第15話「高堂亜門、かく語りき」

 己の名は高堂亜門。東の果ては秋津国の武家、高堂家の若衆でござる。己の力及ばず大陸で部隊が壊滅した後、様々な事由あり迷走を繰り返したものの、今は大陸一の大商人たる金蛇屋藤兵衛殿の僕となり、偉大なる探求の旅に同行している次第。未だ若輩者ではありますが、殿の名に恥じぬ従者となれるよう、日々精進しておりまする。

 運命の出会いから2週間が経過し、しばらく降り続いた雪もひと段落した所で、己らはゲンブ国の首都グラジールへ向けて進軍を開始しております。深く雪が積もった街道はぬかるみ、力車が雪にはまって身動きがとれなくなることもしばしばでござる。己は力車の隣に侍りながら、こうした事態に一早く対応出来るよう心がけております。

「何じゃ! また嵌ってしもうたわい! 亜門や、何度も申し訳ないがの、またお願いできぬかのう?」

 今こうして心優しい声をかけて頂いたのが、現在の我が主であらせられる、金蛇屋藤兵衛殿でござる。元は帝国一の大商人でありながら、己の如き低い身分の者にも分け隔てなく接していただける、本当に器の大きい方でありますれば。秋津の格言にある『真の大器天海を貫く』の通りでありますな。

「は! かしこまりました! 至急対応致しますので、殿は中で少々お待ち下され」

 己はそう高らかに宣言すると、竹と石で作ったお手製の雪かきで作業を始め申した。自慢ではありませぬが、己は手先が器用な方にござる。ちょっとした道具なら自作出来ますし、長きに渡る従軍経験の中で自給自足はお手の物にて。こんな細やかな技術が尊敬する殿のお役に立てておるようで、己は心から光栄に思っております。

「おい! またハマりやがったのか! ほんとてめえだけは使えねえなあ! 雪国出身が聞いてあきれるぜ」

 力車から降り立ったのは大柄で屈強な戦士、この方こそ旅団の取り仕切り役であられるレイ殿でござる。見た目の通り麗しく、強く、尊敬すべき武人であられます。

「喧しい! こんな大雪の中で力車を引かせるなど正気の沙汰ではないわ! 文句があるなら貴様がやれい!」

「うるせえ! なんでもかんでも人にやらせようとしやがってよ。力車引きだって、スキありゃ亜門に振ろうとしやがるじゃねえか!」

「ふん。儂は亜門の意思に従おうとしたのみじゃ。それを貴様が余計なことを喚きおったせいで……」

「うるせえ! 俺のせいにすんじゃねえ!!」

「グェポ!!」

 この光景も最早見慣れたものでござる。まったく……2人とも実に仲のよろしいことですな。軍にいた頃を思い出すでござる。お2人とも照れておられるのか否定されますが、喧嘩するほど仲がよいと申しますからな。己も早く皆と打ち解けていかねば、と心から思う次第でござる。

「あら、また喧嘩ですか? まったくあの2人は懲りないことですね」

 くすくすと微笑みを浮かべて力車から顔を出したのは、己が仲間の仇と疑う忌まわしき魔女シャーロット=ハイドウォークにござる。己は早々に笑みを破り捨て、奴めを無視し黙々と作業に移り申した。この女狐だけは要警戒でござる。殿もレイ殿も素晴らしい御方でありますが、あの魔女の忌々しい妖術を見るに付け、己の疑念は沸々と沸いてくるのでござる。殿の手前、証拠も無しに手を出すことはいたしませぬが、いずれ必ずや化けの皮を剥がし、刀の錆へと変えてくれましょうぞ。

「どうですか、亜門? この旅にも慣れてきましたか?」

 沸々と込み上げる己の気持ちなど一切加味せず、穏やかな声で語りかける魔女。思わず心を許しそうになる暖かい声。これが……こやつの妖術にござるか! 仕事で疲労し切った身に幻術とは、卑怯千万にも程があるわ!

「おい、魔女よ。一度しか言わぬので、覚えておくでござる。己は貴様とは馴れ合う気などない。この腰の刀はいつでも貴様を……っ! は、話を聞かぬか!!」

 既に魔女めの姿は己の側から消え失せ、気付けば妖の術を用いレイ殿に大量の雪玉をぶつけておりました。おのれ……秋津の侍を舐めるにも程があるでござる。この恨みはいつか必ず……。

「グゥッ! い、一体何事でござるか!? 前が見えぬ!」

「お、お嬢様! いくらなんでも大きすぎますぜ! それに今は雪合戦をしている場合では……ギャアアアアアアアアアア!!」

「おいシャル! 少し落ち着くのじゃ! 儂を殺ったところで何も……モゥルン!!」

 お2人の悲鳴が何処からか響き、慌てて雪をかき分け駆け付けると、魔女めが悪しき力を楽しそうに振るっていたところでござった。おのれ卑劣な! 殿に何をするか! ……そう思った瞬間に、己の意識は忽然と途絶えたのでござった。己が最後に見た光景は、天を覆い尽くす雪雲を携え、妖しく嗤う悪鬼の姿でありました。


 己らの旅は想像よりも長く険しいものでござった。

 力車の進む距離は、1日に40キロ程度。行軍と考えるならばやや物足りませぬが、一般的な旅の速度としては中々のものでござる。なぜあの魔女がそんなに急ぐのか、この旅の明確な目的が何なのか、それらは殿ですら不明であるとのことでありました。

「よいか亜門。狂人の思考なぞ読もうとするだけ無為じゃて」

 殿は呆れたようにそう語り申した。なんでも殿は、御自身の命を人質に取られておられる御様子。おのれ! 憎むべきは卑怯なる魔女よ! いつか必ず己が取り戻して差し上げましょうぞ!

