第49話「亜門の決意」②
時間をやや前後し、コロシアム階上。
息を切らせて古刀を握りしめる遊山の姿。彼の手を震わせるのは興奮か達成感か背徳感か、はたまた全く別の感情か。階下で怯え逃げ惑う群衆をぼんやりと視界に捉えながら、彼はただ自らを思考の海に浮かべているだけだった。
それは時間にすると、ほんの数瞬のことだった。しかし、確実に存在した時間の狭間。だがそこに無作法に踏み入りしは1人の男。秋津国の若き侍にして、隻腕の奴隷たる進藤雪之丞だった。
「遊山様、お願いがありまする! どうか己の話を聞いてくだされ!」
真剣な表情で熱く呼びかける雪之丞の姿が視界に入っても、遊山の表情に変化は見られなかった。ただ身体がそこにあるだけで、心は何処にもありはしなかった。
「お願いでござる! どうか、どうかお話を……」
「……ん? 誰かと思えばお前か。約束通り自由はくれてやる。今私は忙しいんだ。さっさと目の前から消えろ」
「そうはいきませぬ!」
ばっと勢いよく地面に額を擦り付けた雪之丞。血の涙を流しながら目に怒りを込めて叫ぶ彼に、思わず圧倒される遊山。
「な、何だというのだ! この状況が分からないのか? すぐに避難せねば命はないぞ」
「命など……とうに捨て申した! 漸く思い出したでござる。己は……秋津の侍! 信義の為ならば己自身など屁と変わらぬでござる!」
「はっ。何を今更。命惜しさに友を売った男の言葉とは思えんな」
「だからこそ……にござる! あそこで戦う亜門こそ、己の命を懸けるに相応しい知己! このままでは奴は戦場の露と消えましょう。それだけは決して許されませぬ! どうか、その刀を己に託してくだされ! それさえあれば……きっと亜門は勝ちまする!」
遊山の手に持つ血塗れの古刀を指差し、臓腑を引きちぎらん程の大声で雪之丞は叫んだ。しかし彼はそれを鼻で笑いメガネをくいと引き上げると、嘲笑を浮かべながらその場を後にしようとした。
「たわけたことを言うものだ。この刀を渡したところで何になる? これは父に対抗する唯一の手段だぞ。そんなことを私が許すと思うか? しかもお前のような裏切り者に。少しは考えてから物を言え」
「……己のことは何とでも言って構いませぬ。我欲に負けて友を売った、どうしようもない最低の男にござる。しかし……あそこにいる亜門は違いまする! あいつは……秋津最強と称される高堂家の男! 肉体、精神共にそこらの侍とは比較になりませぬ! あの男は必ずや勝利を持ち帰りまする! あいつは只の男ではない! どうか……どうかご慈悲を!!」
「くどい! 私は逃げる。後のことなどどうでもいい! そこから消えよ」
次の瞬間、不意に立ち上がった雪之丞。その拳は強く握り締められ、目は血走り、岩の如き体躯を不動の姿勢に、食い入るように遊山を見つめていた。その鬼神の如き迫力にたじろぎを隠し切れず、彼は思わず後退りを始めた。雪之丞は怯えきった彼の眼を正面から見据え、一歩また一歩と距離を詰めていった。
「く、来るな! 衛兵を呼ぶぞ!」
「……この期に及んで人頼みか。其方が弱さが、この国の惨状を招いているでござる。その刀は何のためか! その腕は何を示すためにあるのか! 少しは真剣に考えては如何か!」
「うるさい! この痴れ者が! 来るな! 来るな!」
刀を振り回し、叫びまくる遊山。だが雪之丞は動じない。死地に至った侍は決して動じることはない。
やがて2人の距離は2メートルほどの距離に達し、狼狽た遊山の背が壁に当たった。そこで雪之丞はするりと距離を詰め、一瞬で刀を奪い取った。呼吸を乱しびっしょりと汗をかいて、狼狽した様子で尻餅をつく彼に、雪之丞は目を閉じて深々と一礼をした。
