第47話「最強の侍」

 コロシアム地下。

 入場門へと続く地下の細い通路を、凛として進む高堂亜門。光の射す方へ物怖じ一つ見せず進む彼の背からは、得も言われぬ風格のような気迫が漂っていた。両脇に侍る衛兵にもそれは伝わり、彼らは極度の緊張から全身に汗を滲ませていた。

 やがて、目的地の門に到達した時、彼らの前に1人の男の姿が見えた。だらんと壁に寄りかかり、この見世物の責任者たる遊山が、実にわざとらしく欠伸をしながら立っていた。艶のある黒髪をくるりと腰のあたりで束ね、鼻にかけた丸メガネに軽く手を当て、彼は幾分芝居がかった不機嫌さを携えて亜門に声をかけた。

「遅いな。私は待つのが何より嫌いでね」

「申し訳ありませぬ。ちと野暮用がありまして」

「……ふうん。まあいいさ。ところで、自信はあるんだろうな? 何せお前の試合に全てがかかっているんだからね」

 遊山は余裕綽々とした口調で、小馬鹿にするように話しかけた。だが亜門は全く気にすることなく、いつも通りの快活に笑いながら答えた。

「はっはっは。心配ご無用でござるよ。己はいつ何時も絶好調ですからな」

「……はぁ。実に頼もしい話だ。間も無く開始だが、その前にここのルールを伝えておかねばな。とは言っても何も難しいことはない。目の前に現れた者を斬ればいい。だが、今回はまずお前の力を存分に示してもらい、その後にある者と1対1の決闘となる。簡単に言えば幾戦かの前座の後に、標的と戦ってもらう。1度舞台に上がったら、お前か標的のどちらかが死ぬまでは終わらない。それで構わないな?」

「戦場と変わりませんな。何一つ問題ありませぬ」

 顔色1つ変えない亜門を見て遊山は満足そうに頷くも、急にふっと険しい顔になって腕組みをした。

「それはありがたい。だが私は、まだお前を心の底から信じてはいない。雪之丞の推薦とはいえ、窮地に陥ったら逃げぬとも限らんからな」

「莫迦な! 己は決して逃げぬでござる! 秋津の誇りにかけて誓いまする!」

「弁舌だけなら何とでも言えるさ。私の信頼を得るために、お前は今から2つのものを預けろ。友人の命と、お前の魂だ。友人とは他でもない進藤雪之丞、魂とはそこの腰に差さる小刀のことだ。お前が逃げたらその両方を奪う。秋津の侍は自らの刀こそが魂と聞く。とは言っても刀がなければ戦いは出来まい。なのでそちらの小刀を、この戦いの間だけ預かろう」

「そ、それは……嫌だと言ったらどうなるでござるか?」

「別に何も。お前は安寧を得て、私は面子を失う。そして奴隷を解放することは未来永劫起こり得ない。ただそれだけだよ」

 亜門は一旦目を瞑り、今の話についてしかと考えを巡らせた。しかし、考えるまでも無かった。もう既に退路は絶たれているのだ。彼は瞑想にも近い閉眼の時間を経て刮目すると、いやらしい笑みを浮かべる遊山に向けて鋭い気迫を放った。思わず尻餅をつき慌てふためく中、彼は真剣極まる表情で言った。

「な! お前何を……」

「分かり申した。其方にお預けするでござる。ただし、この刀は尊敬する方より預かった大切なもの。終わったら必ず返して下され。……もし雪之丞と刀に何かあらば、其方の命はここで確実に散る。そうお考え頂ければ幸いにて」

「も、もちろんだ。私は約束を破ったことがないのが自慢でね。さ、もう行くぞ。皆が待っている」

 亜門の迫力に完全に圧され、遊山は震える手で刀を奪い取ると、そそくさとその場を後にした。彼は目を細めて大きく深く一呼吸吐くと、確固たる足取りで歓声飛び交う戦場へと足を進めていった。


 一方、コロシアム外。

 入り口は衛兵により封鎖され、周囲には厳戒態勢が敷かれていた。忙しそうに動き回る彼らの間に、1つの暗い影があった。周囲の人間はそれには気付かなかったが、深いヘドロのようなその影は、ぴったりと壁に張り付くようにその場を離れずにいた。

 やがて兵士達の眼を盗むように、影はするりと形を成した。現れたのは漆黒の男だった。髪の先から足先まで、闇を体現したが如き装束を身に纏い、どろりと濁った赤い目からは迸る殺意が発せられていた。