 旅の間、殿とは様々な話をしたでござる。今までの旅のこと、帝都での商売のこと、己自身のこともずいぶん詳しく話し申した。殿は実に聞き上手で、さすがは百戦錬磨の商人といったところでござる。

 そして殿は、驚くべきことに一度見聞きしたことを決してお忘れになりませぬ。己の歳や出身などはもちろんのこと、知己の名や訪れた町の名まで全てが脳内に網羅されておる御様子。これには心底驚き申した。己では到底真似出来ませぬ。

「ほう、そんなに寒い場所がこの世にあるとは! そんな北の果ての事までご存じとは、流石は殿にござるな。して、そちらへは商談で?」

「……まあそんな所じゃな。どちらにせよ大した問題ではなかろうて。でな、ここからが傑作でのう……」

「……」

 ですが、己は1つだけ気付いておりました。殿は、御自身の商売人としての面は積極的に見せて頂けますが、個人としての素性は殆ど表に出されませぬ。そういった話題はそっと注意深く避け、愉快で興味深い話にすり替えていく癖がお有りでござる。家臣に過ぎぬ己は触れなどいたしませぬが、殿の中にある深い闇のようなもの、その表面を時折なぞるたびに、何とも言えぬ気分になり申した。

 旅の最中、基本的に己は殿に先行し、行く先の斥候を行なっておりまする。力車の周囲に気を配り、怪しきものあらば排除する。それが己の主要な任務でござる。この地帯は辺鄙な地ゆえ、過去より山賊の類も多く、治安維持能力も極めて低いとのこと。更に最近ではアガナ神教とかいう宗教の巡礼者も多く、彼らを狙い更に犯罪が増えているとの話にござる。

 現にここ数日で、己は5名の賊を排除し申した。素人に毛の生えたような腕ゆえ造作ありませんでしたが、止めを刺さんとする際に殿は己の前に立ちはだかり、静かに、高圧的な物言い一つせず、実に優しい口調で己に言い聞かせたのでござる。

「亜門よ。儂は無闇に人の命を奪う事を好まぬ。人は生きておるだけで金を生むのじゃ。お主のやり方を非難するつもりは毛頭ないし、危機が迫れば仕方無き事もあるじゃろう。じゃが、儂は最大限まで自分の信じる生き方を貫くつもりじゃ」

 己にとって殿の発言は、あまりに衝撃的であり申した。秋津の侍として生き、修羅の道しか知らぬ己には、最初その意味がよく理解出来ませんでした。ですがこうして殿やレイ殿、そして魔女めと道を同じくするにつれ、少しずつ肌で分かってきたのであります。


 ある程度安全が確保できる地点と判断できれば(むろん気を張りながらでござるが)、殿やレイ殿と会話を楽しんだり、動植物を採取して飯や休息に備える時間があり申す。予めこうして燃料や食料を集めておくと、己らにとって一番の懸念である、夜の時間をゆっくり準備することができるのでござる。

 日が少しでも陰ってくると、己らは周囲で宿泊できる場所を探し始めます。集落があればどこかの旅籠、なければ山小屋、それでもなければ洞窟や、どうしてもなければ雪洞を作り申す。安心して一晩を過ごせることが何より肝要であり、寝心地などは己には問題ないのですが、殿には非常に重要な案件であるとのこと。いや、ほとほと自らの勉強不足に申し訳なく思いまする。

「ふん! 何が悲しくて雪洞なぞで泊まらねばならんのじゃ! 腰が冷えたらどうしてくれるのじゃ」

「んだてめえ! せっかく亜門が頑張ってくれたんだろうが! あいつのやったことはてめえの責任だろ!」

 殿はだいぶおかんむりのご様子。己は申し訳なくて目を合わせられませぬ。そこにレイ殿が負けじと大声で怒鳴り申した。2人の反響音で、室内は割れんばかりでござった。

「儂は亜門になぞ一言も申しておらぬわ! 貴様が先程の集落を通過させたおかげで留まる場所を失い、結果としてこんな原始人の如き生活をせねばならんのじゃろうが! 少しは反省せい!」

「うるせえ! 俺たちはちっとでも先に進む必要があるんだ! そもそもてめえがノロマだからこうなったんだろうが!」

「ふん! 言うに事欠いて儂に責任転嫁か! 脳の少ない生き物のやりそうなことじゃのう!」

「んだと!」

 一気に場に剣呑な雰囲気が流れ申した。あの仲良しのお二人が、己のせいでこんなことに……。ここは己が責任を取ってなんとかお詫びせねば……。

 ですがその時、電流が流れ申した。それは比喩でも何でもなく、お2人の体に強烈な電気の鞭が振り下ろされたのでござる。

「グワアアアアアアアアアア!!」

「ギャアアアアアアアアアア!!」

 己が背後を見やると、そこには平然と澄ました顔の魔女の姿! 妖の術を手に携え、ただ立ち尽くすのみの魔女めは、更に術の手綱を引き電撃を放ち続けておったのです。

「喧嘩両成敗です。私はこの雪のお家が気に入りました。せっかく亜門が作ってくれたのですから、文句を言う人は私が許しません」

「わ、分かった! すまぬ! 許せ亜門……グワアアアアアアア!! む、虫もじゃ! だから……早く止めてくれえ!」

「わ、わりい亜門! ……ギャアアアアアアアアアア!! つ、ついでにクソ商人も! ああ、そんなに強くされたら……壊れちゃいますうううぅぅぅ!」

 痺れ続ける2人を放置し、魔女がにこりと笑いかけました。しかし己は敢えて視線を逸らし、ふんと吐き捨てて雪洞から出たのでござる。あのような妖術を恥じらうことなく使用し、お2人を辱めるとは、油断も隙もないとはこの事ぞ!

