第23話「金銀」
運命の会談から数時間後、藤兵衛はむせ返る百合の匂いと共に目を覚ました。
ここは大聖堂にほど近い宿舎、最上階の貴賓室。教団が大切な客人をもてなすために使用される最高級の部屋。純白のベッドはふわりと体を包み込み、硬すぎず柔らかすぎずの肌触り。その他食器や家具も一見質素ながらも、職人の手により磨き上げられた逸品であり、そのどれにも聖母アガナを模した女神の紋様が 美しい銀色で描かれ、一種の荘厳さを醸し出していた。藤兵衛はそのうち一つの皿を乱雑に灰皿代わりに使いながら、悠然とキセルをふかし始めた。
「失礼します」
「おお、そろそろ飯の時間じゃったか。一体何かのう」
静かに控えめに部屋のドアが叩かれた。藤兵衛が軽く返事をすると、数人の家政婦が一礼をし、いそいそと食事の準備を始めた。辺りはもう闇に包まれているというのに、彼女達は皆疲れた様子一つ見せずに機敏に作業し、部屋を片付け、その他雑務をこなしていた。
食事は北大陸風の肉料理が中心だった。どれも手が込んでおり、味付けも洗練されたものだった。しかし藤兵衛はメインとなるトナカイのステーキを見ると、心底不快そうに眉を顰めた。
「何じゃこれは! 儂は馴鹿は金輪際食わんと決めたのじゃ! これ、代わりに果物を持って参れ。……何? リンゴしかないじゃと!? この痴れ者が! ゲンブの冬は蜜柑と相場が決まっておろうが! 部屋でも食う故、本日中に最低でも30個は持ってくるのじゃ。よいな!」
食事が終わると、藤兵衛は椅子に深々と腰掛けて腕組みをした。やるべき
事は山ほどある。今から、今だからやらねばならない。
「のう、女中さんや。ちとお願いがあるのじゃがの……」
大聖堂執務室。
公国幹部以外の出入りが禁じられた秘密の部屋は驚くほど質素であり、聖母アガナの肖像画が壁一面に描かれているだけで、一見すると単なる事務室といった風態であった。だがその中ではガーランドとカミラが緊迫の面持ちで、部屋の中央に配置された不思議な水鏡に映る景色を眺めていた。
「今のところ目立った動きはないな」
ガーランドは口調こそ冷静ながらも、漏れ出す不満を隠しきれずに呟いた。カミラは目を皿のようにして藤兵衛の動向を伺いながら、彼の意見に賛同するように深々と頷いた。
「この数時間、ずっと書き物をしているだけですね。とは言え字はブレており、内容は判別できませんが」
「本人の視界を通じての映像だからな。老眼に難聴か。歳をとるとは大変なものだ」
ガーランドは皮肉に薄い唇を曲げて笑った。カミラも釣られるように口を押さえて嘲った。
「……ほとんど紙面を見ていませんね。よくこんなに細かく字を書けるものだ。商売上の指示でしょうか? 宛先はオウリュウ国の金蛇屋のようですが」
「旅先でも存在を誇示し続けていたのだろう。形上は乗っ取られても実質は変わらずか。あの番頭では遠く及ばんな。我らも見習わねばならん」
「今日だけでもう100枚以上は書いてます。よくも飽きずにまあ……」
「この調子では暫く何も進展はなさそうだな。私は休むぞ。交代で夜通し監視しろ。何か動きがあれば遠慮なく叩き起こせ。よいな」
「はっ! かしこまりました」
そう言って部屋から出て行くガーランド。カミラは不動の姿勢でそれを見送ると、肩の力を抜いて独り言のように呟いた。
「ふう。どうも疲れたな。一日中こんなジジイの動向を伺うなんて、近衛の仕事じゃないよ」
「いいんですか、そんなこと言って。ガーランド様に聞かれたら殺されかねませんよ」
衛兵達はやや緊張を緩めつつも、周囲を伺うように声をひそめた。だがカミラはにっこりと大きく笑い、彼らの肩をぽんと強く叩いた。
「大丈夫だよ。知っての通りガーランド様が『水鏡』を行なっている間は、『首輪』の感知は使えない。1人に集中しきってる訳だからな。あの術もそこまで万能ではないということだ。やれやれ、こんな時に地下のレジスタンスどもにでも攻め込まれてはたまらんよ」
「はは。あんなネズミ臭い連中に何ができるのですか。シュライン王族一派と呼べば聞こえはいいでしょうが、所詮は負け犬の集まり。『首輪』を付けられていることも知らず、我らにいいように使われるのみです」
「違いない。見せしめに生かされているとも知らず、本当に哀れなカスどもだ。はっはっは」
愉快そうに談笑するカミラ達。和やかで何処か弛緩した雰囲気が流れる中で、水鏡を監視していた衛兵がふと不思議そうに声を上げた。
