第48話「因縁」
狂熱の宴。
ダールの夜を真紅に染める、篝火にくべられた人々の欲望。コロシアムで繰り広げられる風景を共有する老若男女は同じ狂気を胸に宿し、全身からどす黒い熱を発していた。
死地の中央に位置するは秋津国の侍、高堂亜門。年こそまだ若いが、秋津でも随一と謳われる、高堂流の刀技を修めた凄腕の使い手。全身には鋭き気迫が宿り、その精神力たるや燃え盛る火の中でさえ涼しい顔をするほどであった。
そんな死すら恐ることのないこの男が、今ここに至り、激しい動揺の色を隠し切れなかった。目の前に位置する、構えた刀の目の前にいる“敵”が、己のよく知る友であるということを。血は違えども、魂を分けた兄弟であるということを。信と義に浸した刀の収まる鞘であるということを。
「龍心……まさか本当に其方か?!」
力ない声に対する返答はなく、代わりに帰ってきたのは鉄塊。犬を模した仮面の下から激しい呼気が噴き出し、超高速の斬撃が亜門の首筋に水鳥の如く飛んだ。完全に反射神経のみで紙一重で後ろに避けた彼だったが、喉には真一文字にうっすらと傷口が血を滲ませ、同時に冷や汗が額を伝った。
目の前の男、高堂龍心は獣のように息を荒げ、血走った眼で亜門に殺気を向けていた。そこには親愛の情など一欠片も感じられず、ただひたすらに自らの内にある本能を撒き散らしているようだった。
「其方……正気を失うてござるか?! 己でござる! 高堂亜門でござるよ! 其方の……弟にござる!」
「グオオオオオオオ!!」
空気を切り裂く叫び声。そして振り下ろされる刃。咄嗟に回避した亜門の足元に、勢い余った刀が地面を抉り取った。
(完全に正気を失っているでごさる。原因は勿論……奴であろうな)
亜門の視線は階上の一部を刺し貫いていた。邪悪と漆黒が渦巻く一点、歓喜と享楽に溺れる黒龍屋幽玄斎を睨み付け、彼は唾をその場に吐き捨てた。
「おおっと! これは一方的か? バケモノ同士の戦いは仮面の男に軍配が上がりそうだぞ!」
いやらしく煽る実況、周囲の蔑みに満ちた歓声、幽玄斎の途方もない悪意。その全てが今の亜門にとっては煩かった。疲弊しきった体からは汗が滝のように流れ、血潮と反吐が体内からこみ上げて来る。そして目の前には、紅蓮に染まる強大な“敵”。
だが、彼の意識の中には、一定の律動で水滴が垂れていた。それは混迷と戸惑いを穿つ唯一の術。武に生き血でその身を洗う彼が、生涯で築き上げた1つの形。殺戮の世界で生きて来た彼が、ただひたすらに積み上げた精神の形。
「……応ッ!!」
気迫が、闘気が周囲の空気を巻き上げた。呼吸が止まるほど澄み切った圧が亜門の体から発せられ、気圧される様に足を止める仮面の男。そんな彼を真正面から見据えた亜門は中段に構え、空気を切り裂く鋭い声で告げた。
「……龍心。今の其方は“お前”では決してない! 先ほどから見ているが……何でござるかその太刀筋は! 大殿の教えは何処へ行った! 恥を知れ!」
観客の騒めきと戸惑いを背景に、仮面の男は狂ったように攻撃を繰り出した。だが亜門は先程までとは打って変わり、極めて冷静に、猛攻を紙一重で血だらけになりながら避け続けた。苛立つ刀は地を掬い周囲を切り刻むも、肝心の亜門を捉えることは出来なかった。
「……腰の切れは良い。踏み込みも及第点。腕も引けておらぬ。なのに……なのに、なんだその刀は! 技は! 魂がまるで込もっておらぬではないか! そんな鈍らで己を切ることなど一生出来んでござる! 其方など兄ではない。決して……己が命を賭して支える主では決してござらぬ。今から秋津の刀を、高堂の真の技を思い出させてやろうぞ。その身に刻むのだ!」
亜門はすっと刀を鞘に仕舞い、柄を握ったまま低く上体を屈んだ。両眼は念じるように閉じられ、全身を弛緩するが如く力を抜きつつも、静謐たる佇まいの内側から闘気が層となって纏わりついていた。
「おおっと、遂に観念したか?! バケモノ同士の対決もここで終了か?」
周囲を行き交う言葉は、この異形の侍には意味を成さない。だが、目の前にいるもう1人の侍の構えを見て、その静の極致とも言うべき威風堂々たる装いに、彼は何かを思い出そうとしていた。それは、遠い昔の風景。彼が秋津国の軍部の中枢たる、高堂家の嫡子であった頃の記憶。
「応ッ!」
気合の声とともに放たれる、目にも留まらぬ横薙ぎの斬撃。切っ先は男の眼前にある直径50センチほどの大木に刺さり、一瞬そこで止まったかに見えた。だが次の瞬間、刀は音もなくするりと抜け、驚くほど静かに水平に両断した。その跡には余分なものは何一つ残らず、大木はまるで自分が切られていることにも気付かぬよう、静かにその場に沈んでいった。
「す、すげえ! 流石は父上だ! 見ろよ亜門!」
