第18話「分岐」①
一行がアーミスタンの関所から進路を変え、北に進み始めてから数日後。
天気は雪。視界の先すら見えぬ闇の中、道なき道を一目散に走る一行。特に力車を引く藤兵衛の顔には、鬼気迫るほどの張り詰めた表情があった。今朝から彼は、何故か整備された旧道沿いを進もうとせず、雪深い山道の中を執拗に突き進んでいた。
「おい、クソ商人! 道は本当にこっちでいいんだろうな! どんどんわけわかんなくなってきやがったぞ!」
「……」
車上のレイからの問いかけに耳も貸さず、ただひたすらに進み続ける藤兵衛。レイはふうと大きくため息をつき、ふわりと風を纏い車中へと戻っていった。中ではシャーロットが心配そうな顔で事の成り行きを見つめていた。
「……ダメです。なんかやけに集中してるみてえで。しかし、どんどん雪が強くなってきました。やっぱこのまま進むのは危険じゃねえかと」
「よいのです。道のことは全て藤兵衛に任せましょう。きっと何か考えあってのことです」
その時、深い雪道の前方から、駆け足で亜門が戻って来た。彼は大きく息を切らしながら、急ぎ藤兵衛に駆け寄りそっと耳打ちした。
「殿、やはり駄目でござった。この先は雪で通行できませぬ。やはり旧道に戻った方がよろしいかと」
「……行ってみなければ分からぬ。ご苦労であった。後は儂に任せい」
亜門の言葉を無視し、更に進もうとする藤兵衛。彼はその頑なな態度に戸惑い続く言葉を失ったが、その時レイが勢いよく車中から飛び出した。
「おい、ちっと止まれ。……話がある」
有無を言わせぬ口調だった。無視しても無駄と悟り、彼は大きく舌打ちをしてその場に急停車した。
「何じゃ、騒々しいのう。急がねばならんのは分かっておるじゃろうに」
「てめえ……なんか隠してんな? こっちも不本意だがよ、そろそろつきあいも長えからな。てめえがそんな態度のときは必ずなんかある。さっさと吐け」
「………」
「ハッ! 俺なんぞに言う気はねえってか。まあてめえはいつだってそういうクソだよな。ま、てめえの事情なんざ俺の知ったこっちゃねえし、正直知りてえとも思わねえ。だがな、てめえの舵には俺たちの旅の行く末がかかってんだ。お嬢様の夢をツブす気か? 今までのてめえの言葉は嘘か? もう一度自分が何してるか考え直せ。俺が言いてえのはそんだけだ」
不快そうに唾を吐き捨てると、レイはすぐに力車に乗り込んだ。降りしきる雪の中で立ち尽くしたままの藤兵衛に、亜門がそっと後ろから声をかけた。
「……殿。レイ殿の言うことも一理あり申す。『焦った物乞いは貰いが少ない』。秋津の格言にござる。己には殿の深き御考えは存じ上げませぬが、ここは一度冷静に振り返るのも手かと」
藤兵衛は暫しその場で考え込み、突然大声で笑った。彼は懐からキセルを取り出し、笑ったまま悠然と煙を吐き出した。
「グワッハッハッハ! まったく……いつもながら何じゃ、その珍妙な格言は。お陰で気が抜けたわい。虫は虫で分かったような事をほざきおるしの。……認めるわい。儂が全面的に悪かったわ。おい虫! 貴様に説教されるなど羞恥の極みじゃが……『申し訳なかった』。これで満足かの?」
藤兵衛の顔に、特徴的な生気が戻っていった。快活な笑顔でそれに答える亜門、車中から無言で中指を突き立てるレイ、そして美しく微笑むシャーロット。
「ふん。ならば善は急げじゃ。大至急旧道に戻るぞ。こんな雪道を呑気に歩いておったら死んでしまうわ。すぐ近くに村がある故、そこで宿をとるとしようぞ。ここから先は暫く集落なぞ存在せぬからの。それでは皆の者、いざ進めい!」
「けっ。エラそうによ。やるならさっさとやれってんだ。ねえ、お嬢……!?」
「……」
そんな彼の姿を、驚くほど澄んだ潤みを秘めた瞳で、シャーロットは車中からずっと見つめていた。レイはそれにいち早く気付き、頭の中で何度も否定したが、紛れも無い現実を目の当たりにして、やがて1人頭を抱えた。
(これは……マジか? まさかそういうことかよ? ……おいおい、どうなってんだこりゃ!!)