「ご無礼つかまつった。遊山殿の仰る通り、己は只の痴れ者。そればかりか、友を売った醜い裏切り者にござる。事が片付いた後、しかと腹を詰めてお詫びいたしまする。……ですが、一つだけ申し上げておく。今のあなたでは、お父上を越えることなど決して叶いませぬぞ」
「……き、貴様! 何を言うかと思えば……撤回しろ! 私は父をこの手で仕留めたのだ! その私が何故、どうして奴を超えられぬというのだ!」
心の中の淀みを書き出すように、真っ赤になって叫ぶ遊山に対し、表情一つ変えずに淡々と返す雪之丞。
「いえ。あなたは何も越えてはおりませぬ。あなたは知略に溢れ、強かで、人心を掴む才能がおありだ。それは誰しもが認めるところ。しかしあなたには、決定的に欠けているところがあり申す。それは……気迫! 何が何でも前に進もうという気魄! 目の前の障害を打ち破らんとする羈縛! それがない限り、あなたは一生……目の前の父の幻影から逃れることはできませぬ!!」
「!! この……言わせておけば!」
言い終わるや否や遊山は猛然と立ち上がり、拳を握り締め体ごと引き絞ると、そのまま雪之丞の顔面に向けて痛烈な一撃を放った。ガキっと鈍い音を立てて飛び散る鮮血、拳の痺れ、鈍い痛み。だが彼は狂奔に憑かれたかの如く、続け様に無抵抗の侍を殴り続けた。
「お前のような野良犬に何がわかる! 偉大で、かつ碌でもない父を持った私の気持ちなど分かるものか! 何が気迫だ! 何が乗り越えるだ! ふざけるのも大概にしろ!」
「……」
「私はずっと努力してきた! 父を越えるため、父を殺して自分を取り戻すために! お前に分かるか? ずっといないものとして扱われる苦しみが! 一欠片も愛されず、何一つ与えられない苦しみが! 奴隷の子として扱われる屈辱が! 母を見殺しにせねばならない俺の気持ちが! 俺は……俺は!!!」
「それで……いいのでござる」
何十発も正面から殴られ、岩石のように腫れた顔をにっと微笑ませて、雪之丞は実に暖かく遊山に告げた。それを見た彼の手はぴたりと止まり、怪訝そうにその表情を覗き込んだ。
「……やれば出来るではありませぬか、遊山殿。父上を越えるには、今を置いて他には有り得ぬかと存じます。今の状況をご覧あれ。人々は混乱し、頼るもの縋るものを求めておりまする。遊山殿……あなたしかおりませぬ。あなたの気迫、今見せて頂いた拳に込められた力、それを皆に向けて解き放って下され。さすれば……必ず道は開けるでござる!」
「雪之丞……お前まさか?!」
彼はそれには答えず微笑みだけを返し、再度深々と頭を下げた。
「今までお世話になり申した。この御恩は忘れませぬ。これにて今生の別れにござる。刀は確かにお預かりし申した。後のことは全て……お任せしますぞ」
「……」
それだけ言うと、雪之丞は振り向いて瞬く間に消えていった。そんな彼を、皮の剥けて血の滲んだ拳を見つめながら見送る遊山の姿があった。
「まったく……好き放題言いやがって。これだから東の野蛮人は嫌いなんだ。はは、ははは」
その眼に浮かぶは純然たる決意の萌芽。遊山は自らの内に、弾ける寸前の猛々しい火種を感じていた。彼はそのまま足を動かすと階上の中央、王たる者の玉座に向けて迷う事なく進んでいった。
一方、現在。コロシアム階下、闇渦巻く闘技の間。
光の樹がまるで聖火のように漆黒を照らし、逃げ惑う人々も足を止めてそれをぼんやりと見つめていた。彼らにとってそれは、神が下した奇跡のように映っていた。
それに相対する異形の騎馬兵は、忌まわしい輝きに向けて幾度となく切りつけていた。やがて少しずつ樹には亀裂が走り、間も無く崩壊を待つのみに見えた。
。人々は悲鳴に近い叫びを浮かべていた。まるで救いの象徴が崩壊するが如き光景を目にして、涙すら流す者もいた。
そして、異形が全てを破壊すべく大きく刀を振り絞ったその瞬間!
