金蛇屋藤兵衛と愉快な仲間たちの絢爛豪華たる大冒険 ~天下の大商人は如何にして不老不死を手にしたか~

@dt0128

プロローグ 長い旅の始まり

第1話「金蛇屋藤兵衛、登場す」

「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ! よくも厳重な警護を掻い潜り、この儂の本宅にまで忍び込めたものよ。褒めて遣わすぞ」

 下卑た低いダミ声が響くは、絢爛豪華を絵に描いたような金色に染まる宮殿。壁や家具だけでなく、全ての装飾物が下品な黄金に染まる室内。その中央では賊らしき黒装束の男が屈強な衛兵たちに抑え込まれ、犬を模した白仮面の下で息を荒くしていた。

 そんな彼の前に無遠慮に歩み寄るは1人の老人。見た目こそ短身痩躯、短く刈り込んだ白髪からは老齢を感じさせるが、全身からはえも言われぬ威容。いやらしく垂れた目の奥からは、蛇の如く鋭い眼光。皮肉に捻じ曲がった唇の端からは、覇気のこもった低いダミ声。そして見るからに高級な絹で拵えた漆黒の着流しの背には、大きな口を開けた金色の蛇の紋様。

「この儂も随分と舐められたものじゃのう。支店の金庫を尽く破った上、それだけでは飽き足らず帝都を狙うとはの。儂が留守にするとの情報、よもや童の如く素直に信じた訳ではあるまいな?」

「……」

「貴様! 旦那様の質問に答えぬか!」

 衛兵の1人が苛立ちをぶつけるように、太い腕で握り締められた槍を賊の首に突き付けた。だが老人は皺だらけの手をそっと当て、威厳を込めた低いダミ声を放った。

「エダよ、そこまでじゃ。そもそもお主の警護が不十分故、斯様な話になったのじゃぞ。少しは反省せい!」

「は、ははあ! 申し訳ありません旦那様! 全ては私めの落ち度でして……」

「ふん。大陸に名高き戦士の部族が形無しじゃのう。じゃがそれも仕方あるまいて。この男は単なるチンピラではないわ。ここオウリュウ国に名を轟かす大盗賊ぞ。名はグンタと申したか。金待ちの家から富を奪い、貧民に配り歩く巷で噂の義賊との」

「!! 俺の名を!?」

「ケッヒョッヒョッヒョッヒョッ! この帝都で儂の目が届かぬ場所など存在せぬわ。貴様が貧民街ラスタの出身である事も……まだ幼い兄弟がいるともの。特に末妹のミヤとやらの流行り病、相当に悪化しておるそうではないか」

「……全て調査済みか。流石は帝都一の大商人だ。傲慢にして不遜、冷静にして怜悧、強欲を極めし金色の蛇の噂は本当だったらしい。……殺せ。だが家族には何の責任もない」

 グンタは完全なる敗北を認め、目を落としただ項垂れるだけだった。だがそこに投げ掛けられる声。妖しくも、蜜のように薫る老人の囁き。彼は不敵に微笑みながらその場にしゃがみ込むと、仮面越しにグンタの目を鋭く見つめながら呟いた。

「安心せい。儂は殺傷は好かぬ。それよりの……儂はお主に興味を持っておる。これだけの警護を掻い潜り、儂の自室にまで辿り着いたその腕、無闇に散らす訳にはいかぬのう。グンタよ、1つ取引といこうではないか。お主の盗みの腕、隠密技術、何より帝都の支配者たる儂に対して牙を剥く不動の精神、全てに於いて儂にとって必要なものじゃ。率直に言おう。儂の元で働けい!」

「!?」

 その場にいる誰しもが、老人の言葉に耳を疑った。特にグンタの驚きようは尋常ではなく、唖然として彼の顔を見つめるだけだった。だが当の彼は懐から金色のキセルを取り出すと、垂れた目をいやらしく細めて、悠然と煙を吐き出した。

「な、何故俺がそんな事を? そもそも俺はあんたの屋敷に忍び込んだ敵だぞ。それを……」

「グンタよ。儂の元で働くならよう覚えておけい。世の中に敵や味方という概念など存在せぬ。あるのは使えるか、使えぬか。儂に富を生むかどうかだけよ。お主は使える。故に思う存分酷使する。ちょうど諜報部に人が足りんかったのじゃ。お主の力を使えばやりたい放題ぞ。先ずは西のビャッコ国に潜入してじゃな……」

「ち、ちょっと待て! 何故俺がそんな事を! そもそも俺は金持ちを憎んで……」

「時間の無駄じゃな。何の意味もない上に大損じゃ。憎むくらいならお主が金を持てばよかろう。報酬は月俸とは別に1億銭、並びにラスタの民の雇用枠の確保、そして……お主の妹の為に帝都一の名医を調達しようぞ。無論費用は全て儂が受け持とうて」

「!!」

 思いもよらぬ言葉に、グンタは絶句した。たかが賊に1億? しかも仲間たちに仕事を? 挙げ句の果てに……妹を救ってくれるだって? 突如として考えられぬ高待遇を突き付けられ、胸中から湧き出る迷いを隠しきれない彼だったが、やがて我に帰り顔を真っ赤に上気させて叫んだ。

「嘘をつけ! 金持ちはいつもそうだ! 俺らを騙してコキ使うに決まってる!」

「儂はこの国一の嘘吐きじゃが、“取引”となれば話は別よ。論より証拠じゃ。とくと見よ!」

 老人が指を鳴らすと、背後の鋼鉄の扉が重々しく開かれた。そこに広がっていたのは黄金。金色の光を放つ壁の如き金の山。魔性すら感じられる途方もない量の輝きを前にし、グンタは再び言葉を失った。