背後で齢10ばかりの端正な顔つきの子供が立ち上がり、大木に駆け寄って歓声を上げた。刀を振るった極めて屈強な大柄の男は、高堂家現当主たる高堂龍牙は、威厳ある強面をくしゃりと緩ませ、あご髭を左手でさすりながら刀を鞘にしまった。
「ほら龍心! 危ないぞ! 倒れてきたら何と……ったく聞きゃあしねえ。まったく言葉遣いといい態度といい、誰に似たんだかよ。それに比べてお前は真面目だな、亜門」
目を輝かせ一心不乱に刀を振り続けるひょろ長い子どもに、龍牙は優しく声をかけた。彼は先ほどの龍牙の動きを真似、気合の声と一緒に目の前の小さな木に刀を振り下ろした。だが幼すぎる刀は小枝にすら容易く弾かれ、その勢いでどすんと尻餅をついてしまった。
「はっはっは! まだまだだな。無駄な力が入りすぎだぜ」
「い、今のは小手調べにござる! 己は家中の身ながら、恐れ多くも龍牙殿に毎日稽古をつけてもらっている身。これしき出来ぬわけが……ぐぉっ!」
恥ずかしそうに赤面しながらも、亜門は何度も何度も挑戦し、その度に弾かれて泥だらけになった。そんな彼のひたむきな姿を見て、龍牙は腕組みをし満足そうに笑った。
「まったく、お前はたいがい負けず嫌いだよ。真面目で勤勉なとこも含め、あそこの馬鹿兄にも見習ってほしいところだぜ」
「大殿! 己は高堂家の家中、ひいては龍心殿の刃となり盾となる身。兄などとは滅相も……」
そこまで言ったところで、龍牙は軽く亜門の頭を叩き、そのままくしゃりと頭を撫でた。彼はいつも多くを語ろうとしなかった。その分、全てを態度で示していた。それはこの日もまた同じであった。
「……亜門、よく見ておけ。この“技”は高堂の秘伝中の秘伝だ。今は出来ずとも、いつか必ず習得できる。お前なら出来る」
「は、ははあっ! 無論でござる! 己は必ずお家の為に……」
「そうじゃねえよ。俺は、お前に言ってる。堅苦しい喋り方も止めろ。これは……父としての命だ」
「と、とは言われましても……己はどうしてよいかわかりませぬ……せん」
急にぎこちなく固まる彼の様子を見て、龍牙は実に愉快そうに笑った。天に響くような豪快かつ朗らかな姿に、亜門は心の奥底まで満ち足りる感覚を覚えた。
「はっはっは! まあいい。けどな、お前はお前だ。それだきゃ忘れんな。……で、だ。こいつのコツはな、全身の脱力と呼吸。そして刀に魂を乗せる。ただそれだけだ」
「そ、そう言われましても。それが難しいのでござります。脱力しながら魂を? は、はて?」
その時、森の奥の方から激しい音が鳴り響いた。2人が目を向けた先では小ぶりの木が勢いよく両断され、得意げに笑う龍心の姿があった。
「なんだ、簡単じゃねえか。亜門よお、お前こんなんもできねえのか? ったくいつも偉そうにしてるワリに大したことねえ野郎だぜ」
「な! そ、そんな……先ほどは手を抜いていただけでござる! 今からしかと本気の己をお目にかけようぞ! ……応!!」
「……んだ、ダメダメじゃねえか。そんなんじゃウサギ一匹切れねえぞ。腰を使うんだ、腰を。だから志乃にも相手にされねえんだ」
「そ、それを今言うでない! ほら、また失敗したではないか! 其方が集中を切らしたせいでござるぞ!」
「『過ちを他者に擦れば穴3つ』だろ? ガタガタ言わねえでちゃっちゃとやってみろ」
「ぐっ! これだから其方は嫌なのだ! 今に見ておれ! 己は必ず追い抜いてみせるでござる!」
そう言って勢いよく刀を振る亜門。そんな彼を小突きながら、手取り足取り刀の振り方を教える龍心。龍牙はそんな彼らを見て、実に満足そうに笑った。
(いい子らだ。至らぬ所の多い己だが、子育てだけは間違ってはいなかったようだな。……再び戦乱が訪れようとしている。大陸も秋津もを巻き込んだ、黒い渦がすぐ側まで近づいている。餓鬼どもが大きくなる前に何とかせねば。次の時代に、此奴らが笑って過ごせる平穏を作らねば。龍心、亜門……父は必ずやり遂げるぞ!)
それは、あたたかな春の日。亜門の心の中に染み付く薄い光の色。そこから始まる絶望の連鎖、捻じ曲がった運命の輪の中を進むための灯火。そう、それは嵐の中を進むための灯。そう、いつも……いつも必ずそうだった。
そして亜門は再び目を見開いた。炎の如く目を怒らせ、鞘に当てた手を猫科動物のようにしなやかに握り、変わり果てた龍心の姿に向けて一直線に視線を送った。それとほぼ同時に、今迄緩慢な動きを繰り返していた彼が、亜門へ向けて一足飛びに近付いていった。その勢いは紅蓮の如しであり、一瞬の瞬きが身体を引き裂くは明白だった。
しかし亜門は動じない。彼の心は静かに岩を穿つ水滴の如く、確実に律動を刻んでいた。
(龍心……其方は己の兄であり、支えるべき主君。だが己は、この場にて其方を斬る! 魂無き肉体など、秋津では骸と同じにて。大殿……この不忠者をどうかお許し下され。何れ必ず報いは受けるつもりにござる。高堂流秘技………『明鏡止水』!!)