何かが大きく動こうとしていた。しかしその先にあるものは、今はまだ誰にも分からない。全ては風の揺蕩う先にあった。
その後の藤兵衛の必死の働きにより、一行は夕方には村に着くことができた。そこは、正確に表現すれば村と言うよりも、ただの集落と呼んでも差し支えない規模であった。寒さと鳥獣の害で荒れ果てた畑と、ぽつりぽつりと茅葺の民家が立ち並ぶだけでたり、通りを行く人影はほとんどなく、彼らは藤兵衛たちを見かけても遠目にひそひそと冷たい目で見るだけだった。時折民家の窓から子ども達が好奇心で顔を出したが、すぐに大人に引っ張られて姿を消していった。
村の中をやや進んだところで、先行していた亜門が困った顔で駆け寄って来た。
「殿。参り申した、この村で泊まれる場所はなさそうでござる。と言うよりも、誰も彼も己の話を聞いてはくれませぬ」
「人も来ず、作物も取れず、産業もない。自らの置かれた境遇をただ嘆くばかりで、道を切り開こうともせず、仲間内で傷つけ合うことしか出来ん、そんな連中の集まりじゃ。……何十年経っても変わらんの。心配するでない、亜門よ。儂に心当たりがある故な」
そう言って藤兵衛は、堂々と道の真ん中を進み始めた。その姿を見ていた亜門は不思議そうに首を捻りながらも、黙ってそれに従った。
15分ほど歩き、一行が村の隅と思われるあばら家に到達すると、藤兵衛は急に歩みを止めて突然その家の扉を強く叩き始めた。
「おい、儂じゃ。熊美! おるのじゃろう?」
暫くの間、周囲に鳴り止まぬ軋んだ音が流れていた。見かねたレイが力車から降りて制止しようとしたその時、がたついた扉が控え目に開いていった。
「……誰だ?」
(お、おい! その顔マジか!)
レイが驚いたのは無理もなかった。いやらしく垂れた細い目、僅かに曲がった口角、若返る前の金蛇屋藤兵衛によく似た老婆がそこに立っていたのだった。彼女は不審そうに一行をジロジロと眺め、戸を叩いた若い男、現在の藤兵衛の顔をしげしげと眺めた。
「なんだオメ? ずいぶんと藤吉兄ちゃの若い頃に似てんな。まさか……兄ちゃの身内け?」
「そうだったら良かったのじゃがの。生憎、張本人じゃ。ちと訳ありでの、こんな体になってしもうた。信じられぬかもしれんが、貴様の実の兄じゃて」
「んだそりゃ!? まるでもろこしが天から降って来たよな話だな。オラ忙しいからけえってくろ」
「どうすれば信じてくれるかの? 7歳の時、棒切れで貴様の尻にでかい痣を付けた話でもすればよいか? 9歳の時、藤三を脅かして柿の木から落ちた話がよいか? それとも10歳の時の……あの日の話をすればよいか?」
「!? ……大姉ちゃの名前は?」
「千里。その名前だけは忘れる訳がなかろう、熊美よ」
その言葉を聞いて、皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにする老婆。目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「ほんとに藤吉兄ちゃけ? あんら、なん年ぶりだべか。とにかく積もる話もあんべから、さっさと入った入った。お連れさん達も遠慮すっこたねえよ」
そう言って頭を掻きながら、早足で中に戻る熊美。藤兵衛は何かを考え込むような面持ちで後ろを振り返ると、一行にぶっきらぼうに告げた。
「ま、そういう訳じゃて。今晩はここに泊まるとしようぞ」
「ここが藤兵衛の御実家なのですね! とても素敵なところです」
力車からシャーロットがうきうきと話しかけたが、藤兵衛は頭を掻きながら忌々しそうに答えた。