「これは手付金じゃ。好きなだけ持って帰れい。既に医者を集落に向かわせておる。儂からの伝達あらば、即座に妹は救われようて。お主が金を手にした時点で契約完了と見做す。もしここまでしてお主が手に入らねば、それは儂の損じゃ。大損じゃ! 絶対に許されぬ! 儂は損だけは大嫌いじゃからのう」

「こ、これは一体……こんな途方もない金をどうやって……」

 見た事もない金の魔力に惹きつけられるように、グンタは震える手先をそっと伸ばした。老人は垂れた目をいやらしく細めると、悠然と煙を吐き出しながら、そっと彼の手を取って一緒に金塊に触れた。とても優しく、それでいて否定出来ぬ程に強く。

「ホッホッホ。契約成立じゃな。グンタよ、今日からお主は儂の社員じゃ。今後は茂吉という男に全て聞くようにの。何か質問はあるか?」

「は、はい。しかしあなたは……本当に何者なのですか? 何もかもが俺の理解を超えていて……」

 老人は不敵に口元を歪めてグンタの仮面にそっと手を伸ばし、驚きと怯えを浮き彫りにした彼の表情を満足そうに見つめてから、天を仰ぐように踏ん反り返った。

「ガッハッハッハッハ! 儂の名前は金蛇屋藤兵衛じゃ! 東大陸はオウリュウ国一の大商人にして、いずれ世界の富という富を喰らい尽くす男ぞ! これからは旦那様と呼べい! さあ、それではお主の入社祝いといこうかの。酒と食い物をありったけ持って参れ! 歌えい! 踊れい! この儂に富という富を持って来るのじゃ!」


 その男は、富を欲した。

 彼は異端とも呼べる程の才覚により、大陸中に商圏を広げ、圧倒的な金の力で己が求めるものを手当たり次第に掻き集めた。傲慢にして強欲、下卑にして粗野、傲岸にして不遜。多くの民衆は彼を蛇蝎のように嫌っていたが、中には熱狂的に慕う者も存在していた。どちらにせよ、この男の持つ圧倒的な能力と不思議な魅力により、誰しもが彼を無視出来なかった。

 だが当の彼はと言えば、自らに向けられる風評など一切気にもかけず、愛用のキセルを悠然とふかしながら、大陸の支配体制を日々着実に築き上げていた。自身を“富を喰らい尽くす蛇“と嘯いて。世界そのものを呑み込む金色の蛇の化身、金蛇屋藤兵衛と名乗って。

 この物語は、彼の本拠地である帝都ロンシャンから始まる。


 真の大都市とは、集まる人々によって日々その姿を更新し続ける。響く喧騒。行き交う忙しげな人々。多様な装い、飛び交う様々な言語、笑顔、時に怒声。

 ここは世界を大きく4つに分かつ大陸の1つ、東大陸の中央に位置するオウリュウ国の首都にして、世界有数の商業都市ロンシャン。東大陸の全ての富、人、夢が集まり、そして霧散していく場所。

 そのロンシャンの目抜き通りの真ん中を堂々と歩く、鍛え上げられた体躯を持つ女性の姿あり。身長は190cmを遥に超え、分厚く粗野な旅人服の上からでも、まるで野の獣のように引き締まった身体が見て取れた。人目を引く銀色の短い髪に、透き通った緑色の瞳からしても、間違いなくこの辺りの人間ではない。そして何よりも、まるで人形と見紛うほどに整った美貌と、それを台無しにするほどに殺気溢れるその表情は、周囲にただならぬ緊張感を振りまいていた。

 通りの人々が好奇と驚嘆の視線を同時に向ける中、彼女は周囲に目をやることなく、明確に1つの方向を見据えて歩き続けていた。声をかけるのも躊躇う威圧感に多くの人が思わず道を譲る中、地面のゴザに目いっぱい果物を並べた小太りの老婆が、柔和な表情で彼女に話しかけた。

「ちょっと、そこの綺麗なお姉ちゃん! ガージ食ってかないか、ガージ」

「……あ? んなの聞いたことねえぞ。固えクソにしか見えねえが、そりゃ食いモンなのか?」

 鋭い視線と乱雑な言葉を投げつけながら、彼女は通りの中央で立ち止まった。だがそこには敵意は感じられず、どこか暖かい響きを感じた老婆はニッコリと笑うと、ひるむことなく言葉を続けた。

「あんた旅の人かね? 綺麗すぎてお人形さんかと思ったよ」

「……そうかい。そりゃどうも。んで、ガージってのはなんなんだ?」

「ここらの名産の果物だよ。ロンシャンじゃ知らん人いないさ。ほれ、1個あげるから食べてみな。外側の堅い皮をナイフで剥いて食べるんだよ」

老婆は見るからに堅そうな茶色の塊を汚れた布巾でサッと磨くと、微笑みながらナイフと一緒に差し出した。彼女は興味深そうに頷き、次の瞬間ガージのみをひったくると、そのままさくりとリンゴのように噛り付いた。バリバリと音を立てて、殻ごと無表情で食べつくした彼女を、老婆はあんぐりと口を開けて見つめていた。

