第35話「長いお別れ」①

 思い出す、記憶。

 遠い夢の波に誘われる、かつての糸の残滓。あるいは果てのすぐ前から流れ込む、手繰り寄せた音の蜜蝋。そこでは過去と未来が交差し、やがて何もかもが消えて行く運命。


 神代歴1210年。ゲンブ国、名もなき寒村。

「うおっ! くせぇ! 村長と金太が肥溜めにはまったぞ!」

「誰だこんなところに落とし穴を掘ったのは!」

「どうせあのガキだろ! ほれ、藤蔵んとこの倅さ」

 村人達が顔を突き合わせてひそひそと噂をし合う中、落とし穴の中で村長とその息子の金太がヒステリックに叫ぶ。

「藤吉と茂吉か! 今度という今度は許さんぞ!」

「うえーん! お父ちゃん臭いよう!」

 がやがやと騒ぎ立てるその姿を、遠く離れた森の松の木の上から眺める2人の少年。薄汚れたボロボロの着物を軽く一枚だけ羽織り、冷え込む風の中でも顔を上気させて、2人は心底愉快そうに笑い転げている。

「ガッハッハッハッハ! 茂吉、どだ? おらの言った通りだべ? あそこに掘りゃ必ずかかるって」

 目尻の垂れた痩せこけた少年が、得意げにもう1人の少年に言う。

「すんげぇ! ほんとに引っかかっただ。やっぱ藤吉の読みは外れねえな」

 青鼻を垂らした長身の少年が、心から感心したように返す。

「ふん! そもそもあんな朝っぱらから、ガキ連れて愛人の家に行ってる奴が悪いんだ。オラは天誅をくれてやっただけだべ」

「んだんだ。オラたちなーんも悪くね。これでオメの弟も気が晴れたべや」

「ほだ! 金太のガキ、皆の仲間に入れてもらえねえからって、よりによって藤三をいじめやがって! ブチ殺しても気が済まねえべ!」

 カッカと思い出し怒りをする藤吉、そんな彼に追従してのほほんと笑う茂吉。のんびりと朝の時間は過ぎて行く。2人はずっと楽しそうに笑っている。呆れるほどに眩しい陽の光が、彼らの影をすっぽりと包み込んでいる。

 1時間後。突然彼らのいる木が、根本から大きく揺さぶられる。ぐらりと傾いて落ちそうになる2人の下から、激しい罵声が投げかけられる。

「おらクソガキ共! そこにいんのは分かってんだ! さっさと降りてこいや!」

「ああ! バレちまっただ! ど、ど、ど、どうしよう?」

 聞こえてくるのは、村の大人達の激しい怒りの声。突然の事態に慌てふためく茂吉。しかし藤吉は動じない。この少年は動じない。

「オラに任せろ。オメはこっから動かず石になってろや」

 そう言い残し、手慣れた手付きでするすると木を降りていく藤吉。心配そうに見つめる茂吉を尻目に、彼は堂々と腕組みをして5人の大人に相対する。

「オメら、またやらかしたな! 村長さんがお怒りだべ!」

「ここにはオラしかいね。朝からずっとここに1人でいんだ。なんだか知らねが、やったとかやってねとか、証拠でもあんかい?」

「オメ以外にそんなことする奴はいね! 村の恥さらしが! 村一番のクズの息子だってだけで、オメがやったって十分な証拠になんべ!」

「そんなんオラにゃ関係ね。親父と血い繋がってねの知ってんべ?」

 その言葉を聞いて、大人達の怒気が僅かに逸れる。誰もが知っていながら、表向きは言葉にはしていないことを、当の本人にはっきりと突き付けられて。気まずそうにする彼らの様子を見て、藤吉は内心でほくそ笑む。

「……そりゃオラだって親に愛されてぇだ。でも、オラなんてどうせ間違いで産まれた子だ。無駄だって分かってっけど、構って欲しいんだ……。それの何が悪ぃ? オラだって、オラだって……オーイオイオイオイ、オーイオイオイオイ!」

