第19話「道」

 金蛇屋藤兵衛が去った運命の夜からすぐ。シャーロット陣営。

 彼女たちの朝は早かった。夜深くにレイによってもたらされた衝撃的な知らせを受け、シャーロットと亜門は言葉を失いつつも即座に行動を開始した。

 亜門はすぐさま闇残る雪原へ捜索に赴き、シャーロットとレイは雪洞の中で額を突き合わせ、今後についての話をしていた。彼女の目は傍目にも分かるほど涙に濡れ、流れ落ちる雫が雪上に微かな跡を付けていた。

「お嬢様、お気を確かに。どうせあのクソのことですから、すぐにひょっこり帰ってきますって」

「不老の術が先程解除されました。どうやら既にかなりの距離を移動している模様です。もう彼の位置を探知出来ません。事は一刻を争います」

「つまり……聞くまでもねえってことですかい?」

「………」

 シャーロットは無言で外に出ると力車のへりに座り込み、涙に濡れた赤い目で空を見上げていた。レイはすぐ側で腕組みをし、そんな彼女を心配そうに眺めつつも、苛立ちを隠し切れずに時折その辺の雪を蹴り飛ばしていた。

 程なくして亜門が戻った。その張り詰めた顔からは良い知らせの兆しはなく、彼は申し訳無さそうに深々と頭を下げた。

「……駄目でござる。転移を繰り返しながら進まれておる御様子で、足跡すらも一切見当たりませぬ」

 その言葉を耳にしてがくりと肩を落とすシャーロット。まるでお通夜のような重苦しい雰囲気を搔き消すように、レイがわざと明るく言い放った。

「つうか、あんな奴どうでもいいでしょう。もともとずっと2人で旅をしてきて、今は亜門もいますしね。気を取り直してやるしかねえかと」

「……どうでもよい訳がないでしょう!」

 即座にシャーロットが感情的に声を昂らせた。それはレイですら聞いたことのない、激しく突き刺さるような声だった。狼狽する亜門とレイに向けて、彼女はすくと立ち上がるや否や凛然と告げた。

「グラジールに行きます。これは決定事項です。必ず藤兵衛はそこにいるはずです。私には……彼が必要なのです。それに『楔』のことも自分の目で確認せねばなりません。そうでしょう、レイ?」

「殿は己に生きる希望を示して頂きました。ならば此度は……己が殿のお力となる番にござる。おい魔女。貴様に同意するのは癪でござるが、今回ばかりは気持ちは同じぞ。レイ殿、ここは一つよしなにお願い出来ませぬか?」

 2人が同時に懇願の熱い眼差しを向けると、レイはぼりぼりと頭を掻きながら、大きく1つため息をついた。

「しゃあねえ。こいつも多数決ってやつだな。けどね、お嬢様。あいつを見つけたら、必ずこの件のケジメだけはとってもらうんで。そこだけは約束してくださいよ」

「ええ、勿論です。私は怒っています。悲しいのが半分、怒りが半分です。私も彼を許しません! どんどんやっちゃって下さい、レイ」

「ふん。何もせずに惰眠を貪る魔女が、よくも偉そうに抜かすものよ。ただ秋津の格言にも『規律違反の咎は東海の棚よりも深し』とあり申す。例え殿とはいえ、簡単に許す訳にはいきませぬ。有り金すべて毟り取ってやりましょうぞ」

「ギャッハッハッハ! そりゃいいや。あのクソにとっちゃ一番困る罰だろうぜ。俺らをナメてっとどんだけ“損”するか、ここらではっきり教えてやんねえとな」

「ふふ。そうですね。私たちを信頼せず勝手に動いた落とし前、たっぷり“利子”を付けて返させましょう」

 3人はいつの間にか笑顔になっていた。士気はみるみる上がり、残った疲れも吹き飛ぶようだった。一行は協力してあっという間に片付けを終え、速やかに出立の準備を整えた。藤兵衛に代わり力車の引き手を持つ亜門は、寒さを吹き飛ばすようにふうと一息吐いた。

