第50話「龍鬼蛇神」②
ダール黒龍屋本店地下。
2人の男を巡る最後の戦いが、血に浸された因縁を紡ぐ糸が、遂に千切られようとしていた。
場は降り注がれる閃光の嵐。幽玄斎が産み出した複数の闇人形からは、狙いこそ不正確だが、圧倒的に多数の術式が繰り出されていた。対して藤兵衛は、数こそ劣るものの、精密無比な狙撃で敵の数を削っていった。
「ほう。中々折れぬものだ。流石は藤吉だ! はは、ははは!」
「生憎、儂は蛇の如きしつこさが取り柄での。貴様もすぐに飲み込んでくれるわ」
息一つ付けぬ密度の打ち合いは、次第に膠着状態になっていった。藤兵衛の弾は分身の前に阻まれ、幽玄斎の術も転移術で狙いを外されていた。お互い無傷のまま、嵐は10分にも渡っていた。一見互角に見える2人だったが、その実は状況は刻々と変化していった。
「どうしたんだい? 随分と元気が無くなってきたじゃないか? 最初の威勢はどこへ行ったんだい?」
幽玄斎から蕩けるような言葉と、邪悪な笑みが零れた。明らかに衰え始め、肩で息をする藤兵衛の姿を確認し、体の芯から愉悦が溢れそうになっていた。とはいえ『楔』との霊的な接続を解除され、かつては無尽蔵とも言える彼の闇力も、徐々に衰えを見せ始めていたのも事実だった。
「はて。何ぞ変わりなどあったかの? どうやら頭だけでなく、目も老いぼれておるようじゃな。貴様こそ随分と情けない技を見せておるではないか」
目の前に打ち込まれた術を転移させながら、強がるように叫ぶ藤兵衛。2人の騙し合いの時間は佳境に達していた。互いに目の奥を探り合い、互いの意思を読み続けていた。
(ふうん。どこかわざとらしいね。余裕あるように見せかけて、実は限界……ってことはないな。流石にまだ余力はありそうだ。調子に乗って攻めたらこっちの負けだね。その手には乗らないよ。とはいえ……正直こちらも限界は近いな。どうにかして『楔』に戻らないとね)
(奴が何を言おうとも、全ての鍵は『楔』じゃ。あそこに戦いの全てが詰まっておる。どうにかして主導権を握らねばならぬ。正直きつくないと言えば嘘になるが……儂の50年はこの為にあったのじゃからな!)
打ち合いは激化していく。2人の額に汗が滲み、吹き飛ぶ。息は上がり、闇力が飛び散っていく。どちらかが隙を見せれば即決着に向かおうという中、遂に膠着が崩れた。幽玄斎の放った数発の閃光の内1発が、藤兵衛の左肩を直撃し抉り取ったのだ。
「ぐあああー! ヤ、ヤラレター!」
場に藤兵衛の悲鳴が響いた。彼はのたうち回り、肩を抑えて泣き叫んだ。しかしこの絶好と見える機会に、幽玄斎は静かに手を止めた。冷静かつ緻密に観察し、決して焦らずに趨勢を伺っていた。
「ぐわああ! こ、これは堪らん! このままではヤラレテシマウー!」
(なんて臭い芝居なんだろうね。避けようと思えば余裕だったろうに。ま、こちらの準備もまだ整っていない。ゆっくり待つとしよう)
場に一瞬の沈黙が流れた。苦しそうにのたうつ藤兵衛を、余裕の笑みで受け入れる幽玄斎。不自然なほど長くその時間は続き、それでも彼は動かなかった。
「ごぉぉぉ! お、お助け下され! どうか、どうか儂の命だけは! 全て幽玄斎様に従います故、シャーロットの身も差し出します故、どうか、この哀れな男の命だけはどうか!」
「……そんな小芝居はもういいよ。3つ、いや4つかな? 隠して作ったその術式で何をしようというんだい? お陰で私は随分と休めてしまったよ」
「は、はて? 何のことですかのう? 儂にはさっぱり……」
「そんな小細工で私に隙ができると、本当に思っているのかい? お前では私は倒せないよ。どんなに頑張っても、私には手も足も出ない。お前の誘いにも乗らないし、何一つ通用しない。お前にも分かっているだろう?」