 しかし……あれほど凶悪な術を使える者でありながら、奴めは非常に穏やかで、とても己の仲間を惨殺したようには……い、いや! これこそが魔女の邪術ぞ! 秋津の格言にも『闇夜の鵺に千鳥足』とあり申す。危ない危ない。もう少しで取り込まれてしまうとところでござった。


 野営の準備も一段落し、殿より自由を言い渡された己は、しばしの間降りしきる雪の中で座禅を組んでおりました。思い出すのはかつての記憶、秋津国は高堂のお家のこと。

 己が初めて御家に連れてこられたのも、こんな雪の日でありました。大殿の大きな手に引かれ、荘厳な門を恐る恐る潜ったのを、昨日のように覚えております。不安そうに震える己に奥方様が駆け寄り、シラミだらけの身体をぎゅっと暖かく包んでくれた申した。あの時の温もり……今でも決して忘れはしませぬ。

「もう安心していいのよ。ここはもうあなたの家だから」

 ぼんやりと言葉が頭に染みていき、なぜか涙が溢れ申した。何分、こんな暖かさは……生まれて初めてでありましたから。そんなべそをかいたままの己に、奥方様がそっと手渡したのは布に包まれた小包。躊躇いながらも開けてみると、中には皮が分厚い田舎饅頭が3つ。

「お腹が空いているのでしょ? こんなもんしかないけど、よかったらお食べ」

 己は周りをキョロキョロと伺ってから、一気にがっつき申した。その勢いにどっと笑う一同。甘さと僅かなしょっぱさがたまらなく、あっという間に3つとも平らげてしまったのを覚えておりまする。

「はっはっは。よい食べっぷりだな。きっと将来は立派な侍になろうぞ」

 気持ち良く笑い、己の頭を撫でながら大殿は仰り、奥方様も嬉しそうに笑い申した。

「私の饅頭の味が分かるとは大したものね。いっぱい食べて早く大きくなって、ウチの龍心を支えてちょうだいね」

 奥方様は隣に侍る、己と同じ齢くらいの男児の頭ををそっと撫でながらそう仰いました。彼は照れ臭そうにそれを払いのけ、己の方をただじっと眺めておりました。

「なあに、それも当然のことだ。なぜなら、お前の料理は世界一にござるからな。のう、志乃」

「嫌だ、子どもたちが見てますわ」

 いつの間にかいちゃいちゃと絡み始めるお二方。それを無視してそっと己に耳打ちする男児。

「おい。俺、龍心ってんだ。お前は?」

「……亜門」

 ぼそりと答える己に対し、肩をバンと強く叩いた龍心。

「そっか! じゃあお前は俺の初めての家来で、初めての友達で、んでもって……俺の弟だな! よろしくな、亜門!」

 ぽかんとし状況についていけず、まごつく己に差し出されるいくつかの声、いくつかの暖かさ、そしていくつかの笑顔。この場所こそが己の望む場所、直感的にそう思え申した。

 だが次の瞬間、血に染まる原風景。

 真紅に塗り潰される絵画。そして時間だけが過ぎゆき、我は折れかけた刀を取り申した。『亜門』。そう呼ばれなくなり何年が経とうか? そう、全てはもう終わって……。

「おい! 聞こえぬか亜門! お主……何をそんな所で寝ておるのじゃ! 虫がえらい剣幕で喚いておるぞ」

 ……この声は、殿。大陸一の商人にして、今の己の主たる金蛇屋藤兵衛殿。殿は顔に痣を作りながら、己の肩を揺さぶっておりました。何という不覚でありましょうか。大恩ある殿の呼び掛けを無視してしまったとは!

「す、すみませぬ! 日課の瞑想をしていましたら、つい時間が過ぎてしまい申した。この非礼は腹を詰めてでも償う覚悟が……」

「阿呆が! 儂の前で一銭にもならぬことをするでないわ! それより飯が出来たとの事じゃ。冷めてしまう前に来るがよい」

「は! 直ちに向かいまする」

「……昔を思い出しておったのか? 古き良き記憶、そこに眠る自分自身を」

 どさりとその場に腰を下ろして、悠然とキセルに火を付けながら殿は仰いました。己は何も言葉を返せずに黙るのみでござった。そんな己に殿は、肩を優しく叩いてゆっくりと仰いました。

「……儂はの、亜門や。いつ如何なる時も、誰に対しても無理強いはせぬ。この旅を通じて、お主が思う通りに生きればよい。ただ、その時出た答えには……決して意地を張るでないぞ。さて、外は寒い故さっさと中に入れい。そろそろ虫が狂ったように飛び出して来る頃じゃて」

 わざとらしく身震いをしながら殿は仰いました。己も身支度を整えつつ大きく微笑み、殿の後をついて雪洞に入ったでござる。降りしきる雪の中、我は忘れていた何かを思い出したような、そんな気が微かにしました。


 中に入ると湯気がぶわっと立ち込め、同じくらい蒸気を吹き出しているレイ殿がおりました。

「おせえぞバカども! せっかくの鍋が冷めちまうだろうが! よそっといたからさっさと食え!」

 味噌の匂いがぷんと我の鼻を刺激し申した。しかも……この匂いは! くんくんと意地汚く鼻を鳴らし、涎を抑えきれぬ己に向けて、レイ殿がどこか照れ臭そうに笑いかけました。

「へへ、気づいたか。行商人から買った米麹をたっぷり使った秋津味噌だ。俺もひさびさに作ったが、やっぱこのへんの麦味噌とは風味がちがうな」

 レイ殿の言葉に返答するように、同時に激しくぐうと鳴った己の腹。恥ずかしさで真っ赤になった己の顔に一同皆大笑いし、それを合図に楽しい食事と相成りました。

「う、うまい! 秋津料理を食べたのは5年以上ぶりでありますが、故郷の味付けよりも数段上にござる! さすがはレイ殿! その細やかな心配りも含め、己は頭が上がりませぬ」

 己は心底感動して、感想をありのままに言い申した。本当に心に染みる味、そして優しさでありました。己のような刀を振ることしかできぬ異国人に、しかもつい数週前に自身に切りつけた者に対し、こんなに素晴らしい心遣いをいただけるとは。己は涙腺が緩むのを感じ、慌てて袖で目を拭き申した。

