第35話「長いお別れ」②

 再び、過去。

 あくる日のこと。村の外れ、トウモロコシ畑の隅で何事か話し合う藤吉と茂吉。その表情は真剣そのもので、悪ガキたちは既に2時間近く顔を突き合わせている。

「……だからよ、オラ何としても金稼がにゃなんねんだ。どうにかして方法を見つけにゃなんね」

「何度も聞いたよ。でも、いきなりんなこと言われてもなあ。オラだって金は欲しいけんど」

 熱弁する藤吉を尻目に、茂吉はトウモロコシを生のままかじりながらぼんやりと答える。

「オラは姉ちゃの夢を叶えてやりて。何を犠牲にしても絶対に成し遂げてえ。オラ……やっとやりてえことが見つかったんだ。ところでよ、店を出すのって一体いくらくれえかかんだ?」

「さあなあ。よく知らねけんど、場所にもよるべ。ビャッコ国なら、たぶん……100万銭くれえかかるんでねか?」

「ひ、100万!? ありえねべ! そんな大金見たこともねだ! オラ50銭しか持ってねぞ」

「オラなんて15銭だで。とりあえずよ、詳しく知ってそうなやつに聞いてみねえか?」

 黄色が剥げ緑一色になるほど完璧に食べ終えた茎をぺっと吐き出すと、茂吉は長身を揺らしてふらりと歩き出す。

「どこさ行くだ? オメそんな知り合いなんていねべ?」

「今日は行商が来る日だべ。あのおっさんならそういうの知ってんでねか? とにかく行ってみんべや」

「なるほど! オメにしては冴えてんな! あのジジイ物知りだから丁度いいべ。どれ、善は急げだ!」

 そう言って藤吉は先頭に立って村の方へと駆け出す。茂吉は呆れたようにボリボリと頭を掻きながらも、何も言わずに微笑んでその後に続く。


 昼過ぎ、村の中央。

 広場に露店を構えているのは、あごひげを長く伸ばした中年の男。見るからに疲れ果て、やる気なく雑貨を広げるその姿に、覇気などという言葉は一寸たりとも感じられない。

 彼が村に来るようになって2年、村人も最初こそ物珍しく都会の品物を売り買いをしていたものの、今では買う人間もほとんどおらず、暇を持て余して一日中ぼんやりと過ごしている。なぜ俺がこんなところに来なきゃいけないんだ、物言わぬ惚けた彼の姿はそう雄弁に語っている。

「おい、おっさん。ちょっといいか?」

「なんだ、悪ガキどもか。俺は忙しいんだ。他で遊べ」

 いきなり目の前に現れる藤吉。商人は分かりやすく嫌そうな顔で、しっしと彼らに手払いをする。だが藤吉は動じない。雑に扱われるのは慣れっこだし、それより大切な思いが胸に渦巻いているから。彼は不快感をおくびにも出さず、作り笑いを浮かべて陽気に話しかける。

「そう言うなって。どうせ暇だべ? ちっと話すんだけだ」

「うるせえな。こう見えて俺は忙しいんだ。さっさと失せな」

「へへ。チクこいてら。村の連中が言ってたぜ。おっさんとこの細工品が虫喰ってたってよ。そりゃ売れねえべさ」

「んだと! てめえらガキに何がわかる。こちとら大都会オウリュウの物資を、わざわざこんなとこまで運んでやってんだぞ。少しくらい我慢しろってんだ。それにな、俺ら商人からすりゃ金のねえ奴に価値はねえんだ。特にガキはうるせえだけで一銭にもならん。わかったらさっさと行け」

「そう言わねえで頼むよ。ほれ、とうきび持ってきたからよ。これでも食って精つけな」

 藤吉は懐から小さく不揃い一本を差し出すと、商人は目の色を変えてそれをひったくり、乱雑にぼりぼりと齧り始めた。

「なんだ、“取引”となりゃ話は別だ。クソガキのくせに分かってんじゃねえか。ありがたく頂戴するぜ」

 不揃いの汚い歯を見せながら、彼は下品に笑う。よほど腹が減っているのかあっという間に食べ尽くし、彼は物欲しげな視線でじろりと彼らを見回してから、一つ大きくげっぷをする。