「して、己らはどうやってグラジールに向かいましょうか? 殿の話では、この先の何とかという鉱山を抜けるとのことでござるが……」

「おう。んなことホザいてたな。よくわかんねえしとにかく上へ……ギャアアアアアアアアアア!!」

 レイは力車の上でどかりと足を組んで言い放ったが、そこに怒りの落雷が打ち込まれた。シャーロットは焼け焦げたレイに目もくれず、眉間に皺を寄せて考え込んでいた。

「貴方の懸念はよく理解できます、亜門。土地勘のない私たちでは、獣道に等しい旧道を進むのは困難極まることでしょう。かと言って、引き返し新道を進むのは更に困難です。大幅な遠回りになりますし、敵の包囲に会うのは必至。やはり多少の危険は考えられど、藤兵衛の言った通りの道程を辿るのが賢明でしょう」

「不愉快だが同意見にござる。危険はどちらも同じことならば、一直線に向かうが吉かと。道中殿が困窮されている可能性も否めぬゆえ、このまま進むがよいと存ずる。レイ殿、それでよろしいでしょうか?」

「おう、好きにしろや。そのへんは任せっからよ」

 黒焦げになったレイは、大きく1つ放屁をしながら答えた。眉間の皺を深くしたシャーロットが追加の落雷を放つ中、亜門は快活に笑って引き手を押した。だがその手をそっと掴んだのはレイだった。

「!? レイ殿、力車は己が引き申しますので、どうか車内でおくつろぎ下され。案内は殿に遠く及ばぬでしょうが、己とて体力には自信がありますゆえ」

「ムリすんな。いいから乗ってろ。朝から駆り出しちまって悪かったな。昨日の疲れもあんだから休んでろや。それに……ちと1人でぶっ放してえ気分なんだ。先導もいらねえからな。なんかあったら頼むぜ」

「……委細承知にて。御厚意に甘えさせて頂きまする。それでは御免!」

 深々と一礼してから颯爽と力車に乗り込む亜門。車内には既にシャーロットが無表情で本を読んでいたが、彼の姿に気付くと彼女はにこりと美しく微笑んだ。彼はどきりとする心中を必死で隠し、赤面する顔を隠すように頭から布団を被って横たわった。

「ふ、ふん! 其方と同席とは気分が悪いでござるな」

「私は気分がいいです。亜門と2人きりで過ごす時間なんて、今まで一度もなかったものですから。せっかくの機会ですのでいろいろお話ししましょう!」

「ふん。何をほざくか! この高堂亜門、其方のような忌まわしき魔女に振る尾など持ち合わせておらんでござる!」

「え! 亜門は尻尾をお持ちなのですか? 私も生やしてみたいです! 確か古の秘術に……」

「な、な、な、何故服を脱ぐか! し、し、し、尻を出すでない! 仮にもうら若い女子が、男子の面前で何をするか!? 少しは恥じらいというものを……ま、ま、ま、股を開くでない!!」

 その時、急に力車が発進した。その勢いはまるで暴風のように高まっていった。赤を通り越して紫に顔色を変化させた亜門は、あまりの速度に膝を付いて衝撃をやり過ごそうとした。

「す、すごい気合いでござるな。おい魔女、レイ殿は大丈夫なのか?」

「私にはわかりません。ああなったレイは止められませんから。好きなようにさせましょう」

「なんと頼りない話か! 貴様それでも……ッ!!」

 いきなりガンと脇道の木にぶつかり、激しく揺れる車体。車内では衝撃で全裸のシャーロットが亜門にまたがり、彼の顔色は黒にまで到達しようとしていた。だがその勢いは止まらず、レイの意のままに空を飛ぶような速度で進んでいった。

(ったく……やれやれだ。おいクソ商人、顔洗って待ってやがれよ!)

