第10話 兎耳

 写真を見ていると、シャワーの音が止まってこちらの部屋に近付いて来る足音が聞こえた。

「……ふう、さっぱりした」

 と、背後からリッカの声がする。


「なあ師匠、この写真の女の子って――」

 振り返ったハクトは、リッカの姿を見て不意に言葉に詰まった。


「どうした?」

 湯上りのリッカは、すでに胸と腰を包むセパレートタイプの装備を身に着けている。


「……何でもない。一瞬、裸で出て来たのかと思って驚いただけだ。よく見たらさっきまで着てた服だな」

 手足の防具が外されていて、肌の露出部分が広がっていたので錯覚したようだ。


 結局のところ目のやり場に困るような格好には違いないのだが、彼女が下着ではないと主張する装備なので文句は言えない。


 長い黒髪と耳をタオルで拭いながらリッカは眉をひそめた。

「いや汚れていたし、新しいものに着替えているが……というかハクトがいると分かっているのに裸で出て来るはずがないだろう」

「だって師匠ならやりかねないから」

「かねるわ! 何が“だって”だ、無礼な弟子め。……それより今、写真がどうとか言っていなかったか?」


「あ、ああそうだ。この写真、写っているのは師匠だよな。一緒にいる女の子――」

 と、ハクトはリッカに写真立てを見せる。

「何者なんだ? この耳、彼女もワーバニーに見える」


 写真を覗き込むリッカの水気を含んだ黒髪が流れて、ハクトの頬に触れた。

「ふむ――」

 小さくうなずいて写真から目を外すと、彼女は髪を拭きながらキッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開けて中からビアの小瓶を取り出す。


 そのリッカをハクトは声で追いかけた。

「……ワーバニーって俺達以外にもいるのか?」


「そうだな。お前の言う通り、彼女もわたし達と同じワーバニーだった。名は、エヴァ――エヴァンジェリン・フリントという」

 戻って来た彼女は小瓶の栓を抜き、そのまま窓からテラスに出た。


 瓶に口をつけると、朝陽に白い喉を反らして勢いよくビアを体内へと流し込む。

「……ぷあああッ! 久々に呑むとやはりうまさも格別だな!」

 テラスで歓声をあげるリッカの姿が、ソファからも見える。


「俺の知る限り、ずっと呑んでるけどな」

「愚か者。スキットルで呑んでいたのはウィスキー、同じ酒でも全く別物だ。この手のビアはよく冷やしておかねばならないゆえ、ワーレンではありつけないのだ」


 リッカは小瓶を手にテラスの手摺に背を預け、ひとつ息を吐いた。

「……エヴァは、わたしの師匠だった」


 ハクトは視線をリッカから写真の少女に向けた。

「師匠?」

「うむ。わたしはエヴァからワーバニーとしての生き方……なかんずくクリティカルヒットを学んだ」


「師匠の……師匠か――」

 再び視線をリッカに戻す。

「……でもこの写真で見る限り、どう見てもあんたより年下のような気がするんだよな」


 リッカはぱたりと耳を動かした。

「外見はな。ワーバニーとなった時に肉体の成長が止まるのだ」

「肉体の成長が止まる……」

「老化が止まると言ってもいい。ところでハクトは今何歳だ?」

「二十一」

「わたしは二十歳はたちだ。わたしの方が若いな」

「どこで張り合ってるんだよ、ほぼ同い年だろ。それじゃあ俺も……これ以上老けないってことなのか」

 随分重要なことをあっさりと告げられた気がする。


畢竟ひっきょうわたし達は、人にあらざる存在なのだ。とはいえこの先ずっと若いままだ、ワーバニーの良い面と受け止めていいと思うぞ」

 小瓶をあおって、リッカは言葉を継いだ。

「その点、エヴァはもっと若くしてワーバニーになったのだな。正確な年齢は聞かずじまいだったが……ともあれ、生きている期間はわたしより長かった。彼女から学ぶことは多かったよ」


 そこでハクトは気付いた。エヴァジェリンについて語る時、リッカは過去形を使っている。

「……ひょっとして、そのエヴァは……もういないのか」


 そう問うと、リッカは微笑みを浮かべて少し目を伏せた。


 少し間を置いて、答える。

「うむ――もういない」


 緩い風が彼女の黒髪をなびかせ、肌の上で木漏れ日が踊った。


「ご……ごめん、師匠。俺、悪いことを聞いてしまったな」

 ハクトが謝ると、リッカは小さく首を振った。

「気にするな、ずっと昔のことだ。弟子とは師匠を超えるもの。いつまでもこだわってはいられない」

「……」

「それに今は、わたしがハクトの師匠なのだからな」


 師匠の師匠――もうひとりのワーバニー。

 その存在が気にはなるものの、ハクトにそれ以上立ち入ったことを尋ねる気持ちは起きなかった。


 リッカはテラスから戻ってテーブルに空の小瓶を置く。

「気分は良くなったか? 少ししたらでかけるぞ」

「またワーレンに潜るのか?」

「そこから戻って来たばかりだろうに。そうではなくエッグを換金しに街へ行くのだ。酒を補充しなければならないし、食事もしたいしな」

「ああ……でも、それほど腹は減ってないな……エッグのお陰で俺達は空腹を感じないんだったよな?」

「うむ。まあ、食事とは腹を充たすばかりの行為ではない。味や食感、その場の雰囲気を楽しむことで、心を充たす行為でもあるのだ。わたし達は食事をしなくてもこと足りる身体だが、全く食事をしないというのもまた、物足りないものだぞ」


 ハクトは少し考えてうなずいた。

 確かに必要がないからといってこれっきり食事をしないというのは、どこかに寂しさを感じる。

「なるほど……ワーバニーの生き方ってそういうことか」

「そういうことだ。わたし達は人にあらざる存在だが、それゆえに人の営みを大切にしたい」

 リッカはそう言って部屋の向こうを指差した。

「出かける前に、お前もシャワーを浴びて来るがいい」


 立ち入った浴室はまだほのかに湯気を残していた。

 ふと浴室の鏡に写る自分の姿に気付く。


「そうか……俺、ずっとこのままなんだな」

 白銀の髪の間から伸びる長い耳を、ぱたぱたと動かす。


 明るい浴室の中で見ると、ワーレンで見た時よりずっと現実離れした姿に感じる。同時に、自分がもう人ではないことを強く実感できた。


 ハクトはシャワーの蛇口を捻ってふと考えた。

 バニーは、クリティカルヒットという例外を除けば――不死身だ。

 では半分人であるワーバニーはどうなのだろう。


 ワーバニーになった時から老化しないらしいが、果たしてその肉体に死は訪れるのだろうか。

 

 リッカの師匠だったエヴァンジェリンは、もういないという。

 彼女の様子から、もう会えない相手だということは予想できる。

 それは遠く離れてもうこの地にはいないという意味なのか、それとも命を終えてもうこの世にはいないという意味なのか。


 何となく気掛かりを感じたが、頭から熱いシャワーを浴びるとそうした気掛かりも一緒に洗い流されていくようだった。


 自分にはリッカという師匠がいる。

 ハクトが知るべきことは、いずれきっと彼女が教えてくれるはずだ。



つづく

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