第2話「魔女シャーロット=ハイドウォーク」

 金蛇屋一門の総本店を兼ねた藤兵衛の邸宅は、帝都ロンシャンの正にど真ん中に位置していた。豪奢と贅を極めた一際目を引く巨大な黒金は、事情を知らぬ旅人からすれば皇帝の居城のように見えたかもしれない。

 広大な敷地、何層にもそびえる塀、5階建ての絢爛豪華な本邸に、幾つもの邸宅、そしてその全ての漆黒の壁には金の蛇の印。ここが多くの人々が恐れ慄くオウリュウ国一の豪商、金蛇屋一門の本拠であることは、ロンシャンの者ならば子どもでも知っていた。

 厳重な警備の敷かれた正門を超え、200メートルほど敷地内を抜けていくと、じきに本宅の姿が見えてくる。だがそこからも幾つもの門を超え、幾人もの門番に身元を確認され、広大な通路や部屋を幾つも跨ぎ、気の遠くなる時間をかけて、ようやく招き人は客間に辿り着くことが出来るのだった。

「……ったくよ。どんだけエラいんだか知らねえが、いったいどんぐれえ待たせやがんだ! お嬢様を呼んだのはそっちだろうがよ!」

 苛立ちをまるで隠すことなく、銀髪の大女は太い腕に血管を浮き上がらせながら、誰ともなく激しく喚き散らした。だがもう一人の貴人めいた雰囲気の女性は、漆黒の長い髪を優雅に風になびかせながら、まるで気にする素振りも見せずに美しく微笑んだ。

「私は平気ですよ、レイ。金蛇屋藤兵衛様はお忙しき方と聞きます。きっと何か御用がお有りなのでしょう。もしお困りなのでしたら、私も力になりたいのですが」

「お、お嬢様! こっちは呼ばれてる身なんですから、そんなの不要ですぜ。今は大人しくしといてくだせえ」

「いいえ。それには及びません。私はいつも通り元気まんまんです。見たところ給仕の方も忙しそうな模様です。ここは一つ私が得意の料理でも振る舞って差し上げましょう」

「そ、そりゃいけません! それだけはやめてくだせえ! そんなことしたら……」

「どういう意味ですか、レイ? はっきりお言いなさい。言わねばこの場で四肢を切り落としますよ」

「そ、そいつは……その……な、なんというか……」

「おい客人。旦那様がいらっしゃった。さっさと進め。くれぐれも失礼のないようにな」

 衛兵が勿体ぶった口調で藤兵衛の到着を告げると同時に、客室正面の大扉が厳かに開いていった。美しく微笑みながら立ち上がるシャーロットとは裏腹に、レイは舌打ちをして露骨に不機嫌な様子を見せていた。

「けっ! えらそうによ。ナニサマだってんだ」

「よしなさい、レイ。藤兵衛様は東大陸一と称される程の大商人です。きっと私たちの想像を遥かに超えた方なのでしょう。大人しく従いなさい」

「へいへい。ま、しゃあねえか。それよりお嬢様……いよいよですね」

「……ええ。全ては世界の平和のためです。では参りましょうか」

 決意を込めた足取りで前に進むレイとシャーロット。2人を包み込む運命の輪は、ここに1つの終着を見せた。そして、長きに渡る新しい物語が始まった。


 最上階、謁見の間。

 広い室内には豪奢な様々な置物が節操なく大量に置かれ、混沌とした雰囲気を醸し出していた。部屋の周囲には20人ほどの屈強な衛兵が、誰一人緩んだ態度を見せずに警備に当たっていた。部屋の奥の一段高い場所には、これまた悪趣味な純金の蛇を象った珍妙な椅子。そしてそこに傲岸不遜に跨る小柄で痩身の老人こそが、天下に名を轟かす豪商、金蛇屋藤兵衛その人だった。

「ホッホッホ。お待たせして申し訳ありませんな、シャーロット=ハイドウォーク殿。貴殿の西大陸でのご活躍とご健勝は、この老いぼれた翁の耳にも嫌が応でも入ってきましたぞ」

 如何にも胡散臭い笑みを顔中に貼り付けて、キセルをふかしながら藤兵衛は悠然と言い放った。ふんと不快そうに鼻を鳴らすレイとは対照的に、シャーロットは一層美しく微笑んだ。

「初めまして、金蛇屋藤兵衛様。お会いできて光栄です」

 不思議な笑みだった。周囲の空気を変えてしまうような、人の心を惹きつけて離さない、そんな種類の笑みだった。微かな心の揺れを感じ、思わず内心で唸る藤兵衛だったが、そんな事はおくびにも出さずに他愛もない世間話を続けていた。だがその脳内では思考を高速に回転させ、目の前で佇む魔女を解析していた。何を思い、何を拾い何を捨て、何がこの女の核であるのか。蛇のような執念深い分析と、そこから導かれる深い洞察力が彼の一番の才と言えた。その能力こそが彼を、世界でも屈指の大商人にまでのし上げたのだった。

