第44話 三世
ハクトは、自分の身体が高速で落下していることに気付いた。
視界に入る空は青い。青が深過ぎて黒いくらいだ。
そうだ。自分はダイヴを使った。
明らかにここは直前までいた医務室ではない。
ならば――。
周囲を確認するために首を巡らせると、すぐ目の前に赤い水面が迫っていた。
身構える間もなく、ハクトは飛沫をあげてその水面に突っ込んだ。
水中に深く沈んだ身体を必死に動かして、水上へと顔を出す。
「……ぷはッ! み、水ッ?」
彼の周囲には穏やかに波打ちながら、赤い液体が満ちていた。
見渡す限り広がるそれは赤い海のようであり、河のようでもあった。
どうやら、あの世にたどり着くことはできたらしい。
だが彼岸、と言うからにはどこかに岸辺があるのだろう。恐らく、リッカと共にダイヴした時に見た、あの花畑がそれだ。
とにかくハクトは赤い水を掻いて、前に泳ぎ始めた。
波の濃い赤と、空の濃い青。コントラストの強すぎる視界に、眩暈がするようだ。
やがて波間に陸地らしき影が見えた。その影に向かって泳ぎ進めていると、泳ぐ足が砂地に着く。
水中から身を起こし、長い耳を振るわせて水気を弾いた。
肌に付着していた赤い水は、身体の中に吸い込まれるようにして消える。
「これ、彼岸ノ血……だったのか」
立っている場所は砂浜のようだが、その全てが赤い。粉々に砕いたエッグを大量に敷き詰めたらこんな感じになるだろうか。
砂浜からは先は丘になっていた。
無数の赤い花が一面に咲き誇り、丘全体を赤く染めている。
すべて同じ種類の花のようだ。
濃い赤の細長い花弁が上に向かって放射状に広がる特徴的な姿をしている。
膝丈で揺れるその花々をかき分け、ハクトは丘を登って行った。
その場所は、すぐに見つかった。
丘を登り切った辺りに赤い花の生えていない空白地帯がある。
空白なのはその部分に少女がひとり、横になっていたからだ。
胎児のように軽く身を丸め、すやすやと眠っている。
ゆるく波をうつ茶色の髪が顔にかかっていた。
頭頂部から髪と同じ色の被毛に包まれた長いウサギの耳が伸びる。
その姿は、リッカのセーフハウスで目にした写真のままだ。
間違いない。
この少女が、エヴァンジェリン・フリントだ。
身にまとっているのはフリルがあしらわれたモノトーンのワンピース。
リッカのように露出の多い格好ではないが、襟や袖、スカート部分などが大きく広がるような作りになっていて、ワーバニーらしく内側に熱を溜めないよう解放的なデザインにしているようだ。
軽い午睡といった風情で静かに寝息を立てている様子は、長い年月この地に囚われ続けていたようにはとても見えなかった。
だがその腕や脚を杭打つように、いくつかの赤い花が身体を貫通して生えている。
ひょっとしたらこの赤い花に全身が覆われた時、彼女は完全に彼岸に還るのかも知れない。
ハクトが見ていると、エヴァンジェリンの長い耳が片方だけぴくりと立ち上がった。
「――!」
「……うぅ……ん」
小さく呻いて、もぞもぞと身じろぎする。長いまつ毛に縁取られた目蓋が持ち上がり、赤い瞳が覗いた。
「ふぁあ……あ。もう時間か……」
身を起こしたエヴァンジェリンは両腕を挙げて大きく伸びをした。身体から生えていた赤い花が散り落ちて行く。
顔をハクトに向けると、しばらくぼんやりと彼を眺めて、言った。
「……は? ……お兄さん、誰?」
「俺は――」
急に目を覚ますとは思っていなかったので、思わず言いよどむハクト。
「俺は、ハクト――リッカの弟子だ。あんたを迎えに来た」
「リッカの……弟子ぃ……?」
エヴァンジェリンはハクトの足下から頭上まで目を走らせた。
「嘘じゃなさそうだけど……その耳、お兄さんもワーバニーっぽいし」
「そうなんだ、俺はリッカに師事してて――」
