ぶる闇力を漲らせて、やや赤みがかった瞳をギロリと剥いた。
「……そういえばレイ、私は思い出しました。確か貴女にお仕置きをする約束でしたね。さあ、此方へいらっしゃい」
「お、お嬢様! それだけはカンベンして下さい! ……いやぁあ! 足が勝手にぃぃ!!」
(な!? あの憎たらしい虫が手も足も出ておらんではないか! 何とも恐ろしい話じゃが……これは使えるわい!)
闇の歪みに引き寄せられ、茂みの中に絶叫とともに消えていくレイ。引き攣った顔でそれを見つめる藤兵衛に、シャーロットは打って変わって美しく微笑んだ。
「さて、藤兵衛。出立は正午とします。それまでに挨拶等あれば済ませて下さい。案じなくとも、この街の範囲内ならば不老不死の術は持続します」
「本当に……旅とやらに出るのじゃな? 正直言って儂には皆目検討も付かぬが、どうやら断る事は不可能なようじゃ。あそこの虫に殴られるのも馬鹿らしいしの」
「ええ。私には、この命に代えても果たさねばならない使命があるのです。その為に貴方のお力をお貸し下さい、金蛇屋藤兵衛。このシャーロット=ハイドウォークたってのお願いです」
不断の決心を込めた力強い声でシャーロットは言い切った。その真っ直ぐな瞳を正面から受け止め、目の奥にある迷い無き意志を感じ、藤兵衛は首を横に振りながらキセルに火を付けた。
「ふん。偉そうに言いおって。どちらにせよ貴様がくたばれば、儂も道連れで死ぬのじゃろうが。最初から答えを一つしか用意せぬ取り引き、あこぎな商人のやり方じゃて。今日の所は儂の負けじゃ。この儂に何を期待してるかは知らぬが、やるなら徹底的が儂の信条ぞ」
「ええ。私は貴方を信じておりますよ、藤兵衛」
「信じる……と来たか。この強欲極まる金色の蛇をのう。いつの間にか呼び捨てになっておるのも気に入らぬが、もう全てよいわ。これは“契約”じゃからの。どんな非常識で破廉恥な内容であれ、商人はその身刻まれても契約だけは守らねばならぬ。……では正午にの」
藤兵衛は乾いた笑いを浮かべ、悠然とその場を後にした。実に久しぶりの笑みだった。何故そうしたのかは彼自身にも分からなかったが、止める事が出来なかった。キセルを悠然とふかしながら、かつてのこの街の王は若き青年の姿を借り、明確な意思を持って足を進めていた。
「グェェェェ! お、お嬢様! そんなところ広がりません! ……ぎゃあああああ!!」
その場にはレイの絶叫だけが、いつまでもいつまでも木霊していた。
午前8時。
金蛇屋藤兵衛本宅前では、いつもと同じようにセイリュウ国の屈強な衛兵が、漆黒に輝く肌に緊張感を漲らせて警備に当たっていた。蟻1匹たりとも通さぬとばかりに槍を構える彼らに、1人の若い男が何の警戒もなく堂々と近付いていった。
「儂じゃ。そこを通せ。ちと忘れ物があっての」
若き藤兵衛は無表情のまま不遜に告げた。しかし衛兵たちは何も答えず、かと言って無下に追い返そうともしなかった。完全に無視を決め込む彼らに、苛立ちを隠すことなく彼は叫んだ。
「エダ! 何もしておるか! 儂の懐刀のお主だけは、今の姿とて分からぬ筈がなかろう!」
「……」
「ええい、よもや昨晩の出来事を忘れたとは言わせんぞ! 無様に原始人風情に遅れを取りおって! 姿形が変わってもこれを見れば分かるじゃろう」
そう言うと藤兵衛は懐からキセルを取り出し、衛兵たちに向けて尊大にかざした。漆黒の香木に金の蛇の刺繍が刻まれたそれは、この世に一つしかない、金蛇屋藤兵衛という男の存在を明示するのものだった。だが、それを見るや否や、彼らの目の色が怪しく変わった。
「……ユヅキ様から言付かっている。そのキセルを持つ者がいれば、生死は問わず捕らえろと。どんな理由があっても完遂せよと。申し訳ありません……旦那様」
「ふん。成る程の。そういう事由か。合点がいったわい。お主ほどの忠義の男を動かすには、それ相応の理由があろうて。恐らくは妻子を人質に取られたか。いかつい顔に反して家族想いのお主の事じゃ、そういう話ならば仕方なき事じゃて」