 蛇行し、スピンし、暴走しながら力車は進む。それはまるで、彼らの不安定極まる行く末を暗示しているかのようだった


 一方、金蛇屋藤兵衛の道中。

 彼は夜通しで、ひたすらにグラジールへ向けて歩いていた。時折彼は自身に『転移』を行い、レイたちの追跡を撒いていた。だがそこには、彼自身の禁忌の術の修練という意味もあった。生まれ育ったこの辺の道など、彼からすれば目を瞑ってでも進める。未だ未熟な転移術では道を外れる事も多かったが、その度に彼は微調整を繰り返し、ひたすらに前へ前へと進んでいた。

 彼の表情にはいつもの余裕はなかった。ガーランドの発した言葉だけが、彼の心を支配していた。『妻子の仇は、生きている』。実に滑稽な与太話ではあった。確かに藤兵衛は、あの時に“彼”が死ぬ瞬間を目撃した。しかし……しかしと彼は思う。あの男が、あれ程の男が、そんな簡単に死ぬものかと。

 蘇る忌まわしい記憶。粟立つ皮膚。自然と喉の奥から湧き出す叫び声。その場に立ち尽くす藤兵衛。暫しの間、彼は内から零れ落ちる衝動に身を任せていた。

 5分後、気を取り直し再び走り出す藤兵衛。夜はもう間も無く明けようとしていた。身体に疲労感が蓄積する。息が荒く、節々が痛む。

(さっき休んだというに、もう体が動かぬ。こんなことは旅を始めてから始めてじゃ。まるで……そう、これは……)

 彼は自虐的に笑い、背中に抱えた荷物入れからキセルを取りだそうとした。しかし肩の関節が上手く動かず、どすんと雪の上へ落としてしまった。

(!? 肩が……回らぬじゃと!!)

 落ちたキセルを拾おうと屈んだ時に、彼は遂に確信した。皺だらけの皮膚、筋肉の削ぎ落ちた細い肉体。耳は遠く、目は霞み、意味もなく目眩がする。そう、これは間違いなく……数ヶ月前の年老いた自身の身体だった。

「ふ、ふん。想定していた事よ。恐るるに足りぬわ。少し前まで、この身体で大陸中を渡り歩いたものぞ。のう、茂吉よ。……む? ここは……どこじゃ?」

 しわがれた特徴的なダミ声と、漠然とした記憶の混濁。先ほどまで確かに存在していた、18歳の藤吉青年はもうどこにもおらず、齢80にもなるオウリュウ国の古商人、金蛇屋藤兵衛その人の姿がここにあったのだ。

 時代は加速し、また巻き戻った。彼の行く手に広がる風景は、息を切らせて節々の痛みに耐えた末のものだった。それでも彼は歯を食いしばり、前へ前へと突き進む。全ては執念のため。かつて味あわされた地獄の残り火を消し去るために。


 一方、シャーロットの旅路。

 山中を閃光のように走り抜ける一台の力車。小鳥や小動物は一目散に逃げ出し、踏みしめられた大地は軋んだ唸り声を上げた。誰も暴的な行軍を止めることは出来ず、雪を掻き上げてただ爆進するのみだった。途中で石に乗り上げ大きくバウンドし、車内で緊迫して様子を伺う亜門の頭が天井に激しく叩き付けられた。

「……ッ!! い、いやあ、さすがはレイ殿。凄い速度でござるな」

 亜門は後頭部を押さえながら、不安を押し殺すように敢えて快活に笑った。一方でシャーロットの表情はやや真剣味を帯び、窓から先行きを不安そうに見つめていた。

「1つ確認したいのですが、亜門。一体……ここはどこでしょう? 果たして本当に首都に向かっているのでしょうか」

「何を言うか! レイ殿に限ってそんなことは万に一つも……こ、これは!? いつの間にこんな山奥へ!?」

 窓から身を乗り出した亜門の目に飛び込んで来た風景。それは、周囲に道や人の形跡など一切存在しない、細い森林の合間を飛ぶようにひた走る異様な光景だった。さすがに亜門も慌てふためき、必死で窓にしがみ付いて何とか顔だけ出すと、目を剥いて爆走するレイに声をかけた。

「レ、レイ殿? その……本道とだいぶ離れて……いるような気がするでござるが……」

「うるせえ! 俺のカンではこっちが近道なんだ! ガタガタ抜かすと放り出すぞ!」

「は、はい! 無論お任せするでござる。余計な口出しをして申し訳ありませぬ」

 レイの剣幕に急いで首を引っ込めた亜門。彼らの会話を聞くと一層深く頭を抱えるシャーロット。

「……だ、そうだ。なるようになるしかあるまい。なに、案ずる事はない。昔はレイ殿が力車を引いていたのでござろう?」

「はい。その通りです。現に少し前もレイに引き手を任せました」

「そうであろう? なら何も心配は……」

「結果だけ言えば力車は大破し、私は死にかけました。更に遡れば、旅が始まってすぐ、西大陸からオウリュウ国に行こうとしてレイに任せたところ、なぜか東大陸を横断して、着くのに3年かかりました」