「しかし……さっきからどうも『水鏡』の音が安定しませんね。映像は全く問題ないんですが、音だけは何やら雑音が多くて。何だかこの部屋の音が影響してませんかね?」
「ああ、よくあるよ。『水鏡』は対象を完全に1人に絞って、聴覚に加えて視覚を反映する分、大体どっかしらズレがあるのさ。ガーランド様の術もまだまだ開発の余地ありだな」
「またカミラ様は……聞いてないからってそんなこと言って。いくら幼馴染でも、容赦するような方ではないでしょう?」
「はは。そうかもな。でも彼がどんな力を持とうが、どんなに変わってしまっても、根っこの所はあの頃から変わってないよ。何も心配要らないさ。ところでシャーロットに動きは?」
「は! 依然変わらずホテルベリーから動く気配はありません。奴隷2匹は外によく出ているようですが」
「やれやれ。どうやって侵入したか知らんが、大聖堂のすぐ近くで大胆なものよ。……ん? 動いたぞ! 藤兵衛が動いた! すぐにガーランド様を起こせ!」
突如として水鏡に映った藤兵衛の視界が歪に揺れ始めた。いつしか部屋の外に景色は移り、彼はこっそりと人目を忍んで移動しているようだった。
「ふふ。遂に動き出したか。このカミラ、神聖アガナ公国大司教近衛軍第1部隊長の名に於いて、お前の全てを見逃さんぞ」
カミラは大きな目を真っ赤に充血させて、顔を近付けて水鏡を覗き込んだ。そんなことをまるで気にすることのない動きで、藤兵衛は気さくに衛兵に声をかけつつ、悠然と宿舎から出ていった。彼が何をしようとしているのか、全ては彼らに筒抜けであった。ああ、藤兵衛はこんなところでボロを出してしまうのだらうか? 情け無く敵に弱みを握られてしまうのだろうか?
「報告は受けた。それで……奴は何をしているのだ?」
水鏡を眉間に皺を寄せて睨みつけるガーランド。滝のように汗をかいて立ち尽くすカミラ。そこに映っていたのは、薄暗い室内。大聖堂にほど近い酒場にて、露出の激しい若い女たちに囲まれ、浴びるように酒を飲む藤兵衛の姿だった。
「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ!! 酒じゃ! 酒を持って参れ! 金なら腐る程ある故な」
「やだあ、藤兵衛さんたら。店長〜ぶどう酒樽で追加お願いしまーす!」
「ガッハッハ! よきに計らえい。どうじゃ、お主らも飲んでおるか?」
視線の先には、先日一緒になった巡礼者達の姿があった。彼らも楽しそうに大いに飲み続け、店内を巻き込んでの大宴会の相を成していた。
「ええ、藤兵衛さん。飲んでますとも! 衛兵に連れてかれた時は、よもや犯罪者を連れて来てしまったかと震えましたが、まさかこれほどの人物とは。大商人金蛇屋藤兵衛の高名はゲンブ国にも轟いておりますぞ」
「何を申すか。儂らは同じ信徒同士、等しく対等の立場じゃて。ほれ、早く飲まねば酒がなくなるぞ」
酒宴は続く。藤兵衛は隣のバニー姿の若い女性に膝枕をされながら、尻たぶをいやらしく撫でまわしていた。
「ちょっと、藤ちゃあん。それ以上は有料なんだから」
「そうじゃろうそうじゃろう。ならばこれでどうじゃ?」
元々垂れた目を極限まで下げて、藤兵衛はバニーの胸元にむんずと札束をねじ込んだ。嬌声を上げる女達と、囃し立てる男達の声。そこまで黙って聞いていたガーランドは、我慢出来んとばかりに突然ガンと机を激しく叩いた。
「確かに動きがあったら報告しろとは言った。だがこれは……ただの乱痴気騒ぎではないか!」
ひり付く怒気にしんと静まり返る室内。カミラが何事か発しようとするも、ガーランドは苛立ちを隠すように早口で捲し立てた。
「もういい。お前らを責めるつもりはない。全てはこのクズのせいだ。俺は明日も早い。また動きがあれば報告するように」
ガタンと大きな音を立てて退出するガーランド。顔を見合わせるカミラ達。聞こえるのは音。欲に塗れた者たちの嬌声が、美しき白銀の世界を歪ませる音として、いつまでもいつまでも大聖堂に鳴り響いていた。
暫し後、ガーランド邸。
そこは豪奢な門構えと数名の衛兵の存在を除けば、地位に似つかわしくない簡素過ぎるくらいの室内で、そこらの信徒の家と殆ど変わりはなかった。部屋の中で壁に寄りかかり、そのままの姿勢で眠りにつくガーランド。だが彼は途中で何度も胸を掻き毟り、苦痛にさいなまれ束の間の眠りから覚醒してしまう。
