第20話「巍然」

 月日は経過し、数日後。雪深い山中。

 切り立った険しい山脈に四方を囲まれ、一台の力車が当てもなく佇んでいた。車体の右半分は大木に打ち付けられ見る影もなく崩壊し、引き手は引き千切られて完全に外れ、とどめとばかりに両側の車輪が虚空に飲み込まれたかのように見事に無くなっていた。

 車体のすぐ側には、頭を抱えしゃがみ込む銀髪の大柄な女、そして外で吐き続ける長身で長い髪を1つに束ねた侍。

「ウェェェェエ!! も、もう限界にござる……」

「ったく、情けねえなあ。ちっと揺れただけだろ。そんぐれえガマンしろや」

 絶望的な状況に悪びれもせず、レイは大きく舌打ちをした。亜門はキッと鋭い視線を送るも、またすぐに嘔吐の海に身を任せた。

「あれのどこが……ちょっとでござ……ウェェェェエ!!」

「大丈夫ですか亜門!? 顔色が緑色ではないですか!」

 その時、車内からシャーロットがふわりと降り立ち、心配そうに亜門の背をさすった。気まずそうにその場を立ち去ろうとしたレイの背に、刃の如き言葉が突き刺さった。

「待ちなさい、レイ。一体……ここはどこですか?」

「え、ええとですね。も、もうすぐナントカ鉱山に着くと、その……思われるかと………」

「私の目を見なさい、レイ。いい加減白状なさい。貴女は……また道に迷ったのですね?」

「いや、でもこれはその……そうだ! あのクソ商人の伝え方が悪かったんですよ! あのクソが嘘教えやがったんだ! そうに決まって……!!」

 来るべき過酷な“お仕置き”に備え、全身に力を込めたレイが感じたもの。それは驚くほどに暖かい温もりだった。その背を優しく抱き締めると、シャーロットは言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「こっちを向きなさい、レイ。貴女の頑張りはたしかに私に届いておりますよ。藤兵衛の穴を何とか埋めようと、貴女なりに奮闘した結果でしょう」

「……お嬢様」

「勘違いしないで下さい。私たちは主従である前に、対等な仲間なのです。仲間の過ちを取り返すのは当然の事です。さあ、はっきり答えなさい、レイ。ここは何処で、どの道を通って来たのですか?」

「ぜんぜんサッパリです! カンですんで!」

「……」

 ゆっくりと離れていくシャーロットの掌には、無数の術式が渦を巻いていた。束の間の破壊と絶叫の交響曲の中で、亜門は合点がいったように目を見開いた。

(ま、まさか……そうでござるか! あの熱い抱擁、愛憎の入り混じる感覚、もしや魔女めの思い人とは……)


 3人の旅は岐路に立たされていた。いや、それは適切な表現ではない。正確に言えば、現時点での彼女らが進む事の出来る道などは存在しなかった。力車は壊れ、現在地は不明。四方は険しい山脈に囲まれ、人の気配一つなかった。彼女らは火を囲んでその辺の石に腰掛け、絶望的なこの先の道のりについて話し合った。そうせざるを得なかった。

「とにかくでござる。まずは人気のある場所に出なければ。ここにいても何もなりませぬぞ」

「おし! じゃあ右の山を超えようぜ。俺のカンがそう言って……ギャアアアアアアアアアア!!」

「貴女はお黙りなさい、レイ。しかし……本当に困りました。何か策はありませんか、亜門?」

「あったら既に申している。闇雲に進んだ所で、雪山を枕に野垂れ死ぬが必至ぞ。はてさて、一体どうしたものか……」

 3人は同時に深くため息をついた。そして考え込むこと15分、シャーロットは突然すくりと立ち上がり、意識を集中させて不思議な術式を構成した。

「おい、魔女。それはなんの妖術だ?」

「これは感知の術です。半径数キロ圏内の人や生き物の気配を探るのことが出来るのですが、果たしてこんな場所に何がいるのかは……」

「そ、そうですね! さすがはお嬢様だ! おい亜門、てめえも応援しろ! 早く!」

「まったく都合のいい御方でござれば。おい魔女。やるならさっさとやれ。今の己らにはどんな手掛かりも必要ゆえ」

「畏まりました。……『ペルセプシオン』!!」

 術式の崩壊と同時に、シャーロットの目の前に鏡のような薄い板が浮き出された。それはゆっくりと回転を開始し、やがて球形の空間を形作った。球体は周囲の生体反応の感知を開始したが、そこに映る姿はまばらな小動物の反応のみだった。暫しの間興味深く見つめていた3人だったが、10分が経過しても何一つまともな反応がなく、がっくりと肩を落とすレイと苛立ちを隠し切れない亜門。