「実家はもうないわ。単なる熊美の嫁ぎ先よ。まったく……何が素敵なものか。唯の朽ち木に過ぎんわ。風雪を凌げるだけましじゃがの」
「あ、そうでした。私はまだ挨拶をしていませんでした。すみません、熊美さん。私の名はシャーロットです。気軽にシャルちゃんと呼んでください。ふつつか者ですが、何卒よろしくお願いします」
「ま、待てい! これ以上妹を混乱させるでないわ! ……ああ! 勝手に掃除をしてはならぬ! おい、聞いとるかシャル!」
2人がドタバタと騒ぐ中、呆れた表情で立ち尽くすレイと、興味深そうに辺りを眺める亜門。
「……なあ、どう思う?」
「まさかここが殿の故郷とは。道理でこの辺の地理にもお詳しかったのですな」
「たしかにビックリだぜ。こんな金にもならなそうな場所、あの欲の権化が興味持つワケねえもんな。しかしまあ……なんというか、ちっとイメージと違うな」
「仰る通りですな。殿ほどの大商人が、言っては悪いですがこんな寒村の出身だとは。殿はそのことを己らに隠したくて、わざと道を外したのでしょうか? 気になさる必要などありませぬのに」
「……さあてな。ただ俺はてめえよりほんの少しだけ、吹けば飛ぶくれえの差だが、あのクソとの付き合いは長え。それから言わしてもらうとよ、あいつはそんな単純なやつじゃねえよ。きっとあいつなりの理由とか道理みてえなのがあるはずだ。ま、自分のことペラペラ喋るやつじゃねえし、ほんとのとこはよくわからねえけどよ」
ぼんやりと空を見上げながら、レイは何処か遠い目で言った。それを聞いた亜門は、深く頷いてから快活な笑顔を向けた。
「はっはっは! 流石はレイ殿にござるな。普段はじゃれておりますが、殿のことを本当によくご存知であります。己も負けぬよう励まねばなりませぬな」
「……ったくよ。てめえと話してっとチョーシ狂っちまうぜ。ま、とりあえず俺らも行くか」
そう言って中に入っていく2人。夜の闇が僅かに差し込める夕暮れ時、一行はほんの僅かな休息をとろうとしていた。しかし彼らは知らない。自分たちの行く末に何が待ち受けているか、すぐ背後まで迫る闇の手の存在を。
「いやあ、まさか熊美の飯を食うことが出来るとはの。長生きはするものじゃて」
藤兵衛の朗らかな声が家中に響いた。囲炉裏を囲むようにして座り込み、熊美の用意した地元料理に舌鼓を打つ一行。トウモロコシ、カラス豆、芋がらを煮込んだスープはゲンブの名物であり、滋養に満ちた汁が彼らの体内から温めていった。
「はい。暖かくて本当に美味しいです。何かお手伝い出来ることはありませんか、熊美さん?」
「いんや、お客さんは座っとけ。兄ちゃの客なんだから、オラの身内みてえなもんだ。ほれ、魚が焼けたぞ」
シャーロットが美しい笑顔で腕まくりをしたが、熊美はぽりぽりと頭を掻きながらのんびりと答えた。食卓に運ばれたのは人数分の川魚だった。ただ塩をかけて焼いただけの簡素な調理だったがよく脂が乗っていて、それでいて季節の山菜のような澄みきった味が口の中に広がっていった。
「お、こりゃうめえや。いい魚だぜ。おい、そっちのもよこせや」
「おい、それは儂のじゃ! 野蛮人は食い意地が張っていて嫌じゃのう」
「うるせえ!!」
「グェポ!!」
「レイ殿、もしよろしければ己のを。ちと食欲がありませぬゆえ」
亜門は腹を押さえながら辛そうにそう言って、おずおずと魚を差し出した。レイは躊躇わずにそれを引ったくると、頭から骨ごとガリガリと食べ始めた。
「ひゃあ、こりゃうめえや! もう食っちまったから返せねえぞ」