「くそ! 眠らなければ……あのクズめ!」
獣のような唸り声を上げ、呪詛の言葉を吐き続けるガーランド。彼の内側を焼く炎は日に日に巨大になり、神経や脳髄すらも焼き尽くしつつあった。数時間の格闘の後、ようやく痛みも収まり少しずつ眠りに落ちようという時、突如として荒々しくドアがノックされた。
「……誰だ!」
「お休みのところ申し訳ありません! またしても藤兵衛に動きがありまして、大司教様にご報告を」
「やっと動いたか! 今度はどこに行ったのだ?」
ガーランドは無理矢理体を覚醒させて、努めて冷静に問いただした。だが衛兵は実に答え辛そうに、僅かに視線を下に逸らした。
「それが……今度は……大聖堂内の宿舎で酒宴を始めまして……」
「また酒か! どれほど飲めば気がすむのだ! 宿舎の衛兵に言ってやめさせろ!」
「は、はい。ですが実は……その……実に申し上げにくいのですが……衛兵の中にも参加している不届き者がいるらしく、人数は既に100名を超えている模様で……」
「カミラに言え! 全員縛り首にしろとな! 俺は寝るぞ!」
バタン、と扉を閉めるガーランド。深いため息をつく衛兵。彼らにとって悪夢に等しい時間は終わらない。現にカミラが宿舎に押し寄せて一旦は解散になった宴会も、場所を変えて夜が明けるまで幾度となく繰り返された。その度に駆り出されるカミラ達近衛部、報告のため起こされるガーランド。彼らの疲労とストレスは、初日にして頂点付近にまで達していた。
一夜明けて、大聖堂執務室。
目に深い隈を作って、不機嫌極まる表情で現れたガーランド。カミラ達は眠気を一気に吹き飛ばし、直立して彼を出迎えた。
「首尾はどうだ? 奴はどうした?」
「は! 藤兵衛は先程寝付いたところです。……!? し、失礼! もう起きました!」
ムクリと起き上がる藤兵衛の姿を見て、カミラは驚きの声を上げた。ガーランドは不機嫌そうにその姿を眺め、肝を握り潰すような憎しみの声を上げた。
「老人の朝は早い。驚くには値しない。しかしあれだけ飲んでおいてよくもぬけぬけと……」
「あ! 動き出しました! 奴め、食事も取らずに何処へ行くつもりだ? 大至急衛兵に連絡を取れ!」
藤兵衛は隠れるようにこそこそと大通りを避け、慣れた動きで路地裏へと進んでいった。その背後を、気配を殺して追跡する衛兵の一団。やがて彼は一軒の古びた納屋に入った。周囲を伺い、窓の周囲に葦簀が立て掛けてある事を確認し、音も立てずに入る藤兵衛。中には数名の人間がいるらしく、こそこそと話が聞こえてきた。
「藤兵衛様……準備は……打ち合わせ通り………」
「うむ……慎重にな。失敗は許されんぞ」
それを聞いて小躍りするカミラ。遂に尻尾を掴んだと、喜びが一堂に広がっていった。ガーランドも満足そうに頷き、ぽんと彼女の肩に手を当てた。
「でかしたぞカミラ。やっと動きが見えたか」
「は! すぐに捕縛しましょうか?」
「まだ早い。もうしばらく泳がせろ。名目上は自由を与えているからな。現場で待機し全てを洗え。万が一逃げた時のために『水鏡』を持っていけ」
ガーランドは端的に指示を出すと、水盆ごと特殊術を手渡した。カミラは恭しくそれを受け取ると、衛兵を取りまとめ現地へと急行した。
「ようやく動き出したか。後は任せたぞ。俺は職務を果たすとしよう。成果が出たら至急報告するように」
「は! 行ってらっしゃいませ大司祭様!」
衛兵に見送られて正門に向かうガーランドは、安堵の表情を浮かべて大通りを堂々と歩いていた。通りを行く人々は彼を見つけると跪いて祈りを捧げ、その度に彼は立ち止まり穏やかな祈りを返した。中には涙を流して救いを求める者もいた。人々に温和で優しげな目を向けつつも、彼は心中で深く嫌悪の色を濃くした。
(他者に救いを求めるだけで、自らは何も動こうとしない愚民どもめ。精々俺に富と力を与えるがいい。完全な『賢者の石』を手にした俺は更に高みへと昇る。その姿を指を咥えて見ているがいい)
上面だけの笑顔を能面のように貼り付けて、ガーランドは祈りと祝福を与え続けた。だがふと、彼の脳裏に細やかな疑問がよぎった。
(しかし……今日はやけに人が少ないな。朝は信徒達の祈りの時間。大聖堂周辺がここまで閑散としている記憶はない。それにやけに賑やかな音が聞こえる。何処かで祭りでもやっているのか?)
