第六話 静かな一歩

 九月一九日 日曜日


 傘も持たず、家を出た。

 曇天の空は今の涼子りょうこの心そのものだ。あの後、全てを皆に話して、ほんの少しだけ心が軽くなったけれど、全ての憂いが消えた訳でもない。

 それから一週間が経ったが、結局何も行動を起こせなかったため、何一つ状況は変わらない。

 今度こそ涼子は事の顛末を皆に任せてしまった。知ってほしくはなかったけれど、それでも、いつかはたかに真実が伝わってしまうだろう。

 そして貴に限らず、誰かと再会した時に、知らずに傷つけられるようなこともなくなるだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、涼子はただ歩いた。


 高校時代、土曜日の夜になると、みんな時間の許す限り遅くまで残って、些細な、くだらない話を延々とした児童公園に差し掛かると、ぽつり、と雨が降ってきた。

「――」

 涼子の心をずっと支えてくれた-P.S.Y-サイの楽曲、夏霞を、弱々しくハミングする。

 ここで貴が買った五〇ccのスクーターを乗り回した。りょうが先輩から借りてきたという二五〇ccのオートバイを倒してしまって、喧嘩になって、その先輩に怒られたしりもした。あまりにも夜中まで誰も帰らなかったので、警察官に補導もされかけた。

 様々な思い出がここにはあった。ここに来れば楽しかったあの日を昨日のことのように思い出すことができる。

 しかしそれも今日で終わりにしなければならない。すべて、過去のことに、心の片隅にしまわなければならない。

 無理矢理にでも前を向いて、上を向いて、一歩一歩確実に進んで行かなければならない。

 雨脚が強くなってきたが、涼子は濡れるのも構わず、公園を後にした。


 ――このまま、時間なんて止まっちゃえばいいのに――


 子供じみた言葉だ。そんなことが本当にできたのなら、どれだけ幸せだろう。

 だけれど、誰も彼もこのままではいられない。

 恋に恋する子供時代には別れを告げたつもりでいたのに。


 その言葉を言った、河川敷の土手の上の道。大きな国道と電車の橋梁が併走して架かる場所についた頃には、雨足は弱くなっていた。

 橋梁の下にも思い出はたくさん残っている。貴や諒が隠れて煙草を吸っては夕香ゆうかに怒られたり、楽器を取り出して新曲のセッションを見せてくれたり、楽しい時間だけが詰まっている場所だ。

(もう、忘れなくちゃ)

 あれほど夕香たちの前で泣いたのに、まだ涙は溢れてくる。

(戻りたい……。あの頃に)

 叶わぬ望みだからこそ、すがってしまう。そんなことなどできる訳もないと判っているからこそ、強烈に憧れて、望んでしまう。

(ここで涙が止まるまで泣いて、涙が枯れたら全部、終わりにしよう)

 いい加減成長できない自分自身に決別しなければならない。

 あっけらかんと別れた男の名を切り捨てるように言った明日美あすみのように、強く、それでも笑顔でいられるように。

 それなのに、一番聞きたくない声なのに、その声は優しく、涼子の耳朶を揺らした。

舞川まいかわ……。探した」

 その声に体全身が震えたような気がした。

 貴の声は、何かを決しているような、そんな真の通った声だったような気がしたからかもしれない。

「どした?」

 泣いていることはもうばれてしまっている。涼子を気遣うような声を無視することもできず、涼子はゆっくりと振り返った。

水沢みずさわ君……」

 決別しようと決めた矢先なのに、何故自分の前に現れるのだろう。どうして決心を揺るがすのだろう。

 視線を上げた先にいた貴は、傘も差さず、全身ずぶ濡れの姿だった。

 そんな貴の顔を見ただけで、全ての決心が瓦解してしまいそうになる。

 何故貴が涼子を探していたのか。それは判らない。思い当たることはいくつかある。けれどそのどれもが、本来ならば捨て去るべき都合の良い解釈でしかない。

「全部、聴いた」

「!」

 その言葉に驚愕する。

 伝わると判っていたはずなのに、その事実が貴の口から発せられたことにここまで衝撃を受けるとは想像もしていなかった。

「みずっ、水沢君には、知って欲しくなかったのに!」

 もはや虚勢を張ることもできない嗚咽交じりの声で涼子は言った。事の顛末を友人たちに任せた瞬間から、こんなことが起こるなど、少し考えれば判ることだったのに。

「おれに黙ってて、ずっとおれが知らないままだったら、それで満足か?」

 そうしなければ前に進むことができない。全てを忘れて、何事もなかったかのように、強く、笑顔で振舞って生きて行く以外に道はない。今でも、誰よりも大切な貴に、涼子が穢されてしまったことを知られるくらいならば、さっさとその道を選んでしまえば良かったのだ、と涼子は激しく後悔した。