「……」
「ただ私は、お前の心から絶望した姿を見てから、全てを失った魂が枯れ果てた呻きを聞いてから、血と涙と臓物の混じり合った芳しい香りを鼻にしてから、ゆっくりと一緒に死にたいだけなんだ。その為に私は50年間耐え続けたし、例え何を犠牲にしても構わない覚悟だよ」
「………」
「さ、もう終わりにしよう。抵抗なんて諦めて、私の元に本心から跪きなさい。一緒に気持ち良くなろうじゃないか。はは、ははははは!!」
この期に及んでも凡ゆる策に油断なく注意を払いつつ、幽玄斎は心底からの邪悪な笑みを浮かべた。藤兵衛はそんな彼に嫌悪の眼差しを向けつつ、静かに物事を進行させていた。
しかし藤兵衛は動じない。如何なる時も、この男は動じない。
「参ったのう。どうしても動かぬ積もりならば、こちらから動かすしかあるまいて。先ずは……術式『アラーニャ』!!」
懐に隠した術式が露わになると同時に、藤兵衛の手から無数の粘着質の糸が放たれた。しかし幽玄斎は小馬鹿にしたような笑みのまま、すっと後ろに僅かに歩いてかわした。糸は無残にも地面にこびりついて何一つ意味を成さなかった。だが、その時!
「まだじゃ! ……術式『ビエント』!!」
次は突風。地面から上空に向けて巻き起こった激しい旋風が幽玄斎に襲い掛かったが、彼は闇人形を盾にして涼しい顔でやり過ごした。だが、藤兵衛の狙いはその先! 風は地面の糸を吹き上げ、護衛のいない敵に向けて襲い掛かった。
「……ほう。そう来たか。だが……『緑風の大地』!!」
にやついた表情のまま、幽玄斎は体内から無数の闇分身を繰り出した。盾となる彼らはみるみる糸に絡め取られていったが、吹き荒れる風に流されて本体の足にまで糸がこびりついた。その事実を双方が確認した時には、藤兵衛の手には複雑な術式の構築が完了されていた。
「これで終いじゃ! ……『マグナ・グランデ』!!」
藤兵衛から放たれた上級術式は、崩壊と同時にその場に大火球を生み出し、火山弾の如く一直線に突き進んだ。身動きが取れない幽玄斎は、再び複数の闇分身を瞬時に産み出して盾にしようとした。
「へえ。これ程の術をね。短期間でやるもんだ。流石は藤吉だね。だが私には届かないよ」
「己の常識で世界を判断するでない! これで最後じゃ! ……『転移』!!」
藤兵衛の胸の賢者の石が、彼の意思に応じるように激しく怒張し、瞬時に世界の理を変えた。火球は莫大な熱量を放ちながら空間を飛び越え、本体たる幽玄斎に直接叩き込まれた。皮膚を焼く疼痛に顔を顰め、彼は今日初めて笑みを収めると、ほんの僅かだけ小さく舌打ちをした。
「……仕方ないな。こちらも最後の手段だ。……爆ぜろ、『怨嗟の輪唱』!!」
瞬間、鈍い光。同時に弾け飛ぶ闇人形の群れ。その勢いは火球を消し去り、彼自身すらも爆風に包んだ。そのあまりの勢いに視界が閉ざされ、必死で目を凝らす藤兵衛だったが、その時背筋に悪寒。あまりにも強大で、高密度の闇力が目の前に集まるのを感じ、冷や汗を流し煙の奥に銃を向けた。
「ああ! 嬉しい! 本当に嬉しいよ! お前が私をこんな風にしてくれるなんて! 今のは痛かった。すごくすごく痛かった。でも……どうやらそれで打ち止めみたいだね。ならば今度は私の番だ。こちらは準備万端だよ。黒くて大きいものが、ずっとずっと私の中から零れ落ちそうなんだ! ああ、堪らない! もっと! もっとだ藤吉! う、うううううう!!!!」
更にどくんと膨れ上がった闇は、かつてボルオンの街を焼き尽くした力と同じものだった。爆風に焼かれ片腕を失い、全身から激しく出血しながらも、幽玄斎は狂気と歓喜の絶頂たる凄まじい笑みを浮かべ、内から湧き出る巨大な闇の塊をそっと藤兵衛に向けて放った。
(い、いかん! これだけはまずいわ!)