「……うん。少しばかりかてえが美味えな。バナナとイモの中間っつう感じか? 少し塩に浸けてから炒めっと美味そうだな」

「あ、あんたそのまま食べちまったのかい!? まったく……綺麗な顔してどんな歯してんだか。ま、でも気に入ったんなら少し持ってくかい? 1つ100銭だよ」

「お、けっこう安いんだな。悪くねえ。2つくれや」

「はっは! 次は歯が折れちまうよ。こいつはロンシャンの人間と一緒でね、見かけは悪いけど中身は最高なんだよ。あたしみたいなオイボレでも、扱う品質さえよけりゃこの街では受け入れられるんだ。もちろん競争は厳しいけどね、そのぶんだけ平等なんだ。地位だの名誉も関係ないし、それでいて困ったときはみんなで助け合う、暖かい最高の街なんだよ。……まあ例外もいるけどね」

 彼女はゆっくりと話しながら、優しい面持ちで街を眺めていた。周囲には忙しなく動きまわりながらも、笑顔を浮かべて充実した表情で働く商人たちがいた。互いに挨拶をし和やかに会話し、暖かい空間が出来上がっていた。どうやら彼女はこの辺りでは顔役らしく、すれ違う商人たちと必ずと言っていいほど親しげに言葉を交わしていた。

 そんな親密にひしめき合う空気の中、雑踏の中で小さな影が静かに動いた。誰1人その動きに気付かぬまま、影は地を這うようにそろりと動き、老婆の屋台に積み上げられた銭の山にそっと手を伸ばした。誰1人その動きに気付いていなかったが、巨体の女だけはそちらに鋭い視線を向けると、呆れたように小さくため息をつき、口の中に残ったガージの殻を舌の上に乗せ、目にも留まらぬ速度で吹き出した。

「ギャア! ち、ちくしょう!」

「ったく、どこの世でもこういうのは変わんねえな。おいバアさん、手癖の悪いネズミがいるみてえぜ」

 思いもよらぬ痛烈な打撃をまともに喰らい、通りまで無惨に吹き飛ばされた影の正体は少年。可哀想なほどに痩せ細り、見るからに貧しそうな彼は失敗を悟ると、躊躇いなく雑踏の中に消えていこうとした。忌々しそうに後を追おうとする大女だったが、その背には分厚い皺だらけの手がそっと当てられた。

「いいんだよ。あの子らもこの街の仲間さ。おいお前! 金はやれねえが、これでも食ってちゃんと仕事しな!」

「うるせえババア! 恩着せがましいぞ! こりゃ出世払いだ!」

 怒鳴りながらガージを投げ付ける老婆、それを受け取り街の影に消えていく少年。驚きはしたものの、それらに特段気を払う者もなく、皆すぐに日常へと戻っていった。そう、これは帝都ロンシャンでの日常。富も貧も、飽も餓も、生と死するも内包する大都市。老婆はほんの少しだけ首をすくめ、大女に向けて笑いかけた。彼女も釣られるように口元を僅かに緩めた。

「あたしはキンだよ。よろしくね。お姉ちゃんの名前はなんてんだい?」

「ああ、俺はレイだ。あんたこの辺りに詳しいみてえだな。実はちと道を尋ねたいんだがよ……」

「……っ! レイちゃん! 早くこっちにおいで! 急いで!」

 慌てたキンに力強く引っ張られ、レイは驚いたような表情で彼女の脇に座り込んだ。目に見えて街の雰囲気が変化していくのを感じ、レイは怪訝そうに首を捻った。

「な、なんなんだいってえ? 俺は急いでるんだがよ……」

「しっ! さっき言った“例外”だよ! いいから頭を下げて! 早く!」

 キンの言葉と同時に、街中にけたたましい轟音が沸き起こった。一斉に振り向いた人々の視界に入ったのものは、見たこともないような巨大な猛獣の姿だった。褐色がかった灰色の皮膚、長い鼻、巨大な体躯。何より目を引いたのは、その全身を覆う漆黒の装束。そしてそこに刻まれた巨大な金色の蛇の紋様だった。

「で、出た! 今日は南大陸の猛獣を従えてきたぞ!」

「ささ、皆の衆! 旦那様のご入殿だよ! 道を開けて!」

「偉大なる旦那様のお成りだ! 陽気に歌って踊ってお出迎えしろ!」

 そこから少し遅れて現れたのは、猛獣の周囲を音を立てて踊り狂う道化師や踊り子たち。彼らは楽しそうに周囲を練り歩きながら、小銭や菓子をばらまいていた。街の子どもたちがわっと声を出して群がる中、余りに非常識かつ場違いな狂宴に大多数の人々は思わず目を伏せた。

「ああ、なんて罰当たりなこった! 歴史あるオウリュウ国の恥晒しだよ」

 キンは呆然と立ち尽くしたまま、力なく頭を横に振った。周囲の商人たちも同じように呆れ返りながら、その様子を見守ることしか出来なかった。レイは周囲を警戒しながら、猛獣の背に乗る1人の男の姿を鋭く捉えていた。

「また“あの男”か! いったい何を考えてるんだ!」

「こないだの破廉恥極まるサーカスから半月も経っていないぞ!」

「いったいどこまで不遜なんだ! 神をも恐れぬいかれ商人め!」

 捲き起こる人々の驚嘆の声、ロンシャン中から群がる群衆を尻目に、周囲を威嚇するように低い唸り声を上げる獣の背の上には、宝石を散りばめた黄金の椅子に座る一人の老人の姿があった。彼は周囲を見下すように下卑た高笑いを浮かべつつ、キセルから煙を吐き出しながら素っ頓狂な叫び声を上げた。