「……まあまあだな。見た目ほど悪くねえ。で、俺に何の用だ?」

「おっさん、オラ金が欲しいんだ。どうすりゃいいか教えてけろ」

「金だ? おいおい、いきなりだな。んなもん俺だって欲しいよ。幾ら必要なんだ?」

「100万銭くれえだ。ビャッコ国で店を出してえんだけっど、一体どうすりゃいい?」

 一瞬きょとんとしてから、次の瞬間彼はぷっと思い切り吹き出す。その態度に憤慨した藤吉は、怒りで顔を真っ赤にして叫ぶ。

「なに笑ってんだ! オラはマジメに言ってんだぞ!」

「んだんだ。もろこしくすねといて、藤吉のこと笑うとは太えやつだで!」

「いや、悪い悪い。あまりにも突然でな。ま、確かに取引だかんな。知らねえで済ますわけにもいかねえ。店うんぬんはさておき……100万か。こつこつやるなら10年、悪いことすりゃ半年だな」

「えっ!? 10年は長すぎるだ。悪いことってどんな?」

「手っ取り早いのは強盗、でも捕まりゃ首チョンだ。あとは麻薬とか人買いとかか? お前んとこの姉ちゃんなら器量好しだから、100万なんて軽くいくぜ」

「てめえ! 言っていいことと悪いことがあんべ!」

 再び怒りで顔を染めて、藤吉はがたんと立ち上がる。だが彼は意に介さず、一才動じることなく、へらへらと人を食ったように笑うだけ。

「冗談だ、冗談。んなことでムキになってちゃ大金なんて一生掴めねえぞ。覚えとけ。金を稼ぎてえならいつでも冷静でいなきゃダメだ」

「ふん! 姉ちゃを侮辱されるぐれえなら金なんて要らねえべ!」

「へっ、つくづくガキだぜ。いいか、金が欲しいなら帝都ロンシャンに行きな。あっこで成功すれば、金なんて幾らでも貯まるさ」

 聴き慣れない言葉に、同時に顔を見合わせる藤吉と茂吉。

「ロ、ロンシャン? そりゃどこだべ?」

「ここから南に数百キロ、東大陸一の大国オウリュウの首都だ。あそこは金と成功を夢見る場所さ。1日で100万以上稼ぐ商人がずらりといるよ。俺も若い頃は必死で追いかけたものさ。ま、今となっては遠い夢、しがない行商人として死んでくだけだがね」

「……よし、決めたべ。オラはいつかロンシャンでのし上がるんだ! 必ずやってやんべ! なあ、茂吉」

「藤吉がそうするってんじゃ、俺も付き合うしかねべ。けんどオウリュウ国は遠いなあ。そもそもどうやって行くんだべか?」

 顔を突き合わせて楽しそうに笑う2人。きゃっきゃとはしゃぐ子供たちを見て、商人は初めて暖かく笑う。

「ったく、お前らはお気楽でいいよ。俺も見習いたいもんだ。さて、客も来ねえし、今日は退散とするか」

 そう言って荷物を片付け始める商人。2人は揃って大きな声で言う。

「ありがとうございました。ほんと参考になったべ。そういやおっさん、名前は?」

「俺か? 俺は南海屋ってもんだ。こりゃトウモロコシの礼だから気にするこったねえ。いいか、商人ってえのはな、金の上の取引だけは死んでも守んなきゃならねえ。お前も商人になるならよく覚えとけ」

「へへ。分かっただ。オラはいずれ世界一の大商人になる身だかんな。ようく覚えとくべ」

 鼻を擦りながら得意げに呟く汚い子どもを笑い飛ばし、ふと南海屋は何の気無しに、世間話としてぽつりと告げる。

「ったく威勢のいいこった。……そういや、この辺に藤蔵ってのは住んでるか?」

「!!」

 その言葉を受けて藤吉の顔色がみるみる曇っていく。南海屋は不思議そうに彼を下から覗き込む。

「ん? 何か変なこと言ったか? ちょっと気になっただけなんだがよ」

「……そいつは藤吉の親父さんだ。けんど何年も前に村を出てって、それっきりだべ」

「そうか。そりゃ何つうか……いや実はな、昨日辺りからビャッコ国の人買いがこの村をうろついてやがってよ。んで今朝そいつらに聞かれてな。『藤蔵の家族を知らないか』って」

