第36話 嗚咽
「師匠……!」
ハクトは倒れているリッカに駆け寄った。
さいわい、バニーの攻撃は受けていない。
倒れたまま動かなかった彼女は、バニーの関心を引かずに済んでいたようだ。
抱き起こすと、斬られた腹部からさらに大量の血がこぼれ出た。
「く……っ!」
慌てて周囲に首を巡らせ、数メートル先に大きな岩が転がっているのを見つける。
あの場所でバニーの波をしのごう。
ハクトは左腕でリッカの身体を支えたまま、右拳を地面に当ててマークする。
彼を中心に赤い光が広がり、大岩のある場所までテリトリーが広がった。
リープ――。
二人の身体が一瞬で目指す岩陰まで移動する。
が、ちょうどその場所に一体のバニーが潜んでいた。
ハクトを視界に捉えたバニーが、反射的に跳びかかってくる。
ほぼ同時にハクトの両目が赤く光った。
リッカを抱きかかえたまま右腕で抜き放たれたハクトのタスクは、正確にバニーのクリティカルポイントを破壊していた。
「ちょうどいい……師匠の力になってもらう」
流れるように手首を返し、タスクをテリトリーに戻したハクトの背後で、バニーの身体が真横に両断されて地面に崩れる。
ハクトはバニーから生じたエッグを拾いあげて、リッカの身体を岩にもたせかけた。
ぐったりと目を閉じている彼女の口元に拾ったエッグを近づけるが、気を失っているためかほとんど口が開かずエッグが入らない。
「……しっかりしてくれ、師匠……!」
ハクトはエッグに歯を立て、かじり取った小さな欠片を彼女の唇の間に差し入れた。
口の中に入るには入ったが、飲み込んだ様子はない。
「そ、そうだ。酒――酒で流し込もう」
ハクトはリッカのポーチを探って、愛用のスキットルを取り出した。
蓋をはね上げ、飲み口を彼女の唇に差し入れて傾ける。口の端から酒がこぼれて滴った。
「くそ……これ、あふれてないか? どうしよう、早くエッグを飲み込ませないと……」
焦ったハクトはリッカの顔を上に向けた。
「は、鼻から入れれば喉に直接届くよな……?」
彼女の鼻先に飲み口をそっと近付ける。
「……やめろ、こらあああッ!」
「うわああああッ?」
突然、凄まじい剣幕でリッカが目を開いたので、ハクトは腰を抜かしそうになった。
「ったく貸せ、この!」
リッカはハクトからスキットルを奪い取ると、自分でごくごくと喉を鳴らしてエッグごと飲み干した。
「よ、良かった師匠……気がついた!」
スキットルを離して大きく息をつくリッカ。
「……そうか。わたしとしたことが、失神していたか……」
そこで警戒の色を浮かべた彼女は、耳を立てて視線を周囲に向ける。
「……クロードは?」
ハクトはうなずいて口を開いた。
「ああ……倒した」
「……」
彼の顔をまじまじと見つめたリッカは、やがて脱力したように岩に背中を預けた。
「……そうか。よくやったな……」
「それよりあんたの傷が心配だ。ほ、ほら早くエッグを食べてくれ」
「……うむ」
リッカは思い出したように腹部の傷に手を当て、顔をしかめた。
ハクトの差し出すエッグをひと口かじる。
「全然動かないから心配したんだぞ……」
「不覚だった。しかしよりによって鼻から酒を入れようとするとは何を考えているのだ、お前は」
「ご、ごめん……師匠は酒好きだからいけると思って」
「無茶苦茶言うな、いくら酒好きでも鼻から呑む奴はいない」
リッカは半目になってハクトをにらんだ。
その表情はいつも通りにも見えるが、傷を押さえているリッカの手はあふれ出る血で真っ赤に染まっていた。
ハクトは青褪めた顔でその傷を見ている。
「なあ師匠、あんたの傷……血が、止まってないんだ、さっきから」
リッカはエッグをもうひと口かじる。
