第五話 傷跡の真実

 九月一二日 日曜日


 クラス会から一週間が過ぎた。夕香ゆうか香奈かなはやはり涼子りょうこから何かを敏感に感じ取っていたようで、今晩お酒を呑みに行こうと誘われた。

 メンバーは夕香、香奈、そして姉の晶子しょうこだった。


 同日 バー Laurelローレル


「ま、とりあえずはカンパイね」

 夕香の行き付けだというバーに集まって、四人はテーブルを囲んだ。寒色系の間接照明が落ち着いた雰囲気を演出している。居酒屋のようにやんやと騒ぐような雰囲気ではなく、ゆっくりと話をするには丁度良い雰囲気なのかもしれない。

 店内はさほど広い訳ではないが、狭い訳でもなく、涼子たちはカウンターテーブルではなく、ラウンドテーブルに陣取った。客は日曜日の夜だけあってかそこそこ入っているようだった。

 こうして女だけで集まるのも随分と久しぶりのことだ。それにしてもお酒が法的に許される年齢に達したのはまだ去年のことだ。それなのに行き付けのバーを持っているなど、夕香の行動力は涼子の考え方からしてみれば随分と逸脱したものだったが、やはりそこは夕香らしいと思えてしまう。

「なにに?」

 全員分の飲み物が揃ったところで夕香がグラスを手に取ると、香奈が小首を傾げながら言った。

「もちろん涼子が無事にこっちに戻ってきたことに、よ」

「そっか、そだね」

 多少の皮肉もあるのだろうか。涼子は東京に住んでいる間、涼子からは殆どこちらには連絡をしなかった。だから、きっと夕香は拗ねているのだろう。

「そんなに大げさなものじゃないってば。むしろ都落ちでしょ」

 苦笑して涼子は言う。大見栄切って東京に出て行ったのに、おめおめと戻ってきた。そして一度は断ち切ろうとしたこの暖かな和の中に、再び身を置いている。

「そらあたしたちには関係ないところじゃそうかもだけどね。あたしたちにとっちゃあんたが帰ってきてくれたことが何より嬉しいのよ」

 夕香が務めている会社が土曜、日曜が休みではないことは誰もが知っている。それでもこうしてわざわざ日曜日に店を予約までしてくれるのがこの親友の親友たる所以の一つだ。

「じゃあしょうがないから祝杯を受けてあげるわ」

 言うと涼子はグラスを軽く掲げた。

 かちん、と小気味良い音が鳴り、各々が一口、グラスの中の酒を呑むとグラスを置いた。

「言うようになったわね、あんた」

「ちょっと変わったよね、涼子はさ」

「そうかな。水沢みずさわ君にも明日美あすみにも言われたけど」

 でもそれは結果として良い変わり方ではないのだろう。今は少しだけそんな風に思える。

「え、明日美に会ったの?」

「うん」

 夕香も晶子も香奈も、明日美とは中学で同級生だった。この街に戻ってきてまず再会したのが明日美だったのは、涼子にとっては僥倖だったのかもしれない。

たかちゃん、ねぇ」

 意味深に夕香が呟いた。つまりはそのことこそが、今日この場を設けた目的だということくらいは涼子にも判っていた。

「……」

「え、どうしたの、お姉ちゃんも夕香も」

 夕香が呟いた先は涼子ではなく、晶子の方だった。晶子は言葉を発することなく涼子を見ている。涼子に倣い晶子をお姉ちゃんと呼ぶ香奈も恐らくは何か感じているはずだ。

 夕香と香奈は、涼子が東京にいた間、涼子の身に何が起きたかを知らない。知らないとはいえ夕香の言葉は、涼子にとっては辛いことを思い出させるには充分すぎるほど重たい言葉だった。

