第28話 彼岸

 ハクト達はバルコニーのデッキチェアに腰を下ろしている。


 リッカがいつの間にかスパークリングワインのボトルを空けていたので、ミラは新しいワインの栓を抜いた。

 かなり高価なアンバーワインらしくリッカは目を輝かせているが、ミラはセラーの手近な瓶を持って来た、と応じている。彼女は本当に酒への関心が薄いらしい。


「……まずは、彼岸について話そう」

 グラスに鼻先を入れてワインの香りを楽しみつつリッカは言った。


 彼岸――。

 過去あるいは未来。記憶、命、魂の最果て。


「エッグやバニーが生まれる場所のことですね。わたし達のいるこの空間とは別位相の時空――したがってワーレンという特異点でしかわたし達はそれを観測することができない。ありていに言えば異空間です」

 そうミラが語るのは、人々が共有する一般的な彼岸の認知だ。

 だがワーバニーにとってはまた別の意味をもつ。ハクトが後に続けた。

「俺達の、力の源泉だ。ワーバニーはマークでその場に彼岸を召喚することができる」


「うむ。わたし達がどんな場所でもマークすることができるのは、彼岸という異空間がこの世界にあまねく存在するがゆえだ」

「観測できないだけで、いつもすぐそばにあるのですね」

 ミラはピンに刺さったチーズとトマトの前菜を口に運んだ。


「あの世が彼岸なら、この世は此岸しがん――。彼岸と此岸は、その境界を挟んで不離一体で存在しているのだ」

 リッカは空中に指で一本線を引き、次いでその線をかき混ぜるように指先を回した。

「だが一方で……あらゆるものは遷移し、変化し、散逸する。それがあるがまま、自然のことわりだ」


「彼岸も、同じだと?」

 ミラが問うと、リッカはうなずいた。

「ワーレンのような彼岸ノ血で満ちた場所が存在することからも分かるように、そもそも彼岸という異空間は強固なものではない。時とともに構造が曖昧になり、やがては崩壊する」


「……それはわたし達がエッグを採取し、消費し続けたことが原因でしょうか」

「言っただろう、自然の理だ。無論、人の営みによって崩壊に向かう速度が加速しているとは言えるかも知れないが、それだけだ」

 そう言ってリッカはワインをひと口呑んだ。


「もし彼岸が崩壊したら……一体どうなるんだ?」

「彼岸と此岸の区別が消失する。この世がこの世でなくなる。すなわちそれは――」


 世界の崩壊だ、とリッカは言った。


「それは防がなくてはならない。ゆえにわたしは彼岸の崩壊を鎮める。ハクト、お前に手伝って欲しい仕事というのが、それだ」


「……!」

 ハクトは思わず呆気にとられた。

 規模が大きすぎて容易には想像がつかない話だ。


「わたしがバニーハントしてエッグをワーレンに還していたのは、人の営みの影響を軽減するためでもあるが、彼岸の状態を確かめるためでもある。さしずめ保守点検作業だな。そして今日、彼岸ノ血脈の乱れを実際に見て確信した。あれは彼岸の急速な変化によって生じた歪みが、乱れとして表れたものだと考えている。彼岸の崩壊は近い」


 束の間、沈黙が降りた。


 ハクトは視線をバルコニーの向こうに投げかける。

 陽が沈んだ街は、大小の灯りに彩られていた。あれらの照明もすべてエッグのエネルギーを利用したものだ。


 エッグの消費が進み、ワーレンからエッグが失われ続ければ、抑えを失ったバニーがワーレンの外へ溢れ出て街を蹂躙じゅうりんするかも知れない。

 だがそれは彼らが面している危機の、まだほんの表層に過ぎなかった。


 ミラが低く呻いて口を開いた。

「……あなたの言うことが本当だとして……ならばすでに取り返しがつかない状況になっているということになりませんか。この世界の崩壊は自然の理ということでしょう」

「いや……」

 リッカはグラスを置いて鋭い目を向けた。

「それは違うぞ、ミラ。取り返しは、つく。そもそも人の文明とは、自然のあるがままにしていては成り立たないものなのだ。例えば強固な家を建造し、修繕し、補強し、また建造する――物質の散逸という自然の理を押しとどめながら人は文明を作り上げてきた。それこそが人の営みだと言ってもいい。そしてその営みは、人が人として存在する限り、続く」