それは、一瞬の煌めきだった。今にも切り裂かされる寸前に見えた侍が、剣尖振り下ろされん一瞬で陽炎の如くゆらりと動いた。観客が揃ってはっと息を飲んだその次の瞬間、彼は迫り来る敵をすり抜けて五歩ほど前に移動していた。まるで状況が飲み込めない一堂。クロガネも、雪之丞も、幽玄斎ですら何が起きたか分からずに言葉を失っていた。“それ”を理解できたのは、この場ではガンジただ1人だった。彼は観客席の一角で腕組みをしたまま、余りにも静かで、余りにも完成された目の前の技に対し、一声だけ腹の底から唸った。
「美事……じゃのお」
そして、僅かな間を開け、場に咲き乱れる鮮血。異形の侍の刀を握る右腕が、折れた刃と一緒にことりと静かに地に落ちた。やがて腕だけではなく頭から身体までの紅蓮の甲冑が真っ二つに割れ、犬面の下からは血に塗れた高堂龍心の素顔が露わになっていた。
亜門は静かに後ろを振り返り、自らの刀の切先を確認した。根元から削ぎ落ちた鞘だけとなった愛刀に、そして己が斬った男に哀悼とも呼ぶべき複雑な視線を向け、ゆっくりと歩みを進めていった。
「大殿より授かりし刀を失ってしまうとは、己もまだ未熟。手応えも未だ完璧とは呼べぬ。だが……今の其方には十分でござろう」
血を噴き出して立ち尽くす龍心に、亜門は背中越しに言葉を、哀願にも近い声を出した。
「主君に刃を向けた己は反逆人。そもそも其方を守れなんだは己の責。如何なる罰でも甘んじて受けようぞ。だが……何か言ってくれ! 龍心!!」
その時、彼の声に反応する様に、龍心の瞳に光が宿った。彼は苦しそうに血を吐きながら、振り絞るように一言だけ呟いた。
「亜……門……?」
「龍心! ま、まさか正気に?!」
はっと顔を上げて振り返る亜門。素晴らしき奇跡を信じ、嬉しそうに駆け寄る彼を、龍心は笑顔で両手を開き迎え入れた。血に塗れた2人の心が触れ合い、暖かな気持ちが生まれていく。そう、それは奇跡。途方もない夢のような、甘く溶ける理想の果て。
そして、鮮血。訪れる、現実。
「ゴォッ!!」
貫かれたのは、亜門の胸。口腔から大量の血が流れ出て、一切止まる気配を見せぬその光景に、観客は挙って嬌声を上げた。彼はそれでも両腕で刃を掴み取り、体内に残された微かな龍力で必死に再生を試みるも、流れ込む闇力がそれを阻害していた。
苦しみもがく亜門の姿を視界の隅に、龍心は無機質な表情で虚空を眺めていた。その全身は幾層もの分厚い紅蓮の闇に包まれ、異形の甲冑の如く彼の心身を覆い尽くしていた。
そして、そんな2人を笑いを堪えきれず手を叩いてのたうち回る黒龍屋幽玄斎。彼は涎を流し、歓喜の狂笑を全身で表現し、文字通り床を這いずり回っていた。
「はは、ははは! なんて愉快なんだ! なんて痛快なんだ! 侍くん、確かにお前は世界有数の剣士だ。それは誰の目にも明らかだよ。でも考えてもみてごらん? たかだか1剣士の刃で切り裂いただけで、闇に浸された人間の意思を取り戻せるとでも? 私の術を切り崩せるとでも? メロウでヒューマニズムに溢れる、実に女子供が好みそうな物語だねえ。でも、これは現実。君のトモダチの脳は完全に破壊されているんだ。お前は何も出来ず、ただ主君に刃を向けた結果が残るだけ。挙げ句の果てに果実のように甘い判断を下し、絶望の中で惨めに死んでいく。ああ、なんて悲劇だ。私は、私は……もう我慢出来ませええんんん!! う、う、う、ううううううううううううっ!!」
闇がどくりと脈を打ち、龍心の周囲を包み込んだ。彼の異形は更に影を濃くし、コロシアム全体を包み込むかのようだった。いや、それは形容でも何でもなく、暴走する闇力が場の全てに襲い掛かり、貴賎を問わず全ての人々を飲み込み始めたのだった。
「いやあ! 何これ?! キャアアアア!!」
「パパー! 助けてえ!! ベタベタに食べられちゃう!」
「退け! 私は貴族だぞ! さっさとそこを退くんだ!」
そんな混迷の中、只1人舞台の上に視線を釘付けにし、龍心に闇力を注ぎ続ける幽玄斎。血走った目からは狂気、身を乗り出した全身からは歓喜、それら全てを入り混ぜた悪意の中で、彼は恍惚の絶頂に達しようとしていた。だが……その時!
さく。
それは思いもよらぬ音だった。彼の背後から、矮小な音を立てて貫く一本の刃。あまりにも突然に、あまりにも静かに、“それ”は行われた。そして、傷口から鈍色の波動が彼の中に広がっていった。
「こ、これは? 一体何だというんだ?」
独り言のように喚く幽玄斎の背後に立っていたのは、他でもない彼の一人息子である、神立遊山だった。その手の中で力を放つ刃は、亜門から取り上げた龍の力を込めし古刀だった。
「やれやれ。この程度で狼狽るなど、父上らしくもありませんな。この時を何十年待ったことか。さ、宴は終わりです。速やかにご退場を」
声にならぬ声で悶える幽玄斎。そう、宴は終わりを告げようとしていた。彼は内側に注ぎ込まれる異質な力の奔流に心身を焼かれそうになりながらも、必死に両腕で刃を掴み引き抜こうとした。だが、遊山はそれを笑顔で押し留め、闇力を封じられた幽玄斎は、ぐるりと180度首を回して血走る目で彼を睨みつけた。
「お前……自分が何をしているのか分かっているのかい? 冗談はこの辺にしておくんだ。今すぐ……これを抜きなさい。そうすれば……命だけは許してあげよう」
遊山はそれを聞くと、考え込むように一呼吸置いてから顔ごと鼻メガネを揺らし、狂気を込めて高笑いを浮かべた。それは目の前の父によく似た、異常性極まる笑みだった。