「ゲッヘッヘッヘッへ!! 者共、この儂を誰と心得るか? ロンシャンの支配者たる男のお通りじゃ!」

 夜の闇のように漆黒に染めた高価な羽織の背には、目も眩む程に輝く黄金の蛇の紋様が刻まれていた。老人は、眼下に広がる光景を満足そうに見つめ、同じく漆黒の鋳物に黄金の蛇が描かれたキセルを口に咥え、総白髪の短髪で風を受けながら、いやらしく垂れた目で周囲をぎろりと見渡していた。それはまるで、獲物を狙う爬虫類のそれに等しかった。

「下々の者、控えい! 旦那様の入殿であるぞ! 邪魔する者はこの帝都で商売させん!」

 猛獣のすぐ後ろで騎乗にて侍る、金髪をオールバックにまとめた大柄の壮年の男は、集まる群衆に向けて尊大に言い放った。多くの人々は彼らの迫力に圧され、怯えた表情で道を空け一様に目を逸らしていた。だが一部の者たちは熱狂の瞳で立ち上がり、歓声を上げて彼らの行く手を見送っていた。

「ああ、旦那様だ! 今日もほんとイカしてるぜ」

「俺もいつかあの人のように……金を手にして世界を牛耳ってみせる!」

「今日もステキ! ロンシャンの支配者はあの方以外にいらっしゃらないわ」

「……おいキン。ありゃなんだ? どこのバカだ?」

 だがレイはそんなことを全く意に介さず、地面にごろりと胡座をかきながら尋ねた。キンははっと我に帰ると、慌ててレイの体を揺り起こした。

「シッ! そんなこと聞かれたらエラいことになるよ! アレはこの国で一番金持ちで、一番権力があり、一番強欲で……それでもって一番どうしようもない商人さ。貴族も寺院も、皇帝陛下ですら頭が上がらなくてね。見ての通りどんな無法も許されてるんだ。ま、異常なくらい有能な男だから、見ての通り支持する馬鹿も多いけどね。まったく……アレは帝都の恥だよ」

「……ほう。煩い雑音が聞こえたかと思えば、誰の陰口じゃ、キンや?」

「相変わらず耳も記憶もいいこって。アンタの悪口に決まってんだろ!」

 老人の合図と共に獣が急に歩みを止め、彼は舐めるようないやらしい眼差しをキンに向けた。しかし彼女は一切臆すことなく、勢いよく堂々と言い返した。周囲から騒めきが捲き起こり剣呑な空気が広がると共に、レイの瞳の奥に潜む妖しい輝きは一層色を濃くしていった。

「こ、こいつ! 旦那様に向かってなんて口を! 只で済むとは……」

「よいよい。古い馴染みじゃて。儂は奴の旦那も含め、若い頃それは世話になってのう」

「ふん! 嘘ばっかり言って! あんたがそんな殊勝なこと言うもんかい!」

 再び威勢よく言い返すキン。だが老人は動じない。この男は動じない。

 彼は不自然に作られた、人を虚仮にしたような笑みを顔一杯に浮かべると、奥に潜む鋭い眼光とは裏腹のだらしなく垂れた目で彼女を見つめ、いやらしい口調で優しく諭すように言った。

「なあに、その調子だと奴は知らぬのじゃて。ロンシャン農作物卸売組合の新理事長が、一体何処の誰かと言うことをの」

「え? ま、まさかあんたが……? そ、そんなバカな話があるもんかい! だって理事長はずっとリュウさんだったじゃないか!」

「ホッホッホ。疑うなら帰ってギンジに確認せい。これからは儂らは仲間という訳じゃ。よろしく頼むぞ、キン。まあ勿論……親しき中にも礼儀あり、ということじゃがな。グッハッハッハッハッハッ!!」

 勝ち誇り高笑いを浮かべる老人と、憤怒と嫌悪が入り混じった顔で見上げるキン。暫しの静寂の後、彼女は頭を掻きむしりながら激しい怒号を浴びせた。

「ふざけるな! 誰があんたなんかと! あたしゃそんなのまっぴらごめんだよ!」」

「礼義を忘れるでない、今言ったばかりじゃが聞こえんかったかのう? 一体この儂を誰と心得るか? 貴様も組合から除名されたくはあるまい? 先月末に産まれたばかりのお主の可愛い初孫に、万が一でも貧しき思いをさせたらと思うと……儂は涙が溢れて止まらぬわい」

 実にわざとらしく目元を抑え、老人は顔を覆い呻くような声を出した。キンは怒りに手を震わせながら下を向き暫し俯いた後、顔を真っ赤にして絞り出すように言った。

「……すみませんでした……だ、旦那様。どうか、どうかそれだけは……ご勘弁下さい!」

「ケッヒョッヒョッヒョッヒョ! なになに、分かればよいのじゃ。実はの、昨晩の理事会でギンジを組合長に推薦しておいた故な。これも長年の功績のおかげじゃのう。これからも互いに励み、一緒に儲けようではないか」

「!? は、はい。今後とも……よろしくおねがいします」

「グワッハッハッハッハッ! そうじゃ、それでよいのじゃ! くれぐれも儂を損させるでないぞ。儂は損だけは大嫌いじゃからのう。では者共、行くぞ!」

「ははっ! 旦那様のご出立! ご出立!」

 老人は猛獣に乗ったまま目抜き通りを悠然と進み、ロンシャンの中心部に向けてゆっくりと迷いなく直進していった。その姿が完全に見えなくなると、通りの商人たちは周囲を伺うように、少しずつ元通りの活動を再開させた。まるで老人の意思を嗅ぎ取っているように、この街自体が彼の細い腕の中にのみ存在しているかのように。そして、何処か遠い目をしてキセルをふかす彼の側に、金髪の男が影のように寄っていった。