 彼は壁沿いを気配を殺し裏門へと出ると、そこに1人佇む老人の側に寄っていった。大柄な老人だった。筋肉質で傷だらけの身体を壁にもたれ、老人は気さくな微笑みを浮かべて、黙ってまま彼を見つめていた。影はそんな彼の耳元まで近付くと、口を動かすことなく言葉を短く発した。

「不審無し。警備を続行する」

 すぐにまた闇に消えていこうとする影に、老人はよっこらと声を出して座り込みながら、快活な笑顔で親しげに話しかけた。

「ダッハッハ! 精が出るのお。そこまでせんでも早々奴らは来れんけえ」

 その言葉を受けて、ぴくりと影がその場に止まった。彼は周囲の影を巻き込みながら、警戒を絶やすことなくぼんやりと1つの形を成していった。

「ガンジ、それは軽率だ。来るか来ないか分からないのなら待つ。俺が主から与えられた仕事はそれだけだ」

「お前さんは相変わらず固いのお。あの狂人の何がよくてそんなに忠実に従ってるか知らんが、ちったあ肩の力を抜いてもよかろうに」

 そう言ってまた明るく笑うガンジに、ぴくりとも表情を変えずに返す影の主クロガネ。

「主には恩がある。それに……あの方の“力”は、俺が求めるものと同類だ。ならば黙して言うことを聞くしかあるまい」

「義理堅いことよ。しかし奴らも哀れじゃあ。この警護の数を見よ。国中の兵がここに集まっておりそうじゃのお。しかもワシらもいるときた。ま、気を負うことはないけえ、ワシは酒でも飲みながら待つとするかのお。ダッハッハッハッハッハ!」

 そう言って豪快に笑うガンジ。その言葉とは裏腹に、背中から猛烈な闘気を放ち続ける彼を見て、クロガネはふっと小さく笑った。

「……あんたは変わらんな。出会った頃からからその感じのままだ。俺は眷属では新参だが、あんただけは他の連中と違うように思うよ。何というか……人間らしいところがある。気に障ったら申し訳ないが」

「ダッハッハ! 人間、ときたか。……ある意味では1番遠いかもしれんがのお」

「? それはどういう意味だ?」

「いや、何も気にすることはないわあ。そうじゃな、ワシは確かに他の使用人達とはちと違うかもしれん。ハイドウォーク家当主の言葉に全面的に従うのは今も昔も変わらんが、それだけではないけえの。ワシにはワシの信じる道があり、その道を違えたことはない。ただそれだけじゃあ」

 ガンジの言葉には、矜恃にも似た得も言われぬ力が込められていた。クロガネはその力強さに内心驚きつつも、ふっと自嘲気味に息を吐いた。

「……分からんな。俺には分からん。国を追われ、あの人を信じるしかない俺にはな」

「いや、ワシとて同じよ。しょうもないしがらみに縛られ、何処へも行けぬ男じゃあ。師匠がよう言っとったわ。『君は自らに縛られてる』とのお。あの時はまるで意味が分からんかったが、今なら理解できるわあ。ったく、ほんにワシはつまらん男じゃけえの」

「……あんたは一見分かりやすそうで、その実てんで分からないな。1度ゆっくり話を伺いたいものだ」

「そうじゃのお。後で酒でも酌み交わしたいもんじゃあ。まあ暫くは無理じゃろうけどの。……さて、そろそろ始まりそうじゃな。よかったら一緒に眺めようや。この国の終わりの風景をの」

 そう言って目を細めるガンジに、クロガネは真顔に戻って闇力と殺気を滾らせながら尋ねた。

「……あんた。一体何を考えている? 今から何が起ころうとしているんだ?」

「ありゃ今朝のことじゃあ。ワシが遊山に呼ばれて屋敷に行った時、1人の男が訪ねて来たんじゃ。まったくもって思いもよらぬ者がのお。……誰だか分かるか?」

「あの傀儡の所には、黒龍屋の甘い汁を吸いたい害虫が集まってくる。だが口調からして、どうもそういう輩ではなさそうだが……」

「漆黒の着流しに、黄金の蛇の刺繍。垂れた細い目の奥に胡散臭い笑みと作為と思案を込めて、さも当然のように現れたのは……まさかのワシらの最大の

標的、金蛇屋藤兵衛じゃった」

「な、何だと?! 何故その場で捉えなかった? まさか……あんた裏切ったのか?!」

 クロガネは怒りに燃える声と共に、懐から無数の苦無を取り出して戦闘態勢へと移った。しかしガンジは悠然とそれを受け流し、くるりと彼に背を向けた。

「まあ落ち着けや。話はそう単純でもないわあ。ともかく今は舞台を見るしかないけえ。さ、来るんじゃ」

「待て! あんた何を知っている!」

 風を纏い壁を駆け上がるガンジを追って、クロガネも影を伝いその跡を追った。時は来たりて、舞台は整う。そして、物語は最終地点へと向かっていった。


 コロシアムの舞台に上がった亜門を待ち受けていたのは、彼自身思いもよらぬ大歓声だった。確認出来ただけでも1000名を超える観客が、円形に囲われた観客席から食い入るように彼の登場に歓喜していた。身なりからして高い身分の者であろうか、老若男女問わず人々は興奮の声を上げ、場は異常な興奮ち包まれていた。