「お、お嬢様。その……まあこれもしかたねえかと。俺が責任持って道案内しますから、どうか落ち込まないでくだせえ」

「ふん。偉そうに申しておいてこの体たらく。どう責任を取るつもりでござるか!」

「うるせえ! てめえがいるとややこしくなんだ! ちっとすっこんでろ!」

「グェポ!!」

「申し訳ありません。私の力ではこれが限界です。あるのは小さな反応のみで、先程から探知範囲を動かしていますが、上位の霊的存在は何も………え!? こ、これは!!」

 突如として目の前で沸き起こった事態に、口を開けて驚きを隠せないシャーロット。その様子を見て2人も慌てて球体を覗き込んだ。そこにあったのは、漆黒に燃えるような絶大な霊的反応だった。ここから遥か遠方ではあるが、何とか認識出来る距離のギリギリに、通常では考えられぬ凄まじい炎が巻き上がっていたのだった。

「な、なんでござるか!? おい、魔女! これは故障したのではないか?」

「……考えられません。こんな反応、見たことも聞いたこともありません」

「おっ。マジだ。こりゃでけえぞ。眷族の反応ですかね?」

 シャーロットは乱れた息をすぐに落ち着かせ、噛み砕くような言い方でゆっくりと2人に告げた。

「私にも分かりません。ですが……極めて独特の力を感じます。恐らく人間の気配でも、眷族のものでもありません。しかし……こんなに巨大な反応とは一体……」

「へっ。とにかく行ってみりゃいいでしょ。腹も減ったし、美味そうなら食っちまえばいいや。おい亜門、荷物持て。俺はお嬢様を担ぐからよ」

「こ、これを全てでござるか? ……おのれ魔女め! なんと多い荷物か! 何と忌まわしき存在であろうか!」

 こうして一行は再び歩みを進めた。道なき雪原をひたすらに、手がかりの反応に向けて一直線に。彼らの間に会話はなく、ただ粛々と“巨大なもの“に向かった。そこに何かがあると期待している訳ではなかった。しかし、彼らにもう選択肢はなかった。雪に足を取られ、前を断崖に塞がれ、森を傷だらけになりながら掻き分け、2時間ほどで“それ”は姿を現した。

 反応地点にあったのは、一際高くそびえる山脈だった。完全なる行き止まり。立ち尽くし呆然とするシャーロットとレイに対して、亜門は怒気を隠す事なくどかりとその場に腰を下ろした。

「おい魔女! どうなっているでござるか! 本当に反応はここからなのだろうな!」

「申し訳ありません、亜門。確かにこの場所から膨大な力が放たれておりますが……おかしいですね。これだけの反応が誤りであるとは思えません」

「まあまあ、しかたねえっすよ。またべつの道を探しましょうや」

「……そうですね。どうやら誤反応のようです。私の術が不完全で申し訳ありませんでした」

「ふん! 使えん魔女めが! だがまあこれ以上責めても仕方なきこと。さて、何処へ行けばよいものやら……ん? レイ殿?」

 亜門の問いかけを手で制し、レイは意識を集中させてくんくんと鼻を鳴らしていた。ある地点でレイは深く息を吸い込むと、一切の迷いなく風を纏い山脈伝いを駆け上がり始めた。

「ど、どこに行かれるのですか? レイ殿!!」

「……」

 亜門の問いには答えず、レイはシャーロットを抱えたまま、ただひたすらに進んでいった。道無き道を縫い、雪や大木を掻き分けて、自分の感覚だけを頼りに、ただひたすらに。

 そして数分後、レイは山脈の岩肌にポッカリと空いた、巨大な洞窟に辿り着いていた。入口の半分以上が雪や植物に覆われているが、よくよく注視すれば辛うじてそこに空間があると認識できた。遅れて辿り着いた亜門は、それを確認すると思わず驚嘆の声を上げた。