「そんな顔をするな……恐らく、クリティカルポイントを斬られたのだ。自分が斬ることはあっても、よもや斬られることがあるとは思っていなかった……回復には時間がかかると考えた方がいいだろうな」
「大丈夫……なんだよな?」
と、リッカの表情を覗き込むハクト。
リッカは目を伏せて、もう一度大きく息をついた。
「前に……ワーバニーとなった時に肉体の成長が止まると言ったな。覚えているか?」
「あ、ああ……」
「どちらかと言うと、肉体が変化しない、と言った方がふさわしい」
ハクトは黙ってリッカの顔を見つめた。
肉体が変化しない――何を言っているのだろうか。
「……つまり、ワーバニーは死なない」
「……は?」
リッカは手を伸ばし、ハクトからエッグの残りを受け取ると、口に放り込んだ。
「……ちゃんと言ってなかったな。わたし達ワーバニーは不死身なのだ。ワーバニーは人のバニーの中間……そこはバニーと同じ特性を有している、ということだ。それこそクリティカルヒットでも喰らわない限り、死ぬことはない。その証拠に、ほら――」
どうやら血も止まったようだ、とリッカは傷口から手をどけた。
確かに傷はまだ深いように見えるが、出血は止まりつつあるようだ。
「……何だそれ……死なない? そんなことあるのかよ……?」
ワーバニーはそう簡単には死なない――などとリッカはことあるごとに言っていたが、それはワーバニーの回復能力が極めて高いことを指しているものだと考えていた。
「無論、だからといって身体を雑に扱っていい訳ではないから勘違いするな。怪我をすれば痛みもあるし、このように動けなくもなる。回復の手段がない場所で動けなくなってしまってはかなり状況は絶望的だぞ」
「……歳を取らないうえに死なないって、それ……文字通り不老不死じゃないか」
リッカは片目をつぶって笑ってみせた。
「……凄いだろう?」
「……」
あっけらかんとした彼女の様子に、ハクトは言葉を失った。
何かを言おうとした彼の視界が、不意に滲む。
ハクトの顔を見たリッカが、困ったように眉尻を下げる。
「お、おい、傷は大丈夫だと言っている。泣かなくたっていいだろう」
「違う……そうじゃ……なくて……!」
大量の血を流して倒れた師匠を目の当たりにした衝撃、クロードと対峙した緊張、不老不死という突拍子もない事実を知ったことによる困惑と安心――感情の振れ幅が大きすぎて、もはや制御が利かない。
ハクトは声を揺らしながら、必死に目の涙をぬぐう。
「け、結局……クロードの攻撃を受けたのは危なかったってことだろ……! その傷がクリティカルヒットになっていたら、ワーバニーのあんたでももう駄目だったってことだろ……! お、俺の心配が……ッ! 心配した通りになっていたかも知れなかったってことだろ……ッ!」
歯を食いしばっても抑えることができず、何度もしゃくりあげた。
「あんたとはッ! あれっきりだったかも知れなかったんだろうが……ッ!」
そんなハクトを、リッカはしばらく呆気にとられたように見ていた。
やがて優しく目を細めると彼の頭に腕を回して、自分の胸元にそっと抱き寄せる。
「……!」
濡れたハクトの頬に、リッカの素肌が触れた。
「……よしよし……。大丈夫、わたしは大丈夫だから……」
耳元へ語りかけながら、血で汚れた指でハクトの髪を撫でる。
「心配をかけて悪かったな……助けてくれてありがとう。わたしは、本当に良い弟子をもったよ」
柔らかな肌の感触の奥に、確かに脈打つ温い鼓動を感じた。
良かった。
師匠は――リッカは、ちゃんとここにいる。
涙と嗚咽がどうしても治まらない。
ハクトは肩を震わせながら、しばらくリッカの腕の中に身を預けていた。
つづく
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