「旦那様……よいので? 斯様な不敬者、禍根になる前に始末しておいた方がよろしいのでは?」

「痴れ者が! 何度言えば分かるのじゃ! 儂は決して人を殺さぬ! よいか、人は生きているだけで金になるのじゃ。どんな無能にも必ず使い道があるわい。全ては使う者の技量と度量如何じゃ。お主もまだまだ分かっておらぬのう、ユヅキよ」

「……は。申し訳御座いません。偉大なる金蛇屋一門の総番頭を任されておりながら、まだまだ勉強不足のようです」

「ふん。分かればよいわ。そもそもの、キンはこの街の古株じゃ。人望も見識も多分にあり、まだまだ金を産んでもらわねばならぬ。まあ見ておれ。この儂ならば、1月のうちに奴らの利権を莫大な金に換えて見せようぞ。ウヒャーッヒャッヒャッヒャッヒャッ! 金儲けとは実に愉快なものよのう」

 老人の高笑いは帝都の隅から隅にまで木霊し、まるで世界そのものを震わせているようだった。ここは東大陸最大の商都ロンシャン。人々の夢と金が飛び交う、東大陸の中心地たる場所。ここの実質的な支配者たる老人は、あらゆる種類の力を携え、圧倒的かつ盤石な支配体制を確立していたのだった。

 傲岸不遜たる彼の脳裏に映るは未来への野望か、はたまた過去への復讐か。今はまだ誰も知ることはなかった。


「おいキン。大丈夫か? さっきの商人……とんでもねえクソ野郎だな。あきれてものも言えねえぜ」

 レイは優しくキンの背に手を当てて、怒りを込めて呟いた。しかし彼女は何処か諦めたように力なく笑みを浮かべ、大きく一回だけ首を横に振った。

「……ああいう男さ。もう慣れちまったよ。むしろ……ああだからこそ、ずっとこの国の頂点にいられるんだろうさ。傲慢と増長の塊みたいな男だけど、油断も隙もない天才的な商人。ロンシャンはおろかオウリュウ国の全ての経済、流通、生産を牛耳る金蛇屋一門の総裁があの男……金蛇屋藤兵衛さ。つくづく敵に回したくない男だよ」

「……ああ!? あいつが“金蛇屋藤兵衛”だと? おいおい……マジかよ。すぐにお嬢様に報告しねえと」

 その時、通りに一筋の風が吹いた。キンは気配を感じてふっとレイの方を向いたが、既にその姿は疾風のように消え失せていた。山のようにガージが積まれた荷台の上で、風に揺られた小銭だけがカラリと音を立てた。


「いやぁ、流石は歴史ある皇帝陛下の居城ですな。いつ来ても身が引き締まりますのう」

ここは王宮。総大理石で建造された荘厳を極めし、オウリュウ国王族の力の象徴。その離れに位置する法王の間には、部屋のあちこちに神を象った偶像が立ち並んでいた。力強くもどこか儚さを感じさせる神明教の神像は、その教えと共にオウリュウの人々の間で土着化されていた。

「誰かと思えば貴公か、金蛇屋藤兵衛。貴公の名誉武人就任式以来だな」

 言葉少なく、下半身に重鎧を着込んだ厳しい男が声を発した。いかにも武人といった佇まいの壮年の男は、壁際の椅子にどっしりと腰掛けたまま左手を僅かに上に上げた。

「これはこれはウォン将軍。ご機嫌麗しゅう。先のスザク国での武勇は、ここロンシャンでは子供の間ですら語り草になっておりますぞ」

 手を揉み卑屈な笑みを浮かべながらも、藤兵衛は迷いなく彼に向けて歩みを進めた。その横には金髪をオールバックに流した男が一切の警戒を緩めることなく、ぴったりと彼に侍っていた。その時、部屋の中央の椅子に座っていた、金銀入り混じった豪奢なローブを着た皺だらけの老僧侶が、彼に和かに話しかけた。

「藤兵衛殿、お待ちしておりましたぞ。どうやら春の陽気も戻ってまいりましたな。ささ、番頭殿も中へ」

「これはこれは。偉大なる神明教の大僧正ムルオカ様が、よもや直々にお出で下さるとは。いやはや、流石のご慧眼ですなあ。此度の件の重要性、迅速性をご理解頂いておるようで、この金蛇屋藤兵衛感激の極みで御座いますぞ」

 息次ぐ暇もなくペラペラと捲したてる藤兵衛に、ウォン将軍は呆れたように天を仰いだ。

「相変わらずよく喋る舌だ。正直貴公のことは好かんが、神明教たっての要望なら仕方あるまい。さっさと本題に入ろう。座りたまえ」

「ケッヒョッヒョ。左様でありますか。まあ商人とは嫌われてなんぼの稼業ですからのう。特に国家の幹たる軍人様にならば、この藤兵衛も凪になるしかありますまいて。どれ、失礼致しますぞ」

 藤兵衛は欺瞞に満ち溢れた笑みを張り付けたまま、恭しく椅子に深々と腰掛けた。番頭ユヅキは音もなくその後ろに立ち、鋭い視線と威圧感を振り撒いていた。

「さて。皆様お揃いですので始めましょうか。今回藤兵衛殿にお立ち会い頂いたのは他でもありません。ウォン将軍、単刀直入に申し上げましょう。半年前に当教団からあなたにお貸しした、1億銭についてです」