「ひ、人買い?! なんでこの村にそんな悪い奴が?」

「さあてな。どこぞで借でもこさえて、身内から取り立てようって腹じゃねえのか? ……?! お、おい!」

「待て藤吉! ……すまね、おっさん! またな!」

 藤吉は既に家に向かって駆けていた。嫌な予感が止まらない。まさか、と何度も思う。しかし、彼は自分の父親のことを思い出す。家族のことなどなんとも思わない、酒と女と博打に魂を捧げたあのクズのことを思い出す。3年前に出て行った、血の繋がらない男のことを思い出す。何度も何度も母を殴り、庇った自分も殺されかけたことを思い出す。千里が逃してくれねば何度死んでいたか分からない。

 まさか……と藤吉は思う。そんなはずはないさ、そう思う。無意味な後ろ向きな思い過ごしだと、何度も何度も言い聞かす。だが、現実は“そう”ではない。あらゆる絶望とは、等しく身に起こりうる現実の縁なのだ。

「姉ちゃ!!」

 藤吉は叫ぶ。あらん限りの声で、家の前にいる姉に、数名の男たちに取り囲まれる千里に。彼女は青ざめた顔でただ立ち尽くしている。その様子に気付いた男たちが無表情で告げる。

「さっき言っていた、もう1人の弟か?」

 藤三と熊美の泣き声が聞こえる。その響きが彼に狂ったような疼きを芯から芽生えさせる。

「なんだオメら! 姉ちゃから手を離せ!」

 再び叫ぶ藤吉。しかし、男たちは手慣れた様子で静かに告げる。

「ああ。気持ちは分かるが、これはれっきとした“契約”でね、もう君らと言い争う時間は過ぎたんだ。申し遅れた。我々は、君のお父さんが残した借金を取り立てに来た者でね。それで交渉の結果、お父さんの代わりに君のお姉さんが払ってくれることになったんだ」

「嘘だ! それにそんなの払う必要ねえべ!」

 目を見開いて男達へと怒りをぶつける藤吉。だが千里は赤い目を彼に向けて、首を振って静かに言う。

「藤吉、ほんとうだべ。オラが払わなきゃいけねえんだ。おっとうが迷惑かけたぶん、オラがなんとかしなきゃなんね。分かってくれや」

「なんで姉ちゃ! そんなこと……なあ、オラが払うよ! 絶対いつかオラが金持ちになって払うから、お願いだよ! 姉ちゃを離してくれよ!」

「いつか、とはいつのことだ? 具体的に言いたまえ」

 冷たく、全く情の篭らない声で言い放つ男。答える術を持たず言葉に詰まる藤吉。

「そ、それは……オラが大人になったら……」

「それなら無理だ。この証文は一年以内に支払うことになっている。自分でも分かってるだろう? 金の無い者に自由も権利もない。覚えておきなさい」

 次の瞬間、藤吉の腹部に強烈な拳が打ち込まれる。ヘドを吐きながらのたうちまわる彼を、汚物を見るような目で見つめる男達。

「藤吉! おい、オメら何してんだ! きょうだいには手を出さねえって言ったじゃねえか!」

 詰め寄る千里の顎を割れんばかりに掴んで、男が薄笑いを浮かべる。

「調子に乗るな。お前はもう商品だ。これからのお前の人生に、あらゆる意味で自由はない。加えて言えば、平穏も幸福も何一つ存在しない。金がないとはそういうことだ」

「なあに、たかが500万だろ。お前ほどの上玉なら10年も働けば返せるさ。ま、心が折れなければの話だけどよ」

「エッヒャッヒャッ! 威勢のいいのは皆最初だけ。すぐに“分かって”もらえるさ」

 千里を組み伏せて下卑た笑いを浮かべる男達。泣き崩れる藤三と、釣られて訳もわからず泣く熊美、反吐を吐き続ける藤吉。周囲に人々が何事かと詰め寄る中、彼は激しくえづきながらも、その細く鋭い目を怒りに燃やし、人買い達を睨みつける。

「……忘れね」

「うるせえガキだな。ほれ、さっさと行くぞ……グゥッ!」

 歩き去ろうとする彼らの足に、藤吉の鋭い歯が刺さる。血が流れるほどの力に、悲鳴を上げる1人の男。

「てめえ! なめたマネしやがって!」

「よくもタケを! やっちまえ!」

 よってたかって藤吉を袋叩きにする男達。大人の本気の暴力が彼を引き裂き、叩き潰していく。だが彼は、ボロ雑巾のように血と反吐にまみれながらも、激しく雄叫びのように吠える!