「こ、こんなところに洞窟が! さすがはレイ殿! とんでもない嗅覚でござる。まさに狼そのものにござるな」

「うっせえなあ。なんか湿った匂いがしてたんだよ。さてお嬢様、どうします? 入ってみますか?」

「もちろんです。さあ、皆で進みましょう」

 そう言ってずかずかと足を踏み入れたシャーロットとレイ。重い荷物を抱えたままの亜門は躊躇いながらも、周囲を警戒しながらそれに続いていった。


 洞窟内は入り口と同じくらいだだっ広く、一本道がかなり深くまで続いているようだった。暗闇の中でシャーロットが術式で灯りをつけ、それに従って一行は進んでいった。

 200メートルほど進んだところで、3人は同時に強い気配を感じた。今まで感じたことのない、圧倒的な存在感。レイは後方の亜門を振り返ると、汗をかきながら注意を促した。

「……とんでもねえモンがいやがんな。肌の圧がすげえ。亜門、気いつけろ」

「御意にて。全身の神経が引きちぎられるようでござる。ですがこれは……この感覚に……己には経験があり申す。恐らくこれは……」

「ええ。近くに来てようやく私にも分かりました。間違いないでしょう」

《ようこそ、小さき者達よ。100年振りに我が住処へ来たのが、よもや神の一族とはな》

 突如として声が響いた。“それ”は声一つとっても、圧倒的な響きを放っていた。いや、声というよりそれは、魂に直接話しかけているかのようだった。

 その圧倒的な存在感に震えが止まらない亜門を尻目に、シャーロットはレイの背から地面に降り立つと、恭しく儀礼的なお辞儀をした。

「ご機嫌麗しゅう、陛下。挨拶が遅れた件、平に御容赦を。もし宜しければお邪魔してよろしいでしょうか?」

《大歓迎だ。暇過ぎて死にかけてた所よ。大したもてなしは出来んが、話し相手にでもなってくれ》

 シャーロットはにっこりと微笑むと、そのまま奥へ歩いて行った。それに躊躇いなく続くレイ、すくみそうになる足をなんとか前へ押し出す亜門。

 やがて、道が急に開かれ、そこには広大な空間が広がっていた。奥にあるものは、最初は壁かと誰しもが思った。しかし、それこそがこの洞の主。10メートルを優に超える身体に力を漲らせ、遥か頭上高くから彼らを見つめる……1体の巨龍だった。漆黒の鱗に全身を覆われた古き龍からは、威圧とも親愛とも例えようもない威容を放ち、常人ならば即座に失禁してもおかしくない程の圧力がその場を支配していた。