藤兵衛は即座にこの攻撃の危険性を察し、必死で逃げる方法を考えた。だが今の彼は満身創痍。闇力を使い果たし、対抗する手段は皆無と思われた。少なくとも幽玄斎はそう読んだ。
「どうしたんだい? もう間も無く“それ”がお前を貫くよ。『転移』出来るものならしてごらん? お前の能力の限界は、さっきの戦いでよく分かってるよ。その大きさ、威力ではお前には飛ばせない。奥の手とは取って置くものさ。また一手……今日も一手差で私の勝ちだね。さあ、絶望の貌を見せておくれ! この私に、妻子の仇である私に、お前が殺したくて堪らない私に、無様な敗北を受け入れられずに涙ながらに絶望する姿を見せておくれ! さあ! ……さあ!!」
「……間違えるでない。儂の名は、金蛇屋藤兵衛じゃ。貴様の言う藤吉は50年前に既に死んだわ。儂は……この世界の全ての富を喰らい尽くす者ぞ。貴様になど死んでも屈せぬわ!」
「はは、ははは! 無意味な強がりも悪くないね。じゃあそのまま破壊していあげよう。なに、お前なら死にはしないさ。邪魔な四肢を抉ってあげるだけだよ。……『起爆く……』!?」
その時、不意に幽玄斎に衝撃が走った。何が起こったか自分でも理解出来ない。視界がぐるりと歪み、頸部に言わんともし難い激痛が走ったのだ。
「くっ……?! 藤吉……お前一体何を……」
幽玄斎は自身の首筋に、強烈な闇力の高まりを感じていた。そして、自らの意思に反してゆっくりと首が回転を始め、頭全体がねじ切れそうになっていった。膨大な闇力とそれによる激痛で、思考が乱れ闇力の制御が出来ない。歪む視界の中で、息絶え絶えになりながらも不敵に笑う藤兵衛の姿だけが見えた。
「ケヒョーッヒョッヒョッヒョ! 何が絶望じゃ、この阿呆が! 1つ教えてやろうぞ。奥の手とはこうして使うものじゃて。言ったじゃろう? 貴様には『首輪』が付いておるのじゃと」
「な、何だこれは? や、止めるんだ藤吉! 爆発を調整出来ない! このままでは2人とも死ぬ! 『楔』とて無事では……ええい、制御出来……」
「残念ながらここまでじゃ。貴様の言うことは聞けぬ。あの世で会おうぞ。……『首輪・解除』!!」
捻り潰すように、藤兵衛は一気に手を握り締めた。と同時に幽玄斎の首がねじれ飛び、一瞬置いて巻き起こる大爆発。それは地下ごと、建物ごと吹き飛ばすほどの致命的な大爆発だった。轟音と閃光の中で2人の因縁は消え失せ、そして、辺りは無と化した。
その轟音と光は、地上にまで届いていた。
黒龍屋本店が文字通り揺れ動き、人々が慌てふためく中、シャーロット=ハイドウォークはただ1人、地下への入り口で立ち尽くしていた。彼女は顔色一つ変えずに、流れ出る闇力を感知し、呼吸を整え来るべき時に備えていた。その時、彼女の背後から声が届いた。
「……魔女シャーロット。先程の轟音はお前が関係しているのか?」
蠢く闇の中で、形を作る者があった。不吉な漆黒に塗れたその男を目にしても、シャーロットは何一つ動揺を見せる事はなかった。
「いいえ。私の愛する殿方が、過去の因縁と戦っているだけです。この場所は地獄へ変わる可能性があります。貴方がどなたか存じ上げませんが、早々に避難した方が良いでしょう」
「冷静だな。あの男……黒龍屋幽玄斎はここに?」
「はい。彼は金蛇屋藤兵衛が必ず倒すでしょう。何か御用でも?」
「……いや。それならここに用はない。邪魔したな」
短くそう言い残し、暗殺者クロガネはその姿を闇へと変えようとした。だがシャーロットはくるりと顔を向けると、静かに彼に言葉を放った。
「その身体……『強制降魔』ですね。よくその状態で正気を保っていらっしゃいます」
「流石は闇の姫君だ。かつて……死を目前にした俺を救ってくれたのがこの術。お陰で終わりの無い苦しみを味わい続けてはいるがな」