「旦那様……早くお逃げ下さい。この街は既に……」
「おっと。そこまでにしておきなさい」
本宅2階の窓からゆらりと現れたのは、金蛇屋一門の総番頭を務める銀蛇屋ユヅキであった。西大陸の貴族然とした金色の服で全身を着飾り、優雅に扇子を仰ぐその傍には、絶世の美女を2人侍らせていた。
「そこの若い方。どなたかは存じませんが、旦那様のキセルをお持ちということは、彼の失踪に関わっているようですね。エダ、至急彼を奥へお連れしなさい」
「ふむ。何ともちんけな芝居じゃのう。そこそこ頭は回っても、そちらの才能は乏しいようじゃな。少しは儂を見習うがよいぞ」
藤兵衛は皮肉たっぷりに口を歪ませ、悠然とキセルに火を付けた。ユヅキは一切変わらぬ彼の余裕を目にし、微かだが確実に顔を紅潮させた。
「この状況に置かれても、なおも変わらぬ威厳と態度。流石はかつて私を屈服させた男だ。しかし……お前は私に負けたのだ。私にはこの地位が、世界を統べる身分こそが相応しいのだ!」
「やれやれ。貴様を焚き付けしは西の連中か? はたまた北のアガナ神教、大穴で秋津の藤原家もあるのう。どちらにせよ心当たりが有り過ぎるわい。じゃがの、ユヅキ。天下に名を轟かす金蛇屋の看板は、貴様にはちと重過ぎようて。頭を垂れて一から出直すがよい。さすれば全てを不問にしようぞ」
「もういい! 早くあの男を捕まえろ! お前らの妻子がどうなってもいいのか!」
「クッ! 旦那様……申し訳ありません。私にはどうしても……」
「謝罪など要らぬ。この件でお主の責任は皆無じゃ。儂の力不足、ただそれだけじゃて。お主ら……例え状況がどう変わろうとも、何が起こったとしても、儂は長年の忠義を決して忘れぬぞ」
「!! だ、旦那様……」
エダ率いる衛兵たちは躊躇い足を止め、苦悶に満ちた表情を浮かべていた。そんな彼らに苦笑を示しながら、それでも藤兵衛は動じない。この男は動じない。単なる度胸の問題だけではなく、彼はいつ如何なる時も先を読み万策を尽くして行動する。今日もそれは例外ではなかった。
「何をしている! 早く捉えろ! そいつは化け物だ! 一分でも隙を見せては必ず喉元に食らい付くぞ!」
「分かっておるではないか。流石は儂の右腕じゃのう。さて……そろそろ頃合いかの」
次の瞬間、彼らの背後で大きな炸裂音が鳴り響き、周囲に黒色の煙が立ち込めた。刺激臭のする煙に、衛兵たちは涙を流しながら身をかがめた。
「待たせたな旦那様! とにかく今は逃げんべ! 何しても無駄だ」
「遅いぞ茂吉! 儂の計算より5分も遅れておるではないか! そんな様でよくも長年儂の側近を勤められたものじゃのう」
風のように茂みから現れたひょろりと背の高い青年が、藤兵衛の手を引きその場から走り去った。衛兵たちはどこか安堵した表情で、やる気なく彼らの後を追おうとした。一方でユヅキは血が出るほどに歯嚙みしながら大声で叫んだ。
「茂吉! 姿が見えないと思ったが……後でどうなっても知らんぞ!」
「へへっ。オメなんぞに言われたかねえな。オラが付いてくのは、とうの昔からこいつだけだ。せいぜいクソして寝てろ!」
どんどん遠ざかる二人の影。増援の足音が背後で響く中、藤兵衛は足を止めて一度だけくるりと振り向き、邸宅に向かって低いダミ声で腹の底から叫んだ。
「ユヅキよ。儂は受けた恩も恨みも屈辱も一生忘れぬし、それらを万倍にして返す事で、オウリュウ国の支配者にまでのし上がったのじゃ。その事は貴様が一番よく知っておろう? 精々怯えながら生きるとよいわ」
「おい! そんなん後だ! 早く逃げんぞ!」
茂吉に手を引かれ、再び走り出す藤兵衛。見る見る小さくなる影に向かって、ユヅキは怨嗟の声を手に持った扇子と一緒に窓から投げ捨てた。
30分後。ロンシャン中心街、市場の外れ。
息を切らせた二人の若者が、汗をびっしょりかきながら街路樹に寄りかかっていた。すんでのところで逃げおおせた彼らは、息を切らせつつもどこか満足そうな顔になっていた。