「へへ。そこまで喜んでくれると作りがいがあらあ。まだまだあるからどしどし食えよ。ま、材料はほとんどおめえが採ってきてくれたもんだけどよ」

「このお魚もお野菜もですか?! 最近ずいぶんと食事の準備が早くなったと思っていたのですが、亜門のおかげだったのですね。どうもありがとうございます」

 眩しいくらいに微笑み、ぺこりと頭を下げた魔女。己は赤面しそうになる顔を無理矢理押さえ込み、下を向いてぶっきらぼうに鍋をかっ込んだのです。

「いつも車内で寝ているだけの貴様に何が分かるか。己は世話になっておる殿やレイ殿に報いたいだけにて。断じて貴様の為ではないわ」

「ふふ。今度は果物もお願いします。私は果物が大好きなのです。ねえ、藤兵衛?」

「(な、何故儂に振るのじゃ!?)そ、そうじゃのう。本意ではないかもしれぬが、儂もたまには甘味を食したいものじゃて」

「は! 殿の御命令とあらば今からでも! 然らば……」

「うるせえ! だまって食えこのバカ! ま、けどよ……マジてめえのおかげで助かってるぜ。採ってきた食料はどれも下処理がすんでるし、新鮮で量も質も申しぶんねえや。旅の途中の短い時間で、よくもまあここまでやれるもんだ。さすがは手練れの軍人、どこぞのクソ商人とはまるで腕がちげえな」

「はっはっは。殿のお力となるのが己の務めにて。それに戦場では、いつ飯を食えるかなど分かりませんでしたからな。事前に手早くは基本にござるよ。もちろん殿のご所望された例の食材は別でありますが……」

「あ、阿呆が! こんな所で言うでないわ! ……い、いやいや。何でもないわい。ちょっと亜門も疲れておるのかのう? 旅はまだ先が長いというに、まったく困った奴じゃわい。グワッハッハッハ!」

 白々しく笑う殿に向けて、実に冷たい眼と忿怒の拳を向けたレイ殿。むう。またしても己は粗相をしてしまったようでござる。色々と気を付けねばなりませぬな。

 とはいえ、食卓は明るく楽しく、そして暖かくありました。己も大いに笑い、そして皆の笑顔を楽しみ、ゆっくりと更ける夜の中で自らをそっと解していきました。


 食事の片付けが終わると、己らは思い思いの過ごし方をします。レイ殿は料理の下拵えや細かい家事を、殿はもっぱら魔女めから妖術について学んでおられます。今日も殿の気迫の声と、炎の煌めきが窓から放たれておりました。

「……『マグナ』!! よし次……『マグナ』!! おまけにもう一つ……『マグナ』!! ど、どうじゃ! 遂に3発連続で出たわい!」

「悪くありませんね。ですが、私が言ったのは同時発動です。単純発動ならほぼ100パーセント成功していますが、それだけでは実用に耐えかねません。この課題を達成すれば初心者脱却ですよ。さ、もう一度です」

「う、うむ。相変わらず術に関してだけは厳しいのう。まったく難しいものじゃて。では行くぞい。……『マグ……!! グヮバェ!!」

「お気をつけて。タイミングに気が行き過ぎて、一つ一つの構築がお留守になっています。お望みの『初級術式一覧書』、お渡しできるのはまだ先のようですね」

「ぐうう……おのれ! 儂はへこたれぬぞ! 必ずや……ハガポォ!!」

 さすがの殿とはいえ、どうやら妖術の習得は苦境を極めておる御様子。最初にそのことを耳にした時は憤慨し、また殿に対しいささかの失望を覚えたものですが、さすがは己が主と認めた御方。殿はそんな己に対し、優しく言い聞かせるように諭して下さいました。

「お主の気持ちはよく分かるわい。儂とてこんな不浄の力、使いたくて使っておるのではないわ。儂らの敵は強大かつ無数じゃ。術を駆使して儂らを抹殺せんと、虎視眈々と狙っておるのが現実よ。忌み嫌い眼を背けているだけでは前へは進めぬ。そう思わぬか?」

「そ、それはその通りでござりますが、己はどうしても……」

「お主の一本木な部分、儂は嫌いではないぞ。じゃがな、強き拘りが自身を殺すことも有ると心得えい。目の前で守るべき者、討つべき者を、その刀がすり抜けていったら何とする? また果たせぬと腹を詰めて自らを慰むか? 髪の毛一毫の先を縮める為なら、儂はどんな手でも使うわい」

 その時、己は不甲斐くも何も言い返せませんでした。さすがは殿、自らの未熟さに恥じ入るばかりでござる。殿は自身が呪われた身でありながら、ただ恨むだけの己とは違い、ひたむきに前を見て不浄の力までも利用せんとされております。重ね重ね本当に素晴らしい方でござる。己も考え方を見直せねばならぬ、そう強く思い申した。そう、己も未来を見据えた生き方をせねば……


 決意を決めた己は、ここ数日温めていた考えを実行に移すことにいたしました。裏手の水場で片付けをするレイ殿に、己がすっと歩み寄ろうした瞬間のことでござった。

「なんか用か? ハラ減ってんなら乾飯にミソ付けて食っていいぞ。ただし……干肉だけは食ったら殺す。ぜってえだ」

 レイ殿の空気を震わせる一言が刺さりました。己は可能な限り気配を殺していたのですが、この距離で瞬時に気付くとは、やはり流石としか言いようがありません。やはりこの件はレイ殿にしか頼めませぬ。

「実は……折り入ってお願いがあるのでござる」

「あ? めんどくせえのはゴメンだぞ。ま、いちおう聞くだけ聞いてやらあ」

 やはりレイ殿はお優しい方であります。一見粗雑なように見えて、己のことも気をかけてくださりまする。軍にいた頃も思いましたが、こういった性根の方こそが一番信頼できますな。

「恥を忍んで申し上げまする。己に……対妖用の戦闘術を教えてくだされ! この高堂亜門、一生の願いでござれば!」

「なんだ、んなことかよ。べつにいいぜ」

 レイ殿は顔色ひとつ変えず、あっさりと返答して下さりました。己が喜び顔を上げると、レイ殿は腕まくりをしたまま水に濡れた手をズボンで拭き、拳を鳴らして即座に臨戦態勢を取ったのでござる。

「最初に言っとくが、てめえはすでに強え。人間としちゃ規格外だろうぜ。だが、たしかにてめえが自覚してる通り、眷属との戦いじゃお荷物だ」

 レイ殿の言う通りでござった。連日夜に押し寄せる妖どもとの戦いでは、初日に不覚を取って以来、己は完全に見ているだけであり、歯痒い思いをし続けておりました。あの日の事を思い出し、下を向き歯を噛み締める己の様子を見て、レイ殿は弾けるように明るく笑って頂いたのでござる。