「(透き通る程の白き肌、漆黒の黒い髪、何より全身から放たれる魔性……どうやら間違いなさそうじゃの)ホッホッホ。お会い出来て光栄ですじゃ。美しき魔女シャーロット殿。地上に残る貴重な『神族』にお会い出来て光栄ですじゃ」

「し、神族!? 旦那様、それはもしかして……」

 周囲の兵たちがざわめき出す中、藤兵衛は極めて冷静にキセルをふかし続けていた。その細く垂れた目は、鋭い眼光でシャーロットたちを突き刺し、彼女らの微量な揺れすらも見逃さんとしていた。

「言うまでもないことよ。神とは、かつて世界を支配した種族。儂ら人間との生存競争に負けて姿を消したとの話じゃが、よもやこんな形で出会えるとはのう」

「はい。私の名前はシャーロット=ハイドウォーク。西大陸の神族ハイドウォーク家の末娘です。今後ともよしなに」

(けっ。うさんくせえ野郎だ。神だのなんだの……んなこたあどうでもいいだろうがよ!)

 苛立ちを隠し切れないレイを歯牙にも掛けず、藤兵衛は満足そうに大きく頷くと、すっと右腕を静かに上げた。その動きに即座に反応した衛兵の1人は、気配を殺したままそっとその場を後にした。彼は口の端を曲げて独特のダミ声で笑いながら、油断を欠片も出さずに言葉を紡いでいった。

「して、当初の予定より大分遅れて到着されたようじゃが、何か問題がお有りだったのかな?」

「はい。大変な問題がありました。その件について、私はとても怒っています。聞いて頂けますか、藤兵衛様? 実は……」

 シャーロットは片目の眉だけを僅かに跳ね上げて、ちらりとレイの方を睨み付けた。途端にビクンと震え上がる従者に対し、彼女は実に堂々と、それでいて極めてゆっくりと今迄の道中について語り始めた。

「……ほう。それは大変な旅路でしたのう。まさかセイリュウ国を経由して来るとは。この金蛇屋藤兵衛、東大陸の地理ならばそらで描けますがの、そんな道程は経た事がありませんでしたな」

「ええ。お恥ずかしながら、幾度も道に迷ってしまいまして。私は流れる水を超えられませんし、体が弱く供の者に全て任せた結果がこれです。思い切りお仕置きはしておきましたけれど」

「(水を超えられぬ? はて、何かの比喩かの。にしても体が弱い、と。……ふむ。確かに顔色も良くはないの。先程から敢えて衛兵を動かし続けておるが、奴は微塵も反応しておらぬ。過敏なのは隣の類人猿の如き奴隷のみじゃ。どうやら……あちらの処理が肝となりそうじゃな)そうでありましたか。いやはや、旅をしていれば色々ありますわい。お2人とも、ここロンシャンを故郷と思って頂いて構いませぬ故、どうか存分におくつろぎ下され」

「はい! 分かりました! ではここは私のお家なのですね! だとすれば、そこの美味しそうなお菓子も私のものです! ほら、レイもお食べなさい」

「お、お嬢様! 落ち着いてくだせえ! ……ああ、そんなにがっついたらノドにつまっちまいますぜ」

「ホッホッホ。いい食べっぷりじゃな。そちらの奴隷も遠慮せずに食らうとよかろう。心配せずともよい。野蛮な西大陸とは違って、ここオウリュウ国では人身売買などという下らぬ制度は一切存在せぬわ。儂の目の光る場所で下賎な商売はさせぬからのう(い、一気に3つも食いおったぞ! 九印堂の最中は1200銭もするというに! これも儂を油断させる手かの? いや……天然じゃな、アレは。どうにも調子が狂うわい)」

 そんな騒がしいやり取りの中、レイは無言のまま警戒心を最大にして、部屋内の全てのものに気を配っていた。全身で気配を感じ、鼻で危機の芽を嗅ぎ取り、全身の筋肉を張りつめながら、あらゆる可能性に反応出来るよう備えていたのだった。

「……さて、そろそろ本題に入るとしようかの。魔女シャーロットよ。貴様は“不老不死の術”を使えると聞いたが、それは誠か?」

「ええ。確かに私は、人間の老いを取り除く術と、死なぬようにする術。その両方を使うことが出来ます」

 菓子を目一杯頬張った彼女の口から放たれた明確な答えに、部屋中で一斉にどよめきが起こった。藤兵衛や番頭のユヅキだけでなく、衛兵たちですら口々にあれこれと話し合っていた。

(……ま、夢物語の不老不死とはだいぶ意味合いがちげえがよ)

 レイが無表情に心中で呟く中、藤兵衛はやや興奮しながら身を乗り出した。彼はシャーロットの瞳を覗き込んだ。正確に言えば、その瞳の奥に潜む意思を食い入る程に見つめていた。