「……ふう。ここまで来れば追手も来ねえべ。とはいえよ、ロンシャンを始めオウリュウ国での金蛇屋の影響力は絶大だかんな。いくらオメとは言え、いったん国を離れる他ねえべ」
「元よりそのつもりよ。で、お主はどうするつもりじゃ? お主一人ならさておき、あの不細工な家族がおるじゃろう」
「誰がブスだ! あんなめんこい娘はいねだ! それ言うの金蛇屋でオメだけだべ! もうとっくにゲンブ国に逃がしただよ。それにな……やっぱオラ長くねだ。医者さんも言ってたけんど、あと一月もてば御の字だとよ」
「ダッカが言うのならば、きっとそうなのじゃろうな。そうか……ならば死に目には会えそうもないの。全く世の中とは上手くいかぬもんじゃて」
「へへ。オラ知ってんだ。あの不老不死だっけ? オメはオラにも使ってくれよとしたんだろ? オメはそういう奴だ」
「……」
茂吉は鼻の下を指でこすりながら、実に爽やかに笑った。とても澄み切った、春の日差しのように暖かな笑みだった。それを黙って見ていた藤兵衛も、やがて釣られるように大きく声を出して笑った。
「お主は……昔から何も変わらんの。呑気で、お調子者で、楽天家で。儂が面倒を見てやらなければ何も出来んかったであろうて」
「そうだなあ。間違いね。オラがこうして生きてこれたんも、ぜんぶ藤吉のおかげだな」
「その名で呼ぶなと申したであろうが! この阿呆が!」
「まあいいじゃねか。二人っきりだし。そういやガキの頃よ、一緒に村長ん家の米をかっぱらったの覚えてるか?」
「ありゃオメがどうしても年貢を払えねえっつったから、仕方なく付き合ってやっただけだべや! そもそもオメは昔っからな……」
「ははは。怒った顔も変わんねな。もろこし持って踊ってた頃のオメのまんまだ」
「うっせ! でも……懐かしな。思い返してみりゃよ、オラ家のもろこしってまんず味しねがったな。アホみてに喜んで食ってたのオメだけだべ」
「他に食うもんねえからしゃあなかんべ。頭痛がする程マズかったけんどな。オメん家には世話んなったわ。まんず懐かしな」
「まんずな。まんず……懐かしべ」
2人の会話は尽きない。たなびく雲がのんびりと帝都の上空を過ぎていった。
そして、11時を告げる鐘の音がロンシャン中心街に響き渡った。2人はハッと我に帰り、揃って顔を突き合わせた。
「さてと。時間じゃな。不愉快極まるが儂は行かねばならぬ。最後に1つ、儂から頼みじゃ。この訴状を各地に届けてくれぬか」
「もちろんええだよ。……うわ、何通あるんだこりゃ? 各地の王族に神明教に……皇帝陛下宛てもあるでねか。まんずオメは昔っからマメだよな。昨日の今日でよくそんな時間があったもんだよ」
「ふん。儂を舐めるでないわ。先も話した昨晩の乱痴気騒ぎの間、儂が無為に時間を費やしたと思うか? 危機の重篤度と対応の速度を比例させることが肝要ぞ。あのユヅキの事じゃ。事前の抜かりはなかろうが、種は撒いておかねば花は咲かぬ。まあ見ておれ。儂を敵に回すということが、一体どういう意味かその身に教えてくれようぞ。グワーッハッハッ!」
不敵に高笑いをする藤兵衛を見て、茂吉は呆れたように首をすくめてため息をついた。
「よう知っとるだよ。オメに逆らった人間が今までどうなってきたかはな。ま、とりあえずこの分は絶対届けっかんな。オラとオメの最後の“約束”だ」
「……世話になったの、茂吉。お主の恩……儂は生涯忘れぬ」
「世話なんてなんもしてね。オメはいっつも1人で何でもしてきた。ずっと側で見てきたオラが1番良く知ってる。なんも心配してねえだよ」
「ガッハッハッハッハ! この儂を誰と心得るか? オウリュウに名だたる大商人、金蛇屋藤兵衛その人ぞ! ……おっと、忘れるところじゃったわ。これだけはお主に渡しておかねばのう」
藤兵衛は懐の財布から紙幣を取り出し、更には指や全身に付けた貴金属を取り外すと、そっくり茂吉に差し出した。どう見ても500万銭以上の価値がある量と質に、彼は慌てて首を振って手を引っ込めた。
