第47話 師弟
エヴァンジェリンに手を引かれ、ハクトの身体は高速で上昇している。
行く手に広がる空の色は青く、青が深すぎて黒いくらいだ。
ダイヴした時、彼の身体は高速で落下して彼岸ノ血の上に着水した。
今はその逆方向へ進んでいるのだと理解はできるが、上昇するにつれ不安になるほど空の色は深く、黒くなっていく。
ハクトの手を引くエヴァンジェリンの背には、赤く輝く一対の大きな翼が広がっていた。
翼を使って空を飛んでいるのだ。
ワーレンで遭遇したマンティコアも背中から翼を生やして飛翔の能力を示していた。ただ、エヴァンジェリンの翼はそれよりもはるかに鮮やかで美しい。
彼女は何の説明もなくハクトを引っ張り上げているが、この翼も本来ワーバニーに備わっている能力ということなのだろうか。
周囲の空はさらに黒色に沈み、今にも暗闇に圧し潰されそうだ。
そう思った次の瞬間、ハクトの手を握るエヴァンジェリンの手が離された。
「え……」
身体が落下する感覚。
だがすぐに背中が固いものにぶつかり、そのまま彼は仰向けに倒れ込んだ。
暗闇は消え、視界が広がっている。
「……!」
慌てて身を起こしたハクトは、そこが建物の屋上であることに気付いた。
「ここは……ギルド本部、か?」
地震が起きた時にミラに連れて来られた場所だ。双眼鏡を備えた監視塔も目に入る。
「ウケる。ハクトの目、節穴過ぎるんだけど。見るべきものはほかにあるんじゃない?」
翼を消し、軽い足音とともにエヴァンジェリンが彼の背後に降り立つ。
その細い腕を伸ばして彼女は上空を指差した。
「ほら、あれが――あんたの引き起こしたものよ」
彼岸に渡る前はまだ夕刻だったが、今は陽が沈み、夜空には丸い月が輝いていた。
その明るい夜空に、赤い筋が光っている。
複雑に絡み合いながら縦横に走る赤い光が頭上に張り巡らされていた。
「彼岸ノ血脈……? いや――」
かなりの上空にある。ここまではっきり見えるのならかなり巨大なものだ。
赤い筋の端は、荒野の地割れに繋がっていた。
地の底から巨大な赤い奔流が今もなお空に向かって伸び続けている。
「リヴァイアサン……なんだな」
無限に伸び続けるかのようにみえる怪物の身体が、ゆっくりと空を覆い尽くしつつあった。
「エヴァも見るのは初めてだけどね。そもそもアレは完全顕現する前に鎮めるものだし」
「……」
後頭部にエヴァンジェリンの冷たい視線を感じる。
「ハクト!」
離れ離れになっていたのは数時間ほどだろうが、その声には何か懐かしいものを感じた。
振り返ると、非常階段の所にリッカの姿が見えた。
「師匠……!」
彼女はハクト達の側に駆け寄ると、少し距離のある場所で足を止めた。
「……エヴァ……久しぶりだ」
そこで少しぎこちない表情を向け、リッカはそう言った。
口の端を歪めて威圧的な笑みを返すエヴァンジェリン。
「ちょっと会わないうちに随分と偉くなったよねぇ、リッカ? このエヴァを、弟子使って呼びつけるなんてさ。あんたごときザコ弟子が、舐めた真似をしてくれんじゃん?」
「……それでも、エヴァは来てくれた」
そんな彼女に、リッカはほっとしたような笑みを浮かべた。
小さく鼻を鳴らすとエヴァンジェリンはつかつかとリッカに歩み寄って、彼女のへそ辺りに頭突きを放った。
「うっ……」
エヴァンジェリンはリッカの腹部に頭を付けたまま、言った。
「……彼岸であんたに会えるのエヴァ、それなりに楽しみにしてたんだけど。長い眠りから目覚めたら枕元に弟子のあんたじゃなくて孫弟子だとかっていう知らないヤツが立ってたエヴァの気持ち、ちょっとは考えてみたら?」
「エヴァ……」
そんなエヴァンジェリンの髪に、リッカはそっと掌を乗せる。