 藤吉は両目いっぱいに涙を溜めて、突然激しく嗚咽し始める。当然のことながら嘘泣きではあるが、その迫真の演技に一同は顔を見合わせ、互いに様子を伺い合う。

「わ、わかったわかった。とにかく泣くのやめろや。もういいよ。……おい、オメら行くぞ。一旦戻って村長さに相談すべ」

 急速に熱気を失いぞろぞろと踵を返す一同。心の中で勝ち誇った笑みを浮かべる藤吉。だが、その時に背後から怒鳴り声。

「おい、オメら騙されるでね! これがこいつのやり方だ! クズの息子はクズなんだ!」

 背後から怒り心頭の村長が現れ、人差し指を力強く突き付ける。男達は困惑しながらくるりと藤吉を振り返るが、彼はまだ演技を続けている。

「村長さん、ひどいよ! オラ心から村長さんのこと尊敬してて……」

「うるせ! 先月ワシの家の柿を食い尽くした時も、泣きながら同じことを言っていたろ! 構うことはね。オメらこいつを痛めつけろ! 心配しねでもこのガキは蛇のようにしぶてえ。ちょっとやそっとじゃ死なねかんな」

 その剣幕に呑まれる事なく、藤吉はふう、と一息つく。緊迫し切った状況の中でも、彼の細く垂れた目は油断なく村長を真っ直ぐに見つめ、爬虫類の如き冷えきった視線を放っている。

「ふん! 証拠もなしに犯人扱いか! 村長たぁ偉えもんだな!」

「オメのこった、そう言うと思ってただ。あいにく証拠ならあるだ。おい、金太!」

「ヘッヘッヘ。よう藤吉。こいつを見てみな!」

 村長の背後から、息子の金太の声。ぶくぶくと太った彼のその横には、泣き崩れる小さく痩せた男の子の姿が。

「と、藤三! なしてオメがここに?!」

「ははん! こいつが全部吐いたぜ~。藤吉、ぜんぶオメがやったってな!」

「ごめんよ兄ちゃあ……。金太に殴られて……オラ怖くて……」

「そういうことっただ。何か申し開きはあるか?」

 尊大に藤吉を上から見下ろす村長。にやにやと嫌らしく笑う男達。だが藤吉は下からまっすぐ彼らに向き合い、堂々とした態度で叫ぶ。

「ふん。来るなら来いや。けんどな、オラに手さ出したこと、将来絶対に後悔させてやるからな! オラは……いずれこの世界を手に入れる男だぞ!」

 一瞬の間を置いて、嘲笑いの渦。貧しく痩せ細った子供の大言壮語に、指を指して笑い転げる大人達。

「ぎゃっはっは! オメが世界だ? 冗談もほどほどにしろや」

「オメみてえな小汚ねえガキが偉そうによ! 笑い死にしちまうぜ!」

「アル中の倅がほざいてら! オメも酔っ払ってんだべ。ああ面白え」

 そのとき、風を切る音。同時に頭を抑え倒れこむ1人の男。皆がぎょっとして見つめる先には、怒りに震える茂吉の姿。

「……オメら絶対許さね! オラのダチを笑うんじゃねえ! 藤吉はな……一度言ったことは必ずやり遂げる男だ! オメらみてえにネチネチできもしねことを、ずっと陰でグチってるだけの奴らとは違げんだ!」

「も、茂吉! 待ってろっつったべ!!」

「ほう。やはりオメもいたか。丁度いい。まとめて教育してやんべ」

 村長の冷たい声。木の棒を構え嘲笑う大人達。藤吉と茂吉の顔にも力が漲り、腕捲りをして真正面からぶつかっていく。

「おら、行くぞガキども! 覚悟しろ!!」

「ざけんな! オラは不死身だべ!!」

 その言葉を追い風に突っ込む2人。武器を持った大人6人と丸腰の子ども2人、勝負の行方など分かりきっている。しかし、彼には進むことしかできない。そんな10歳の金蛇屋藤兵衛、初春のとある日。


 時間は現在。

 古びたあばら屋の隅に眠りこけた老婆。その傍らには、胡座をかいて悠然とキセルをふかす藤兵衛の姿があった。彼の瞳はとても優しく、目尻を下げて暖かく彼女を見つめていた。