「こ、こんなに貰えねえだよ! オメにも今後の生活があんだろ!?」
「茂吉よ。儂の一番嫌いなことはな、金の上での約束を反故にすることじゃ。お主もよく知っておるじゃろう? 儂はお主と“契約”をした。手紙の件も、昨日の夜の件でも支払いは足りておらぬ。この儂が一度渡すと申した金は、どんなに時間をかけても、どんな形であっても必ず準備しようぞ。行った仕事に対する正当な対価が支払われない、そんな理不尽は金蛇屋では絶対に許されぬ。何も言わず持っていけい。三途の川の渡賃と思えばよかろう」
「本当に……オメは変わんねえな。んじゃありがたく貰っとくべ」
「おっと、ついでにこれも持っていけい。南のスザク国産の最高級シルクじゃ。売れば多少の金になろうて」
「おいおい。往来で素っ裸になっちまってまあ。まんずこの国に来たばっかの頃を思い出すな。着替えは持ってんのか?」
「代わりにお主の服を寄越せい。今後はあまり目立たってはいかんからのう、薄汚い位が丁度よかろうて。……ふん。悪くないの。やや大きいが仕方なかろうて。綺麗好きな性格はお主の一番の長所じゃな」
藤兵衛は清潔な麻の着流しをふんだくりながら、口を大きく開けて実に楽しそうに笑った。突然脱がされた茂吉はぶつぶつと口籠るも、それでもやや照れたような表情で微笑んだ。
「……なあ、昨日言ったよな? あんな魔術を前にして渋るオラに、オメ確かにこう耳打ちしたよな。『覚悟を決めい、茂吉。この儂を誰と思うておるか?』ってよ」
「ふん。確かに言うたが、それが何じゃ。情け無く縮こまりおって。げに手が出る手前だったわい」
「はは。確かに肝っ玉まで抜かれるかと思ったべ。ただ、幼馴染として1つだけ言わせて貰うぞ。オメこそな……今の自分の言葉を忘れちゃいけねえべ」
「……何やら含みがあるではないか。昔からお主は、極めて稀にじゃが、実に思わせぶりな事をぬかすの。一体どういう意味じゃ?」
「オメは強い。頭もいいし、人を惹きつける魅力があるし、何より己の意思を最後まで貫く強い決断力と実行力がある。けんどな、オメは時々感情的になって、我を忘れちまう時がある。こんな風に見せてっけど、実際オメは情に厚すぎんだ。“あの時”もそうだったろ?」
「……」
「忘れちゃいけね。オメは誰だ? どこから来て、どこに足をつけて、どこに向かおうとしてんだ? ずっと忘れちゃならねえだよ。オメの旅の無事、ずっとオラは祈ってるかんな」
茂吉は手紙と金品を懐にしまい入れると、グッと藤兵衛の手を取って握り締めた。藤兵衛はふんと鼻を鳴らしながらも、僅かに目を細めて力強く握り返した。そして次の瞬間、彼は皮肉に口の端を曲げ、人が変わったような暖かい声で返した。
「そういうのをな、東の秋津国では『神に説法をぶつける』というのじゃて。……茂吉よ。家族と共に神明教教主ムルアカ殿を頼れい。十分に貸しは作っておるし、手紙に詳細は記しておる。きっとお主亡き後の面倒も見てくれようぞ」
「藤吉……オラのために何から何まで……」
涙ぐむ茂吉に背を向け、藤兵衛は迷いない足取りで前はと歩み出した。一歩、一歩足音が遠ざかって行く中、背中越しに微かに震える声で告げた。
「長い付き合いじゃったが、これでお別れじゃな。中々に愉快な日々だったわい。次は冥土で酌み交わそうぞ。じゃが茂吉よ……儂は必ずロンシャンに戻って来るぞ。お主の墓も作らねばならぬ故、死ぬ前に土地と設計だけでも決めておけい。後からでは余計な金がかかるからのう。即ち損じゃ。大損じゃ。儂は……損だけは大嫌いじゃからのう」
正午前、ロンシャン目抜通り。
今日も様々な商店が軒を連ね、活気のある市場が形成されていた。藤兵衛はその真ん中を、脇目を振らずに歩き続けていた。秋風が一陣吹き付け、思いも寄らぬ寒さに彼は咄嗟に縮こまった。
(むう! 何たる質素な衣じゃ。十分な給金を与えておったというに、茂吉の阿呆めが!)