「はっはっは。そう言って頂ければ幸いにござる。熊美殿、折角のご歓待に応じられず申し訳ありませぬ」
「気にせんでいいだ。長旅で、しかもこんな田舎まで来たんだから、さぞ疲れたんだべや。隣に布団引いてあるから横になるとええ」
亜門は礼をしながら、一同の顔をぐるりと伺った。するとシャーロットが美しく微笑んで、優しい口調で言った。
「お言葉に甘えたらどうでしょう、亜門。明日もまた早いですから」
「ふん! 其方に許可など求めてはおらぬ。殿、レイ殿。不作法ながら先に休ませて頂いて宜しいでござるか?」
「けっ。主従そろって貧弱野郎だな。ま、好きにしろや」
「……ふむ。分かったわい。好きにせい」
「ありがとうござりまする。では御免」
深々と礼をしてから奥の間へと向かう亜門。シャーロットが心配そうに見守るも、やがて宴は再開された。皆が和気藹々と盛り上がる中、ぽつりと藤兵衛がやや遠慮がちに尋ねた。
「ところで熊美よ。貴様の旦那はどうしたのじゃ? あの穀潰しの姿が見えんのは幸いじゃがな」
「ああ、今日は村の集まりがあるだよ。んで息子夫婦んとこに泊まんだと。まったくお気楽ご洒落でいいこった」
熊美は笑って、恥ずかしそうに頭を掻きながら答えた。藤兵衛はキセルに火を付けて、視線を天井に向けながら微かに微笑んだ。
「……そうか。本当に良い機じゃったわい。ところで熊美よ、酒はないのか? ちと口が寂しいのう」
「へへ。兄ちゃはほんに好きだなあ。旦那の秘蔵のどぶろくがあっから開けちまうべ。どうせ一本二本なくなっても気付かれねさ」
そう言って台所からがさごそと樽を取り出して来た熊美。見るからに美味そうな琥珀色に、歓喜の声を上げる一行。
「まあ! とても美味しそうですね! 私もいただいてよろしいですか?」
「もちろんええだよ。ちと臭えかもしんねえけんど、ここらで採れた粟で作った混じりっけなしのやつだかんない」
「お、お嬢様。お酒はほどほどにしておいた方が……」
「そんなこと言うレイは嫌いです! あっちに行っててください!」
「ホッホッホ。虫は酒など要らんそうじゃ。儂らで飲んでしまうとするかのう、シャルや」
「ふざけんじゃねえ! 敵の気配もねえし俺も飲むぞ!」
「へへ。人数は多い方が楽しいだよ。ほれ、じゃあ乾杯といくかな」
こうして、楽しい酒宴が始まった。皆大いに飲み、歌い、日頃の辛い旅をを忘れて騒いだ。夜はどんどん更けていき、ゆっくりとその時の訪れを待っていた。
「しかしよう……あれだな。ほれ、あれだよ。てめえよう、なかなかいいところもあんだよな」
見るからにベロベロになったレイが、藤兵衛の肩をバンバンと叩きながら言った。心の底から忌々しそうにして払いのける藤兵衛だったが、その魔の手はシャーロットにまで及んだ。
「お嬢様……俺はあんたにほんと感謝してんだ。あのときのおかげで、俺はこうしてられんだよ。この旅が始まったときはどうなることかと思ったけど、やっぱりやってよかったと、今はそう思うぜ。マジで。……おい、聞いてっかクソ商人?!」
「(……何という悪い酒じゃ。始末に負えんわい)おい、シャルや。そろそろあの阿呆を止めい」
「なんですかあ? 私は酔ってなんかいませんよお。あ、お家の中に雲が流れてます! ふしぎ! 一緒にお願い事をしましょう、藤兵衛! ……あの人が私に振り向いてくれますように」
「(だ、駄目じゃこれは……)」
楽しそうに酒に溺れる2人、静かに盃を傾ける藤兵衛、それを見て端で頬を赤く染めて微笑む熊美。
「しっかしよう、てめえこんなとこで産まれたんだな。なんつうか……ふしぎな感じだぜ」