 観客席の一角、最上部付近には特等席が設置され、そこには貴族らしき身分の者たちが優雅にグラスを傾けていた。そしてその中央に鎮座するは、他でもない黒龍屋幽玄斎だった。目が潰れるほどに純白に輝くスーツを、だらりと艶のある黒髪で覆い、一見すると風雅な文化人風にも見える気品を漂わせつつも、その瞳孔は開き切り正気は失われていた。彼は周囲の雑音を涼しく耳から耳へ流し、いやらしく口を曲げて、静かに階下を眺めるのみだった。

 そんな彼の元に、案内を終えた遊山がゆっくりと上がってきた。道化じみた大袈裟な動きで一礼をし、階下を見下ろす彼に悠然と告げた。

「父上、全ては絵図通り整いました。後は進むのを待つのみです」

「……ん? ああ、そうか。お前もいたんだっけね」

 幽玄斎はその方向を振り向くことなく漠然と言葉を返し、濁り切った瞳で亜門を捉え続けていた。

「まったく……のこのことよく来れたものだよ。脳が詰まっていないのかな? しかしだ、ああいう阿呆ほど手に負えぬものはない。狂人には理屈が通用しないからね」

「そうでしょうか? この通り厄介な呪術刀も、少し脅しをかけただけであっさりと手渡しました。注意すべき点は何もないかと」

「……緩いなあ。その答えはただ一つだよ。あの侍くんは、お前のことなど歯牙にも掛けていないってことさ。お前は本当に私の息子なのかい?」

「………」

「まあいい。お前など一寸たりとも当てにはしていないさ。後は私に任せて遊んでいなさい。さ、絶望のショーが始まるよ」

「……はい」

 その会話が終わるか否かという時に、壇上に1人の男が現れた。場に似つかわしくない正装の礼儀正しい振る舞いのその男は、ゆっくりとした足取りで現れると、周囲を見渡し間をたっぷりと置いてから、腹からの大声で捲し立てた。

「さあ、皆様方。実にお待たせしました! お待ちかねのショーの準備が整いました。今回はいつもの見世物とは趣が異なります。当ダールの議会長、神立遊山様のご推挙により、遠く東の果てに位置する秋津国最強の戦士、侍と呼ばれる男の登場です。さあ、盛り上がっていきましょう!」

「いいぞ! 秋津の血に飢えたケダモノの登場だ!」

「まあ、見てごらんなさい。あの無粋な顔ったら! 血に塗れた野蛮人そのものね」

「パパー! 怖いよー。僕食べられちゃう!」

「しっ! 目を見ちゃダメだよ。パパのそばを離れるんじゃない」

  歓声と狂騒、そして好奇の視線がが雨のように降り注ぐ中、亜門は1人臓腑の端を噛み締めていた。予想はしていたとはいえ、こんな見世物になる所以はない。怒りが心頭に込み上げてくるのが分かったが、彼はじっと耐えた。そして、思い出した。彼の主たる男が掛けてくれた箴言を。

『ケヒョーッヒョッヒョッヒョッ! 如何に笑われようが、無様に地を這おうが、最後に宝を手にした者の勝ちよ!』

 亜門はそんな彼の姿を思い出して、ふっと小さくほくそ笑んだ。そう、今の彼には大義があった。ここで自分が爆発しては、様々なことが台無しになってしまう。血が出るほどに強く拳を握り締めながらも、彼は平然とした表情を浮かべていた。

(殿なら……こんな時でも悠然と笑ってらっしゃったでしょうな。あいにく己は生粋の武人、そこまで思い切ることは出来かねますが、少しは殿を見習った甲斐がありましたかな?)