「ギャハハハ! んな顔すんなよ。最後まで聞けや。てめえは今は俺には遠く及ばねえが、そのぶん伸びしろもあるぜ。俺が言うんだからまちがいねえ。要はコツだ。お嬢様には敵が多い。てめえが強くなりゃ、そのぶん俺たちの計画がうまくいく可能性が上がる。てめえにも事情があんだろうが、とりあえず強くなっときゃまちがいねえ。そうだろ?」

「勿論にござる! 誠にありがとうござります! 秋津の格言にも『窮地の一礼これ即ち生涯の忠節』とあり申す。このご恩は決して忘れませぬ!」

「へっ。んなもんさっさと忘れちまえよ。……なあ亜門。俺はてめえに、命かけろとまでは言わねえよ。てめえは自分の目的で動きゃいい。だが……俺たちの足を引っぱんな。言いてえのはそんだけだ。じゃ、問題ねえなら抜け」

 そう言い残すと、レイ殿は割烹着を脱ぎながらぶっきらぼうに仰いました。流石に鋭い方でござる。粗暴なように見えて、しっかり全体を見ておられます。殿は照れ隠しに酷い言い方をされますが、やはりレイ殿は只者ではありませぬ。

 未だ降り止まぬ雪の中で己は刀を抜き、闘気噴き出すレイ殿と対峙いたしました。その威厳ある姿、隙一つない姿に震え走り喉が鳴り申したが、ここまで来たら己も弱音を吐くわけにはいきません。ですが……。

「して、レイ殿。まずはどうすれば? このまま実戦訓練をば?」

「ああっと……えっと……そうだな。じゃそうしてみっか。やりながら体で覚えろや。ちっとくれえ死にかけても文句ねえだろ?」

「望むところにて! いざ! 高堂流『地擦り燕』!!」

 己はにっと微笑むと、突進しながら全力で技を用いました。かつてレイ殿との戦にて用いた、低い姿勢からの切り払い。この技は己の得意中の得意でござる。かつて一度も回避されたことのない必中必殺の一撃を、レイ殿は軽く足先のみで刃先を地に押さえ込み、もう片方の足で痛烈に己の顎を蹴り上げたのでありました。

「グゥッ!!」

「キレはいいぜ。速度もまあまあだ。だが……俺には“見え”てんだ。おい、寝てんじゃねえぞ。さっさと立てや」

 言わずもがな、にござる。脳を揺らされ足先が定まりませぬが、それでも己は刀を杖にして立ち上がり申した。こんな事でへこたれるほど緩い生き方はして来ませんでしたゆえ。

「へっ、やるじゃねえか。やっぱクソ商人とは根性がちげえな。まずな、てめえの闘気はミエミエなんだ。あんときは加減しようとして食らっちまったが、今なら目えつぶってでも避けられるぜ。ま、とりあえず俺に一回当ててみやがれ。話はそっからだ」

(……“気”にござるか。大殿がいつも仰っておられましたな)


 思い出すのは、かつての風景。まだ幼き己が夢中で巻藁に木刀を振るっておる中、背後に穏やかな気配。はっと振り返ると、そこには己が使えるべき大殿、高堂龍牙殿の快活に笑う姿がありました。今でも詳細に思い出せる、大柄で屈強極まり、心胆豪快でありながら知性に満ち、常に人を愛し愛された侍の中の侍。己は咄嗟に跪き頭を伏せようとしましたが、大殿は笑いながらそれを制しました。

「そのままでいいぞ。家臣が居ない時は頭など下げんでいい。しかし亜門……毎日頑張ってるな。それでこそ高堂の家中だ」

「は! 己には戦う他に能が無い故、拾って頂いた御恩を少しでも返したく……」

「はっはっは。そんなこと気にすんな。龍心もお前のことを褒めてたぞ。『俺には遠く及ばねえが、まあやる方だな』と。ったく、あいつは才能だけで鍛錬を怠っているからな。いずれお前に抜かされる日が来るに違いなかろう」

「恐れ多い御言葉、この亜門身に染みたでござる。そんな日は訪れぬでありましょうが、少しでも高堂の御家の為に尽くすべく、心新たにした所存にて」

 深々と頭を垂れてそう言った己を見て、大殿は嬉しそうに、それでいて何処か悲しげな表情を見せて、己からそっと木刀を取ったのです。

「亜門、覚えとけ。俺らは家族だ。そんな言葉遣いは外だけにしろ。血は繋がってないかもしれないが……お前は俺の息子だ」

「……は。改めまする」

「はっはっは! そういうところだぞ! ま、お前はそれでいいかもしれんな。亜門……どうか龍心を頼む。あいつはお前の兄だ。あの様子ではきっとこの先、必ずや試練が降り掛かるだろう。その時はお前の刀で、俺が教える高堂の刀で、あいつを守ってやってくれ」

「は! それは勿論にて。ですが、試練……にござるか?」

 己の無邪気な質問に大殿は物憂げに首を振ると、刀を腰に収めて姿勢を低く構え、気迫を込めて言い放ったのでござる。

「物の例えよ。今のところはな。亜門、よく見ておけ。秋津の侍とは、高堂の技とは、斯くの如く刀を振るうのだ。気とは放つものではない。内に込めるものぞ。大切なのはつまり……高堂流奥義『……!!」


 そう、でござった。全て己は持っていたでござる。そう、必要なのはつまり……。

「レイ殿。今よりお見せ致しまする。己の渾身を!」

「へえ。いきなり空気変わったな。そしたら俺も……気合い入れっかよ!」

 己は今にも噴き出さん気を内に内にと留め、やがてそれは刀を伝って刃先に集約されていきました。整う呼吸、そして伝わるレイ殿の呼吸。そう、即ち全てはこの一点に!

