第十一話 足掻き

 三月二十二日 火曜日


 仕事が休みだったたかは昼前に起きて、喫茶店Lupinusルピナスへ訪れた。昼食を兼ねて、一つ涼子りょうこに確認したいことがあったのだ。カウベルが鳴り、姉のかなみがいらっしゃいませ、といつもの挨拶をする。言ってから貴だと気付いたようだった。

「久しぶりじゃないか、貴」

 店に出てたのは、かなみとかなみの夫、貴の義兄である哲也てつやだった。

「あーごめんごめん。あれ?涼子は?」

 哲也が店に出ているということは、今この時点で涼子が店にいないことが判る。両替に行ったのか、何か別の用事で店を出ているのか。

「涼子ちゃんは具合悪くてお休み。だから僕がこうして出張ってるって訳さ」

 客の人数はそこそこだった。近くには高校や専門学校があるため、休日の昼間はさして忙しくはないらしいが、それでもかなみ一人で調理をしているのでかなみは忙しそうに動いていた。

「休み?……そっか、まぁ好都合かな」

 それも予想の範疇ではあった。

「好都合?」

 哲也が首をかしげる。エプロン姿が妙に似合っている。哲也は背が高く、眼鏡が良く似合う理知的なイメージを持っているし、仕事もシステムエンジニアという、貴にとっては『なんだか頭の良さそうな仕事』としか想像できない仕事をしている。事実頭は良いのだろう。学生時代、レポートや宿題など、何度哲也に泣きついて教えてもらったか、数え上げればきりがないほどだ。

 そんな哲也も淡い暖色系のエプロンを身に着けるとほんわかと優しいイメージになる。

「哲っくんさ、晩飯って涼子と一緒に食うとか言ってたじゃん」

「そうだね。僕はいつも帰りが遅いから、泣く泣くしょっぱい涙をおかずにしながら一人で白飯を食べてるけどね」

 冗談を言いながら哲也は笑う。貴もそれに付き合ってくくく、と笑いを漏らした。理知的な見た目ではあるものの、そこに冷たさは一切なく、男から見ても本当にムードメーカーであり、優しく、ユーモアセンスに溢れていている男だ。貴はこの義兄が学生時代からずっと好きだった。

「昨日はどうしてたか判る?」

「僕は昨日も遅かったからね。かなみに訊いてみた方がいいね」

 そう言って、哲也はできあがったばかりのスパゲッティを客席に運んでいるかなみに目を向けた。

「じゃ後で聞いてみるとしますか」

「どうかしたの?涼子ちゃん」

 哲也が慎重に訊いてくるのが判った。貴は少しだけ苦笑すると、哲也に訳を話した。

「んー、何か最近ちゃんと食ってないんじゃないかって思ってさ。じゃおれ、ミートソースとブルマンでよろしくね、哲っくん」

 メニューも見ずに、煙草をポケットから取り出すと、貴は注文をしてから煙草に火を点けた。

「よぉし判った。じゃあ少し待ってて」

「え、哲っくんが作んの?」

 煙草を灰皿に置いて貴は言う。以前哲也にオムライスを頼んだことがあったのだが、チキンライスに卵焼きがどん、と乗っているものは恐らくオムライスとは呼ばないだろう。と、思う。

「大丈夫大丈夫。僕だって一人暮らしは長かったんだからね」

 腕捲りをしてやる気満々といった雰囲気だが、貴としてはかなみの料理を頂きたいところだ。

「でも哲っくんの味覚と万人の味覚が同じとは限らないんではなかろうか……」

 あの卵焼きチキンライスも味は悪くはなかったが、喫茶店として客に出せるようなものでもないだろう。貴も男の料理の域を出ない、と言うよりも切って加熱するだけのことしかできないので随分と自分のことを棚に上げてはいるが、自分一人が食べる分には何ら問題はない。その証拠に、今調理をしているのはかなみ一人だ。

 哲也は洗い物をしているだけで、恐らくそれに飽き飽きしているのだ。

「でもかなみは僕が作ったもの、美味しいって言って食べてくれるよ」

 哲也は自慢気に言うが、それなら涼子だって同じ反応はしてくれる。

「そりゃ愛のなせるワザなのでは」

「ま、見てなって」

 心配をする貴を他所に、嬉しそうに哲也は言って、寸胴に水を入れるとそれを火にかける。貴は煙草をもみ消すと苦笑した。



 客の姿が少なくなり、かなみの手が空くまで、貴は店に置いてもらっている、以前自分が趣味で書いた小説を読み返して時間を潰した。哲也のスパゲッティは思ったよりも美味かったが、ミートソース自体はかなみが作ったものを使っているし、パスタを茹でる鍋の湯加減、塩加減はかなみが見ていたし、ゆで時間を知らせるタイマーもしっかりかけていたのだ。失敗のしようがない、と言えばない。