「!!」

 2人は全く同じタイミング、全く同じ体勢で頭を抱え込んだ。四方八方に揺れ動く車内で、亜門は神に祈るかのように心中で大声で叫んだ。

(殿……お願いでござる! 早く……どうか早く帰ってきて下され!)


「何じゃ? 今、儂の名を呼ばれたような……」

 道の縁に座り込んだ藤兵衛は、不思議な感覚を覚えてふと顔を上げた。しかし辺りには人の姿も何も見えず、彼は自嘲するように笑いながら、おぼつかない手でキセルに火を付けた。

「ふむ。幻聴かの。誠に情け無い話じゃて。このままではグラジールどころか、ラドグスク鉱山にすらも到着出来んわい」

 彼は心底疲れ切っていた。体が思うように動かず、全身に痛みが走る。少し走っただけで喉が渇いて仕方がない。寒さが節々に響く。肉体の限界は目と鼻の先にまで近付いていた。

「くそ! よもやこれ程までに耄碌しておるとはの。しかも……予想外なのはこれじゃ!!」

 藤兵衛は銃を構え、いつもの通り闇力を銃口に込めると、その辺の木に向けて一発引金を引いた。本来ならば激しい勢いの螺旋の軌道が木々を粉砕していくところだが、出たのはそよ風の如き微かな波動のみ。明らかに彼の闇力は枯渇寸前であった。

 藤兵衛は僅かな力を振り絞って『マグナ』の術式を構築し、近くに山積した落ち葉に火を付けた。手が震え集中が途切れる今の彼では、数度の挑戦を経て漸く火種程度の炎を作るのが関の山であった。激しい息切れと目眩を覚えながら、彼は何とか足元のキセルを口元に『転移』させ、目を白黒させながら考えた。

(自力では術式1つが精一杯かの。胆石からも闇力を引き出せぬが、何故か『転移』は問題なく行えるようじゃ。この状態では眷属はおろか、悪漢などに襲われたとしたも危険じゃろうて。さて、どうしたものか。この金蛇屋藤兵衛、一世一代の危機じゃのう)

 現状を把握するにつれ、藤兵衛はどんどん途方にくれていった。彼は銃に描かれた金蛇の印をぼんやりと眺め、呆けたように座り込んでいた。その時、道の遥か前方から自身を呼ぶ声が届いた。

「……おい! そこにいるんだろ? 返事をしろよ!」

 先程聞こえていた声はどうやら空耳ではなく、彼の耳に確かに声が届いていた。こんな僻地を通る人間など、恐らくはまともではない。しかし藤兵衛の目は既に、疲労と加齢でぼやけて何も見えてはいなかった。彼は震える手で銃に実弾と火薬を込め、狙いを定めて呼吸を整えた。

(はてさて山賊か、それともアガナの連中か? どちらにせよ腐ってもこの金蛇屋藤兵衛、タダでやられるわけにはいかん。そんな事をしたら大損じゃ! 儂は損だけは大嫌いなのじゃ! 来るなら来い! 久方ぶりの鉛玉を食らわせてやろうぞ!)

「黙ってねえで返事しな。……いるんだろ?」

 声がどんどん近づいてきた。彼の震える視界に1人の男の姿が映った。垂れた両目の中央に意識を集め、藤兵衛老人はゆっくりと引き金に手をかけた。


 シャーロット陣営、車内。

 ますます激しくなる揺れ。亜門はすこぶる体調を悪化させ、車内の端で死んだように横になっていた。その顔が青を通り越して緑色へと変化する中、シャーロットは平然とした顔で本を読み耽っていた。