「(目は訓練次第で嘘を付ける。じゃが目の奥は決して偽れぬ。長い人生の中で培った儂の持論じゃ。この女は……決して嘘を付いてはおらぬ! ならばここは攻める時ぞ!)ほう。して、その術の行使には何か条件があるのかの? 時間や場所、材料に対象の年齢や性別、その他諸々について聞かせて貰いたい。金で片が付くことなら何億銭でも用意しようぞ」

「お金など要りません。この術は私が望む時に、望む相手に、自在に使うことが出来ます。ただ……1つだけ条件があります。事前に番頭様には申し上げましたが、どうか私たちの旅を助けて頂きたいのです、金蛇屋藤兵衛様」

「何かと思えばそんなことか! ああ、勿論じゃて。金でも人でも、何でも遠慮せずにお申し付け下され。儂の思う通りにならぬ事など、このオウリュウ国、いや東大陸中を探しても虫ケラ一匹分もありはせぬわ! グワッハッハッハ!」

 高笑いを浮かべる藤兵衛、それを聞いて静かに美しく微笑むシャーロット。何かを予期して拳を強く握りしめるレイ。

「では最終確認です。私たちの旅を、世界を救うための旅を、貴方は……しかと助けてくれるのですね?」

「勿論じゃ。儂は大陸一の嘘吐きじゃが、契約だけは死んでも守る男ぞ。不老不死の術と引き換えならば、全面的に貴様の旅を支援するわい(まったく……しつこい小娘じゃて。何が世界を救うじゃ。呆れた狂人めが)」

「了解です。そのお言葉、確かに承りました」 

 瞬間、シャーロットの雰囲気が変わった。と同時に、彼女の漆黒のドレスの前の空間に、不可思議な紋様がぼんやりと形作られた。藤兵衛が怪訝に思う間もなく、紋様は瞬時に空気中に飛散していき、部屋中を闇のように暗く染めた。肌に生暖かくも背筋を伝う独特な違和感をその場にいる全員が感じ、揃って生唾を飲み込んだ。

「(こ、これは……今の今まで半信半疑であったが、どうやら此奴は本当に“魔女”じゃ!)で、では早速術に取り掛かって欲しいのじゃが……」

「……おい。ちっとまてよ。お嬢様、やっぱ俺は反対です。さっきから聞いてりゃこいつ、金のことしか言わねえ下品極まる野郎ですぜ。こんなどうしようもねえ金の亡者のために、お嬢様の魂を削るなんてあっちゃならねえ」

 我慢できずに口を挟んだレイに半身を向け、シャーロットは極めて冷静に答えた。

「貴方の気持ちは伝わってますよ、レイ。ですが私はもう決めたのです。私には分かります。彼が居らねばこの旅は成立しません。それに、ちゃんと約束もしました。約束を守らねば地獄に落ちると、私は御祖父様に何度も言われましたから」

「し、しかしですね……」

 揉め始める二人を冷ややかに見つめながら、藤兵衛は小声で隣の番頭ユヅキに囁いた。

「(何じゃ、あの銀蠅は? 従者の分際で生意気じゃのう)」

「(主と対等と勘違いしているようですな。どうやら教育が行き届いておらぬ様子。同じ西大陸出身としてお恥ずかしい限りです)」

「(ホッホッホ。西大陸人とはつくづく下劣じゃのう。しかし……実に頭の悪そうな虫じゃな。ほれ、あの顔を見てみよ。人間ああはなりたくないものよのう)」

「ああ!? 誰が虫だ! 聞こえてんぞ!」

 即座に放たれたレイの怒声が場の空気を震わせた。驚いたユヅキは飛び上がりその場から離れ、衛兵たちが剣呑な雰囲気を発し始める中、当の藤兵衛だけは一切動じることはなかった。そう、この男はいつ如何なる時も動じない。

「誰かと申したか? そんな事は決まっておろう。貴様以外に誰がいるのじゃ?」

「てめえ……俺をナメんじゃねえぞ。お嬢様、やっぱりこの男は……」

「よう聞けい、虫めが! 貴様はシャーロットの何じゃ? 詳細な関係は知らぬし興味もないが、共に旅をする同志であろうが! さすれば、彼女が信じて決めたことに、何故貴様が異を唱える? それは貴様がシャーロットを信じておらぬからではないのか? 心の底から慕い信じておるなら、どんな状況であっても、どんな事柄でも受け入れられる筈ではないか! 言い返す言葉があるなら言うてみい!」

(クッ! チョーシこきやがって! テキトーなこと言ってんじゃねえ!)