「……」
「何か言いたそうだな。だが……大体分かるよ」
クロガネの眼に名状し難い悲しみの色が広がっていった。シャーロットは悲しそうに目を伏せ、闇の中へ消え行く彼に告げた。
「『強制降魔』は、ある種の一方的な契約。貴方の命は、それを与えた者の命に支えられています。つまり……」
「俺のことは自分で片を付けるよ。他に何も要らないさ。かつて失ったものを、もう一度取り戻すとしよう。俺は腐っても……セイリュウ国の誇り高き戦士だからな」
「……」
「あの時は済まなかった。お前を殺す事が、世界を崩壊させん力を持つお前を消し去る事が、平和を招くと信じていた。信じ込まされてきた。謝って済む話ではないが、最後にそれだけは言っておきたかった」
「私は何も気になどしておりません。私は人を恨むのも憎むのも苦手なのです。ただ……貴方の命はもう……」
「覚悟の上だ。命など、淀めば腐るのみよ。だが姫君……お前の方こそ注意しろ。魂まで闇に浸りし俺には“見える”ぞ。黒き炎がお前を焼いているのをな」
「……ふふ。ありがとうございます。ですが、私はただ進むのみです。貴方の進む道の先に光が差すよう、心から願っております」
「そうか。なら何も言うまい。もう2度と会う事はないだろう。……さらばだ」
彼は最後に、ほんの少しだけ口元を緩ませた。シャーロットも釣られるように微かに微笑むと、そのまま消え行く彼の輪郭を強く抱き締めた。最後の瞬間に微かに暖かい温度が伝わり、彼は困った顔をして心の中で呟いた。
(やれやれ。困ったものだ。俺は……)
涙目で美しく微笑む彼女を見て、暗殺者クロガネは自身の中に最後に残った枷が外れる音を聞いた。運命の輪廻の中で踠き苦しんできた男の眼に、再び青白い炎が宿った。だがそれは、その先はシャーロットも知る由のない物語。彼女の仲間を含め、誰一人として彼の行く末を知る者は現れない。
世界は歪んでいた。誰のせいでもなく、ただ一人でに。
地下。激戦から暫しして。
完全に崩れ落ちた坑道内に、1人の男だけが立っていた。見る影もなくなった部屋をしげしげと眺め、男はキセルを取り出してふうと大きく吸い込んだ。
「何じゃ。これでは何が何だか分からんのう」
藤兵衛は全身焼け焦げて重傷を負いながらも、ふらつく足で辺りをきょろきょろと見渡した。至る所に乱雑に瓦礫が積み重なる中で、1箇所だけ不自然に綺麗に何も無い場所があった。爆風でやや損傷は見られるものの、ほぼ万全の状態で、『楔』はそこにあった。藤兵衛はニッと不適に笑い、煙を吐き出しながら安堵の息を漏らした。
「……無事か! やれやれ、流石にヒヤヒヤしたわい。自爆は読めておったが、まさかあれ程の規模とはの。シャルに“あれ”を借りておらなんだら即死じゃったの」
そう言ってくるりと踵を返す藤兵衛。だが、そこで衝撃。時間が切り取られたかのように体が崩れ落ち、腹部に大きな穴が空いた。血が吹き出して止まらず、彼は膝からがくりと崩れ落ちた。
「……はは、ははは! あともう少しというのに油断大敵だね、藤兵衛」
藤兵衛が振り返った先には、空に浮かぶ邪悪な異物。首だけになり銀髪をかき乱した幽玄斎が、闇力を滾らせて嘲笑の笑みで彼を見下ろす姿だった。
「く……貴様! 何故生きておるか!」
「それはこちらの台詞だよ。あの爆発で目立った損傷もないとは、まったくしぶとい男だね。私が『楔』を守る所まで読んだのは大したものだが、詰めが甘い。甘すぎるよ」
「ぐっ……」
だが、幽玄斎にも余力は存在していなかった。闇力で無理矢理繋ぎ止めた体は、このままでは崩壊を待つのみだった。彼は身動きが取れない藤兵衛に満面の狂気を向けながら、ゆっくりと『楔』へ向かっていった。