彼は大通りの先、街の正門へと至る道を何気なく眺めた。すると道の先で、群衆が人だかりを作っているのが見えた。彼らは道の脇にまで広がって、一様に楽しそうな表情で何かを眺めていた。ふと気にかかり歩みを進めたガーランドの目に飛び込んできたのは……。
「さぁさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。楽しいショーの始まりだよ!」
4つの手毬を器用に手元で投げ回しながら、道化師の格好をした男が満面の笑みで叫んだ。彼はわざと間違ったり転んでみたりして、集まった信徒達に多分におどけてみせた。見たこともない派手で滑稽な姿に、彼らは腹を抱えて笑っていた。
「おっと、この街はウケがいいね! 俺っち気に入ったよ。セイリュウ国ではちっともウケなかったからね。さあさ、信徒の方々。今日は特別な日だよ! 寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」
道化師が仰々しく腕を掲げると、その背後からバニー姿の女性たちが登場し、群衆に菓子や嗜好品を大量に配っていた。北の地ではめったに手に入らぬ甘い菓子や嗜好品を見て、子供達が大きな歓声を上げていた。
「ささ、今日は記念すべき日だよ! あの伝説の商人、東大陸一の金持ちのあの方が、特別に皆さんに贈り物をしてくれるそうだ! みんな、よく見てよく聞いててくれ!」
ガーランドは急激に襲ってきた頭痛を堪えながら、信徒を掻き分けて道の遥か前方を覗き込んだ。そこには、全体を下品極まる金色に塗りたくられた馬車の上で、悠然とキセルをふかす金蛇屋藤兵衛の姿があった。
「ホッホッホ。グラジールの皆、アガナの信徒の皆よ。儂の名は金蛇屋藤兵衛じゃ。先も紹介があったが、この東大陸を統べる偉大なる商人ぞ。ほれ、これはほんの挨拶代わりじゃ!」
彼は馬車から札束を取り出すと、群衆に向かって数枚ずつ大づかみで投げつけた。ひらひらと桜吹雪のように舞い散る紙幣を、狂ったように必死で奪い合う人々。
「まだじゃ! 金は幾らでもあるぞ! 歌えい! 踊れい! 狂えい!!」
人々の頭上から更に降り注がれる金の雨。混乱の境地に至る大通り。ガーランドは何とか場を収めようとするカミラをちらりと眺め、内心で舌打ちとため息を交互に繰り返しながら、無理矢理に人混みを掻き分けて彼に歩み寄った。
「藤兵衛さん。先程から何の騒ぎですか? ここを何処だと……」
「おお、大司教殿ではありませぬか! 皆さん、見て下され! この方こそ儂の真の友邦、最大の協力者であられる大司教ガーランド様ですぞ! さあ、音を上げい! 皆でアガナの聖歌を歌うのじゃ!」
彼の言葉を完全に制して、藤兵衛は得意の低いダミ声で激しくがなり立てた。と同時に物陰から楽団が飛び出し、地響きにも似たラッパの音と共に始まる大合唱。瞬く間に人々に広がる饗宴の輪に、ガーランドの抗議の声も一瞬で掻き消された。
「……藤兵衛。貴様何を考えている!!」
「実はですな、皆さん。儂は今、ここにいらっしゃる大司教様に招かれて、大聖堂内に宿泊しておるのですじゃ。まさか儂のようなつまらぬ一商人に、そんなお恵みを下さるとは夢にも思っておりませんでしたわい。全てはゲンブ国の、グラジールのため、アガナ神教の皆様の益々の繁栄のため、大司教様はこの情けない年寄りの僅かな力を頭を垂れてまで頼ってくださったのじゃ! ガーランド様、儂は心底感動しましたぞ! オーイオイオイオイ! オーイオイオイオイ!」
そう言って大きな声でわざとらしく泣き始めた藤兵衛。同じタイミングで悲しい音色に変化する楽曲。しんみりとした雰囲気に包まれ、釣られて涙を流す信徒が増えていった。あまりの展開に言葉を失うガーランド。その隙を逃さず、鼻水を啜りながら涙声で畳み掛ける藤兵衛。
「アガナ神教の皆さん。儂は憂いておるのですじゃ。こんなに優秀で、信心深い素晴らしい皆様方が、なぜこんなに困窮した生活を送ってらっしゃるのか。こんなにも美しい都に住みながら、何故富を得ることが出来ぬのか。儂は、同じ信徒として、皆様の手助けをしたいのですじゃ。それだけで……それだけで儂は満足なのですじゃ! ウォーイオイオイオイ!!」
群衆は彼の涙にほだされ、更に涙を流す者が増えていった。この場は完全に金蛇屋藤兵衛が支配しようとしていた。ガーランドは砕けん程に歯を噛み締めて、臓腑からの怒りを爆発させようとしたその時、またしても藤兵衛が踏み込んできた。
「儂は約束しますぞ! 皆様に富と物資をもたらすと。1年以内に大陸中の物資を、この国に大量にもたらすと。勿論じゃが信徒の皆様には格安で、赤字価格で提供いたしますぞ! オウリュウ国の特級酒や、セイリュウ国の野生肉、ビャッコ国の新鮮な野菜と果物。ご婦人方にはドレスや宝石、子供たちには甘くてとろけるお菓子。今まで皆の生活にはなかった真の豊かさを、盟友である大司教様とともに、この金蛇屋藤兵衛がお届けいたしますぞ!」
「いいぞいいぞ! こりゃめでてえ話だ!」
「ママー、本当にお菓子貰えるの? やったあ!」
「偉大なる大商人、金蛇屋藤兵衛様ばんざい! 大司教ガーランド様ばんざい!」
場は一層の熱狂に包まれた。それと同時に更にばら撒かれる紙幣に物資、掻き鳴らされる情熱的な音色。カミラの止める声すら即座に掻き消され、場は正に狂宴の極みへと達していた。
「さあさ、藤兵衛様の贈り物、後悔ないようにな!」
道化師の声が響いた。ガーランドは怒りで顔を真っ赤にして、つかつかと正門へと歩いて行った。だが、そこに駆け寄る衛兵の一人。
「ガーランド様、大変です! シャーロット一味が消えました!」
「何だと!? 次から次へと……この国はどうなってしまうのだ! 何の為にお前らが付いていた!」
「も、申し訳ありません! この騒動の隙を突いた形で、気付けば影も形もなく……」
それを聞いて、ガーランドは手を組んで深く考え込んだ。彼には見えていない。五感全てを掌握している筈の、全ての行動を感じられる筈の、目の前の男の思考が。全てを曝け出した筈の老人に、明らかに翻弄されている事実を一旦素直に認め、彼は逆に冷静に戻り静かに思考に耽った。
(藤兵衛の手引きか? 俺たちの目を掻い潜り連絡を取ったか? ……いやそれは考えづらい。カミラ達もそこまで阿呆ではあるまい。あの厳重な監視の中では絶対に不可能だ。予め打ち合わせしてあったと考えるのが妥当。だがそんな時間も余裕もなかった筈。こちらの動きを察知していなければ……まさか教団内に裏切り者が? いや……それはない。教団内にまで俺の『首輪』は伸びている。では何故だ? 奴は何を考えている? ……ええい! まるで理解出来ん!)