 静かに“その時”を待つ亜門。彼の繰り返す独特の呼吸法は、波紋のように空気を震わせていた。そして、歓声と興奮が頂点に達しようという時、勢いよく彼の向かいにある鉄製の扉が開いた。

「さあ、第1の刺客の登場だ! 果たして秋津の血に飢えた獣は、本当の猛獣より強いのか? 皆で確認しようじゃないか!!」

 扉の向こうから凶悪な唸り声が鳴り響き、コロシアムの弛緩した空気を一気に切り裂いた。見上げた亜門の視線の先にいたのは、全身に殺気を纏わせた一匹の猫科の猛獣だった。しなやかな筋肉の詰まった全身を金色の体毛で覆い、その巨大な爪先は鋼すら引き裂いてしまう程の力が込められていた。

「玄武の門より登場せしは、南はスザク国から連れてきたライオンのぴょん太君です! かつては草原の王として君臨していた彼を捕まえるのに、30名以上の奴隷が命を落としたとか。かれこれ3日ほど食事をしておりませんので、見ての通りやる気満々です! さあ、秋津の獣はどう出るか! 皆様には長らくお待たせしましたが、いよいよ第1ラウンドの開幕だ!」

 彼の解説すらも耳に入らず、観客の興奮は加速度的に高まるばかりだった。彼らは遊山の命により、この戯れを1月もの間禁じられていたのだ。刺激に飢えに飢え続けている彼らにとって、喉から手が出るほど待ち侘びた久々のショー。どちらが死ぬか、生き延びるか。彼らの脳内物質は流れ続ける一方だった。

 一方の亜門は、そんな彼らを嫌悪を込めて一瞥した後、哀れみの視線を目の前の獣に向けた。唸り声を上げ続け今にも自分に襲いかからんとする彼を見て、亜門はじっと自らに問う。何の罪もない哀れな生き物、生きるも死ぬも他者に委ねられた存在。亜門は自身を彼に投影する。その牙を、爪を、自らに重ね合せる。そして、深く胸の中で合掌してから、亜門はゆっくりと刀を鞘に仕舞った。

「おおっと、どうしたことでしょう? 侍は戦意喪失か?! 幾ら何でもこの猛獣は手に余るか? 侍はこのまま肚の中に収まってしまうのか?!」

「ふざけんな! さっさと戦え!」

「いやぁ! 食べられちゃう! 早く逃げて!」

「パパー。お侍さんが危ないよ! 兵士さんに言わなきゃ!」

「ハハハ。心配いらないよ。悪い獣がこっちに来ることはないからね」

 だが、実際に戦意を失っていたのは猛獣の方であった。彼は怒っていた。住み慣れた故郷から無理矢理に連れてこられ、家族から引き離された一連の理不尽全てに。そして、久方振りに目の前に現れた食料に歓喜した。彼は知っていた。目の前の生き物が極めて脆弱で、一対一では負ける余地など無いことを。自分がほんの少し撫でるだけで動かなくなるという事実を。

 だが……彼の本能は彼自身に必死で警告を告げていた。目の前の小さく弱い筈の生き物に対し、魂魄の芯が震える程の激しい鼓動を繰り返していた。『今、そこにいる存在は、お前を容易く惨殺し得る』と。

「……伝わったでござるか、ぴょん太殿。ここで命を粗末にするは無為ぞ。その場から一歩でも前に進めば……斬る」

 脅しではなかった。男から発せられる凶悪な殺気を首元に感じ、すぐに舌の上を流れ始めた多量の汗に気付き、彼はそっと後退りを始めた。自然の世界に生きる彼にとって、本能とは絶対的な指令を意味していた。そこには誇りや意地など挟む猶予など存在せず、生存の為の最善の行動を取るのみだった。そう、この場でなければ。あの男さえいなければ。

「ふうむ。流石だ。でもこうなってしまうとつまらないね。観客も退屈しているよ。どれどれ、1つ“手助け”をしてやるか」

 階上からどろりと垂れる闇の塊。即座に察知した亜門は咄嗟に後方に飛んで避けるが、狙いは彼ではなかった。闇の手はヘドロのように猛獣の体を包み込むと、ぐにゃりと形を変えて彼の内部まで浸透していった。しかし観客は一切気付くことはなく、ただ亜門のみが怒りにその身を焦がしていた。

「おのれ……一度ならず二度までも! 許しはせぬ!」

「はは、ははは! いい顔だ! 実に素晴らしい! やはり君は素晴らしいよ! 藤吉ほどではないにせよ、本当に類稀な“素質”を持っている。その顔……私はもっと見たいよ! さあ、早く! 早くううううううう!!!」

 一際どろりと闇が弾けた。と同時に猛獣の目の色が邪悪に染まった。既に自意識を失った彼は、唸り声を上げて亜門を目掛けて特攻していった。待ちに待った瞬間に湧き立つ群衆とは裏腹に、彼は小さく舌打ちをしてゆっくりと、それでいて渾身の力を込めて刀を抜き打った。