「ん、や、涼子さ、あんた何か言ってないことあるでしょ」

「え」

 誤魔化そうと思って、まともに失敗した。

 そもそもこの草薙夕香という女には、何一つ誤魔化しなど通じたことがない。ましてや視線を合わせてそう言われてしまえば、涼子に逃げ道など残されている訳もなかった。

「……」

 晶子の顔を見て、夕香は即座に何かを察知したようだった。夕香は昔から勘も鋭い。

「晶子は知ってる訳ね。ま、言うか言わないかはあんたに任せるわ」

 く、とグラスの中の酒を煽って夕香は言った。言葉の温度はかなり低いが、恐らくはわざとだろう。

「……でもね、あたしはあんたの親友のつもり。何を考えてここを出てったのかも、何となくは判ってる。でもあんたは何も言わないからあたしたちは黙ってあんたを見送った」

「……」

 返す言葉はない。

 きっとその、本当ならば取るに足らない、ほんの僅かな煩わしさを言い訳に、自ら孤立しようとしたことも夕香には判ってしまっているのだ。でも、それでも夕香は涼子を親友だと言ってくれている。

「隠し通す……んじゃなくて、この先ずっと黙ってる覚悟があんたにあるんだったらあたしは何も訊かない。でも、それに自信がないなら、聴く」

 ふ、と表情を和らげて夕香は言った。だから甘えてしまう。つらい時にはつらいと言いなさい、泣きたい時には泣きなさい、と涼子の真正面に立って、目を見てそう言ってくれるから。

「言っとくけどね、何にも言わないで隠し通すつもりなんだとしたって、あたしはあんたの親友、辞めてなんかやらないわよ」

 そう簡単に切れる絆ならば、今日この場に涼子はいない。何もかもが甘かったのだと、本当は心のどこかで判っていた。彼女らに甘えたくないという強がりと、時には支えてくれる親友に頼ることも必要なのだということを、不必要に、偽悪的に混同して。

「夕香……」

 晶子も穏やかな声でそう言った。

「ごめん、みんな」

 涼子は意を決した。この街に戻ってきたのも、ここでしか生きられる場所が涼子にはないからだ。

 ここにしかない温もりがあったからだ。

 それが甘えでも、今は良い。きっと許してくれる。この暖かな仲間達なら。

「涼子」

 晶子がぽん、と肩に手を置く。

「お姉ちゃんだけに全部背負ってもらう訳には、いかないよね」

「よしきた」

 ぱん、と手と拳を打ち合わせて夕香は言う。まるで男の子のような仕草に、ほんの少しだけ心が軽くなった。

「聞き出し方にも色々あると思うけど、夕香のはいっつもきついよね」

 苦笑しつつ香奈が言う。しかしこの四人の中では夕香が一番達観している。涼子が一番周りも、自身の足元すらも良く見えていない子供だということだ。

「涼子が頑固じゃなきゃもっと優しく言うんだけどねぇ」

「ごめんってば」

 明るくそう言ってくれた夕香に乗っかるように涼子も笑顔になれた。


「……」

 事情を話し終えて、誰も何も言わなかった。

 いや、言えなかったのだろう。不幸自慢をするほど子供でも馬鹿でもないと自負する涼子でも、それはそうだろうとどこか他人事のように思ってしまっていた。

「涼子……」

「香奈、大丈夫だから」

 既に湿った声の香奈に涼子は声をかけた。

「全然大丈夫じゃないじゃないのよ!」

 テーブルを叩きそうな勢いで声を高くしたのは夕香だった。

「そんな……!そんなこと、ずっと独りで抱え込んで!そりゃ、簡単に言えることじゃないのも、判るけど!」

「私からでも二人に言えれば良かったんだけどね……」

 晶子が苦笑してそう言った。事の顛末は晶子に任せても良いと思っていた。しかしそれが逆の立場ならばどうだっただろう。大切な姉の不幸を、親友とはいえ家族以外の者に言えただろうか。

「や、ごめん。ちょっと私情に走りすぎたわ」

 それが判ったからなのか、夕香も一息ついて自らを落ち着かせようとしている。

「あいつの胸倉ひっ掴んでぶん殴ってやりたいところだけど」

 それでも夕香の言うことは判らないでもない。涼子がまだ全てを話した訳ではないから。

「それは、涼子が望んでることじゃないよ、夕香」

「判ってるわよ!でも!あいつが!貴がちゃんと涼子に気持ち伝えてれば!」

 香奈は涼子の気持ちを汲んでくれているのだろう。三人の中では、香奈が一番涼子に近い性格をしている。夕香ほど苛烈ではないし、晶子ほど冷静でもない。自分が穏やかだとは思っている訳ではないが、香奈は一番性格が穏やかだ。