「ごめ、ごめんなさい」

 涼子は小走りに貴の胸へ飛び込んだ。抱き止めて欲しかった。全てを無かったことにもできない今、もうすがることができるのは貴しかいなかった。

 しかし貴は涼子の背にも肩にもその腕を回してはくれなかった。

「普通だったら、抱き締めてやるんだろうな、こんな時。……でも、おれはそこまで優しくもないし、また、昔と同じことしそうで、駄目だ」

「……」

 ずっと貴を苦しめ続けていたあの夏の夜の出来事。傷ついて、傷を背負って生きてきたのは涼子だけではない。

 傷の大小など関係ない。

 貴がどれだけあの行為を悔いてきたのか、今ならほんの少しだけ判る気がした。いや本当は判っていた。だけれど、自分の傷を笠に着ていただけなのかもしれない。

 貴はポケットから雨が染み込んだのだろうハンカチを出すと、そっと涼子の頬に当ててくれた。

「ずっと、悔やんでたよ。どうしてあんなことをって。何でちゃんと言いたいことも言わなきゃいけないことも言えずに、って」

 あの夏から三年が過ぎた今でも、貴はそう思ってくれていた。ひと時も相手のことを忘れなかったのは、涼子も貴も同じだった。

「……ありがと」

 貴の言葉に涼子は一度だけ首を横に振った。そして渡されたハンカチを目元に当て、涙を抑える。

「本当は、泣きたくなんて、ないのに」

 涼子は嗚咽混じりの声でそう言った。今更、終わってしまった、過ぎてしまった出来事に、いつまでも捕らわれ続けずに、もう何でもないことだ、と笑顔にならなければいけなかったのに。

「いいよ。今日くらいはさ、思いきり泣いた方がいい。おれなら、一緒にいるから」

 その貴の言葉に、涼子はどう応えて良いか判らなかった。だから、もうここまで来てしまったら、全てを話そう、と心に決めた。

「……知ってるよ」

 一瞬だけ、貴が無言で視線を合わせた。

「水沢君も、知ってる。半年くらい前から、何回も、ニュースで、やってたから」

 ニュースが流れる度にテレビを消した。涼子の周囲も、涼子の心も、身体も、無かったことにはしてくれなかった。

「あ、あぁ」

 そう短く応えた貴の感情は読み取れない。それでももう構わない。

「私、ほら、昔からとろくさいから、仕事も遅くって……。一人で残ってやってたの。そしたら、見回りの人が一人、残ってて……」

 思い出したくもない事実。自らの深い傷を抉るような痛みを伴いながらも涼子は続けた。

「言うなよ、そんなこと」

「それでね、着替えの時に、更衣室で、頭殴られて、意識がなくなって」

 自分がこんな目に遭うなどとは露ほども想像していなかった。確かに女としての自覚は薄かった。けれど、見ず知らずの男にそんな目で見られていたなど誰が想像できたものか。

「やめろって!そんなこと!」

 内伐的な衝動を止めたい気持ちは、判る。

 あの時、アスファルトを手加減もなしに殴りつけた貴を止めた涼子も、そんな気持ちだったのだから。そして、聞きたくない気持が強いのはきっと貴の優しさなのかもしれない。かつて好きだった女が穢された時の話など聞きたくないというよりも、自身で塞がっていたはずの傷口に無理やり手を突っ込んで開いて行くような涼子の行動を、止めたかったのかもしれない。

 声を高くした貴を余所に、それでも涼子はハンカチで口元を押さえたまま、話し続けた。

「気付いたら、手も足も縛られてて……」

 言っていて膝から力が抜けた。がくん、と崩れ落ちそうになった涼子の腕を貴が掴んで支えてくれた。

 涼子は貴の背に腕を回し、力を込めた。ほとんど無意識だった。だけれど、今は心の底から貴の、最愛の人からの抱擁が欲しい、と思ってしまった。

「舞川……」

 貴は涼子を自分から離そうとした。しかし涼子は、背に回した腕を解こうとはしなかった。

「いやっ!」

 涼子は腕に力を入れた。

 しかし一瞬の後、涼子は貴から離れた。三年前の舞川涼子はもうどこにもいない。今水沢貴之の前に立っているのは、好きな男を裏切って、姿を消した、卑怯で穢れた女だ。そんな女の抱擁など誰が欲しいものか。