「ふん。儂とて好んでここで生まれ育った訳ではないわ。誰がこんな、何もない辺鄙な場所を好むというのか!」
「ごちゃごちゃうっせえなあ。で、ひさびさの故郷はどうだ? たまにはいいだろが。てめえみてえな業突く張りの人でなしでも、なんか込み上げてくるもんとかもあるんじゃねえの?」
「……そうじゃな。有るような気もするし、無いような気もするわい。何にせよ、貴様の如き俗物と一緒にされては心外じゃな」
「ふふ。故郷とはよいものです。私も故郷に帰りたいと思う時はたまにあります。大事にした方がよいですよ、藤兵衛」
「……お嬢様」
不思議な沈黙が家の中を支配していった。やがて藤兵衛はふうとため息を一つつくと、どかりと無遠慮に立ち上がった。
「さて、儂は厠に行くぞ。腹が痛うてどうにもならぬわ。貴様らは好きにしておれ」
「きったねえなあ。さっさと放り出してこいよ。ねえ、お嬢様」
「そうです! 出すもの出してすっきりしましょう。楽しい時間は始まったばかりです」
何処か哀愁に近い苦笑いを浮かべて、藤兵衛は無言でその場を去った。場は一瞬だけしんとした空気に包まれたが、すぐに和気藹々に戻っていった。酒も進みレイのグラスが空になった時、熊美が穏やかな顔で頭を掻きながら酌をした。
「おっと、こりゃすまねえ。しかしよ、熊美さん。あのクソは昔っからあんな感じなのかい? ほんとねじ曲がってやがってよ」
「……違えよ。兄ちゃは確かに昔っからヒネもんで素行も悪かったけど、オラ達家族にはいつも優しかったさ。両親も早く死んじまって、面倒見てくれた姉ちゃもいなくなっちまって、そんなオラ達にずっと欠かさず金送ってくれてよ。あんな感じになったのは……金蛇屋を立ち上げたくらいからだよ」
熊美は僅かに残った盃を一気に飲み干し、赤い顔になって答えた。シャーロットは心底興味深そうに話を聞きながら、大きく頭を振って相槌を打った。
「確かに……都会で商人をやっていこうとするなら、多少は仕方のないことかもしれませんね。ましてや藤兵衛は帝都一の大商人、普通の感覚とは違うのでしょう」
「けっ。お嬢様はあのクソに甘すぎるんだよ。たとえそうでもよ、あのヒネ方はまともじゃねえぜ」
「……しゃあねえべさ。ほれ、嫁さんと子供があんなことになったろ? 兄ちゃはあれから人が変わっちまったのさ」
なんともなしに熊美が発した言葉に、2人は同時に絶句し顔を見合わせた。
「ち、ちょっと待てよ! あいつ結婚してたのか! んな話聞いたことねえぞ! あ、あんなクソが結婚?! しかも子供? あんな肥溜めみてえな奴が?!」
「……捨て置けぬ話です。どういうことですか、熊美さん。詳しくお願いします」
熊美は自らの失言に気づき、口に手を当てて黙った。しかし2人は止まることなく、じりと彼女を囲んで問い詰めた。
「ほっか。兄ちゃは言ってなかったのか。こりゃ失礼したべ。忘れておくんれ」
「そうはいきません。ぜひ教えてください。彼は自分のことを話さないものですから」
「とは言ってもなあ。オラもそこまで詳しく知ってる訳じゃねえし……」
「お願いします! どうか、このシャーロットたっての頼みです! ほら、レイ。貴女からもお願いなさい」
そう言って地面に頭を擦り付けるシャーロット。レイも戸惑いながらそれに倣い、渋々と頭を下げた。困り切った熊美だったが、2人の熱意と根気に負け、遠慮がちに重苦しく口を開いた。