「オラは……忘れねぞ! オメらの声も顔も、今日起こったこと全て忘れね! 見てるだけの連中も同じだ! オラは必ず大商人になる! そうなったらここにいる全ての奴らに、オラたちが味わった絶望を何十倍にして返してやるだ!」

「うるせえクソガキが! ほざいてんじゃねえ!」

 加速度的に強くなる打撃、遠くなる声、意識。連日の暴行に、彼の肉体は限界を迎えようとしている。痛みも既に感じていない。もうすぐ死ぬな、そう思う。怖い。本当に怖い。死ぬこと自体は全然怖くない。でも、何も出来ずに死ぬのは怖い。復讐できずに死にたくない、そう心から思う。

 ふと体が暖かくなる。視界が暗い。不思議な感覚、痛みがすっと引くような、そんな。

(こりゃ……いよいよだべか。姉ちゃ、オラやっぱ口だけだ。なんも出来ずに……すまねえだ)

 今際の時が近付き、彼は姉のことを思う。母が死んでから、ずっと育ててくれた姉。どんな時も自分の味方だった姉。そう、いつも。そう……今この瞬間も!

「大事か! 意識あっか?! 藤吉、オラが守ってやっかんな!」

 幻でも、比喩でもなく、彼女は藤吉を守っている。全身をくの字に曲げて、男たちの暴力から身を呈して彼を守っている。死にかけの弟を何としても守るべく、その体を血と痣に染めて全身を捧げて守っている。

(姉ちゃ! もういいだ! オラのためにそんな……!)

「何も心配いらね。オラはぜんぜん平気だ。オメらのためなら痛くも痒くもね」

(……姉ちゃ!! だ、ダメだ!! う、ああああああああ!!!)

 声にならない叫びを上げ続ける藤吉。男たちはやがて手を止める。ため息混じりに、侮蔑の眼差しを向けて。

「おいおい、正気かよ。てめえら止めろ。商品価値が落ちちまうぜ」

「命拾いしたな、クソガキ。じゃあ行くぞ。おい、娘を引っ立てろ」

 手際よく彼女の手首を縄で縛り始める男達。抵抗一つせずに、彼に笑顔を向ける千里。

(姉ちゃに……何しやがる! その手さ離せ!)

「ええんだ、藤吉。オラ一っつも辛くね。オメらが幸せになっこと考えたら、オラ全然辛くねだ。大丈夫だ。オラすぐに戻ってくるだよ。おっとうの借金返したら、すぐにオメらんとこに駆け付けるだ。そしたら……また一緒に暮らそうや。オラと、藤吉と、藤三と、熊美で、家族みんなで楽しく暮らすんだ。ほれ、指切りだ。姉ちゃ“約束”すっかんな。……なんも心配要らね。オメらはオラが絶対守っかんな」

 その声は微かに震えている。彼女の心が、温もりが、結ばれた指から如実に伝わる。最後に伝わる恐怖を必死で隠し、凛と上を向く千里、そして、その事実が藤吉の心を更に踏み付ける。

(姉ちゃ……行っちゃダメだ! 絶対にオラが……今度こそオラが……守って………)

 そこで藤吉の意識は闇に落ちる。最後に彼の脳裏に映ったのは、眩しいほどに輝く千里の笑顔だった。


 その日の夜。

 藤吉が目を覚ますと、いずこかの布団の上。ぼやけた意識が回復するにつれ、記憶が、先ほどの悪夢が蘇る。そうだ、あれは現実だ。彼は自分に言い聞かせる。あの悪夢は、実際に自分の身に起こったこと。

 不意に涙が出そうになる。引き裂かれんばかりに辛く、悲しい。突っ伏して頭を抱えてしまいたい。自分の力の無さに吐き気すら覚える。

 だが、彼は泣かない。もうその地点は過ぎたのだ。子供の時間は終わったのだ。強くならねば、心の底からそう思う。芯から熱く燃える胎動を感じ、彼は拳を握り締める。

「やっとお目覚めかい。お気楽なもんだねえ」

 嫌味たらしい声が耳に届く。伯母が部屋の入り口に立っている。意識が戻り、現実感が湧き上がる。ここはどうやら彼女の家のようだ。

「ご迷惑……おかけしました」

「なんだ、気持ち悪い。オメがそんな口きくなんて。頭打ち過ぎたんかね?」

 その声を聞いて奥から藤三と熊美が駆け寄る。2人とも泣き顔で目も当てられない。

「兄ちゃ、無事か! 生きてっか!?」

「うわわん! 兄ちゃが生きてた!」

 彼らは大粒の涙を流して藤吉に抱きついた。彼はほっと胸を撫で下ろし、静かに2人の頭を撫でた。

(そう、オメらはそれでえ。問題は……オラだ。これからオメらを守るのはオラだ! 姉ちゃが帰るまで、オラがやらなきゃならねえ!)