「ふぅ、やっと落ち着いたわ。哲っくんありがとね」

「お役に立てたようで良かったよ。で、貴が話があるみたいだよ」

 言って哲也はかなみが普段使いしているマグカップにコーヒーを注いで手渡した。

「話?」

 哲也からマグカップを受け取ってかなみは言う。

「あぁ、涼子の飯のことなんだけどさ」

 具合が悪くて休んでいるのは半分は嘘で、半分は本当だろう。昨日のことでショックを受けているのは間違いない。

「ごはん?」

「うん」

「最近は家で食べるからって、一緒には食べてないから良くは判らないけど」

「やっぱな……」

 貴は胸ポケットから写真を出した。

「これ、付き合い始めたばっかの頃の写真なんだけどさ、あいつ、痩せてない?」

 そう言って貴はその約半年前の写真をカウンターの向こうにいるかなみと哲也に見せた。

「そう言われてみればそうね……。ちゃんと食べてないのかしら」

 そのはずだ。昨晩嘔吐した時の吐瀉物は胃液だけだった。苦しかったに違いない。あの時間で夜に食べたものが全て消化されたとは考えられない。もしかしたら昼食もろくに摂れていないのではないだろうか。

「どうかしたの?涼子」

 かなみが怪訝な表情で訊ねてくる。流石にかなみにはすべては話せない。頭の中で整理しつつ言葉を選ぶ。

「あぁ、昨日さ、体調悪かったらしくて戻したんだよ。でも吐くもんがなかったっぽくて胃液戻してたからさ。おかしいと思って」

 苦しそうに咽かえった涼子の姿を思い出して貴は言う。焦燥感と不安に満ちた涼子の表情までもが鮮明に記憶に残っている。

「この写真と今の涼子ちゃんを見比べちゃうとたまたま、なんてことはなさそうだね……」

 哲也も写真を見てそう言った。

「昼飯はどうしてる?」

「少しだけど食べてるわよ。本当にちょっとだけどね」

 元々涼子は小食だが、それを知っているかなみが少し、と言うのだから本当に少量なのだろう。涼子は朝食を取らない。すると、日に一食でその量も本当に僅かで涼子は生活をしていることになる。

「……」

 いくら心配しても、気遣っても、貴一人ではどうにもならないことが後から後から出てくる。貴がフォローできていることなどほんの僅かなことでしかない。

「ちと電話貸して」

 貴はカウンターの中へ入ると、電話をかけ始めた。

『はい、舞川まいかわです』

「あ、水沢です。ご無沙汰してます」

 出たのは涼子の父親、舞川駿はやおだった。予想外の声が出たので少々驚いたが、確か涼子の父も土曜日曜も働いていて、平日が休みなのだと聞いたことがあった。駿とはまだきちんと話したことはなく、挨拶を交わすくらいだ。

 涼子を不幸のどん底に追いやった男だと知っていても、涼子の双子の姉、晶子しょうこや、母親と同じく貴を責めることなど一切しなかった。逆に感謝している、と言われたこともあった。理解のある父親なのだろう。涼子や晶子のフォローがあったとしても、恐らく親から見れば、自分が不甲斐ないから涼子があんな目に遭ったのだと思うのが当たり前だ。親になれる年ではないし、早いうちに両親を亡くしてしまった貴では推測の域を出ない考えでしかないのだが。

 恐らくは娘が沈んでいるときに支えてくれた、という本当に都合の良い一面でしか見られていない。いつか、全ての貴の罪を話す日がくるだろうか。そしてその時、涼子の両親はそんな貴をどう思うのだろうか。