「すまなかった。わたしも選び取ることを決めたんだ……自らの意志で、自らの生というものを」
リッカの目が、ハクトに向けられた。
「きっと弟子を取って、わたしも変わったのだと思う」
「……師匠……」
エヴァンジェリンが、ねじ込むようにぐりぐりとリッカの腹部に頭を押し付ける。
「や、やめろエヴァ痛い! わたしは腹を怪我しているのだぞ!」
「……きゃっは、よわよわぁ。何怪我とかしてんのよ、ザぁコ、ザコ弟子!」
と、身を起こした。
「……ま、別にいまさらもういいんだけど。エヴァだって此岸に戻って来ちゃったんだし」
リッカは床に座ったままのハクトに手を差し伸べた。
「立てるか? 手酷くやられものだな……だから止めたのに」
リッカの手を借りて、ハクトはその場に立ち上がった。
「もっとはっきり言って欲しかったよ。大師匠がこんなんだって」
「こんなんって何よ」
エヴァンジェリンが唇を尖らせている。
「けど……ちゃんと約束通り、連れて来ただろ」
「どうだかな。ボトルを空けるまでに戻って来いと言ったはずだ。あれからウィスキーボトルは五本空いた。どれほど待つのをやめて迎えに行こうと思ったことか」
「いやピッチ速すぎるだろ。無茶言うな」
「師匠は弟子に無茶を言うものゆえ。だが、よくやったハクト――」
リッカはハクトの頬に指を添え、穏やかに目を細めた。
「お前はわたしの自慢の弟子だよ」
「……うん」
「てかやばくない? あんた相変わらずそんなアホみたいな呑み方してんだ」
エヴァンジェリンが露骨に引いているが、こればかりはハクトも同意見だ。
「回復能力が高いワーバニーという身体の悩ましいところだな。体内で酒精が急速に分解されるゆえ、酔いが五分と続かないのだ。仕方がないだろう」
ようやくハクトは腑に落ちた。
リッカが酩酊した様子を見せるのは酒を口にした直後だけなのだ。酒を手放さないでいるものの、ほとんどの時間は
「師匠が呑んだ酒は全部無駄になってるんだな」
「おいやめろ。何てことを言い出すんだ、ハクト」
リッカはショックを受けたような顔をしている。
「そういえば、リッカにもって来てやってたんだ。これ――」
エヴァンジェリンはワンピースのゆったりとした袖口に手をやった。
「
その指先には、赤い花弁の花が一輪揺れている。
彼岸で無数に咲き乱れていたあの花だ。
「それは……?」
「“彼岸ノ華”――ってとこかしら。あんたもこれ食べるのよ」
リッカは怪訝な顔をしている。
「いくらウサギの耳が生えているとはいえ、草を喰む趣味は無いのだが」
「いいから食べろ。じゃなきゃあんた、そこのハクトにすら遅れとっちゃうよ」
エヴァンジェリンは渋るリッカの口の中に花を力任せに押し込んだ。
確かに額に角が生え、雷の力を扱えるようになったのはハクトがあの花を口にしてからだ。
やはり彼岸に咲く――彼岸ノ華には特別な力が宿っているのだ。
無表情で花を
彼女の口元から冷気が霧のように揺れる。
「なるほど、この力……今よりもう一歩、彼岸に近づくということか」
師匠のリッカはさすがに理解が速い。
軽く伸ばした彼女の指先で、細かな赤い氷晶が生まれて消えた。
「何ということだ……これでいつでもキンキンに冷えたビアが呑めるぞ!」
「もっと他に言うこと無いのか師匠」
呆れているハクトに対し、リッカは頭上を見上げて言った。
「案ずるな、ハクト。次にわたしが酒を口にするのは、アレを狩った後――祝杯をあげる時だ」
リヴァイアサンに覆われつつある夜空は、その巨体が放つ赤い光によって不穏な赤黒さに染まっている。
「楽しみだよ」
その唇に笑みが浮かび、赤い瞳に不敵な光が宿った。
つづく
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