 咄嗟に返す言葉を持たず、レイは唇を噛んで一瞬だけ黙った。その隙を逃すことなく、藤兵衛は分かりやすく大粒の涙を目に溜めつつ、力強い口調で言い切った。

「聞いての通りじゃ、シャーロットよ。既に知っておるかもしれぬが、儂はこの街では悪役じゃ。蛇蝎のように嫌われ、守銭奴となじられることは何度もあった。じゃがの、儂は信じておるのじゃ。金の力でしか解決できないこともあると。儂はそなたと同じ、世界の平和を信じる同士ぞ。世界の為、儂に貴女様の力を貸してくれぬか」

(……まじいな。このパターンはじつにまじい。だがいくらお嬢様でも、こんなクソの見え見えの芝居に反応するわけが……)

 レイが迷いを振り切るように振り向いたその時、そこには大粒の涙を流すシャーロットの姿があった。美しい顔をくしゃりと歪め、今にも藤兵衛の手を握り締めんと力を込める、純粋極まる思いを抱いた彼女がいたのだった。

「ああ、藤兵衛様。貴方は……なんと高尚な魂をお持ちの方なのでしょう! 私は心底感動いたしました! 早速術を行いましょう!」

(な、何とちょろい女じゃ! ここまで馬鹿正直な者が存在するものなのか!? まさか芝居か? いやしかし……)

(や、やっぱこうなっちまった! ヤベえぞこりゃ!)

 三者がそれぞれの思考を巡らせる中で、藤兵衛は番頭に目配せをした。彼が手を2回パンパンと叩くと、幕間から縮こまった態度の痩せた背の高い老人が、おどおどと周囲を窺いながら姿を表した。藤兵衛は無言で彼に手招きをして、すぐ隣に立たせた。

「さて、紹介せねばなるまい。この者は儂の昔からの盟友でな。儂に不老不死の術をかけるなら、先ずは自分にて試してくれと言い出して聞かぬのじゃ。何度も儂は止めたのじゃが、一度言い出したら聞かぬ男でのう。果たしてそれは可能なのか、先に教えて欲しいのじゃが」

 藤兵衛の言葉とは裏腹に、目を伏せて怯えを隠せずにガクガクと震える老人。その様子を見てケッと舌打ちをするレイに対し、シャーロットは優しく微笑んだ。

「友を思う美しいお気持ち、私は心から感動致しました。ただ、試せるのは若返る術の方だけです」

「……意味が分からぬの。どういう事じゃ? おっと、専門用語は不要じゃぞ。肝要な部分のみを明確かつ簡潔に説明致せ」

「貴方の言うところの『不老不死』とは、実際には2段階の術の行使を意味しています。まずは若返りの術をかけ、次にその時点で魂を固定する術をかける。簡単に言えばそうした仕組みなのです。1段階目は誰に対してでも行えますが、数時間で効果は失われます。対して2段階目は、効果自体は私の命の続く限り永続しますが、契約した者にのみ効果を発揮します。ご理解いただけますか?」

「実に簡潔で要を得た説明じゃな。最低限の知性を持ち合わせておるようで助かるわい。無論それで構わぬわ。あくまで試しの方で結構じゃて。では頼むぞ」

 満足げに首を振って答える藤兵衛に対し、老人は彼に縋り付きながら、怯えきった表情で涙を流し始めた。

「(だ、旦那様。オラやっぱ怖いだ! 止める訳にはいがねか?)」

「(痴れ者が! おい茂吉! これはお主とて納得の上の契約じゃろうが! 報酬は前金で渡しておるし、残りの1000万も成功の是非に関わらず、約束通りお主の家族に渡すわい。儂が金の話で嘘をついたことがあるか?)」

「(そ、そりゃ長い付き合いで一度たりともねえがよ、けんどオラ怖くてよお。だって聞いたか? 魔女ってのは心臓を食っちまうんだぞ? オラのなんて美味くもなんともねえよお)」

「(喧しい! いつの時代の迷信じゃ! そもそも去年の工事での大失敗を忘れたか! お主を金蛇屋に残してやるのに、儂がどれ程の金と労力を費やしたか思い出せい! 此度はあの件の穴埋めじゃ! 最早お主に術を完遂する以外の選択肢などないわ! 覚悟を決めて突貫して参れ!)」

(……はあ、んなこったと思ったよ)

 心中でレイが毒突く中、数十秒ほどそんなやり取りが続き、痺れを切らした藤兵衛が茂吉に何事かを耳元で呟いた。すると彼は今までの態度が嘘のように、目をしっかりと見開いてシャーロットの方へ進んでいった。

「……それではお願いします。魔女さん、オ、オ、オラに術を!」

「畏まりました、茂吉様。暫しそのままでお待ちを」

 シャーロットの顔に再び独特の緊張の色が走った。先ほどと同じ様に、いや先ほどより遥かに鮮明に、黒い紋様が彼女の前に形作られ、悪寒に近い感覚が部屋中の全員の背に同時に走った。

(これが……噂に聞く闇術というものかの。何とも凄まじい圧じゃ。この金蛇屋藤兵衛、今まで幾多の修羅場を超えてきたと自負しておるが、明らかに初めて感じる類のものぞ。恐ろしい……故に、使い方によっては信頼できるという訳じゃな。実に興味深いの)

 藤兵衛は感心しつつも、ぐうと心中で深く唸った。百戦錬磨の彼とて未だに目にしたことのない、おどろおどろしい闇に足が震えるのを感じていた。その間もシャーロットは、微動だにせず術を形成していった。