「それでは、私は回復するとしよう。今までの苦労は全て水の泡だね。本当にご苦労様と言いたいよ。お前の浅知恵も、血を流した努力も、憎しみも恨みも復讐も、全て何の意味もなかったんだね。はは、ははは! 本当に楽しいね!」
「儂は……貴様に恨みなど……最初から持っておらぬわ」
藤兵衛は地に伏せたまま、低い声で振り絞った。進みこそ止めぬまでも、幽玄斎はその言葉に過敏に反応して、やや上ずった声を出した。
「……強がりはよせ。私はお前の家族を殺した男だよ。惨めに、無残に、全てを踏みにじった男だよ。恨まずにいれる訳がないじゃないか! 絶望しない訳がないじゃないか!!」
「……いや、そうでは……あれは貴様ではない。あの時金髪の男が……貴様に……」
「何を言っているのか分からないな。死にかけで意識が混濁しているのかな? 私がやったんだよ。全て、全て、お前の全てを!」
「今なら……理解できる。あれは……『強制降魔』。貴様は最初から録でもない人間ではあったが……その破壊的な狂気は全て……あの瞬間から………」
その時幽玄斎の胸に、棘のような細かい感情が突き刺さった。だがそれは内から湧き出る闇の奔流に押し流され、すぐに底へと沈んでいった。
(意味のわからないことを。さては最後の悪あがきだね。妄言で混乱させて足止め、体力を奪って急がせて背後から最後の一撃か。よく考えているね)
そのままじりじりと『楔』までの距離を詰める幽玄斎。あと10メートルの距離に到達した時、背後に闇力の高まりを感じ、彼はにっと大きく笑った。
(……明確な圧を感じる。そして躱す余力は私にない。だが……全ては遅い。これで詰みだ)
「儂の中の石よ、今こそ全てを寄越せい! この一撃に全てを! 『ナーガラジャ』!!」
満を辞して放たれる、最後の閃光。全てを振り絞った正真正銘、最後の一撃。唸る紫色の螺旋の軌道が、幽玄斎の頭部目掛けて一直線に放たれた。威力、方向、タイミング、確実に彼を粉砕し得る一撃。……だが!
「奥の手とは、こうして使うものだよ。賢者の石よ、最後に私に微笑め! ……『神龍の尾』!!」
幽玄斎の叫び声に呼応するように、彼の頭部から闇人形の欠片が溢れ出た。それらは失った体の代わりとなり、むんずと彼の頭を掴むと、そのまま『楔』に向かって投げ付けた。同時に撃ち抜かれ粉砕される体。その様子を嘲笑しながら吹き飛ぶ幽玄斎。
「はは、ははは! また一手及ばなかったね。もう遅いよ。全ては元に戻るんだ。後でゆっくり可愛がってあげるからね。どうやって遊ぼうか? お前の仲間を微塵切りにしてあげようか? 先ずはあの魔女からだね。どんな色を出すのかな? どんな声で哭くのかな? ああ、楽しみだなあ。本当に楽しみだ。ははは、はは……?!!」
不意に、笑みが止まる。『楔』の手前僅か数センチの場所で、ピタリと動かなくなる幽玄斎。何が起こったのかまるで分からず狼狽る表情を見せる彼に、低いダミ声の高笑いが降り注がれた。
「ゲッヒョッヒョッヒョッヒョ! 何たる滑稽か! 詰めが甘いのは貴様の方じゃて。よう見てみい。この儂が、世界の王たるこの儂が、1時たりとも無駄に動くなど有り得ぬわ!」
嘲りの声が背後から耳に突き刺さる。目に映るは無残に目の前に鎮座する力の源。そして、彼は感じる。『楔』の周囲に絡み付いた、自らを絡め取る糸の存在に。
「こ、これは……先ほどの術式! まさか最初からこれを……」
「儂を舐めるでないわ。2手3手先を読み、その更に裏を読む。貴様が教えたことじゃて。『アラーニャ』が躱されることも、風で飛ばす位置も、そして貴様が『楔』を守ることも、全て儂の手の内じゃ」
「くっ!! い、息が……でき………」
