第2話 邂逅

 どれほどの深さまで落下したのだろうか。

 ハクトは壁を手で伝いながら暗い洞窟の中を歩いている。


 群がっていたバニーの身体がクッションになって、爆発と落下の衝撃からハクトを守ってくれたようだ。


 彼に襲いかかってきていたバニーの群れはいなくなっている。

 バニーというものを倒すことはできないが、一定のダメージを与えると瘴気の中へと姿を消す習性がある。

 不幸中の幸いか、ハクトは致命傷を避けると同時にバニーを追いやることができていたらしい。


 ハクトはふと立ち止まって首を巡らせた。


 視界が悪い。

 落下によってほとんどの装備を失ったが、ライフルと肩に装着したライトは無事だった。

 辺りに満ちる瘴気のせいでライトの光も遠くまで届かないようだった。


 ワーレンの瘴気は深層になればなるほどその密度を増し、濃霧のようにじっとりと身体にまとわりつくようになる。

 思わず額をぬぐった掌が、べたりと赤く濡れる。

「……」

 ハクトは肩で息をしながら血に染まったような掌を見つめた。


 身体のあちこちが痛む。

 どこからか出血もしているだろうが、まとわりつく瘴気が全身を赤く染めており、自分がどこを怪我しているのかもはっきりしなかった。


 ハクトは黙って足を踏み出した。

 自分が今いる場所も向かうべき場所も分からなかったが、それでもこんな場所でじっとしていることはできなかった。


 自分の湿った足音と、荒い呼吸だけが聞こえる。

 防護マスクはすでに失われている。

 息をするたびに、瘴気が口と鼻から体内に満ちていっているのだろうが、呼吸を止める訳にもいかなかった。


 どれほどの時間歩き続けただろうか。やがてハクトは大きな空洞へと出る。


 低地にこごった濃い瘴気が、赤いぬかるみを作って彼の歩行の邪魔をする。

 荒い呼吸を繰り返すが、もはや息苦しさが治まらない。

 ついには歩くこともままならなくなり、ハクトはそばの岩壁に背を預けて喘ぐように息をする。


 ――ここまで、なのか。


 とても暗い。

 肩のライトはまだ点灯しているので、自分の視力が失われつつあるのだろう。


 ――俺は、こんな所で。


 尻もちをつくようにぬかるみの中に腰を下ろしたハクト。大きく息をつくと同時に口の中から赤いものが溢れ出た。


 口元を拭った手もすでに赤く濡れ光っている。

 それはまるでバニーの肌のようだった。


 ――こんな所で、怪物になって終わるのか。


 ハクトはきつく目をつむる。


 その時だった。

 彼の耳に、何かの物音が届いた。


 ばちゃり。


 ぬかるみが跳ねる音だ。


 ばちゃり、ばちゃり。


 暗闇の向こう側から音は近づいて来る。ぬかるみの中をゆっくりと歩いて来ているのだ。

 足音……?

 ハクトは肩で息をしながら、ライフルを脇に抱えた。


 またバニーが迫ってきているのだろうか。しかしそれにしては動きが遅い。足音も群れではなく単一のようだ。


 音に向かってライフルを向けた時、ハクトはその銃身が折れ曲がっていることに気付いた。崖から落ちた時に岩にでもぶつかったようだ。


 いよいよ、覚悟を決める時か。

 だがゆっくりと正気を失ってバニー化してしまうより、ひと思いにバニーにやられてしまった方がまだマシなのかも知れない。


 弱った視界の中にも、足音の主の姿が見えてきた。

「……?」

 ひと目で、それがバニーと違うことに気付く。


 バニーは基本的に小柄で、手足も獣のようにたわみ、四足歩行と二足歩行の中間のような前屈みの体勢で行動する。

 対してその影は、すらりとした手足で直立して歩いていた。

 しかも片手にはランタンを提げている。


 バニーではなく、人なのか。

 たったひとりでこんな深層まで探索に来ているハンターがいるのだろうか。


 しかし人だったとしても、相手の見た目は異常だった。


 姿は人の女性そのものだ。

 整った美貌がランタンに照らし出されている。


 つまりそれは、防護マスクもなく素顔を曝しているということだ。

 手足こそ防具で固めているようだが、他は胸元や腰回りを最小限の黒い布で覆っただけで、引き締まった腹部や太腿などは素肌をあらわにしている。

 この濃い瘴気のなか、人がそんな恰好で無事でいられるはずがないのだ。


 何より――。

 長い黒髪をポニーテールにした頭部から二本、ウサギのように長い耳が伸びているのがはっきりと見えた。まるでバニーだ。


 その異形の影は、ハクトに気付いたらしくランタンを少し上にかかげる。

「んー……?」

 赤い瞳を眇め、小さく息をついた。

「またハンターのなれのはてか。これは……すでに手遅れのようだな」


 ……しゃべった。

 ハクトは思わず息を飲む。


 相手は億劫そうな様子で腰のポーチからスキットルを取り出すと蓋をはね開けた。

 そのまま中身をぐびりとあおり、据わった目で改めてハクトの姿を見つめている。

「こうして見つけたのも何かの縁だ。始末してやるとするか」


 酒を――吞んでいるのか? こんな場所で?

 ますます混乱する頭のまま、ハクトは思わず口を開いた。


 口の中からごぼりと赤い液体があふれるが、構わずしゃべる。

「な……何者だ……あんた」


 異形の女性は、据わった眼のまま、もう一度スキットルをあおった。

「……呑み過ぎたか? 今、これが口を利いたような……」

 ゆったりとした動きで、ハクトに近寄る。


「……!」

 ハクトはライフルの曲がった銃身を相手に向けた。


「バニーの爪にやられているな。傷口からも、目や鼻からも、“彼岸ノ血”が染み込んで身体の奥底まで侵されている。酷い有様だが……ふむ」

 そのライフルを、相手は鋭く蹴り飛ばす。


 暗闇の向こうから、壁にぶつかる銃の音が響いた。

「どうやら呑み過ぎている訳ではなさそうだな」


「……あんたは……何なんだ」

 一歩踏み込み、座ったハクトを跨ぐように立つ。前屈みになると、彼の顔をのぞき込んだ。

「わたしのことはいい。お前、人格が残っているのか」

「人格……分からない……頭が……ぼんやりとする」


 思わずそう答えると、相手は身を起こして胸を張った。

「そうか、頭ならわたしとてかなりぼんやりとしているがな」

「……」

 ハクトは鼻で呼吸を続けながら黙っている。


「むしろぼんやりを通り越して、ずきずきとしている」

 それは酒のせいではないのか。

「何ならちょっとふらついているし、吐き気もしているぞ」

「いや分かったから……」

 なぜかこの酔っ払いは瀕死の自分に張り合ってきた。


 またもスキットルをあおっている姿を、ハクトは呆然と見上げている。

 ウサギの耳をした薄着の泥酔女に絡まれるなど、これがいまわの際の幻覚であるならば、もう少しまともなものであって欲しかった。


「さて、会話ができているということは――やはり気は確かなようだ。普通そこまで“彼岸ノ血”に侵されていれば、とっくに人格を喪失しているものだ。お前には、素質があるのかも知れないな」

 と、彼女は腰のポーチにスキットルをしまう。

「我が名は、リッカ――リッカ・グランシャドウ。お前、名は?」


 考えが回らない。ハクトは問われるままに答えた。

「……ハクト――ハクト・ウヅキ」

「ハクトか、良い名だ。良いか、ハクト。心して聞け」

 リッカと名乗る異形の美女は、そう言って笑みを浮かべた。


「これからお前に選択肢を与えよう」



つづく

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