集合場所は目と鼻の先であったが、残された時間は殆どなかった。幸いにして追っ手の姿はなかった。警戒し目を鋭くしながら歩く彼に向け、道端から呑気な声が降りかかった。
「お兄さん! そうそう、そこのカッコいいお兄さんのことだよ! そんな辛気臭い顔してたら色男が台無しだよ。美味しい果物はどうだい? 安くしとくよ」
(やれやれ。よりによって儂に声を掛けるとはの。昔は有名な美人であったというに、商品に手を出しぶくぶくと肥え太りおって。どんなに美味いものも食い過ぎは禁物、よい教訓じゃな)
市場の果物売りである老婦人キンが、藤兵衛に気さくに話しかけてきた。彼は不快そうに心中で毒付くも、彼女は全く気にすることなく馴れ馴れしい態度で続けた。
「お兄さん、ここらじゃ見ないね。旅の人かい? ウチの果物はヨソとは違って、採れたてでとっても美味しいよ。嘘だと思うなら一つ食べてごらんよ。なんでも好きなの食べていいよ」
(そういえば腹も減ったの。まあついでじゃ。あの阿呆共に恩でも売っておくとするか)
藤兵衛は無言で品物をじっくりと観察すると、ガージを1つひったくると、慣れた手付きで硬い皮を剥いて齧った。ほっこりとした甘い味わいが口の中に広がり、満足そうに彼は頷いた。
「どうだい? 美味いだろ? 1個100銭だよ。お買得品なんだから」
「よう言うわい。普段は50銭であろうが。旅人に高値で売り付けるのが、ロンシャン農作物卸売組合長様のやり口かの?」
「え? な、なんだい。この辺の人なのかい。じ、冗談に決まってるだろ。もちろん50銭でいいよ。ほら、幾つ買うんだい?」
慌てるキンを尻目に、藤兵衛は懐から黒い革細工の財布を取り出した。つい先程までぱんぱんに膨れていた姿は見る影もなく、彼は苦笑混じりに残り少ない100銭硬貨を棚の上に放り出した。
「ああ、ちょうど2個分だね。ウチはオウリュウで1番安い店だからね。お兄さん得したよ」
「ほう。他の店では40銭で売っておったが、儂の見間違いかのう」
「う、嘘おっしゃい! そんな訳ないさ! 何処でそんな安く売ってるってのよ!?」
「西通りのゲンの直売所じゃ。組合を抜けたお陰で自由に価格を下げ、最近は大繁盛しておるぞ」
「あのガキ! オレンジだけじゃ飽き足らず、まさかガージまで安く売るなんて! 絶対に許しゃしないよ! 旦那によく言っとかなきゃ!」
「まあそう言うでない。奴は商才こそあれど、博打と女が好きすぎるわ。すぐに足を掬われて終わりじゃろうて。何より果物の味は、ロンシャン広しとは言えら貴様のところが群を抜いて一番じゃ。『どんな商売でも手をかけた分だけ、いつか必ず応えてくれる』。ギンジの口癖じゃったのう」
「あ、あんた……よく知ってるじゃないのさ。ウチの人は絶対手を抜かないからねえ。もっと商売を上手くやれってずっと言ってんだけど、人の気性ってのは治らないもんさ」
「奴も変わらんのう。その分の対価は払わねばなるまいが、儂が求めるは100銭で3つじゃ。2つで100銭として、もう1つは出世払いで払う故な」
「……はは! 大胆なこと言う子だね! アンタと同じことを、同じ目で言う人間を、あたしは50年以上も前に見たことがあるよ。そいつは今やオウリュウ国一の大商人さ。あの頃は素直でいい子だったのに、何がどうしてああなっちまったのかねえ。ここは自由と夢の街、金を掴んだ者だけが胸を張れる希望の都市、オウリュウ国の帝都ロンシャンさ。アンタも早く成り上がりなよ。ほれ、1個サービスだ。懐かしいモンを聞けた礼さ。持ってきな」
キンは大笑いしながら、豪快にガージをバナナの葉で包んで手渡した。藤兵衛は無言で受け取ると、軽く手を上げてその場から歩み去った。然らば、帝都よ。第二の故郷よ。心の中に流れる思いをそっとその場に残しながら、彼は再び前を向いて歩き始めたのだった。