「ふん。大した茶番だよ。終わったんならとっとと出てってくれ。千里がいなくなったのは可哀想だが、うちは忙しいんだ」

 しっしと手払いする伯母を、真正面から見据える藤吉。そう、こいつは話をしたくない。事の発端は親父の、つまりこいつの兄の借金。その責任には絶対に触れられたくない筈だ。しかしまともな理屈の通じる相手ではない。ならばどうする? 考えろ? やるしかない! やらねば弟と妹を守れない!

「伯母さん、今まで大変おせわになりました。オラ……いや、私は外に出稼ぎに出て家族を支えようと思います」

 神妙な面持ち。面食らう伯母、唖然とする弟妹たち。

「そ、そうかい。そりゃ殊勝なこって。オメがいなくなりゃちっとは村も平和になるだろうて」

「それで、一つだけお願いがあります。留守の間、弟と妹の面倒を見ていただけないでしょうか?」

「は?! なんでオラがそこまでせにゃならんの? 将来ウチの面倒みる熊美ちゃんだけならさておき、藤三までは面倒見れん! オラちにそんな余裕なんてないわ!」

 そこまで話すと、額をこすりつけるように激しく土下座をする藤吉。今迄の彼からは想像も付かぬ態度に、彼女は面食らい戸惑いを隠せない。そう、それこそが隙。彼が付け入るべき隙。畳み掛けるのは今だ、彼の本能が告げている。後にオウリュウ国一の商人と呼ばれし男の知性が、そう判断している。

「お願いします! この藤吉、一生のお願いです。3年間だけ待ってください! 必ず金を稼ぎここにお持ちします!」

「そんなのどうやって信用しろっての! オメみてなクソガキが出来るわけねえだろ!」

「あの家も、土地も、畑も、全て好きに使ってください。3年して何もなかったら追い出してもらって結構です。ですからどうか!」

「ダメったらダメさ。他をあたんな」

 にべもなく断られても、それでも藤吉は頭を下げ続けている。不安そうに見つめる弟妹を尻目に、彼は心中で微笑む。そうだよな、オメはそういう人間だよな。でも俺は知ってるぞ。俺は決めた。もう手段は選ばねえと。どんな手を使ってでも、必ず目的を達成すると。そうと決めたならば……やりようはいくらでもある!

「……そうですか。無理を言ってすみません。ではお言葉通り、一軒ずつ回ってお願いしてみます。今回の件の経緯を話して頭を下げれば、どこかで引き取ってくれるかもしれませんから」

「ち、ちょっと待ちな! オメ本気で言ってんか?! そんなことしたらどうなると思ってんだ?!」

「そうは言っても他に手はありませんから。とりあえず村長さんのところで朝まで土下座して……」

「や、や、止めろや! そんなんしたらナリが悪いったらねえべさ! オラがなんて言われるかわかったもんじゃねえ!」

 そうさ。それがオメの弱点。この村の連中は皆そう。過剰に人の目を気にし、いつだって足を引っ張られないように生きてる。ババア……オメは特にだよな。ただでさえ親族がクズで迷惑かけっぱなしだったってのに、今度は実の兄の借金を姪っ子に押し付けた挙句、残り3人も見殺しにしたなんてことになってみろ。いつも人を陥れることだけ考えてる、陰湿なこの村の連中が黙っていないさ。そう、オメが一番嫌う村八分だ。