「……高堂流『炎凸戦弓』!!」
光が崩れ落ちると同時に、その中央から放たれた気迫の一撃。鈍い光の粒子を纏った刀の閃光が、人とも龍ともつかぬ姿をした戦士によって放たれたのだ。渾身の閃突は漆黒の騎兵を装甲ごと貫き、後方の壁まで奮迅と叩きつけた。
「ゴォォォォオ!! 亜門! あもぉん!!」
苦しみもがくよう息を吐き続ける異形の騎士。その声から自らを逸らすように、無言で刀を振り上げる亜門。鈍い光の軌跡が刀を伝い静かに波を打ち、それと同時に再開される死闘。
亜門も龍心も、その異形の力を全力で振り絞り、無心で刀を振るい続けていた。常人では目にも留まらぬ斬撃の嵐を全て紙一重でかわし続ける両者に、人々は目を奪われていた。やがて暴風が去ると、次は破壊の雷。両者は1メートル程の距離を挟んで全く同じ構えを取り、気合いを込めて同時に技をを放った。
「高堂流ウゥ!」
「奥義!」
「『地龍天尾』ィイ!!」
「『天龍地尾』!!」
斜め十字の斬撃が天地で交差した。龍心の高い位置からの振り下ろしは亜門の左腕を切り飛ばし、一方で彼の渾身の打ち上げは虚しく空を切り、更なる打ち上げの刃が襲おうとしていた。絶体絶命と誰しもが思ったその時、何故かその攻撃は空を切った。亜門は龍の翼で天に浮遊して回避すると、そのままがら空きの異形に向けて、溜めの効いた渾身の打ち下ろしを見舞った。激しい音を立てて地に叩きつけられる龍心。その闇の甲冑は完全に切り落とされ、漆黒に染まった体躯からどす黒い血流が吹き飛んだ。明らかな深手を負い、更には傷口から入り込む龍の力に侵され、彼は絶叫を上げてのたうち回った。
「し、勝負あったか?!」
「バケモノがバケモノを倒したぞ!」
「で、でも今度はアレが暴れるんじゃないかしら……」
人々は不安と仄かな期待が混じり合った声を上げた。だがその時、再び動き出す異形の騎兵。彼は倒れたまま身体から流れ落ちる血を鞭の如く操り、亜門の体を足元から絡め取った。
「ぐっ!!」
決して油断していた訳ではなかった。ただ、純粋に彼の体力は限界に近付いていた。真紅の縛に身を奪われた亜門に、凄まじい圧の闇力が襲い掛かった。呻き声を上げて苦しむ彼を見て、民衆に再び混迷が走った。
「ああ、やはり無理なんだ! 皆殺されちまう!」
「こうしちゃいられねえ! 早く逃げねえと!」
「あたしが先だよ! そこをお退き!」
誰しもが我先にと逃げ出し、混乱に次ぐ混乱の中で負傷者が続出していた。コロシアムのあちらこちらで闇が暴れ回り、命の火を誰彼構わず奪い取っていった。
そんな時、上階から厳しい声が一つ。よく通る澄んだ声が、醜く蠢く人々の頭上に降り掛かった。
「……者共、落ち着け!」
声の主は、ビャッコ国議会長、神立遊山その人だった。彼の堂々とした態度から放たれる威厳ある声は、混乱の極地にある人々の耳にも確かに届いていた。
「よく聞け。あの光の龍こそ、我が友の姿。諸君を救う為に降り立った、神が遣わした超常の存在だ! 諸君に降り掛かる災厄、これらは全て黒龍屋幽玄斎の企みである。奴は諸君らを皆殺しにするつもりだったのだ!」
「ま、まさか?! あの黒龍屋様が?」
「そんなバカな! 私達に富をもたらした彼がそんなこと……」
「出まかせもほどほどにしろ! そもそも彼はお前の父君だろうが!」
衝撃的な言葉に人々はますます困惑し、口々に声を上げた。階下では戦士たちの極限なる攻防が続く中、絶望の中でも人を信じず声を荒げる、哀れな人の本性が剥き出しになっていた。だがその時、爆ぜた。
「……黙らんか!」
地に落ちた雷のような叫び。気迫込もる腹からの声に、しんと押し黙る一同。そんな彼らをぎろりと見回してから、遊山は更に気を吐き続けた。
