第29話 地震

 ミラ邸の居間にあるソファで、ハクトは目を覚ました。

 身体にはシーツがかけられている。


 昨夜のバルコニーは、なぜかそのまま宴の様相となった。

 あの後テーブルに置かれた料理の品数は増え、さらに新しいワインの栓が抜かれた。


 彼岸を鎮めた後、リッカはどうなるのか――。

 結局、ハクトはそのことを彼女に対して切り出せないまま眠ってしまい、朝を迎えたらしい。


 昨日は一日、色々なことがあった。

 身体能力が高いワーバニーとはいえ、精神と肉体が休息を求めていたのだろう。


 身を起こすと、正面のソファでは同じくシーツに包まったサブリナが寝息を立てている。

 そういえば彼女はいつの間にかハクト達と一緒に飲み食いしていた。

 そのまま帰らずここに泊まったようだ。このシェフ兼ウェイトレスは〈カルバノグ〉に戻らなくて大丈夫だったのだろうか。


 時刻は日が昇る前で、辺りはまだ薄暗い。

 居間からバルコニーを覗くと、手摺にもたれている人影が見えた。

「……師匠」

 フードを下ろし、朝の風に長い耳を立ててくつろいでいるようだ。


 ハクトもフードを下ろしながら、はきだし窓を開けてバルコニーに出た。朝の冷えた身体が寝起きの火照った身体に心地よい。


「……起きたのか。おはよう」

 リッカが彼を振り返った。手にはワインの入ったグラスがある。

「おはよう……って呑んでるし。寝てないのか、師匠」


「いや、さっきまで寝ていたよ。ワーバニーのわたし達が目を覚ましたということは、何か予兆を感覚で捉えたのかも知れないな……」

 と、彼女は気になる言い方をする。

「予兆って……何の?」

 そう言うとリッカは軽く耳を揺らした。

「それが分かれば言っている」


 バルコニーは昨夜の宴のままだ。

 ハクトはデッキチェアに腰を下ろした。

「それにしてもミラは凄まじい健啖家なのだな」

「ああ、うん……昔からよく食べる人なんだよ」


 酒を呑み尽くそうとしているのがリッカなら、料理を食べ尽くそうとしているのはミラだった。

 所作がもの静かなので大食いには見えないが、その細い肢体のどこに収まっているか不思議になるほど大量の食事が彼女の中へと消えたのだった。

 料理を用意したサブリナは大喜びで、ミラは早くも彼女から“姫”の称号を得ている。


「駆け出しの頃、食は身体作りの基本だってミラに教わったけど……俺には真似できなかったな」

 ワーバニーの動きに後れを取らないほど人間離れしたギルドマスターの戦闘能力は、その人間離れした食欲によって培われているのかも知れない。


「部屋はそのままで結構ですと言い残して寝室に行ったぞ。あれだけ食べてすぐ眠れるとは、驚きを通り越して呆れるな」

「まあ、起き抜けにワインを飲み始めている師匠を見たさっきの俺も同じような感想をもったよ」

 ハクトはグラスを傾けているリッカを見上げて言った。


「……そういえば、お前に言っておかなくてはならないことがある」

 不意にリッカがそう言ったので、ハクトは思わずどきりとする。

 例の“鎮め”のことだろうか。


 だが彼女は違うことを口にした。

「昨日クロードが、わたし達の目の前から姿を消したのを見ただろう?」

「ああ、自力でリープのような技を編み出して、それを使ったように見えた」

 エッグを食べてバニーへと変異しかけたクロードは、誰に教わることもなくテリトリーを展開してみせたのだ。


 リッカは小さく首を振った。

「あれは、リープではない」


「それは……技として未完成だったってこと?」

「そういう意味ではない。そもそもリープとは、テリトリー内の目に見える場所へ跳ぶ技を指すのだ。見えない場所へは跳ぶことはできない」


 ハクトは実際にリープした時のことを思い起こした。

 確かに、行く先を見定めて跳んでいる。当然と言えば当然だ。


「リープを使っても、一瞬で俺達の前から姿を消すことなんてできない……? いやでも待ってくれ。ネザー・ワーレンから師匠のセーフハウスに戻る時、あんたは俺を連れてリープしたよな。見えない場所へ跳んでいるじゃないか」


 そう言うとリッカはうなずいた。

「確かにわたしはあの時、リープを応用してテリトリーからテリトリーへ一瞬で移動することができると伝えた。実際その通りなのだが、技としては別物なのだ――“ダイヴ”、と呼んでいる」


「“ダイヴ”……」


「テリトリーからテリトリーへ移動する――それはつまりテリトリーから一度彼岸に渡り、別のテリトリーを通じて戻って来ているということだ」

「……移動している間、完全にあの世に行ってるって言うのか……?」

「前後の状況を考えれば、クロードはそのダイヴを使ってみせたのだろう。無論、技の仕組みを知らないままにな」


 理解はできる。だがハクトはまだ腑に落ちず、首を傾げた。

「いや、だとしても……一体どこのテリトリーに移動したんだ? あいつがテリトリーを展開したのはあの場所が初めてのはずだ」


「テリトリーは彼岸と繋がっている。理屈上は、彼岸側からマークしてもテリトリーを展開することが可能だ」

「彼岸側から、マーク……」

「ただし彼岸とこちら側とでは時空が異なるゆえ、こちら側と同じようにマークできるとは限らない。実践するのはかなり困難だろうな」

「……もしマークすることができなかったら?」


「当然、彼岸から戻って来ることはできない」

「……」

 ハクトは喉を鳴らした。

 あの世へ行ったきり、戻って来られなくなる。

 クロードは――もうクロードなのかどうかは分からないが――すでにこの世にいないのかも知れない。


「いいか、ハクト。ダイヴは有用だが危険な技だ。わたしとてネザー・ワーレンからセーフハウスへ戻る時の一方通行でしか使っていない。クリティカルヒットとも関係がない」

 リッカの赤い目がハクトの顔を覗き込んでいる。

「それでも今説明したのは、お前もいずれダイヴを使う時が来ると考えているゆえだ。当分教えてやれないと前に言ったが、教えても問題ないまでにお前がワーバニーの動きに慣れた頃には、教えるまでもなく、お前は自分でダイヴの感覚を掴んでいるはずだ。わたしと同じように、決められた場所への移動手段として繰り返し使うことで、その感覚を確かなものにしていくのがいいだろう」


「……待ってくれ。移動手段としてって……じゃあダイヴは、本来は移動手段じゃないのか?」

「うむ、それは――」


 リッカが言葉を続けようとしたその時。

 明るくなってきた空の向こうで、無数の鳥達が鳴き声を挙げながら飛び立った。


 直後、ずしん、と世界が縦に揺れた。


「――!」

 また地震だ。


 しかし今回の揺れはそれだけでは治まらなかった。

 縦揺れが横揺れになり、高い階層をもつギルドの建物はうねるように地面の揺れを伝えている。

 バルコニーの上をテーブルやデッキチェアが滑っていく。グラスや瓶が床に落ちて割れた。居間の方でも何かが倒れ、割れるような音がいくつも聞こえる。


 建物が鳴っているのか、地面が鳴っているのか、轟々と低い音が耳に届く。


 バルコニーの床に身を伏せたハクトが叫ぶ。

「……ど、どうして今になってこんなでかい地震が……! マンティコアは倒したはずなのに!」

 手摺に掴まったリッカも叫び返した。

「違う、地震とマンティコアは関係ない!」

「え……!」


「彼岸だ! これまでも彼岸が崩壊へと近付くたびに地面が揺れていた。地震は崩壊の印なのだ!」



つづく

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