「終わりじゃ。貴様はここで死ぬ。儂の手ではなく、力尽きた間抜けとしての。貴様の好きな“絶望”、とくと味わうがよい」
「藤吉……私はいつだってお前を……」
「最後に……これは儂の独り言じゃ。かつての我が師よ。……本当に世話になった。せめて……最後位は看取らせてくれい」
「………」
やがて、損なわれ、失われ、喪失していく幽玄斎の姿。藤兵衛はその場に座り込むと、その姿を真剣な眼差しで眺め続けていた。そして、何かを暗示するように闇力がどろりと溢れ、その欠片一つ一つが塵となるまで、藤兵衛は身動き一つしなかった。ただ彼は1人の男の死に様を、沈黙のまま見つめていた。
時が流れていった。静かに、そして深く。
時を同じくして。ダール中心部の外れにある、旧ザルニエ美術館。
かつては神々の偉業を称えるモニュメントが所狭しと展示され、ひと目見ようと多くの人々が訪れたこの場所も、信仰心の失われたこの街では無用の長物と成り果てていた。その存在すら忘れ去られたこの場所では、闇の中で静かに息をする美術品の数々が、呆けたように佇んでいた。
その2階、寂れた建物に似つかわしくないほど厳重に施錠された奥の間には、ここ10年間ほとんど誰も足を踏み入れたことのない物置部屋があった。その場所で、無から忽然と沸き起こったのは、一体の闇の幻影だった。
「……ふう。“本体”は助からなそうだね。やれやれ、仕方ないな」
幽玄斎は、いや彼の姿を借りた闇人形の一体は、独り呆れたように呟いた。彼はゆっくりと伸びをし、がらんどうとした室内に禍々しい闇の波動が押し広がった。
「……1%にも満たない、か。それも仕方ないけれどね。アレはもう捨てるしかないみたいだ。身体も石も失い、ミカエルも敵に回した。随分と絶望的な状況じゃないか」
彼は笑った。実に邪悪に、心底の愉悦を込めて。窓が音を立てて揺れ動き、世界そのものが揺さぶられている様だった。
「まあ時間は山のようにある。数十年もあればまた絶望の山を築けるだろう。その時は……この街ごと全て皆殺しだ。楽しみだなあ。はは、ははは!」
乾いた笑い声が狭い室内に鳴り響いた。彼はいつまでもいつまでも笑い続けていた。笑い続けていたかった。
その時だった。彼の背後にぼんやりと佇む影が、急速に形を成していった。それは黒衣の男の姿を成してその場に現れるや否や、笑い続ける幽玄斎の背後から迷い無く苦無を突き刺したのだった。
「ご、ごぉっ!! ま、まさか……お前は!」
それには答えない影、暗殺者クロガネ。目から流すのは血に染まった涙だった。短剣から滴る血には、ドス黒い秘毒が混じっていた。
「お、お前! 分かっているのか? お前の体は私の力で繋ぎ止めてあるのだぞ! 私が死ねばお前も……」
「是非もなし。お前は約束を破った。大義の為に個の力を振るう、俺の誇りを裏切った。それだけが俺達の契約だったはずだ」
「馬鹿を言うな! 早く解毒しろ! 手遅れになる! お前のチンケな暗殺などで世界を変えられる訳があるか! さっさと目を覚ませ」
暗殺者クロガネはそれを聞いて自嘲気味に皮肉な笑みを浮かべると、目を細めて深々と頭を下げた。
「部族を追われた俺の命を助けてくれたこと、本当に感謝している。全てを失った俺に、生きる意味を与えてくれたこと、本当に感謝している。無意味な戦争を終わらせて、平和な世界を作る。その為に力を貸してくれと言ってくれたこと……まやかしであったとしても、本当に嬉しかったよ。その為に全てを捧げようと思った。結果はこうなってしまったが、生きる意味を感じる事が出来た。……本当に素晴らしい日々だった」
「この……屑が! お前など1銭の価値も……」