「ホッホッホ。皆の衆、待たせたのう」
合流地点の街外れにて、藤兵衛は気さくに2人に声をかけた。レイが突っ伏したままこれ見よがしに舌打ちをする中、いつの間にか用意された小型の力車の中から、シャーロットが顔を出して美しく笑いかけた。
「待ってはおりませんよ。丁度正午のようです。挨拶は済みましたか、藤兵衛?」
「まあの。それより、そこの虫は何をしておるのじゃ? 遂に頭まで腐敗したのかの?」
「うるせえ! ちっと休んでただけだ! てめえこそ準備出来てるんだろうな? もう逃げんのも言い訳もできねえぞ」
レイは威勢よく怒鳴りながらも、キレのない弱りきった動きでよろよろと立ち上がった。長く続いたシャーロットの“お仕置き”は、レイの心身を激しく消耗させていた。
「いつまでもふざけていてはいけませんよ、レイ。ではそろそろ出発しましょうか」
「やれやれ、仕方あるまいて。どれどれ、ここに乗るのかの……グェポ!!」
悠然と力車に乗り込もうとする藤兵衛の背後から、レイの強烈な拳が飛んだ。腹部をえぐられうずくまる彼に、レイは唾を吐き付けて冷たく言い放った。
「な、何をするのじゃ!? 痛いではないか!」
「あ? てめえ……いつまでもチョーシこいてんなよ! ここに乗れるのはお嬢様だけだ。てめえは“こっち”に決まってんだろ!」
吐き捨てるように言いながら、レイは親指で力車の引き手を指差した。その意味を瞬時に察し、藤兵衛は顔を真っ赤にし飛び上がって抗議した。
「こ、この儂に……貴様らの力夫をやれというのか!? ふざけるてないわ! この儂を誰と心得るか!」
「あのな、てめえがどこの何モンかなんざ、今はもう関係ねえんだ。今のてめえはただの新入りだ。文句あんならここでミンチにしてやる! 俺はどっちでもかまわねえぞ!」
(な、何たる横暴! 何たる言い様じゃ! 進化の途中の下等生物の分際で! 後で必ず借りは返してやるが、悔しい事に今の儂には虫けら相手に何も出来ぬ。筋力でしか物を語れぬ原始人にまともに立ち向かっては、苦痛と悪意と悪夢の日々が必然ぞ。何とかして立場を逆転させねば……)
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ! さっさと引け! お嬢様がお待ちだろうが!!」
「ぐ、ぐう……(糞蠅めが! いまに見ておれ!)」
藤兵衛は屈辱を必死で腹に収め、渋々ながら力車の引き手を押した。全身を襲う激しい筋肉の反動と共に、力車はのろのろと前へ前へと進み出していった。
「それでは進みましょう。次の目的地は東のオンブロ地方です」
「オ、オンブロじゃと?! セイリュウ国との境の?! 馬鹿を申せ! ここから400キロもあるではないか! まさか儂1人でこいつを引けというのか!?」
「うるせえ! 口答えしてるヒマがあんならさっさとやれ!」
「ホァウン!!」
飛び交うレイの蹴りと藤兵衛の悲鳴。幾重にも連なる怨嗟の声を心中に溜めながら、彼はただひたすらに力車を押した。
「おせえぞタコ! もっとスピード出せ! 夜までに宿場に着かなきゃメシ抜きだぞ!」
「喧しいわ! 文句があるなら貴様が……アボァウ!!」
「ふふ。仲のよろしいことですね。さあ、行きますよ皆様! 世界を救う旅の始まりです!」
神代歴1278年9月29日。
金蛇屋藤兵衛と愉快な仲間たちの絢爛豪華たる大冒険はこうして始まった。暗雲立ち込める彼らの行く末に何が待ち受けているのかを、まだ誰も想像すらしていなかった。燦々と輝く太陽によって刻まれた深い闇だけが、耳元で静かに囁いているようだった。
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