「違うよ夕香。それで水沢君を責めるのは卑怯だよ」

「判ってる!それだって判ってるわよ!」

「夕香……」

 夕香がどうしようもない憤りを感じているのは手に取るように判る。きっとこの場において、水沢貴之に全ての責任をかぶせようという考えが起きてしまうのは仕方のないことだ。

「付き合ってたら東京行かなかったかも、なんて空論だよ夕香。私はね、好きな人が目の前で泣いてても、背を向けて逃げるような女なんだよ」

 涼子は短く息を吸い込むと、再び意を決する。

 全てを話さなければ、誰も納得も理解もしない。そして涼子の言葉も何一つ信じてもらえない。

 いたずらに貴を責める気持ちばかりが膨れ上がってしまう。

「え」

「どういうこと?」

 香奈と晶子が口々に言う。

 貴は今までどうしたかは判らない。クラス会の時の男友達の雰囲気からして、きっと貴は誰にも話していないだろう。

 涼子はこの話を誰かに聞かせるのは初めてのことだ。

「高三の夏休み、ライブしたでしょ、水沢君たち」

「うん」

 貴が所属していたバンド-P.S.Y-サイの高校最後のライブだった。りょうただし大輔だいすけも-P.S.Y-のメンバーだった。

「あの日の事、覚えてる?」

「や、あたしは結構呑んじゃってたから、あんまり……」

 冷静になろうとしているのか、抑えた口調で夕香は言った。しかし涼子は良く覚えている。忘れもしない。

「貴が酔い潰れたんだよね」

 涼子もそうだが香奈は昔から酒には強くない。あの日、香奈は最初から酒は呑んでいなかったはずだ。

「うん、そ。それでね、みんなの押し付けもあったけど、私が水沢君の面倒見てて」

「帰りに送ってった……っけ?」

 額を人差し指に当てて夕香が唸る。

「うん。その時にね、キスされたんだ」

 三人の視線が集中しているのが判る。それが簡単に話せる話ならば、その後に付き合い始めた、と言えたことだ。だけれどそうはならなかった。いや、そうしなかったのは涼子自身だ。

 そこまでは三人とも理解を示していると判断し、涼子はそのまま言葉を続けた。

「結構強引に、ね」

「強引?」

 晶子が言う。およそ水沢貴之らしからぬ行動だと判っているからこそ、訊き返してしまったのだろう。

「うん……。乱暴に振り向かされて、気付いたらキスされてた感じ」

「え、た、貴がそんなことしたの……?」

 香奈も晶子と同じことを思っていたのだろう。

 貴はいつでも香奈に優しかった。貴たちと知り合った当初、香奈は今よりももっと内気な性格で、似たような性格だった涼子の陰に隠れていたほどだ。だけれど、貴や諒はそんな香奈にとても優しく接していた。

 中学生の頃に好き勝手に暴れていた貴と諒は、誰かに怖がられることを何より嫌っていたのだ。だから、香奈や涼子のようにおとなしい性格の人間にはとても優しかった。そのうちに香奈には忠という恋人ができるが、それでも、忠という存在がいるのを判っていながらも、思わず嫉妬してしまうほどに、貴は香奈には優しかった。だから、貴が強引に涼子にキスをしたなどとは香奈には信じられなかったのだろう。