「おい、龍だってよ! マジか! 俺初めて見たぜ。ほんとにいるんだな」

「失礼ですよ、レイ。この大地の守護者にして、古き種の代表が龍族です。恐らく私の見立てでは……相当上位の御方かと。速やかに頭を下げなさい、レイ」

《グッハッハッハッハ! 今は龍などお伽話か。時代は変わったのだな》

 快活に笑う彼の姿を見て、亜門の脳裏に何がが過った。かつて何処かで見たその威容、そして漆黒の鱗。何がが彼の記憶を揺さぶっていた。

「!? ま、まさか……貴殿は……?」

「んだてめえ! 龍ごときにビビってんじゃねえぞ!」

「ち、違いまする! 龍族は秋津国の守り神。己らにとって龍とは、幼き頃より実に身近な存在にて。た、ただこの御姿は……いや、まさかそれは……」

 放心したように立ち尽くす亜門を怒鳴り付けるレイ、それを無視してシャーロットはつかつかと、偉大なる巨龍に近付き深々と頭を下げた。

「はじめまして、陛下。私は西大陸の神族ハイドウォーク家末娘のシャーロットと申します。以後お見知り置きを」

 その言葉を聞いた黒龍は、うたた寝のように閉じられた細い目をゆっくりと開いた。そして目の前の光景をしげしげと見つめ、やがて再び目を細めて心地好さそうに微笑んだ。

《……そう来たか。成る程。まさか最後の最後にな。誠に人生とは奇貨の連続だ。……我の名はフィキラ。龍位も待たぬ身分、気にせず呼び捨てで構わんぞ》

「ありがとうございます、フィキラ様。私のことも気軽にシャルちゃんと呼んで下さい。不躾ながら、腰掛けてお話ししてもよろしいでしょうか?」

《勿論構わんよ。しかし……お前は美しいな。子孫だけあってアガナ様によく似ている。まるであの方の生き写しだ》

 フィキラの言葉に、一同は揃って驚嘆し言葉を失った。そんな一堂を不思議そうに眺める彼に、レイが先陣を切って踏み込んだ。

「アガナって、あのアガナ神教の? てめ……いや、あんたは知ってんのかよ?」

《無論だ。……遥か昔だが、今でもこの老いぼれの瞼には鮮明に刻まれている。“神々の時代”を終わらせたあの戦い。我ら龍族と人間が肩を並べ、神々と戦った『神戦争』。アガナ様はただ1人、我らに付いて戦って下さった。あの方が居らねば、かの戦いに勝利する事は絶対に不可能だったろう。彼女の力は桁が違っていた。人も龍も比較にならん程だったよ》

「……まあ。俄かには信じられません。私どもの伝承では、アガナ様は神々の裏切り者とされておりましたから。人の世の信仰通り、慈愛と慈悲に満ちた方だったのですね」

《確かにその通りだ。無論、あの方に慈愛満ちし面があったのは間違いない。だが真実を知る者として言わせて貰えば、そんなのはただのオマケだ。実はな、あの方は……1人の人間に恋をしたのだ。全てはたったそれだけの理由よ。愛する人間を守ろうと、全ての神々を敵に回し鬼神の如く戦った結果、人間は神々からの独立を果たした。歴史家には一笑される逸話かもしれんが、現にこの目で嫌という程見せ付けられたから間違いない》

「アガナ様が、神族が、人間に……恋を? ま、まさかそんなことが……本当なのですか?!」

 シャーロットが顔を上気させ、赤くなった頬に手を当てて尋ねた。レイが呆れた顔で頭を掻き毟る中、フィキラは1人呆然と佇む亜門と、その腰の刀を目を細めて見つめていた。

《そうだ。我の知るアガナ様は、後の世で称される闇術の天才というだけでなく、神々の反逆者と称される無頼の徒などでもなく、只の恋する小娘にしか見えなかったぞ。全く愉快な話だ。世界を変革せんほどの術者が、1人の男に運命を捧げたのだからな。……まあ、我も人のことは言えん。かつて人間に惚れ込んだのは我も同じよ。そうだな……金島の侍よ?》

「!! そ、それは……かつての秋津島の呼び方でござる! となると、やはりあなた様は……」

《フッハッハッハッハ! 秋津という名は我が付けたのだ。あの阿呆の国が今も残っているとは驚きよ。典膳は我の数少ない人間の友で、人生で唯一この背を許した男だ》

「や、やはり! あなた様が仰っているのは、秋津典膳公のことでござりましょうや! 秋津国の創設者にして、人の身でありながら神々と戦ったという伝説の! とするとあなた様は典膳公の盟友、伝説の黒龍フィキラ様で相違ありませぬか!」

 黒龍は今日初めて歯を見せて笑った。地響きが起こるほどの激しい勢いで、とても愉快そうに。彼は威圧感を完全に内に収め、巨大な翼を折り畳んで座り込むと、口調をガラリと変えた。

《ったく、俺とあの阿呆がそんな呼ばれ方されてるとはな。これだから人間と話をするのは愉快だぜ。そう、俺はかつて典膳と一緒に神々と戦った。あいつはあの小っぽけな島や家族を守る為に力を欲し、俺は暇潰しのつもりだったんだがな。いつの間にか俺たちはダチになっててよ、おかげでひでえ目に何度も合ったぜ。死にかけたのも一度や二度じゃなかった。あいつといるとよ、物事はいつも必ず思い通りにならなかったからな。ま、今となっちゃ俺のかけがえのない思い出だ。歓迎するぜ……典膳の意思の先に有る男よ》

