第7話 奈落

 崖を下り、ハクトとリッカはネザー・ワーレンへと足を踏み入れた。

 先ほどまでいた場所よりもここはさらに深層になる。


 さらさらと、水の流れるような音がしている。

「この音は……?」

「“彼岸ノ血”が流れる音だな」


 ぬかるみを作っていた瘴気がここではさらに濃度と量を増し、凝集して川のような流れを作っているようだ。

 幾筋もの赤い小川が、足元を流れている。


 川の渦や飛沫が時おり赤い光を放ち、幻想的な光景を生み出していた。

 見通しは悪いが、いくらかは明るさのある空間だった。


「……師匠が言う“彼岸ノ血”っていうのは、つまりワーレンの瘴気のことなんだろう? 液体になるほどこごった瘴気か。マスク無しでそんな場所にいるなんて、未だに信じられないな」

 流れに手を差し入れると、指に触れている部分の流れが赤く燐光を帯びる。


「人にとっては身を蝕む毒でも、結晶化すれば資源として活用することができる。そしてワーバニーにとっては活力となる――この赤いものの本質は複層的だ。彼岸ノ血も俗称には違いないが、瘴気という一面的な呼称よりは良い。ギルドハンターのなかにも、そう考えて彼岸ノ血と呼んでる者はいるはずだ」


「彼岸ノ血……か」

 確かに見習いの時期にそうした呼び名を聞いたことがある気もする。


 小川に沿って進むうちに、複数の流れがぶつかって川幅が少し広がった。

 リッカが足元にランタンを置いて立ち止まる。

「この辺りで良いだろう」

「この辺りって?」


 リッカはポーチを探ると、先ほど回収したエッグをいくつか掴んで取り出し、それを川の中へ投げ捨てた。

「ちょ、えッ? 何やってるんだ、師匠!」

 見ているそばから次々にポーチからエッグを出しては川に投げ込んでいる。

 川面が赤く光る飛沫を上げる。


「……見ての通り、エッグを彼岸ノ血へと還している。ワーレンの上層だと結晶化したまま長く形を保っているが、ネザーの川の中なら比較的速く彼岸ノ血に還っていくのだ。彼岸ノ血へ還ったエッグは、またワーレンのどこかで結晶化する」


「わ、わざわざ師匠がバニーを倒して手に入れたエッグだぞ」

「自分の活力にする分と、報酬に変える分がいくらかあれば充分だろう?」

「それはそうかも知れないけど……たとえば師匠とギルドが協力すれば、より確実にエッグを回収することができる。街の人達の暮らしはずっと豊かになるじゃないか」


 苦笑いを浮かべたリッカは手の上でぽんぽんとエッグを弾ませると、それをまた川の中へ放り込んだ。

「……万が一、そうした協力関係を築いたとしたら、確かに街がエネルギー資源に困ることはなくなるかも知れないな。だがそれを歓迎しない者は多いだろう」

「どうして……」

「回収の確実性が増して数量も増えれば、エッグの資源としての価値が大きく下落するからだ。そうなればまず現状のギルド経営は立ち行かなくなる。ハンターの多くも職を失うはずだ。わたしを利用しようとするか、排除しようとするか、動機は何であれ――わたしは確実に攻撃に曝されることだろう。バニーだけでなく、人も斬らなければならなくなるような事態を、わたしは望んでいない」

「……」


 ハクトは今日、人を捨てた。

 こうして二人で会話していると忘れそうになるが、いまやハクトもリッカと同じく人ならざる存在なのだ。

 人にとって、ワーバニーは受け入れがたい異質な存在には違いなかった。

 そんな異質な存在が社会の仕組みまで覆そうとすれば、確かに強い反発が起こるのは想像に難くない。


「何より、ワーレンからエッグが大量に失われることは、避けなければならないからな」

 もっていたエッグを全て捨てたリッカは、両手をはたいて言った。


「それは――いいことなんじゃないのか? エッグを回収すればその周囲ではバニーの活動も沈静化する。ハンターのエッグハントにはバニーの脅威を遠ざけるって効果も期待されているよ」

「いやそれは違うぞ、ハクト。バニーは沈静化しているのではなく――」


 言いかけたリッカが不意に口をつぐんだ。

 素早く身を伏せ、ランタンの明かりを消す。

「師匠?」

「しッ!」

 リッカが唇の前に人差し指を立てた。

 彼女とともにそばの岩陰に身を寄せたハクトは、そのただならぬ雰囲気に黙ってリッカの視線の先を追う。


 数メートル先の仄暗ほのぐらい空間に黒い影が複数動いているのが見えた。

「……あれは……」


 頭部の長い耳はバニーのものだ。

 だが今目の前にいるのは、彼が遭遇してきたどの個体よりも巨大だった。体高二、三メートルはあるだろう。

「バニー……なのか? 何だあの大きさ……」

「うむ、あれもバニーだ」

 巨体が小川を踏みしめ、赤い光が舞った。こちらには気付いてはいないようだ。

「ネザー・ワーレンの濃い彼岸ノ血のなかでは、ああした大型の個体も普通に存在する」

 遠ざかっていく巨体の群れを油断なく見据えながら、リッカはささやく。


「……でも師匠なら倒せるんだろう?」

「そうだな。だが小型と比べると簡単ではない。ここはやり過ごした方がいい」


 大型のバニーの群れは、そのまま暗闇の向こうへと姿を消した。

「行ったか」

 ほっとして緊張を解くハクト。


「……相手が大型だとクリティカルヒットが通じないってこと?」

「そうではないが――」

 と、ハクトの方を振り向いたリッカの表情が強張った。


「ハクト……」

 真剣な顔を間近に寄せる。赤い瞳に見つめられ、ハクトは無闇にどぎまぎとした。

「え? え、何?」


「わたしの近くに来い」

 もうかなり二人の距離は近いが、リッカはさらにハクトの腕を引く。


 彼女の吐息が、ハクトの頬に触れた。

「……ゆっくりと静かに、後ろを振り向くのだ」

 リッカの視線は、ハクトの背後に向けられている。


 後ろ――。

 ハクトがぎこちなく首をめぐらせる。


 すぐ後ろに、赤い影があった。


 頭部から伸びる長い耳――一体のバニーがそこに立ちはだかっている。

 さきほどやり過ごした群れほどではないが、それでも二メートル近くある巨体だ。


 バニーの虚ろな黒い眼窩が、ハクトを見下ろしていた。



つづく

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