「でも、伯母さんは頼れないとのことですので、やはり皆に事情を詳しく話した上で頭を下げようかと。最悪、家と畑を証文に入れても……」

「わ、わかった! 2人は引き受けっから! だから落ち着けや、な? ただし藤三は3年間だけだぞ。オメが言い出したことだかんな」

「もちろんです。必ず迎えに来ます。伯母さん、ありがとうございます」

 よし、と心で拳を握る藤吉。これで思い残す事はねえ。後は……俺がやるだけだな。

 しかし弟妹は、泣きながら彼に縋る。特に藤三の泣き方は尋常ではない。彼は涙と鼻水で顔をいっぱいにし、声にならない声を上げる。

「兄ちゃなんで! オ、オラも一緒に行くだ! オラもっともっと強くなるから、お願いだから兄ちゃと一緒に連れてっておくれよ! お願いだよ!」

「あたしも行く! 兄ちゃばっかに辛い思いはさせね!」

 年端も行かぬ2人の言葉に思わず目頭が熱くなる藤吉。小さいだけかと思ってたのに、いつの間にかこんな生意気なことを言えるようになってたのか。しかし、彼は心を鬼にして告げる。心の臓を深く傷つけながらも、全身から血を滲ませながらも。

「……ダメだ。オメらがいたら足手まといだ。俺を信じて大人しく待ってろ」

 思わぬ冷たい言葉に一層激しく泣き喚く熊美。だが藤三は違っていた。彼は何かを決意したように涙を拭き、兄の目を真正面から見つめた。

「兄ちゃ、オラ……強くなるだ。今までのオラじゃダメだ。きっといつか兄ちゃを助けられるように、必ず強くなってみせる! 料理だってもっと上手くなるし、熊美のことだって守る! だから……安心して行ってきてけれ。後のことはオラに任せてくんろ!」

「………」

 藤吉はくるりと背を見せて、そのまま無言で歩き去る。もし振り返ったら、今の決意が壊れてしまうから。捨てたはずの涙を拾ってしまうから。彼は、誰にも聞こえない位の音量で一言だけ呟いて、静かに外に出ていく。

「……これは“約束”だべ。必ず……必ず果たす」

 外はすっかり暗い。彼はふと空を眺めると、満点の星空が彼を褒めているようにさえ思える。彼は気合いを入れるように一声大きく叫ぶ。

「よし、ここからだべ! 全てはここから始まるべや!」

 その声はすぐに闇の中に掻き消されたものの、彼の臓腑、骨髄まで染み渡っていく。身体の中にえも言われぬ力が湧くのを感じ、彼は両頬をバンと叩いて内なる気迫を外に吐き出す。

(しかし……実際んとこどうしたもんか? 確かロンシャンは南の果てにあるって話だったな? 偉そうに言ってはみたが、ゲンブ国どころか村の周りくれえしか知らねえ俺に、一体何が出来んだべ?)