「姉ちゃ、良き知らせじゃ。シャルの話によれば一時的な症状とのこと。しかし年齢が年齢じゃからな、とにかく安静が一番じゃと。お互い歳をとったものじゃな」

 そう言って笑う藤兵衛。答えは返らない。しかし彼は続けた。自分に言い聞かせるように、静かにゆっくりと言葉を紡いだ。

「今、虫が薬草を取りに行っておる。ああ、心配せんでもよい。あれは儂の奴隷のようなものじゃからの」

 一息、沈黙の奏でる静かな音。

「あの頃、儂は本当に生意気な糞餓鬼じゃったな。毎日茂吉と悪さばかりして、本当に姉ちゃには迷惑をかけてしまったの」

 外でふくろうが一声鳴いた。静かで星が綺麗な夜だった。藤兵衛は深く深くキセルを吸い、大きく吐き出した。

「いつも……いつだって姉ちゃは儂の味方をしてくれたな。あの時もそうじゃった。覚えておるかの? ほれ、あの時じゃよ。儂と茂吉が村長達と揉めて、そして……姉ちゃと別れた前日のことじゃよ」


 藤吉、10歳。

 夕刻近くになり、松の木からは2本の縄が垂れ下がっている。その先に吊るされているのは、全身ボロ布のような藤吉と茂吉。どこが目が口かわからないほど殴られ、血と青あざに塗れたその姿からは、後の彼の栄華は微塵も感じられない。その下には棍棒を肩に担いだ見張りの男1人と、泣き続ける藤三の姿。

「ごめんよう、ごめんよう。ねえ、お願いだから兄ちゃを許しておくれよう。お願いだから……」

「うるせえガキが! こりゃ村長さんの命令だべ。なんなら死んじまっても問題ねえとよ」

 冷たい声で言い放つ男の目、その奥に込められた強い蔑みの色を感じ、死にかけの藤吉は口の中に溜め込んだ唾を勢いよく吐き掛ける。

「……は! クソ村長の手下は……やはり……クソだべ。こんながオメらにゃお似合いだ」

「うおっ! 汚え! オメまだ殴られ足りねえか! 大人をナメんのも大概にしとけ!」

 棒を振り上げて、悪意を小さき身体に打ち付ける男。抵抗する力も残っていない藤吉は、ただされるがままに打撃を受け続ける。このままでは本当に死ぬ。茂吉は震え上がって命乞いの声を上げようとする。しかしあまりの恐怖に声など一つも出ない。ただ小便を漏らして水たまりを作るだけ。

(……参ったべ。こげなとこで終わりか。……ふざけんでね! オラは生きてやる! こんなとこで……死んでたまっか!!)

 だが、藤吉の思いとは裏腹に、現実では何も出来ることはない。身動き一つ取れずに、圧倒的な暴力の前になすがまま。男の瞳は徐々に狂気に染まり、手に込めた力がどんどん強くなっていく。既に少年は痛みすら感じなくなっている。そして、渾身の一撃が彼の頭を捉えようとした……その時!

「こら藤吉! オメ何してんだ!」

 荒場に相応しくない、若い女の甲高い声。そこにいた者たちが一斉に振り向くと、ボロボロの割烹着を着た、1人の少女の姿。がりがりに痩せ細り、糸のように細い目からは目の光は映らぬものの、張り裂けんばかりの音量からは彼女の必死さがありありと伝わる。

「姉……ちゃ?」

「あんだ、千里け。こりゃオメんとこのガキが悪さしでっから、オラ達で教育してやってっとこだ。逆に感謝して欲しいくれえだぜ」

 せせら笑う男に真っ直ぐ向かい合って、千里はその場で立ち尽くす。暫しの沈黙の後、彼女は覚悟を決めてつかつかと彼らに歩み寄ると、身構える男を一瞥もせず通り過ぎる。そして吊るされた藤吉のところまで進むと、その頬に強烈なビンタを放つ。バチンと凄まじい破裂音が辺りに鳴り響き、どんなに痛めつけられても微動だにしなかった彼の心は、根本からあっさりとへし折れていく。