彼女は半笑いでハクトの言葉を遮った。
「いや知らないし、エヴァお兄さんのことなんて興味ない。何でリッカじゃなくてその弟子なんかがのこのこやって来てんのよ。“鎮め”に必要なのは跡継ぎになるエヴァの弟子なの。お兄さんに用は無いから早くリッカ連れて来てよ。ってかまさかあのコ、怖気づいた? は? まじザコ過ぎんだけど」
「そ、そうじゃない。実は――」
ハクトは、ここに来た経緯を彼女に語った。
エヴァンジェリンは半笑いを浮かべて彼の話を聞いていたが、明らかに不機嫌になっていた。
「ふうん……リヴァイアサンを鎮めるんじゃなくて、狩る、ねぇ……」
彼女は立ち上がると、ワンピースの裾を払って手足の赤い花を振り落とした。
かなり小柄だ。
長い耳を除けば、ハクトの胸元あたりまでの身長しかない。
半笑いのまま、下から彼をにらみ上げる。
「……ウケる、まじウケる。リヴァイアサンを、狩る? そんなことがあんたらザコどもにできると思ってんの?」
「俺達だけじゃ難しくても、あんたの力も合わせれば何とかなるかも知れないだろ。だからこうして迎えに来たんだ」
そう言うと、エヴァンジェリンは弾けるように甲高い笑い声をあげた。
「きゃっははははッ! え、何それ結局エヴァ頼み? 自分で何とかできもしないザコキャラの癖にリヴァイアサンを狩るとかイキってんの? うわだっさ、恥ずかしー、意思よわよわー! びびって逃げたザコ弟子の弟子もザコかよ、きゃはは! ウケる、何なのこのザコ師弟ッ!」
「……」
こちらを指差して笑うエヴァンジェリンに引きつった笑みを返しつつ、ハクトは思った。
――こいつ、めちゃくちゃ性格悪いな。
可憐なのは見た目だけのようだ。
出会って数秒も経たないうちに罵倒と挑発を連発している。
リッカが彼女の人となりについてまったく触れなかったのが分かった気がした。
ひょっとしたらリッカが甘やかしていたのではなかろうか。
「……師匠の師匠に、こんなこと言っていいか分からないけど……」
ハクトの言葉に思わず溜息が混じる。
「師匠の師匠のことは大師匠っつうのよ、孫弟子のお兄さん! きゃはは、はいザコぉ、語彙力ザっコぉ!」
口元に手をやって嘲笑うエヴァンジェリン。
「大師匠ね、なるほど……」
ハクトは彼女を見下ろして言った。
「俺の“大師匠”が、こんなくそがきだとは思わなかったよ」
エヴァンジェリンは笑いながら、こめかみに青筋を立てた。
「いい歳して礼儀もなってないヤツがエヴァの孫弟子とかまじぃ? え、リッカってば人を見る目までザコじゃん、ヤバぁ」
「好き勝手言ってくれてるけど……どうやらあんたも不可能だ、とは言わないんだな。リヴァイアサンを狩るってことを」
「……はァ?」
「びびって逃げたのはどっちだ。本当なら倒せる相手を封印という形で日和ったのは大師匠の方じゃないのか」
笑顔のまま、エヴァンジェリンの眼光が鋭くなる。
「何も知らない癖にエヴァに口答えとかさぁ……まじムリ、うっざ。このザコいつまでエヴァに絡んで来んのよ。こっちには時間が残されてないんだから、とっとと帰ってリッカ連れて来いよ。てかめんどい――」
エヴァンジェリンの細い右手が頭上に伸びた。何もないその空間から長大な赤い太刀が現れて、彼女の手の中に収まった。
「もう力づくで追い出す」
その刃渡りだけで彼女の身長ほどはある大太刀を、軽々と片手で振るう。
ハクトは後ろに跳びすさって距離を取った。
「……望むところだ。こっちも力づくであんたを連れ帰る。何より俺の師匠のことを悪く言って――」
その赤い目が強い光を放つ。
「ただで済むと思うなよ、エヴァンジェリン・フリントッ!」
つづく
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