「……美しい」

 幽玄斎のその言葉と共に、2つの影が交差した。猛獣はしなやかに筋肉を躍動させて一気に距離を詰め、微動だにしない侍の頚椎に飛び付いた。刃物でも太刀打ち出来ぬほどに磨かれた牙が亜門を襲い、鮮血が花弁のようにコロシアムに舞い散った。

 観客の想定では、猛獣に喰い千切られる哀れな男の姿がそこにある筈だった。しかし、その結末を確認した彼らは言葉を失うばかりだった。男は立っていた。いつの間にか抜いた刀の血を服の袖で拭い、警戒心を解くことなくその場に構えていた。その左右には、完全に両断された猛獣が痙攣しながら横たわっていた。まさに一刀、その名通りの一閃。やがて遅れて戸惑いがちに降り注ぐ歓声。だが彼はそんなことを歯牙にもかけず、怒りを心中に収め一言だけ放った。

「……次」

 余りの美技を目の当たりにし、階上の貴賓席でも歓声が湧き上がっていた。その中でも際立つ気色を見せていたのは、嬉しそうに目を細めて1人呟く幽玄斎だった。

「いい! やはりいいよ彼は! 何の力も使わずにあの通りだ。恐らくは居合とかいう秋津の技術だね。素の実力だけ見ても、大陸中で比肩し得る人間はそういなんだろうね。実に素晴らしい人材だよ! いろいろ吹き込んでシャーロットを襲わせた甲斐があったよ! それでこそ藤吉の右腕だ!」

「……正直、目にも止まりませんでした。あれが秋津の侍ですか。噂には聞いておりましたが、まさかこれ程とは」

 遊山は心底驚いた面持ちで亜門を見下ろしていた。その姿に目もくれず、幽玄斎は闇を込めた人差し指を軽く立て、亜門に向けて突き出した。

「ん? 居たのかい? はは、ははは。本当に面白いことを言うね。お前は既に“アレ”を見ているじゃないか」

「ああ、あの化け物のことですか。あんなもの只の……!? も、もしや今回の敵とは!? ガンジを使うのではなかったのですか!」

「まあまあ。それはお楽しみさ。考えてもみなよ。これ程の強者がね、人生の全てを武に費やした怪物がね、逃れられぬ絶望の泥に塗れる姿などそうそう見れるものではないよ。いやあ、愉快だね。早く始めたいのは山々だけど、何事も溜めた方が気持ち良いからね」

 心底愉快そうに蕩けた笑みを浮かべる幽玄斎。実の父の邪悪に染まる姿に、遊山は背筋を伝う悪寒を隠し切れなかった。

「ところで、藤吉の姿はまだ確認できないのかな? あいつは必ずここに来るよ。何を賭けてもいい。これだけ派手に花火を上げて、更にお膳立てもしてあげたんだ。あいつなら必ずここに到達するよ」

「今の所は何も。この調子ですと既に逃げ去ったのでは? 失礼ながら、父上は彼を買い被り過ぎかと存じます。何せあの男は……グォッ!!」

 不意に見えない力で壁に叩きつけられる遊山。彼の全身をどす黒く赤みを帯びた闇の塊が、渦のように纏わり付いていた。闇はみしみしと彼を締め付けて、今にもちぎり飛ばさんばかりだった。

「お前に! お前なんぞに藤吉の何が分かる! お前みたいな出来損ないが! しかもよりによって呼び捨てにするとは! あいつは私のものだ! 私だけのものだ! さてはお前もあいつのことを……許さん! 薄汚い売女の血が! 奴隷の子の分際で! この場で汚れた内臓を吐き出させてやる!」

 天地引き裂かん程の激情が、更に闇の締め付けを強くした。口から反吐を吐いて、声も出せずに苦しがる遊山。だがそんなものはまるで眼中にない幽玄斎。いや、今の彼はここにいる何物をも目に入っていなかった。眼は中空を虚しく彷徨い、ここではないどこかを、彼の思考の中にしか存在し得ない1人の男の方を向いていた。

 そして、遂には遊山を弾け飛ばさんとする闇の握り拳に、決定的な力が込められようとしたその時、舞台で異変が起こった。血塗れの侍、高堂亜門が殺気を真っ直ぐ階上に向けたのだった。観客が揃ってぞくりと背筋を震わせる中、幽玄斎もその迫力に圧され、反射的に身を捩り攻撃の手を止めた。やっとこの事で解放された遊山は地面に倒れ込み、苦しそうに肩で息をしていた。

「……参ったね。随分と余裕じゃあないか。まあいいさ。次はそうは行かないからね。さあ、おいで。私の『闇人形』よ。彼を存分に追い詰めてあげなさい」

 幽玄斎は平静極まる表情で、くんと指を曲げて闇力を高めていった。どす黒い闇が彼の体から放たれ、もう一つの門の先へと糸のように伸びていった。亜門は注意深く様子を伺いながら、静かに心中に想いを手繰った。戦場にいる時はいつもそうするように、集中を全体に広げつつも、深く自らの内に潜っていく感覚。

(……ここからにござるな。この高堂亜門、生涯最大の舞台ぞ!)