「グェポ!!」

「オメ何やってんだ! いっつもいっつも悪さばかりして! 毎日何考えて生きてんだ!」

 連続して数発のビンタを放ち続ける千里。ただでさえ腫れた藤吉の顔が、更にみるみると膨れ上がっていく。

「ち、ちーちゃん。これは違えんだ! 藤吉はな……」

「オメも同罪だ茂吉! アホみたいにつるんで悪さばっかで! いい加減にせ!」

「ハグァ!!」

 茂吉にも放たれるビンタの嵐。何十発も放たれる激しい攻撃に、やがて男も我に帰って止めに入る。

「お、おい千里! 本当に死んじまうぜ。その辺でやめとけ!」

 千里は男の方を振り返り手を止めると、次の瞬間地面に頭を擦り付ける。

「ほんとうにすまねえだ! オラちの弟が本当にご迷惑おかけしました。どうか許してくだせえ。この通りです!」

「……あ? ああ。ま、オラもこの辺で許してやろうとは思っとったけどもな」

「ありがとうございます! ほれ、オメらも早く頭下げんか! このバカタレめが!」

 千里の烈火の如き迫力に押され、2人は縛りつけられたまま、明らかに渋々といった表情で頭を微かに垂れる。

「……すんません」

「……でした」

 男は彼らの態度にチッと舌打ちしたものの、くるりと村の方を向いて足を進める。

「まあええだ。もう2度とこんなことすんじゃねえかんな! おい、千里。ちゃんとこいつら見張っとけよ」

 こうして騒動は終わる。千里と藤三は手分けして彼らを木から下ろす。女手と小さな子供にはかなり大変な作業。だが彼女らは時間をかけて丁寧に彼らを解放していく。

 そして1時間後、藤吉と茂吉はやっとのことで自由になる。息を切らせて微笑む藤三。そしてバツの悪そうに下を向いたままの2人に、細い目を広げて大きく美しく笑う千里。

「さあ、2人とも。ウチに帰っぞ。藤吉、今日はオメの好きないもがらの煮付けだ」


 静かな部屋。

 現代の金蛇屋藤兵衛と、老婆となり眠りに付く千里が、狭い室内で顔を合わしていた。藤兵衛は目を細めて楽しそうに笑い、1人昔話を話し続けていた。

「いや、しかし姉ちゃのビンタは効いたわい。それまでの暴力など屁の如しじゃったぞ。茂吉も同じことを言うておったわ」

「藤吉、藤三、熊美。なーんも心配なんて要らね。オラがずっと守ってやっかんな……」

 突然呟かれた言葉に反応し、細い目を更に細めた藤兵衛。何回目か分からぬほどにキセルの火を付け、彼は照れるような、それでいて何処か諦めたような態度で体を屈め、煙を吐き出しながらぽつりと言った。

「こんな時まで儂らの心配とはな。相変わらずとんだお人好しじゃて。……なあ、姉ちゃ。儂はの……ずっと考えておった。姉ちゃに自分の幸せを掴んで欲しいと、ずっとずっと思っておった。あの日の夜のこと……覚えておるかの? ほれ、儂らが初めて姉ちゃの夢のことを聞いた、あの夜じゃよ」


 過去。

 夜が更ける。村外れ、あばら家。

藤吉と茂吉は疲れ果て、居間の朽ち果てた床の上で、何も話すことなくぼんやりと天井を見ている。時折隙間風が入ってくるが、2人は気にも留めずにただ全身の痛みに耐えているだけ。

 やがて、土間の方からいい匂い。暖かで、胃袋に染み渡る匂い。2人の腹の音が同時に大きく鳴る。ここで初めて彼らは目を合わせ、声を出して笑う。

「なんつう下品な音だべ。しかし……腹減ったな」

 藤吉は横たわったまま後頭部で手を組み、ぼんやりと空に向けて言う。

「まんずいい匂いだべ。そういや昨日からなんも食ってねがったな。オメんとこのメシはうんめえから楽しみだべ」

 茂吉は鼻を鳴らしながら呑気に口笛を吹く。

「姉ちゃは煮付けぐれえしか出来ねけんど、藤三がなかなかやるんだ。あいつ、将来は料理人になりてえみてえでよ」

「そりゃいいや! こないだのイモガラの炒め物も絶品だったべ。あいつならいい料理人になれんべな」

「けんど……この村におったらそがなこと許されね。分かんだろ?」

「だな。百姓になるしか道はね。オメも……もちろんオラもな」

 自らが放った言葉から跳ね返る響きに、ただ押し潰されそうになる2人。少年たちは自分たちの目の前に広がる、分厚くて硬い雲の存在にとうに気付いている。彼らは本来の年齢よりも余分に、不必要に年を経ている。