「……おい魔女。貴様よく、こんな揺れる中で本など読めるでござるな。仮に吐いても世話などせんぞ……うっ! ……オェェェェエ!」

 込み上げる奔流に耐え切れず、彼は窓から頭を出し一気に胃の中を空にした。シャーロットはぱたりと本を閉じて、彼の背を優しく何度もさすった。

「ふん。頼んでもないのにご苦労なことでござる。そんなことで己を懐柔など……オェェェェエ!」

「まあ、これで5回目ですね。屈強な侍にも苦手なものがあるとは驚きです」

 シャーロットはにっこりと美しく微笑みながら、緑色の男を手当てし続けた。更に顔面に灰色と黄土色を付加しながら、亜門は彼女を振りほどいて車内に戻ると、どかりと胡座をかいて勇壮に言い放った。

「見くびるな魔女めが! 秋津の侍はそんな柔な鍛え方はしておらん! これはたまたまにござる! 確かに馬も船も昔から……オェェェェエ!! ……うう、いっそ一思いに殺せい!」

「可哀想に……それでは私とお話をしましょう! 気が紛れて多少はましになるかもしれませんよ。私は亜門といろいろお話したいです!」

 にこにこと親しげな微笑みを向けるシャーロットに、亜門は窓際で朽ち果てながら不快そうに鼻を鳴らしつつも、否定はせずぶっきらぼうに答えた。

「……ふん。少しだけなら付き合ってやらぬ事もない。で、なんの話だ? なんでもよいから話をしろ! 早く!」

「では遠慮なく。貴方は……恋をしたことがありますか?」

 予想外の角度から投げかけられた質問に、亜門は息だか吐瀉物だか分からない塊を盛大に吹き出した。しかしシャーロットは顔色一つ変えずに、輝く瞳で彼をまじまじと見つめていた。

「な、なにをいきなり! ふざけるのも大概にするでござる!」

「あるのですか? ないのですか? それ次第で話は変わってきます」

「ふ、ふん! 秋津の侍にとって、愛だの恋だのと軟弱極まる話など……」

「……そうですか。ないのですか。残念です」

「あ、あ、あ、あるに決まっている! 馬鹿にするな! お、お、お、己からすれば恋愛なぞ、新兵の首を掻っ切るようなものでござる。己こそが秋津の恋愛師範と呼ばれた男にて」

(ウソつけ! この童貞野郎が!)

 外のレイが心中で激しく毒づく中、シャーロットは目を爛々と輝かせて亜門の手を取り、ぐっと美しい顔を近づけた。

「本当ですか! ならば私に教えてください! 私の心の中にある疑問に答えて欲しいのです」

「わ、わ、わ、わかった。わかったから顔をどけろ!  ……ふう。それで、疑問とやらは? この己になんでも聞くがいい」

 シャーロットは急に無言になると、ぽっも頬を赤く染め、もじもじと体をくねらせた。外でレイが凄まじい深さのため息をつく中、彼女は何度も逡巡しながら言った。

「……実はですね、今の私の気持ちが、本当に恋と呼べるかどうか……それを教えて欲しいのです。何分私は、今まで恋というものの経験が全くないものですから」

「むう。まあ素人に判別は難しいでござろうな。どれ、己を信じて話してみろ。どの様な状況なのだ?」

 強気に堂々と言い放つ亜門を見て、シャーロットはぱっと開く春の花のように美しく笑うと、正座に座り変えて地面に三つ指を突いて彼に向き直した。

「はい、師匠! 全てお話しします! 私は……実は……気になる殿方がいるのです。その方と一緒にいると、胸がどきどきしてしまい、いつもの私ではなくなってしまうのです。頭がぼーっとして、その方を思うと食事も喉を通らないのです。これは恋と言えるのでしょうか?」

「具合でも悪いのではないか? それだけでは何とも言えんな。まずは養生してから判断せよ」

「……体調はいつも通りだと思うのですが。それでですね、いつも頭の中にその方が浮かんできてしまい、今現在でもそうなのです。私はどうかしてしまったのでしょうか?」

「貴様は以前からどうかしている。今更何も変わらん。生まれた時からやり直すがよかろう」

「それは難しいです。私は今も昔も、ずっとこのままの私ですから。御祖父様が言っていました。『恋は盲目。心底惚れ込む相手が出来たら、躊躇わず進む所まで行きなさい』と。もしこれが恋であるならば、私は突き進みたいと思っています。それは……いけないことでしょうか?」