「はは、ははは。冗談を仰っているのは父上でしょう? この状況が読めぬほど耄碌しましたか? 私は明確に、自分の意思であなたを裏切っているのです。止めるわけがないでしょう」
グリグリと更に深く刃を突き刺しながら、再び遊山は狂的に笑った。その度に更なる力を押し込まれ、幽玄斎は苦悶の表情を浮かべ、同じ顔をした男に向けて憎しみを露わにした。
「……よく考えてごらん。お前には全てを与えたろう? この国も、富も、地位も。何も持たぬ絵描き崩れが大臣になれたのは、一体誰のおかげだと思ってるんだい? さあ、早く手を離すんだ。さもないと……」
「私はね、この瞬間をずっと待っていたんですよ。あなたが心から油断しきる数少ないこの瞬間を。あなたは私に何もくれなかった。いや……全てを奪った!!」
両者の言い争いは場に響き渡っていたが、階下の観客は舞台に釘付けになっていた上、不思議なことに兵が駆けつける様子はなかった。まるでその場だけが切り抜かれたように、2人の時間はその場に留まり続けていた。
完全に場を掌握したかに見えた遊山だったが、その姿に勝者の余裕は微塵も見られなかった。徐々に彼は全身にびっしょりと汗をかき始め、手は震え喉が救いを求めるようにゴクリと鳴り続けていた。更に、幽玄斎は階下から近付く足音を耳にすると、そんな彼を嘲るように一瞥し、勝ち誇った表情を作って言った。
「ほう。どうやら限界のようだね。まあ無理もないさ。見たところこれは神器と呼び得る品だ。お前のような出来損ないが扱える訳も無い。お前の策はとうに潰えている。どうやら運も私に味方したようだ。あちらを見てごらん」
彼が指差したその先には、古老の闘士ガンジがゆっくりと歩み寄る姿があった。筋肉で張り裂けんばかりの肉体をぐらりと油断なく蠢かせて、彼は状況を認識すると拳に力を込め、疾風の如く突進していった。
「残念だったね。もう少しだったのにね。出来損ないの屑にしては上出来だったよ。せめて絶望をたっぷり味あわせて死なせてあげるから、覚悟しておくんだね」
「……残念ながら、覚悟するのは父上の方かと」
瞬間、ガンジの拳が唸りを上げて突き刺さった。その矛先は遊山ではなく、幽玄斎の顔面だった。ぐしゃりと嫌な音がして吹き飛ぶ彼の顔面から声は発せられず、そのまま彼の身体は闇に溶けていった。遊山はそれを満足そうに眺め、穢らわしそうに拳を振るガンジに微笑んだ。
「お疲れ様でした。万全の登場、誠に感謝いたします」
「まあここまではのお。分身など幾らでも殺せるけえ。ここからはワシには読めんわあ。流れの中で判断するしかないけえ」
ガンジは僅かに眉を顰めてそう返すと、階下の状況を不快そうにちらりと眺めた。
「本体の正確な場所は不明ですが、例の場所の可能性は高いかと。一刻も早く状況を鎮静化して欲しいものですが」
「そりゃあ無理じゃな。奴の闇力はまるで衰えておらんけえ。あやつのことじゃ、何重にも保険と罠を仕掛けていよう。簡単に状況が変わりはせんわあ。それに……どうやら客も来てるけえのお」
ガンジの両眼には、階下を走る2つの影が捉えられていた。がっしりとした大柄の女と、彼女に抱えられた少女。2人は風の如く観客をすり抜けながら、最上階へ登る階段の前で少女はばっとコロシアムまで飛び降りた。
「リース! 手筈は整ってんのか? 早くしねえとあのバカ……マジで死ぬぞ!」
「あのさ、あたしを誰だと思ってんの? 任せて!」
コロシアムの状況を剣呑な表情で見つめるレイに、リースはウインクしながら短く返した。レイはふっと小さく笑い、最上階の敵に闘気を向けた。
「へつ。その言い方、誰かさんにそっくりだぜ。お嬢様だけじゃなく、てめえまであのクソに毒されてきたか。ったく……世も末だぜ」
「あんなのと一緒にしないでくれる! とにかく行くわよ! ……必ず、みんなで生き残りましょう」
「へいへい、っと。んじゃくれぐれも油断すんじゃねえぞ!」
そう言って2人は別れ、すぐに階上に駆け上がる風の音が聞こえてきた。警護の兵は一瞬で吹き飛ばされ、1つの影がガンジの目前に迫る。だが彼は全く慌てる素振りさえ見せず、白髪混じりの短い無精髭を軽く撫で、右手の親指で窓を指差した。
「……ここじゃ迷惑じゃけえ。付いて来いやあ」
「へっ。ずいぶんとお優しくなったもんだな。おミソ同士楽しくやろうじゃねえか」
2人はただそれだけ言葉を交わすと、全て分かってるかのように同時に別々の窓を突き破り、風を纏い闇夜に紛れていった。遊山はやや眉を顰めつつも、至極満足そうにその影を目で追った。
一方、コロシアム地上付近の柱の陰からその光景を見ていた男、暗殺者クロガネは、思いもよらぬ光景に唖然とするばかりだった。知らぬ内に進行する物語に戸惑いを隠し切れなかったが、すぐに思い直して鋭い視線を壇上へと向けた。
(……何が起きているか見当も付かんが、今俺のやるべきことは只1つ。あの時の屈辱を晴らすのみ。浄も不浄もその後だ!)
彼は標的をリースに定めると、そのまま闇の中に溶けていった。彼女は自らの矜持を奪った憎き女であると同時に、彼の心の中で膨れ上がる疑問を解き明かす鍵でもあった。心の中に2つの言葉が交差し、決して混じり合うことなくうねりを増していった。
(私はね、クロガネ。この世界を変えたいんだ。力無き民が無慈悲に蹂躙される今の世をね。その為にはお前の力が必要なんだよ)
(ボルオンをあんな風にしといて平然としてるあんた達を、あたしは絶対に許さない!)