「オラは……絶対にここさ出てく。都会に出て自分の道を見つけんだ。いつか必ずな」

 藤吉は語気を強めて、自分に言い聞かせるように呟く。茂吉はぼんやりと、それでいて視線は彼から逸らさずに返す。

「その話はもう100ぺんは聞いただ。で、具体的には何になるつもりなんだ?」

「そりゃ……わかんね。けんど、必ず何かになってみせる。ぜってえだ!」

「そりゃ結構なこった。ま、オメはオラたちとは違えかんな」

「そりゃどういう意味だ? 同じ村で育った同じ貧乏人同士だべや」

「そのまんまだべ。長え付き合いのオラには分かる。オメは普通の男じゃね。……ま、何にせよ出てく時は必ずオラにも声かけろよな」

「ああ。もちろんだべ。……なあ、さっきの事だけどよ………ありがとな」

 言ったすぐに恥ずかしそうにそっぽを向く藤吉、不思議そうに首を捻って問い返す茂吉。

「なにがだ? オラなんかしたか?」

「オメ……オラのために怒ってくれたよな。隠れてりゃ殴られずに済んだのによ。なのに……出て来てくれたよな」

「そういやそだな。なんか頭きちまって、気付いたらやられちまっただ。まんず失敗しちまったべ」

「……オラ、今日の日のこと死んでも忘れね。オメがしてくれたこと、あのクソどもにやられたこと……どっちも絶対に忘れね」

「ったくよ、オメは蛇みてえに執念深くてやんなっちまうだ。そんなんじゃ生きてても疲れるだけだべ。オラみてに気楽に生きてきゃええんだよ」

「ふん! オメみてに能天気なら楽で仕方ねえべさ! んっとに昔から変わんねな」

 2人は顔を合わせて再び笑う。そんな中、千里が暖かな湯気立ち上る料理を抱えて土間から現れる。

「なに笑ってんだアホども! もうご飯だで。ぼさっとしてねで運ぶの手伝えや」

「悪いなちーちゃん。藤吉のバカがバカ過ぎてよ。ほんと手え焼くだよ」

「うっせ! オメが悪いんだべや! なあ姉ちゃ、オラはな……」

「うっせのは2人ともだ! さっさと手伝え!!」

「「グェポ!!」」


 夕食の時間。一見粗末に見えるが、手の込んだ暖かい食事。藤吉と茂吉は楽しそうに会話をしながら、暖かく栄養に満ちた食事をこれでもかと腹に詰め込んでいく。

「うんめ! まんずあったまんなあ。こりゃおおごっつぉうだべ。姉ちゃは煮物だけはほんとうめえなあ」

「だけとか言うでね! だったら食わんでええだ!」

「いや、ほんとうんめ! ちーちゃんの煮物はほんとにうんめ! この豆のなんかもやたらうめえだ」

「そりゃ藤三の作ったやつだ! オメはらほんとに礼儀ってのを知らねな」

 争うように意地汚くかっこみながら、2人の悪ガキは昼のことなどすっかり気にも留めず、実に楽しそうに笑う。千里は彼らへの口調こそ激しいが、その背後には暖かく優しい色が含まれている。だがそんな彼らを尻目に、藤三だけは1人下を向いて黙り込む。