「知らん。勝手にしろ。だが、貴様の祖父殿が言った言葉、秋津にも同様の格言があるでござる。『感情極地まで昂ぶらば猿とて龍を屠る』と。其方が気になるという、恐らくは運も器量も絶望的に悪い哀れな男と、一度しっかり話してみてはどうだ?」

(なに言ってやがんだアホが! にしても……やっとこさまともな話をしやがったぜ)

 しかし、シャーロットは急に顔を翳らせた。無言で俯く彼女を訝しげに見つめる亜門は、窓際で13度目の吐瀉を行なってから、再び正面から向き合った。

「もう話しても大丈夫ですか、師匠? それが……その方は……今は私の側にいないのです。必ずまた一緒にお会いしたいのですが、その……色々事情がありまして」

「何を言っているか見当も付かんが、戦において戦術も当然重要。しかし何より必要なのは気迫にござる。ともかくどうにかしてその男と話をし、隙を与えず攻めてみろ。まあ貴様が気にかけるような愚鈍で無知蒙昧な男だ、こちらが強気で臨めば情け無く頭を垂れるに相違ない」

「気迫……そうですね。まずは話してみます! そうしないと何も始まりませんからね。ああ、頭の霧が晴れました。さすがは秋津国の恋愛師範です! 亜門に聞いてみて大正解でした! これからも私の相談に乗ってくれますか?」

「ふん。この程度、己からすれば山鳥の羽根を切るより容易いことよ。気にせず何でも言え。気が向けば答えてや……!? ま、ま、ま、待てい! お、お、お、己から離れるでござる!!」

 シャーロットは満面の笑みで亜門に強く抱きついた。鈍い七色に顔色を変化させ固まる彼に、彼女はその頬に軽く口付けをした。

「!!!!!!!」

「ありがとうございます、師匠! そうですね。私は……やはりグラジールに行かねばなりません! レイにもっと急ぐよう言わなければ」

「………」

(はいよ、っと。やっぱりこうなっちまったか。まったく……いつもいつもあのクソは状況をややこしくしてくれんぜ)

 レイのぼやきは口から呼吸のように溢れていた。完全に動作を止めて放心する亜門に、シャーロットは美しい笑顔のまま、赤く染まる目だけに膨大な闇力を滾らせた。

「でも、これは他の人には内緒ですよ。私と亜門だけの秘密です。もしばらしたら八つ裂きにしますよ」

「………」

 力車は進む。シャーロットの想いを乗せて、ただひたすらに。だがその道は真っ直ぐではなく、歪んだ軌道を描いていた。そのことに気付くものは誰もいない。レイは目を閉じて、ただ気の赴くままに力車を引いていた。轍の跡が全てを物語っていた。彼らの道程が平坦とは真逆である事実を。それに彼女らが気付いた時、既に事態は取り返しのつかない地点まで進行していた。


 一方、旧道。ラドグスク炭鉱へ僅か数キロ手前の地点。

 旅の行商と思われる男たちが、道端で火を起こし酒盛りをしていた。馴鹿に引かせた荷馬車を大木に繋ぎ、2人の老人は実に楽しそうに盃を交わしていた。そのうち1人は、金の蛇の紋様が入った漆黒の商人服を着込んだ老人、傲岸不遜たる金蛇屋藤兵衛その人だった。

「いや、まさかアツオにこんなところで会えるとはの。実に久しいわい」

「そりゃこっちこそだよ。まさか旦那様がこんなとこにおるとはなあ。てっきり野盗かなんかかと思ったで。ほら、盃が空いとるでよ。『ウワバミの藤吉』も老いたもんだの」

「お主に言われとうないわ! 暫く見ぬうちに一層皺だらけになりおって! 最初は誰だか見当も付かんかったわ」

「おお、そりゃ悲しいねえ。長い付き合いだってのに。悲し過ぎて酒が進んじまわなあ」

 藤兵衛とアツオは盃を傾け、実に楽しそうに話し込んでいた。小柄なれどがっしりとした体型の老人は目尻に深い皺を寄せながら、金色の蛇が描かれた荷馬車の中から幾枚かの干物を取り出して焚き火にくべた。さっと炙っただけでパチパチと芳しい煙が鼻腔をつき、頃合いを見てアツオは1枚を割いて自分と藤兵衛に分け、残りは全て馴鹿の足元へ投げた。勢いよくがっつく彼らを見て、藤兵衛は呆れたようにキセルをふかした。

