第3話 選択

「選択肢……?」

 うわ言のようにハクトは言葉を繰り返す。


 リッカはぬかるみを避けてそばの岩に腰を乗せた。

「ふたつある。ふたつにひとつ、好きな方を選ぶがいい」

 細い指先でハクトの顔を指差す。

「ひとつは、このまま」


「このまま……」

「お前はもう手遅れだ。今もなおその状態で正気を保っていられるのは稀有けうなことだが、所詮それも時間の問題に過ぎない。間も無くお前は意識を失い、同時にお前という人格も失う。一気に肉体の変異が進むことだろう。お前は晴れて――バニーと呼ばれる怪物の仲間入りだ」

 リッカは淡々と残酷な現実を突きつけてくる。


「意識を失った後とはいえ、良い気持ちではないかも知れないな。こうして話をしているのも何かの縁だ、そうなればわたしがこの場で始末してやるゆえ、後のことを心配する必要はない。ともかくそれで終わりだ。お前という存在に、ひとまずのがつく。お前は人として、ここで果てるのだ」

 リッカは口を閉じた。

 その赤い瞳を、探るようにハクトへと向けている。


「……」

 もうひとつは?


 そのリッカへ、ハクトは目顔で訴えた。

 口から喉が、すぐに赤い液体で充満してしまう。


 リッカは腰のポーチを探って、中のものを掌に載せてハクトに見せた。

 それは小さな、卵型の赤い結晶だった。手の上で淡く光を放っている。

「ハンターなら、これが何か分かるな?」


 エッグだ。

 ハクト達ハンターが、ワーレン内部で探し求めているもの。


「そう、エッグだ。今すぐここで、これを喰らえ。それがもうひとつの選択肢だ」


 エッグを――喰らう?


 ハクトは目を見張った。


 ハンターがギルドを構成してエッグを探索し、それが社会のインフラとして成立しているのはひとえにエッグが高性能のエネルギー源として機能するからだ。

 エッグは、今やありとあらゆる人の営みの礎となっている。

 ハクトが肩に装着しているライトも、先ほどまでハクトが乗っていた単車も、エッグをエネルギー源としている。


 エッグがもたらす便利で快適な生活を享受する一方で、人々は理解している。

 エッグは、ワーレンに満ちる瘴気が結晶化した忌まわしきものだということを。

 理解していながら、そのことを考えないようにして日々を過ごしていると言っていい。


 エッグとは、瘴気そのもの。

 それを口にするなど、到底考えられないことだった。

 

「高密度の“彼岸ノ血”を直接体内に取り込むようなものだ、当然無事では済むまい。お前の肉体は急激にバニーへと変貌してしまうことだろう」

 リッカは当然のように言う。

「ここで重要なのは――お前の意識があるうちに、バニーへ変貌する、ということだ。普通なら意識を失った後に、肉体が変貌する。そうなれば単なる怪物になりはてるのみだが、順序がその逆になる。人格を有したまま新たな肉体を得るのだ」


 そのことが何を意味するのか、見当もつかない。ハクトはリッカの言葉を待った。


「そうして生み出されるのは人でもなく、バニーでもない、だ。お前は人を捨て、そのもうひとつの存在としてこの先を生きる」


 人でもなく、バニーでもない、もうひとつの存在――。


「言っておくが、結果を保証することはできない。仮にふたつめの選択肢を選んだとしても、お前の精神と肉体が変異に耐え切れず、ひとつめの選択肢と同じ結果に至る可能性も充分にある。さらにもうひとつの存在となって命を繋ぐことができたとしても、その生が、お前の望ましいものになるとも限らない。こんなことなら人として果てた方がはるかに良かった――そんな後悔をしてももはや取り返しはつかないだろう」


 ハクトは鼻で呼吸をしながら、リッカの顔と、エッグを交互に見比べた。

「……よく考えて、選ぶがいい。だが考える時間はあまり残されていないぞ、お前の意識が途切れるまでが制限時間だ」

 リッカも、ハクトの目を真っ直ぐに見返した。

 その鋭い眼差しに、先ほどまでの酩酊した様子はまるで見受けられない。


 ハクトは鼻から大きく息を吸い込み、大量の赤い液体を口から吐き出した。

「……すべては“これから”だと、俺はずっと思っていた。寝て起きて、エッグハントして、報酬をもらう……それを繰り返すだけの日々だ。危険な仕事だけど、単調な毎日だった。それでも、“いつか”何か特別なことが起こって、人生が一変する。どこかでそう思って生きてきた」


 喉に絡むハクトの声に、リッカは黙って耳を傾けている。

「今日……見たことがないほど巨大なエッグを見つけたんだ。きっとギルド内の記録でも最大級だ。その時が来たんだと思った。今日をきっかけに、これから変わっていくんだと、胸が少し熱くなった。けれどそんな淡い期待も、一瞬でついえた。信用した相棒に裏切られて、この有様だ」


 ハクトは何回か大きく呼吸をして、続けた。

「“いつか”も、“これから”も、途絶える時は一瞬なんだ。今さらになって、それを思い知ったよ」


「……お前の言うことは正しい。この世界のできごとは本質的に前触れがないし、辻褄つじつま合わせもない」

 リッカはうつむいたハクトを無表情に見つめている。

「この世界に……嫌気が差したか」


「……ああ」

 ハクトは短く応じた。


 視界は滲んで不明瞭だ。両目からも赤い液体が流れ始めていた。

「そうか……だがそれもやむをえないこと。お前の選択だ、わたしは何も言うまい。このまま、人として果てることを選ぶのだな」


 ハクトは黙ったまま、もう一度だけ、大きく息を吸った。

 ありったけの気力をふり絞って、吐くように叫ぶ。


ッ!」


 かすれた彼の声は、それでも洞窟内に響き渡った。

「……!」


「こんな所で! こんな形で! 死んでなんかたまるか! 俺は俺の人生を取り戻すッ! いや、人でなくなったっていい。俺はッ! 俺はまだ終われない、ここで俺を途切れさせる訳にはいかないッ! 俺の“いつか”を、俺の“これから”を、この手に取り戻せるのなら何にだってなってやる! いいさ、望むところだ、リッカ! 早くそのエッグを――」

 ハクトの口から叫びとともに赤い液体が飛んだ。

「俺によこせッ!」


「……よく言った、良い覚悟だ!」

 リッカは口元を震わせ、嬉しそうに立ち上がった。


「さあ喰らうがいい! これが――」

 リッカはエッグを親指と人差し指で摘まみ、その手を勢いよくハクトの口の中に突っ込んだ。


「お前の新しい命だッ!」



つづく

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