「……金ならいずれまとめて返すと申したろう。そもそも最初に借りたのは5000万だ。半年で倍になる金利など聞いたこともないわ」

 慇懃な態度に確固たる敵意を込めて語りかけるムルオカに、語気を荒げてウォン将軍は言い放った。だが彼は一歩も退かず、負けじと語気を荒げて言い返した。

「そうと分かって借りたのは将軍では? あの時、拙僧に泣いて頭を垂れたのはどこのどなたですかな?」

「あれは私利私欲などではない! 皇帝陛下から命じられた行軍の資金だ! 陛下の勅命事案でなくば、この私が薄汚い金満僧侶に金を借りるわけがなかろう」

「おやおや、遠回しに国家批判とは、随分と強気ですなあ。忠義の軍人面をされていらっしゃいますが、かつての紛争の際……あなたが何をしでかしたかお忘れか?」

「……私を脅すつもりか? そもそもあの件はお前も共犯だろう? 上手く逃げ隠れしおって。もしやるというのなら当方とて覚悟はある。刺し違いでも滅してくれようぞ。このクソ坊主が!」

「フフ。やれるものならお好きに。陛下の信頼は拙僧にありますからな。喧嘩を売るなら相手を見てからになさい。戦争しか出来ない脳筋めが!」

 ガンと激しく机が叩かれた。それを合図に交互に飛び交う罵声。この所幾度となく繰り返されてきた遣り取りだった。場が急速に白熱し、一気に頂点を迎えようとする中、部屋の隅ではとある異変が起こっていた。

「……うっ、うっ」

 同時に口論をやめ、声の方向に視線を向ける二人。そこには、顔を押さえ静かに涙を流す金蛇屋藤兵衛の姿があった。

「ど、どうしたというのだ?! 貴公は一体何をしているのだ!」

「……藤兵衛殿」

「わ、儂は……悲しいのですじゃ」

 次々と滝のように流れ落ちる涙を服の袖で拭きながら、彼は鼻水交じりの声で続けた。

「うっ、うっ……どうして……お2人がこんな事で醜く争わなければいかんのじゃ? 片や国を代表する最高の軍人、片や人々の信奉を集める神明教の教主様。もし2人が居らなんだら、ここオウリュウが立ち行かんのは目に見えておる。かつては父と子のように親しかったお二人がどうして……どうして……たかが金のことで争ってしまうのじゃ? 儂は……そんな金が憎い! お二人を変えてしまった金が憎いのじゃ!」

 シン、と場が静まり返った。いつまでも続く藤兵衛の嗚咽に、平静を取り戻して気まずそうに天を仰ぐ2人。覆った両手越しに場の流れが変わったことを視認すると、藤兵衛はいやらしく垂れた目を更に下げ、ばっと勢いよく立ち上がった。

「……よし、儂も覚悟を決めましたぞ。おい、ユヅキ! あれを持って参れ」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭きながら、決意の視線を携え顎を上げる藤兵衛。それを受けた番頭が頷き指を鳴らすと、部屋の外から巨大な包みが運び込まれた。将軍が驚きを隠せず戸惑う中、藤兵衛は迷うことなく一気に覆いを取ると、そこから現れたのは……眩いばかりの金の塊! 見たこともない量の金色の結晶!

「ここにあるは1億銭。他の仕事で使う金じゃが、そんな事は問題ではなかろう。大僧正殿、これで将軍の債権を儂に売ってくだされ」

「な、何だと? 何の為に? 意味がわからん!」

「そ、それはもちろん構いませぬぞ。……証文はこちらですが、藤兵衛殿、本気なのですか?」

 サッと懐から文章を取り出す大僧正ムルオカ、涙ながらにそれを受け取る藤兵衛、呆気にとられ見ているだけのウォン将軍。だが次の瞬間、藤兵衛の手によって証文はビリビリに破かれた。アッと驚きの声が上がったが、彼の手は止まる事はなかった。

「こんなものが……こんなものがあるからいかんのじゃ!」

「き、貴公! いったい何をしておるのか! これでは金が……」

「黙れい! しかと儂の話を聞くのじゃ!」

 鋭く、低いダミ声が部屋に響き渡った。と同時に、周囲の空気ごと飲み込む蛇の迫力。静まり返る一同をじろりと見渡しながら、藤兵衛は一語一語はっきりと、噛み砕くように言葉を発した。

「将軍よ、儂は商人じゃ。商人にとって金とは命より大切なもの。金の為なら何でも犠牲に出来るし、そうあらねばならぬ。しかし……貴様は何じゃ? 貴様の命は何の為にある? 問うまでもないわ。この国の為であろう? 皇帝陛下の為であろう? 愛するオウリュウ国の安寧の為てあろう? 国民を等しく守るための命じゃろうが! それを……そんな紙切れ1つで踊らされるとは、誠にもって笑止千万! そんな類は全て儂が引き受けるわ! 将軍よ、これは貴様を信じる儂のような市民の為じゃ! オウリュウ国の恒久なる平和と百万の民の笑顔を守る為、しかと地に足を付けて任務にあたれい! それだけがこの金蛇屋藤兵衛、心からの頼みじゃ! ……オーイオイオイ、オーイオイオイ!!」