衛兵は困ったように立ち尽くし、井戸の底のように深々と考え込むガーランドの指示を待っていた。暫しの沈黙が流れ、彼はようやく顔を上げ極めて重苦しく口を開いた。
「……カミラに伝えておけ。これまで以上に警備を強化しろと。グラジール内の衛兵を全て探索に回せ。何としてもシャーロットの居場所を今日中に探すのだ」
「は! 必ずや!」
走り去る衛兵の姿を確認すらせず、男の目は今だ馬鹿騒ぎを続ける藤兵衛の姿を追っていた。そうしているうちに、ガーランドの胸中に怒りとも憎しみとも違う、不思議な感覚が沸き起こっていた。
「『儂らは同類』……だと? どこがだ!」
苛立ちを足に込めつつその場を後にしながらも、ガーランドは心の中でその言葉を何度も何度も繰り返していた。
結論から言えば、2日目以降もガーランド達はまともに眠ることはできなかった。藤兵衛は大人しく書き物をしていたかと思えば、不意に街へ出て大いに飲んで騒いだ。そしてまた戻ってきたかと思えば、宿舎の女中を口説いたり、大聖堂の屋上から金をばら撒いたり、街の大広間で演説をしたり、貧しい人々に物資を配ったりと、彼らの想像を超える奇行に事欠かなかった。
「こいつは……一体何を考えているんだ? 商人とはこういう生態なのか?」
毎日彼に振り回され、心底疲れ果てたガーランドが誰ともなしに呟いた。
「……いえ。恐らくはこいつだけです。この狂人だけは本当に……ええい、もういい加減寝ろ! 何時間遊んでるんだ! 監視するこちらの身にもなれ!」
同じく疲れ果てげっそりと痩せ細ったカミラが、縛った長い髪を掻きむしりながら叫んだ。
「間も無く月に1回の信徒集会だ。そちらの準備は問題ないな?」
「はい。その点はお任せ下さい。藤兵衛が関与した形跡はありません」
「よし。だがこれ以上あいつに掻き回されては堪らん。力づくでも取り押さえておけ」
「かしこまりました。ただ……素直に言うことを聞くとは到底思えません。ああ、なんて面倒なんだ! 殺してしまえれば本当に楽なのに!」
「信徒集会さえ終わればこいつに注力出来る。その後はたっぷり時間をかけて締め上げてやろう。あと少しの辛抱だ」
「楽しみにしてます。……あ! また大聖堂で酒を! 人数もどんどん増えてます! ガーランド様、私は制圧に向かいます」
「頼んだぞ。カミラ。ただシャーロットの居場所だけは必ず突きとめろ。俺は休む。何かあったら必ず報告せよ」
「……ガル、大丈夫? 私はいつだって……」
「その呼び方は止めろ。誰が聞いているか分からん」
「………」
2人の影はほんの僅かに重なり、すぐにまた離れていった。カミラは衣服を正して敬礼すると、すぐに顔を伏せて走り去った。ガーランドは扉が閉まる音が聞こえるや否や、両手で胸を押さえて倒れ込み、床をのたうち回りながら獣のような叫び声を上げた。
「ぐ、ぐううううう!! くそっ! 静まれ! 何故だ……何故俺を受け入れん……」
内側から切り刻まれんぼかりの燃えるような心臓の痛みに耐えながら、彼は不屈の精神力で立ち上がると、平静を装いながら足を進め、何とか自宅まで辿り着いた。
(明日の集会が終わり次第……奴の首を思い切り縊り切ろう。どうせ奴は死なん。そうだ。そうすればこの痛みも多少は……)
あまりの疲労感からか、ガーランドは玄関で膝を付き息を荒げた。しばらくの間倒れ込み、朧になる意識の中で彼は見た。聞いた。門に掲げられた篝火が映し出す自身の影が、まるで意思を持つかのように彼の耳元でそっと囁いた。
「ずいぶんとお困りのようで。“大司教”様」
影はガーランドと全く同じ顔、同じ声で語りかけた。脂汗を流しながら目を怒らせる彼だったが、振り払う力すら残されてはおらず、肺から声を振り絞るだけで精一杯だった。
「……うるさい! もう出てくるな! あと少しで片は付くのだ!」
「“かた”? 何の話だい? 不完全な力しかない、不完全な生き物のお前に、いったい何ができると?」
「……!!」
「お前のような不確かな存在に何ができると? そもそもお前の命は後どれくらいもつんだい? 本当に石を手に入れれば生き延びられるのかい? 大司祭が聞いて呆れる。親を裏切り、意に添わぬ者を排除し、仮初めの仮面で偉そうに振舞って、あげく黒き炎に焼かれて無為に死んでいく。これが喜劇と呼ばず何だというのかな?」
「……黙れ!」