「相変わらず面倒見がよいのう。あんなにやる必要はなかろうて。いつも通り商品の横流しじゃろう?」

「失礼な言い方すんなって。ちゃんと給料から払ってんだ。それに旦那様もいつも言ってたろ? 『現場で働く者には最大限の敬意を払え』ってよ。その教えを守ってるだけだ」

「金蛇屋の根幹は、今も昔も変わらず物流じゃ。如何なる場所で如何なる傑物が誕生しようとも、何処へも運べずでは話にならぬ。お主のような経験豊富な腕利きこそが、儂らの商売を支えておるのじゃて」

「よく言うよ。もうロクに足も動かねえ老いぼれに高い金払ってさ。旦那様は身内に甘すぎるんだで。だからユヅキなんぞに足を掬われるんだ」

「う! 中々に痛い所を突くのう。じゃが儂は受けた恩も恨みも10倍にして返す性分でな。いつか必ず、ユヅキからも利子を付けて取り立ててねばなるまいて」

「おお怖。俺も気い付けねえとな」

 2人の老人は酒を酌み交わしながら、心底愉快そうに笑った。気心の知れた友と飲む酒は格別である、そう心底思う藤兵衛に水を差すように、アツオの口から衝撃的な知らせが飛び出した。

「しっかし、旦那様も人が悪いや。ゲンブ国であんな大事件が起こったってのに、何度も報告したってのにまるで来やしねえ。お身体でも悪くしたんじゃねかと心配してたんだ。そったら結局お一人で視察と来た。気い揉ませるにも程があっだよ」

「……儂は何も聞いておらぬぞ。詳しく話せい。一体この国に何が起こったのじゃ?」

「あんれ、ほんとかい? そりゃ困ったな。確かに伝えたんだけどよ。……あのな、旦那様。1年前にこの国はすっかり変わっちまってよ。革命が起きて体制が打倒されたんだ」

 がたり、といきなり立ち上がる藤兵衛。びっくりしてたじろぐアツオに、彼は矢継ぎ早に捲し立てた。

「革命じゃと!? シュライン王家が打倒されたということか?! 何故そんな事になったのじゃ?!」

「そだ。やっぱ公にはなってねみてだな。昔っからこの国はアガナ神教とズブズブだったけどよ、お互い仲良くやってたように見えたんだ。貧しいゲンブ国は救いを求め、本国を離れた神教の分派は拠り所が欲しかった。大司教フレドリック様はクセ者だけんど、王族と上手く利用し合ってな、まとまんねえあの国の統制に一役買ってたんだ」

「あの狸めは中々の者よ。本国を裏切り独自に信徒を集め、あれだけの権力を手にしたのじゃからの。まあ裏はありそうな男じゃがな。ここまでは儂も存じておる。して、その先は?」

「そう、問題はここからなんだよ。1年前のある日、突如として神教が内部分裂を起こしてさ、あっという間にフレドリック様は捕らえられちまったんだ。その勢いのまま、あいつらは王城にまで乗り込んでさ。王家の廃位を迫って、逆らう奴らを幽閉しちまったんだ。そりゃ鮮やかなもんだったよ」

「……確かにシュライン王家は民の信望薄く、産業も金も無い国じゃ。そこに擦り寄ったのが、弱者の救済を旨とするアガナ神教の一派。そしてそれを率いるが教主フレドリック。その両者を残らず喰らい尽くすとは、其奴らは中々のやり手のようじゃな」

「そだそだ。連中は新生アガナ公国とか自称して、怪しい術を使って今や国中を支配してんだ。ま、急速に過激にやっちまったせいか、神教内でも相当な内紛はあったみたいだけんどな。まさか地獄耳の旦那様が知らねえとはビックリだで」