「いや、オラも藤三兄ちゃからの又聞きなんだけどよ、藤吉兄ちゃには昔、結婚を約束した女性がいたんだと。名前はなんつったっけか? ………そうだ、雪枝さんだ! ずいぶんと仲睦まじい関係だったらしくてな。帝都で頑張る兄ちゃをずっと支えてくれて、お互い心から信頼し合ってたみてえなんだ。自分の店を持ったら結婚しようって約束してで、やがて兄ちゃは商人として名を上げて、同じ頃に雪枝さんのお腹に子供もできて、そんじゃ祝言を上げようって幸せの頂点の時に、雪枝さんはその……何者かに殺されちまったんだ」
絶望的な沈黙。誰も言葉を挟むことの出来ない、圧倒的な間。やがてその間を刈り取るように、熊美はゆっくりと言葉を続けた。
「そこからだな。兄ちゃが変わっちまったのは。家族を愛する優しい人だったのに、金と自分自身しか信じねくなった。帝都一の大商人なんて呼ばれるようになっても、今の兄ちゃにはだいじなもんが欠けてんだ。そもそもな、不老不死がどうとか言い出したのも……」
「その辺でよかろう、熊美よ。儂の個人情報じゃぞ」
いつの間にか、玄関に藤兵衛が立っていた。一同ははっと息を飲んで彼に視線を向けた。彼は何処か演技じみた動きで鼻の頭を掻き、明らかに無理矢理と分かる笑顔を作った。
「まあそういうことじゃ。つまらぬ話じゃて。さあ、明日も早い故、今日は寝るとするかの。儂は先に寝室に向かうわい」
誰にも二の句を告げさせずに、彼はわざとらしく欠伸をしながら、どかどかと亜門のいる寝室に向かった。明らかに宴は終わりであった。レイは実に気まずそうに、こちらもわざとらしく欠伸をしながら立ち上がった。
「はあ、なんか急に俺も眠くなっちまったな。熊美さん、俺はここでいいんでどうぞおかまいなく」
「……私もここで構いません。お休みなさい、熊美さん」
「なんかごめんなあ。余計なこと言っちまって。……あら、もう寝てら。ちょっと待ってな。今布団持ってくるから」
気付いた時にはもう、2人は横になっていた。高いびきを立てるレイ、静かに目を閉じるシャーロット。歩き去る熊美の足音を聞きながら、シャーロットは眠りにつく直前、誰に向けてでもなく1人呟いた。
「……藤兵衛」
更に夜が更けた。
村には物音一つ立たず、あらゆる音はしんしんと降る雪に飲み込まれているようだった。シャーロットたちは穏やかな眠りにつき、眷属の気配もない静かなで安静な夜だった。
時刻が2時を回ろうとした時、家の扉がそっと開かれ、中から1つの人影が飛び出した。影は忍び足でそっと扉を閉め、微かな月明かりを頼りに村の中心へ向かおうとしていた。だがその時だった。
「何処へ行くのじゃ、熊美よ?」
背後から声。ビクンと震える熊美。振り向くと、外の扉の陰に藤兵衛が立っていた。驚きと絶望の入り混じった表情を浮かべつつも、照れ臭そうに頭を掻きながら彼女は答えた。
「に、兄ちゃ! ほ、ほれ……ちと夜回りに出っかとな。最近ぶっそうだべや。だからな……」
「何も言わんでよい」
短く、一言だけそう告げた。兄妹は夜の闇の中で立ち尽くしていた。やけに煌々と輝く星々の明かりだけが彼らを照らしていた。藤兵衛は懐から酒瓶を取り出すと、中身を匂って眉を顰めた。
「微かな涅槃麝香の匂い……遅効性の睡眠薬じゃの。この辺で手に入るものではあるまい。匂いの強い粟酒に混入させるとは、想像通り連中の手は長く早いと見える。虫にも悟らせぬとは中々にやりおるわい。危ない所じゃったが、儂の“奇術”の前には意味を成さぬわ」
「兄ちゃ、オラの話を聞いて……」
「最初から妙だったんじゃ。すんなり儂の姿を信じたこと、この辺ではそうとれぬ魚、何故か都合良く家におらん貴様の旦那。そして何より……昔の癖とは治らんもんじゃな。お主は昔っからそうじゃ。嘘をついたり誤魔化そうとする時、必ず頭を掻くからの」