そして、訪れる闇。彼の思考を断ち切る、深き深き闇。彼の意識はその中に溶け込み一つとなり、やがて意味を為さぬ塊へと変化していった。
「ハッ!!」
悪夢から醒め、飛び起きる幽玄斎。暗い闇に浸された室内に、ぜいぜいと彼の息が響いた。しかし彼はすぐに息を整えて思案に耽る。先ほど起こった現実、信じ難い悪夢にどう対処するか、そのことで頭が一杯だった。
「まさか……あの能無しが裏切るとはね。ああ見えてなかなか見所があるじゃないか。欲をかいてこの国を求めたか? 本気で私を殺せるとでも? ……はは、ははは! さて、どんな風に殺してやろうかな。どれ程の絶望を見せてくれるのかな? 実の父に縊り殺されるなんて、殺した筈の害悪に臓物を食い尽くされるなんて、こんな絶望は早々ないよ! ああ、想像しただけで……うっ! ううっ! ……うううううっ!!」
膨れ上がる闇力。彼を中心に柱の如く立ち上がる青暗く輝く闇のうねり。光1つ入らないこの部屋の中を、力の微かな残響が照らした。そこに一瞬だけ映ったのは、彼が愛して止まない金蛇屋藤兵衛のにやけ顔だった。
「!! と、藤吉?!」
見間違いかと目を擦る幽玄斎。その姿はすぐに闇の中に掻き消えたが、すぐに特徴的な低いダミ声が室内に響き渡った。
「成る程のう。『楔』と己を同化することにより、力と安全を同時に買う、と。確かにこれでは眷属も手を出せぬわ。流石はよく考えたものじゃのう」
「本当に藤吉かい?! 本当かい! 本当なら顔を見せておくれ! さあ! 早く! どうしたんだい? もう一度姿を!!」
「確かに“本体”と会うのは50年振りじゃのう。心配しておったが、遊山の奴もしかと成し遂げてくれたわい。貴様の意識がここに集うこの瞬間を、儂は待ち侘びていたからのう」
彼の言外の意図に気付き、幽玄斎の額に薄らと汗が流れた。だが彼は顔色を変えぬまま、さも当然のように返した。
「ほう。面白いことを言うね。この一件にはお前が関わっているのかい、藤吉?」
「……」
「お前は昔からそうだ。過信は禁物だとよく言ってあったろう? 私がこの事態に何も備えていないとでも? 世界の全てがお前の絵図の中と思ったら大間違いだよ」
「………」
藤兵衛の唾を飲み込む音が暗闇の中に響き渡った。長い長い沈黙。混迷の中で闇力を手繰り寄せる幽玄斎。そして、響き渡る高らかな笑い声。
「グワッハッハッハッハ!! はったりもそこまで行けば芸じゃの。何故儂がこんなところにいると思う? 何故ここが分かったの思う? 何故斯様な危機に貴様の周りに誰もおらぬ? 何故実の息子に裏切られた? 何とも滑稽極まる話よ!」
「……!!」
「衝撃で声も出ぬか。なら真実を教えてやろう。貴様は今も昔も変わらん。そう……貴様はやり過ぎたのじゃ! 故に人を失い、信を損ない、結果として全てを手放すのじゃ!!」
前日の深夜、神立遊山の本宅。
自室の椅子に腰掛け、メガネを外し鬼気迫る表情で、キャンバスに一心不乱に向き合う遊山。その背後に近付きつつある影にも気付くことなく、彼はただひたすらに自分の魂をぶつけるように、目の前の白い板に絵の具を塗りたくっていた。どれくらいそうしていたであろうか。我に帰った遊山は、流れる汗を拭き取りながらふぅと大きく息を吐いた。
「入るのはいいが、出来るなら座ってくれたまえ。見られていては色が乗らない」
その言葉を受けた巨漢の老人は優しく微笑みながら一礼すると、ずかずかと絵の方に近付いていった。白髪混じりの顎髭をさすり、感慨深くそれを見つめるガンジ。そこに書かれていたのは、血塗れでお互いを刺し貫く2人の男と、それを愉快そうに眺める男の姿だった。
「……ほう。これは凄いのお。ワシのような絵心など微塵もない、更に言えば人ではない者にも十分に伝わるわあ」
「世辞は要らんよ。しかし私のような傀儡の護衛とは、あの人は余程お前を嫌っているようだな」
「そりゃあお互い様じゃあ。あんなゴミをどうしてミカエルは重用するかのお。……っと、すまんすまん。口が滑ってしもうたわあ」
「構わんさ。あの人は私のことなんて道端の小石ほどにも思っていないよ。間も無く客人が来る。控えておいてくれ」
「うむ。バラムにもそう言われちょる。しかし、見れば見るほど壮大な絵じゃのお。最近では群を抜いた出来じゃあ。……はて。もしやこの殺し合う2人は親子かの?」
遊山はそれを聞くと、顔色こそ平静のまま、キッと目だけを光らせてガンジを睨み付けた。
「……何故そう思った? はっきり言え」
「そうカリカリするでない。短気は早死の元じゃけえ。別に理由なんてありはせん。ただ……瞬間的にそう思っただけじゃあ」
「ふん! お前のような化け物に何がわかる! 好きなことを言いおって! 実に気分が悪い!」
「すまんすまん。ワシが悪かったけえ、機嫌を直してつかあさいや」
途端に鬱ぎ込む遊山を、ガンジは苦笑いを浮かべて宥めていた。そんな時、勢いよく正面の扉が開いた。
「ほう。時間通りではないか。感心じゃのう」
そこに立ち尽くしていたのは、他でもない大陸一の商人、金蛇屋藤兵衛その人だった。咄嗟に身構えるガンジに対しても全く怯む様子1つ見せず、彼は悠然とキセルをふかしながら目の前の椅子にどかりと座り込んだ。