「あ? どした藤三? ずいぶん元気ねえな? クソでも踏んだか?」

「グッハッハ! ドジな藤三のこった。そりゃあり得る話だべ。さっさと食わねえとオメの分も食っちまうぞ」

 底抜けに明るい2人をちらりと横目で見ながら、やがて藤三はさめざめと涙を流し始める。

「ごめん……兄ちゃ、茂吉っちゃん。オラが喋っちまったせいで、2人ともこんなに殴られて。オラ……オラ怖くて……」

「ええんだ藤三。このバカどもにゃええ薬だべや。なんも気にするこったね」

 千里が終えた料理を下げながら、優しく言い聞かせるように話す。だが藤三は顔を下げたまま、藤吉の方を真っ直ぐ見れない。

「でも、姉ちゃ。オラ情けなくて……こんな弱い自分が許せなくぐって……」

「一つだけ言っておくぞ、藤三」

 藤吉が急に真面目な顔になり、茶を啜りながら厳かに告げる。藤三はその迫力に泣くのを止めて、伏せ目がちに彼の顔を見つめる。

「オメはな……オラのたった1人の弟だ。なんも気にするこたね。それよりよ……今日の料理はちっと塩が足んねな。もちっと気ぃつけ」

「ありがとう……兄ちゃ。ほんとに………」

「へへっ。なんか知んねけど一件落着だべ。よかったよかった。ま、元はと言やオラたちが全部悪いんだけどな」

 茂吉の呑気な言葉に大きく笑う一同。穏やかな団欒、笑い楽しむ家族たち。だがその時、玄関のガタついた扉が無遠慮に開く不吉な音がした。

「ん? んな時間に誰だべ?」

「熊美だ。今、おばさんとこに預かってもらってんだ。はい! すぐ行きます」

 そう言って玄関に向けて走り出す千里。目を伏せて何も言わない藤吉。しばらく続く、玄関でのやり取り。一方的に人を責める甲高い声。謝り続ける細い声。そして数分後、無遠慮な足音を立てて誰かが居間に入る。

「やっぱり噂通りだべ。おい、藤吉! オメ一体なに考えてんだ?!」

 鋭い釣り目の婦人が、藤吉を睨み付けてヒステリックな声を上げる。だが彼はそれを一瞥しただけで、すぐに無視して茶をかっこむ。

「その態度だ! いっつもオメはそだな! そのクソ生意気な態度、まんず義姉さんにそっくりだべ!」

「……母ちゃは関係ねべ。用がねえならさっさとけえれや」

「ああ!? 誰のおかげでこの村で生活できてっと思ってんだ! それなんに、よりにもよって村長さんとこに手え出すなんて! ふざけるのもええ加減にせえ!」

「ざけてんのはそっちだべ! 母ちゃが死んでからオメのやった事……オラ一生忘れねかんな!」

「オラはオメらを助けてやっだんだ! 感謝こそされど、恨まれる覚えなんてね! 恨むんなら勝手に死んだ義姉さんにすんだな!」

「あれのどこが手助けだ! オメに土地奪われて、糞みてえな噂立てて村八分にされて、ぜんぶオメのせいだろが!」

 激しい怒声、刃の如き言葉の応酬。泣き出す藤三と熊美。身を屈め隠れる茂吉。だがただ一人、堂々と2人の間に入り込む千里。彼女は無言で藤吉の頭をどつき黙らせると、その場で頭を地面に擦り付ける。

「伯母さん。いつも熊美を預かっていただき本当にありがとうございます。確かに藤吉は悪いことさした。口も悪いし態度もロクなもんじゃね。けんど、オラはこの子が芯から悪いとは、どうしても思えねえんです」

「千里! オメが甘やかすから藤吉がつけ上がんだ! こんな浮浪児まで家に上げて! このままじゃ藤三や熊美まで道を間違えちまうかんな!」

「叔母さん。藤吉も、茂吉だって悪い子じゃねです。オラが責任持って育てますから、どうか許してくだせえ。この通りです!」

 千里は更に何度も頭を地面に押し付ける。そこには、痩せ細った背からは、無言の迫力が漂っている。誰も言葉を発せずに数秒が経過し、やがて忌々しそうにその姿に舌打ちを浴びせる婦人。

「ふん! ま、いいべ。ただしオラん家にだけは迷惑かけんでねえかんな。じゃ、熊美ちゃんまたな」

 何も分からずに手を振る幼い熊美。婦人はにこやかに手を振り返し、直後に再び顔を怒らせて去っていく。場は沈黙が圧倒的に支配、そのうち茂吉はバツ悪そうにひょろりと細長い体を立ち上げる。