 闇のうねりを肌に痛い程に感じながら、男はそっと目を瞑る。軋んだ開門の鈍くけたたましい金属音と共に、闇が渦巻く激戦が始まった。


 ダール中心部付近。

 風が唸りを上げてコロシアムに近付きつつあった。

 写す影には2つの姿が重なり、暴風にも近い速度で地を駆け抜け、周囲の物や人を吹き飛ばしながら一路コロシアムへと向かっていた。

「ち、ちょっとレイ! どういう速度なのよ! このままじゃ吹き飛ばされちゃうわ!」

 小柄な金髪の少女が必死にしがみ付く先には、しかめ面の大女が筋肉を弾け飛ばさんばかりに怒張させていた。

「あ? しゃあねえだろが! 急がねえとアホ侍か死ぬぞ! 例の話聞いてたろ?」

「そりゃそうだけどさ、物には限度ってのが……キャアアアア!!」

 リースのに耳も傾けず、レイは更に速度を上げた。水平に吹き飛ばされそうになる彼女を左手で受け止め、レイは今日何度めかの大きなため息を吐いた。

「また例の件? あんなの気にしてもしょうがないじゃない。もうなっちゃったことでしょ?」

「気楽に言いやがるがよ、いくらなんでもお嬢様のあの態度はなあ……」

「まあ仕方ないでしょ。ずっと2人っきりだったんだから。もうやることやっちゃったんじゃない?」

「気分悪いこと言うんじゃねえ! お嬢様があんなクソに抱かれるなんざ、考えただけでヘドが出らあ!」

 2人は思い出していた。今朝、久し振りに会った際の藤兵衛とシャーロットの空気感を。見ている方が照れ臭くなる程にいちゃつき合い、何より当の本人たちはお互いまるで気にしていないことが問題だった。言葉を失う2人を他所に、藤兵衛は極めて冷静に状況を分析し、論理的で的確と思われる作戦を一堂に告げた。その変わらなさが、余計にリースを混乱させ、レイを苛立たせた。横で嬉しそうに彼の肩にもたれかかるシャーロットの態度も、それらを後押ししていた。

「まあでもさ、お似合いじゃないかしら? よくあるでしょ。いい女に限ってクソみたいな男に引っ掛かるって」

「クソにも限度があらあ。ったく、あんなコエダメ野郎によくもまあ。お嬢様の世間知らずにもほどがあんぜ」

「いいじゃないの。恋愛は自由よ。ああ、あたしも恋の一つもしてみたいわ」

「ハッ! いちおう候補はいんだろうが。今から向かう先にいるアホ侍がよ。ま、てめえからしたらあんな童貞は……」

「……そうね。考えてもいいかしら」

 思いもよらぬその発言に、レイは驚きのあまり速度を僅かに緩め、ぎょっと目をひん剥いて振り返った。リースは不思議そうに見つめ返すと、至極当然とばかりに言った。

「なによ。べつにいいでしょ。亜門くん、よく見るとかっこいいわよ」

「お、おめえ……マジで言ってんのか?」

「さあね。どっちでもいいけど。でもなんにせよ、このままじゃマズいわね」

「……ああ。たしかにあいつは強え。戦闘においちゃ頼もしい限りだが……それ以外はすこぶる甘え」

「うん。馬鹿みたいに真っ直ぐだからね。敵は悪意の塊みたいな奴だから、亜門くんとは相性が悪すぎるわ。あたしたちが助けないと。あの人はあたしの為に戦ってくれた。だからあたしも助ける。それだけよ。……今はね」