 フィキラは粗雑な言い方ながらも雄弁に、そして実に感慨深そうに語った。亜門はその言葉の一つ一つに身体を震わせ、その場で正座して頭を深々と下げた。

「何という……何というお話しでござろう。まさか国父たる典膳公のご友邦とこうして会話を交わせるとは! 申し遅れました。己は高堂亜門と申します。秋津は睡蓮群、高堂家家中の者でござりまする。フィキラ殿、この出会いに感謝いたしますぞ」

《高堂? ……ってお前、もしかして龍鳳の子孫か!? 本当かよ?! あいつ結婚できたのか!》

「!! た、確かに高堂家の祖先は龍鳳公にあらせられますが……。ご存知頂き光栄に存じまする」

《ご存知も何も……龍鳳は典膳の親友で、勿論俺のダチの1人だ。そうか、お前がねえ。最初に感じた通り縁があるな。いやあ、しかしあの堅物の子孫とはねえ。……ちとお前らとゆっくり話がしたい。俺は暇を持て余してんだ。息災のようだが少し頼めねえか?》

 亜門は即座に頷いて、期待を込めた目で2人を振り返った。にこやかに笑みを浮かべるシャーロット、ため息をつきながらどかりと座り込んだレイ。答えは既に出ていた。龍の住処での奇妙で神秘的な会合。その先にあるものは、近い将来に彼らの旅を左右する強大な力に繋がっていた。だがまだ彼らは何も知らない。しかし、その糸は確実に紡がれ始めていた。


 暫しの時間が流れた。一同は龍の住処で互いの話題に花を咲かせていた。フィキラは穏やかに、時折懐かしそうに目を細めて、ゆるりとした時間が流れていった。

《ええ!? そうすっとシャーロットはハニエルの孫なのかよ! あの腹立つエロ野郎め……》

「ふふ。御祖父様は私に唯一優しくしてくれた方です。そういうことも含め、色んなことを教わりましたよ。私は御祖父様が大好きです」

「ハニエル様かあ。お嬢様には悪いけど、俺はあの人苦手だったぜ。なに考えてっかわかんねえっつうか、目の奥が笑ってねえっつうかさ」

「はっはっは。そういう御仁こそ、ここぞという時には信頼に値しますぞ。殿などその典型ではありませぬか?」

《お、噂の金蛇屋とやらか。話を聞く限り、俺の時代には居なかった人種のようだ。手腕だけを見ればナンディンなんかも中々だったが……一度会ってみたいものだな》

「無論にござるよ! 金蛇屋藤兵衛殿こそ、己が主にして世界の富をその手に掴む御方にござれば。所用が終われば必ずお連れ致しますぞ」

「へっ。あいつのどこがだよ。フィキラさん、あんなクソとなんざ会わねえ方がいいぜ。やれ鱗をよこせだの見世物だの、好き放題言いやがるからな」

 亜門の快活な言葉に、フィキラは優しく、それでいて何処か悲しみを込めた瞳で彼を見つめた。首を傾げるシャーロットと、軽く息を吐き出したレイ。親しき雰囲気の中に若干の寂寥感を漂わせながら、時間は刻々と過ぎて行った。

《さて、シャーロットよ。一つ聞きたいのだが、お前の旅の目的は何だ? こんな辺境を彷徨う意味、教えて貰う訳にはいかんか?》

「……はい。私の目的は世界の平和、即ち悪意により濫用され、崩壊しつつある『楔』の保護です」

《!! 自分の言葉の意味が……分かっているのか?》

 突如として大地を揺るがす程の威圧が、フィキラを中心に巻き起こった。空気をも弾け飛ばすその気は、老いを感じさせぬ彼の実力の程を感じさせ、瞬時にレイは立ち上がり戦闘態勢を取った。しかしシャーロットは動じない。真っ直ぐに彼を見つめたまま、彼女は静かに、そしてはっきりと告げた。

「『楔』を作ったのが誰であるか、何のために作られたか、それは私には分かりません。ですが、悪用し破壊せんとする者から守らねばなりません。それが御祖父様の最後の意思でした」

《……》

 フィキラの顔が、苦悶と逡巡により険しさを増した。そして沈黙。彼はグロロと喉を鳴らし、威を放ちながら考え込んでいた。そして何事かを発しようとしたが、ふと彼は闘気を内に収め、シャーロットの真剣な顔を優しく見つめた。そして幾度かの躊躇いの後に、大きく息を吐いて笑った。