「私は、俺だ。黙ったところで何も変わらない。あの日私が全てを手にし、莫大過ぎる対価を支払った時からな。せいぜい明日の集会とやらも頑張るがいい。ま、邪魔が入らねばいいがな。果たしてあの金蛇屋藤兵衛が黙って見ているものかな? お前を恨む者たちがいつまでも指を咥えているのかな?」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れええええ!!」
「私はいつも見ている。弱いお前を。良心の呵責を己の中に溜め込み、能面を演じている情け無いお前を。死ねば助かる。答えはただそれだけなのに」
「ああああああああああ!!!!」
ようやく動いた腕に振り払われ、影はいやらしい笑みを浮かべたまま靄のように消えていった。ガーランドはその場で座り込み、身動き一つすることが出来なかった。冷たい風と雪に晒されて、彼は何も考えることすら出来なかった。それはあの日からずっと、ずっと。世界の歪みをその身に受けてから、彼がその内に熱を秘める事は決してなかった。絶望と希望に翻弄された男は、それでも決意を蒼き目に秘めて立ち上がる。白銀の如き気高さを纏い、神聖とはほど遠い獣性を胸に。明日のため、ただ……生きるためだけに。
一夜明けて、朝。
今日は月に1回の定例集会。グラジールに住む信徒にとって、必ず参加しなければならない大切な行事だった。
とは言ってもやる事といえば、集まって説法を聞き皆で祈りを捧げるのみ。たった1時間程度で終わるささやかな行事ではあったが、神聖アガナ公国に仕える聖職者たちにとっては欠かすことの出来ない重要なものだった。
大聖堂前の大広間には飾り付けがされ、人々を受け入れる体制は整っていた。大司教ガーランドには、説法と信徒への祝福という大事な仕事が存在していたが、当の彼は疲労困憊の極みであった。連日の藤兵衛の監視による疲労で体調は最悪、立っているのもやっとの状態だった。しかしこれだけは休むわけにはいかない。アガナの信徒としてだけではなく、集まった信徒達に『首輪』の状態を確かめる意味合いもあった。彼の術も完璧ではない。ふとしたきっかけで外れたり、消えてしまうこともあった。そうした“異常”を見つけたらば、密かに耳打ちして再び“祝福”を与える。民の適切な管理のため、必ず必要となる行事だった。
朝方過ぎ。ガーランドが大聖堂執務室に着くと、カミラが慌てふためきながら急ぎ話しかけた。
「おはようございます。今お迎えに上がろうかと思っていたのですが……」
「何か……動きがあったのか?」
「藤兵衛は先ほどまで呑んだくれていたのですが、今し方再び街をうろつき始めました」
「衛兵は? 今奴に監視はつけているのか?」
「いえ。今日は人手も足りませんし、こちらで動きは把握しておりますので。何かあれば私がすぐに向かいます」
「……仕方ないか。ところでシャーロットはどうなった?」
「それが……全く気配すら見えません。ほぼ全て探し尽くしたとは思うのですが、闇力の気配すらも。恐らくは地下の反逆者どもに匿われたのではないかと」
「それならむしろ好都合か。藤兵衛への『水鏡』発動中は『首輪』の探知範囲が大幅に狭まる。一旦解除して地下を探ってみるのも手だな」
「そうしていただければ何よりです。……!? ガ、ガーランド様! 藤兵衛に動きが! 裏通りで誰かと話しています! これは……シャーロットの奴隷! それに秋津国の侍も!」
「言っている側からか。実に運が良いな。奴らに気取られてはならん。このまま『水鏡』で会話を傍受しよう」
ガーランドとカミラは耳を澄まし、水面から送り出される3人の会話に耳を傾けた。
「……てめえ、ずいぶんとハデにやってるみてえだな」
白い信徒のローブを頭からすっぽりと纏ったレイが、吐き捨てるように言った。亜門も腕組みをして黙したまま藤兵衛を見つめていた。
「何じゃ。貴様らには関係なかろうて」
「けっ。たいした言いようだな。いいか、てめえがなにをしてえのかは知らねえが、お嬢様にだけは迷惑かけんじゃねえ。わかったか?」
「ふん。儂がどうしようと勝手じゃろ。勝手に来ておいて偉そうにするでないわ。儂はもう貴様らの一味ではない。“シャーロット”にもそう言っておくのだな」
「てめえ……チョーシ乗ってんじゃねえぞ!!」
レイはぐいと近付くと、藤兵衛の胸元を力一杯掴んだ。水鏡の画面が激しく揺れ、ガーランド達は嘲笑気味にその様子を見つめていた。