「盲になるのも大概にしろ! 現にボルオンが破壊されたのは父の所業だ! 偽りの証人などいくらでも用意できる。私はその企みを知り、彼の力を借りようとした。彼は友を、この国で奴隷に身をやつした友を救うために、そして諸君らを無慈悲な殺戮から守るために、自分の危険も省みず戦ってくれたのだぞ! 諸君らには彼の気持ちが伝わらないのか? 諸君らの目はどれだけ曇っているのか? 自らが考えるまま、見たまま、そのままを信じるのだ!」
迫力に圧され黙りこくる群衆。辺りには2人が戦う音だけが流れ続けていた。そんな中、ふらつく足取りでコロシアムに近付いたのは、光を纏う少女リース=シャガールだった。
「……まったく、ずいぶんと都合のいい解釈だこと。ま、あたしには関係ないけど。亜門くん……待っててね。必ずあたしが……」
ぼやける視界の中に亜門を捉え、リースは苦痛に塗れた身体を一歩ずつ動かしていった。既に全ての罠は解除してはいたが、彼女にはまだやるべきことが残っていた。目の前の侍を、高堂亜門を救うこと。それは彼女が自身に課したこの場における唯一無二の使命だった。
それがどこから来ているのか、その思いが何を意味しているのか、まだ今の彼女には明確には分からない。だが、既に彼女は決心していた。毒に犯され半死半生の身でありながらも、微塵も揺らぐことのない矜持が胸の中央に位置していた。
「早く……行かないと………。このままじゃ……」
が、肉体は正直だった。既に限界を超えた彼女の身体は動作を停止し、一歩も歩くことが出来なかった。脳を動かす血流は淀み、思考は泡と消えていった。それでも彼女は歯を食いしばり、目を見開いて前を向こうとした。だが、そこに映ったのは闇の渦。生あるものを駆逐する、邪悪な意志の権化。気付いた時にはそこに飲み込まれ、朦朧とする意識の中で彼女はゆっくりと目を閉じた。
「童! 死んではならぬ!」
声が聞こえた。同時にはだけた胸元を捕まれ、彼女はぐいと身体を引き寄せられた。目に映るは侍の姿。だがそれはリースの思い描くあの男ではなく、鬼のような風体の隻腕の侍だった。
「ハァ、ハァ……どうにか切り抜けられたでござるか。そなたは亜門の仲間であるな? 凄まじい妖術でござったぞ」
「あっそ。それはどうも。それはそうと……いつまであたしの胸もんでんのよ!」
「おお、これは失礼であった。どうにも掴みやすかったゆえ。いやはや、大陸の童は実に発育がよいでござるな」
「なにそれ! ほんとやんなっちゃう。でも……助けてくれてありがと。あんたが例の亜門くんの友達ね? いろいろ話したいこともあるけど、今あたし急いでるから」
横たわったまま、震える手で符に力を込めるリース。だが毒により視界はぼやけ集中は切断され、まともに術を行使することは不可能だった。それでも必死に集中する彼女を、雪之丞は慌てて支えようとした。
「童! 無理をするでない。見た所……毒か何かにやられておるな? このまま続けては命が危ないぞ」
「だから? そんなことあたしには関係ない。亜門くんには借りがあるの。あたし、そういうのだけは許せないから。それにさ……童貞のまま死なれて、化けて出られても困るでしょ?」
一瞬の間をおいて、臓腑から楽しそうに吹き出した雪之丞。この数年間で初めて、この国に来てから初めて、心の底から湧き出る陽の感情だった。
「はっは! いや、実にその通りでござるな。そういうところも変わらず、か。……童、あいつを大事にしてやってくれ。あいつは己の……最高の友でござったゆえ」
「なによ? 遺言みたいなこと言って。邪魔したら許さ……うっ!」
「御免!」