「!!」
咄嗟に頭から手を離す熊美を見て、藤兵衛はふっと微かに唇を曲げた。
「大方、儂らは『アガナに仇なす魔女一行』とでも御触れが来たのじゃろう。その上、金まで貰えそうだ、と。お主が何と言おうが、あの馬の糞にも劣る亭主はすんなり乗った事じゃろう。そしてお主は彼奴には逆らえん、逆らう事すら検討したこともない、と。この村では常識の範囲内じゃな」
「兄ちゃ……ほんにすまね。息子たちを強制連行すると脅されて……。ほんにすまね。ほんに、ほんに……」
涙をいっぱいに貯めて、熊美は言葉を振り絞った。藤兵衛は静かにキセルに火を付けると、側から見ても無理矢理な笑顔を作った。
「これだから……故郷なんてものは碌でもないわ。儂にとっては既に捨てた場所に過ぎぬがの」
「オ、オラはどうなってもいいだ! けんど息子たちのことだけは、どうかあいつらの命だけは勘弁してくんろ!!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、熊美はその場で何度も土下座をした。藤兵衛はふっと力無く苦笑すると、入口すぐの漬物石に腰掛けて、悠然と煙を一気に吐き出した。
「……なあ、熊美。覚えてっか? オメよ、こーんな小っせえ頃、お天道さまに浮かぶお月さのこと見てよ、『あれが全部飴玉だったらいいのに!』とか言ったよな? オラだみんな、それ聞いて大笑いしたっけなあ」
「覚えてね。だども後で藤三兄ちゃに聞いた。その後、兄ちゃと茂吉っちゃんが村長ん家に飴盗みに行って、見つかって百叩きに合ったのも聞いた」
「まんず死ぬかと思ったべ。いつも通り茂吉のバカがしくじってな。そういや……藤三のやつ死んじまったとな。もう聞いだか?」
「……聞いた。去年だべ? ほんに、世の中いい人から先に死ぬなあ。オラんとこの旦那なんて当分死にそうもねえべ」
「もうオラん家で顔見れんのもオメだけだべ。なあ、熊美。……オラが帝都に行っちまって、この村のことぜんぶオメらに任せちまって……恨んだが?」
「わがんね。オラまだ小っけかっだし。でも藤三兄ちゃもおったし、生きでくお金は兄ちゃが送ってくれたし、感謝こそすれ恨みなんでね。でも……まんずすまね。オラはどうしても子供たちを守りだくて……」
「……もうええだ。オメはオラの最後の家族だ。千里姉ちゃがいなくなってからずっと、オラはオメらの笑顔見だくて生きて来たんだ。オラはな……生まれた時からずっとオメらのことを愛してるし、そんだけは死ぬまで変わんね」
「兄ちゃ……ごめんな……ほんとごめん……」
「へへっ。オメは昔っからほんに泣き虫だべ。それじゃあな、熊美。生きてるうちにもう会うことはなかんべけど……達者でな。オメ風邪っぴきなんだから暖かくして寝んだぞ」
その場で声を上げて泣き崩れる熊美、軽く僅かに頭を撫でてゆっくりと立ち去る藤兵衛。そんな彼の元に人影がそっと近付き、小さな背中にそっと声を掛けた。
「……準備完了にて。レイ殿と魔女めも車内でよく眠っておりまする。すぐに出立できるかと」
「……」
藤兵衛は無言で頷き、手をそっと上げて亜門に合図した。
「御意にて。殿……お察しするでござる」
その声には何も答えず、彼はただ星を見ていた。彼の心に吹く風は冷たい吹雪となり、芯から凍て付かせた。彼はずっと星を見ていた。出立の時が近付いても、背後のすすり泣きが止んでも、満天の星が彼を照らしていても、ずっと、ずっと。
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