 時間にして1分が経過したくらいであろうか。突然紋様が空中でボロボロと崩れ落ち、そこから突如としてゼリーのようなどろりとした流体が生まれ、狙いを茂吉に定め足元に這い寄った。

「ヒ、ヒイッ!! お、お助けぇ」

「禁術『ベヘス』……成りました。動かないで下さい、茂吉様。一歩でも動けば間違いなく死にますよ」

 美しい笑顔のままシャーロットは短く告げた。茂吉は腰を抜かしその場にへたり込み、そうしている間に黒き靄が彼の全身を包み込んでいき、彼は闇の中へのたうちながら飲み込まれていった。

「お、おい。何じゃこれは?! 茂吉は何処へ行ったのじゃ?!」

「お静かに。ご覧あれ」

 シャーロットの言葉を合図にしたかのように、溢れる闇が何処かへ霧散して行った。そこにはしわがれた老人は既に存在せず、一人の若々しい長身の青年がぼんやりと佇んでいた。年頃は20歳ほどであろうか、見るからに若い活力が見て取れる青年は、ひょろりと痩せ細った顔に間の抜けな表情を浮かべ、呑気な口調で藤兵衛に話しかけた。

「……旦那様? オラどんな感じだ? ちゃんと心臓は残ってるかな?」

「も、茂吉か? 真か?! 確かに昔のお主に瓜二つじゃが……本物の茂吉なら生年月日を言ってみよ!」

「オラそんなん覚えてねえだよ。生まれは北のゲンブ国の端っこさ。んで嫁の名前はサチで、娘は3人で、上の娘はミツで、そんで10ん時に籐吉と一緒に……」

「も、もうよい! 間違いない! お主は茂吉じゃ。……この術は紛れもない本物であるぞ! あい分かったシャーロットよ。貴様も掛け値なしの本物じゃ。すぐに儂に術をかけい!」

 ざわつく室内、興奮し身を乗り出した藤兵衛。全て了解したとばかりに、微笑みながらコクリと頷くシャーロット。

「では行きます、藤兵衛様。準備はよろしいですか?」

「愚問よ。この儂を誰と心得るか? ここオウリュウ国最高の商人にして、東大陸のみならず、世界の栄華を残らず食い尽くす金蛇屋一門の総帥、金蛇屋藤兵衛その人ぞ。儂は今までの人生で、一度己で決意した事に躊躇った事などないわ。すぐにでも術を頼むぞよ、シャーロットや」

「……旦那様、本当におやりになるのですね。安全とは分かっておりますが、万が一何かあったら私はどうしていいか……」

 番頭ユヅキは頭を抱えて金髪を掻き乱し、心底困った顔で言った。藤兵衛はキセルを深々と吸い込んで、いつもの平静さの裏に微かな苛立ちを見せながら叫んだ。

「何も問題ない。茂吉を見たであろう? 彼奴は本物じゃ。本物の魔女、本物の術じゃて」

「しかし……もう一つの術は未検証かと。もし失敗したら金蛇屋は一体どうなるのですか?」

「ええい、喧しいわ! いつも言っておる通り、儂に何かあったら貴様が代理で指揮をとれい! 儂は忙しいのじゃ! ささ、シャーロットよ。待たせたの。早く術を儂に放てい!」

 暗く下を向き表情の見えない番頭から視線を動かし、藤兵衛はシャーロットに両手を広げて向き合った。その次の瞬間、先ほどの靄が藤兵衛を包み込んだ。彼らの遣り取りの間に、既に彼女の術は形成されていたのだ。どろりと闇が藤兵衛の身体を溶かし、意識の奥にまで混迷が染み込んでいった。

(これは……妙な気分じゃな。自分が分解されていくような、内側から洗浄されているような……実に奇っ怪なものじゃのう)


 藤兵衛の視界に何かが見えた。様々な記憶が彼の脳内を駆け抜け、混ざり合っていく。寒々しい遠い農村の風景、限りなく大きく見えるオウリュウの街並み、笑いながらトウモロコシを掲げて踊る子供たち、小さな部屋の中での穏やかな微笑み、幸せな……暖かい契り。

(これは……儂の……)

 商人として無我夢中で働く毎日。痛みと苦しみを跳ね除けて大陸中を駆け抜ける毎日。空になった弁当箱を受け取る細く白い腕。友との語らい。みるみる空になる酒瓶。日焼けした太い腕から手渡される漆黒のキセル。人に囲まれ、笑い、怒り、疲労に包まれながらも心身ともに充実した毎日。

(……何故じゃ? 何故今こんな時に?)