「行くでござる! 高堂流奥義『炎凸戦弓』!!」

「おう! こいや!」

 全ての動きが、戦場の全てが感覚として、刀を通じて見えるでござる。まるで神経の通った腕の一部のような感覚、これこそが高堂の“力”であります。あのレイ殿の動きすらも予知のように読めまする。反射的に攻撃を避けようとする動きを読み、己は更に踏み込んで渾身の突きを左肩に向けて見舞い申した。

「……!? レ、レイ殿!?」

 突き刺さる刃、飛び散る鮮血。ですが、それは己の狙いとは異なり、レイ殿の心臓部に垂直に突き刺さったのでござる。間違いなく自らの御意志で前に進んだレイ殿は、口から僅かに吐血しながらも、ニッと鮮やかに微笑み申した。

「おし、いまのはわるくねえ。そんな感じでやりゃ問題ねえだろ」

「な、何をなさるか!? 今抜きますのでじっとして……」

「バカ言うんじゃねえ! せっかく痛え思いしてんだ。話はこっからだぜ。いいか、そのままだ。そのまま俺の心臓を感じろ。血流の背後に流れる感覚……わかるか?」

 レイ殿は突き刺さる刃などまるで気にすることなく、親指で自らの心臓を指し示しました。己はすぐに我に帰り、再び感覚を刀に集中し申した。すると……じきに感じられました。心臓の鼓動とは全く別種の、猛り狂うような破壊の意思。そう、これこそが……。

「わかったみてえだな。俺はあのクソみてえに弁はたたねえ。こうやって体で教えることしかできねえからな。今てめえが感じてるモンが、いわゆる“闇の力”だ。一度認識すりゃ忘れようのねえ、クソみてえな力。こいつが俺らの中枢だ。理解したか?」

「……御意。こんな禍々しいものが皆様の中にお在りとは。何と申し上げてよいか……」

 己は思わず言葉を失ってしまいました。幾ら何でもこの感覚は、人とはかけ離れた悪意の塊のような……殿もレイ殿も、何よりあの忌まわしき魔女が、こんな力を持っておるとは。そんな言葉に出せぬ思いが漏れてしまった己に、レイ殿は再び大きく笑いました。とても清々しい、秋晴れのような笑みでござった。

「んな顔すんじゃねえバカ! 俺らがバケモンだってのはとっくに自覚してっからよ。ま、こんなモンだが、しっかり押さえ付けりゃ役にたつ。覚えとけ亜門。この力がある限り、俺らはそうそう死にゃしねえ。眷属を断つには2つ。根こそぎ削り取るか、元を消し去るかだ。つまり……このまま心臓を破壊すりゃ俺は死ぬ」

「……!? そ、それを教えるために、敢えて危険を犯して? まだ味方かどうかも分からぬ己に?」

「へっ。てめえはあのクソみてえな卑怯モンじゃねえだろ。戦場ならさておき、こういうのは正面からやる男さ。そんくれえわかるよ」

「はっはっは。買い被りでござるよ。ただ……御恩は忘れぬつもりにて。いつかきっと実力でレイ殿に勝ってみせるでござるよ」

「いい度胸してやがるぜ。ま、ぜってえ無理だろうけどな。つうかよ……そろそろ抜けや! いいかげん痛くてしゃあねえぞ!」

「も、申し訳ござらぬ! すぐに!」

「痛え! ちっと曲がったぞ! ちゃんとやれバカ!」

「す、すみませぬ! 本当に……ああ!」

 急に頭をがつんと叩かれ、思わず手元が狂ってしまい申した。まったく……己という男は、昔から色々上手くいかないでござる。しかしこうしてしごかれていると、新兵時代を思い出してしまいます。あの時もしこたま殴られましたなあ。懐かしくて思わずにやけてしまうでござる。

「(なんだこいつ! なに殴られてヘラついてやがんだ? ……!? こ、こいつまさか変態野郎なのか!?)お、おう。今日のところはそろそろ上がるか。ま、また今度な」

 そう言って逃げるように去っていこうとするレイ殿。御薫陶の礼も言えずに残念でしたが、ここまで付き合って頂いた事に心から感謝し、己はその背に深く一礼致しました。ですがその時、黒いベールをふわりと翻せ、あの魔女が突如として現れたのでござる。

「あら、もうおしまいですか? せっかくシャルちゃん特製クッキーを作って参りましたのに」

「お、お嬢様?! クソ商人の修行はどうなったのですか? そ、その手に持っている金属片は……」

「何を言っているか分かりません、レイ。これは私が作ったものです。それを貴女は……一体何と形容したのですか?」

「そ、そりゃ……ええと……(まじい! 亜門が食ったら死んじまう!)」

「まあいいでしょう。では夜食にしましょうか、亜門。砂糖をたっぷり使って焼きましたから、疲れによく効くと思いますよ」

 そう言って美しい笑顔を作り、己に何やらを突き付ける魔女。己は、震える拳を抑えることが出来ず、ばっと手を突き出して皿を弾き飛ばしてしまいました。

「あっ!」

「ふん。己は敵からの施しなど要らぬでござる。大方、毒でも入っておるのだろう」

「てめえなにしてんだ亜門! いくらゴミ以下の危険物だろうが、お嬢様がてめえのために……ギャアアアアアアアアアア!!」

「申し訳……ありません。余計なことでしたね。失礼しました」

 そう言って魔女めは、寂しそうに菓子らしきものを拾い集めて、付着した雪を払いながらレイ殿に猛烈な術を浴びせ、小屋の中に消えて行ったのです。己は……一体何をしておるのでありましょう? いかに忌まわしき魔女とて、相手は女子。しかも己のために心を尽くさんとしてくれた者に対し、あのような不遜な態度。自己嫌悪に陥り頭を抱えて蹲る己に、肩をそっと触れる手があり申した。

「お主は不器用な男じゃの、亜門。まあ反射的に“あれ”を拒否するのは優秀な自己防衛の証かもしれぬがの」

 びくりと飛び跳ねると、背後には殿が苦笑いを浮かべて立っていらっしゃいました。殿は妖術でキセルに火をつけながら、呆れたように、それでいて何処か所在ない様子で、深々と煙を吐き出しておられたのです。