 凛と顔を上げるリースを見て、レイは満足そうに少しだけ微笑んだ。

「へっ。まあいいか。細けえこたあ任せたぜ。俺は暴れるだけだからよ」

「はいはい。いつも通りね。『安全装置』もあるから、レイのことは気にしてないけど、ほんとにシャルちゃんとクソ狸は大丈夫かしら?」

「平気だろ、きっとよ。平静を取り戻したあのクソなら心配ねえさ」

「そうかしら? もしあの時みたいに崩れたら……」

「心配ねえ。あいつはそんなタマじゃねえよ」

 迷い無くきっぱりと断言するレイ。二の句を告げさせぬ毅然とした態度に、リースは呆れたように、それでいていたずらっぽい笑みを浮かべた。

「ほんっと、レイは何やかんや言いながらも、あのクソ狸のこと信じてるよねえ。実は好きなんじゃないの?」

「……聞こえなかった。もう一回言ったら、たとえてめえでも殺す」

「あ! 照れてるう! 可愛いとこあるのね。まあでもレイにはあの彼が……キャアアアア!! と、止めてえ!!」

 風は周囲を巻き込み嵐となり、目前に迫るコロシアムへと突き進んで行く。そこに待ち構えるのが何であれ、戦士たちの意思は微塵も揺るぐことはない。

 決戦の火蓋は、間も無く切られようとしていた。


 コロシアム内。

 舞台の上には血塗れになりながら、ぜいぜいと必死に息を切らず亜門の姿があった。死屍累々としか表現できぬこの世ならざる惨状に、観客の興奮は高まり続けて、中には気を失う者もあった。

 次から次へと亜門の前に現れる物言わぬ傀儡達。彼は無心で刀を振るい、既に50人以上は切り捨てていたが、闇力で強化された彼らには疲れも意思も存在せず、ただひたすらに亜門の命を奪うべく前に進んできた。目の焦点も合わず、空のまま振り下ろされる刀に、亜門は慣れ親しんだ戦場とはまるで異質の危機感を肌で感じていた。

(無意識の刀……ここまで厄介だとは。意が読めねば剣筋が見えぬ!)

 亜門のような“達人”と呼ばれる段階の戦士にとって、戦場においては実際に見える風景よりも、目の前の者の気配、呼吸、意図こそが大切な要素だった。反射神経だけで戦い抜ける程に緩い世界ではなく、敵の意志を読んだ上でその裏を突くことが1番肝要であった。

 だが、その方法が閉ざされているのが現状。いかに亜門が歴戦の侍とはいえ、無作為に襲い掛かる敵の群れを易々と突破出来はしなかった。現に彼は全身に無数の手傷を追い、致命的な深手こそなかったものの、至る所から血流が流れ出ていた。

(いかん……このままでは……一度距離を取って………)

「アアアアアァ!!」

 一呼吸置く間も無く、群れを成して襲い掛かる闇人形。亜門は皮一枚の間合いで一気に避けると、深く呼吸を振り絞り、すれ違い様に痛烈な一撃を見舞った。

(この一撃で仕留める! 高堂流奥義『乾坤一擲』!!」

 亜門が神速で駆け抜けた後に残るは、胴体に真一文字の剣閃が走り、血飛沫と共にその場に崩れ落ちる闇人形達。派手な大技に観客は湧いたが、彼は腕に残る感覚に拭いきれない不安が過ぎった。

(この手応え、角度で両断出来ぬとは……やはり刀にガタがきておるでござるな。体力もかなり消耗している模様。このままでは………いや、何も考えまいぞ。戦場にて斯様な考えは黄泉路への近道。秋津の格言にも『迷いを言にて表さば鬼とて抱腹絶倒』とあり申す。今やれることを全力で行うのみぞ! 高堂流奥義『閃光神楽』!!)

 次々と襲い掛かる闇人形の一団に真正面から向かい、亜門は一瞬だらりと全身の力を抜いた。それを隙と捉え突進する彼らだったが、亜門の鋭い眼は獲物から一時たりとも離れていなかった。そして、彼らの牙が突き刺さらんとするほんの刹那、彼は軟体動物の如く身体をくねらせて、攻撃の回避と同時に舞うように敵を切り裂いた。遅い来る闇人形は急所のみを的確に切り裂かれ、彼の足元に更に死体が積み重なっていった。一瞬の沈黙の後に破れんばかりの歓声が広がり、司会の男が呆れたように叫び声を上げた。

「なんてこった! こいつは紛れも無い本物だ! 奴隷にしとくにゃ惜しいぜ! だけど……皆さんはご存知だろう? 俺たちはこいつに匹敵するくらい強い男を知ってる。そう、例のあの化け物さ! この狂獣とどっちが強いか、この場で決着をつけて貰おうぜ! ……さあ、それじゃ真打の登場だ! これが今日の最後の試合だから、目ん玉かっぽじって見逃すんじゃねえぜ!!」