 だが、唐突に引き裂かれる糸。強く太い無慈悲な大人の腕、振り下ろされる刃。頬を無限に伝う涙。そして……血。朱に染まる全ての記憶。


「グオッ!」

 ハッと跳ね起きる藤兵衛。周囲は衛兵たちが心配そうに駆け寄っていた。

「む? 一体どうしたのじゃ? 術は成功したのか?」

「旦那様……まずは鏡をご覧下さい」

 番頭が懐から手鏡を取り出し、恭しい態度で手渡した。スッと手を伸ばす藤兵衛の身体に違和感。……明らかに体が軽い。そして鏡に映った姿は、間違いなく彼が10代後半の頃のものだった。背こそ低いが細く締まった体躯、キッと切れ上がる表情、短く天を突き上げる黒髪、皺一つない張りのある皮膚。全てが全て、若さと力が内側から活火山の如く溢れ出ているようだった。

「遂に……遂に儂はやったぞ! 長年の悲願が遂に! ユヅキ、酒をもって参れ! 今宵は祝杯じゃ!!」

 低く通るダミ声で藤兵衛は叫んだ。その様子を見てシャーロットはにこやかに笑いながらも、次の瞬間に糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

「お、お嬢様! クソ! やっぱりあんな術ムチャだったんだ!」

「どうしたシャーロット!? 顔が真っ青ではないか! ええい、すぐに医者を呼べい! この女は儂の大恩人じゃ! いつも言っているであろう! 受けた恩も恨みも10倍にして返さねばならぬ!」

 一斉に駆け寄るレイと叫ぶ藤兵衛を、シャーロットは手で制し微かに首を振った。汗をびっしょりとかきながら、美しい顔に弱々しい微笑を浮かべつつも、彼女は決意を込めた口調で言い切った。

「案ずることはありません。術の一時的な副作用でしょう。それより藤兵衛様。先も申しあげましたが、私たちは旅を進めなくてはなりません」

「おお、そうじゃったの。好きにするといい。おい、誰か。シャーロットをお送りするのじゃ。路銀や食料を荷馬車ごとありったけ準備せい。腕利きの案内も付けるのじゃぞ」

「いえ、そうではありません。金も物資も必要ありません。私が必要とするのは……貴方です、金蛇屋藤兵衛」

 静かな、それでいて断定的な口調でシャーロットは言った。藤兵衛は眉を顰めて怪訝そうに彼女を見つめ、極めて冷静な態度のままキセルに火を付けた。

「意味が分からぬのう。何故儂が斯様な事に? よもや……この儂を貴様らの旅とやらの案内をせよと?」

「ええ。その通りです。貴方には私たちの旅に同行していただきます。私たちは貴方を必要としているのです。不老不死の術と引き換えに、私たちに全面的に協力する。最初からそういう契約だった筈です」

(けっ。俺はべつにこんなクソいらねえけどな)

 レイは心中でそう毒づきながら、盾のようにシャーロットの前に立ちはだかった。藤兵衛は怪訝な表情を深めつつ、一呼吸置いてから冷静ながらも高圧的に言葉を放った。

「何を言い出すかと思えば……極めて愚かな話じゃな。確かに儂は、旅の手助けをしてやるとは言った。しかしじゃ、儂が直接行くなどとは一言も申しておらぬ。戯言は程々にせよ」

「いいえ。私はあらかじめ確かにそこの番頭様に申し上げ、快諾頂いております。これがその証書です。それに加え、今の貴方は私から離れられません。貴方の命は私の内にあります。貴方が私の側を離れた場合、貴方の肉体から不死の術が消え、すぐに不老の術も消え失せます。そればかりか、“闇力”を制御できない今の貴方では、内なる力に耐えきれず即座に塵芥となり消え失せることでしょう。これも全て、事前に番頭様に申し上げた事です」

 藤兵衛はキッとユヅキの方を一度振り返り、差し出された証書の文字を食い入るように読む始めた。そこには確かに、彼女が今言った通りの契約内容が記されていた。わなわなと怒りに震える藤兵衛と、金髪を掻き上げて薄っすらと笑う番頭ユヅキ。

「おいユヅキ! こんな重要なことをなぜ黙っておった!」

「申し訳ありません。つい忘れておりました。まあ、誰にでもミスはあります。ここは一つ大目に見てください。どちらにせよ、旦那様は旅に出なければいけません。先ほどの約束通り、“何かあった”場合は、確かに私めが留守は引き受けますので、どうぞご安心下さい。何年、何十年でもお待ちしております」

 ヘラヘラと笑みを浮かべて、ユヅキは金髪を掻き上げながら高らかに言い放った。次の瞬間、藤兵衛は懐から漆黒に染まった鉄の筒を取り出し、狙いを彼の脳天に定めた。彫金された2対の金色の蛇が輝きを放つ中、彼は激情を瞬時に内に仕舞い込み、極めて冷静に告げた。

「成る程の。理解出来たわい。中々見事な手際じゃの、ユヅキよ。褒めて遣わすぞ。じゃが……この程度で昔の借りを返したつもりかの?」

「お褒め頂き光栄ですな。しかし、その『銃』は使えますまい。昼の内に弾を空砲に代えておきましたから。もちろん用意周到な旦那様のこと、予備の銃弾は勿論ご準備でしょうが、それを私が黙って見ているとでも?」