 ぼんやりと佇み闇の中を眺める藤吉。霧がかった靄に自らの心中を投影し、彼は溢れそうになる不安と恐怖に必死で蓋をする。

 だがその時、靄の先からぼんやりとした姿が現れる。……笑顔だ。細長い輪郭の中に映し出される、満面の笑顔が見える。

「おう藤吉! 別れは済んだべか?」

 考えるまでもない。そこにいたのは茂吉。背に大荷物を抱え、さも当然のように呑気に手を振っている。

「オ、オメどうした?! んな大荷物抱えて。貧乏に耐えかねて夜逃げでもすんのか?」

「はは。ある意味じゃその通りだべな。んじゃ行くべか」

 抱えきれない程の荷を橇で引きながら、茂吉は当たり前のように言い放つ。藤吉は唖然としながらも、自身の感情を整理するようにゆっくりと彼に尋ねる。

「オメ……まさか?」

「んだんだ。準備は万端だべ。すぐ行げっぞ」

「馬鹿だ馬鹿だとは思ってたが……まさかこったらだとはな。オメ意味分かってんか? 俺は今から、遠く離れた地の果てまで行くんだど。無事に帰れる保証なんてねえんだど」

「でもよ、オメがやるっつうんだべ? なら、オラも行くのは当然だべ。なんか問題あんのか?」

 当たり前の様に笑う茂吉、一瞬言葉を失う藤吉。だがすぐに彼は、弾けるような大声で笑う。とても気持ちよさそうに、天をも揺るがす程の大声で。

「グッハッハ! 確かにな。考えてみりゃ道理だべ。ただ……後悔しても遅えぞ。これから俺は鬼になるかんな。覚悟しとけよ」

「鬼でも蛇でもなんでもええよ。オメはオメだべ。なんも変わんね」

「しかしよ、当座の金をなんとかしねとな。家から掻き集めても500銭しかねがったかんな。どうせオメもそんなもんだろ?」

 藤吉の問い掛けに、ふふと不敵に笑う茂吉。何事かと訝しんだ次の瞬間、彼が懐から取り出したのは、10万を超える金の束。

「お、オメどうしたんだそりゃ! オメみてえな浮浪児がどうしてそんな金を!?」

「パクったに決まってんべ。村長のバカの蔵からな。端金でオラを長年こき使った罰だ。これでしばらく豪遊できんべ」

「ガッハッハ! そりゃいいべ! よし、そんじゃひとつ前祝いとしゃれこむか!」

 楽しげに旅立つ2人の姿は遠ざかり、やがて見えなくなる。これは一つの旅の始まりにして、ある意味では終着点。世紀の傑物、金蛇屋藤兵衛の始まりの物語。

 そして物語は時を超え、現代に戻る。2度と帰ることのない過去を置き去りに、藤兵衛の物語が音を立てて紡がれる。


 どれほどの時が流れたであろうか。暗闇の中で藤兵衛は1人深いため息をついていた。

「……あれから70年、か。今から思えば実にあっという間じゃのう」

 答える声はない。それでも彼は、微かな笑みを浮かべながら、内なる声をただ一人吐き出し続けた。

「金を求めて幾星霜。いつしか儂は、比類することのない金持ちになっておった。じゃがな……本当に手に入れたいものは何一つ……只の一つも手に入らなんだわ」

 極めて自虐的に嗤う藤兵衛。風の音も彼を笑っているように聞こえた。

「じゃが、それも栓無きこと。今の儂は金蛇屋藤兵衛。稀代の商人でありながらも、化け物一味の力車引きじゃ。下らぬ感傷なぞ一銭にもならぬ。今はこの窮地を抜け出すのみじゃ」

 自己を奮い立たせる言葉。誰が聞いても分かる強がり。しかし彼は言わざるを得なかった。そうやって敢えて言葉に出して、無理にでも自分を奮い立たせてここまで来たのだから。自分だけを信じて戦い続けてきたのだから。

「あ、藤兵衛! ここにいたのですね」

 心の襞にするりと絡みつくような、優しく暖かな声。振り返らずとも分かる、彼の主たる魔女シャーロット=ハイドウォークの声。

「何じゃ、シャルよ。まだやっておったのか? くれぐれも無理をするなと申しておったじゃろうに」

「いいえ、私はへっちゃらです。今日はとても調子がよいのです。満月の晩の私は無敵です! まだまだやれますよ」

「む、むう。それは重畳じゃがの、ここから先の作業は儂がおらねば危険じゃ。幸い虫が戻ってきた故、明日からは一緒に事に当たろうではないか」

「はい! 私は藤兵衛と一緒に頑張ります!」

 心から楽しそうに、小躍りしながら笑うシャーロット。それに釣られるように僅かに口角を曲げた藤兵衛。

「……なあ、シャルや。お主、姉貴を、その……見てくれたのじゃろう? その……どうじゃ? 具合というか、体調は……のう?」

「……」

 シャーロットは視線を下に向けて黙り込んだ。その事実は雄弁に、深刻な事態を物語っていた。

「儂に気を使う必要はない。真実のみを伝えい。頼む、シャル。この通りじゃ!」

 深々と頭を下げる藤兵衛。シャーロットは俯いたまま、暫しの逡巡の後にはっきりと述べた。

「大きな病魔は見当たりません。それは以前申し上げた通りです。ただ……お姉様はご高齢です。時間の猶予は長くありません。率直に申し上げて、1月もてば奇跡かと」

「……成る程の。充分じゃな。礼を言うぞ、シャル」

 無理矢理笑顔になる藤兵衛に、シャーロットは複雑な顔を向けた。だが彼はそれを笑い飛ばし、垂れた目を手元に向けて悠然とキセルに火を付けた。

「なに、人はいつか死ぬわい。むしろ看取ることができて幸運なくらいじゃわ。じゃが……シャルよ。これはあくまでも仮の話じゃが、もし不老不死の術をじゃな……その……」

「申し訳ありません。それは不可能です。私の“容量”の問題もありますが、何より彼女では術の反動に耐えられないでしょう。力不足で誠にすみません」

「そ、それはそうじゃな! それくらい分かっておったわ! 何も本気にせずともよい。こんなもの冗談じゃよ、冗談! ガッハッハッハッハッ!」

 何層にも虚勢を貼り付ける彼を、シャーロットは突然がばりと抱きしめた。その感覚は彼が何度も味わったもの、しかしいつもとはほんの少しだけ異なっていた。藤兵衛は込み上げる感情を必死で堪え、心を解くような優しい笑顔を作って言った。

