終章

 九月一日 火曜日


 あのクラス会から三年弱が過ぎた。

 たかはあれから半年と経たずにアシスタントディレクターを辞め、新たに整備工場の作業員として働いている。自分の時間と、涼子りょうことの時間。お互いがお互いでいられるための時間をより大切にできるようにと。一方の涼子は貴の実家である喫茶店でアルバイトをしている。いつか自分のお店を持つことが新しい夢になった。


 三年前、貴とまとまったと親友達に報告した時、大いに冷やかされたが、それ以上にみんなが喜んでくれた。泣きたくなる程嬉しかったのは久しぶりだった。

 もちろん三年の間には紆余曲折もあった。何事も簡単にことは運ばない。お互いに傷つけ、傷付き、本当に別れの危機が訪れたこともあった。それでもこうして、二人でいることができる。


 涼子はこの夏、二四歳になる。貴の家の喫茶店で働く毎日は充実していた。

「ありがとうございましたぁ」

 午後の一番忙しい時間帯を切り抜けて、ふぅ、と涼子は一息ついた。もはや何の憂いもない笑顔を自覚できる。

 白いダンガリーシャツにロングフレアスカート。それにエプロン姿はお気に入りだ。窮屈な会社の制服などよりもずっと気持ちが良い。

 今日は涼子の誕生日で、店が閉まり次第貴と出掛けることになっている。

「今日はご機嫌ねぇ、涼子」

 カウンターの中で洗い物をしている手を止めて、かなみが涼子に声をかけた。

「うんっ」

 涼子は笑顔で頷いた。かなみとはもう姉妹同然の付き合いだ。気が早いのか、かなみは「どうせもう私の妹になるんだしね」と言い張っている。

「貴と出掛けるんでしょ?そう言えば幾つになったんだっけ?」

 涼子と同じ年の弟を持つ姉の言葉とは思えない。これはわざとで、もちろんかなみの諧謔だ。

「二四歳」

「二四?あたしはてっきり一四歳の誕生日かと思っちゃったわ」

 冗談めかしてかなみが笑った。

 昔から童顔、童顔と言われ続けてきたが、冗談とは言え二四歳にもなって、まさか一四歳と言われるとは思ってもみなかった。かなみと涼子が知り合ってからはもう十年近くになるが、そんなに子供じみた顔だろうか、とほんの少しだけ憤慨する。

「ひっどーい、そんなに子供に見えます?私って」

 判っていながらつい言ってしまう。流石にローティーンには見られるというのは冗談だと信じたいが、とはいえ年相応に見られることはまずない。

「それだけ可愛いってことよ。今日はもう上がっていいよ。二人っきりの時間は長い方がいいでしょ?貴に言っとくから、早く着替えておいで」

「え?ホントですか?ありがとうございます」

 涼子は笑顔で答えてエプロンをはずした。貴とは初めてキスを交わしたあの橋の上で会うことになっている。

 約束の時間まで後一時間半近くあったが、涼子は先に待ち合わせ場所に行って貴を待とうと思った。


 十六時三〇分、涼子が約束の橋の上にきた時には、貴がもうすでに待っていた。

「あ、待ってたの?もしかして」

 涼子は貴に近付きながら言った。貴の隣まできて、トンッ、と両足で止まる。

 待ち合わせは十七時ということになっていたはずなのに。

「あぁ、うん。別に何てことはないんだけどさ……」

 緊張しているのか、貴の声は少し硬かった。

「じゃ、三〇分お喋りしよう」

 涼子はクルリ、と振り返って欄干に背を預けた。貴も涼子に倣う。

「えへっ、ここで初めてキスしたんだよね、私達。ね、たか」

 視界の隅で小さく頷くのが見えた。貴はまだあの時のことに罪悪感を感じているのかもしれない。だから、涼子は態々こうして知らしめる。あの時のことがあったからこそ、今も二人で一緒にいられるのだと。いつかそんな罪悪感も薄れて、笑顔で話せる時が来ると信じて。

「ねぇ、聴いてる?私の話」

 涼子はわざとむくれて貴に言った。

「ん?あぁ、聴いてるよ」

 なんだか今日の貴はおかしい。きちんと眠れていないのだろうか。体調でも悪いのだろうか。

「どしたの?たか」

 涼子は貴の顔を覗き込んで言った。顔色は悪くない。以前のような憔悴しきった顔でも、もちろんない。

「涼子」

 涼子は呼ばれるがまま貴の目を見て、きちんと向き直り、小首をかしげた。

 貴は一つ深呼吸をすると、意を決したかのようにセカンドバッグの中に入れていた左手を出した。

「あ、あのさ、これ……」

 包装して、リボンが掛けてある小さな箱がその手にはあった。誕生日プレゼントだ。多少なりとも期待はしていたけれど、これを渡すために緊張していたのか、と納得しかけてやはり疑問に思う。去年誕生日プレゼントを貰った時、貴はこんなに緊張していなかったように思ったのだ。

「わぁ!ありがとぉ、開けてもいい?」

「あ、あぁ」

 空を振り仰いで、貴は答えた。

 はしたないとは思いつつも、嬉しさを押さえきれずに、涼子はパッパッとリボンをほどき箱を開けた。

 中には紺色の小箱が入っていて、更にその中には……。

「え、これって……?」

 リングが一つ。

 プラチナリング。

 誕生日プレゼントのはずのリングの、もう一つの意味を悟り、涼子は半ば唖然として貴の顔を見た。

「お前とずっと一緒にいたい。……涼子」

 今まで考えなかった訳ではない。だけれど、考えないようにしていた。

 この真実をきちんと受け止めなければならないその時は、どんな逃げ道も言い訳も用意されてはいない。

 だから、心のどこかでまだもう少し時間が必要なのだ、と思うようにしていた。大きな間違いを犯してしまった二人が、今度こそは間違えないように、と慎重になり過ぎてしまっていたような気もしてはいた。そして、涼子が待つばかりではいけないことだとも考えてはいた。

 それでも、今日、この日に貴が伝えてくれた言葉は、涼子がずっと待ち続け、一番に欲していた言葉だった。

 一度目を閉じ、そしてゆっくりと目を開けて、貴の目を見る。

「……はい」

 涼子は、はにかみながら貴にそっと、大切に答えた。今の涼子に屈託の理由は何一つ無い。

 泣きたくないと思った。しかしそんな涼子の意思に反して涙が溢れそうになる。それでも、嬉しい涙なら貴は哀しい思いはしない。だから、この涙はこぼれても良いと思った。

 そんなことを考えた一瞬の後、貴はそっと涼子を抱き締めてくれた。優しく、包み込む様に。

 貴の精一杯の気持ちに、これからも応えて行きたい。

 あの日、泣いている貴から逃げ出してしまった自分こそ、決別しなければならない自分だった。そして、未だ、一人きりで咎を受ける日を待っている貴に、思い知らせてやらなければならない。

 涼子と、この自分と一緒にいることで、幸せになれるのだ、と。

 今まで、ずっと涼子を支え続けて、ずっと涼子を想い続けてくれた人に、返せるだけの愛を返したい。

 今まで愛してくれた以上に愛してあげたい。

 それが貴を幸せにしてあげられる唯一の方法だから。

 二度と同じ過ちを繰り返さないために。

 二度と離れ離れにならないために。

 二度とお互いの気持ちを裏切らないために。

 涼子と貴は抱き合っていた。

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