「なんだか参ったな。ま、いつものことだけんど。じゃオラ帰るわ。藤吉、また明日な」

 何も言わずにその場に佇む藤吉に弱々しい笑みを浮かべ、玄関から去る茂吉。それを笑顔で見送る千里。

「じゃな茂吉。懲りずにまた来いや。……そういやオメの服ボロボロだな。今度新しいの作っといてやっからよ」

「え? 本当け? ちーちゃんは本当に神様だべ! きっといつか幸せが訪れっかんな」

「ガキが偉そうに言うんでね! じゃ、気をつけて帰んだかんな。寄り道してっど熊に食われちまうぞ」


 食事も終わり、後片付けに移る千里。無邪気に藤三と遊ぶ熊美、藤吉は暫し逡巡した後、土間の彼女の元へ向かって行く。

「……姉ちゃ。今日はすまねかったな」

「あんだ、今日はやけに素直だな。明日は嵐でも吹くんでねか?」

 冷たい水作業をを中断し、千里は驚きと笑みを同時に顔に浮かべる。藤吉は照れ臭そうに視線を外し、珍しく口籠りながら問う。

「そ、そんなんじゃねけんどよ。姉ちゃ……理由は聞かんのか?」

「オメのこった。なんか理由あんだべ。見てりゃわがっから言わねでえ。オメはどうしようもねえ悪ガキだけんど、理由なく人を傷付けたりはしね。オラは信じとるで」

 藤吉の胸の奥には、暖かいものが次々に溢れ出していく。彼はそれをごまかすように、その場にどかりと座り込む。一作業終えた千里はふっと微笑み、その隣によいしょと腰を下ろす。

「……オメにゃこの村は狭すぎんのかもな。もし出てきてえなら構わねぞ。オラたちに遠慮は要らねから」

「言われねでもそのつもりだ。でも……何をどうしていいかも分からね」

「……そっだな。ならよ、今のうちにやりてえこととか、大切なものとか見つけとけ。で、もし見つかったら、それに向かって突き進めばええんじゃねか?」

「んなもんオラにはね。今日生きてくだけで精一杯だ。……そういう姉ちゃには何かあんのか?」

「………」

 不意の問いかけに言葉に詰まる千里。彼女は少し躊躇った後、立ち上がって箪笥から何かを取り出す。

「……見てみ」

 くしゃくしゃに丸められた、何度も何度も手を加えられたドレス。生地自体はその辺のボロ布の端切れを集めたものだが、綺麗に繋がれその色合いは独特の輝きを放っている。

「お、驚えた! これ……まさか姉ちゃが作っただか?! まんず信じられね!」

 藤吉は驚嘆して何度も何度もドレスを眺める。千里は恥ずかしそうにそれを奪い返すと、顔をほんのりと赤らめてちらりと彼の方を伺う。

「もうええべ! ジロジロ見過ぎだ! で……どう思う? まともにできとっか?」

「もちろんだべ! こんな綺麗なベベ、オラ見たこともねだ! 姉ちゃはこっだら作んのが好きなんか?」

「……ほだ。実はな、オラには夢があんだ。こういう服をいっぺえ作って、お店をやりてえんだ。なにもでけえ呉服屋をやりてえんじゃなくて、ビャッコ国に出て勉強してから、小さくていいから自分だけのお店をやりて。で、オメら兄弟を呼んで、オメらの家族も一緒に仲良く暮らすんだ。オラそんだけで満足だ。……笑うか?」

「笑うわけね! そっか……オラ初めて知っただ。……よし、オラ決めただ! オラは姉ちゃの夢を叶えるために金を稼ぐだ! そっだらお店も早く持てんべ。そうだ、そうすべ! ほったら待ってけろ。いっちょ茂吉に相談してみんべ」

 そう言うや否や、藤吉は腕まくりをして弾丸のように外に駆け出そうとする。だが千里はそれを慌てて止める。

「待て藤吉! ちっと待ってろや」

「いんや、止まんね。オラに立ち止まってる暇はね。一刻も早く金稼がねと」

「バカタレ! そういう意味でね! オメのこと止めたって無駄なんは、オラがこの身をもって一番よく知ってるだ。……ほれ、これ茂吉にやんな」

 千里が納屋から取り出したのは、山ほどのトウモロコシ。思いもよらぬ贈り物に、藤吉は驚き昏倒せんばかりの勢いで尋ねる。

「こ、こりゃうちのもろこしじゃねか! ありがてえけど、でもいいんか? 姉ちゃはいっつも、売りもんにだけは手え出しちゃいけねえって言ってんべ?」

「ぜんぶ売れ残りだ。形が悪いとかなんとか言われて、こんなに残っちまっただ。捨てんのも勿体ねえから食っちまうべ。茂吉はおっとうもおっかあもいねえかんな。きっと今ごろ腹空かせてんべ」