「ごめんなさい……。本当は嫌だって、判ってる。こんな、ボロボロに汚れた私なんて」

 目を合わせてくれないのも、抱きしめてくれないのも、全て涼子が変わってしまったせいだ。せめて、昔のままの、貴が好きでいてくれた頃の心と、身体でいられたのなら。

「……違うんだ。おれが、悪いんだよ」

 涼子は貴を見た。貴が何を言っているのか、貴の言葉の意味が、まるで理解できなかった。

 まさか夕香が言ったように、告白をしなかった自分に責任があるとでも言うつもりなのか。

「ずっと、好きだった。……今でも、な。だけどあんなことしておいてどの面下げて好きだなんて言えば良かったのか、おれには判らなかったんだ……。ずっと言えなかった。お前が東京へ行く時にも。……二度と会えないかもしれないって時になっても」

(今でも……)

 今でも涼子を想ってくれて、探してくれたのだろうか。微かな、ほんの僅かな光を、信じても良いのだろうか。

 涼子は貴を見つめた。

「は、ははっ。何言ってんだろうな、おれ。ばっかみてぇ」

 貴は、視線を不自然に外して苦笑した。

 そして、判る。

 涼子も貴も、悔いて悔いて、相手を想い続けてここまで来てしまった。

 だから、自分自身にも言い聞かせるように、涼子は言葉を紡ぐ。

「違う。違うよ、そんなの全然判らないよ。だって、私だって、水沢君に言えなかった。好きだって。……だから違うの、水沢君のせいじゃない!」

 そんなことなど絶対に間違っている。二人の間には世間体も風潮も仕来りも何も通じない。それは男の責任でも何でもない。

 好きな人に気持ちを伝えることに臆病になってしまうことは、男であろうと、女であろうと、起こってしまうことだ。そんな誰にでもあるか弱い心を、泣いている貴を前にしながら逃げてしまった涼子に、責める資格などあるはずもない。

「!」

 声を高くした涼子を、貴は驚愕の眼差しで見詰めた。男でも女でも、どちらにもあることだ。そう判ってはいるけれど、だからと言って自らを正当化などできはしないことは、本当は涼子にも良く判っていた。だから、優しすぎる貴が自分自身を責めることしかできなかったことも。

「だから、そんな風に水沢君が、私のことで悩むかも知れないって思ってたから、だから、水沢君には知られたくなかったんだよ……。そんな、あの時みたいな水沢君、もう二度と見たくなかったし、それに今でも、水沢君のこと、大好きだから……」

 全てが伝わってしまっても良かったのかもしれないという思いは、諦めに似た気持ちもあった。

 もはや結ばれることもない大切な人に、全ての真実が伝わっても良い、という潔さもあった。

 全てが手遅れならば。

 だけれど、そうではない。そうではなかった。

 きっと全てを知られたとしても、全てが手遅れなどということはない。

 微かな光を、今度は涼子自身がもっともっと力強い光にすれば良い。それだけの話なのかもしれない。

 今、この涼子の気持ちを、貴はどう受け止めるだろうか。

 それは涼子には判らない。しかし、それでも今、気持ちを伝えることはできた。

 今にも崩れ落ちそうに足は震えている。動悸も激しくて涙も止まらない。それでも、涼子は貴に想いを伝えられた。

「強いな、お前は。それに比べておれは……」

「そんなことない、そんなことないよ!」

 強くなどあるものか。そんな思いが涼子を突き動かす。

「強いとか、弱いとか、そんなことじゃないよ……」

 震える、涙混じりの声で涼子は続ける。貴の目を見つめて、一瞬も視線を外さない。貴の思い込みも勘違いも、全てを打ち崩そうと涼子は必死に声を出した。

「再会してから、明らかに前と違うの、水沢君には判ってたでしょ?」

 涼子の言葉に貴は無言で頷いた。

「だけど水沢君は何も言わないで、自然に接してくれたよね。何か言ったら折角の再会した雰囲気が壊れちゃうかもしれない、私が何か言いたくないことを心にしまってるのかもしれない、きっと、水沢君はそんな風に思ってた」

 明らかに疲れきった顔をして、それでも、以前とは違ってしまった涼子に笑顔を向けてくれた。強いと言うのならばそれは貴の方だ。

「私、ノイローゼになった時ね、男の人の全部が嫌になったの。どんな男の人でも顔を思い浮かべただけで吐いたりしてたんだよ」

 自殺だって考えた。勇気も度胸もなく、結局何一つ決断できなかった。だからこうしておめおめと帰って来た。

「男の人が怖くて外に出られなかった。死んじゃおう、って思ったことなんて何回もあったよ。でもね、それでも水沢君の顔を思い浮かべた時、大切なことを思い出すことができたの」