「……見苦しい姿を晒してしまいました。どうしても自身に逆らえずに。それに……その……」

「ん、何じゃ? はっきり言えい。儂は時間の無駄が一番大嫌いじゃ。その分の儲けが減るからのう」

 己は殿のすぐ側まで近づき、耳に声を寄せ申した。正直あまり言いたくありませぬが、殿にならば仕方ないでござる。

「じ、実はですな。その……己は女性の扱いがその……よく分かりませんで。その……経験がまだ……」

「何じゃ亜門! お主は童か!? お主ほどの優秀な侍がかの!? これは驚愕じゃわい。見た目も決して悪くないのにのう」

 周囲の雪が流れ出すほどの大声で、殿は叫ばれました。己は周囲を見回しながら、顔を真っ赤に蒸気させ、慌てて殿に訴えたのでござる。

「そ、そんな大声で言う必要がありましょうか! 己はいつも戦さ場ばかりで、たまたま……そう、たまたま機会がなかっただけでござる! ただ、そのせいか、女性と目を見て話すことが、その……なかなかうまくいかず困っておりまして……」

「はて? 虫とは仲良うしておるではないか? 彼奴は平気なのかの?」

「? レイ殿のことでござるか?  ……はっはっは! からかってはいけませぬぞ。あれ程の戦士が女性な訳がありますまい」

 一瞬訪れた深い沈黙、そして弾け飛ぶような殿の笑い声。腹を抱えて笑い転げる殿を、己は心底不思議に見つめておりました。

「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ! ああ、腹が痛いわ! こんなにも愉快なのはこの旅始まって以来じゃて! あの虫が男とな! 確かに胸も色気も欠片も無いからのう。よう見れば整った顔をしておるぞ。まあ知性も情も欠如した……」

「と、殿……。その辺で……」

 一世一代の不覚にござった。完全に合図が遅れ申した。不気味なほど静かに、ポンと背後から殿の肩を叩いたレイ殿。その不気味な笑顔からは、明確な殺意が漂っていたのでござる。

「ち、違うんじゃ虫や! これは、その……儂は亜門に嵌められたのじゃ!」

「……もうすぐ敵がきやがる。今日のところは一発でカンベンしてやらあ。ただ……サボりやがったら臓物一片も残らねえと思え!」

「ヒ、ヒイィィィィ! グェポ!!」

 猛烈な一撃を殿に見舞い、そのまますたすたと歩き去るレイ殿。ですが、胸をなで下ろす己とすれ違い様に、やはりと言うべきか鳩尾に強力な一撃を放たれたのです。

「ドオッ!!(い、息ができんでござる!)」

「もちろんてめえもだ! 俺のことブッ刺しといて、役に立たなかったらブチ殺すからな!」

 降りしきる雪の中でうずくまる己らに、さらに深く闇が降りていきました。


 時は過ぎゆき、丑三つ時。我らの戦いが始まります。

 ですが敵は人ではなく、怪異。この世ならざる者たち。今まで幾度か目にしましたが、殿やレイ殿をもってしても楽な戦ではない御様子でござった。

 相手は通常の生物と違い、多少の傷ではびくともしません。なにより戦闘時間が朝の訪れまでと極めて長く、とても体力がもちませぬ。そう、今までの己であれば。

「疾ッ!!」

 己の袈裟斬りの刃が、骨の如き鈍器を振り回す雪男の身体を、一刀両断に切り捨て申した。鮮血と漆黒の闇を撒き散らし、その場にて消失していく姿を見て、己は慢心する事なく呼吸を整えつつ、次なる敵に立ち向かったのでござる。やはり秋津の、高堂の刀は化け物どもにも通じる。その事実が己の魂を多分に克己させ申した。

「へっ。やるじゃねえか亜門。まさかサスカッチの固え皮をまっぷたつとはよ。だがそろそろ休んでろや。先はなげえぞ」

「はて。誰に物を申しておりますか? 既にコツは掴み申した。この高堂亜門、朝まで問題なく修羅になりますゆえ」

「うむ、うむ。頼もしい事じゃて。では儂は亜門に任せて引っ込むと……グェポ!!」

 レイ殿の容赦のない怒り声が、殿に炸裂し申した。なんとも無残でありますが、これも皆様に多少の余裕が生まれたからでありましょう。ようやく己も一助となれたようで心から光栄にござる。

「お、いよいよ大詰めだな。いくぞ亜門、俺に続け! せいぜい援護でもしてろクソ商人!」

「ふん! あんな獣どもなぞ儂だけで充分じゃがの。手柄は譲ってやるわい。行けい、亜門よ!」

「委細承知!」

 雪男が群れを成してこちらに近付いて来たことを確認し、己らに指令を出しつつ先陣を切り突進するレイ殿。なんとも呆れた蛮勇にござるが、結果を出せばそれ即ち武勇也。己も雪に足を取られながらも、必死にそれに続き敵陣深くに足を踏み入れたでござる。

(む! これは……)

 次の瞬間、雪深くに隠れていた伏兵の一斉攻撃が、己に向けられ申した。戦場を深く注視していたとはいえ、長丁場で集中が切れかけていた所に、狙い澄ました一撃が振り下ろされたのです。咄嗟にしゃがみ込んで回避しながらも、己の身体は意思とは関係なく動いておりました。全ては戦さ場での経験によるもの。今までの人生は、ただ刀のみに費やした武の日々は、決して間違いではありませんでした。

「高堂亜門……参る。高堂流『黒薙独楽』!!」

 高堂の技は、常に渾身にして一閃。敵の真っ只中で紙一重で攻撃をすり抜けつつ、己は右足を杭のように大地へ打ち付け、力み切った全身を解放するように、激しく刃の円弧を描きました。円周に広がる刀は妖どもをまとめて切り裂き、全身に浴びる黒い闇の体液を浴びながら、己の視界に一体の敵の生存がありありと感じられ申した。そして雪原に倒れ込む己の頭部に向け、殺気が破砕の輝きを放ったのです。

(い、いかん! 浅かったでござるか!?)

 降りかざす敵の武器が、極めてゆっくりに感じられました。回避は不可能、膂力から察するに致命傷は避けられませぬ。まだ己には無理でありましたか……申し訳ありませぬ、皆様。ですが……その時!