「何じゃ、デカブツの老犬もおるのか。ぼけっと突っ立っておらず、さっさと茶でも立てて参れ。まったく気の利かぬ駄犬じゃのう」
「……ほう。シャーロットの犬が偉そうに抜かすわあ。おどれを生かす理由なぞワシには不要よ。まさか無事に帰れるとは思っちょらんな?」
拳を強く鳴らしてずかずかと藤兵衛に近付くガンジ。明確に彼を敵として捉え、隆起した筋肉は丸太のように膨れ上がり、闘気が渦の如く湧き上がっていった。
しかし、そんな絶望的な状況に瀕しても、藤兵衛は一切動じない。この男は動じない。
「ふん。今は無為な争いをしておる場合ではないわ。そんなに頭に血を昇りおってからに、それ以上禿げては取り返しが付かぬぞ。儂らは“同志”じゃからのう。仲良くやらねばいかんわい」
「……何を言い出すかと思えば、下らん与太話はいい加減にせえ! これ以上無駄口が叩けんよう咽頭を抉り取ってやるけえの!」
「そこまで! お止めなさい、ガンジ!!」
ピタリと歩みを止めたガンジ。彼の眉が目に見えて吊り上がり、突如として現れた声の主、呪術師バラムの方を睨み付けた。
「……意味が分からんの。バラム、おどれ何を抜かしちょるか!」
「私とて不本意なのです、ガンジ。ですがこのゴミが……本当に申し訳ありません……」
ローブの下に苦渋の表情を浮かべるバラム。今迄見たこともない彼の姿に、流石のガンジも不穏な状況を察して押し黙った。遊山も何も言わずにソファに座り、聞こえてくるのは藤兵衛の高笑いのみだった。
「ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!! バラムには既に伝えたが、シャルの命は儂が握っておる。儂に手を出さばシャルは死ぬぞ!」
「な、何じゃそりゃあ!! シャーロットが死ねばおどれも死ぬじゃろうが! ハッタリにも程があるわ!」
「落ち着きなさい、ガンジ! この男のやり口に飲まれてはいけません!」
「ゲッヘッヘッヘッヘ!! 貴様らの狙いはシャルの奪還只一つ。この会話は全て筒抜けじゃ。万が一あらば即座に“対処”する手筈は整えておる。故に、この場に於いて貴様らに主導権なぞない。儂の言葉を聞き、その命に従う他はないわ」
指に嵌めた術具を振りかざしながら、藤兵衛は下卑た笑みを顔中に浮かべて挑発を繰り返した。怒りで震えるガンジの拳をそっと手で抑え、バラムは努めて冷静に言葉を紡いでいった。
「分かりました。先ずは話を聞きましょう。貴方は何をお望みなのですか、金蛇屋藤兵衛?」
「ふん! 最初からそうせい。まったく使えぬ駄犬どもじゃ。……端的に言おうぞ。あの狂人、黒龍屋幽玄斎を倒すのに力を貸せい」
「何でワシらがそんなことをせにゃいけんのじゃあ! 奴は同盟相手ぞ。おどれなんぞに助太刀して何になるんじゃあ!」
「よせよせ。透けておるわ。既にミカエルから命が下っておろう? ボルオンの件で、詳細を言えばシャルが殺されかけた件で……奴めへの抹殺命令がの」
藤兵衛は2人の目の奥をはっきりと捉え、全く動じることなく言い放った。図星を突かれたガンジは絶句し、助けを求めるようにちらりとバラムの方を向いた。彼はほんの小さな舌打ちをし、首を竦めてため息をついた。暫しの沈黙が流れ、ガンジはふうと全身の力を抜いて、快活に笑い飛ばした。
「ダッハッハ! もう隠し事はやめじゃ。どうせワシには貫き通せんけえ。その通りじゃあ。ワシらは密命にて幽玄斎を討たねばなならん」
「……やれやれ、ですね。彼は私達の禁忌を犯しました。故にハイドウォーク家現当主、ミカエル=ハイドウォークの名の元に粛清します。しかし……此度の一件が彼の独断と、よく見抜けましたね」
「簡単じゃて。貴様らは決してシャルを殺そうとはせぬ。彼奴が本気で殺されかけたのはセイリュウ国の山中と、ボルオンの戦いの時だけじゃ。そしてその何方にも奴が関わっておる。その事実に加えて、奴の異常な人間性を加味すれば、答えは1つじゃ。ただこれは儂の勘じゃがの、最初から貴様らは奴を殺すつもりじゃったのではないか? 頃合いを見て密かに誅殺するよう、上から指示があったと読んでおる。違うかの?」
突然放たれた言葉の刃に、2人は顔を見合わせて互いに複雑な表情を向けた。そして何かを言おうとするガンジを手で制し、バラムは取って付けたような柔和な目つきで言った。
「まあ当たらずしも遠からず、というところですね。貴方の手には乗りません。彼は知り過ぎました。そうとだけ言っておきましょう。現状を整理すると、貴方は仇を打ちたい。私達は彼を殺したい。そして何より共通しているのは、シャーロットを守りたいという点。確かに利害は一致しますね。しかしそこから先は話が別でしょう。あの警戒心と知能が高い男相手にどう動き、どう殺すのです? 手を組む組まぬはその計画次第でしょう」
「儂を舐めるでない。その話をする為にここへ来たのじゃ。後はお主の心持ち次第よ。のう……ボンよ」
「やれやれ。やっと交ぜて貰えたかと思えば、その呼び方も半世紀ぶりだな」
それまでの我関せずの風体を一気に崩し、にっこりと遊山は笑った。藤兵衛もそれを見てにっと口角を上げた。
「ったく……いつの間にか偉そうにしおってからに。儂に鼻水と涎を垂らしておった糞餓鬼とは思えんわい」