「悪いな姉ちゃ。きっとあいつも喜ぶべ。……そうだ! おい、藤三! 熊美! ちとこっちさ来いや!」

 大声で呼ぶ藤吉の声に、ばたばたと居間から走ってくる2人の幼子。

「どした、兄ちゃ? おら達なんもいたずらしてねぞ」

「ほだよ、オラなんもしてね。兄ちゃの大切なあの菓子なんて手も触れちゃいね」

「ば、バカ! 熊美! そのことは絶対言うなって言ったべ!」

「オメらあれ食ったんか! せっかくパク……手に入れたグラジール土産だってのに、このバカタレどもが! ……まあその話は後にすべ。ほれ見い。とうきびじゃ! オメらあの歌を歌うぞ!」

「ほんとだ! やった! オラうちのとうきび大好きだべ!」

「あ、あの歌オラ大好き! 熊美も一緒に歌う~」

 3人は両手にトウモロコシを持って角のように突き上げながら、奇妙な振り付けと奇怪な拍子で、たどたどしく歌い始める。

「とうきびは~三角畑の出がらしじゃ~取れても取れても夢のまた夢~」

 何度聞いても意味の分からない節を聞いて笑い転げる千里。踊る3人も心から楽しそうに笑っている。歌詞を変え、踊りを変え、いつまでもいつまでも踊り続ける兄弟たち。

「……ああ可笑しい。ほれ、そろそろ終いにせ。オメら今何時だと思ってんだ! 藤吉も早く持ってってやんな」

「いけね! もうこんな時間だべ。そんじゃオラ行くぞ。姉ちゃ……オラにぜんぶ任せとけ!」

「ったく、いつも口だけはでっけんだかんな。ま、期待しねで待ってんべ」

「へへ。こりゃ約束だ。オラは姉ちゃのために必ず大金を稼いでみせんべ。このオラを誰だと思ってんだ?」

 そう言い残し、後ろを振り向くことなく走り去る藤吉。呆れたように見る千里の顔には、優しげな美しい笑みが浮かんでいる。

「ったく、頼りになんだかなんねんだか。けんど……ありゃオラの自慢の弟だべ」

 夜が静かに流れていく。暗闇の中に聞こえる虫の音だけがその行先を知っている。


 再び現代。

 家の中を無造作に漁っている藤兵衛。戸棚の中に眠る幾つかの着物。寂れたあばら家に似つかわしくない、趣味のいい色とりどりの着物。それを目にし、彼は一瞬言葉に詰まり感慨深そうに目を細めた。

「……相変わらずじゃて。あの頃から変わっておらぬわ」

 藤兵衛はそれらを何度も何度も手に取り、繁々と眺めては静かに微笑んだ。しかしその時、レイが無遠慮に入り込んで来た。

「なにしてんだてめえ! 人ん家勝手に漁りやがって! さては金目のもんでも盗もうってハラだな!」

「何じゃと! 貴様と一緒にするでないわ! これだから野蛮人は嫌いなのじゃ!」

「うるせえ!!」

「グェポ!!」

 いつもの喧騒。だがそれにあてられたのか、眠りに付いていた千里が突然目を開いて微かに呻いた。

「……ふああ。熊美、ダメだかんな! 人様に暴力振るっちゃ」

その声にはっと振り向いた2人。千里は目をぱちくりと瞬きし、嬉しそうに微笑んだ。

「あんら、そちらの方はお客さんかね? こんな狭えとこですみませんねえ。今お茶を出しますから」

「……要らぬ。何も気にせずそのまま休めばよかろう」

「誠に申し訳ありませんねえ。歳食って体がうまく動きませんで。ああ、こんな時に藤吉はどこほっつき歩いてんだか。やっぱり……オラが“約束”を守れねかったかんなあ」

 藤兵衛はその言葉を耳にすると、歯を食いしばりながら静かに立ち上がった。そして、彼はきょとんとした態度のレイに対し、一言だけどうにか振り絞った。

「ちと……外の風を浴びてくるわい」

 外。春の夜風が心地よく肌に染みていた。藤兵衛は地面にごろりと横になると、その姿勢のままキセルに火を付け、静かに星を眺めた。

(約束、か。守れんかったのは……儂の方じゃて)

 遠い星々の瞬きが、彼を飲み込まんばかりに狂おしく輝いていた。

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