《どうやら本気のようだな。なら俺が言う事は何もない。だが……アレについては俺も思うところもあるし、何より多少なりとも関わった者としての責任も感じている。アレに関しての真実は未だ闇の中だ。答えは自分で見つけろ》

「はい。ありがとうございます、フィキラ様。私は必ず成し遂げてみせます」

《……歴史は繰り返す、か。戯言と信じたいところだがな。そろそろ夜になる。長々と悪かったな。で、目下のお前らの目的地はどこだ?》

「はい。私たちはゲンブ国の首都グラジールを目指しています。ご存知でしたら道を教えていただけませんか、フィキラ様?」

《なんと! グラジールときたか。随分と遠くまで行くのだな。地理的にはここと真逆になるぞ》

 一斉にギロリとレイを睨みつけるシャーロットと亜門。レイが縮こまって下を向くのを見て、フィキラは実に快活に笑った。

《グッハッハ! そう責めてやるな。ここから徒歩となれば2月はかかるだろう。少し待て。今日の礼をしたい。『列』》

 フィキラは目を閉じると、吐き出す言葉に全く異なる響きを持たせた。言の反響が空間に干渉し、術らしきものが突然目の前に沸き起こった。眷属のものとは明らかに違う術を目にして、シャーロットは興奮を隠しきれずに目を輝かせた。

「これが……世に言う『龍言語』!! 私も初めて見ました」

「すげえ迫力だな。それになにより……早え。あの規模の術を、あんな短時間で作るとはよ。ダテにでけえだけじゃねえな」

「さすがは典膳公の盟友、とんでもない力を感じますな。……おっ!? 何かが現れたでござる!」

 術が光を帯びると同時に、空間にぽっかりと穴のような歪みが生まれた。そこから一体の生物、5メートルほどの小型の緑龍が勢いよく飛び出してきた。龍は自己紹介でもするかのように高速で空中を飛び回り、不意に壁際で急停止して威勢よく叫んだ。

「あ?! 誰が呼んだかと思えば眷属か。どこで仕入れた術か知らねえが、つけ上がんなコラ!」

「いえ、私たちは……」

「お、よく見りゃ檄マブじゃねえか! それも2人とも! お嬢さん方、何かこの俺に御用でも?」

《バルア、お前を呼んだのは俺だ。久しいな》

 バルアと呼ばれた小龍は、フィキラを確認すると驚きで天井まで飛び上がり、何度も壁に体を打ち付けながら嬉しそうに叫び声を上げた。

「お、フィキラの旦那! 久しぶりい。また俺のことパシらせようっての? もう死にかけのジジイなんだから大人しくしとけって」

《グッハッハ! お前の言う通りだ。実は俺の客人が息災でな。龍族一と称されるお前の翼で、彼女らをグラジールまで乗せていってはくれねえか?》

「もちろんいいぜ。旦那の頼みは絶対に断れねえ。この美人2人を乗せてきゃいいんだろ? お安い御用ってか、こちらからお願いしたい位だね。じゃあお嬢さん方、俺の背中に乗ってくれや」

「ま、待たれよ! 己を忘れてはならんでござる!」

 慌てて声をかけた亜門をちらりと一瞥すると、バルアは気だるそうに露骨にテンションを下げ、呆れた瞳で彼を見つめた。

「なにこのイモ? 旦那、こいつも? 荷物も多いしすげえめんどくせえんだけど」

《そう言うな。こいつは俺の戦友の子孫だ。どうか助けてやってくれ。俺の……最後の頼みになるだろうからな》

 その眼光からは今まで感じた事のない不思議な、そして僅かな焦燥に近い感覚を覚え、バルアは威勢よくはっと叫んだ。

「……旦那。まあ仕方ねえか。雷でも落とされちゃたまんねえし。じゃ外で待ってるからすぐに来いや。言っとくが俺は気が短えからな」

 そう言って風のように出口に向けて飛び去るバルア。それを見て一行は顔を見合わせ、ふっと立ち上がり彼に礼をした。

「お世話になりました、フィキラ様。しかし今し方仰っていた話は、その……」

《何と言うことはねえさ。長かった俺の命も尽きようとしているだけよ。この世に生を受けて1000年余り。無為に長生きしてもしょうがねえ。ぼやけるだけよ。後は昔の友との“約束”を果たすのみだ。最後まで退屈せずに死ねるのは実に幸運。それに……最後に典膳に連なるものに会えるとはな。これ程の幸せはねえよ》