「うん」

「でも待って、ごめん。それは貴ちゃんを庇うつもりで言う訳じゃないけど、それだけ、気持ちが抑えきれないところまで抑え付けすぎた結果、だったんじゃないの?」

 恐らく皆気付いていたはずだ。貴と涼子が付き合い始めるのも時間の問題だ、という空気感を持っていたことに。

「そうだと思う。……思いたい」

「あ……」

 先ほど告げた、暴行の話とも相まっている。それに気付いたのだろう香奈が小さく声を上げた。

 貴は自分の欲望を満たすためだけにキスをしてきたのではない。

「信じたいんだ、水沢君のこと。でもね、私にその資格はないの」

「資格?」

 どちらが先か、という話ではないのかもしれない。だけれど、涼子はほんの僅かな間だったとはいえ、男という性を完膚なきまでに、完全に、激しく呪い続けた。

「その後ね、水沢君、物凄くショック受けて、自分でしたことになのに、今おれは何をしたんだ、って」

 今でも耳に残っている。どうしておれは、と貴はうなだれた。

「ホントに爆発しちゃった、ってこと、よね……それは」

 夕香の言葉に涼子は頷いた。

「そのまま泣き崩れて、物凄い勢いで地面を殴りつけて、手が血だらけになって、でも私、何も言えないまま、そこから逃げたの」

「逃げた?」

 今思えばパニックになっていた、というだけの話なのかもしれない。だからと言って、それが正しい行動だったとは、涼子自身、思うことができない。

「うん。水沢君のこと置き去りにして。折角ね、キスしてくれて、そのまま気持ちを受け入れて、私も好きだった、って言えればそれで、簡単に済んだことなのにね」

 これも今だから言えることだ。人間としての度量なのか、寛容さなのか、それとも経験か。とにかくあの時の涼子には持ち得なかった某かの感情が、そう言わせている。

「……でも、言えないでしょ。そりゃ、抑え付け過ぎて軽く暴走したみたいになっちゃってたんなら、あんただって相当ショックだったんじゃないの」

 涼子の性格を知り抜いている夕香の言葉に頷くと、言葉を続けた。

「でもね、だからって私のしたことは正当化されないよ。何でそんなことするの、って責めることだってできた。でも私はあの瞬間、ほんの少し、嬉しいって思っちゃったの」

 どういう返し方にしろ、貴との繋がりを断ち切る以外の方法は、きっといくらでもあったはずだった。

「少し時間を置いて、落ち着けばきっとお互いの気持ちを確かめ合える、って思おうとしたの。……そうして、痛々しい水沢君から目を逸らしちゃったの。……それで、水沢君を責められる?水沢君がちゃんと告白しなかったからこんなことになったんだ、って責められると思う?」

 今更の話だ。誰に何を言っても、何が変わる訳ではない。だから話そうと、話してしまおう、と思った。すべてぶちまけて、全ての気持ちに整理をつけて終わらせることができれば、そうすればきっと、新しい自分になって、前を向けるかもしれない。

 全部なくして、また一から、真っ白の状態から、やり直せば良い。

「……判った」

 夕香がグラスに残る酒を一気に煽り、グラスを強めにテーブルに置くと、そう言った。その言葉、語気から感じ取れたのは、怒気。

「夕香?」

 晶子が夕香の名を呼ぶ。夕香の怒気を察したのか、晶子が怪訝な視線を夕香に向ける。

「もう全部判ったから、そんな無理した笑顔張り付けたまま喋んないで」

「え……」

 思わず口元に手を当てていた。今自分がどんな顔をして話していたかなど、涼子にはまったく判らなかった。

「全部自分独りで、判ったつもりんなって、諦めたような感情張り付けたまんま喋んないでよ」

 目を閉じる夕香の声が怒りに震えている。涼子の表情に対してなのか、諦めた感情なのか。それは判らない。

 けれど。

「夕香……」

「格好つけないでよ!あたしたちの前で!」

 目を見開いた瞬間、ばん、と凄い勢いでテーブルを叩いて、誰の目を憚ることもなく、烈火のごとく夕香は言った。いや、怒鳴った。

「っ!」

 夕香の言葉が痛烈に、強烈に、深く深く涼子の胸に突き刺さった。眩暈さえ覚えるほどのその鮮烈な思いと言葉に、一瞬本当に平衡感覚を失うほどだった。

「涼子……」

 香奈もその大きな瞳から涙を溢れさせている。

「……」

 見る間に三人の顔が涙で滲んではっきりとは見えなくなって行く。

「だってもう、わ、わかん、ないから!もう、どうしていいか!わかんないから!」

 それしか言えなかった。止めど無く溢れる涙を拭おうともせずに、涼子は必死に声を張り上げた。

「ほんっとにもう、頑固なんだから、あんたの妹は……」

 涼子の頭に手を乗せて、夕香が言う。夕香の声ももう涙に湿っていた。

「私でもどうにもできないのよ、この子の頑固さ加減は」

 嘆息混じりにそう晶子は言って、涼子の肩を抱いてくれた。

(これだけでも、帰って来て良かったのかもしれないな……)

 ほんの少しだけ暖かな気持ちに包まれて涼子はそう思った。

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