「……迷惑かけるの、シャルや。儂は……お主と会えて本当によかったわ。すまんが、もう少しだけ儂の我儘に付き合ってくれぬか?」

「私も貴方と会えて本当によかったです。何も言う必要はありません。私は……貴方の為なら何でもします」

「……そうか。そうじゃな。………よし、言質は取ったわい! ならこれからも儂の為に働いてもらおうか。グワッハッハッハ! 魔女シャーロットよ。きっちりカタに嵌めてやったぞ!」

「ふふ。それでこそ貴方です。それが……私の大好きな貴方ですよ」

「……恩にきるぞ。お主の信頼に儂は必ず応えるわい。さて、では仕事に移るとするかの。……おい、そこのネズミども! コソコソ隠れてないで出て来るがよい!」

 彼の後ろの茂みでびくんと音が立った。やがて白々しい表情で現れたのは、連れ立った亜門とリースだった。

「い、いやあ。誤解でござる。己らは今来たばかりでして……」

「そ、そうですぅ。たまたま通りかかっただけでぇ(童貞め! 興奮してないで気配ちゃんと殺せ!)」

「ふん。まあよい。ところで首尾はどうじゃった?」

 藤兵衛は極度に眉を顰めながらも、いつもの彼に戻って邪悪な顔で尋ねた。2人はその場に座り込んで、地に図を書きながら丁寧に説明を始めた。

「……という訳にて。やはり殿の読み通りにござる。己の任務自体は容易かと存じますが、問題はリース殿の方でござる」

「なんとかなるにはなりそうですけどぉ、やっぱり時間はかかりそうですぅ。1月はないとダメかも(このタヌキ、ほんと無茶言うわ)」

「ふむ。大方こちらの予定と合うか。何にせよ、ここで連中の包囲を叩くしか儂らに道はない。無理とは言わせぬ。見事やり遂げてみせい!」

「はっはっは。誰に言っておられるますかな? 己とリース殿が手を組めば、敵などありはしませぬ」

「はぁい! わたし頑張りまぁす!(しっかし偉そうに。まあ確かにこれしかなさそうだけどさ)」

「ふふ。なら決まりですね。私も気合を入れますよ!」

 大きな声でハッパをかける藤兵衛に、笑顔で頷く3人。彼らの表情には強い意志と結束が感じられた。その時、家からレイの声が響いた。

「んだてめえら! 帰ってるならそう言え! とっくにメシの準備できてっから、早く来て食っちまえ! 明日も早えんだろ」

「やれやれにござる。本当に力を失っておられるのか疑問でありますな」

「野蛮人はいつ何処へ行っても変わりはせぬ。落ち込んで泣きべそをかくよりよいではないか」

「あた……わたしお腹空いちゃいましたぁ。どうでもいいから早く行きましょ!」

「私もお腹が空きました! 行きますよ、リース。競争です!」

 一行はそれぞれに顔を見合わせ笑みを浮かべ、帰るべき家へと向かっていった。その最後尾には藤兵衛の姿。楽しそうにはしゃぎ、全霊で彼に協力する仲間たちを見て、彼は満足そうに微笑むと、空を眺めてゆっくりと気を吐いた。

(あの時とは違う。儂は……もう1人ではない。姉ちゃ……儂はお主のために何も出来んかもしれぬ。こんなものは所詮、自己満足と欺瞞の結晶に過ぎん。じゃがの……儂は、この金蛇屋藤兵衛は……一度やると言ったことは必ずやり遂げる男じゃ! 神だの運命などに興味はないが、もし居るならこの儂の姿を、世界の富を喰らい尽くす金蛇屋藤兵衛という男をとくと見定めよ! この儂を誰と心得るか!)

 流れ星が一筋流れた。空を2つに割らんばかりの軌道を描き、星の瞬きが世界を断じた。藤兵衛は強く拳を握り締めた。その命の、体に眠る強い意志を放出するかのように。ただひたすらに進む、自らの道を指し示すように。

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