「今のお前は、かつての幽玄斎様ではない。決してな。その意味など俺には知る術はないが、せめて先に行っているよ。あちらでゆっくり話を聞くとしよう」
「が……ハル……あれは……アガナは……全ては……約束の場所への鍵は……申し訳ない……“主”よ……」
クロガネの耳には既に言葉は届かず、にっと独り僅かに微笑むと、躊躇いなく短剣で自らの頸動脈を切断した。天井まで血流は飛び、一瞬で彼の意識は失われていった。同時にのたうちまわる“彼”の姿もまた、深淵の闇に溶けていった。
残ったのは、いつもの闇。ただそこにあるだけの闇。その奥で、誰かが笑ったように見えた。だがもちろんそこには何もない。それが闇。そして、訪れる途方もない静寂。
黒龍屋総本店地下。
徐々に体を再生しながら、藤兵衛は静かに思案に耽っていた。長い長い時間、実際はたいした時間ではなかったのかもしれないが、今の彼にはとても長く感じられた。彼は横たわり、ただぼんやりと考えていた。何をと言うわけでもなく、灯っては消える瞬きを漠然と自らの内に留めていた。
そんな時、背後から聞き慣れた足音。コツコツと急ぐ靴の音が耳に優しく感じられた。藤兵衛は即座に思考から覚めると、キセルを取り出して火を付けた
「おお、シャルや。そちらの首尾はどうじゃ?」
透き通るような白い肌に腰まで伸びる黒髪、肩から足先まで漆黒のドレスを着込んだ、美しき魔女シャーロット=ハイドウォークが、目に涙を溜めてそこに立っていた。
「無事……だったのですね。本当に……本当に心配しました」
ばっと彼に飛び付いたシャーロットは、涙を流しながら強く強く抱き締めた。自身の胸から流れる血が衣服を赤に染めるのを目にし、彼は優しく微笑んで彼女の肩を掴んだ。
「汚れてしまうぞ、シャルや。いつもと違って普通の衣服じゃろうに」
「そんなの気にしません! 私はへっちゃらです。それより『ベール』は役に立ちましたか?」
「うむ。勿論じゃて。お陰で焦げる程度で済んだわい。いやはや、シャルがおらなんだら死んでしまう所じゃったわ」
「よかった……本当によかった!」
更に強く抱き締めるシャーロット。ほんの少しだけ逡巡しながらも、すぐに同じように抱き締める藤兵衛。暫しの間、時間が止まったように、そのまま互いを感じ合う2人だったが、いつしか藤兵衛の方が苦しそうに根を上げた。
「お、おおシャル。気持ちは有難いが、ちとまだ痛くての。ほれ、血も止まらんわい」
「……嫌です。離しません。それに今朝の藤兵衛の方が乱暴でしたよ。無理矢理服を脱がせて、力尽くで裸にして。そう言えばあの時も血が……」
「あ、阿呆が! 何の話をしておる! 人聞きが悪いわ!」
「ふふ。ダメです。離しません。ずっとです」
2人のいつもの時間が流れた。暖かく、柔らかい時間。藤兵衛は胸元にいるシャーロットの頭をそっと、何も言わずに撫で続けた。
「仇は……討てましたか?」
シャーロットのふわりとした声には、微かな緊張の色が潜んでいた。藤兵衛は片方の手で自分の頭を軽く掻きながら、穏やかに済んだ声色で告げた。
「……さあての。仇がどうとか、何かが片付いたとか、そういう事は正直分からんわ。結局は……古い知人をまた1人失った。それだけかもしれんの」
時間がゆっくりと流れていった。2人はいつまでもそこで抱き合っていた。その間を、どこか遠慮がちに不思議に輝く石がするりと飛び込んで、藤兵衛の心臓にそっと収まっていった。
神代歴1279年7月。
こうして戦いは終わった。残された問題は山積みではあったが、それでも一つの大きな戦いが終わりを告げた。穏やかな安堵感と、仄見える破滅の予感を風に添えて。
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