「そんな! 折角お会いできたのに、私はまだまだフィキラ様とお話ししたいです!」

「そうでござる! 己もまだフィキラ殿の恩義に報いておりませぬ! 一緒に秋津国へ行きましょうぞ」

《……その言葉だけで笑んで逝ける。戦友たちも首を長くしているだろう。ただ亜門よ、お前に一つ頼みがある。俺の最後の頼み、どうか聞いてくれないか?》

「もちろんでござる! なんなりと申して下され! この高堂亜門、僭越ながら秋津国の侍を代表して、如何なる任でも引き受けましょうぞ」

《助かるぜ。俺の“心残り”、どうにか届けてくれないか。《開》》

 フィキラが一言声を発すると、再び空間が裂け一本の鉄の棒らしきものがふわりと地に落ちた。柄や鍔などはボロボロに朽ち果て、刀身も錆で全体を無残に覆われていたが、そこからは一種の気品のようなものを感じられた。彼は懐かしそうに中子に刻まれた太陽を模した紋様を眺めながら、亜門に向けて差し出した。

《これはな、かつて典膳から受け取った小刀だ。俺なりに保護はしていたのだが、何分鉄の扱いにはまるで疎くてな。情けないことにこの始末だ》

「ま、正に秋津宗家の紋にて。国父典膳公の刀……なんと神々しい………」

《亜門、虫のいい話だとは重々承知しているが、この刀を蘇らせてはくれぬか? そして願わくば、あいつの墓標にこの刀を捧げて欲しい。今日知りあったばかりのお前に、無茶な頼みと我ながら思う。しかし人間にしか頼めん案件。どうか、このフィキラの最後の頼みだ》

 フィキラは巨体を平伏させ、亜門の目を真っ直ぐ覗き込んだ。洞窟内が激しく振動し、雪がガサガサと落ちていく。亜門は一切躊躇わずに刀を手に取ると、真正面から彼に頭を下げた。

「御意にござる。この亜門、委細承知致しましたぞ。必ずや、一命に代えてもフィキラ殿の意思を秋津国に届けまする」

《有難い。心から礼を言うぞ。これも縁。お前らがここに来たことも、全ては一つに繋がっている。この刀は今は錆びた骸に過ぎんが、数百年間俺の力を注いできた。そして今、新たに『龍言語』を刻む。きっとお前らの旅の役に立つだろう》

 再びフィキラが言を発すると、亜門の手に収まった刀に不思議な光が集まり、刀身に独特の紋様が刻まれていった。1分程で全ての工程が完了すると、彼は息を僅かに切らせ静かに目を閉じた。亜門は改めて頭を下げ、シャーロットもそれに続いた。

「それでは私は行きます。どうか安らかに、フィキラ様」

《ありがとう。では行くといい。バルアはあの性格だが、極めて有能な良い男だ。良き旅を》

 3人は立ち上がり、めいめいに入口へと向かっていった。残されたのは満足そうに目を閉じるフィキラと、何故か胡座をかいて彼と向き合う……レイ。

《さて、お望み通り露払いはできたぞ。手短に済まそう》

「心遣い痛み入るよ。俺の心の中にまで入り込むとは、さすがは大龍様だな。それに今の幻術もだ。童貞猿はさておき、お嬢様まで騙しちまうなんざ大したもんだぜ」

 レイはその姿勢のまま、目を見開いてフィキラに向き合った。彼はその目を大きく見開いて、威厳を込めた瞳で告げた。

《一目見た時から思っていた。俺はお前を……ある意味では昔から知っている》

「ああ。俺は……いったい“何”なんだ?」

 吹雪が一層強くなり、フィキラの言葉は風に流れた。だがそこに含まれる素子は、レイの心に激しく突き刺さった。レイは動けなかった。動くことができなかった。吹き荒ぶ雪は一層強くなり、風だけが物語の行方を告げていた。

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