「……ふむ。興味深いの。そんな重要な情報がこの儂に届かぬ意味……やはりユヅキの暗躍かのう。中々やりおるわい」

「ま、それもあるけんどよ、旦那様はゲンブ国にあんま気を払ってなかっただろ? 金にならんとか何だかんだ理由付けて。茂吉っちゃんよう嘆いてたぜ。『藤吉は故郷を捨てた呆れた阿呆だ』って」

「どっちが阿呆じゃ! 今度会ったら縛り首にしてくれる! ……とは言え、本当に助かったぞ、アツオ。お主の話を聞かなんだら、全容が見えぬまま突き進んでおった所じゃ。お主をゲンブ方面担当に据えておいて本当によかったわい」

 藤兵衛は深々と頭を下げて、実に素直に礼を言った。アツオは顔の皺を嬉しそうにくしゃりとさせ、実に気持ちよさそうに酒を喉に流し込んだ。

「よしなよしな。10年20年の付き合いじゃねだろ? 俺ら現場のモンはさ、何が起こってもやることは大して変わんねえさ。だけどな、あのネズミ野郎はいけ好かね。来年から給料も減るみてえだし、これじゃ孫に小遣いもやれねえさ」

「何じゃ、やっと産まれたのか。お主に似ず別嬪な娘じゃからのう、きっと孫は殊更可愛かろうて。気付かずに申し訳なかったのう。裸ですまんがとっておけい。なに、気にするでない。金蛇屋創業時からの仲間ではないか」

 藤兵衛は紙幣の束を懐から取り出し、アツオに押し付けた。彼は顔の皺を倍ほどに増やして笑い、一切遠慮することなく受け取った。

「へへ。俺ら現場の人間にはおためごかしはナシだ。ありがたくいただきますぜ旦那様」

「それでよい。実直とはそういうことじゃ。……ところでアツオよ。儂は故あってグラジールへ行きたいのじゃが、お主はこれから何処へ向かうのじゃ?」

「ああ、ラドグスク鉱山経由かね。さすがは旦那様。あんな道よく知ってるよ。ちょうど俺は鉱山に用があるから、そこまでは乗せてけるで。ただ……今のあそこはちと危険だな」

 乾いた皺の奥に思慮深い表情を滲ませ、アツオは控えめなれど断定した。藤兵衛は火打ち石でキセルに火をつけると、不思議そうな顔で深く煙を吸い込んだ。

「む? 寂れた国営炭鉱跡じゃろうが。掘り尽くされ打ち捨てられた、人も碌に居らぬ場所じゃろう? 昔よく茂吉と肝試しに行ったものよ」

「……やっぱ知んねか。あっこは今、アガナ神教の管理下にあんだ。表面的には国営の産業開発計画地……とでも言や聞こえはいいが、実際は教団の強制労働施設だよ。しかも政治犯専用のな」

「な、何と!? では一般人の通行は……」

「もちろん教団が厳重に管理してるだ。でも抜けるだけならそこまで難しくはねな。あんたが作った金蛇屋の威光を舐めちゃいけねよ。ほれ、乗った乗った。『善は急げ』っていうだろ?」

「ふん。儂が教えた言葉じゃろうて。すまんが世話になるぞ、アツオよ」

「料金は旦那様が帝都に戻ってからでええよ。んじゃ行くとすっか」

 手慣れた様子で片付けと出立の準備をするアツオを横目に、藤兵衛は悠然と荷馬車に乗り込み、キセルをふかしながら思案に暮れた。

(これ程大きな話が儂の耳に入っておらんとは、明らかに何者かの意思じゃ。何故ユヅキは儂に秘匿した? アガナ神教の力とはどれ程のものなのか? 何より……この世界に何が起こっておるのじゃ?)

 藤兵衛は考え込む。深く自らの内に入り込み、底に眠る記憶を探る。しかしその試みは、加齢による衰えと前日から続いた強行軍によって、程なくしてまどろみの中に消え失せていった。


 大陸歴1278年12月。世界は革新の時を迎えようとしていた。世界は回り続ける。誰のせいでもなく、ただひとりでに。

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