 その声が終わるか終わらないかという時に、奥にそびえる最後の扉がぎしぎしと不安な音を立てた。そしてゆっくりと現れる1つの影。亜門は集中を切らすことなく、影の主をまじまじと見つめていた。不吉な犬を模した面で顔を覆ったその男は、全身を覆う紅蓮の甲冑の背に一本の刀を乱雑に携え、揺れる足取りでゆっくりと近付いて来た。背丈は亜門とそう変わらないものの、異様な風態からは無言の迫力が放たれており、圧倒的な威圧感で皮膚がひりひりと痛むほどだった。

 彼を目にした瞬間、亜門の記憶の中に不快な雑音が混じった。何処かで、ここではない何処かで、いつの日かこの光景を見たような……。

(迷うな! この者を仕留めれば全て仕舞いでごさる! 高堂流奥義『乾坤一擲』!!)

 亜門は自らの迷いを振り払うように、男の動きに合わせ高速で抜き打ちを放った。勢いの乗った鋭い剣閃は一撃必殺の斬撃と化した。疲労の境地にある彼が、全気力を以って放たれた一撃。並みの使い手ならば、いや、殆ど全ての人間には、かわすことはおろか身動き1つ出来ないであろう苛烈極まる一撃。

 しかし、男はさらりと、まるで太刀が当然そこに来ることを予測していたかのように、半歩下がって数ミリのところで凶刃を避けた。それだけではなく、彼は背の刀を神速で抜き打つと、亜門の動きに合わせて痛烈な斬撃を放った。思わぬ反撃に戸惑いつつも、彼は流れる水の如く足を動かし、すんでのところで致命傷だけは回避した。しかし抉られた胸は大きく裂け、止めどなく噴き出す血に観客は狂気の熱を上げた。

「キャアアアア! 遂に野獣が死ぬわ! 見逃しちゃダメ!」

「そうだ! 獣を殺せるのはバケモノだけだ! もっと血を見せろ!」

「パパー。お侍さんが痛そう。このままじゃ死んじゃうよー」

「はっはっは。泣くんじゃない。あの悪いケダモノはすぐに動かなくなるからね」

 今の亜門にはそんな声すら届きはしなかった。彼は敵の追撃を辛うじて避け、距離を取って獣の如き視線を向けた。熱く疼く傷が却って頭を冷やし、彼の集中を大幅に高めたが、それ故か脳内に浮かぶ迷いは深まるばかりであった。

(太刀筋が……読まれている?! というより今の動きは『閃光神楽』?! さすればあの構えは……!!)

 亜門は次の敵の動きから攻撃を一点に絞って、本能的な動きで頭を低く屈んだ。と同時に、彼の頭の上を痛烈な突きがかすめていった。次の瞬間、同時に後ろに飛び距離を取る亜門と男。

 ここに至り亜門は確信する。目の前の男は、間違いなく自分と同じ刀技を修めていることを。亜門の額をどっと冷や汗が流れ出た。自分の技は高堂家に伝わる秘伝。ならば……目の前の相手とは?!

 亜門は目を細め、“敵”の仮面の奥を食い入るばかりに注視した。その表情こそまるで分からなかったが、確かに光る眼光、そこから伝わるかつての記憶。そして胸から飛び散るように溢れる想い。

「ま……まさか! 其方はまさか!?」

 亜門の声は男には届かぬも、それを耳にした幽玄斎は階上で体をバタつかせ、狂ったような歓喜の声を上げた。彼は涎を垂らし目をとろりと濁らせて、声にならぬ叫びを臓腑から絞り出し続けた。

「はは、ははは! ようやく気付いたかい、秋津の刀鬼よ。お前の実力は改めてよく分かった。お前は間違いなく最強の人間の1人だよ。でもね、練磨と研鑽の結晶たる研ぎ澄まされた牙を、果たして自らの家族にも突き立てられるのかい? ああ、百戦錬磨の侍はどんな顔をして絶望するんだろう? 忠義とかいう一銭にもならぬことに命をかける男は、魂の秤をどう左右させるんだろう? 下らぬ誇りとやらを身体に括り付けたまま、惨めに殺されていくのかな? ああ、考えただけで……う、ううううううっ!!!」

「何と……何という話にござるか……己は……己は……うおおおおお!!」

 闇の胎動が激しく蠢く中、ダールの舞台を背景に、物語は更に加速していった。亜門は全てを悟り目を瞑ると、目の前の光景を破壊するが如く狂いそうな声を上げた。


 神代歴1279年7月。

 ダールの夜明けは遥か遠く、悪意と漆黒の原野が広がるのみだった。

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