雪之丞はリースの柔い首筋に、静かに手刀を下ろした。頸動脈を圧迫され一瞬で気を失った彼女に深々と礼をしてから、彼は腰の刀を抜いて一直線に亜門の元へと駆け出した。
「うおおおお! 己は秋津国は進藤家の三男、雪之丞にござる! 同じ秋津の侍であり同胞の友のため、高堂龍心殿……お命頂戴致す!」
「ゆ、雪之丞! 其方では無理でござる! 引けい!」
血龍に羽交い締めにされながらも、必死に全身から闘気を発して抜け出そうとする亜門。だが体は動かず、目の前の光景をただ見つめるだけしか出来ない。
そして、ひゅんと軽く空気を裂く音。異形の騎兵の右手が怪しくうねり、同時に貫かれる雪之丞の心臓。
「ゆ、雪之丞おおおお!!!!!!」
場に響くは亜門の絶叫、雨のように降りしきる鮮血。ぐらりと糸が切れたように生気を失う雪之丞に、龍心は心からつまらなそうに腕を動かした。
が、その時! 刀を抜かんと僅かに気を抜いたその一瞬、雪之丞の目に再び光が宿った。
「亜門は……やらせぬ! 絶対にだ! この命に代えても……進藤流体術『煉獄滑車』!!」
雪之丞は身体の中央を突き刺されたまま、敵の手首と指を片手で器用に極めると、そのまま身体を回転させ腕にぶら下がるような形でしがみついた。しかし、それは異形の体にはあまりに無力な力だった。本来の目的である腕部の破壊はもちろん、微動だにすら出来ぬ無慈悲な結末。
「オオオオオ! 邪魔を……するな! このクズめが!」
「己が屑ならば……其方は何であるか? 侍にとって一番肝要たる心を失い……家族に手を上げる其方は……一体何に成り下がったというか! 恥を知れい……高堂龍心!」
傍目には無意味な抵抗で、去勢を張っているようにしか見えなかった。しかし、秋津の侍の魂にそんな概念は刻まれていない。いつだって彼らには、勝利の為には命を投げ打つ鋼の精神が宿っていた。
「や……めろ! 離れ……ろおおおお!!」
「魂曇らば……即ち是……武神も匹夫………。今の其方にその刀は……高堂の意思は決して宿らぬ! 進藤流秘伝『柔武滅殺』!!」
渾身。正にそうとしか呼び得ぬ一撃だった。雪之丞は全ての力を右腕に込め、異形の腕に闘気を流し込んだのだった。完璧な呼吸で撃ち込まれた打撃は、内部から敵の神経を完膚無きまでに破壊し、刀を握る手を僅かに緩ませた。その一瞬の隙を見て、雪之丞は刀を身体から抜きその手に奪い取ると、最後の力を振り絞り亜門の元へと投げ付けた。
「亜門……これで勝つでござる。本当に……すまない……志乃には……許せと………」
最後の言葉と同時に、雪之丞の身体は真っ二つに引き裂かれた。彼は満足そうに微笑みながら、その命の輝きを瞬時に失っていった。
「雪之丞! 雪之丞! ……雪之丞おおおお!!」
亜門の叫びは届かず、ただ鉄の感触が右手に伝わった。龍心は彼の方を再び睨み、再び数匹の血龍を放った。
が、しかし。目に留まることもない剣閃が一瞬でそれらを切り裂いた。龍力を帯びた刀が亜門の拘束を切り捨て、膨大な力を放ちながら彼の右手に収まったのだ。血塗れながらも威風堂々と立つ彼を見て、龍心は初めて狼狽えたような視線で彼を見遣った。
「よく……わかったでござる。この刀、高堂家の秘伝『素戔嗚』は其方の手を離れ申した。そして……今! 己のやるべきことは只1つ! 高堂龍心、其方を斬ることのみにて!」
龍の力が亜門の体内を駆け巡り、異形を超えて再び人の姿へと移り変わった。龍で非ず、人。人であって、龍に道を添う者。今の亜門は超常の力に満ち、何者をも寄せ付けはしなかった。先程までは手を焼いた血龍の群れすらも、今の彼の前にしては猫柳同様。軽く振った刀の一閃で、悪意の龍は瞬時に霧へと化していった。既に彼は力を制御し、秋津国国父たる秋津典膳が持ち得た威風をも、その身に纏っていた。