「何を諦めておるか! お主がおらなんだらまた儂が食料集めをするのじゃぞ! さっさと立てい亜門! 『ノヅチ』!!」

 後方から放たれた一発の弾丸が、紫色の螺旋を描き雪男の脳天を正確に貫き申した。完全に沈黙した敵兵にほっと胸を撫で下ろし、最大の窮地を救って頂いた殿に、己は深々と頭を下げ申した。こんな情け無い己をも、幾度となく救って頂いた。やはり己が主と認めた方でありますな。

「頭などどうでもよいわ! 一銭にもならぬことをするでない! このままじゃと虫に腑を食い尽くされるわ!」

「人をバケモノ扱いすんじゃねえ! おそらく次で最後だ。亜門、ブルってねえで気合い入れろよ!」

「……は! 無論にて!」

 己の気迫は充分、疲労も疲弊もお二人に比べればなんてことはござらぬ。とはいえ、最後の敵の量は今までとは比較になりませんでした。100を超える悪鬼の群れが、歯を邪気に震わせながら、溢れんばかりの殺意と共に押し寄せて来たのでござる。流石のお2人にも余裕の表情はありませぬ。しかし、やるしかありますまい。戦場の習いにござる。殺らねば、殺られる。どこで何と戦おうとも同じことにて。

 ですがその時、レイ殿がニッと微笑んで己らを手で止め申した。意図がわからず困惑する己に、殿も笑いながら銃の先を背後の丘の上に向け申した。そこには……かの魔女! 闇たるものに未だ疎い己にも、はっきりわかるほどの絶対的な“力”を携え、魔女めは一瞬で面妖な術空間を構築しました。次の瞬間には魔女めの術が炸裂し、爆発的な火球を地に放ち申した。

「この私、シャーロット=ハイドウォークの名に於いて命じます。私と仲間たちに弓を引く闇を蠢く眷属たちよ、雪に埋もれて浄化されなさい。……『マグナ・グランデ・クロス』!!」

 目を貫く爆炎の嵐! 凄まじい炎が敵全体を包み込み、瞬く間に焼き尽くしていったでござる。これは……あの時と……否! あの炎は“これ”とは性質が違いまする! 間違いない! あの時はもっと……邪悪な意思が……。

 呆然と立ち尽くす己を見て、魔女めはどこか寂しげに微笑みかけました。レイ殿が何かを言おうとしたその時、己はつかつかと魔女の元へと歩み寄ると、奴めの懐にある“菓子”をひったくり、そのまま一気に口に運び申した。殿とレイ殿が唖然とする中、己は刀を仕舞い込んでキッと奴めを睨みつけたのでござる。

「勘違いするな。貴様のことを信じた訳ではないでござる。とりあえずはこの刀、大恩ある殿に預けることにしただけゆえ。其方に疑念あらば、高堂の刀はすぐに喉笛を切り裂くぞ!」

「はい! よく分かりませんが、私は亜門のことを信じております! だって貴方は……藤兵衛が選んだ方ですからね」

「こ、こ、こ、こら! だ、だ、だ、抱きつくでないわ! と、殿。お助けくだ……!?」

 その時ゆっくりと、時間差を置いて舌の上に絶望が流れて行き申した。苦味と渋みを始めとした、様々な刺激が己が味覚を破壊していき、やがて脳髄を崩壊させる爆発的な業火。紛れもなく先ほどの“菓子が原因にござる! こ、こんなものは……断じて食料ではござらぬ!

「ふふ。食べて頂いて嬉しいです。シャルちゃん特製の塩キャラメルクッキーですよ。キャラメルの作り方こそ自己流ですが、ほどよい塩気が甘さを引き立てていますでしょう?」

 ほど……よい? 甘みどころか塩味すらも……しかもこの生臭さは一体? ……!! く、口の中が痛い! 後から痛みがこみ上げてくるでござる! 苦い! 臭い! 痛い!

「美味しく食べて頂いて何よりです! あいにく塩がなかったので、その辺に置いてあった塩気のする塊を入れて見たのですけど、うまくいったようですね。他にも隠し味がいっぱい入っていますよ。どくだみに、挽肉に、セミの抜け殻も……」

 次の瞬間、己は災厄の破片を思いっきり床に吐き出し申した。口の中が地獄のように痛んで声が出ぬ! しかも体が痺れて身動きが取れませぬ!

「まあ! 急いで食べたから咽せてしまったのですね。ならば仕方がないです。まだまだありますから、私が直々に食べさせてあげますね」

 微笑みを浮かべて一歩ずつ近付く魔女。我は震えながら心中で涙を浮かべるのみ。……前言撤回でござる。やはりこやつは邪悪なる魔女! 世界の平和のためにも、いつか切って捨てねばなりませぬ! しかし今は……この窮地をどうにか……。

「暴れてはいけません。すぐに終わりますよ。さあ、たんとおあがりなさい」

(ぐ、グワアアアアアアア! 焼ける! 死ぬ! いっそ介錯を!!)

「ふふ。良薬は口に苦しと申しますからね。たくさんありますから、藤兵衛もレイもたんとおあがりなさい」

 朝焼けの美しい雪景色の中、己の絶叫がいつまでもいつまでも鳴り響いておりました。脱兎の如く走り出したお2人を追い回す魔女を見て、己の意識は急速に天へと登っていったのでござる。

 こうして、己の“初陣”は無事とは言えぬものの、一定の成果を見せることが出来申した。この先に何が待ち構えているかは、正直己には分かりませぬが、今はこの刀のみを携え、信じる殿に付いて行こうと思っておる所存。

 ……大殿、龍心。己は……遂に生きる意味を見つけ申したぞ。必ずや皆の仇を討った上で、いずれ其方に参りますので、どうか見守っていて下され。

 斯くして、己の物語はあるべき場所に紡がれ申した。『仲間』と呼ぶべき方々と並ぶ、長く繋がった過去と未来の物語。己はその狭間の中でうつろう影に過ぎませぬ。しかし、その行く先には今までとは違った確かな光が差しておりました。


 神代歴1278年12月。

 己らは進路を西に取り、それぞれの物語のために一歩ずつ前進しております。

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