「ふん。たかが貴様如きに、東大陸に一丁だけしか存在せぬ新技術を使うつもりはないわ。恐らくは何処ぞの阿呆と組んでおるのじゃろうが、心当たりが多過ぎて特定出来ぬの。貴様の処分は後ほどゆっくり考えるとして、まずは現状を打破せねばなるまいて。おい、お前たち! すぐに客人を地下牢にお連れせい!」

「……藤兵衛様、一体どういうことですか?」

「どうもこうもないわ。儂が貴様から離れられないというのならば、離さなければよいだけの話よ。旅とやらの開始時期は証文にない故な。なあに、心配は要らぬ。三食付きで永遠に儂の元で暮らせばよい。何も心配は要らぬし、味わったこともない豪奢な生活を約束しようぞ。グエッフェッフゥェフェ!!」

 下卑た高笑いを浮かべ、銃口をシャーロットに向ける藤兵衛。目まぐるしく変わる状況に混乱しながらも、30名ほどの衛兵たちは彼に従い槍を掲げた。それら全てを見ていたレイは、力なく首を竦めてため息をついた。

「ね、お嬢様。やっぱ人間なんてこんなもんでしょ? こんなクソ、最初からぶっ殺しとけばよかったんですよ」

「口を慎みなさい。そんなはしたない口を聞いて……後でゆっくりお仕置きですよ。いいですか、レイ。この世界に失ってよい命など1つもないのです。彼もまた迷える子羊なのですよ。幸か不幸か……辺りに夜の帳が降りて参りました。しっかり教えて差し上げなさい、レイ。私たちが……一体“何”であるかを」

「……へい。わかりやした」

 徐々に、ゆっくりとレイの瞳が狂気に染まっていった。全身にゆらりと闇を纏い、目には見えずとも皮膚に突き刺さる闘気を撒き散らすその姿は、人間のそれとはかけ離れていた。だが藤兵衛たちは気付かない。まさか自分たちの目の前にいる生き物が、美しき人形の如き長身の女が、人間とは全く違う種であるとは想像も付かないのだ。

「ええい、何をごちゃごちゃと! ここにいる兵は、戦士の国として有名なセイリュウの傭兵たちじゃ! 東大陸に名高き蒼き髪の死神たちの前では、世界の如何なる軍すらも太刀打ち出来ぬ! 多少なら怪我をさせても構わん。者共、かかれい!」

「へいへい、っと。んじゃやりますかね」

 刹那、風が吹いた。と同時に1人の衛兵が呻き声を立ててその場に崩れ落ちた。構えた槍も全身を覆う甲冑も一撃でヘシ折られ、その腹部には深々と拳の跡が刻まれていた。

「な、何じゃ!? 何が起きたのじゃ!?」

 状況を飲み込めず、藤兵衛は銃を構えたまま喚き立てるだけだった。そこに更なる風が吹き荒れ、衛兵たちが今度は3人まとめて吹き飛ばされ、残ったのは平然と佇むレイの姿だけだった。

「あ? どうしたクソ商人? やるならさっさとこいや」

「む、むううう! 敵はあの虫じゃ! 正面から挑むでない! 多数かつ多面でかかれい!」

「へっ。なんでもいいから早くしろや。こちとらヒマすぎて体がナマってんだ」

 それを合図に始まる乱戦。しかしこれは……圧倒的な蹂躙! レイの獣の如き激しい動きを前に、歴戦の戦士たちは誰一人として付いていくことが出来なかった。銀色に染まる風が吹く度に、彼らはまるで玩具のように吹き飛ばされ、地に伏せられていった。拳が、脚が、体躯が、炎の如く吹き荒んでいった。

(……はあ、殺さねえようにやんのも大変だぜ。お嬢様がいなきゃ10秒で皆殺しにしてやるってのによ)

 明らかに手を抜いているにも関わらず、気付けば残りの衛兵は5名となっていた。しかし、彼らはレイの余りの強さに震え上がり、戦意を失ってその場に立ち尽くすのみだった。だがその時!

「そこまでじゃ! 愚かな虫めが! 此奴がどうなってもよいのか?」

 レイの視線の先には、最高に卑劣で矮小な笑みを浮かべ、銃をシャーロットの頭に突きつける藤兵衛があった。一瞬動きを止めたレイに、彼は勝ち誇ったように中指を突き立てた。

「……てめえ! 望みの不老不死をくれた恩人のお嬢様に、よもや手をあげるたあそれでも人間か! もしお嬢様が死んだらてめえも道連れだぞ!」

「グワーッハッハッハ! 世の中勝てば良いのじゃ! 何も殺しはせぬわい。人は生かしてこそ利益を生む。どんな者じゃろうて使い熟すが儂の腕よ。死なれては単なる大損じゃ。儂は損だけは大嫌いなのじゃからのう」

「けっ。なら手は出せねえってこったろ? だったら十分だぜ。今からブチ殺してやっからよ!」

「単細胞な虫めが。確かに殺しはせぬが、それに至らぬ事なら何でもしようぞ。手足を撃ち抜いて自由を奪ってやろうかのう。それとも美しい顔に傷を刻んでやろうか? ほれ、先程までの威勢はどうしたのじゃ? ほれ、ほれ? 大人しく儂の足を舐めて許しを請うが良いぞ」