「亜門! お前など何ら意味がない存在だ! お前さえいなければ……父も、俺も、誰しもが平和に過ごせたのだ! お前さえいなければあああああ!」
「御託はあの世でゆっくり聞こうぞ。其方も己も、結局行き着く場所は地獄にて。さあ……語らん!!」
言葉と同時に、斬撃。高堂家の龍紋が刻まれた刃から、大気を切り裂かんばかりの衝撃が異形の身体を襲った。彼は全く反応出来ず、横一文字に胴を切られ、凄まじい咆哮を上げた。亜門は心中で必死に耳を塞ぎながらも、内から湧き出る殺意で心を塗り潰した。いつもの戦場のように、漆黒の気炎を燃やし尽くして。
そして亜門はゆっくりと目を閉じて、刀を鞘に仕舞い込んだ。膝を軽く折り、しなやかに脱力させ、そっと右手を柄に当て、全ての呼吸を一点に集約しながら。己に向かう殺意、闇の気配を完全に読み切り、彼は一言だけ軋む声で告げた。
「……然らば、兄者よ。高堂流秘伝……『明鏡止水』!!」
「!!!!!」
渾身。ただそう呼ばれるべき一撃。
亜門の放った刀技は、秋津の歴史に刻まれるほどの精度、膂力、技術、呼吸、その全てが包括されたものだった。手に感覚すら残ることなく、真っ二つに両断された異形の騎士。その背後には、息を切らし倒れ込む亜門の姿があった。
戦いは終わったのだ。人々の歓声が雨のように注がれる中、亜門の耳に懐かしい声が聞こえた。それは……あの頃の、兄と呼んでいた男の、声。
「……まだまだ甘えな。迷いが残ってるぜ」
「……? ………!!」
それは、幻ではなく、確かに耳に届いた現実であった。亜門は息絶え絶えになりながらも、目の前の異形の屍に視線をやった。首だけになって、惨めに地に泥まみれになりながら、それでも大きく口を開けて笑う、かつての家族の面影。剛健なれど暖かい、高堂龍心の本来の笑顔がそこにあった。
「……んだよ、ボケた顔しやがって。そんなんだから女に相手にされねえんだ。最後くらい兄貴を安心させて……逝かせろや」
「龍……心!!」
がっと走り寄る亜門は、生首だけとなった龍心を抱え、力一杯抱き締めた。
「おいおい、野郎に抱かれながら死ぬなんて冗談じゃねえぜ。お前よ……昔からモテねえモテねえと思ってたが、そっちのケがあったのか?」
「龍心! 正気に?! いつから……」
「……最初っからだよ。俺はずっと……正気さ。本気でお前を憎んで、本気でぶっ殺してやろうと思ったんだけどな。まあミジメにもこのザマさ。笑えねえ話だな。はっはっは!」
実に痛快そうに笑う龍心の姿に、かつて羨望と矜持を携え支えた大きな笑顔に、亜門は更に強く抱き締めて涙を流した。
「もう……何も申すな。何も……己はもう………」
「まあた泣いてやがるのか。昔から変わんねえな。あの泣き虫亜門がこんなに……強くなるとはな。こりゃ笑えるな。はっはっは! ああ、腹いてえ。笑いすぎて涙が出てくるぜ」
「龍牙殿が、父上が逝かれた時も……其方は同じことを申しておったな。そして、同じように笑って、同じように泣いた。其方は……そういう男だ」
「昔っから……何も出来ねえミジメな男だよ。親父をみすみす殺させ、敵討ちだのほざいて大騒ぎして、皆を巻き添えに大敗し、死に場所も無くして奴隷に成り下がり、いいように操られ仲間を殺し、挙げ句の果てに弟まで殺そうとした。いっつも口ばっかでよ、何一つうまくいかなかった。はっはっは! 振り返ってみると、本当に情けねえな」
「それを言うなら己もそうでござる! 其方を守れず、全てを……高堂家を台無しにしたでござる! 己は大殿になんと詫びてよいかわからぬ!」
