挿話-2-
片道切符
三月
高校の三年間で特に人生の目標も見つけられなかった私は、大学受験をするでもなく、無意味に専門学校へ行くでもなく、就職する道を選んだ。
人生の目標なんてご大層なものは良く判らないけれど、働きながらでも、生きて行くための道標や、遣り甲斐のあることなどは見つけられると思ったからだ。
私の双子の姉も、親友たちも、みんな就職を選んだ。
私が就職を決めたのは都心にある小さな会社で、雑居ビルの中に事務所を構える、建具資材の商社の事務職だった。 仕事の内容はまだ明確には判らない。ただ、その会社へ勤めるために、一人暮らしを始めようと決めた。
恐らく実家から会社までは二時間弱ほどで、充分に毎日の通勤でも耐えられる時間と距離だと思った。
だからこそ、私はあえて住み慣れた街を離ようと決めた。
「じゃあ
「うん」
駅の改札口にまで、双子の姉、
けれどそれはきっと、どこかで自暴自棄になっている私を、心優しい友人たちに見透かされていたのだろう。
「長い休みの時はちゃんと帰ってきなさいよね」
「そのときはちゃんと夕香も休み、合わせてくれるんでしょうね」
「もっちろんよ」
そうは言ったけれど、夕香の就職先は週末が休みの会社ではなかった。きっと新入社員に自由に休みを取らせてくれるほど甘いものではないだろうことは、夕香自身も判って言っているのだろう。
私がこの街を離れようと思った一つの理由でもあった。
大切な親友たちと会えなくなってしまうのならば、私がここに残る意味はあまりない。姉は家族だから何かあれば顔を合わせるだろうけれど、何より、みんなきっと状況に狎れていってしまう。
「あ、いたじゃん!涼子ちゃん!」
「?」
私の名を呼ぶ男性の声に振り返った。夕香の恋人の
「あれ、来れないとか言ってなかった?」
夕香が言って、身長一八四センチの長身を見上げた。
「や、色々面倒をぶっ飛ばしてきたわ」
諒君の言葉にどきり、とする。諒君は何とも言いがたい表情で右拳を見せると、あの野郎、と小さく呟いた。少しだけ、赤く腫れているようにも見える。
迂闊だった。拳を見せてしまった諒君も、それを見てしまった私も。
「……」
「ありがとうね、二人とも」
夕香が何かを言いかけてやめた。私はそれに気付かない振りをして諒君と忠君に笑顔を向ける。少し失敗してしまったかもしれない。
「あの、さ」
「もう時間、だから」
忠君が口を開いたところで、私はわざと彼の言葉を遮る。
「あ、うん。元気で」
彼の言いたいことは、判った。けれど私の気持ちを悟ってか、それ以上言葉を続けることなく忠君は笑顔になった。
諒君に次いで背の高い、一七六センチを見上げる。きっと彼の笑顔も私と同様に失敗だったことに気が付いた。
「みんなも」
「ま、近ぇし、またすぐ会えんだろ」
「そうね」
諒君と夕香の言葉に私も小さく頷く。そう言わなければ、全てが終わってしまうような気がしていたのは、きっとみんな同じ気持ちだったのだ。何一つ、終りになどしたくはなかった。
(このまま、時間なんて止まっちゃえばいいのに)
最後の夏休み、私自身の言葉が脳裏をよぎる。目先の感情に流されるだけの、ばかな、何も考えていない子供染みた言葉だ。このまま少しも成長せずに、子供のままでなどいられる訳がないと気付いたばかりなのに。
それでも、私の心は完全に凍てついていた訳ではなかったようだった。
この暖かな仲間たちの中から、私が、私だけがこの街からいなくなる。片道切符を手に、私は一度だけ手を振って、みんなに背を向けた。
「とりあえずゴールデンウィークね!」
「かしこまり!」
半分だけ振り向いて、私は大きな声でそう言った。でなければ涙声がばれてしまうから。
私がこの街からいなくなっても、みんな働いて、休みには顔を合わせて、笑顔になれる。
そこに私がいなくても駅へのバスは十分おきに回ってくる。
そこに私がいなくても、みんなの時間は平等に流れて行く。
みんなで集まれば高校時代の思い出の中の私も、時には話題に上がるかもしれない。
そんなことを考えながら、私は十八年間生きてきた中で、一番好きになった人への気持ちを断ち切ろうと歩幅を大きくして歩き出した。
二時間弱の道のりでは特急など使わない。通常の電車だ。映画や物語のような旅立ちの雰囲気は何一つない。
それでも私が手にしているのは片道切符だ。
高校を卒業して、就職を決めた。自立もしなければならない。守られていただけの時間にはもう戻れない。
――好きだった。
けれど、どうしようもなく、どうにもならなくなってしまった。あの人への気持ちも消さなければならない。恋に恋していただけだと無理矢理にでも納得しなければならない。いつまでも少女の淡い幻想のような恋にしがみついて生きて行ける訳はないのだから。
もう誰もあの日には、二度と戻れはしないのだから。
車窓に流れる景色は、見慣れた景色から、徐々に見慣れない景色へと変わって行く。都境に流れる一級河川の河川敷には大きな橋が架かっている。線路の鉄橋から少し離れた位置に国道が併走していて、電車よりもやや遅い速度で車が走っていた。歩道には一人、欄干に肘を置いて、電車を見ている人。
小さくて良くは見えない。
けれど、判ってしまった。
彼の左頬は腫れているかもしれない。私からはそれが確認できないように、彼からも絶対に私を見つけることは不可能な距離だ。それでも彼は、私がここを通りそうな時間に、そこにいてくれた。
たった独りきりで、彼なりのやり方で、私を見送ってくれていた。
駅のホームには見送りには来なかった。私も来ないだろうことは判っていた。
けれど、こうして前後何分かの電車のどれかに、きっと私が乗っているのだと判って、その場所で見送っている。それを間違いなく私が見つけると判った上で。
誰よりも不器用で、誰よりも優しいのは出会った頃から少しも変わらない。
どうにもならなかったけれど、どうしようもできなかったけれど、確かにそこにあったシンパシー。
気持ちを通じ合わせたのはきっと、嘘でも無駄でもなかった。
涙が溢れた。
窓を開けて、何もかもかなぐり捨てて、好きだと叫べたらどれだけ良かっただろう。
ずっと、長い間、それができなかったから、今、私は片道切符を手にしている。
だから、今回もしなかった。
きっと二度はない。
私は彼に罪をなすりつけたまま、逃げ出した。彼に想いを伝えることは永劫叶わない。
それでも、彼への想いを断ち切ることはできそうもなく、そして、もう戻ることはできない片道切符の如く、涙は止まることを知らないかのように流れ落ちるばかりだった。
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