「くっ! てめえ……」

 おお、何という卑劣な男か! この物語の主人公はここまで腐り切った人間なのだろうか? もしこの場で答えろと言われれば即答出来る。紛れもなくそうであると。彼は腐り切った品性と、目的の為ならば手段を問わない卑劣さを兼ね揃えた男であり、その部分に関してはこれからの長い物語の間で、一切変わることはないと明言しておく。

 レイが躊躇い手を止めた時、騒ぎを聞きつけた増援の衛兵が階下から駆け付けた。勝利を確信しニヤリと微笑む藤兵衛、くっと歯を噛み締めるレイ。

 だがその時、シャーロットがゆっくりと彼の方を向いた。優しく美しい微笑んだ彼女を見て、藤兵衛の手が僅かに震えた。

「き、貴様! 動くでない! 命が要らんの……!?」

 強く、まるで藤兵衛の命ごと包み込むように、彼を抱き締めたシャーロット。あまりに突然の出来事に、引金を引く力が入らない。そんな彼に、彼女は再び優しく蕩けるような微笑を向けた。

「……私には分かります。貴方はずっと……ずっとお一人だったのでしょう? 私の命は、既に貴方と共にあります。そして貴方の命も同様に。私と共においでなさい、金蛇屋藤兵衛。貴方の命は私の為にあり、私の命は貴方の為に存在しているのです」

(この女は……一体何を言っておるのじゃ? この儂の何を知り、何を求めようというのか?)

 彼女の言葉を聞いた瞬間、金縛りにあったように、魂の奥を握り潰されたかのように、全く身動きの取れなくなった藤兵衛。しかし、この時の彼には何も言えなかった。口先のみで生きているようなこの男が、何一つ言い返すことが出来なかった。体の奥から込み上げる、熱く噴き出しそうな感覚が止まらなかった。だが今の彼には言葉にすることが出来ない。そう、今の彼にはまだ何も……。

「ではレイ。後は宜しくお願いします」

 くるりと踵を返すシャーロット。一瞬の時間を置いて、我に帰った藤兵衛の目前に迫る、怒りと歓喜の入り混じった表情のレイの拳。

「へっ。じゃあなクソ野郎。これから死ぬほどこき使ってやっかんな」

「ち、ちょっとま……グェポ!!」

 みぞおちを貫通するほどの強烈な一撃を喰らい、即座に失われる藤兵衛の意識。そして……訪れる漆黒の闇。


 深い、深い闇。まるでそこだけ意志を持って切り取られたような、深淵の見えない闇。それでいて呼べば声の木霊すような、そんな親近の闇。その真っ只中で金蛇屋藤兵衛は目覚めた。

「ここは……どこじゃ?」

 誰ともなしに問いかける声。答えはない。あるのは闇に吸い込まれる音のみ。彼は懐からキセルを取り出すと、忌々しそうに手慣れた動きで火を付けた。

「一体何じゃ? ここは冥土かの? あのペテン師どもめ! 不老不死などと戯言を言いおってからに!」

 不意に、目の前の闇が不安定に形を成した。それは決して比喩などではなく、闇が明確な人型の輪郭を生み出し、藤兵衛の足元にじわりと手を伸ばしてきた。だが彼は決して動じず、実に面倒臭そうにそれを踵で踏みつけた。

「ふん。まあよいわ。過ぎた事を申しても千なきことよ。冥土で一から商売のやり直しじゃな。地獄で一財産稼ぎ、閻魔とやらに取り入るとするかの。ケヒョーッヒョッヒョッ!」

 高笑いする彼の足元に手が、無数の手が次々と闇の中から沸き起こった。そこに質量と呼べるものは感じられなかったが、確かにそこには“何か”がいた。その何かが藤兵衛に向かい一斉に手を伸ばし、遂にはその足を万力の如き力で掴み上げた。

(ぐっ?! な、何たる膂力か! 一体何者じゃ? 冥途の鬼とやらのお出ましかの?)

「おい! ぼさっとしてんじゃねえぞクソ商人! 下がってろボケが!」

 汚らしい罵声が注がれた瞬間、後方から槍のように長い足が伸びて、闇の異形を蹴り飛ばした。姿を現したレイが闘気を剥き出しにする中、藤兵衛は意味も分からず目を擦り、周囲の様子を伺った。

「……来ます」

 シャーロットの声が合図であるかのように、更に無数の影が彼らの目前に形を成した。地獄の底のような怨嗟の声を上げて、彼らは群れを成し藤兵衛たちに襲い掛かった。

(む、むう。まさかこれは……夢の途中かの?)

 しかし、それはあらゆる意味で夢からはかけ離れた、途方もない現実だった。その事実を藤兵衛は、これから先に痛いほど思い知ることとなる。


 神代歴1278年9月28日深夜。

 金蛇屋藤兵衛は長い夢から覚め、闇に塗れた世界の扉がゆっくりと開かれていった。

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