「しかもお前よ……俺のことぶっ殺しちまったからな! はっはっは! 何が『其方を守れず』だか。ったく仕方ねえ奴だよ」
「そ、それは其方が襲いかかってきたからであろうが! この程度の敵に操られておいて、よくそんなことが言えたものでござる!」
「逆ギレしてんじゃねえ! そもそもお前がモテねえからウチは断絶の危機に瀕してんだからな! 責任とれよ!」
「な! こ、こんな時に何を抜かすか! 人が聞いておろうが!」
「はっはっは! ああ、おかしいな。なんか昔を思い出すぜ」
「はっはっは! その通りでござるな。遠い昔、確かにこんなことばかりでござったな」
2人の笑い声は涙が入り混じり、周囲の静寂のうちに消えていった。暫しの時間が経ち、実測では極めて短い時間ではあったが、やがて龍牙の体は醜く澱んだ闇の塊となり、無残にも崩れ落ちていった。
「お、そろそろか。んじゃ死ぬわ。あっちで雪之丞にはよく謝っとくよ。っても……それで済む話じゃねえけどな。親父にもお願いしねえと」
「……己からも済まぬと、あいつには伝えて下され。必ずや秋津を、其方の意思を汲むと、それだけお願いしとうござる」
「あいよ。それと……俺の『素戔嗚』、大切にしろよ。知ってるだろうけど、ウチの家宝だ。もし折ったらタダじゃおかねえぞ」
「御意にて。最期に……何か?」
「3つ。1つ、その刀を託した意味をよく噛み締めろ。感情に左右されんな。お前なら……出来る。心身ともに秋津最強の男になれ」
「……は。かしこまりました」
「2つ。父上を殺し、秋津を破滅させたのは……藤原虎月だ。証拠はその刀の柄に仕込んである。後でよく読んどいてくれ。この為に5年を要した。ま、結果こうなっちまったけどな」
「虎月!! やはりあやつが! 絶対に許してはおけぬ!」
「まあそうカッカすんなよ。早死にするぞ。んじゃ3つ。秋穂に……俺のことは忘れろって言っといてくれ。以上だ」
「最後の最後に芸者のこととは……本当に其方は変わらんでござるな。では、安らかに眠れい。始祖にその魂が届かんことを」
そう言って彼をそっと地に置いた亜門。龍心は、最後にふっと笑うと、静かな掠れる声で言った。
「……あと、言い忘れてたぜ。何もなせずに死んでいく俺だが、最高の家族がいた。親父、お袋、姉貴……そしてお前だ。最期に、下らねえ人生の締めに、全てを託すことができた。後は……任せたぜ。弟よ………」
「龍心……逝くな! また2人で……一緒に………」
「お前は1人じゃねえ。自分の足で進め。お前なら出来る。必ず秋津を……」
「兄者ああああ!!!!」
「まだそう呼んでくれるんだな……ありがとな。全ては……俺は………」
かたり、と小さな音。崩れ落ちる儚い夢。亜門はただその場にて天を仰ぐ。手に握る刀が痛いほどに食い込む。四方の穴から射し込む光に照らされ、男たちの姿は何処か神々しく見えた。
そんな彼らに、民衆から自然に拍手が贈られた。始めこそまばらな響きであったが、やがて数を増し、遂にはうねりのような音の渦と変わっていった。
亜門は、消えてしまった友に、目の前で横たわる亡骸に目を遣り、全身を震わせながら唇を噛み締めていた。何が拍手か! 何が目出度いものか! そう、心の奥底で強く思った。しかし彼は灼熱の如き思いを必死で思い留めた。耳の先に龍心の言葉がこびりついていたから。この戦いで失ったものの重みをその身に深く感じていたから。
亜門は大きく1つ深呼吸をして立ち上がると、意を決して目に力を込め、よく通る大きな声で叫んだ。
「災厄は終わり申した。其方らは安全でござる」
一瞬唖然とするも、すぐに状況を飲み込み声を上げる群衆。やはり、遊山の言う通りだった。目の前の男は悪意を示すものではなかったのだ!