 それをいくら言っても、貴は納得しないかもしれない。だけれど、涼子の中にいつでも居続けてくれた『前向きな水沢君』は、貴こそが涼子の最愛の人だったから生まれたものだ。涼子の貴を思う気持ちが無ければ、きっと心の中の貴だって勇気付けてはくれなかった。

「高校の時、周りにいたみんなだけは絶対に違う、って」

 それだけを強く信じて、涼子は戦い続けた。自分自身と。

 そして、貴との、最愛の人との再会。

 涼子はゆっくりと確かめながら、一つ一つ貴に伝える。


 高校時代、あの夏の日からの貴を涼子は見ていることができなかった。

 ひどく弱ってしまった水沢貴之を。

 自分の内に全てしまい込んで、相手に辛い思いをさせないために、強がった悲しい笑顔をする貴を、涼子はまた見てしまったのだ。

 あんな貴はもう二度と見たくはなかったというのに。

 しかし、それが貴の不器用な優しさだということは、夕香も、香奈も、みんな知っていた。

 だからこそ、彼女らは貴と共にあって、ずっと見守り続けてくれた。いつかきっと貴と涼子が幸せになれる、と信じていてくれていた。だからこそ、周りの人たちを、その人たちの気持ちを動かしてしまうほどの貴が好きなのだと涼子は、信じることができた。


 そう涼子は伝えて貴の胸元に手を当てた。

「私だって、逃げてきたんだもん。みんなに会いたくて」

 たった一人では戦えない。貴がそばにいなくても、夕香が、香奈かなが、晶子しょうこが支えてくれると、心のどこかで甘えていた。結局何一つ断ち切れず、一人きりでは立つことさえできず、涼子は泣くばかりだった。それでも、逃げ帰ってきた涼子を厳しくも優しく、暖かく包み込んでくれた。僅かでも、信じてくれた人と共に手を取り合って、何かに向かって行くことは恥ずかしいことでもなんでもないのだと。

「おれ、ほんっとにばかだなぁ」

 そう貴が呟いた。苦笑交じりに。

「そうだよな、逃げても、情けなくても、カッコ悪くても、別にいいんだよな。ガキだ、なんて言われても、おれはガキで結構だ、って言ってやりゃあ良かったんだよな」

 誰に言うでもなく、いやきっと自分自身に言い聞かせるように貴は言った。そして、疲労の色は消えてはいないけれど、今までとはどこか違う笑顔を貴は浮かべた。

 その笑顔を見て、涼子の涙は止まったように思えた。

「うん……」

 涼子もそんな貴に笑顔を返した。きっとうまく笑顔にはなれていないかもしれない。でも、今できる精一杯の笑顔を涼子は返したかった。

「舞川、今すぐ返事聴きたい。おれは、おれはお前のことが、好きだ」

 涼子の瞳に貴はそう告げてくれた。涼子は、微笑みながら貴の首にそっと腕を回して、胸に額を預けた。

「さっきの私の言葉、聴いてなかったの?……大好きって言ったのに」

「じゃ、じゃあ付き合ってくれるか?」

 吃音交じりになるほど必死に伝えてくれた貴が少しだけ可笑しくて涼子は笑顔で頷いた。

 そして涼子は思い切って瞳を閉じ、背伸びをして貴の唇に自分の唇を重ねる。

 あの時とは違う、ふわりと優しく触れるだけの、一瞬だけのキス。

 貴は驚いていたけれど、涼子はもう言うべき言葉を見つけていた。

「あの時の、仕返しだから」

 涼子はくすくすと笑いながら言うと貴の胸に顔をうずめた。

 もう一度、あの時の気持ちからやり直せば良い。あの高校時代の夏霞に霞んでしまった想いを大切に胸にしまって、もう一度。

 そんな涼子の気持ちを読んだかのように、貴は穏やかに口を開いた。

「涼子、かえろうか」

「……うん」

 涼子は顔を上げると笑顔を貴に向けた。

 最愛の人の悲しみに、二度と背を向けない。自分の気持ちから逃げない。そう自分自身に言い聞かせて涼子はもう一度貴の胸に顔をうずめた。

 最愛の人の胸の中がこんなにも心地良いものだったとは知らなかった。

 いつまでも、ずっとこうしていたかった。けれど貴はぽん、と涼子の頭に手を乗せて涼子を促した。きっとこの先、何度でもこんな時間が訪れる。だから涼子は頷いた。

 そして二人は静かに、力強く最初の一歩を踏み出した。

 とても静かな一歩を。

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