 と、彼女はワインをグラスに注ぎ入れた。


「人の営みをもって崩壊を止めるのだ」


 確信に満ちたリッカの口調に、ハクトは怪訝な目を向けた。

「……俺には見当もつかない話だけど……師匠はどうすればいいのか分かっているのか?」

「無論だ。今回が初めてではないからな」

「え……?」


 リッカが口の端に笑みを浮かべる。

「覚えているか? エヴァ――エヴァンジェリン・フリントのこと」

「エヴァンジェリン……」


 リッカの拠点で見た、写真立てが脳裏に浮かぶ。

 写真にはリッカと一緒に、ゆるく波打った茶髪の少女が写っていた。

「確か師匠の、師匠……」


「うむ。わたしの師エヴァはかつて、実際に彼岸の崩壊を押しとどめてみせた。そうすることでこの世を、人の世界を守ったのだ。彼女の弟子だったわたしはその様子を間近で見ていた。その時の師と同じことをするだけだ」

 ハクトはグラスをワインを揺らしているリッカの横顔を黙って見つめている。

「そのエヴァンジェリンという方も、あなた達と同じワーバニーなのですか?」


「そうだ。そのエヴァが彼岸を鎮めてから長い年月が経った。街の発展に伴ってエッグの消費量が増えたことも一因だろう。今再び鎮めの時が迫っている……そんなおりにハクトと出会えたのは、ある種のさだめのようにも感じているよ」

 そう言って彼女がワイングラスをあおった所で、キッチンの方からサブリナが戻って来た。


「は~い、おまちどうっす~! ローストビーフの赤ワインソースがけと、追加のおまかせ一品目! 季節野菜のクリームパスタっす~」

 大皿に盛られた具沢山の彩り豊かなパスタは、いい香りの湯気を立てている。


 それを見てミラが小さく歓声をあげた。

「……凄いですね、ここにある食材だけで随分と手の込んだひと皿になったものです」

「ぎゃふふ、もっと褒めて褒めて、うちは褒められて増長する子! 〈サブリナズ・ケータリング・アンド・デリバリーサービス〉への先行投資は随時受付中っすよ!」

「なるほど……」

「あまり真面目に受け取るな、ミラ。投資した資金を持ち逃げされるのがオチだぞ」

「もー、姫ったら。そういうリスクをあらかじめ折り込んでおくのが投資ってもんすよ?」

「ただの詐欺行為だろうに。リスクに折り込ますな、そんなもの」


 三人の会話が耳に入って来るが、ハクトは依然としてリッカの顔から目を離せないでいる。


 何だろう?

 ハクトは背筋の辺りに嫌な汗を感じていた。


 自分は今、何を聞いた? 何に引っかかっている?


 ハクトの知るもう一人のワーバニー、エヴァンジェリン。

 かつて彼岸を鎮め、世界の崩壊を救ったのが彼女だという。


 リッカはそのエヴァンジェリンと同じことをするのだと言った。

 ハクトは弟子として、その仕事を手伝う。

 

 そして――。


「……!」

 そこまで考えて、ハクトは唐突に戦慄した。


 そうだ。

 エヴァンジェリンは、


 まさか。

 まさかリッカは――。


 彼は思わず口を開いたが、上手く言葉が出て来なかった。

 リッカに尋ねてはっきりさせたい思いと、その答えを聞きたくない思いとがせめぎ合う。

 行き先を失った疑念が、ハクトの中でぐるぐると渦を巻いた。


 ――彼岸を鎮めた後、リッカはどうなる?



つづく

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