「よく言うよ。俺を取り込んで、のし上がろうとしてたのが見え見えだったぜ。ま、あんたといる時間は楽しかったけどな」
軽口を叩き合って笑い合う2人を見て、ガンジは少し戸惑いながら呆れたように口を挟んだ。
「何じゃあ。おどれら知り合いだったんか。そりゃ話もし易いわな」
「腐れ縁、じゃな。此奴のオシメを変えてやったのが、つい最近のように思えるわい」
「まあね。ウチは親父があんなんだからさ、俺のこと構ってくれたのは藤吉さんだけだったよ。……雪枝さんにも本当に世話になった。俺はあれ以来、いや、あの一件の真実を知って以来、今日という日をずっと待ってたんだ。藤吉さん、俺にとっちゃ地位も何も意味を持たない。あいつを殺せればそれでいいんだ」
「ったく、口を開けば殺す殺すと。物騒にも程があるわい。どんな育ち方をしたのやら」
そう言ってキセルに火を付ける藤兵衛を、苦笑いする遊山と豪快に笑うガンジ、そして不快そうに侮蔑の眼差しを向けるバラム。
「まったく……あんたは何も変わってないな。安心したよ。で、何をどうする? 知っての通りあいつは一筋縄じゃない。昔とは比べ物にならないほどな」
「ガッハッハ! 儂を誰と思うておる。儂こそが大陸一の豪商、金蛇屋藤兵衛その人ぞ! 大船に乗ったつもりで任せておれ。まずは情報の整理じゃ。おい、そこのジジイに根暗。貴様らも入れい。儂の策を聞いた上で意見を聞き、錬磨せねばならぬ。さあ、忙しくなるぞい」
「……泥舟じゃなきゃええがのお。言うとくが、ワシらが協力するのは奴をブチ殺すとこまでじゃあ。そこから先は敵同士じゃけえの」
「ふん。程度の低い阿呆よのう。この世に敵だの味方だのは存在せぬ。儂は利あらば誰とでも手を組むし、害とならば排除するのみよ」
「ダッハッハ! 言いよるわあ。よし、では話し合いといこうかのお。……ん?」
「……」
黙して語らぬローブの男の中に、不穏な気炎が燃るのを感じ、ガンジは内心で驚きを隠し切れなかった。いつも冷静で何処か人を見下したような男が、心底からの警戒心を剥き出しにしていたのだ。彼は動き始める情勢にしかと意識を置きつつも、その蒼く輝く瞳で金蛇屋藤兵衛を刺し続けていた。
(……危険だ。手腕や思想は勿論ながら、シャーロットを始め他者を強制的に巻き込む類稀な能力。“あの時“も思い知らされましたが、やはりこの男は危険過ぎます。このまま生かしておいてはいずれ必ず禍根を生み、“計画”に支障をきたす可能性も否定出来ません。何処かで排除しなくては……いや、それならばいっそ……)
各々の思惑が蠢く中、こうして三者の会談が行われた。一晩続いたその結果、彼らは1つの結論に達した。互いの立場を一旦捨て、協力して忌まわしき黒龍屋幽玄斎を討つという結論に。
そして時は戻る。
暗闇の中、安息の間。わずか数メートルの距離の間で向き合う2人の商人。余裕の笑みを浮かべる藤兵衛に対し、幽玄斎は状況を察して邪悪な微笑みを浮かべた。
「なるほどね。これはご苦労。いろいろと足掻いてくれたようだね。ならば私の今の状況を知っているんだね、藤吉?」
藤兵衛はキセルに火をつけ、返事をする代わりに深く吸い込んだ煙を悠然と吹き付けた。
「こらこら。昔から言ってあったろう? 煙草は体に毒だからやめておけ、と。お前の身に何かあったら、私は耐えられやしないよ」
「生憎、儂は貴様が思うより遥かに頑丈での。貴様と違って『楔』とやらに身も心も縛り付けられておらん故、日々運動も出来ておるわい」
「……そこまで分かっているなら話は早いね。今の私は人であって、人でない。この大地と同化しているも同じだ。正確にはここ東大陸を繋ぎ止める“偉大な力”とね。ミカエルが欲しいのはこの力だ。だから私は殺せない。理屈の面でも、物理的な面でもね」
「大層なご挨拶、誠に痛み入るわい。じゃが儂は、自分で試してみねば納得出来ぬ性質での。ならば1つ試してみようぞ。『ノヅチ』!!」
藤兵衛は会話の途中で抜き打ちに銃弾を打ち込んだ。狙いは完璧に幽玄斎の頭部を捉え、螺旋の軌道を描いて一直線に向かっていった。しかし命中するや否や、闇の弾丸は綿に染み込む水のように彼の身体に吸収され、まるで損傷を与えられなかった。あまりの結果に唖然とする藤兵衛を見て、彼は極めて嬉しそうに口を歪めた。
「見ての通り、だよ。遠路遥々ご苦労だったね。しかしどんな物理的な力も、術を用いようが、私をどうすることも出来ないよ。半世紀に渡り実証済みさ。悔しいかい? 悲しいかい? 私を殺したいのかい? ……でも残念だね。本当に残念だね。はは、ははは! ははは、ははははは!!!!」
高らかに響く狂人の叫び。藤兵衛はその場に膝から崩れ落ち、深く大きく首を振った。その表情は絶望をそのまま形にした様に暗く、力を失った彼はがらりと銃を手から落とした。その様子を見て、幽玄斎は更に狂気をその身に帯びた。
「そうだ! その顔だよ! なんて絶望的なんだろうね!! お前のその顔が見たくて、闇に飲まれる絶望の色を浴びたくて、私はこの半世紀ずっと待ち望んでいたんだよ! ああ、やっとここまで来た! 私に会いに来てくれた! その為に、その為だけに、お前の作ったちんけな“金蛇屋”を潰さずにおいてあげたんだよ! 積み上げたものが大きければ大きい程、崩れた時の絶望は膨れ上がるからね。嬉しいだろ、藤吉? よおく私に感謝するんだよ。ほら、何か言ったらどうだい?」