 再び嗚咽を漏らし咽び泣く藤兵衛。下を向き唇を噛むムルオカに対して、ウォンの表情は徐々に柔らかく変化していき、やがて彼は意を決したようにぼそりと告げた。

「そう……だな。漸く目が覚めた。本当に情けない話であった。申し訳ない、大僧正殿、そして……藤兵衛殿。今までの無礼を許せ。私は貴公を見誤っていたようだな」

 目を覆い涙を薄っすら浮かべたウォンにちらりを視線をやりつつ、藤兵衛は突っ伏したまま、誰にも気付かれることなく微かに笑みを浮かべた。

「いえ。拙僧こそ大人気ありませんでした。私たち2人とも……藤兵衛殿に大切なことを教わったようですな。神明教の教えにも『己の為に涙する者こそが真の友である』とあります。我々も真の友となれるよう、ここで再び契りを交わしませんか、ウォン将軍」

 神に愛を誓うような、穏やかな口調で大僧正ムルオカは言った。それを聞き、ウォン将軍は無言で大きく頷いて彼に手を差し伸べた。固く結ばれる2つの手に、その上から金蛇屋藤兵衛の両手が優しく添えられた。

「いやはや、何とも感動的な場面に立ち会えて光栄ですわい。この金蛇屋藤兵衛、心から打ち震えておりますぞ。これを機会にお二人の真の友情が花開けばよいのですがな。……おお、そうだ! 大僧正殿、例の件を将軍にお願いしてはいかがかな?」

 さも今思い付いたかのように、藤兵衛はぽんと手を叩いて流れるように捲し立てた。ムルオカは突然の申し出を受け、戸惑いを見せつつも大きく手を振った。

「いや、藤兵衛殿。それは流石に将軍に申し訳ない。あれは拙僧の個人的な案件ですから」

「いえいえ、大僧正殿。藤兵衛殿の言う通り、今日は我らの記念すべき友情の儀。私で力になれるのなら何でも言ってください」

 ウォンは涙ながらにムルオカを熱く見つめ、握る手を更に強めた。その様子を見ていやらしく微笑んだ藤兵衛は、待ってましたとばかりに一気に話を進めていった。

「ほれ、将軍もそう言っておられます。これでにべもなく断っては、武人としての面子に関わりましょうぞ。まず話だけでも儂から。……実はの、内密の話じゃが、大僧正殿は間も無く引退されるお積りでのう。何処かに霊廟を建て、神に最後のご奉仕をしたいと、前々から内密に申されておっての。じゃがそうなると、問題は土地でのう。何処か良き土地があればと思うておったが、もし将軍の領地を借用出来れば、万事上手く片付くのじゃが」

「むう。領地か……。用土に合う場所があるなら協力もやぶさかではないが……」

「ふむ……ならばアリス平原など如何か? 確か将軍の領土にシュウケイの地があった筈。気候も穏やかで自然が多い絶好の地ですな。立地こそ多少不便だが、物流は我が金蛇屋運送が支援致しますぞ。考えても見て下され。神明教の聖地となる意味、それは神明教400万人が挙って参拝に来る事を意味する訳じゃ。将軍にとっても、今は使っていない不毛の土地が、莫大な税収を産む結果になる。誰も損をしないと思いますがのう。どう算盤を弾いても年間で10億銭を下回らぬな。今後も南方出兵が続くのであれば、結果として疲弊する民を救うことに繋がるのでは?」

「……ふうむ。悪くはないが、シュウケイとなると面倒事が多いぞ。あそこはオウリュウ王家から頂いた天領地。各所に話を通さねばならん」

「いやいや。斯様な事など将軍のお手を煩わせる必要はありませぬ。儂が代わりに行いましょうぞ。それに……皇帝陛下も此度の件には心を痛めておりますからな。父とも慕う大僧正ムルオカ様の案件とあっては、賢帝と謳われしコウメイ様も人の子ですな。ここだけの話ですが、実は先日この儂の元に、陛下が直々にお訪ねになられましてのう。どうか彼の力になってくれと、自ら頭を下げて頂きましてなあ。不浄極まる儂の手などを握り締めた確かなる力に、涙枯れた筈の老骨の目からも熱い涙が止まりませんでしたわい」

「!? そ、それは……うむ。誠にその通りであるか。了解致した。大僧正殿、我が領地存分にお使い下され」

「流石は将軍、大英断で御座いますなあ。天下の名将は判断力も超一流よ。この藤兵衛、学ばせて頂きましたわい。さて、後はご依頼のありました鉱山開発と流通路の構築についてですな。別室で準備してありますので、詳しくはそちらで。おい、ユヅキ! 将軍をお連れせい!」

 番頭が恭しく頭を下げ、ウォンを外へ導いた。彼は武人らしく悠然と立ち上がると、深々と一礼してその場を後にした。


「ふう。呆れるほどちょろかったのう」

 藤兵衛は一気に固い表情を崩し、懐からキセルを取り出し悠然と火を付けた。

「流石は天下の大商人、金蛇屋藤兵衛殿だ。まさかあの戦馬鹿をこんな簡単に籠絡するとは」

 悪意ある表情を浮かべて、大僧正は怪しくほくそ笑んだ。煙を一気に吐き出しながら、藤兵衛もまた邪悪な笑みを浮かべた。

「阿呆とまともに話しても時間の無駄よ。奴めの一番の泣き所は、かつて先帝の側に付き、陛下に弓を引いた事実じゃからのう。これ以上悪印象を与えたくはあるまいて」

「よう言いなさる。誰よりも早く陛下に与し、莫大な資本を元にこの国を牛耳ったのは藤兵衛殿であろう? まあ拙僧が言えたことではありませぬがな」

「現皇帝コウメイ陛下は、年若きなれど類稀なる傑物。無能な先帝との戦など、最初から勝利は見えておったわ。強き者が勝つは世の理ぞ。それはそれとして、たった5000万ぽっちで恩を売りつつ、シュウケイを抑えれば此度は上々じゃろうて。あの金も元々は金蛇屋金融のものじゃしのう」