『おぉ、貴君か。涼子?起きてるかなぁ……。今日は具合悪いって、休んでるから』

「あ、いえ、晶子さんお願いしたいんですが」

 晶子は休みが不定期だが、火曜日は大体仕事場が定休日で休んでいると聞いたことがあった。

『晶子?顔は同じでも性格はまったく違うぞ。涼子と違って暴れん坊で手がつけられん』

 冗談めかして駿は言うと、ちょっと待っててな、と言って晶子を呼んだ。

『なに?どしたの貴君』

 貴は先ほどかなみや哲也に言ったことと同じ、涼子の食事のことについて晶子に話した。

『うちでは食べてないよ。お店で食べてるからって……。それ、嘘だったのね』

 やはり貴の思った通りだった。

「うん、だからさ晶子ちゃんから何とか言ってくれないかな。多分おれが言うと逆効果になっちゃうかもしれないから」

 貴から言ってしまえばまた涼子に圧力をかけてしまうことになりかねない。昨日のことでショックを受けているのならば尚のことだ。

『それはいいけど……。何?貴君の言うこと聞かないの?あの子』

「ほら、あれで結構強情じゃない」

 一応そうフォローはしておく。状況が状況だけに晶子も叱るような言い方はしないだろうという期待も込めて。

『そうね。うん、かしこまりーっ。何とかしてみるわ』

 晶子の声が明るいことに気遣いを感じてしまう。

「ごめん、晶子ちゃんにまで」

『何言ってるの!あたしお姉ちゃんなんだからね!』

 ずっと晶子との間で燻り続けていた何かが解消したのだ、と涼子は嬉しそうに言っていた。そんな晶子からの言葉であれば或いは、と貴は思う。

「ははっ、そうだね。じゃあよろしく頼むよ、お姉ちゃん」

「うん、かしこまりぃっ」

 通話を終えると、貴は嘆息した。

「何だかちょいちょい心配の種が尽きないわねぇあんた達……」

 苦笑してかなみも言う。

「んー、女と付き合うって、色々大変だなぁって実感してるよ」

 本当に全てが駄目になってしまうことなど無いはずだ。あったとしても、まだ時間はあるはずだ。そんなにすぐに全てが終わってしまうほどには、貴はまだ苦しんでいない。だからそう思える。

「貴って良くがんばってるね」

「ま、頑張ってるかどうかは判んないけどさ、苦戦してんなー、とは思うよ」

 貴も苦笑を返す。実際に独りでいると良くないことばかり考えてしまい、もう駄目かもしれない、と何度も考えた。

 しかし不思議なことに、誰かにそれを話してしまうと、そんな自分自身に反発したくなってくる。

 生来の万年反抗期なのだろうか、とも思ってしまうが、今に限ってそれは良いことだと貴は無理矢理にでも納得しようとした。その場限りの気持ちだとしても、もう駄目だと思うよりはよほどましだ。きっと今の状況ならば終わらせることは容易だろう。

 確実に、大きな傷を二人の心に残すことにはなるが、終わらせてしまえば相手を想うこともなくなる。自分だけがその傷に耐えれば良いだけだ。そしてその傷はいつか時が癒してくれる。

 簡単にそう思うことはできないけれど、どんなに苦しくて、辛くても、いつかそれらは忘れて、ただの過去になってしまう。

 だからこそ、今は足掻けるだけ足掻いてみたい。貴の中の涼子への気持ちが本物である限りは。涼子の中にある貴を思う気持ちが消えてしまうまでは。

 傷付いて、傷付けられて、お互いに傷付け合ってボロボロになってしまっても、それだけでは終わらせることなどできはしない。

 確かに重大な問題ではあるが、ただしりょう大輔だいすけもさまざまな問題を抱えている。自分達二人だけが苦しい訳ではないのだ。

「応援してるよ。涼子ちゃんが僕の妹になるようにね」

 哲也が笑いながらさらりととんでもないことを言う。長い間貴の母親代わりだったかなみをずっと支えてきた、一人の女をずっと今も護り続けている強い男の笑顔だった。今の貴ではとてもではないが適わない。

「まぁ、また泣き言言いたくなったらくるよ。そんじゃご馳走さん」

「泣き言だけじゃなくていい知らせも持ってきなさいよ」

 かなみも笑顔になって言った。貴が学生の頃からずっと心配してくれていた二人だ。何かあれば頼ることはできる。一人で塞いで結論を急ぐことはもう二度としない。この二人や、かけがえのない親友達はきっとまた自分を支えてくれる。

「あと、僕が作った料理も食べにきてよね」

「あぁ、でも哲っくんはオムライスがちゃんと作れるようになったらねー」

 貴は席を立つとカラカラと笑って手を振った。驚くほど心が軽くなっていた。



 Lupinusルピナスからの帰り道、歩道橋を渡っている途中に、歩道を歩く忠と香奈を見かけた。声をかけようかとも思ったが、そのまま歩道橋の上から二人が見えなくなるまで見送った。

 あれから二人は別れることもなくうまくいっているようだった。これ以上貴が二人の間に踏み込む必要性はない。ここから先はまた二人だけの問題だ。二人は二人で強くなって行くのだろう。

 貴は携帯灰皿を取り出すと、煙草を吸い始め、しばらく歩道橋の欄干に肘をついて道行く人々を見ていた。それは意外にも楽しかった。

 複雑な事情を抱えているのは自分達だけではない、と思えるのは安心できたし、幸せそうな二人を見かければ自分達もいつかはそうなりたいと思えた。何より自分達の抱えている問題が、小さく感じられるようになった。

 どのくらいそうしていただろう。五本めの煙草の火を消すと、陽はもう暮れかけていた。

「まだまだっ」

 自分の両頬をぱんぱん、と二度打つと貴は歩き出した。

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