「貴様……地獄に落ちるがよい!」
「はは、ははは! 『人は殺さず、毟り取る』。お前の信念じゃなかったのかい? お前の唯一の誇りじゃなかったのかい? 悔しいだろう? 私を殺したいだろう? でも……ダメェ! お前じゃあ無理なんだ。いや、人の力でも、闇の力でも、あるいは龍でも神でも、私を殺すのは無理なんだよ」
「どういう……意味じゃ?」
「いいね! 乗って来たね! それでこそだ! 私の心臓にはね、神の中の神が宿っているんだよ。お前もよく知る筈の、力の結晶たる『賢者の石』さ。石は私を選び、それにより私は闇力と肉体を等価交換できるようになった。あの時、私が生き延びられたのもそのお陰さ」
「………」
「理解したかい? 更に絶望したかい? 最初から私を殺すことなど不可能なのだよ。さあ、その場で跪いておくれ。絶望の畔の中で反吐を吐きながら逝っておくれ。さあ! ……さあ!!」
彼の愉悦の叫びを全身で受け、藤兵衛はガクンと膝を折りその場に跪いた。そしてゆっくりと上半身が倒れ落ち、彼は両手を降参するように上げた。そして彼は……確信めいた動きでその手のひらをくしゃりと閉じた。
「そう! そうたよ! それでいいんだ! ああ、堪らないよ藤吉! 私は、私は……うううううう!! ううう…………ぐうううおおおお!!」
だが愉悦の頂上付近で、突如として幽玄斎は口から血を吐いた。更に彼の身体はみるみる『楔』から引き離され、もんどり打ちながら地面に這い蹲った。藤兵衛はその様子を見て心底愉快そうに笑い転げ、手の上に乗った特徴的な七色に光る石を懐にしまい入れた。
「ケヒョーッヒョッヒョッヒョ! 何じゃ、その様は! 笑わせてくれるのう。見ての通りじゃ。石と石は惹かれ合う。先に身を以て実証済みじゃ。所有権を奪うことは簡単ではないが、思った通り『転移』とは相性抜群じゃのう。貴様の“不死”は儂に通じぬわ!」
「……藤吉。お前……本気で私に牙を突きつけるつもりかい? やめておくんだ。やめないと言うのなら、お前の大切な“仲間”の命は保証しないよ。コロシアム近辺には私の闇爆弾が仕掛けてある。ボルオンのことを思い出すといいよ」
反吐を吐き息を切らせつつも、幽玄斎は芝居ががかった態度で両手を掲げた。藤兵衛はハッと顔色を急変させ、その場に頭を擦り付けた。
「そ、それだけは、それだけはやめてくれ! お願いじゃ! こ、これは只の悪ふざけじゃ! 石は返す故、どうか勘弁してくれい!!」
「……そうだ、その顔だ。私はそれが見たかったんだ! ああ、堪らないよ。……う、ううう!!」
幽玄斎を中心に闇がどくりと膨れ上がった。観念して賢者の石を投げ返した藤兵衛に、彼はにやりと邪悪に微笑んだ。
「甘い! 甘いねえ、藤吉! それがお前の弱点だよ! 私がそんな約束を守ると本気で思っているのかい? さあ、派手に行こうじゃないか。爆ぜろ……『黒衣の烈火』!!」
闇力が幽玄斎に集中し、爛れた力が大地を駆け巡り街中に広がっていった。絶望の淵に足を踏み入れた藤兵衛を、彼は涎を流しながら恍惚の表情で見つめ、すぐに鳴り響くはずの爆炎に耳を澄ませた。……しかし!
「グォッ!!!」
飛び散ったのは幽玄斎の鮮血だった。転移術により再び賢者の石を引き離され、地べたを這いずる彼に、藤兵衛は心底愉快そうに嘲笑った。
「ゲヒョッヒョッヒョッヒョ! 爆発するのではなかったのかの? 儂に絶望を食わせてくれるんじゃなかったのかの? 惨めに横たわりおって。悲しいのう、悲しいのう。人望も知能も実力も全て儂に敗北し、何1つ思い通りにならぬ人生、誠にお疲れ様じゃの」
「藤吉……既に何かしたね。一度発動したこの術が不発に終わるはずが……」
そこまで言いかけたところで、撃ち込まれる銃弾。螺旋の軌道を描く、藤兵衛の闇力が幽玄斎の肩に撃ち込まれた。
「グアアああ!!」
「そうじゃ。その声じゃ。儂が聞きたかったのは、貴様のその惨めな醜態じゃよ。時は煮詰まっておる。儂らの最後の闘いを始めようではないか」
続いて放たれた数発の銃弾が標的を捉え、唸りを上げて幽玄斎へと襲いかかった。だが、その直前で闇力は分解され掻き消えてしまった。息を荒くした彼はゆっくりと立ち上がり、血の混じった嬌声を上げた。
「……いいさ。お前を手に入れるためなら、この黒龍屋幽玄斎、どんな艱難辛苦でも受け入れるよ。その代わり……溜めた分だけたっぷり奉仕してもらうからね。ああ、あああ!! あああああ! 来い、私のもう一つの力! 偉大なる神から頂いた闇の結晶、絶望の王『アスモデウス』よ!! 私の全てを闇に染めてくれ!!」
ビリビリと周囲を震わせる闇の力が、地下に波動のように広がっていった。興味なさげにちらりとそれを横目で見ながら、金蛇屋藤兵衛は無言で銃を構えた。
神代歴1279年7月。
闇と因縁に塗れた2人の最後の闘いが、今幕を開けようとしていた。
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