「やった! 俺たち助かったのか?!」
「パパー。怖かったよぅ。光る龍が勝ったよ!」
「遊山様の言う通りだ! あの方は我らの救い主だ!」
「静粛に! ……1つだけ己の話を聞いて欲しいでござる」
今の亜門の声には、人々の心を動かす何かが含まれていた。彼らは一斉に階上の遊山に目を向けた。彼はふうと小さく息を吐くと、悠然と腰を下ろして放たれる言葉を聞く姿勢を見せた。人々もそれに倣うように口を閉じて固唾を飲んで見守るばかりだった。
「この戦を引き起こしたのは、遊山殿の申した通り黒龍屋幽玄斎。ボルオンの街でも同様の行為を行い、己の仲間に罪を着せ、全てを破壊せんとした悪逆の男。ただ1つだけ言いたいのは、それを止めたのは己だけではない。己の仲間や友が全力で命を賭し、その中には……其方らが差別する奴隷身分の者もいるでござる」
ざわ、ざわ、とどよめきが起こった。しかしそれには構わずに亜門は更に続けた。
「其方らはもう一度考えるべきぞ。本当に大切なものとは何か? 身分か? 地位か? 富か? いや、決してそうではござらぬ! 今ここにある現実のみを考えよ。其方らの世界では差別される奴隷によって、其方らの命は救われたのだ。これ以上は己からは申さぬ。自分達でよく考えよ。ただ、少なくとも……そこにおわす神立遊山殿は、奴隷の処遇について何やら考えがお有りのご様子。其方らが真摯な対応をするとあらば、彼はこの国に光を照らすと約束するであろう!!」
おお、と一際大きな歓声が上がった。満足そうに頷く遊山とは対照的に、唇を血が出る程に噛み締めながら、亜門はただその場に立ち尽くしていた。
「守り神様の仰る通りだ! 早速従わねば!」
「と、とはいえ奴隷をすぐにどうこうとは……」
「あたしは遊山様を信じるよ。必ずこの国を正しい方向へ導いてくれるはずさ」
「やれやれ、こうなった以上無碍には出来まい。西大陸の難民を受け入れる話、どうやら現実となりそうだ」
「そうだな。これで莫大な金が遊山殿に流れ込む、と。やはりあの方は大した策士だよ」
様々な人々の声の中で、亜門は1人考える。目を閉じて、ただぼんやりと身を任せた。
(龍心、雪之丞。己は感情を押し殺し、道化を演じておるぞ。これで……良いのだろう?)
そして亜門はゆっくりと目を閉じて、糸が途切れたようにそのまま床に崩れ落ちた。人々のどよめきがさらに大きくなり、亜門は遠く離れたリースの方を見て満足そうに微笑んだ。
(……よかった。しかと息をしておられる。リース殿、己は……皆との旅はここまででござる。今まで本当に世話になり申した)
彼は心中でそう呟きながら、そっと右手を宙に差し出した。それを避けるように光子が上空にふわりと舞っていった。彼は再び微笑むと、暗い意識の中に身も心も浸していった。
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