「北東のアリス平原付近を押さえられた事実は、当教団にとって極めて重要な意味があります。軍事的には全く意味のない土地ですが、北のアガナ神教への牽制にはあそこしかない。いやいや、流石は藤兵衛殿だ。神の名の元に心より感謝いたしますぞ」

「儂は神など微塵も信じぬわ。それに商人に世辞など不要じゃて。感謝の気持ちなら目に見える形で示して頂こうぞ。霊廟と市街地の建造、更に街道の構築や物流の全てについて、約束どおり金蛇屋に一任して貰わんとのう」

「無論です。丸っきりお任せしましょう。『商人にとって約束とは、全てに優先するものである』。あなたの口癖ですな。今まで藤兵衛殿が金の上での約束を破ったことはない。しかし金蛇屋……そなたも悪よのう」

「いえいえ、大僧正殿程では御座いませぬわ」

「グワーッハッハッハ!!」

「ケヒョーッヒョッヒョッ!!」

 おお、何ということであろうか。全てはこの強欲な商人の掌の上の出来事だったとは! もうお判りであろうが、この男こそがこれから語られる長い物語の主人公、金蛇屋藤兵衛その人である。俗物的で油断のならぬ性格の、粗や卑など屁とも思わず、己の利益のみを追求する稀代の商人。だが一つだけ付記するならば、長い物語の果てにおいても、彼の“こういうところ”は、結果として微塵も変わりはしなかった。

「さて、藤兵衛殿。一杯やりますか。昨日入ったばかりの最高級の蜂蜜酒がありましてな。いくら飲んでも酔わぬあなたですが、こいつはちと話が違いますぞ」

「ほう、それは面白い。望むところじゃな。是非いただくとしようぞ」

「旦那様! た、大変だ!」

 急に激しい音を立てて、1人の痩せ細った背の高い老人が部屋に飛び込んできた。藤兵衛は顔を顰め、露骨に不快感を表に出した。

「何じゃ、騒々しいぞ茂吉。大僧正殿の御前であるぞ」

「も、申し訳ございやせん。けんども、これだけは早急にお伝えせねばと……」

 息を切らしながらも、老人は周囲を伺いながらそっと耳打ちをした。するとみるみる藤兵衛の顔色が変わっていき、即座に彼は立ち上がりムルオカに深々と頭を下げた。

「大僧正殿、誠にすみませぬな。火急の用件が入りまして。この埋め合わせは後ほど改めて」

「ほう、藤兵衛殿がそこまで言うとは、かなりの大事なのですかな。気になさるな。拙僧はいつでもお待ちしておりますぞ」

「お心遣い痛み入りますわい。では行くぞ、茂吉! ユヅキにも声をかけておけい!」

 再度礼をしてから小走りに駆け出す藤兵衛。遂に、遂にその日がやってきたのだ。彼が求め続け、探し続けたものが遂に。自然と力の入る足を諌めるように手を当て、彼はキセルに火を付けながらほくそ笑んだ。口の端をいらやしく歪めて、細い目尻をこれ以上なく下げ、世界そのものを見下すかのように。


金蛇屋総本店、客用の控え室。

だだっ広い部屋中の至る所に漆がまぶされ、漆黒の下地の上には金色の蛇が無数に刻まれていた。壁も家具も、出された茶の食器すらもに全て。

 その室中にいたのは2人の外国人らしき女だった。2人とも目を引く美貌が特徴的で、不思議な魅力が室内に溢れ出しているようだった。その内の1人、銀髪の大女レイは眉間に皺を寄せて、もう一人の女性に小声で耳打ちした。

「お嬢様……やっぱ俺は反対ですぜ。俺が見た限りありゃまともじゃありやせんや。ゲスな商人なんざのために、お嬢様が危険をおかして禁術を使うなんざ……」

「言葉を慎みなさい、レイ。全ての命には意味があります。人を見かけや評判だけで差別してはいけません」

 お嬢様と呼ばれた女性は、慎み深い態度で静かにレイをたしなめた。彼女は美しい黒髪を肩まで伸ばし、漆黒の長いドレスからは透き通るほどの白い肌が見えていた。自然と周囲に流れ出すその妖艶な雰囲気に、誰もが目を奪われ魅了されているようだった。

「ふふ。何も心配などいりませんよ。よかったらお食べなさい、レイ。きっとお腹が空いているのでしょう」

「……はあ。まいりやしたね。お嬢様は言い出したら聞かないんですから」

 彼女は美しく微笑みながら、懐からガージを取り出すと、ふっと軽く力を込めた。すると怪しく空間が捻じ曲がり、どういう理屈か堅甲な外殻がするりと真っ二つに割れ、彼女は事もなさげに半切れをレイに手渡した。レイは一口でそれを頬張ると、諦めたように頭を掻きむしった。

「ねえ、お嬢様。どうしても、なにがあっても……あの男を不老不死にするってえんですか? 本気なんですね?」

「ええ。彼は私たちにとって必要な人間です。私はそれを強く感じるのです。これからの長い旅に、彼の力は絶対に不可欠なのですから」

 風が吹いていた。まるで彼女らの過酷な運命を暗示するかのように強く、それでいて肌を優しく撫でるように吹き抜けていった。運命は音を立てて、この場所を中心に回り続けていた。


 神代歴1278年9月28日。運命の日。

 金蛇屋藤兵衛と愉快な仲間たちの絢爛豪華たる大冒険が、今ここに幕を開けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る