「お嬢様はてめえを信じてんだ。なにを思ってガーランドの野郎にケツふってるか知らねえが、フザけんのもいいかげんにしとけや!」
「ふん。儂の信じるものは最初から金だけじゃ。儂はガーランドに忌まわしき石を渡し、グラジールの利権と情報を貰う。何の不合理もなかろうて。貴様らとの“協力関係”もこれまでじゃな」
「……」
「何じゃ、その顔は? 金が欲しいのなら幾らでもくれてやるわ。ほれ、拾うがよい」
藤兵衛がぽとりと道に札束を投げ捨てた次の瞬間、レイの拳が一直線に飛んだ。
「グッ!! 何をする! 放せい!」
「うるせえ! この野郎!」
レイの拳が藤兵衛に向けて、あられのように何度も降り注いだ。彼は悲鳴を上げて目を閉じ、屈み込んで必死に耐えていた。鈍い打撃音と闇力の胎動だけがその場に響き渡っていた。
藤兵衛の感覚を再現する『水鏡』からは、何度も繰り返されるくぐもった打撃音と、真っ暗な画面のみが映し出されていた。カミラは首を傾げて不思議そうに水鏡を軽く叩いた。
「あれ? 調子悪くなりましたか? 音も最近どうも変で……」
「あの木偶め。殴りすぎだ。藤兵衛が意識を失いかけているだけだろう」
ガーランドが苦笑いを浮かべて言った。カミラも呆れたようにため息をついた。
「仲間割れか。なんともまあ愚かしいことで」
「経過を追うぞ。楽しくなってきた。経過次第では労なく目的を達せられるだろう」
ガーランドは実に不敵に笑った。『水鏡』はただ静かに彼らの騒動を追い続けていた。
5分ほど一連のやり取りは続いていた。視界は暗いままだったが、息を荒げたレイの叫びが聴覚に響いてきた。
「もうてめえのことなんざ知らねえ! どうせここにゃ『楔』はねえんだ。お嬢様を説得してビャッコ国に向かうぞ。わかったな亜門!」
歩き去る足音。そして上方から注がれる亜門の声。
「殿。今度という今度は見損なったでござるよ。今までお世話になり申した。……では御免」
暗闇の中、歩き去るもう一つの声。そして、無音。完全なる沈黙。やがて激しく画面が揺れ、ようやく映し出された風景は地べたのみ。惨めな負け犬の目を通して、雪と泥に塗れた轍がいつまでも水鏡に広がっていた。
「確定ですね。連中は袂を分かちました。シャーロットはどうしますか?」
「放っておけ。奴らを相手にする必要はない。ビャッコ国に行くなら好都合だ。“あいつ”に任せばいい」
「了解です。……藤兵衛は身動き一つしません。さすがに相当堪えているようですね。もしかして泣いてるのかな? ぷぷっ、いい気味だこと」
「そう言ってやるな。一応“仲間”だったのであろう? 利害関係のみのな。それに……ジジイの泣く姿なぞ見たくもない」
顔を突き合わせてせせら笑う2人。やがて水鏡の視界が晴れ、藤兵衛はよたよたと歩き始めた。すぐに目に付いた馬小屋に入り、彼は藁の塊にどすんともたれかかると、そのまま力なく横になった。
「見てみろ。馬の糞に塗れて寝ているぞ。なんとも情けない姿だ。大陸一の商人が聞いて呆れるな」
「まったく動こうとしませんね。よっぽど堪えたのでしょう。今の内に連行しますか?」
「この様子では必要なかろう。外から見張っていればよい。とは言え油断はするなよ。自棄になった者は何をしでかすか分からんからな」
そう言いながらもガーランドは満足そうに立ち上がり、カミラにくるりと背を向けた。
「私は集会の準備に向かう。終わり次第会うとしよう。一番心配なのは奴に逃げられることだ。『水鏡』はカミラに渡しておく。妙な動きあればすぐに捕らえろ。報告は要らん」
「は! かしこまりました!」
大きく頷き立ち去るガーランド。心配の種は消えた。後は奪うのみ。何も問題はない。彼の心は晴れやかだった。水鏡には馬小屋の風景が無音で流れ続けていた。
夕刻、信徒集会開催の時間。
聖都グラジールのほぼ中央、大広間には多くの信徒達が集まっていた。今日は月に1度の信徒集会。この街の住民の大多数である彼らは、至極当然のこととしてこの場に集まっていた。
毎月のことではあるが、信徒からすれば大司教からの御言葉をいただける大切な機会。また、運が良ければ直接洗礼を受けることも出来た。彼らは昼過ぎごろからぽつりぽつりと集まり始め、互いに談笑し、会が始まるのを待ちわびていた。
ガーランドは邸宅から広間を一望し、信徒達が集まるのを眺めていた。彼からすれば、自らの野望のためのゴミのような存在にすぎない。彼は野望に飢え、力に乾いていた。胸を押さえて蹲りながら、彼は何杯目かのグラスを仰いだ。そして4時を告げるベルが鳴った時、衛兵の1人が急ぎ部屋に入ってきた。
