第26話 乾杯
ミラは一度執務室に入ってギルドスタッフから報告を受けるようだ。ハクトとリッカは、ギルドマスターの私室で彼女の戻りを待っている。
案内された居間には広いはきだし窓があり、外のバルコニーから夕刻の街並みを一望することができた。
二人はバルコニーに出て、暮れなずむ街に灯りが浮かぶ様子を眺めている。
オリエンテムレプスへ戻って来た時は街中も騒然としていたが、今は落ち着いて普段の雰囲気に戻っているように見えた。
耳を向ければ、雑踏の音も遠いせせらぎのようだ。
「……長い一日だったな」
リッカがそう漏らして、スキットルの酒をあおる。
「ああ……ワーバニーになってから今までの時間の濃密さときたら、これまで生きてきた時間を全部押し詰めても足りないくらいだよ。ワーレンの縦穴に落ちたことが、ずっと昔のように感じる」
ハクトはバルコニーの手摺にもたれて大きく溜息をついた。長い耳が垂れる。
「無理もない、お前はワーバニーという全く新しい命を得たのだ。年端もいかない幼児のように――あらゆることが初めての経験として身体と精神に刻まれつつあるのだろう」
とリッカはハクトの顔を指差す。
「だがそれだけ吸収も早い。この短時間で、ワーバニーとしての動き方がしっかり身についたように見える。クリティカルヒットも、実戦で充分に使えていると言っていいだろう」
「ほ、ホントか。師匠」
垂れた耳を起こすハクトに、リッカは苦笑した。
「喜ぶのはまだ早い。そこからが本番だと、前に言ったはずだ」
「……そういえばそうだった。師匠の仕事を手伝う準備がようやく整ったってことだな」
そこでハクトは首を傾げた。
「けど結局、師匠が手伝って欲しい仕事って何なんだ? バニーを狩ってエッグをワーレンに戻すって作業なら、別に師匠ひとりでもこなせているよな」
ハクトの問いかけに、リッカはひと口スキットルをあおって口を開いた。
「……そうだな。説明するにはちょうどいい機会だ」
そこへ、
「わたしもそのお話を聞いていいですか?」
と声が届いた。
声の方を向くと、執務室からミラが戻って来たところだった。
ハンター用の防具と白いロングコートを、ブラウスとくるぶし丈のタイトスカートに着替えている。
緑の差し色が入った白基調の衣装をまとう彼女のシルエットは、より一層白百合の花を思い起こさせた。
「お待たせしてすみません。ひとまず落ち着いたので後はスタッフに任せて休ませてもらうことにしました」
「状況はどうだった?」
「何名かマンティコアの攻撃を受けて負傷したようですが、重傷者は無しです。彼岸ノ血に侵されている人もいませんでした。不幸中の幸いですね」
場所がワーレンの外だったので、彼岸ノ血の侵食を受けにくかったのだろう。
そういえば――。
ハクトはそこでふと気付いた。ミラは“瘴気”ではなく、”彼岸ノ血”という表現を使っている。リッカが使う“彼岸ノ血”という単語を初めて聞いた気がしなかったのは、かつての師匠が理由だったようだ。
「ただし、行方不明者が一名……」
ミラはそうつけ加えた。
「……クロード、か……」
そう言うと彼女はうなずく。
「彼のしたことを考えれば、きちんと裁かれて罰を受けるべきですが……姿を消す前の様子からすれば、その望みは薄そうですね」
「しかしハクトの冤罪は晴れた訳だ。せめて彼の名誉の回復はできないものか?」
リッカの言葉に、ミラは小さく手を振った。
「ギルドの記録上、ハクトくんは行方不明になっているだけですよ。不名誉になるような事実はありません」
「ふむ?」
「確かにクロードくんの報告ではハクトくんが彼を襲ったことになっていますが――彼の報告を裏付ける事実が確認できませんでしたので記録は残しませんでした。そもそもわたしはその点に疑念をもっていましたしね。巨大エッグの発見というニュースとともに相棒による裏切りというゴシップが流れてしまったものの、ハクトくんの名前が出ないようにわたしがかなり念を入れて統制をかけましたし……」
だから街の噂を聞いてきたサブリナも、ハクトの名前を耳にしていなかったのだろうか。元師匠のギルドマスターとしての権限に随分助けられていたようだ。
「そうだったんだ……ありがとうミラ」
「いえ、他ならぬハクトくんのことですもの」
「……いずれハクトの名も知られてしまうのではないか?」
まだ気掛かりを残している様子のリッカに対し、ハクトは割と楽観していた。
「結局俺は行方不明のままなんだし、平気なんじゃないかな」
「ゴシップなんてすぐにクロードくんのもので上書きされるでしょうしね。それにハクトくんのことはわたしが例えどんな手を使ってでも全力で守りますので大丈夫ですよ……そう、どんな手を使ってでも、ね……え、えへへ」
またも不穏な笑みを浮かべ始めるミラだが、さすがにリッカも慣れてきたようだ。
「……彼女に師事して、よく身がもったな、ハクトよ」
「前はここまでじゃなかったんだけど……ハンターとしてひとり立ちして一緒に行動することがなくなってから、何か急にパワーアップしたんだよな」
「離れている時間が二人の気持ちを深めると言いますからね」
「真顔で何を言っているんだ、お前は……」
リッカの指摘を聞き流して、ミラは居間の方に足を向けた。
「さて、話の続きは食事をしながらにしましょうか。お腹空いたでしょう、下のギルドホールに料理をお願いして……ああでも夕食時のこの時間は混んでそうですね。時間がかかってしまうかも……?」
「では〈カルバノグ〉に頼もう。バー形態の店ゆえ、混む時間がずれている」
さすがは“姫”。店の売り上げに貢献している。
「ああ、ギルドの隣にあるお店ですね。わたしはあまり酒場を利用しないので行ったことはないですが、リッカさんのおすすめならそこに頼んでみましょうか」
ミラはベルを使って人を呼ぶと、〈カルバノグ〉への料理の注文を告げた。
「……では食事が来るまでの間、何か吞みますか? リッカさんは見るからにお酒好きそうですしね」
ミラはキッチンの冷蔵庫から冷えたスパークリングワインを取り出してみせる。
リッカの耳が嬉しそうに動いた。
「いいものをもっているな。ちょうどそういう酒が呑みたいと思っていたところだ」
「気付いてないかも知れないけど、師匠。あんたがさっきから呑んでるのも、酒だよ?」
「気付いてないことあるか! これはウィスキー、種類が違うと言っているだろう、種類が」
「お酒の贈り物をいただくことがあるのですが、わたし自身は嗜む程度ですのでたくさん余っているのです」
ミラはフルートグラスにワインを注ぎ入れて、ハクトとリッカに渡した。
細かな泡が立ち上るワインを眺めるハクト。酒はあまり得意ではない。
「乾杯だけだ、付き合え。ハクト」
「う、うん」
「では、この出会いと再会に――乾杯」
ミラの声とともに、掲げられた三人のグラスの中でワインが揺れる。
ハクトもグラスの中身を口に含んだ。
慣れない味だが、グラスを交わしたことに少しほっとする思いでもある。
「でも良かったよ……勝手に弟子を離れたこと、ミラが許してくれたみたいで……」
グラスを傾けたミラはハクトに優しげな笑顔を向けて、言った。
「は? 微塵も許してなどいないですが?」
「えー」
つづく
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