「もうすぐ開会という時に申し訳ありません。火急に申し上げねばならないことがありまして……」
「前置きはいらん。端的に話せ」
疲労の色を必死に隠しながら、努めて冷静にガーランドは告げた。衛兵は息を切らしながら、彼の顔色を伺うように震える声で報告した。
「は! ……藤兵衛が逃げました。馬小屋で馬を盗み、正門を強行突破した模様です。撹乱のためか縦横に走り回っていますが、水鏡に映る風景から推測するに、どうやらビャッコ国との国境を目指しているようです。今、カミラ隊長が追跡しておりますので、間も無く捉えられるかとは思います」
「やれやれ。無残な現状に絶望したか。何とも情けない話よ。集会が終わったら直々に尋問するとしよう。俺はもう行く。カミラに伝えておけ。……痛めつけ過ぎるなと」
「は! ガーランド大司教様」
振り向きもせずにガーランドは大広間へと向かった。その足取りに些かの不安も感じられなかった。全ては今日から始まるのだ。賢者の石を手にし、力と命を奪い取る。そして万全な支配体制を背景に、北大陸のアガナ神教本国をも屈服させる。何も不安はない。全てはこの力の前に平伏すのだ。
彼は心中で笑う。大きく口を開けて笑う。笑いが止まらない。彼はただ、この日のために生きてきたのだから。
大広間を埋め尽くすほどの信徒達。彼らは皆、ガーランドが来るのを心待ちにしていた。白銀に輝く大司教の法衣が見えると、彼らは大歓声で迎え入れた。自らが飼い慣らされた家畜とも知らぬ、愚民達の群れ。彼は笑顔で手を振りながら乾いた視線を送った。人々の首には等しく、隷属の証たる『首輪』の存在が確認出来た。
(……外れている者はいないな。上出来だ。今月は楽で助かる)
だがよく見ると、最前列にいる若い男女には『首輪』が見当たらなかった。彼は僅かに眉を顰め、その2人を仰々しく指差した。
「そこのお若い方々。壇上へお上がりなさい。祝福を授けましょう」
2人は下を向いて、ガーランドの言葉に気付いていないのか、ただぼんやりと祈りを捧げていた。彼はふっと苦笑しつつ半歩前へ進み、再度彼らに優しく言葉を投げかけた。
「そこのお2人。最前列のあなた達のことです。どうぞ前へ」
しかし微動だにせぬ2名。周囲の信徒達が肩を叩いて知らせると、彼らはやっと気付いたのか急ぎ前へ出た。
「(愚図が。さっさと来い)ようこそお越し下さいました。それでは頭を垂れなさい。特別にあなた方に祝福を……」
「それは……ちと出来ぬ相談じゃな」
ぞくり、とガーランドに致命的な怖気が走った。特徴的な低いダミ声が彼の鼓膜を揺らし、同時に全身から血の気を引いていった。
(この声は……まさか!? し、しかしそんな筈は……)
「どうしたのじゃ? 具合でも悪いのかのう? いつもの“持病”が出たら事じゃて。だとすれば……特効薬が貴様の目の前にあるわい。儂の胸にある『賢者の石』がの。……ガーランド大司教“様”よ!」
「貴様! 金蛇屋……藤兵衛!!!」
冷や汗をかいて激しく叫ぶガーランド。若い男はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべ、女に合図を送り一斉にローブを剥ぎ取った。その男は漆黒の背に金色の蛇を誇り、細く垂れた目で彼の魂までも見据えていた。そう、不老不死を与えられたオウリュウ国の大商人、金蛇屋藤兵衛の溌剌とした姿がそこにあった。
そしてもう1人は、艶やかな長い黒髪と漆黒のドレス姿の美しい女性。そう……魔女シャーロット=ハイドウォークもまたここに!
「どうしたのかの? まるで幽霊でも見たような顔じゃな。何にせよ、この儂に喧嘩を売った時点で貴様は詰みじゃ。さて、シャルや。此奴に借りを返してやらねばのう」
「ええ。もちろんです、藤兵衛。神聖アガナ公国大司教ガーランドよ。貴方の危険な力、ここで奪い取らせていただきます!」
2人は壇上で堂々とガーランドを見つめていた。何が起こったか分からぬ周囲のどよめきに包まれ、3人は突き刺すような殺意の視線を交わしていた。
大陸歴1978年12月末。
ゲンブ国と賢者の石を巡る戦いは、ここに佳境を迎えようとしていた。
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